2006年10月11日 (水)

目次

目次

1.はじめに

2.山口県地名総覧と被差別部落
 1.「地名」とは何なのか・・・
 2.野本民俗学から見た「地名」
 3.山口県地名総覧と被差別部落
 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

3.タブーと被差別部落
 1.「タブー」の語源・・・
 2.続・「タブー」の語源・・・
 3.「感覚・信念としての禁忌」
 4.「習俗・儀礼としての禁忌」
 5.部落問題研究者と禁忌
 6.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌
 7.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 1.地名に関する禁忌
 2.差別名字と差別戒名
 3.人名に関する禁忌
 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌
 5.「別火別婚」という禁忌について

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 1.<高佐郷の歌>
 2.<高佐郷の歌>の伏字について

 

 

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1.はじめに

はじめに

『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月経過したころ、部落解放同盟新南陽支部から、『部落学序説』のひとつの文書・「被差別部落と姓」について差別文書であるとの指摘がありました。

しかし、その論点は、『部落学序説』の筆者としては、部落解放運動のこれまでの「常識」を覆すものであり、どう理解していいのか、ためらいの思いをもちましたが、部落解放同盟新南陽支部の担当者の方は、口頭で、「『部落学序説』は、第3章までの近世篇で終わっておくべきであった。それを勝手に近代篇まで続けて書きはじめたので止むを得ず批判して執筆を中断させることになった・・・」と言っておられましたが、当初、その抗議に対して、『部落学序説』第4章を破棄することにしました。

しかし、『部落学序説』の筆者としては、納得することができず、部落解放同盟新南陽支部の文書・口頭での申し入れについて検証を重ねました。その結果、被差別部落の地名・人名に関する取り扱いについては、部落解放運動・同和行政の中で実施されてきた地名・人名に関する取り扱い方を踏襲するのが妥当と判断しました。それで、『部落学序説』第4章以下の執筆を再開したのです。

その際、第4章の記述を、「権力」の側からではなく「民衆」の側からの視点・視角・視座に徹することにしましたので、部落解放同盟新南陽支部から批判のあった既述の第4章は、『部落学序説』(別稿)として再掲することにしました。

そして、1年が経過しましたが、部落解放同盟新南陽支部は、その後、『部落学序説』の筆者に対する批判・抗議を継続することはありませんでした。『部落学序説』の論述は、「きれいごとに過ぎる」・・・、という批判に対しては、筆者が書くテーマを予告して、「きれいごとでない・・・」論述とはどういう論述なのか、部落解放同盟新南陽支部から「参考」を求めたのですが、一切、応答はありませんでした。

そのテーマは、『部落学序説』(付論)の「汚れについて」というテーマです。
 1.汚れという言葉の意味
 2.穢多と汚れ
 3.身分と糞尿

その論述に関心を示されたのは、部落解放同盟新南陽支部ではなく、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏をはじめとする京阪神の部落解放同盟の方々でした。

この1年、『部落学序説』の筆者に対する、部落解放同盟新南陽支部からの接触はほとんどありませんでした(当方からコンタクトをとったことはありますが・・・)。部落解放同盟新南陽支部は、『部落学序説』の筆者が、第3章で終わらず、第4章を、その後、1年間に渡って継続していることに問題を感じ続けてこられたのでしょう。

なにを思われたのか、1年を経過した10月に入って、1年前の批判を再び展開されはじめました。

昨年(2005年)5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始するに先立って、2年前から、その論文の概要を20部作成して、大学教授・高校教師・宗教家・新聞記者の方々に配布していました。執筆を計画している『部落学序説』の内容について、感想と意見をお伺いするためでした。

『部落学序説』の執筆計画は、当初から、第3章で終わらず、第4章から第7章までを含んでいました。『部落学序説』の構成は、執筆の初期の段階で公表していた通りです。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判
第7章 部落差別完全解消への提言

『部落学序説』は、その概要に基づいて論述が展開されています。『部落学序説』執筆の計画・立案は、筆者の独創によるものです。部落解放同盟新南陽支部の方々も、「常民・非常民論」、「新けがれ論」、「賤民史観批判」などの解釈原理をかかげて、部落差別問題を論じていくことなど、想像すらしていなかったのではないでしょうか。

筆者の『部落学序説』が、部落解放同盟山口県連とはなんら関係なく開始されたものであることは、現在の部落解放同盟山口県連・宮川委員長に連絡をとってみられればすぐわかります。

『部落学序説』の執筆を公開したあと、部落解放同盟新南陽支部の方々が便乗してこられたに過ぎません。時には、『部落学序説』の執筆を中断して、「島崎藤村論」をとりあげるよう要求されたりしましたが、それは、『部落学序説』の執筆計画に既に組み込まれているものを先取りして文章化するようにという要望でした。

「ブログの性格上、順不同で文章化しても、あとで編集しなおせば済むので、『部落学序説』の執筆計画に固守する必要はない・・・」というのが、部落解放同盟新南陽支部の方々の意見でした。

『部落学序説』執筆に、部落解放同盟新南陽支部の影響を加味したいというより、部落解放同盟新南陽支部の運動方針と、『部落学序説』の内容との間に「齟齬」(見解の相違)がないかどうか気になられたのでしょう・・・。「齟齬」があるかないかの、その判断は、極めて早急でした。『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月後、部落解放同盟新南陽支部は、その結論を出されたのです。

その結論というのは、99%は問題がないが、残りの1%に差別性がみられるので、『部落学序説』の第4章以下の論述を中止するように・・・、という要請として受け止められるものでした。

その1%というのが、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名・人名に対してとっているひとつの姿勢にありました。

筆者は、『部落学序説』は、歴史学・社会学・民俗学・宗教学・法学・政治学・・・などの学際的研究として遂行しています。当然、歴史資料も取り扱うことになりますので、被差別部落の地名をとりあげる必要も出てきます。また近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」について言及するとき、「穢多村」の在所としての「地名」だけでなく、「穢多村」の庄屋・畔頭などの名前と共に「穢多頭」・「長吏頭」の名前がでてきます。

『部落学序説』の筆者としては、過去の部落解放同盟による被差別部落の地名・人名の取り扱いに際して、「差別文書」として指摘された論文を検証して、その指摘を受けないで、なおかつ、部落差別の完全解消につながる提案を論文を書き続ける方法を模索してきました。

それが『部落学序説』本文執筆に先立って明らかにした、被差別部落の地名の「相対座標」です。もういちど説明しますと、近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4箇所の穢多村(日本海側の飛び地をのぞいて)を東西南北に位置づけて、徳山藩東穢多村・徳山藩西穢多村・徳山藩南穢多村・徳山藩北穢多村と呼ぶものです。

この相対座標で、被差別部落を特定するには、徳山藩領図(地図)と徳山藩穢多村の在所に関する史料が必要です。それらは、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねれば簡単に知ることができます。

その労をとらないで、「東山藩東穢多村はどこなのだろう・・・」と自前の前知識と先入観で特定しようとすると、「徳山藩」=「徳山市」を暗黙のうちに想定し、徳山市の一番東に位置する同和地区指定された被差別部落を想定することになるでしょう。いわゆる「久米」の被差別部落です。

しかし、徳山藩の「東穢多村」は、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落のことではありあません。なぜなら、徳山藩領と徳山市の行政域とは全く異なるからです。それに、近世幕藩体制下においては、筆者が相対座標でいう「東穢多村」は「徳山藩領」であって、一方、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落は長州藩本藩に属します。行政上全く異なる場所を指しています。

歴史を無視して、「みそもくそもいっしょ」に受け止めるひとがいたとすると、『部落学序説』の筆者の徳山藩の「東穢多村」に関する記述は事実無根、筆者の単なる推測・幻想・・・であるという批判が生れてくる場合もあるかもしれません。

最近になって、被差別部落のひとといえども、山口県内の被差別部落の地名・在所について知らない場合が多いのではないか・・・と思うようになっています。

姻戚関係とか、仕事の関係、部落解放運動の関係で、交流のある被差別部落はあるかもしれませんが、どの運動家も、山口県内のすべての被差別部落に精通しているわけではないのです。

『部落学序説』執筆のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の場所となった未指定地区は、部落解放同盟山口県連の運動のテリトリーの枠外の被差別部落でした。

部落解放同盟新南陽支部の方々が持っている山口県の被差別部落に関する情報と、『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の史料をもとに、自分の足で尋ね歩いた被差別部落に関する情報とは、「被差別部落」という概念の外延と内包に大きな違いをもたらしているということは、当然といえば当然過ぎることです。論文執筆のために史料・伝承を漁る以上に、被差別部落の所在の特定とその歴史を知るために多くの時間を割いてきたからです・・・。

『部落学序説』の筆者の頭の中にある「被差別部落」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった非常民として、空間と時間を超えて、場所と歴史を超えて、普遍的に存在していた、今日「被差別部落」という概念に集約されてしまった「穢多」の在所のことです。つまり、『部落学序説』の描く「穢多村」は、部落解放同盟新南陽支部のある旧徳山藩北穢多村に還元しつくしされることは本質的にありえないのです。

『部落学序説』の章立て・内容を、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の枠組みの中に縮減させようとする試みは、『部落学序説』の筆者に対する不当な介入でしかありません。

部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』は、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の本質を示しています。その名称通り、所詮、かりものでしかありません。部落解放同盟新南陽支部は、部落解放運動のまねごと・・・、それに終始してきたのではないでしょうか。

『部落学序説』の筆者の、部落差別を完全解消に追い込みたいという熱意は、部落解放同盟新南陽支部の及ぶところではありあません。

部落解放同盟新南陽支部の「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判の根拠になっている、被差別部落の地名の取り扱い方は、戦後の部落解放運動の中で、部落解放同盟が主張し続けてきたことではないでしょうか。被差別部落の地名を不用意に取り上げているということで、部落解放同盟から差別事件として糾弾を受けた学者・研究者・教育者も少なくありません。被差別部落の「地名」をタブー視しつづけ、被差別部落の「地名」を部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しても禁忌状態におき続けてきたのは、とりもなおさず、部落解放同盟自身です。

部落解放同盟新南陽支部は、その地方の末端に位置づけられるとはいえ、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名を「相対座標」で表現することを、筆者の差別性のあらわれとして、「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法」と批判し、筆者の「一貫した主張そのものの前提までもゆがめることになる」と主張するのはどういうことを意味するのでしょうか・・・。

被差別部落の地名は、現在の被差別部落の住人に許容された独占的に処分可能な固有の権利などではありません。被差別部落の「地名」は、「地名」である以上、何らかの意味合いを持っているものです。単なる通俗的・一般的な語源論で斟酌すべきものではありません。すべての被差別部落の伝承に歴史の核(歴史上のほんとうの意味)が隠されているのと同じく、被差別部落の「地名」にも、現代の学者・研究者・教育者がたどりつけていないほんとうの意味が内在されていると思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に裏打ちされて、従来、被差別部落の「地名」に関する研究は禁忌状態におかれてきましたが、それは、『部落学序説』の筆者からみると、部落差別完全解消のための道のり上の大きな障害になったと考えられます。

被差別部落の「地名」は、一般的市民・国民の共有財産でもあるのです。

被差別部落の「地名」は、解明されるべき豊富ななぞに満ちています。被差別部落の「地名」を、語源論と歴史学的研究によるだけでなく、民俗学や歴史的社会学の手法によって明らかにし、被差別部落の「地名」の中に刻印されたほんとうの歴史を解明することも可能なのです。

