2006年10月11日 (水)

目次

目次

1.はじめに

2.山口県地名総覧と被差別部落
 1.「地名」とは何なのか・・・
 2.野本民俗学から見た「地名」
 3.山口県地名総覧と被差別部落
 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

3.タブーと被差別部落
 1.「タブー」の語源・・・
 2.続・「タブー」の語源・・・
 3.「感覚・信念としての禁忌」
 4.「習俗・儀礼としての禁忌」
 5.部落問題研究者と禁忌
 6.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌
 7.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 1.地名に関する禁忌
 2.差別名字と差別戒名
 3.人名に関する禁忌
 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌
 5.「別火別婚」という禁忌について

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1.はじめに

はじめに

『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月経過したころ、部落解放同盟新南陽支部から、『部落学序説』のひとつの文書・「被差別部落と姓」について差別文書であるとの指摘がありました。

しかし、その論点は、『部落学序説』の筆者としては、部落解放運動のこれまでの「常識」を覆すものであり、どう理解していいのか、ためらいの思いをもちましたが、部落解放同盟新南陽支部の担当者の方は、口頭で、「『部落学序説』は、第3章までの近世篇で終わっておくべきであった。それを勝手に近代篇まで続けて書きはじめたので止むを得ず批判して執筆を中断させることになった・・・」と言っておられましたが、当初、その抗議に対して、『部落学序説』第4章を破棄することにしました。

しかし、『部落学序説』の筆者としては、納得することができず、部落解放同盟新南陽支部の文書・口頭での申し入れについて検証を重ねました。その結果、被差別部落の地名・人名に関する取り扱いについては、部落解放運動・同和行政の中で実施されてきた地名・人名に関する取り扱い方を踏襲するのが妥当と判断しました。それで、『部落学序説』第4章以下の執筆を再開したのです。

その際、第4章の記述を、「権力」の側からではなく「民衆」の側からの視点・視角・視座に徹することにしましたので、部落解放同盟新南陽支部から批判のあった既述の第4章は、『部落学序説』(別稿)として再掲することにしました。

そして、1年が経過しましたが、部落解放同盟新南陽支部は、その後、『部落学序説』の筆者に対する批判・抗議を継続することはありませんでした。『部落学序説』の論述は、「きれいごとに過ぎる」・・・、という批判に対しては、筆者が書くテーマを予告して、「きれいごとでない・・・」論述とはどういう論述なのか、部落解放同盟新南陽支部から「参考」を求めたのですが、一切、応答はありませんでした。

そのテーマは、『部落学序説』(付論)の「汚れについて」というテーマです。
 1.汚れという言葉の意味
 2.穢多と汚れ
 3.身分と糞尿

その論述に関心を示されたのは、部落解放同盟新南陽支部ではなく、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏をはじめとする京阪神の部落解放同盟の方々でした。

この1年、『部落学序説』の筆者に対する、部落解放同盟新南陽支部からの接触はほとんどありませんでした(当方からコンタクトをとったことはありますが・・・)。部落解放同盟新南陽支部は、『部落学序説』の筆者が、第3章で終わらず、第4章を、その後、1年間に渡って継続していることに問題を感じ続けてこられたのでしょう。

なにを思われたのか、1年を経過した10月に入って、1年前の批判を再び展開されはじめました。

昨年(2005年)5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始するに先立って、2年前から、その論文の概要を20部作成して、大学教授・高校教師・宗教家・新聞記者の方々に配布していました。執筆を計画している『部落学序説』の内容について、感想と意見をお伺いするためでした。

『部落学序説』の執筆計画は、当初から、第3章で終わらず、第4章から第7章までを含んでいました。『部落学序説』の構成は、執筆の初期の段階で公表していた通りです。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判
第7章 部落差別完全解消への提言

『部落学序説』は、その概要に基づいて論述が展開されています。『部落学序説』執筆の計画・立案は、筆者の独創によるものです。部落解放同盟新南陽支部の方々も、「常民・非常民論」、「新けがれ論」、「賤民史観批判」などの解釈原理をかかげて、部落差別問題を論じていくことなど、想像すらしていなかったのではないでしょうか。

筆者の『部落学序説』が、部落解放同盟山口県連とはなんら関係なく開始されたものであることは、現在の部落解放同盟山口県連・宮川委員長に連絡をとってみられればすぐわかります。

『部落学序説』の執筆を公開したあと、部落解放同盟新南陽支部の方々が便乗してこられたに過ぎません。時には、『部落学序説』の執筆を中断して、「島崎当村論」をとりあげるよう要求されたりしましたが、それは、『部落学序説』の執筆計画に既に組み込まれているものを先取りして文章化するようにという要望でした。

「ブログの性格上、順不同で文章化しても、あとで編集しなおせば済むので、『部落学序説』の執筆計画に固守する必要はない・・・」というのが、部落解放同盟新南陽支部の方々の意見でした。

『部落学序説』執筆に、部落解放同盟新南陽支部の影響を加味したいというより、部落解放同盟新南陽支部の運動方針と、『部落学序説』の内容との間に「齟齬」(見解の相違)がないかどうか気になられたのでしょう・・・。「齟齬」があるかないかの、その判断は、極めて早急でした。『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月後、部落解放同盟新南陽支部は、その結論を出されたのです。

その結論というのは、99%は問題がないが、残りの1%に差別性がみられるので、『部落学序説』の第4章以下の論述を中止するように・・・、という要請として受け止められるものでした。

その1%というのが、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名・人名に対してとっているひとつの姿勢にありました。

筆者は、『部落学序説』は、歴史学・社会学・民俗学・宗教学・法学・政治学・・・などの学際的研究として遂行しています。当然、歴史資料も取り扱うことになりますので、、被差別部落の地名をとりあげる必要も出てきます。また近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」について言及するとき、「穢多村」の在所としての「地名」だけでなく、「穢多村」の庄屋・畔頭などの名前と共に「穢多頭」・「長吏頭」の名前がでてきます。

『部落学序説』の筆者としては、過去の部落解放同盟による被差別部落の地名・人名の取り扱いに際して、「差別文書」として指摘された論文を検証して、その指摘を受けないで、なおかつ、部落差別の完全解消につながる提案を論文を書き続ける方法を模索してきました。

それが『部落学序説』本文執筆に先立って明らかにした、被差別部落の地名の「相対座標」です。もういちど説明しますと、近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4箇所の穢多村(日本海側の飛び地をのぞいて)を東西南北に位置づけて、徳山藩東穢多村・徳山藩西穢多村・徳山藩南穢多村・徳山藩北穢多村と呼ぶものです。

この相対座標で、被差別部落を特定するには、徳山藩領図(地図)と徳山藩穢多村の在所に関する史料が必要です。それらは、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねれば簡単に知ることができます。

その労をとらないで、「東山藩東穢多村はどこなのだろう・・・」と自前の前知識と先入観で特定しようとすると、「徳山藩」=「徳山市」を暗黙のうちに想定し、徳山市の一番東に位置する同和地区指定された被差別部落を想定することになるでしょう。いわゆる「久米」の被差別部落です。

しかし、徳山藩の「東穢多村」は、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落のことではありあません。なぜなら、徳山藩領と徳山市の行政域とは全く異なるからです。それに、近世幕藩体制下においては、筆者が相対座標でいう「東穢多村」は「徳山藩領」であって、一方、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落は長州藩本藩に属します。行政上全く異なる場所を指しています。

歴史を無視して、「みそもくそもいっしょ」に受け止めるひとがいたとすると、『部落学序説』の筆者の徳山藩の「東穢多村」に関する記述は事実無根、筆者の単なる推測・幻想・・・であるという批判が生れてくる場合もあるかもしれません。

最近になって、被差別部落のひとといえども、山口県内の被差別部落の地名・在所について知らない場合が多いのではないか・・・と思うようになっています。

姻戚関係とか、仕事の関係、部落解放運動の関係で、交流のある被差別部落はあるかもしれませんが、どの運動家も、山口県内のすべての被差別部落に精通しているわけではないのです。

『部落学序説』執筆のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の場所となった未指定地区は、部落解放同盟山口県連の運動のテリトリーの枠外の被差別部落でした。

部落解放同盟新南陽支部の方々が持っている山口県の被差別部落に関する情報と、『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の史料をもとに、自分の足で尋ね歩いた被差別部落に関する情報とは、「被差別部落」という概念の外延と内包に大きな違いをもたらしているということは、当然といえば当然過ぎることです。論文執筆のために史料・伝承を漁る以上に、被差別部落の所在の特定とその歴史を知るために多くの時間を割いてきたからです・・・。

『部落学序説』の筆者の頭の中にある「被差別部落」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった非常民として、空間と時間を超えて、場所と歴史を超えて、普遍的に存在していた、今日「被差別部落」という概念に集約されてしまった「穢多」の在所のことです。つまり、『部落学序説』の描く「穢多村」は、部落解放同盟新南陽支部のある旧徳山藩北穢多村に還元しつくしされることは本質的にありえないのです。

『部落学序説』の章立て・内容を、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の枠組みの中に縮減させようとする試みは、『部落学序説』の筆者に対する不当な介入でしかありません。

部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』は、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の本質を示しています。その名称通り、所詮、かりものでしかありません。部落解放同盟新南陽支部は、部落解放運動のまねごと・・・、それに終始してきたのではないでしょうか。

『部落学序説』の筆者の、部落差別を完全解消に追い込みたいという熱意は、部落解放同盟新南陽支部の及ぶところではありあません。

部落解放同盟新南陽支部の「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判の根拠になっている、被差別部落の地名の取り扱い方は、戦後の部落解放運動の中で、部落解放同盟が主張し続けたきたことではないでしょうか。被差別部落の地名を不用意に取り上げているということで、部落解放同盟から差別事件として糾弾を受けた学者・研究者・教育者も少なくありません。被差別部落の「地名」をタブー視しつづけ、被差別部落の「地名」を部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しても禁忌状態におき続けてきたのは、とりもなおさず、部落解放同盟自身です。

部落解放同盟新南陽支部は、その地方の末端に位置づけられるとはいえ、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名を「相対座標」で表現することを、筆者の差別性のあらわれとして、「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法」と批判し、筆者の「一貫した主張そのものの前提までもゆがめることになる」と主張するのはどういうことを意味するのでしょうか・・・。

被差別部落の地名は、現在の被差別部落の住人に許容された独占的に処分可能な固有の権利などではありません。被差別部落の「地名」は、「地名」である以上、何らかの意味合いを持っているものです。単なる通俗的・一般的な語源論で斟酌すべきものではありません。すべての被差別部落の伝承に歴史の核(歴史上のほんとうの意味)が隠されているのと同じく、被差別部落の「地名」にも、現代の学者・研究者・教育者がたどりつけていないほんとうの意味が内在されていると思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に裏打ちされて、従来、被差別部落の「地名」に関する研究は禁忌状態におかれてきましたが、それは、『部落学序説』の筆者からみると、部落差別完全解消のための道のり上の大きな障害になったと考えられます。

被差別部落の「地名」は、一般的市民・国民の共有財産でもあるのです。

被差別部落の「地名」は、解明されるべき豊富ななぞに満ちています。被差別部落の「地名」を、語源論と歴史学的研究によるだけでなく、民俗学や歴史的社会学の手法によって明らかにし、被差別部落の「地名」の中に刻印されたほんとうの歴史を解明することも可能なのです。

しかし、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、そのことを容認する環境にあるのでしょうか。また、部落解放運動は、その研究を受け入れる状況にあるのでしょうか。また、日本の社会は、それを研究や運動を受け入れるに充分なほど人権感覚が成長しているのでしょうか。

それを判断の材料に加えると、『部落学序説』は、方法論的に、被差別部落の「地名」表記に際して、「相対座標」に徹することが最適であると思います。

『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を撃つことを目的として執筆しているため、その「賤民史観」に依拠してきた部落解放運動の担い手の一部からは、「部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判が生じる可能性は多分にあります。「賤民史観」の批判は、差別・被差別を超えて根源的な批判に徹することを使命としているからです。

しかし、このブログ『被差別部落の地名とタブー』においては、『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟新南陽支部の方々とのやりとり(単発的・非継続的・一言居士的ことばのやりとり)は捨象して、「被差別部落の地名とタブー」について総合的・包括的な解明をこころみ、部落研究・部落問題研究・部落史研究における被差別部落の地名のより実り豊かな取り扱い方を追求してみたいと思います。

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2006年10月13日 (金)

2.山口県地名総覧と被差別部落 1.「地名」とは何なのか・・・

2.山口県地名総覧と被差別部落
 1.「地名」とは何なのか・・・。

『広辞苑』をひもといてみますと、そこにあるのは「土地の名称。」という極めて簡潔な説明のみです。

「地名」とうことばは、「土地」の「地」と「名称」の「名」を組み合わせたことばのようですが、そこから一歩踏み込んで「土地」とは何かを考察するとき、『広辞苑』の説明はほとんど役にたちません。

しかし、平凡社『世界大百科事典』の「地名」の項目には、かなり詳しい説明が出てきます。

それによると、「地名」にはいくつかのパターンがありそうです。

【地形名】
「山川草木などの地形によってつけられた・・・地形名」が「固定して固有の地名となる」場合

【利用地名】・【自然地名】
「土地の利用によって命名された」場合

【占有地名】・【歴史地名】
「土地利用が進んで特定の集団または個人の占有を表現」している場合

【分割地名】
「占有が強化され土地が細分されるに及んで、従来の地名を上下、方位、大小、新古の区別によって分割命名」した場合

【新しい地名】
「必要に応じてあたらしくつけられる利用地名」の場合

この項を執筆した大藤時彦によると、「日本は地名の多い国として知られている」そうですが、その地名、歴史的にみると、命名と廃棄が繰り返されたようです。命名の根拠となった上記理由が、いつのまにか忘れられて、「意味がわからなくなってしまった」場合が少なくないようです。大藤によると、「地名」の意味がわからなくなるのは、命名の「理由が不明に帰するためである」といいます。たとえば、「地名が最初につけられた地域より拡大利用」されたり、「土地の姿が変わったりしてしまった」ことがその原因としたあげられます。

最近全国でおこなわれている地方行政の統廃合も、「地名」の変化に大きな影響をもたらします。大藤は、「町村合併にもとづく新地名など」は、統廃合が繰り返されることで、「精確に記録しておかないと後にわからなくなる・・・」、といいます。

大藤は、「合併と反対に人口が増加したり新しく開墾したりして分村する場合がある。そのさい全然新しい地名をつけることもあるが村名に上・下や東・西・南・北をつけて区別するのが普通である。」といいます。分村の場合の区別の指標は、「上・下」、「東・西・南・北」の他に、「内・外」、「浜・山」、「岡・浜」、「畝・谷」、「山・原」、「谷・渡」、「里・野」、「町・在」、「峠・谷」があります。大藤は、これらの地名は「町村合併」によって消えていっているといいます。

大藤は、その概略的説明のあと、【地形名】・【利用地名】・【自然地名】・【占有地名】・【歴史地名】について詳述していますが、その際言及されている【信仰に関した地名】を含めて、それらの地名のつけ方は、山口県の被差別部落の地名にも適用できるものが多々含まれています。

「地名」に関する一般的研究の成果は、被差別部落の「地名」の由来と、その持っている意味を明らかにするために流用・転用することが可能であると思われます。

(執筆継続中・・・)

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2006年10月14日 (土)