しかし、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、そのことを容認する環境にあるのでしょうか。また、部落解放運動は、その研究を受け入れる状況にあるのでしょうか。また、日本の社会は、それを研究や運動を受け入れるに充分なほど人権感覚が成長しているのでしょうか。

それを判断の材料に加えると、『部落学序説』は、方法論的に、被差別部落の「地名」表記に際して、「相対座標」に徹することが最適であると思います。

『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を撃つことを目的として執筆しているため、その「賤民史観」に依拠してきた部落解放運動の担い手の一部からは、「部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判が生じる可能性は多分にあります。「賤民史観」の批判は、差別・被差別を超えて根源的な批判に徹することを使命としているからです。

しかし、このブログ『被差別部落の地名とタブー』においては、『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟新南陽支部の方々とのやりとり(単発的・非継続的・一言居士的ことばのやりとり)は捨象して、「被差別部落の地名とタブー」について総合的・包括的な解明をこころみ、部落研究・部落問題研究・部落史研究における被差別部落の地名のより実り豊かな取り扱い方を追求してみたいと思います。

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2006年10月13日 (金)

2.山口県地名総覧と被差別部落 1.「地名」とは何なのか・・・

2.山口県地名総覧と被差別部落
 1.「地名」とは何なのか・・・。

『広辞苑』をひもといてみますと、そこにあるのは「土地の名称。」という極めて簡潔な説明のみです。

「地名」とうことばは、「土地」の「地」と「名称」の「名」を組み合わせたことばのようですが、そこから一歩踏み込んで「土地」とは何かを考察するとき、『広辞苑』の説明はほとんど役にたちません。

しかし、平凡社『世界大百科事典』の「地名」の項目には、かなり詳しい説明が出てきます。

それによると、「地名」にはいくつかのパターンがありそうです。

【地形名】
「山川草木などの地形によってつけられた・・・地形名」が「固定して固有の地名となる」場合

【利用地名】・【自然地名】
「土地の利用によって命名された」場合

【占有地名】・【歴史地名】
「土地利用が進んで特定の集団または個人の占有を表現」している場合

【分割地名】
「占有が強化され土地が細分されるに及んで、従来の地名を上下、方位、大小、新古の区別によって分割命名」した場合

【新しい地名】
「必要に応じてあたらしくつけられる利用地名」の場合

この項を執筆した大藤時彦によると、「日本は地名の多い国として知られている」そうですが、その地名、歴史的にみると、命名と廃棄が繰り返されたようです。命名の根拠となった上記理由が、いつのまにか忘れられて、「意味がわからなくなってしまった」場合が少なくないようです。大藤によると、「地名」の意味がわからなくなるのは、命名の「理由が不明に帰するためである」といいます。たとえば、「地名が最初につけられた地域より拡大利用」されたり、「土地の姿が変わったりしてしまった」ことがその原因としたあげられます。

最近全国でおこなわれている地方行政の統廃合も、「地名」の変化に大きな影響をもたらします。大藤は、「町村合併にもとづく新地名など」は、統廃合が繰り返されることで、「精確に記録しておかないと後にわからなくなる・・・」、といいます。

大藤は、「合併と反対に人口が増加したり新しく開墾したりして分村する場合がある。そのさい全然新しい地名をつけることもあるが村名に上・下や東・西・南・北をつけて区別するのが普通である。」といいます。分村の場合の区別の指標は、「上・下」、「東・西・南・北」の他に、「内・外」、「浜・山」、「岡・浜」、「畝・谷」、「山・原」、「谷・渡」、「里・野」、「町・在」、「峠・谷」があります。大藤は、これらの地名は「町村合併」によって消えていっているといいます。

大藤は、その概略的説明のあと、【地形名】・【利用地名】・【自然地名】・【占有地名】・【歴史地名】について詳述していますが、その際言及されている【信仰に関した地名】を含めて、それらの地名のつけ方は、山口県の被差別部落の地名にも適用できるものが多々含まれています。

「地名」に関する一般的研究の成果は、被差別部落の「地名」の由来と、その持っている意味を明らかにするために流用・転用することが可能であると思われます。

(執筆継続中・・・)

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2006年10月14日 (土)

2.山口県地名総覧と被差別部落 2.野本民俗学から見た「地名」

2.山口県地名総覧と被差別部落
 2.野本民俗学から見た「地名」

最近、筆者のこころを惹きつけてやまない1冊の文庫本があります。

その本というのは、野本寛一著『神と自然の景観論』(講談社学術文庫)です。野本寛一によると、「民俗学の主要課題の一つ」に「人は環境といかにかかわってきたかという主題」があるといいます。民俗学は、この主題について、「ときに土臭く、またときには潮臭く」取り組んできたといいます。

野本寛一は、この「人」・「環境」という主題に、第3番目の要因・「信仰」を付加することで、「日本人が生成してきた多様な信仰と環境のかかわりについて」考察するといいます。野本寛一は、ひとに畏怖と豊穣をもたらす自然の地形を「聖性地形」と呼び、「そうした聖性地形要素を核とした風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観である。」といいます。

この書、購入してから、そのページを開かない日はないのですが、なかなか読書を前にすすめることができないのです。どのページも、筆者にとっては、魅惑に満ちています。特に、「地名」の解説については、驚きの毎日です。「野本民俗学」のすばらしさにこころ奪われてしまいます。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、取り上げている主題の性格上、一種の「境界論」です。岬・浜・洞窟・淵・池・滝・峠・山の結界点・磐座・地獄と賽の河・川中島・離島・神の島・立神・先島・湾口島・温泉・山。それらは、ひとの暮らしの生活の座からみると、それを取り囲む周辺・境界に位置するものです。

例えば、村境に位置するものとして「峠」があります。

野本寛一は、柳田国男のことばを紹介し、「峠」の語源は「たわごえ」であったと推測しています。「たわ」というのは、「撓む」(たわむ)の語幹で、山の鞍部を示す語である。」といいます。

山口県(長州藩)の地名にも「峠」がありますが、その読み方は「たお」といいますが、「たわ」のなまったものでしょう。

ついでにもう少し、野本寛一の説を紹介すれば、「峠越えに際して、なるべく低いところを越そうとするのは自然の真意ではあるが、そのタワでさえ標高が高く、比高さの大きい峠は人びとに大きな苦難を与えた。」といいます。「昼なお暗い峠は旅人の恐怖感をさそい、風の収束点ともなる峠は気象の変化も激しかった・・・」といいます。

そして、周防・岩国の峠についてこのように記しています。

「「周防にある磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」(『万葉集』567)と歌われ、峠越えにはさまざまな呪術や儀礼が行われたのであった」。

周防・岩国の峠については、山口の地に赴任してきて何度となく、あるときは、仕事で岩国の高校に通うとき度々車で通ってきた場所です。夜、車で走っていても、峠とそれをとりまく山の深さに、ある種の威圧感・恐怖感を感じてしまいます。徒歩や馬で旅をしなければならなかった時代は、峠は、まさに「辺境」・「境界」の地でしかなかったのでしょう。

野本寛一は、明治33年生まれの信州の古老の話をのせています。その古老は、嫁ぎ先から実家にかえるとき、県境の青崩峠を越えて、静岡から長野へはいるとき、「子を背負い、手をひいて峠に向かう」若き日を思い出しながら、その古老はこのように語ります。「風が違いますよ。峠に立つと信州の風が吹くのです」。

「青」は馬のこと。「崩れ」は、荷物を背中に急な坂を上る馬がその過酷さに倒れて動かなくなること。「青崩峠」とは、ひとも馬も注意しないといのちを落としかねない急な坂がある場所・・・、という意味ではないかと思いますが、「峠」は、「馬頭観音や峠神に手向けをし、峠の茶屋で一息入れ」なければ越すことが容易でない場所でした。

野本寛一は、「峠」は、その古老にとって、「日常と非日常の境界点であり、転折点であった。」と記しています。

「峠」については、野本寛一はそれ以上のことについては触れてはいませんが、『部落学序説』の筆者の目からみると、「峠」は、「日常と非日常の境界点」であるだけでなく、「常と非常の境界点」でもあったのです。

街道の治安維持のための役人であった、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」、信州において「長吏」と呼ばれている人びとは、「常と非常の境界点」である「峠」に身をおいてその職務を遂行していたと思われます。

野本寛一ほどの優秀な民俗学者をして、「峠」に関する既述を、「日常と非日常」の世界のみに押しとどめ、「常と非常」の世界に立ち入ることを禁忌状態に追いやったのは、とりもなおさず、戦後の部落解放運動の中にみられる、被差別部落に関する「地名」のタブー視に原因があったのではないかと思います。

そのことは、被差別部落の歴史の解明の障害となり、被差別部落のほんとうの歴史を、一般的市民・国民、学者・研究者・教育者から遠ざけることになり、その結果、被差別部落の歴史を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に埋没させてきたのではないかと思います。

戦後の「部落解放運動」は、極めて中途半端なもので、「被差別部落」の「解放」をときながら、「目に見える」世界においては、同和対策事業・同和教育事業によって、当事者が、部落解放運動の成果として納得することができる水準に達したのかもしれませんが、「目に見えない」世界の、部落差別問題の完全解消という、部落解放運動のほんとうの目的からは、著しく逸脱させたのではないかと思います。

被差別部落の歴史と文化、信仰と職業に関する考察を、「賤民史観」という枠組の中に押しつけ、圧殺し、「頭隠して尻隠さず」のような中途半端な運動に終始してきたのではないかと思います。

野本寛一著『神と自然の景観論』の「解説」をしている赤坂憲雄は、「「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。」と言い切っています。

日本人は、「地名」と、「地名」の背後にある「信仰と環境」のかかわりの意味を喪失してしまったのかもしれません。「被差別部落」のひとびとも、被差別部落の「地名」の「聖性」を忘れて、ただ、避けて通りたい、いまわしい差別的名称としてだけしか受け止めてこなかったのかも知れません。その原因は、とりもなおさず、「被差別部落」のひとびと、また、部落解放運動の担い手自身にあります。日本が変節するとき、被差別部落も、部落解放運動もまた、歩調をあわせて変質していった・・・、のです。

赤坂憲雄は、野本寛一は、「柳田国男や宮本常一と並び称されるべき旅の民俗学者であった・・・」といわれる時代がやってくると「かすかな予感」を感じ取っていますが、『部落学序説』の筆者からみると野本民俗学は、すでに柳田民俗学や宮本民俗学とならんでいるか、すでに両者の限界を乗りこえているように思われます。

それは、赤坂憲雄が指摘しているように、野本民俗学が、東日本(東北)を、柳田民俗学・宮本民俗学にみられるという「異郷」としてみるのではなく、同郷としてみることによって、「文化的な広さ」に満ちているからです。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、平凡社『世界百科事典』の大藤時彦が指摘している【地形名】と【信仰に関した地名】の解明の書であるといっても過言ではありません。

部落解放同盟新南陽支部の方々は、野本寛一の中にも、「被差別部落」の地名に関して「禁忌」の状態にあるからとして、その差別的体質を批判することになるのでしょうか・・・。戦後の部落解放運動の失策・過誤に対する自らの責任を放棄して、良心的な学者・研究者・教育者にその責任を転化する無責任さのあらわれ・・・以外の何ものでもないのではないでしょうか。

まして、学歴も資格も持ち合わせていない『部落学序説』の筆者に、その責任を押しつけるのは、言語道断であるといわざるをえないでしょう

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2006年10月16日 (月)