2.山口県地名総覧と被差別部落 2.野本民俗学から見た「地名」

2.山口県地名総覧と被差別部落
 2.野本民俗学から見た「地名」

最近、筆者のこころを惹きつけてやまない1冊の文庫本があります。

その本というのは、野本寛一著『神と自然の景観論』(講談社学術文庫)です。野本寛一によると、「民俗学の主要課題の一つ」に「人は環境といかにかかわってきたかという主題」があるといいます。民俗学は、この主題について、「ときに土臭く、またときには潮臭く」取り組んできたといいます。

野本寛一は、この「人」・「環境」という主題に、第3番目の要因・「信仰」を付加することで、「日本人が生成してきた多様な信仰と環境のかかわりについて」考察するといいます。野本寛一は、ひとに畏怖と豊穣をもたらす自然の地形を「聖性地形」と呼び、「そうした聖性地形要素を核とした風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観である。」といいます。

この書、購入してから、そのページを開かない日はないのですが、なかなか読書を前にすすめることができないのです。どのページも、筆者にとっては、魅惑に満ちています。特に、「地名」の解説については、驚きの毎日です。「野本民俗学」のすばらしさにこころ奪われてしまいます。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、取り上げている主題の性格上、一種の「境界論」です。岬・浜・洞窟・淵・池・滝・峠・山の結界点・磐座・地獄と賽の河・川中島・離島・神の島・立神・先島・湾口島・温泉・山。それらは、ひとの暮らしの生活の座からみると、それを取り囲む周辺・境界に位置するものです。

例えば、村境に位置するものとして「峠」があります。

野本寛一は、柳田国男のことばを紹介し、「峠」の語源は「たわごえ」であったと推測しています。「たわ」というのは、「撓む」(たわむ)の語幹で、山の鞍部を示す語である。」といいます。

山口県(長州藩)の地名にも「峠」がありますが、その読み方は「たお」といいますが、「たわ」のなまったものでしょう。

ついでにもう少し、野本寛一の説を紹介すれば、「峠越えに際して、なるべく低いところを越そうとするのは自然の真意ではあるが、そのタワでさえ標高が高く、比高さの大きい峠は人びとに大きな苦難を与えた。」といいます。「昼なお暗い峠は旅人の恐怖感をさそい、風の収束点ともなる峠は気象の変化も激しかった・・・」といいます。

そして、周防・岩国の峠についてこのように記しています。

「「周防にある磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」(『万葉集』567)と歌われ、峠越えにはさまざまな呪術や儀礼が行われたのであった」。

周防・岩国の峠については、山口の地に赴任してきて何度となく、あるときは、仕事で岩国の高校に通うとき度々車で通ってきた場所です。夜、車で走っていても、峠とそれをとりまく山の深さに、ある種の威圧感・恐怖感を感じてしまいます。徒歩や馬で旅をしなければならなかった時代は、峠は、まさに「辺境」・「境界」の地でしかなかったのでしょう。

野本寛一は、明治33年生まれの信州の古老の話をのせています。その古老は、嫁ぎ先から実家にかえるとき、県境の青崩峠を越えて、静岡から長野へはいるとき、「子を背負い、手をひいて峠に向かう」若き日を思い出しながら、その古老はこのように語ります。「風が違いますよ。峠に立つと信州の風が吹くのです」。

「青」は馬のこと。「崩れ」は、荷物を背中に急な坂を上る馬がその過酷さに倒れて動かなくなること。「青崩峠」とは、ひとも馬も注意しないといのちを落としかねない急な坂がある場所・・・、という意味ではないかと思いますが、「峠」は、「馬頭観音や峠神に手向けをし、峠の茶屋で一息入れ」なければ越すことが容易でない場所でした。

野本寛一は、「峠」は、その古老にとって、「日常と非日常の境界点であり、転折点であった。」と記しています。

「峠」については、野本寛一はそれ以上のことについては触れてはいませんが、『部落学序説』の筆者の目からみると、「峠」は、「日常と非日常の境界点」であるだけでなく、「常と非常の境界点」でもあったのです。

街道の治安維持のための役人であった、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」、信州において「長吏」と呼ばれている人びとは、「常と非常の境界点」である「峠」に身をおいてその職務を遂行していたと思われます。

野本寛一ほどの優秀な民俗学者をして、「峠」に関する既述を、「日常と非日常」の世界のみに押しとどめ、「常と非常」の世界に立ち入ることを禁忌状態に追いやったのは、とりもなおさず、戦後の部落解放運動の中にみられる、被差別部落に関する「地名」のタブー視に原因があったのではないかと思います。

そのことは、被差別部落の歴史の解明の障害となり、被差別部落のほんとうの歴史を、一般的市民・国民、学者・研究者・教育者から遠ざけることになり、その結果、被差別部落の歴史を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に埋没させてきたのではないかと思います。

戦後の「部落解放運動」は、極めて中途半端なもので、「被差別部落」の「解放」をときながら、「目に見える」世界においては、同和対策事業・同和教育事業によって、当事者が、部落解放運動の成果として納得することができる水準に達したのかもしれませんが、「目に見えない」世界の、部落差別問題の完全解消という、部落解放運動のほんとうの目的からは、著しく逸脱させたのではないかと思います。

被差別部落の歴史と文化、信仰と職業に関する考察を、「賤民史観」という枠組の中に押しつけ、圧殺し、「頭隠して尻隠さず」のような中途半端な運動に終始してきたのではないかと思います。

野本寛一著『神と自然の景観論』の「解説」をしている赤坂憲雄は、「「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。」と言い切っています。

日本人は、「地名」と、「地名」の背後にある「信仰と環境」のかかわりの意味を喪失してしまったのかもしれません。「被差別部落」のひとびとも、被差別部落の「地名」の「聖性」を忘れて、ただ、避けて通りたい、いまわしい差別的名称としてだけしか受け止めてこなかったのかも知れません。その原因は、とりもなおさず、「被差別部落」のひとびと、また、部落解放運動の担い手自身にあります。日本が変節するとき、被差別部落も、部落解放運動もまた、歩調をあわせて変質していった・・・、のです。

赤坂憲雄は、野本寛一は、「柳田国男や宮本常一と並び称されるべき旅の民俗学者であった・・・」といわれる時代がやってくると「かすかな予感」を感じ取っていますが、『部落学序説』の筆者からみると野本民俗学は、すでに柳田民俗学や宮本民俗学とならんでいるか、すでに両者の限界を乗りこえているように思われます。

それは、赤坂憲雄が指摘しているように、野本民俗学が、東日本(東北)を、柳田民俗学・宮本民俗学にみられるという「異郷」としてみるのではなく、同郷としてみることによって、「文化的な広さ」に満ちているからです。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、平凡社『世界百科事典』の大藤時彦が指摘している【地形名】と【信仰に関した地名】の解明の書であるといっても過言ではありません。

部落解放同盟新南陽支部の方々は、野本寛一の中にも、「被差別部落」の地名に関して「禁忌」の状態にあるからとして、その差別的体質を批判することになるのでしょうか・・・。戦後の部落解放運動の失策・過誤に対する自らの責任を放棄して、良心的な学者・研究者・教育者にその責任を転化する無責任さのあらわれ・・・以外の何ものでもないのではないでしょうか。

まして、学歴も資格も持ち合わせていない『部落学序説』の筆者に、その責任を押しつけるのは、言語道断であるといわざるをえないでしょう

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2006年10月16日 (月)

2.山口県地名総覧と被差別部落 3.山口県地名総覧と被差別部落

2.山口県地名総覧と被差別部落
 3.山口県地名総覧と被差別部落

数年前、ある施設が閉鎖されたとき、その施設長から、「部落学」研究に役立つなら・・・といって譲渡された資料に、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)があります。

それは、昭和56年版で、出版当時の価格は2万5千円です。個人の蔵書として購入するには、かなり高価です。地方行政の統廃合が進められた現在、この資料は現在的価値はほとんどないにひとしいと思われますが、昭和56年といいますと、筆者が、日本基督教団の宗教教師になった年です。この資料が現在的価値をもたなくなったのと同じく、筆者も現在的価値が著しく減少しているのかもしれません。

この『日本分県地図・地名総覧』の中に、今回の主題の中で取り上げる「山口県地名総覧」が収録されています。

周防国・長門国にあたる14市11郡の市町村の「地名」が掲載されています。

その「地名」は、次のように掲載されています。例として、『部落学序説』・『ある同和対策事業批判』の中に登場してくる、近世幕藩体制下の「徳山藩北穢多村」の系譜をひく被差別部落を含む旧新南陽市富田をとりあげてみましょう。

【富田】
仙島・竹島・西ノ島・黒髪島(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)

『日本分県地図・地名総覧』は、「地名」は、「大字・小字」と「通称」に別けて掲載されています。

上記の例の場合、【富田】は「大字」で、()内の地名は、大字の中の「地名」の「通称」ということになります。「通称」は、上記の例のように、大字内のすべてが列挙されている場合と次の例(旧徳山市の東に位置する被差別部落のある大字)にみられるように、「通称」をすべて省略している場合があります。

【久米】

また、被差別部落出身の詩人・丸岡忠男のふるさとのある光市浅江の場合、中間形態として、次のように記載されています。

【浅江】
土井・荒神・協和・木園・他18

丸岡忠男のふるさとは、「他18」の中に含まれています。「山口県地名総覧」は、有名な被差別部落については、「他××」の中に入れ、被差別部落の「地名」に触れないようにする傾向があります。下松市の被差別部落のある大字についても同じです。

【末武中】
A・B・C・他15

末武中の場合は、列挙された3地名の中にも、「他15」の中にも被差別部落が含まれています。

「山口県地名総覧」と被差別部落の地名を比較してみますと、「山口地名総覧」においては、被差別部落の「地名」は、掲載されたりされなかったり・・・、しているのが確認できます。山口県内有数の大きな被差別部落の「地名」は、隠蔽される傾向が強いのに対して、あまり有名でない小さな被差別部落は、その名前が「通称」の中にどうどうと列挙されている可能性があります。

新南陽市【富田】の「通称」には、新南陽市の被差別部落3箇所の「地名」がそのまま掲載されています。「山口地名総監」は、新南陽市の被差別部落の「地名」については、公然とさらしているということになります。

出版元の人文社は、「資料の許すかぎりの多くを採用した・・・」と説明していますが、「資料の許すかぎり・・・」というのは、「通称」名を公表しても、あとで問題が発生するおそれがない場合・・・、という意味を含んでいるようです。「地名」の採用に際して、「資料」に根拠を置くかぎり、「資料」の中に頻繁に出てくる、【久米】・【浅江】・【末武中】の被差別部落の「通称」も列挙せざるを得なくなるからです。山口県内では有名な被差別部落も、『日本分県地図・地名総覧』においては、その「地名」が伏せられるということになります。

部落解放同盟新南陽支部は、筆者の『部落学序説』執筆に際して採用している、被差別部落の「地名」を実名表記しないで、東西南北の地理的位置関係で表現するという方法に対して、被差別部落の「地名」の実名表記をしないことで、被差別部落の「地名」をタブー視する結果に陥っており、それはとりもなおさず、『部落学序説』の筆者の差別性のあらわれであると批判されてきました。

それから、1年、部落解放同盟新南陽支部は、ブログ『ジゲ戦記』で、その主張を再び展開されはじめました。ブログ『ジゲ戦記』が今後どのように展開されていくのか、予測することはできませんが、これまで公開されてきた文書の中から、部落解放同盟新南陽支部が、被差別部落の地名をどのように取り扱っているのか検証してみることにしましょう。

『ジゲ戦記』のほとんどの文章において、部落解放同盟新南陽支部の方々は、自分の在所を「被差別部落」とよび、「山口地名総覧」に出てくる「通称」でよぶことはないようです・・・。

筆者が最初に受け取った部落解放同盟新南陽支部からの「抗議文」には、筆者の文章「被差別部落と姓」について、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調で批判が羅列されてありました(1年後に公開された「抗議文」はかなり表現がやわらかくなっていますが・・・)。

部落解放同盟新南陽支部は、被差別部落のひとびとが、その在所を実名で語ることは「カミングアウト」(部落民宣言)に不可欠な要素であると考えられているようです。「部落民」であることを宣言することは、その在所の「被差別部落名」も明らかにすることを必然的に含むという主張はその通りであると思います。しかし、「カミングアウト」したあと、「カミングアウト」したひとは、その在所の「地名」とどのような関わりをもって生きていくことになるのでしょうか・・・。

『ジゲ戦記』をみるかぎりでは、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、その在所を、「実名」で呼ぶことはなさそうです(今後、地名・人名を実名表記される可能性もないわけではありあませんが・・・)。

『ジゲ戦記』に次の文章があります。

「うちの部落は古くは窪地(久保地)と呼ばれ、徳山藩の穢多頭がいたらしい。江戸時代、富田村の穢多村はうちの窪地と王子という2ヶ所であった。」

近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4つの「穢多村」の在所のうち、『部落学序説』の筆者が、「徳山藩北穢多村」とよんでいる「窪地」と、「徳山藩南穢多村」とよんでいる「王子」の2つの「穢多村」がとりあげられています。

しかし、「山口県地名総覧」の【富田】の「通称」(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)のなかには、この「窪地」・「王子」という「地名」は直接的には出てきません。近代以降、他の名称で呼ばれるようになって久しいからです。

『ジゲ戦記』では、その被差別部落の「地名」を、「古くは・・・」と語りますが、「新しくは・・・」とは語ることはありません。「窪地」・「王子」を昔の「地名」を公表しても、今現在の被差別部落の「地名」(実名)にたどりつくことはできない・・・、という前提があるのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の方々がいわれる、「部落民」としての「カミングアウト」は、すべてをさらして部落解放運動をする・・・というのはなく、隠すべきところは隠して運動をする・・・ということを前提とします。それは、部落差別の現実が今もなお厳しいから、そうせざるを得ないのであろうと推測されます。「部落民」であることを隠蔽して失うものより、「カミングアウト」することによって失うものの方が多いと考えられるからでしょう。特に、2002年から、すべての同和対策事業が終了したいま、「部落民」として「カミングアウト」することで、直接的な「利権」に関係することが少なくなったいま、いたずらに被差別部落の「地名」・「人名」をさらすのは「差別」だけを招き寄せることになる・・・という警戒感も働いているのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の『部落学序説』の「地名」の取り扱いかた(実名記載しないで相対座標で表記すること)に対する批判は、近世幕藩体制下の「穢多村」の在所である「窪地」を「徳山藩北穢多村」、「王子」を「徳山藩南穢多村」と呼ぶことへの批判に還元されてしまうのでしょうか・・・。

「徳山藩東穢多村」と「徳山藩西穢多村」については、「新南陽市」以外の行政に属するので、部落解放同盟新南陽支部の方々は、ほとんど関心をお持ちになっていないようです。「窪地」・「王子」と同じように、両旧「穢多村」を古い「地名」で呼ぶことはないのでしょうか。いずれも、「山口県地名総覧」の「通称」の中に記載されてはいないので、「窪地」・「王子」同様、古い「地名」を表記することも可能であると思われるのですが・・・。

つまり、被差別部落の「地名」をタブー視しているのは、『部落学序説』の筆者ではなくて、部落解放同盟新南陽支部の方々のほうです。

筆者は、20数年、部落解放同盟新南陽支部の方々になんらかの形で関わり続けてきた結果、そのことばとふるまいから、そして、全国の部落解放運動の取り組みと差別事件、糾弾の内容を検証した結果、被差別部落の「地名」を、実名記載しないで、相対座標で表記することにしたのです。

部落解放同盟新南陽支部の筆者に対する、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調の批判は、何のための批判だったのでしょう・・・。