2.山口県地名総覧と被差別部落 3.山口県地名総覧と被差別部落

2.山口県地名総覧と被差別部落
 3.山口県地名総覧と被差別部落

数年前、ある施設が閉鎖されたとき、その施設長から、「部落学」研究に役立つなら・・・といって譲渡された資料に、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)があります。

それは、昭和56年版で、出版当時の価格は2万5千円です。個人の蔵書として購入するには、かなり高価です。地方行政の統廃合が進められた現在、この資料は現在的価値はほとんどないにひとしいと思われますが、昭和56年といいますと、筆者が、日本基督教団の宗教教師になった年です。この資料が現在的価値をもたなくなったのと同じく、筆者も現在的価値が著しく減少しているのかもしれません。

この『日本分県地図・地名総覧』の中に、今回の主題の中で取り上げる「山口県地名総覧」が収録されています。

周防国・長門国にあたる14市11郡の市町村の「地名」が掲載されています。

その「地名」は、次のように掲載されています。例として、『部落学序説』・『ある同和対策事業批判』の中に登場してくる、近世幕藩体制下の「徳山藩北穢多村」の系譜をひく被差別部落を含む旧新南陽市富田をとりあげてみましょう。

【富田】
仙島・竹島・西ノ島・黒髪島(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)

『日本分県地図・地名総覧』は、「地名」は、「大字・小字」と「通称」に別けて掲載されています。

上記の例の場合、【富田】は「大字」で、()内の地名は、大字の中の「地名」の「通称」ということになります。「通称」は、上記の例のように、大字内のすべてが列挙されている場合と次の例(旧徳山市の東に位置する被差別部落のある大字)にみられるように、「通称」をすべて省略している場合があります。

【久米】

また、被差別部落出身の詩人・丸岡忠男のふるさとのある光市浅江の場合、中間形態として、次のように記載されています。

【浅江】
土井・荒神・協和・木園・他18

丸岡忠男のふるさとは、「他18」の中に含まれています。「山口県地名総覧」は、有名な被差別部落については、「他××」の中に入れ、被差別部落の「地名」に触れないようにする傾向があります。下松市の被差別部落のある大字についても同じです。

【末武中】
A・B・C・他15

末武中の場合は、列挙された3地名の中にも、「他15」の中にも被差別部落が含まれています。

「山口県地名総覧」と被差別部落の地名を比較してみますと、「山口地名総覧」においては、被差別部落の「地名」は、掲載されたりされなかったり・・・、しているのが確認できます。山口県内有数の大きな被差別部落の「地名」は、隠蔽される傾向が強いのに対して、あまり有名でない小さな被差別部落は、その名前が「通称」の中にどうどうと列挙されている可能性があります。

新南陽市【富田】の「通称」には、新南陽市の被差別部落3箇所の「地名」がそのまま掲載されています。「山口地名総監」は、新南陽市の被差別部落の「地名」については、公然とさらしているということになります。

出版元の人文社は、「資料の許すかぎりの多くを採用した・・・」と説明していますが、「資料の許すかぎり・・・」というのは、「通称」名を公表しても、あとで問題が発生するおそれがない場合・・・、という意味を含んでいるようです。「地名」の採用に際して、「資料」に根拠を置くかぎり、「資料」の中に頻繁に出てくる、【久米】・【浅江】・【末武中】の被差別部落の「通称」も列挙せざるを得なくなるからです。山口県内では有名な被差別部落も、『日本分県地図・地名総覧』においては、その「地名」が伏せられるということになります。

部落解放同盟新南陽支部は、筆者の『部落学序説』執筆に際して採用している、被差別部落の「地名」を実名表記しないで、東西南北の地理的位置関係で表現するという方法に対して、被差別部落の「地名」の実名表記をしないことで、被差別部落の「地名」をタブー視する結果に陥っており、それはとりもなおさず、『部落学序説』の筆者の差別性のあらわれであると批判されてきました。

それから、1年、部落解放同盟新南陽支部は、ブログ『ジゲ戦記』で、その主張を再び展開されはじめました。ブログ『ジゲ戦記』が今後どのように展開されていくのか、予測することはできませんが、これまで公開されてきた文書の中から、部落解放同盟新南陽支部が、被差別部落の地名をどのように取り扱っているのか検証してみることにしましょう。

『ジゲ戦記』のほとんどの文章において、部落解放同盟新南陽支部の方々は、自分の在所を「被差別部落」とよび、「山口地名総覧」に出てくる「通称」でよぶことはないようです・・・。

筆者が最初に受け取った部落解放同盟新南陽支部からの「抗議文」には、筆者の文章「被差別部落と姓」について、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調で批判が羅列されてありました(1年後に公開された「抗議文」はかなり表現がやわらかくなっていますが・・・)。

部落解放同盟新南陽支部は、被差別部落のひとびとが、その在所を実名で語ることは「カミングアウト」(部落民宣言)に不可欠な要素であると考えられているようです。「部落民」であることを宣言することは、その在所の「被差別部落名」も明らかにすることを必然的に含むという主張はその通りであると思います。しかし、「カミングアウト」したあと、「カミングアウト」したひとは、その在所の「地名」とどのような関わりをもって生きていくことになるのでしょうか・・・。

『ジゲ戦記』をみるかぎりでは、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、その在所を、「実名」で呼ぶことはなさそうです(今後、地名・人名を実名表記される可能性もないわけではありあませんが・・・)。

『ジゲ戦記』に次の文章があります。

「うちの部落は古くは窪地(久保地)と呼ばれ、徳山藩の穢多頭がいたらしい。江戸時代、富田村の穢多村はうちの窪地と王子という2ヶ所であった。」

近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4つの「穢多村」の在所のうち、『部落学序説』の筆者が、「徳山藩北穢多村」とよんでいる「窪地」と、「徳山藩南穢多村」とよんでいる「王子」の2つの「穢多村」がとりあげられています。

しかし、「山口県地名総覧」の【富田】の「通称」(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)のなかには、この「窪地」・「王子」という「地名」は直接的には出てきません。近代以降、他の名称で呼ばれるようになって久しいからです。

『ジゲ戦記』では、その被差別部落の「地名」を、「古くは・・・」と語りますが、「新しくは・・・」とは語ることはありません。「窪地」・「王子」を昔の「地名」を公表しても、今現在の被差別部落の「地名」(実名)にたどりつくことはできない・・・、という前提があるのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の方々がいわれる、「部落民」としての「カミングアウト」は、すべてをさらして部落解放運動をする・・・というのはなく、隠すべきところは隠して運動をする・・・ということを前提とします。それは、部落差別の現実が今もなお厳しいから、そうせざるを得ないのであろうと推測されます。「部落民」であることを隠蔽して失うものより、「カミングアウト」することによって失うものの方が多いと考えられるからでしょう。特に、2002年から、すべての同和対策事業が終了したいま、「部落民」として「カミングアウト」することで、直接的な「利権」に関係することが少なくなったいま、いたずらに被差別部落の「地名」・「人名」をさらすのは「差別」だけを招き寄せることになる・・・という警戒感も働いているのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の『部落学序説』の「地名」の取り扱いかた(実名記載しないで相対座標で表記すること)に対する批判は、近世幕藩体制下の「穢多村」の在所である「窪地」を「徳山藩北穢多村」、「王子」を「徳山藩南穢多村」と呼ぶことへの批判に還元されてしまうのでしょうか・・・。

「徳山藩東穢多村」と「徳山藩西穢多村」については、「新南陽市」以外の行政に属するので、部落解放同盟新南陽支部の方々は、ほとんど関心をお持ちになっていないようです。「窪地」・「王子」と同じように、両旧「穢多村」を古い「地名」で呼ぶことはないのでしょうか。いずれも、「山口県地名総覧」の「通称」の中に記載されてはいないので、「窪地」・「王子」同様、古い「地名」を表記することも可能であると思われるのですが・・・。

つまり、被差別部落の「地名」をタブー視しているのは、『部落学序説』の筆者ではなくて、部落解放同盟新南陽支部の方々のほうです。

筆者は、20数年、部落解放同盟新南陽支部の方々になんらかの形で関わり続けてきた結果、そのことばとふるまいから、そして、全国の部落解放運動の取り組みと差別事件、糾弾の内容を検証した結果、被差別部落の「地名」を、実名記載しないで、相対座標で表記することにしたのです。

部落解放同盟新南陽支部の筆者に対する、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調の批判は、何のための批判だったのでしょう・・・。

『部落学序説』が、第3章で終わらず、第4章で、「解放令」に触れることで、「窪地」・「王子」という、近世幕藩体制下の古い「地名」が、近代中央集権国家の新しい「地名」に置き換えられることを心配しての、先取りの抗議だったのでしょうか・・・。

「被差別部落と姓」で論じたことは、筆者の『部落学序説』のすべての文章に通底しています。

筆者は、被差別部落のすべての「地名」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から解放し、被差別部落の歴史が、正当に解釈される時代の到来を願ってこの『部落学序説』を執筆しています。その戦いを共有することなく、『部落学序説』の追求する結果だけを先取りしようとする、部落解放同盟新南陽支部の主張は本末転倒といわざるを得ないでしょう。

『部落学序説』の筆者は、被差別部落の「地名」をタブー視することはありません。「窪地」・「王子」の持っている意味を、野本民俗学風に表現することも可能です。それどころか、現在の被差別部落の「地名」も同じ手法でその意味をときあかすこともできます。まかり間違っても、「窪地」を、日のあたらない、洪水にさらされる地理的に悪しき環境・・・、被差別のしるし・・・、などという解釈に陥ることはありません。

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2006年10月30日 (月)

2.山口県地名総覧と被差別部落 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

2.山口県地名総覧と被差別部落
 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

先週の金曜日午後、妻とふたりで、県北をドライブしました。

山口県はまだ紅葉シーズンではありませんので、紅葉見物・・・というわけにはいきませんが、目的の被差別部落のある地域に通じる道のいたるところにある道の駅に立ち寄りながらの、気楽なドライブです。

目的地にたどりつくことができるもよし、できぬもよし・・・、そんな軽い気持ちではじめたので、ほとんど交通量のない田舎の道を制限速度を守りながらのドライブでした。

その道の駅のひとつで、「くんたん」を売っている店がありました。園芸用の土つくりの本の中によく出てくる「くんたん」ですが、私は、いままで現物をみたことがありません。近くのいくつかの園芸店でも販売していなかったように思いますが、その「くんたん」を道の駅の売店で見たときは、とてもうれしくなりました。

道の駅の売店にいるおばあさんに、「くんたんって、なんですか」と尋ねました。おばあさんの話では、「くんたん」はもみがらを炭にしたものだそうです。「なんのために使うのですか」という、私の問いに、「くんたんは、黒色をしているでしょう。土に混ぜると、土の温度があがって、苗作りにいいんです・・・」と答えてくれました。

「くんたん」についての、あらたな発見です。

もみがらを直接土の中に混ぜると病原菌を発生しやすくなるので、「くんたん」という炭にしてから土に戻すそうです。「くんたん」は、土を改良するための微生物を育てる環境を作ってくれるとか・・・、昔、土つくりに関する本を読んでいたとき目にしたように思います。

今年、菊の冬至芽をとって、来年のための苗作りをするので、そのための土の改良材として、1袋200円の「くんたん」を3袋購入しました。とうがらし(たかのつめ)が1袋100円で売っていましたので、こちらも、自然農薬「元気丸」を作るときの材料として2袋購入しました。それから、昼食用に、草餅を一袋・・・。

静かに秋がしのびよる、山口県の街道を、のんびりとくるまを走らせ、視野に入る都度、道の駅に立ち寄りました。紅葉狩りはできませんでしたが、山口県の農村の収穫の秋を楽しむことができたドライブでした。

目的地の被差別部落にたどりつけてもたどりつけなくても、満足・・・、そんな感じのする、「萩市の被差別部落探訪」・「長門国穢多村探訪」の小さな旅でした。

最初、尋ねた被差別部落は、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)の「山口県地名総覧」に、その名前が「通称名」として掲載されている被差別部落です。もうひとつは、古文書でその存在を確認してはいるのですが現在どのような地名(通称名)で呼ばれているのか不明な被差別部落・・・です。

その被差別部落のある地域に入ってから、徳山市立図書館郷土史料室で閲覧できる『周防国図』・『長門国図』の「街道」と、現在の道路地図の「道路」を比較しながら、『長門国図』から推定できる「旧穢多村」の在所が、現在の道路地図のどこに該当するのか・・・、大体の検討をつけて、くるまを走らせます。

最初の被差別部落の場所はすぐにわかりました。

くるまをゆっくり走らせていると、向うから、おばあさんが歩いてこられたので、くるまをおりて、おばあさんに尋ねました。

「ちょっと、お尋ねします。○○むらに行きたいのですが、どう行ったらよろしいでしょうか・・・」。

そのおばあさん、農作業スタイルですから、地元のひとなのでしょう。当然○○むらが、被差別部落であることは熟知していると思われます。

しかし、そのおばあさん、いささかのためらいを見せることなく、このように説明してくれました。

「この道を下っていくと、そら、あそこに、左に行く道があるでしょう。その先が○○です」。

そのおばあさん、なにもなかったかのごとく、ふりかえることなく、去っていかれました。

被差別部落の中をくるまで通って、もとの「道路」まで戻りました。

山口県の小さな教会で棲息するようになって、もう20数年が経過しますが、赴任と同時に、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員にされたのをきっかけに、山口県内の被差別部落を尋ね歩くようになりました。

徳山市立図書館郷土史料室で『周防国図』・『長門国図』を複写してもらった以降は、その古地図(街道図)を手掛かりに、山口県内の被差別部落をドライブするようになりました。春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、ときには、雪の日や嵐の日にも尋ねたことがあります。昼だけでなく、夕暮れ時の被差別部落を尋ねたことがあります。

周防国中茶筅寺の参道の石段に座って見た秋の夕日はとてもきれいでした。今も、私のこころに残っている被差別部落の風景です。

被差別部落の中に聞こえてくる、浄土真宗のお寺の鐘の音・・・。歴史の悠久の彼方から聞こえてくるような錯覚にとらえれたことがあります。

初雪が降った、山間の被差別部落の家々・・・。柿の実があかあかと残っていました・・・。

あじさいの花がきれいに咲いている雨の日、被差別部落に通じる橋のたもとに立って見た、被差別部落の家々のある風景・・・真っ青なあじさいのはながとてもきれいにみえました。そのときの被差別部落の風景は、あじさいの花と同じような姿に映りました。

海辺の被差別部落・・・。その岸壁に座って、沖を行く船をみつめていたこともあります。波の音がこころの中にやさしく響いてきました。

被差別部落のおじいさん、おばあさんにあっても、黙ってあいさつするだけ・・・。おじいさん、おばあさんも、黙ってあいさつを返されるだけ・・・。何事もなかったかのように、時間が経過していくような、そんな被差別部落探訪です。

ときどき、「何してんの?」と声をかけられるときもありますが、「被差別部落の歴史を調べているんです。このむら、古い歴史の史料に登場してくるんですね。それで、どういう場所か、一度来てみたかったんです・・・。」とほんとうのことを答えます。多くの場合は、「昔のことを知っているひとはめっきり少なくなって・・・」と残念そうに去って行かれます。

山口の地に身を置くようになって、20数年、そのような「環境」の中で、部落差別とはなにか・・・を考えてきたのです。被差別部落のひとびとの顔と姿のみえるところで、部落差別とはなにか・・・を考えることに徹してきたのです。

「○○むらはどこですか・・・」。
「○○むらはあそこです」。「○○むらにそこです」。「○○むらはここです」。

短い会話を成立させるために、徳山市立図書館郷土史料室で、古文書・古地図・研究論文などをできるかぎり時間をかけて調べてきました。

2つめの被差別部落は、長州藩の古文書の上で「穢多村」の存在が確認されてはいても、その場所が現在どのように呼ばれているかわからない被差別部落です。

大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」(たとえば、被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄のふるさとを尋ねるとき)とたずねた場合、適切な答えを得ることはほとんどできないでしょう。大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねる側の姿勢の如何が問われる可能性があります。大字名ではなく、その地域で一般的に使用されている地名(差別の側も被差別の側も使用している地名)を用いてたずねる必要があります。それがわからないなら、大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねるべきではありません。

今回、2つめの被差別部落の在所の確認は、「禁じ手」に抵触することになります。

その近くまでいって、やはり、道を歩いてきたひとにたずねました。今度は30代後半の青年です。

「萩城下に通じる旧街道を尋ねているのですが、最近、旧街道が分断されてしまっているので見失ってしまったのですが、どこへ行けば旧街道に戻れますか・・・」。

すると、その青年、「旧街道を通って、どこへ行かれるつもりですか?」と問い返してきます。

「通るだけです・・・」。

「そうですか・・・。詳しく説明することはできませんが、次の三叉路を右に、狭い道の方に入ってください。そこが旧街道です。でも、気をつけて行ってくださいね・・・」。

最初の被差別部落の在所を尋ねたときのおばあさんとの会話とくらべると、少しくことば数が増えています。しかも、「○○はどこですか。」、「○○は・・・です。」と、被差別部落の地名(通称名)を直接とりあげてはいませんが、実質上、被差別部落の在所を聞き出す会話が成立しているのです。

最初のおばあさんの場合、最初から、被差別部落の地名をめぐる「禁忌」は発生していません。

なぜなら、そのおばあさんが知っている被差別部落の地名とまったく同じ地名を用いて、そこへ行く道をたずねたからです。地元のおばあさんと、「旅」の途上の私との間には、被差別部落の地名をめぐって、避けなければならない「禁忌」はすでにないからです。すでに、その地の被差別部落の地名(通称名)をしっているひとに対して、その地名に触れてはならない、口にしてはならない・・・という「禁忌」は無意味になってしまっているからです。

しかし、二人めの青年の場合は、事情が違います。その青年と私との間には、最初から被差別部落の地名に関する「禁忌」が立ちはだかっています。たずねる方も、たずねられる方も、「被差別部落の地名・人名には触れてはならない・・・」という「禁忌」が働いています。

もし、私が、その地の被差別部落を探訪しようとしている、しかも、その名前も在所も知らない・・・、ということが、その青年に伝わると、おそらく、その青年は、私に、上記のようなことばを返すことはなかったと思われます。

旧街道沿いにあるのは被差別部落・・・。そのことがわかっているのに、「旅」の途上にある私は、そのことが明言しない・・・。あくまで、そのかたわらを通り過ぎるだけ・・・、という。その青年は、被差別部落の地名に関する「禁忌」に抵触しないように、そこに通じる道を教えてくれ、そして、その道を進むことは「禁忌」状態にあることを、「でも、気をつけて行ってくださいね・・・。」ということばで表現してくださったのであろうと思われます。

私は、その青年に教えられたとおり、くるまを走らせ、旧街道にはいり、あるめじるし(旧街道沿いの旧穢多村の在所を示すしるし)を確認したうえで、被差別部落の中を通って、もとの道に戻ってきました。実は、同じ道を2回はしりました。

そのむらのいたるところで、歴史の重みを実感させられたからです。

山口県にも戦後、部落解放運動が起こりました。部落解放同盟の支部も、県内10数カ所につくられました。しかし、その大半は、都市型に被差別部落です。都市化とともに、一般地区住民との混住化が促進され、同和行政によって、「同和地区」と指定されています。その「同和地区」住民は、一般地区住民と被差別部落住民の両方を含んでいます。戦後、都市化の進み具合の違いで、被差別部落の遅れが目立つようになり、経済的格差是正のため「同和対策」事業がなされたのです。

山口県の「同和地区」の場合、その地区に、同和会・部落解放同盟・全解連などの複数の運動団体がしのぎをけずっていました。それぞれの運動団体は、個別に対行政交渉を展開していました。ときには、その利権獲得をめぐって、運動団体相互に批難の応酬を展開するということも決してまれではありませんでした。都市型の「同和地区」の運動団体を支えていたのは、どの運動団体も、「自分たちこそ、ほんとうの部落解放運動の担い手である」という自負の思いではなかったかと思います。

それらの「同和地区」の運動団体に、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が関与していきました。運動団体の指導者の語ることばを、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等は、無批判的に追従し、受容していったのです。「部落解放同盟のひとが何をかを語る・・・」、それに呼応して、「多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が何をかを語る・・・」場面も少なくなかったのです。

しかし、『部落学序説』の筆者である私の視野にある被差別部落は、そのような都市型の被差別部落や部落解放運動だけではないのです。

部落解放同盟の支部のない、その活動家すら一歩も足を踏み入れたことがない、部落解放同盟の支部数の10倍近い、山口県の被差別部落・・・、部落解放運動が展開されていようといまいと、近世幕藩体制下の長州藩とその支藩にあって、「穢多村」としてその歴史を担い、今も、その歴史を担い続けている・・・、いつの日か、部落差別という冬の時代が去り、その「穢多村」の歴史が顧みられ、正しく評価される時代がくることを願って、その伝承を語り続けている・・・、そういう被差別部落をも視野に入れたものです。

都市型の被差別部落の場合、ある意味、身を隠すことも決してむずかしくありません。「同和対策事業の食い逃げ」(同和事業・同和教育の恩恵にあずかるときだけ部落・部落民をなのりそれがすむとそれを隠す所作をすること)だって、大手を振って行われてきました。

しかし、農村型・山村型の被差別部落の場合、都市型の被差別部落のような恣意的な生きかたはほとんど不可能です。その地域にあっては、被差別部落の在所も住人も周辺の人々によって知られているという暗黙の前提がありますから、文字通り、その身をさらさずして同和対策・同和教育事業を享受することはほとんど不可能になります。

農村型・山村型の被差別部落の場合、中には、一切の事業に関与することなく、その歴史の重みにじっと堪えている場合もあります。

被差別部落の地名に関する「禁忌」は、通常、そのひとの思想・信条、生きかたやものの見方・考え方を問いません。「禁忌」があるところに「禁忌」があります。

『部落学序説』で、筆者が立証しようとしていることは、被差別部落にまつわる「禁忌」をありのまま受け入れ、それを批判・検証し、その「禁忌」を突破することによって、「禁忌」を含む部落差別を根底から解体していくことです。

次回、章をかえて、この部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)について論じていきたいと思います。

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2006年11月 1日 (水)

3.タブーと被差別部落 1.「タブー」の語源・・・

3.タブーと被差別部落
 1.「タブー」の語源・・・

『部落学序説』とその関連ブログ群においては、「禁忌」ということばをよく使用しています。

筆者がこの「禁忌」を使用する場合は、おもに、部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事しておられる学者・研究者・教育者の、その研究の前提となっている枠組み、研究上の意識的・無意識的な制限を指して批判的に用いているのですが、「タブー」を使用する場合、そのほとんどは他者のことばを引用する場合です。