『部落学序説』が、第3章で終わらず、第4章で、「解放令」に触れることで、「窪地」・「王子」という、近世幕藩体制下の古い「地名」が、近代中央集権国家の新しい「地名」に置き換えられることを心配しての、先取りの抗議だったのでしょうか・・・。

「被差別部落と姓」で論じたことは、筆者の『部落学序説』のすべての文章に通底しています。

筆者は、被差別部落のすべての「地名」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から解放し、被差別部落の歴史が、正当に解釈される時代の到来を願ってこの『部落学序説』を執筆しています。その戦いを共有することなく、『部落学序説』の追求する結果だけを先取りしようとする、部落解放同盟新南陽支部の主張は本末転倒といわざるを得ないでしょう。

『部落学序説』の筆者は、被差別部落の「地名」をタブー視することはありません。「窪地」・「王子」の持っている意味を、野本民俗学風に表現することも可能です。それどころか、現在の被差別部落の「地名」も同じ手法でその意味をときあかすこともできます。まかり間違っても、「窪地」を、日のあたらない、洪水にさらされる地理的に悪しき環境・・・、被差別のしるし・・・、などという解釈に陥ることはありません。

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2006年10月30日 (月)

2.山口県地名総覧と被差別部落 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

2.山口県地名総覧と被差別部落
 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

先週の金曜日午後、妻とふたりで、県北をドライブしました。

山口県はまだ紅葉シーズンではありませんので、紅葉見物・・・というわけにはいきませんが、目的の被差別部落のある地域に通じる道のいたるところにある道の駅に立ち寄りながらの、気楽なドライブです。

目的地にたどりつくことができるもよし、できぬもよし・・・、そんな軽い気持ちではじめたので、ほとんど交通量のない田舎の道を制限速度を守りながらのドライブでした。

その道の駅のひとつで、「くんたん」を売っている店がありました。園芸用の土つくりの本の中によく出てくる「くんたん」ですが、私は、いままで現物をみたことがありません。近くのいくつかの園芸店でも販売していなかったように思いますが、その「くんたん」を道の駅の売店で見たときは、とてもうれしくなりました。

道の駅の売店にいるおばあさんに、「くんたんって、なんですか」と尋ねました。おばあさんの話では、「くんたん」はもみがらを炭にしたものだそうです。「なんのために使うのですか」という、私の問いに、「くんたんは、黒色をしているでしょう。土に混ぜると、土の温度があがって、苗作りにいいんです・・・」と答えてくれました。

「くんたん」についての、あらたな発見です。

もみがらを直接土の中に混ぜると病原菌を発生しやすくなるので、「くんたん」という炭にしてから土に戻すそうです。「くんたん」は、土を改良するための微生物を育てる環境を作ってくれるとか・・・、昔、土つくりに関する本を読んでいたとき目にしたように思います。

今年、菊の冬至芽をとって、来年のための苗作りをするので、そのための土の改良材として、1袋200円の「くんたん」を3袋購入しました。とうがらし(たかのつめ)が1袋100円で売っていましたので、こちらも、自然農薬「元気丸」を作るときの材料として2袋購入しました。それから、昼食用に、草餅を一袋・・・。

静かに秋がしのびよる、山口県の街道を、のんびりとくるまを走らせ、視野に入る都度、道の駅に立ち寄りました。紅葉狩りはできませんでしたが、山口県の農村の収穫の秋を楽しむことができたドライブでした。

目的地の被差別部落にたどりつけてもたどりつけなくても、満足・・・、そんな感じのする、「萩市の被差別部落探訪」・「長門国穢多村探訪」の小さな旅でした。

最初、尋ねた被差別部落は、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)の「山口県地名総覧」に、その名前が「通称名」として掲載されている被差別部落です。もうひとつは、古文書でその存在を確認してはいるのですが現在どのような地名(通称名)で呼ばれているのか不明な被差別部落・・・です。

その被差別部落のある地域に入ってから、徳山市立図書館郷土史料室で閲覧できる『周防国図』・『長門国図』の「街道」と、現在の道路地図の「道路」を比較しながら、『長門国図』から推定できる「旧穢多村」の在所が、現在の道路地図のどこに該当するのか・・・、大体の検討をつけて、くるまを走らせます。

最初の被差別部落の場所はすぐにわかりました。

くるまをゆっくり走らせていると、向うから、おばあさんが歩いてこられたので、くるまをおりて、おばあさんに尋ねました。

「ちょっと、お尋ねします。○○むらに行きたいのですが、どう行ったらよろしいでしょうか・・・」。

そのおばあさん、農作業スタイルですから、地元のひとなのでしょう。当然○○むらが、被差別部落であることは熟知していると思われます。

しかし、そのおばあさん、いささかのためらいを見せることなく、このように説明してくれました。

「この道を下っていくと、そら、あそこに、左に行く道があるでしょう。その先が○○です」。

そのおばあさん、なにもなかったかのごとく、ふりかえることなく、去っていかれました。

被差別部落の中をくるまで通って、もとの「道路」まで戻りました。

山口県の小さな教会で棲息するようになって、もう20数年が経過しますが、赴任と同時に、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員にされたのをきっかけに、山口県内の被差別部落を尋ね歩くようになりました。

徳山市立図書館郷土史料室で『周防国図』・『長門国図』を複写してもらった以降は、その古地図(街道図)を手掛かりに、山口県内の被差別部落をドライブするようになりました。春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、ときには、雪の日や嵐の日にも尋ねたことがあります。昼だけでなく、夕暮れ時の被差別部落を尋ねたことがあります。

周防国中茶筅寺の参道の石段に座って見た秋の夕日はとてもきれいでした。今も、私のこころに残っている被差別部落の風景です。

被差別部落の中に聞こえてくる、浄土真宗のお寺の鐘の音・・・。歴史の悠久の彼方から聞こえてくるような錯覚にとらえれたことがあります。

初雪が降った、山間の被差別部落の家々・・・。柿の実があかあかと残っていました・・・。

あじさいの花がきれいに咲いている雨の日、被差別部落に通じる橋のたもとに立って見た、被差別部落の家々のある風景・・・真っ青なあじさいのはながとてもきれいにみえました。そのときの被差別部落の風景は、あじさいの花と同じような姿に映りました。

海辺の被差別部落・・・。その岸壁に座って、沖を行く船をみつめていたこともあります。波の音がこころの中にやさしく響いてきました。

被差別部落のおじいさん、おばあさんにあっても、黙ってさいさつするだけ・・・。おじいさん、おばあさんも、黙ってあいさつを返されるだけ・・・。何事もなかったかのように、時間が経過していくような、そんな被差別部落探訪です。

ときどき、「何してんの?」と声をかけられるときもありますが、「被差別部落の歴史を調べているんです。このむら、古い歴史の史料に登場してくるんですね。それで、どういう場所か、一度来てみたかったんです・・・。」とほんとうのことを答えます。多くの場合は、「昔のことを知っているひとはめっきり少なくなって・・・」と残念そうに去って行かれます。

山口の地に身を置くようになって、20数年、そのような「環境」の中で、部落差別とはなにか・・・を考えてきたのです。被差別部落のひとびとの顔と姿のみえるところで、部落差別とはなにか・・・を考えることに徹してきたのです。

「○○むらはどこですか・・・」。
「○○むらはあそこです」。「○○むらにそこです」。「○○むらはここです」。

短い会話を成立させるために、徳山市立図書館郷土史料室で、古文書・古地図・研究論文などをできるかぎり時間をかけて調べてきました。

2つめの被差別部落は、長州藩の古文書の上で「穢多村」の存在が確認されてはいても、その場所が現在どのように呼ばれているかわからない被差別部落です。

大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」(たとえば、被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄のふるさとを尋ねるとき)とたずねた場合、適切な答えを得ることはほとんどできないでしょう。大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねる側の姿勢の如何が問われる可能性があります。大字名ではなく、その地域で一般的に使用されている地名(差別の側も被差別の側も使用している地名)を用いてたずねる必要があります。それがわからないなら、大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねるべきではありません。

今回、2つめの被差別部落の在所の確認は、「禁じ手」に抵触することになります。

その近くまでいって、やはり、道を歩いてきたひとにたずねました。今度は30代後半の青年です。

「萩城下に通じる旧街道を尋ねているのですが、最近、旧街道が分断されてしまっているので見失ったしまったのですが、どこへ行けば旧街道に戻れますか・・・」。

すると、その青年、「旧街道を通って、どこへ行かれるつもりですか?」と問い返してきます。

「通るだけです・・・」。

「そうですか・・・。詳しく説明することはできませんが、次の三叉路を右に、狭い道の方に入ってください。そこが旧街道です。でも、気をつけて行ってくださいね・・・」。

最初の被差別部落の在所を尋ねたときのおばあさんとの会話とくらべると、少しくことば数が増えています。しかも、「○○はどこですか。」、「○○は・・・です。」と、被差別部落の地名(通称名)を直接とりあげてはいませんが、実質上、被差別部落の在所を聞き出す会話が成立しているのです。

最初のおばあさんの場合、最初から、被差別部落の地名をめぐる「禁忌」は発生していません。

なぜなら、そのおばあさんが知っている被差別部落の地名とまったく同じ地名を用いて、そこへ行く道をたずねたからです。地元のおばあさんと、「旅」の途上の私との間には、被差別部落の地名をめぐって、避けなければならない「禁忌」はすでにないからです。すでに、その地の被差別部落の地名(通称名)をしっているひとに対して、その地名に触れてはならない、口にしてはならない・・・という「禁忌」は無意味になってしまっているからです。

しかし、二人めの青年の場合は、事情が違います。その青年と私との間には、最初から被差別部落の地名に関する「禁忌」が立ちはだかっています。たずねる方も、たずねられる方も、「被差別部落の地名・人名には触れてはならない・・・」という「禁忌」が働いています。

もし、私が、その地の被差別部落を探訪しようとしている、しかも、その名前も在所も知らない・・・、ということが、その青年に伝わると、おそらく、その青年は、私に、上記のようなことばを返すことはなかったと思われます。

旧街道沿いにあるのは被差別部落・・・。そのことがわかっているのに、「旅」の途上にある私は、そのことが明言しない・・・。あくまで、そのかたわらを通り過ぎるだけ・・・、という。その青年は、被差別部落の地名に関する「禁忌」に抵触しないように、そこに通じる道を教えれくれ、そして、その道を進むことは「禁忌」状態にあることを、「でも、気をつけて行ってくださいね・・・。」ということばで表現してくださったのであろうと思われます。

私は、その青年に教えられたとおり、くるまを走らせ、旧街道にはいり、あるめじるし(旧街道沿いの旧穢多村の在所を示すしるし)を確認したうえで、被差別部落の中を通って、もとの道に戻ってきました。実は、同じ道を2回はしりました。

そのむらのいたるところで、歴史の重みを実感させられたからです。

山口県にも戦後、部落解放運動が起こりました。部落解放同盟の支部も、県内10数カ所につくられました。しかし、その大半は、都市型に被差別部落です。都市化とともに、一般地区住民との混住化が促進され、同和行政によって、「同和地区」と指定されています。その「同和地区」住民は、一般地区住民と被差別部落住民の両方を含んでいます。戦後、都市化の進み具合の違いで、被差別部落の遅れが目立つようになり、経済的格差是正のため「同和対策」事業がなされたのです。

山口県の「同和地区」の場合、その地区に、同和会・部落解放同盟・全解連などの複数の運動団体がしのぎをけずっていました。それぞれの運動団体は、個別に対行政交渉を展開していました。ときには、その利権獲得をめぐって、運動団体相互に批難の応酬を展開するということも決してまれではありませんでした。都市型の「同和地区」の運動団体を支えていたのは、どの運動団体も、「自分たちこそ、ほんとうの部落解放運動の担い手である」という自負の思いではなかったかと思います。

それらの「同和地区」の運動団体に、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が関与していきました。運動団体の指導者の語ることばを、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等は、無批判的に追従し、受容していったのです。「部落解放同盟のひとが何をかを語る・・・」、それに呼応して、「多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が何をかを語る・・・」場面も少なくなかったのです。

しかし、『部落学序説』の筆者である私の視野にある被差別部落は、そのような都市型の被差別部落や部落解放運動だけではないのです。

部落解放同盟の支部のない、その活動家すら一歩も足を踏み入れたことがない、部落解放同盟の支部数の10倍近い、山口県の被差別部落・・・、部落解放運動が展開されていようといまいと、近世幕藩体制下の長州藩とその支藩にあって、「穢多村」としてその歴史を担い、今も、その歴史を担い続けている・・・、いつの日か、部落差別という冬の時代が去り、その「穢多村」の歴史が顧みられ、正しく評価される時代がくることを願って、その伝承を語り続けている・・・、そういう被差別部落をも視野に入れたものです。

都市型の被差別部落の場合、ある意味、身を隠すことも決してむずかしくありません。「同和対策事業の食い逃げ」(同和事業・同和教育の恩恵にあずかるときだけ部落・部落民をなのりそれがすむとそれを隠す所作をすること)だって、大手を振って行われてきました。

しかし、農村型・山村型の被差別部落の場合、都市型の被差別部落のような恣意的な生きかたはほとんど不可能です。その地域にあっては、被差別部落の在所も住人も周辺の人々によって知られているという暗黙の前提がありますから、文字通り、その身をさらさずして同和対策・同和教育事業を享受することはほとんど不可能になります。

農村型・山村型の被差別部落の場合、中には、一切の事業に関与することなく、その歴史の重みにじっと堪えている場合もあります。

被差別部落の地名に関する「禁忌」は、通常、そのひとの思想・信条、生きかたやものの見方・考え方を問いません。「禁忌」があるところに「禁忌」があります。

『部落学序説』で、筆者が立証しようとしていることは、被差別部落にまつわる「禁忌」をありのまま受け入れ、それを批判・検証し、その「禁忌」を突破することによって、「禁忌」を含む部落差別を根底から解体していくことです。

次回、章をかえて、この部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)について論じていきたいと思います。

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2006年11月 1日 (水)

3.タブーと被差別部落 1.「タブー」の語源・・・

3.タブーと被差別部落
 1.「タブー」の語源・・・

『部落学序説』とその関連ブログ群においては、「禁忌」ということばをよく使用しています。

筆者がこの「禁忌」を使用する場合は、おもに、部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事しておられる学者・研究者・教育者の、その研究の前提となっている枠組み、研究上の意識的・無意識的な制限を指して批判的に用いているのですが、「タブー」を使用する場合、そのほとんどは他者のことばを引用する場合です。

『岩波国語辞典』には次のような説明があります。

【禁忌】忌んで禁じること。①月日・方位・食物などについて、習俗として、きらって避けること。②→タブー。③ある病気に対して用いることを禁じなければならない薬品・薬品、または温泉の質。

【タブー】ふれたり口に出したりしてはならないとされているもの。禁忌。未開人の社会に見られるような、おかすことが禁じられている、神聖または不浄な事物・場所・行為・人・言葉の類。▷taboo(禁ぜられたの意のポリネシア語から出た英語。

両者を比較すると、共通点もあれば相違点もあります。

筆者が、この『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆する際に使用している資料・文献は、最初は、『部落学序説』執筆完了後に公開する・・・としていたのですが、読者の方(部落解放同盟新南陽支部)から早急に公開すべきである・・・との要望が寄せられ、1年前に、「参考文献」として公開しました。読者の方は、筆者が『部落学序説』で引用する文献はすべて入手される・・・ということでしたが、「参考文献」として一括して公表したあと、読者の方は、それらを入手され、読破されたのでしょうか・・・。