『岩波国語辞典』には次のような説明があります。

【禁忌】忌んで禁じること。①月日・方位・食物などについて、習俗として、きらって避けること。②→タブー。③ある病気に対して用いることを禁じなければならない薬品・薬品、または温泉の質。

【タブー】ふれたり口に出したりしてはならないとされているもの。禁忌。未開人の社会に見られるような、おかすことが禁じられている、神聖または不浄な事物・場所・行為・人・言葉の類。▷taboo(禁じられたの意のポリネシア語から出た英語。

両者を比較すると、共通点もあれば相違点もあります。

筆者が、この『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆する際に使用している資料・文献は、最初は、『部落学序説』執筆完了後に公開する・・・としていたのですが、読者の方(部落解放同盟新南陽支部)から早急に公開すべきである・・・との要望が寄せられ、1年前に、「参考文献」として公開しました。読者の方は、筆者が『部落学序説』で引用する文献はすべて入手される・・・ということでしたが、「参考文献」として一括して公表したあと、読者の方は、それらを入手され、読破されたのでしょうか・・・。

その「参考文献」の中から、「禁忌」・「タブー」に関することばを拾い集めると、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者が、どのような論述を展開していくことになるのか・・・、容易に判断されるのではないかと思います。

しかし、手元に同じ資料があったとしても、その資料から、同じような解釈が発生するとは限りません。

「参考文献」にあげている、『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫は、その書を執筆したときの思潮的状況(筆者の青年時代の思潮的状況)をこのように記しています。

「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような、のるかそるかの厳しい岐路にたっているのだという点ばかりが、あまりにも強調されすぎるようなである。もちろん、現代の倫理的状況がそのようなものだということに、べつだん全面的に反対しようというのではない。このような「二者択一」のけわしい断崖に追いつめられた状況こそは、まぎれもない現実の事実というものであろう。だが、これは現代のいわば第一義の道なのである。第一義の道、それはけっしてウソとはいわぬ。しかし、第一義の道だけでどこまでも通そうというのは、これはどうにも息の詰まる話だ。現代はたしかにきびしい時代である。だが、このようにきびしい世にも、多くのひとは多くのばあい、昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆくのだ。そしてこれもまた、まぎれもない同じ現代の事実というものである。このようなまことに平凡きわまる、だが一面からいえば、それゆえにかえって、涙ぐましいまでに厳粛ともいえる人間の生活・・・そのようなものの面白さにもっと目を向けてもいいのではないか。「習俗」の面白さは、まさしくそういう面白さだとわれわれは思うのである」。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、佐藤俊夫のいう「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」先鋭化された世界に身を置いてこなかったし、ときとして、筆者のおかれた状況を無視して問いかけられる「右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」問いを前にして違和感を覚えることのみ多かったように思われます。筆者は、佐藤俊夫がいう「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりとして生きてきたに過ぎないのです。

20数年前、山口県の小さな教会に赴任してきて、教区の部落差別問題特別委員会委員を押しつけられていく中で、教団・教区・分区の内外において、「差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・」という問いを突きつけられるようになりましたが、正直いって、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりでしかない筆者にとっては、最初から最後まで、違和感に満ちた問いかけでしかありませんでした。

佐藤俊夫は、続けてこのように記しています。

「たとえばまた、人と人との交際にあって、一番大切なものは何かというようにきかれれば、「自他の人格の尊敬」とか「相互の人権の尊重」とか答えるのが模範解答というものであろう。しかし、じっさいのわれわれの日常交際にあって、あいつは虫が好かぬとか、気分のいい男だとか、われわれの交際を現実に左右しているのは、はたして「人格」の「人権」のというようなしかめつらしい理由であろうか。どうもそうではないので、あいつはしゃべるときに唾をとばすのが困るとか、あの貧乏ゆすりは何とかならぬものだろうかとか、鼻のわきのイボをみているとどうにもウズウズしてくるとか・・・およそ「人格」とも「人権」とも関わりのないことがらが、じつはわれわれの交際のかなりの部分を左右しているのである」。

そのあとに続く佐藤俊夫のことばを拝借すれば、「部落解放運動は「何をいうか」の思想さえしっかりしていれば、「如何にいうか」の表現などはどうでもいい・・・」というのは、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に生きるひとびとの「暴言」に対して、『部落学序説』の筆者は、「如何にいうか」に力点をおいて、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」名もなき民衆のひとりとして、おなじく、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」被差別部落の古老に共感してその執筆を続けているのです。

部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、筆者が、「無学歴・無資格」を標榜することを理解できないでいます。

彼らにとって、「無学歴・無資格」は、部落差別のしるし・マイナス価値以外の何ものでもないからです。「無学歴・無資格」は差別の重要なメルクマールとして、同和対策事業・同和教育事業によって克服されなければならないマイナス価値として認識され、同和対策事業・同和教育事業の重要な課題として認識されてきました。

やれ高校進学率が何パーセントだの、大学進学率が何パーセントだの、その数字をあげることのみ汲々としてきた現実があります。

そのような雰囲気の中で、みずからの無学歴・無資格を臆面もなく語り続ける筆者は、彼らにとっては、Inferiority Complex の持ち主としてしか、その目にはいらなかったのでしょう。「無学歴・無資格」にこだわる筆者は、彼らの目からみると、筆者の人格の瑕疵・欠点・汚点・・・としてしか見えないのではないかと思います。

同和対策事業・同和教育事業によって、高学歴の被差別部落のひとと、無学歴の一般のひととの人間関係は、日本全国津々浦々に生じた可能性は多分にあります。

筆者が所属している日本基督教団の部落解放運動の第一人者である東岡山治牧師と、『部落学序説』の筆者との関係は、そのような関係にあります。被差別部落出身である、同志社大学大学院を卒業、高学歴を背景に運動をされている東岡山治牧師と、被差別部落とはなにの関係もない無学歴・無資格の筆者との間には、暗くて深い絶望的なまでの「学歴差別」が横たわっています。

おなじ「学歴差別」は、部落解放同盟新南陽支部と筆者の間にも存在しています。

しかし、筆者のいう「無学歴・無資格」は、そんなにめずらしいものではありません。

筆者が中学校を卒業したのは、1963(昭和38)年です。団塊の世代のもっとも生徒数の多い年です。

文部省の統計調査では、その年、卒業した生徒数は、2491231名です。その年の高校進学者数は、1691740名です。その差799491名は中学校卒ということになります。その3年後、短期大学に進学したもの108052名、大学に進学したもの292958名、あわせて401010名ということになります。この数字をひとつの式であらわすと次のようになります。

中学卒業生徒数2491231-大学・短大卒業生数401010=無学歴・無資格2090221

現代社会では、一般的に「学歴」といわれるものは短大卒以上のことですから、筆者の年代は、「学歴」を身につけたのは40万人のみであって、ほかの200万人は「無学歴」を生きている・・・といっても過言ではありません。筆者のいう「無学歴」は、その背後に、同じ年代の200万人の「無学歴」を前提にしているのです。

「何ぞというとすぐ、右か左か、個人か社会か、実存主義か社会主義か・・・というような」、また、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に生きるひとびと・「学歴」あるひとびとと違って、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」団塊の世代200万のひとりとして、「無学歴・無資格」を標榜しているに過ぎません。

部落解放同盟新南陽支部のひとは、そんな筆者を「悲劇の主人公を演じる。」と評していますが、「無学歴・無資格」を「悲劇」・・・としてとらえるのは、部落解放運動の間違った認識にもとづくものです。「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆のひとりに過ぎない筆者の目からみると、部落解放運動が人間解放運動に連座するためには、「学歴」を取得したりさせたりすることで「学歴」社会を承認・追従していくことではなくて、「脱学歴」社会をつくるべく闘争すべきであったと考えられます。

「部落解放運動」は、Inferiority Complex (劣等感)にとらわれた被差別部落の知識階級の、「何ぞというと、差別か被差別か、差別か反差別か、解放運動か融和運動か・・・というような」、第一義の道に依拠せず、「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆の中に、所与の人生を引き受けていきる「プライド」と「自尊感情」を、逆に、育てていくべきではなかったのではないでしょうか・・・。

被差別部落の「昔ながらに相も変わらぬ、たわいもない喜びと悲しみのうちに、生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく・・・」民衆を、部落解放運動の旗手・担い手としての自負の精神から、「高き」から「低き」を見下すように「いびつ」なかたちでしか表現できない部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』・・・。同和対策事業終焉とともに、部落解放同盟から離脱、それだけでなく、部落解放運動からも離脱して、『ジゲ戦記』などという「ごたく」を並べる姿をみていると、「ブルータス、おまえもか!」と叫びたくなります。

私の知っている、「闘う部落解放同盟新南陽支部」は、そんな腑抜けではなかった・・・。

部落解放同盟の組織から離れ、自分ひとり、同和行政をめぐる不正に関与しなかった「正義のひと」として無罪潔白を証明するかのような、「大阪、京都、奈良と立て続けに部落解放同盟の聞くにたえない事件が報道されている。かつて、その組織に所属していたものとして思うことは、これは3県だけの問題ではなく、全国的に表出してくる問題だということと、部落解放同盟が持ついびつな力の源は歴史にあり、それに自分も加担したのだという慙愧である・・・。」という文章はいただけない。「悲劇の主人公」をきどって、「それに自分も加担したのだという慙愧である・・・。」とその心情を吐露するのは演技のしすぎではないでしょうか・・・。

「清濁あわせてのみほし、それを清に変えていこうとするのでなければ、「部落解放運動」なんて成功するはずはない」。そう言明してやまなかったのは、部落解放同盟新南陽支部そのものだったのですから・・・。

部落解放同盟新南陽支部のみなさん、今からでも遅くはない。山口県連という組織に復帰し、その組織が抱えているすべての問題を引き受け、その運動が、真の部落解放運動の名に値するように、その組織と運動を純化すべきです。被差別部落民として、部落解放運動家として、あなたたちが捨ててかえりみない、部落民としての「プライド」と「自尊感情」を後生大事に、大切に。生きてみられたらどうでしょう。

私の知っている部落解放同盟新南陽支部は、そういう存在であったはず・・・。

またまた、大きく脱線してしまったようです。そう、そう、この文章・・・、「タブー」の語源について執筆するはずでした。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』のよると、ポリネシア語の「タブー」は、字義的には、「特に bu 徴をつけた ta 」という意味だそうです。「ブをつけたタ」・・・、次回、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』をてがかりに、禅問答のような定義を検証してみたいと思います。

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3.タブーと被差別部落 2.続・「タブー」の語源・・・

3.タブーと被差別部落
 2.続・「タブー」の語源・・・

「タブー」とは何か・・・。

『広辞苑』をみても、『平凡社世界大百科事典』をみても、「タブー」ということばの持っている多義性のみ目について、「タブー」ということばの本質を把握するにいたりません。

筆者のもっている文化人類学関連の書籍をひもとくと、「タブー」のことばの多義性はさらに拡散され、無学歴・無資格の筆者のあたまでは把握することがますます困難になってきます。

こういう場合、筆者がいままで慣れしたしんできた論文・書籍に依存せざるを得ません。

「タブー」を理解するうえで筆者に一番影響を与えたのは、前回紹介した、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)です。