その「参考文献」の中から、「禁忌」・「タブー」に関することばを拾い集めると、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者が、どのような論述を展開していくことになるのか・・・、容易に判断されるのではないかと思います。

しかし、手元に同じ資料があったとしても、その資料から、同じような解釈が発生するとは限りません。

「参考文献」にあげている、『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫は、その書を執筆したときの思潮的状況(筆者の青年時代の思潮的状況)をこのように記しています。

「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような、のるかそるかの厳しい岐路にたっているのだという点ばかりが、あまりにも強調されすぎるようなである。もちろん、現代の倫理的状況がそのようなものだということに、べつだん全面的に反対しようというのではない。このような「二者択一」のけわしい断崖に追いつめられた状況こそは、まぎれもない現実の事実というものであろう。だが、これは現代のいわば第一義の道なのである。第一義の道、それはけっしてウソとはいわぬ。しかし、第一義の道だけでどこまでも通そうというのは、これはどうにも息の詰まる話だ。現代はたしかにきびしい時代である。だが、このようにきびしい世にも、多くのひとは多くのばあい、昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆくのだ。そしてこれもまた、まぎれもない同じ現代の事実というものである。このようなまことに平凡きわまる、だが一面からいえば、それゆえにかえって、涙ぐましいまでに厳粛ともいえる人間の生活・・・そのようなものの面白さにもっと目を向けてもいいのではないか。「習俗」の面白さは、まさしくそういう面白さだとわれわれは思うのである」。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、佐藤俊夫のいう「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」先鋭化された世界に身を置いてこなかったし、ときとして、筆者のおかれた状況を無視して問いかけられる「右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」問いを前にして違和感を感じることのみ多かったように思われます。筆者は、佐藤俊夫がいう「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりとして生きてきたに過ぎないのです。

20数年前、山口県の小さな教会に赴任してきて、教区の部落差別問題特別委員会委員を押しつけられていく中で、教団・教区・分区の内外において、「差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・」という問いを突きつけられるようになりましたが、正直いって、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりでしかない筆者にとっては、最初から最後まで、違和感に満ちた問いかけでしかありませんでした。

佐藤俊夫は、続けてこのように記しています。

「たとえばまた、人と人との交際にあって、一番大切なものは何かというようにきかれれば、「自他の人格の尊敬」とか「相互の人権の尊重」とか答えるのが模範解答というものであろう。しかし、じっさいのわれわれの日常交際にあって、あいつは虫が好かぬとか、気分のいい男だとか、われわれの交際を現実に左右しているのは、はたして「人格」の「人権」のというようなしかめつらしい理由であろうか。どうもそうではないので、あいつはしゃべるときに唾をとばすのが困るとか、あの貧乏ゆすりは何とかならぬものだろうかとか、鼻のわきのイボをみているとどうにもウズウズしてくるとか・・・およそ「人格」とも「人権」とも関わりのないことがらが、じつはわれわれの交際のかなりの部分を左右しているのである」。

そのあとに続く佐藤俊夫のことばを拝借すれば、「部落解放運動は「何をいうか」の思想さえしっかりしていれば、「如何にいうか」の表現などはどうでもいい・・・」というのは、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に生きるひとびとの「暴言」に対して、『部落学序説』の筆者は、「如何にいうか」に力点をおいて、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりとして、おなじく、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」被差別部落の古老に共感してその執筆を続けているのです。

部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、筆者が、「無学歴・無資格」を標榜することを理解できないでいます。

彼らにとって、「無学歴・無資格」は、部落差別のしるし・マイナス価値以外の何ものでもないからです。「無学歴・無資格」は差別の重要なメルクマールとして、同和対策事業・同和教育事業によって克服されなければならないマイナス価値として認識され、同和対策事業・同和教育事業の重要な課題として認識されてきました。

やれ高校進学率が何パーセントだの、大学進学率が何パーセントだの、その数字をあげることのみ汲々としてきた現実があります。

そのような雰囲気の中で、みずからの無学歴・無資格を臆面もなく語り続ける筆者は、彼らにとっては、Inferiority Complex の持ち主としてしか、その目にはいらなかったのでしょう。「無学歴・無資格」にこだわる筆者は、彼らの目からみると、筆者の人格の瑕疵・欠点・汚点・・・としてしか見えないのではないかと思います。

同和対策事業・同和教育事業によって、高学歴の被差別部落のひとと、無学歴のいっぱんのひととの人間関係は、日本全国津々浦々に生じた可能性は多分にあります。

筆者が所属している日本基督教団の部落解放運動の第一人者である東岡山治牧師と、『部落学序説』の筆者との関係は、そのような関係にあります。被差別部落出身である、同志社大学大学院を卒業高学歴を背景に運動をされてりう東岡山治牧師と、被差別部落とはなにの関係もない無学歴・無資格の筆者との間には、暗くて深い絶望的なまでの「学歴差別」が横たわっています。

おなじ「学歴差別」は、部落解放同盟新南陽支部と筆者の間にも存在しています。

しかし、筆者のいう「無学歴・無資格」は、そんなにめずらしいものではありません。

筆者が中学校を卒業したのは、1963(昭和38)年です。団塊の世代のもっとも生徒数の多い年です。

文部省の統計調査では、その年、卒業した生徒数は、2491231名です。その年の高校進学者数は、1691740名です。その差799491名は中学校卒ということになります。その3年後、短期大学に進学したもの108052名、大学に進学したもの292958名、あわせて401010名ということになります。この数字をひとつの式であらわすと次のようになります。

中学卒業生徒数2491231-大学・短大卒業生数401010=無学歴・無資格2090221

現代社会では、一般的に「学歴」といわれるものは短大卒以上のことですから、筆者の年代は、「学歴」を身につけたのは40万人のみであって、ほかの200万人は「無学歴」を生きている・・・といっても過言ではありません。筆者のいう「無学歴」は、その背後に、同じ年代の200万人の「無学歴」を前提にしているのです。

「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」、また、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に生きるひとびと・「学歴」あるひとびとと違って、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」団塊の世代200万のひとりとして、「無学歴・無資格」を標榜しているに過ぎません。

部落解放同盟新南陽支部のひとは、そんな筆者を「悲劇の主人公を演じる。」と評していますが、「無学歴・無資格」を「悲劇」・・・としてとらえるのは、部落解放運動の間違った認識にもとづくものです。「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆のひとりに過ぎない筆者の目からみると、部落解放運動が人間解放運動に連座するためには、「学歴」を取得したりさせたりすることで「学歴」社会を承認・追従していくことではなくて、「脱学歴」社会をつくるべく闘争すべきであったと考えられます。

「部落解放運動」は、Inferiority Complex (劣等感)にとらわれた被差別部落の知識階級の、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に依拠せず、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆の中に、所与の人生を引き受けていきる「プライド」と「自尊感情」を、逆に、育てていくべきではなかったのではないでしょうか・・・。

被差別部落の「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆を、部落解放運動の旗手・担い手としての自負の精神から、「高き」から「低き」を見下すように「いびつ」なかたちでしか表現できない部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』・・・。同和対策事業終焉とともに、部落解放同盟から離脱、それだけでなく、部落解放運動からも離脱して、『ジゲ戦記』などという「ごたく」を並べる姿をみていると、「ブルータス、おまえもか!」と叫びたくなります。

私の知っている、「闘う部落解放同盟新南陽支部」は、そんな腑抜けではなかった・・・。

部落解放同盟の組織から離れ、自分ひとり、同和行政をめぐる不正に関与しなかった「正義のひと」として無罪潔白を証明するかのような、「大阪、京都、奈良と立て続けに部落解放同盟の聞くにたえない事件が報道されている。かつて、その組織に所属していたものとして思うことは、これは3県だけの問題ではなく、全国的に表出してくる問題だということと、部落解放同盟が持ついびつな力の源は歴史にあり、それに自分も加担したのだという慙愧である・・・。」という文章はいただけない。「悲劇の主人公」をきどって、「それに自分も加担したのだという慙愧である・・・。」とその心情を吐露するのは演技のしすぎではないでしょうか・・・。