今回は、論述の大半を、その紹介に割くことになります。

佐藤によると、「タブー」ということばは、「ポリネシアの「土語」にすぎなかった」ことばです。

1777年イギリス人によって、トンガ島で、この「タブー」ということばが採集されます。それ以来、「太平洋諸島で・・・局地的な単語にすぎなかった」この「タブー」ということばは、「以来いまだ二世紀にみたないのに、・・・世界の共通語」になっています。

佐藤によると、tabu ということばは、 tapu ・ kapu ・ tampu などの類義語をもっており、「ポリネシア全体としては tabu よりむしろ tapu ないし kapu の方がふつう」に用いられているといいます。しかし、「タブー」( tabu )は、「今や世界の共通語」になっており、「専門の学術用語」としてだけでなく、「ごくありふれた日常用語になっている」そうです。

『部落学序説』の筆者である私は、「タブー」( tabu )ということばより、「禁忌」ということばの方を愛用してきました。特別理由があってのことではないのですが、キリスト教を表現するのに、「キリスト教」ではなく「基督教」を愛用するのと同じ嗜好です。「日本の禁忌はただちにタブーと類比すべきではないとする日本民俗学の議論」もあるようです。

ともかく、「タブー」( tabu )ということばは、「その本来の局地性をほとんど脱却」して、「学術用語としてばかりではなく日常用語にあってすら、ほとんどそれと意識せずに、普遍的・一般的な意味で「タブー」という言葉を用いているのである」といわれます。佐藤は、「「タブー」という言葉がこれだけ普遍的に用いられるということは、つまりタブーという事象がそれほどに普遍的だからにほかならぬ。」といいます。「タブー」は、「太平洋諸島の、または一般に未開社会なるものの占有物ではなく、おおよそ人類の共有財産といってもよい。」といわれます。

「タブー」( tabu )ということばは、「世界の共通語」として受容されるだけでなく、それぞれの国・民族のことばと比較され翻訳されてきました。北米インディアンの「トーテム」、メラネシアの「マナ」、ギリシャ語の「 hagos 」、ラテン語の「 sacer 」、ドイツ語の「 Scheu 」・・・、「タブー」( tabu )ということばを媒介に、その類似と相違が明らかにされてきたのです。

佐藤は、「「タブー」は現在ふつうに用いるときの一般化した意味では「禁忌」というのとまったく同じである。」といいます。

佐藤によると、「タブー」( tabu )ということばは、「字義どおりには「特に bu 徴をつけた ta 」、つまり「特徴」というほどの言葉で、凡常ならざるものについて形容詞として最初は用いたものらしい・・・」といいます。「その程度のことなら、・・・西欧各語、さらにまた世界のあらゆる民族は、「タブー」と同等の資格をもったそれぞれの言葉をもっている」といいます。「だが、それらは言葉としてまったく同一の意味とはいえず、さらにその言葉によって表現される事象については、それぞれの社会的ないし歴史的背景によってかなりに相違することは当然である。」といいます。

佐藤は、「タブー」( tabu )に該当する日本語として、「ヒ」「イミ」ということばをあげています。さらに、「フジョウ・ブク・ケガレ・オソレ」ということばもそれに含まれるといいます。「ヒ」は「火」に由来し「非日常的なもの」をさし、「イミ」とは、「イヅ(厳)」・「イツク(斎)」・「イワウ(祝)」・「イム(忌)」から派生・転化してきたもので、「それに対する態度」をさしているといいます。

この「ヒ」と「イミ」ということばは、野本民俗学(『神と自然の景観論』(講談社学術文庫))において、地名の発生にまつわる記述の中にしばしば登場してきます。それは、日本の地名は、「禁忌」ないし「タブー」と深く結びついているということを意味しています。

被差別部落の地名と「禁忌」の問題は、差別的な意味合いだけでなく、一般的な意味合いにおいて存在している・・・ということになります。

「被差別部落の地名とタブー」の問題をより本質的にとりあげるために、世界共通語としての「タブー」( tabu )と日本語としての「禁忌」の異同について、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)に全面的に依拠しながら、その本質を確認していきます。

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2006年11月 2日 (木)

3.タブーと被差別部落 3.「感覚・信念としての禁忌」

3.タブーと被差別部落
 3.「感覚・信念としての禁忌」

『部落学序説』執筆に際して、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に学ぶところが多いのですが、佐藤俊夫の理論を全面的に踏襲しているわけではありません。

『部落学序説』の参考文献としてあげたすべての資料・書籍は、すべて批判・検証の作業を経たのちに、『部落学序説』の執筆に際して、紹介と引用を行っています。佐藤俊夫の『習俗-倫理の基底-』とて例外ではありません。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』は、「習俗の本質」としての「禁忌」について、詳細な分析と総合によって体系的な解明をしている貴重な論文です。『習俗-倫理の基底-』をくりかえし読めば読むほど、学問の奥深さと発想のすばらしさにしばしば驚きと尊敬の思いをもたざるをえないのですが、しかし、反面、それが体系的な解明を指向すればするほど、体系化されずに残された部分・・・がクローズアップされてきます。

たとえば、佐藤俊夫がその論文の執筆過程で採用する、「禁忌は日常・非日常を区別する感覚・信念である」という定義からみて、佐藤俊夫にとって、「日常」・「非日常」という用語は、「禁忌」という概念の定義用語として極めて重要なことばであると思われます。

しかし、『習俗-倫理の基底-』を「日常」・「非日常」ということばの組み合わせにぶれが発生しているのに気付かされます。

「日常」・「非日常」の組み合わせの他に、「日常」・「非常」という組み合わせも存在します。佐藤俊夫は、この「非常」ということばを、「日常をはみだす」ことであると解釈します。つまり、佐藤俊夫にとって、「非常」は「日常」からの逸脱である・・・というのです。

昔、『習俗-倫理の基底-』の佐藤俊夫のことばを追跡していて、佐藤俊夫は、「非日常」と「非常」の違いについて気付いているのではないか・・・、しかし、その差異を確定することができず、「日常と非日常・・・いろいろに呼び分けることができようが要するに、自己の能力の限界の内にあるものとそれをこえて外にあるものとを直感的に識別し、その前者を採択しその後者を忌避する心理である。」と、ことばの「呼び分け」、つまり差異の認識を徹底することなく、「要するに・・・」と途中で中断してしまいます。

日常・非日常、常・非常・・・、このことばの差異を明確にしなければならないのではないか・・・、それに気がついたときが、『部落学序説』で、「日常・非日常」と「常・非常」を明確に区別するようになっていくきっかけでした。

それは、当然といえば当然のことで、人間の行動の規範となるものは、習俗だけでなく、法・道徳・慣習・宗教等も存在するわけです。佐藤俊夫は、「法律・道徳その他の禁止のひとつひとつの基底には、じつにひそかにタブーの禁止が控えているように、われわれには思われてならない。」といい、「タブーの禁止は道徳・法律・宗教・・・と分化した以降もなおそれぞれの基底にひかえている、もっとも基本的な禁止の尺度といわなければならぬ。」といいます。

佐藤俊夫は、「禁忌」は、習俗だけでなく、法・道徳・慣習・宗教などのすべての行動規範に通底して存在していると主張しているのです。人間の行動を形式的に規制するものとし、習俗と法律という軸を考えるとき、習俗は、「日常・非日常」で呼び分け、法律は、「常・非常」で呼び分け得る可能性を示唆しているのです。

佐藤俊夫は、そのあたりの研究を、『習俗-倫理の基底-』の執筆後の課題として残した・・・のかもしれません。もしかしたら、そのこともすでに、佐藤俊夫によって研究され、公表されているのかもしれません。残念ながら、無学歴・無資格の筆者には、佐藤俊夫の論文を探索して読む能力はありません。

佐藤俊夫の禁忌に関する体系的な論述に存在するちいさなほつれ・・・、『部落学序説』の筆者である私にとっては、佐藤俊夫の研究成果と課題を明らかにするきっかけとなり、佐藤俊夫の『習俗-倫理の基底-』を、『部落学序説』執筆のための基本的かつ重要な論文たらしめる契機となったのです。

筆者と佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』の間にある距離を明らかにしたうえで、佐藤俊夫の禁忌論に注目していきたいと思います。

あらためて、「タブー」とは何かを問いましょう。

佐藤俊夫によると、「禁忌」には、2種類の「禁忌」があります。ひとつは、「感覚・信念としての禁忌」で、もうひとつは、「習俗・儀礼としての禁忌」です。「両者はほとんど分離すべくもなく一が他を予想してはいるが、しかしなおかつ両者は区別せられまた区別せられるべき」であるといいます。佐藤俊夫は、「禁忌」の研究上の方法論として、まず、前者の「感覚・信念としての禁忌」をあきらかにし、そのあと後者の「習俗・儀礼としての禁忌」との関連を明らかにしようとします。

その際に登場してくる「禁忌」に関する定義が上述の定義です。

「禁忌は日常・非日常を区別する感覚・信念である」。

佐藤俊夫は、「日常」と「非日常」を、「正常」と「異常」ということばで峻別します。そしてこのように説明します。

「「タブー」とは、まさに正常と異常とを区別し、そして正常をえらび異常をさける、個人の感覚・・・に与えられる名である」。

この命題は、「個人の感覚」「社会の習俗」ということばに置き換えることによって、「感覚・信念としての禁忌」の対極にある「習俗・儀礼としての禁忌」についての命題にもなります。

佐藤俊夫によると、「正常」においては、真善美・偽悪醜という価値が適用されますが、「異常」においては、相対的な真善美も偽悪醜から、絶対的な真善美・偽悪醜(「極端」)が感じられるようになる・・・といいます。「タブー」は、「不安で危険な「極端」は避けて、安心で穏当な「中庸」を守ろうとする」といいます。

そういう意味では、「タブー視」ということばは、「不安で危険な「極端」は避けて、安心で穏当な「中庸」を守ろうとする」精神のいとなみのことなのでしょう。

佐藤俊夫は、「正常・異常」について、わかりやすく、次のように説明しています。

「個人が社会の習俗を守るということは、自分ひとりだけ風変わりなことはしないでなるべくまわりの皆のしているようにしようという気持ちであり、慣れないことをするまい・型やぶりをするまい・仲間はずれになるまい・人なみになろう・・・という気持ちからであるが、これはそうすることがなんとなく安心がいくからであり、逆にそうしないことがなんとなく不安だからである。ここには「正常」( noamal )と「異常」( abnormal )とを区別し、そして正常をよしと是認し、異常をあしとする心理が働いているということができる。まわりの皆がそうしている習俗が正常なので、自分もまたその正常をとるということなのである」。

倫理学の佐藤俊夫が描く、「禁忌」(タブー)を生きる人間の様相は、歴史学の阿部謹也が描く「世間」を生きる人間の様相と極めて酷似しているのに気付かされます。

阿部謹也は、その著『学問と「世間」』で、「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。・・・それは・・・研究主体としての個の未成熟に起因する問題である。・・・個人と社会の間には「世間」があり、それが個人の行動を規制しているのである。・・・学生は必ずしも自分がやりたいと思うテーマを選ぶことができない・・・学生が自らテーマを設定しても教師がそれを認めないこともめずらしくはない。・・・わが国の知識人たちは「世間」の中で生き、「世間」を相手としてものを書き、「世間」と距離をとることができない。それどころか「世間」の存在そのものにすら気がついていない場合が多いのである。」と言っていますが、この「世間」、「禁忌」(タブー)ということばに置き換えれば、「世間」の本質がよりはっきりとみえてくるのではないでしょうか。