「清濁あわせてのみほし、それを清に変えていこうとするのでなければ、「部落解放運動」なんて成功するはずはない」。そう言明してやまなかったのは、部落解放同盟新南陽支部そのものだったのですから・・・。

部落解放同盟新南陽支部のみなさん、今からでも遅くはない。山口県連という組織に復帰し、その組織が抱えているすべての問題を引き受け、その運動が、真の部落解放運動の名に値するように、その組織と運動を純化すべきです。被差別部落民として、部落解放運動家として、あなたたちが捨ててかえりみない、部落民としての「プライド」と「自尊感情」を後生大事に、大切に。生きてみられたらどうでしょう。

私の知っている部落解放同盟新南陽支部は、そういう存在であったはず・・・。

またまた、大きく脱線してしまったようです。そう、そう、この文章・・・、「タブー」の語源について執筆するはずでした。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』のよると、ポリネシア語の「タブー」は、字義的には、「特に bu 徴をつけた ta 」という意味だそうです。「ブをつけたタ」・・・、次回、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』をてがかりに、禅問答のような定義を検証してみたいと思います。

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3.タブーと被差別部落 2.続・「タブー」の語源・・・

3.タブーと被差別部落
 2.続・「タブー」の語源・・・

「タブー」とは何か・・・。

『広辞苑』をみても、『平凡社世界大百科事典』をみても、「タブー」ということばの持っている多義性のみ目について、「タブー」ということばの本質を把握するにいたりません。

筆者のもっている文化人類学関連の書籍をひもとくと、「タブー」のことばの多義性はさらに拡散され、無学歴・無資格の筆者のあたまでは把握することがますます困難になってきます。

こういう場合、筆者がいままで慣れしたしんできた論文・書籍に依存せざるを得ません。

「タブー」を理解するうえで筆者に一番影響を与えたのは、前回紹介した、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)です。

今回は、論述の大半を、その紹介に割くことになります。

佐藤によると、「タブー」ということばは、「ポリネシアの「土語」にすぎなかった」ことばです。

1777年イギリス人によって、トンガ島で、この「タブー」ということばが採集されます。それ以来、「太平洋諸島で・・・局地的な単語にすぎなかった」この「タブー」ということばは、「以来いまだ二世紀にみたないのに、・・・世界の共通語」になっています。

佐藤によると、tabu ということばは、 tapu ・ kapu ・ tampu などの類義語をもっており、「ポリネシア全体としては tabu よりむしろ tapu ないし kapu の方がふつう」に用いられているといいます。しかし、「タブー」( tabu )は、「今や世界の共通語」になっており、「専門の学術用語」としてだけでなく、「ごくありふれた日常用語になっている」そうです。

『部落学序説』の筆者である私は、「タブー」( tabu )ということばより、「禁忌」ということばの方を愛用してきました。特別理由があってのことではないのですが、キリスト教を表現するのに、「キリスト教」ではなく「基督教」を愛用するのと同じ嗜好です。「日本の禁忌はただちにタブーと類比すべきではないとする日本民俗学の議論」もあるようです。

ともかく、「タブー」( tabu )ということばは、「その本来の局地性をほとんど脱却」して、「学術用語としてばかりではなく日常用語にあってすら、ほとんどそれと意識せずに、普遍的・一般的な意味で「タブー」という言葉を用いているのである」といわれます。佐藤は、「「タブー」という言葉がこれだけ普遍的に用いられるということは、つまりタブーという事象がそれほどに普遍的だからにほかならぬ。」といいます。「タブー」は、「太平洋諸島の、または一般に未開社会なるものの占有物ではなく、おおよそ人類の共有財産といってもよい。」といわれます。

「タブー」( tabu )ということばは、「世界の共通語」として受容されるだけでなく、それぞれの国・民族のことばと比較され翻訳されてきました。北米インディアンの「トーテム」、メラネシアの「マナ」、ギリシャ語の「 hagos 」、ラテン語の「 sacer 」、ドイツ語の「 Scheu 」・・・、「タブー」( tabu )ということばを媒介に、その類似と相違が明らかにされてきたのです。

佐藤は、「「タブー」は現在ふつうに用いるときの一般化した意味では「禁忌」というのとまったく同じである。」といいます。

佐藤によると、「タブー」( tabu )ということばは、「字義どおりには「特に bu 徴をつけた ta 」、つまり「特徴」というほどの言葉で、凡常ならざるものについて形容詞として最初は用いたものらしい・・・」といいます。「その程度のことなら、・・・西欧各語、さらにまた世界のあらゆる民族は、「タブー」と同等の資格をもったそれぞれの言葉をもっている」といいます。「だが、それらは言葉としてまったく同一の意味とはいえず、さらにその言葉によって表現される事象については、それぞれの社会的ないし歴史的背景によってかなりに相違することは当然である。」といいます。

佐藤は、「タブー」( tabu )に該当する日本語として、「ヒ」「イミ」ということばをあげています。さらに、「フジョウ・ブク・ケガレ・オソレ」ということばもそれに含まれるといいます。「ヒ」は「火」に由来し「非日常的なもの」をさし、「イミ」とは、「イヅ(厳)」・「イツク(斎)」・「イワウ(祝)」・「イム(忌)」から派生・転化してきたもので、「それに対する態度」をさしているといいます。

この「ヒ」と「イミ」ということばは、野本民俗学(『神と自然の景観論』(講談社学術文庫))において、地名の発生にまつわる記述の中にしばしば登場してきます。それは、日本の地名は、「禁忌」ないし「タブー」と深く結びついているということを意味しています。

被差別部落の地名と「禁忌」の問題は、差別的な意味合いだけでなく、一般的な意味合いにおいて存在している・・・ということになります。

「被差別部落の地名とタブー」の問題をより本質的にとりあげるために、世界共通語としての「タブー」( tabu )と日本語としての「禁忌」の異同について、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)に全面的に依拠しながら、その本質を確認していきます。

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2006年11月 2日 (木)

3.タブーと被差別部落 3.「感覚・信念としての禁忌」

3.タブーと被差別部落
 3.「感覚・信念としての禁忌」

『部落学序説』執筆に際して、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に学ぶところが多いのですが、佐藤俊夫の理論を全面的に踏襲しているわけではありません。

『部落学序説』の参考文献としてあげたすべての資料・書籍は、すべて批判・検証の作業を経たのちに、『部落学序説』の執筆に際して、紹介と引用を行っています。佐藤俊夫の『習俗-倫理の基底-』とて例外ではありません。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』は、「習俗の本質」としての「禁忌」について、詳細な分析と総合によって体系的な解明をしている貴重な論文です。『習俗-倫理の基底-』をくりかえし読めば読むほど、学問の奥深さと発想のすばらしさにしばしば驚きと尊敬の思いをもたざるをえないのですが、しかし、反面、それが体系的な解明を指向すればするほど、体系化されずに残された部分・・・がクローズアップされてきます。

たとえば、佐藤俊夫がその論文の執筆過程で採用する、「禁忌は日常・非日常を区別する感覚・信念である」という定義からみて、佐藤俊夫にとって、「日常」・「非日常」という用語は、「禁忌」という概念の定義用語として極めて重要なことばであると思われます。

しかし、『習俗-倫理の基底-』を「日常」・「非日常」ということばの組み合わせにぶれが発生しているのに気付かされます。

「日常」・「非日常」の組み合わせの他に、「日常」・「非常」という組み合わせも存在します。佐藤俊夫は、この「非常」ということばを、「日常をはみだす」ことであると解釈します。つまり、佐藤俊夫にとって、「非常」は「日常」からの逸脱である・・・というのです。

昔、『習俗-倫理の基底-』の佐藤俊夫のことばを追跡していて、佐藤俊夫は、「非日常」と「非常」の違いについて気付いているのではな