「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。・・・それは・・・研究主体としての個の未成熟に起因する問題である。・・・個人と社会の間には「禁忌」(タブー)があり、それが個人の行動を規制しているのである。・・・学生は必ずしも自分がやりたいと思うテーマを選ぶことができない・・・学生が自らテーマを設定しても教師がそれを認めないこともめずらしくはない。・・・わが国の知識人たちは「禁忌」(タブー)の中で生き、「禁忌」(タブー)を相手としてものを書き、「禁忌」(タブー)と距離をとることができない。それどころか「禁忌」(タブー)の存在そのものにすら気がついていない場合が多いのである」。

日本の学者・研究者・教育者は、この「禁忌」(タブー)に四方八方から、上から下から拘束・制限されているのだとしたら、日本の学問も教育も明日はないような気がします・・・。阿部謹也が危惧している「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。」という事態は予想以上に、日本の学問・教育の深刻な末期症状を呈しているのかもしれません。

「フーコーはその「世間」を否定し、ヨーロッパのインテリを自立させようとした。」といいます。フーコーを読みながら、「世間」に埋没し、「禁忌」(タブー)の中を生き続けるフーコーの信奉者は、フーコーの学問のなんたるかを知らないやから・・・なのかもしれません。

佐藤俊夫はこのようにいいます。

「タブーは宗教か呪術かというような問題にだけ焦点があつまって、現代社会とはほとんどまるで無縁のようなもののように考えられがちなのである。もしも本当に現代社会と無縁なのであれば、タブーの問題などはじめから考察に値しない。だが、タブーは現代にとってもけっして無縁ではない、とわれわれは考える」。

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3.タブーと被差別部落 4.「習俗・儀礼としての禁忌」

3.タブーと被差別部落
 4.「習俗・儀礼としての禁忌」

しかし、『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫が採用しているような、「感覚・信念としての禁忌」から「習俗・儀礼としての禁忌」へ論を展開していく方法に妥当性があるのでしょうか・・・。

私は、「禁忌」(タブー)の淵源は、個人の「感覚・信念」ではなく、社会の「習俗・儀礼」にあるような気がします。

なぜなら、「禁忌」(タブー)は、人間の「心理」を規制する装置というよりは、人間の社会的「行為」を規制する装置であると考えられるからです。

この世の中に、ひとりの人間しかいないとすると、そのひとの行為を規制する「禁忌」(タブー)は存在しないといえるでしょう。朝から夜まで、何を考え、どのような行動をとるか、自由です。生きていくために自然を相手に、どんな草が食べられ、どんな草が毒になるのか、経験的に「禁忌」(タブー)が発生していく場合もありますが、その「禁忌」(タブー)は、単純素朴なものです。

しかし、人間がふたり以上になりますと、必然的にひととひととの関係が発生してきます。おのずと、それぞれのひとの「行為」は制限が課せられるようになります。共に生きる・・・、ということは、ひとりで生きていくときと違って、大幅にその「行為」が制約され、なんらかの拘束を受けるようになります。自然を相手にした「禁忌」(タブー)だけでなく、人間を対象にした「禁忌」(タブー)が発生するようになります。

私は、「禁忌」(タブー)は、ひとを対象にした「禁忌」(タブー)において、よりその本質をあきらかにしてくると考えますので、「禁忌」(タブー)は、人間関係、社会、文化、国家などの「権力装置」がつくりだすものであると考えます。

すでに『部落学序説』で言及してきましたように、「けがれ」は、「気枯れ」と「穢れ」の二重定義のことばであると論証してきました。「気枯れ」は習俗的逸脱であり、「穢れ」は法的逸脱であるのですが、習俗的逸脱も法的逸脱も、日本の社会と歴史を考察すれば、その「けがれ」の管理は、ときの権力(天皇制)によって行われているのがわかります。

権力の象徴たる「天皇」によって、「けがれ」とされたものが「けがれ」です。法的逸脱としての「穢れ」は、それを成立せしめた法的制度が崩壊したあとも、民衆のあいだに「穢れ」として残る場合があります。それが、時間と空間を越えて、歴史と社会を越えて継承・伝播されていくとき、「穢れ」は「気枯れ」として習俗的逸脱に再編成されていくことになります。

習俗的逸脱も、その発端は法的逸脱が存在していたと考えることができます。

「禁忌」(タブー)を考察する方法としては、佐藤俊夫が主張する「感覚・信念としての禁忌」から「習俗・儀礼としての禁忌」へ論を展開していく方法より、「習俗・儀礼としての禁忌」から「感覚・信念としての禁忌」へ論を展開していく方法の方に妥当性があるように感じられます。

もちろん、佐藤俊夫はそういいきったあとで、そのあと、それを追いかけ、それを包含するように、このように記しています。

「われわれは個人の感覚と社会の習俗とをならべて、ここではまず個人の感覚が社会の習俗のもとである点に注目しようとするのであるが、しかし一方からいえば、個人のそのような感覚を決定しているのはじつは社会の習俗であるともいわねばならない」。

そして、佐藤俊夫は、「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚と社会の習俗とのからみあい」として認識します。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に関連していえば、部落差別問題にともなうさまざまな「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚と社会の習俗」として存在するといえます。部落差別にともなう「禁忌」(タブー)には、「感覚・信念としての禁忌」「習俗・儀礼としての禁忌」との相互補完的なふたつの側面があるのです。

部落差別の完全解消のために、部落差別にまつわるさまざまな「禁忌」(タブー)を取り除かなければならないとしますと、「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚」「社会の習俗」の両方から取り除かれる必要があるということになります。

その「禁忌」(タブー)は、代々の権力によって、民衆に強制され、ときの流れの中、「社会の習俗」として受け継がれ、その「社会の習俗」の中で「個人の感覚」としての「禁忌」(タブー)が養成されてきたのですから、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)は、権力の意志によって、取り除こうとすれば取り除くことができるものであるといえます。

社会における人間の行為規範のひとつとしての「習俗」は、「国家権力」と関係のないところで繁茂しているのではなく、「権力」の「習俗」に対する殺生与奪権のもとに成立しているのです。極論すると、「権力」は「習俗」を自由に操作することができるし、してきたのです。「権力」はいつも、その「習俗」を政治的に意図的に利用してきたといえるでしょう。

国家権力の及ばない「習俗」を想定することは、底知れぬ幻想の中におのれを沈めることになります。国家権力の目的は、常に、民衆が、国家権力の予期する「禁忌」(タブー)を守り、それを内面化・精神化させて、「日常・日常」、または、「常・非常」を自律的に区別する「感覚・信念」を養成することにあります。

筆者には、すべての「習俗」・「禁忌」(タブー)の背後に、国家の意思が反映し、通底されていると思わされるのです。

部落差別もその一事例に過ぎません。

佐藤俊夫は、フレイザーの研究成果を紹介して、「タブーが最も厳格に守られるべき」存在として、「王・酋長・祭司など」の権力者をとりあげています。中央政府である「王」、地方行政である「酋長」、そしてその権力装置を精神的・文化的に支える宗教家である「祭司」、彼らはみずから「禁忌」(タブー)の担い手として、「禁忌」(タブー)につかえ、その民衆にその「禁忌」(タブー)を流布・伝播・強制していくのです。支配者である権力者はみずから「禁忌」(タブー)をみにおびつつ、被支配者である民衆に「禁忌」(タブー)を強制していくのです。

支配する権力は、支配される民衆との間に、双方向に「禁忌」(タブー)を設定し、権力を民衆から隔絶します。その「禁忌」(タブー)は、『部落学序説』の筆者が指摘する、近世幕藩体制下の軍事・警察に関与する「非常民」(武士・同心・目明し・穢多・非人・村方役人)と、その支配下にある「常民」(百姓)との間に設定された「禁忌」(タブー)に酷似します。

佐藤俊夫は、「習俗は「正常」をよしとし「異常」をあしとするのであるが、これは一方では中庸と正道とを守って極度と変態とを避ける穏健でもあるが、また一方では凡庸と卑俗とに安んじて非凡と卓越とを顧みない因循でもある。」といいます。

「習俗では「特徴」あるものの一切が-独自性とよぶべきよい意味の特徴も、変態性とよぶべき悪い意味の特徴も、一しょくたにして忌避され敬遠されることが多い。変態性を拒否するまではよいのであるが、そのついでに独自性までも排斥されるのであっては、習俗はもはや悪習とよぶほかはない」。

この佐藤俊夫のことばこそ、「禁忌」(タブー)の本質と、その限界を物語っているのではないかと思わされます。

近世幕藩体制下において、百姓が、百姓一揆のかたちをとって、藩権力の不正と圧政を指摘、そのことが藩権力の認めるところとなったとしても、その法的闘争は、当時の慣習(しきたりとならわし)によって、「中道と正道」を逸脱した・・・ということで、火付・強盗・殺人をおかした凶悪犯とおなじように、百姓一揆を指導した庄屋・名主は死刑という極刑を言い渡されているのです。

佐藤俊夫は、「習俗はこの意味での悪習に陥ってまでも、あえておのれの「型」を固執しようとする。ここでわれわれは、それほどまでに習俗を守らせようとする社会を問わねばならない。」といいます。その社会というのは、「外と内とをへだてる境界」によってしきられた「閉鎖的なワク」であり、その社会の権力者は、「そのワクがくずれて内と外との交通が自由になる」・・・、つまり、「閉じた社会」が壊されることを恐れるというのです。「閉じた社会」「閉鎖的なワク」を破壊する可能性のある要因は「一しょくたに禁ずるのである」。それが習俗の背反すなわち「変態」でも、それが習俗の超克すなわち「独創」であっても・・・。

「感覚・信念としての禁忌」「正常・異常を区別する」ことに依拠しているが、「習俗・儀礼としての禁忌」は、「正常・異常を区別する」ことをたてまえとしながら、それは、必ずしも「正常・異常を区別する」ことを保障しないというのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」は、「閉じた社会」(村)を「外と内とをへだてる境界」(村境)によってしきられた「閉鎖的なワク」(封建的身分制度)に常民である「百姓」を閉じ込め監視する「保安警察」( Sicherungspolizei )としての役割を担っていたと思われます。「成文法」だけでなく「慣習法」・「習俗」による「禁忌」(タブー)の番人であったと思われます。近世幕藩体制下300年間に渡って、職務として担ってきた「禁忌」(タブー)の番人は、それゆえに、常民である「百姓」とは異質な「禁忌」(タブー)を担わされた(例えば別火別婚)のではないかと思わされます。

部落差別の淵源につながる糸をたぐりよせていくとき、部落差別もまた、この「禁忌」(タブー)にたどりつくのではないかと、想定されます。

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2006年11月 4日 (土)

3.タブーと被差別部落 5.部落問題研究者と禁忌

3.タブーと被差別部落
 5.部落問題研究者と禁忌

「禁忌」(タブー)の視点・視角・視座から部落差別を洞察することは、部落差別の認識になんらかの変化をもたらすことになることは充分考えられます。

『学問と「世間」』の著者・阿部謹也は、その書の中で、日本の学問の「閉鎖性」をといています。日本の「学会では対象とする領域がほとんど固定されており、その領域からでることはまずない。」といいます。「その理由はそれぞれの学問分野の担当者が「世間」(筆者は、それを学問上の禁忌と読み変える)を構成しているためである。しかし多くの学者自分の学会が「世間」(禁忌)を構成していることに気づいていない。」といいます。

阿部謹也は、「日本史学会の研究者」を批判して、彼らは、「日本史とされる地理的分野にしか関心をもたず、たとえば差別の問題についても日本史における差別は他の国における差別とは異なった別のものだと主張しがち」であるといいます。「日本史学会の研究者」による海外向けの研究発表において、「「非人」とか「穢多」といったことばが、そのままローマ字化されて使われており、外国人にとっては全く理解できない言葉の羅列で、関心をもてないだろうと思われた。」といいます。

「つまり日本史の問題は特殊日本的なものであり、世界史上の諸問題とは本質的に異なるという考え方があるように見える・・・」といいます。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」を、キリスト教禁令下の「宗教警察」として、かって凡アジア的に存在したし、今日においても存在している可能性のある用語をもって認識しなおすことで、部落差別を日本固有の問題としてではなく、凡アジア的な問題、ひいては凡世界的な問題のひとつに過ぎず、部落差別撤廃の可能性は多分に存在することを言明することができるのではないかと思います。

そしてまた、文化人類学的研究によって、「世界の共通語」になっている「禁忌」(タブー)概念をもちいて、部落研究・部落問題研究・部落史研究を徹底することによって、日本の部落差別を、日本固有の部落差別としてではなく、凡アジア的な差別のひとつとして日本の部落差別を提示することも可能ではないかと思われます。

いままで、凡アジア的は差別のひとつとして日本の部落差別を紹介するこころみがなかったわけではありません。たとえば、日本の部落差別をインドの「不可触賤民」(アウトカースト)と同類のものとして認識・紹介する傾向がなかったわけではありません。たとえば、歴史学者・社会学者の沖浦和光などは、日本の部落差別をインドの「不可触賤民」(アウトカースト)と類比して解釈し、同等のものとみなす傾向を強くもっています。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」を「アウトカースト」・「身分外身分」として認識することは、近世幕藩体制下の「穢多・非人」の歴史を完全に無視した、学問的誤謬・曲解でしかありません。

その証拠に、沖浦和光が述懐しているように、日本の被差別部落に、インドのアウトカースト制度が歴史的にどのように影響を与えたのか、まだ誰も実証的に証明してはいないのです。沖浦和光でさへ、自己の研究者としての年齢と残余研究時間を考慮しながら、後進の若い研究者がこの問題を解明してくれることを願うにとどまっています。

しかし、日本の部落研究・部落問題研究・部落史研究に「禁忌」(タブー)の視点・視角・視座を積極的に導入することで、従来、日本固有の差別問題として、「閉じた社会」・「閉鎖的なワク」に限定してきた部落差別認識をあらため、日本の学問の真のパラダイム転換をはかり、部落差別完全解消につなげることが可能になるのではないかと思われます。

阿部謹也は、「近代化のシステムは差別の不当性を明らかにはするが、なぜ差別が起こるのか、なぜ差別が今もなお残存しているのかを解明し得ないのである。私は現在でも差別が残存している理由の一つに「世間」意識があると考えている。」といいますが、「世間」を「禁忌」(タブー)という言葉に置き換えてみますと、阿部謹也の論点をより明確にすることができると同時に、「世間」より、論点により広範な意味内容を獲得することができるのではないかと思われます。

従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究にみられる学者・研究者・教育者の学問的「禁忌」(タブー)を指摘するとともに、「禁忌」(タブー)を視野にいれながら、部落研究・部落問題研究・部落史研究を見直そうと主張している研究者群に、『脱非常識の部落問題』の著者群がいます。

その書の編集者である朝治武・灘本昌久・畑中敏之は、学者・研究者・教育者に論文の執筆を依頼するために「刊行趣旨」なる文章を配布されたということですが、それを読みますと、「部落史・部落問題の見直しが、様々な分野で進んでいます。歴史・教育・運動・行政の全ての分野で、通説的な捉え方に対する再検討が行われています。」と紹介した上で、「常識化した部落史・部落問題の通説的認識はまだまだ健在・・・」と「部落史・部落問題の見直し」の難しさと表出しています。

それもそのはず、「常識化した部落史・部落問題の通説的認識」は、差別的な民衆だけでなく、少なくとも部落差別に問題を感じ続け、それぞれの立場から研究と発言をくりかえしてきた学者・研究者・教育者の「部落史・部落問題の通説的認識」の中にも、この「常識化した部落史・部落問題の通説的認識」は深く通底しているのですから・・・。「部落史・部落問題の見直し」は、「部落問題」のパラダイム転換だけでなく、「部落史・部落問題の見直し」を遂行する学者・研究者・教育者の資質と発想、視点・視角・視座の根本的な転換を要求される作業にならざるを得ないと思われます・・・。

朝治武・灘本昌久・畑中敏之は、「部落問題の固定したイメージ」「強固」である背景に、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)の存在を想定しているように思われます。その「禁忌」(タブー)は、「禁忌」(タブー)本来がもっている特質を帯びています。部落差別にまつわるすべてのもの、それが部落差別の解消につながる新たな提案であったとしても、部落差別に触れているということで、「一しょくたにして忌避され敬遠」するという・・・。『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫が、「もはや悪習とよぶほかはない。」という「禁忌」(タブー)に拘束・制限されているとこを示唆しているのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の前には、「善意ではあれ、決して踏み外すことを許さない常識の世界」、学問上の「禁忌」(タブー)が存在していることを指摘しているのです。学者・研究者・教育者がまず、自分たちの中にある「牢固とした常識を打ち破らない限り、人々の心に部落問題の真実・部落解放への願いは届きません。」と反省し、「部落史・部落問題の見直し」には、その「禁忌」(タブー)をとりのぞく「断固とした非・常識」、「禁忌」(タブー)を超越した研究精神が必要であるというのです。

奥田均・小松克己・中尾健次・住本健次・子安敏司・藤野豊・野町均・大西純・左右田昌幸・山城弘敬・北野隆一・北口末広・上丸洋一・今西一・角岡伸彦・住田一郎・渡辺俊雄・吉村智博・石本清英・黒川みどり・森実・布川弘・原田敬一・鍋島祥郎・亀岡哲也・畑中敏之・朝治武・灘本昌久・・・、『脱非常識の部落問題』に収録された論文の学者・研究者・教育者群は、『脱非常識の部落問題』発刊後8年が経過したいま、どのように、彼ら自身の中に内在する「禁忌」(タブー)と、部落問題の中に内在する「禁忌」(タブー)を取り除き、部落研究・部落問題研究・部落史研究に新しい展望をもたらしたのでしょうか・・・。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者のところまで、その新しい風は吹いてきてはいないのですが・・・。

大阪市立大学・鍋島祥郎助教授の書いた、《部落の「学力問題」は「差別の結果」か》という論文は、部落問題に内在する「禁忌」(タブー)に触れて衝撃的です。

鍋島祥郎は、大阪市立大学の「「同和問題研究室」という部局に身をおき、「部落問題研究」をテーマとして掲げている」といいますが、周囲から「差別的」な人間関係を強いられるといいます。そして、「私の人間関係の中で、「部落出身」という自己認識がない人の反応よりさらに興味深いのは、「部落出身」を自認している人の私に対する反応である。」といいます。

鍋島祥郎はこのように続けます、「私が部落問題研究者であることを知ると、必ず「あなたは部落出身ですか」と聞く。その聞き方も様々で、「どっちの方ですか」という言い方から、「ところでおまえはなんの関係や」や、「おまえ兄弟か、ハクか?(「兄弟は部落民を指し、「ハク」は非部落民を指す)」「部落民でもないくせに生意気な」までいろいろである。こういう研究者いびりはやめてほしいと願っているが、これに明瞭に答えられなければますハナシにならない。・・・ところで、「おまえ兄弟か?」と訪ねられた場合、自分が「部落民」であることを証明しようと思えば、まず間違いなく自分の血統的一関係または地縁的関係を説明しなければならない。つまり、「身元」をあかさなければならないのである。「わたしは差別された経験があるので部落民です」という論理、つまり先の相対的側面の開示では一般的に通じない。こうした「血統と地縁」によって部落民であるかないかを同定する論理は、部落民を排除する論理として行使されるだけでなく、部落の内側においても同様に行使されるのである。つまり、「部落民」をめぐるアイデンティティの発現の仕方を観察すれば、必ずしも部落民とは「被差別」であり「被害者」であり「他者規定的」なのではなく、血統や地縁を拠り所にして求心力が存在していることがわかる。例えば、部落コミュニティにおいては部落外から来て住んでいる人を「いりびと」と言い、区別する。戦後急激に増えた「嫁」という形態での「いりびと」は、時にはそのことで嫌がらせを受ける」。

大阪市立大学・鍋島祥郎のことばは、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が、その研究にまつわる「禁忌」(タブー)を超越したとき、部落差別ないし被差別部落のひとびとの中に「禁忌」(タブー)が重層的に存在していることを指摘しているのです。

「特定の旧身分とその子孫、居住区域を社会的に排除、あるいは疎外・忌避」(小松克己《福沢諭吉の「まなざし」から植木徹誠の「」まなざし」へ》するという、「禁忌」(タブー)の存在は、差別者の側だけでなく被差別者の側にも存在していることを示唆してやまないのです。

差別者の側にも被差別者の側にも深く内在する部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)を取り除くためには、まず、その「禁忌」(タブー)が何であるかを解明しつくす必要があると思われます。被差別の側にある、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)を研究するためには、大阪市立大学・鍋島祥郎助教授のように、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者としての自己の中に内在する「禁忌」(タブー)から自由になる必要があると思われます。鍋島祥郎の論文・《部落の「学力問題」は「差別の結果」か》を読んで衝撃を受けたのは、鍋島祥郎のような学者・研究者・教育者があまりにも少ないということを痛切に感じたからです。

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2006年11月 8日 (水)

3.タブーと被差別部落 6.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌

3.タブーと被差別部落
 6.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌

『脱常識の部落問題』が出版されてから3年後、川元祥一は、『部落差別を克服する思想』を出版しています。

川元祥一は、この『部落学序説』において、いままで何度となくとりあげてきた、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者のひとりです。

川元祥一は、被差別部落出身であることをその著作において公言しています。しかも、単なる被差別部落出身ではなく、近世幕藩体制下の「穢多」身分の末裔であることを、その文章の中で証言しています。川元祥一は、「部落学」研究の主体であると同時に客体でもあります。

この文章において、「被差別部落民と禁忌」を論じる予定でしたが、その前に、「部落問題研究者」と「被差別部落民」の両方の属性をもっておられる川元祥一と、その著作『部落差別を克服する思想』の中に記された「禁忌」について検証することにしました。

その方法は、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる「禁忌」と、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を比較検証するという、極めて基本的で卑近な方法です。

佐藤俊夫も川元祥一も、その論述の背景に、文化人類学・社会人類学の研究成果を据えています。

中根千枝著『社会人類学 アジア諸社会の考察』の中で、この文化人類学と社会人類学の異同について詳しい説明があります。両者とも、「1930年代に確立された比較的新しい学問分野」で、「社会人類学は英国を中心として、文化人類学は米国において発達した。」ものだそうです。社会人類学は社会学の影響を強く受けたのに対して、文化人類学は地理学の影響を強くうけたといわれます。社会人類学では、「法とか制度に対する伝統的な関心が常に底流にあり、それぞれの社会のよって立つシステムに注目してきた」のに対し、文化人類学は、「分布状況、民族誌的な量的豊さが常に強みとなって発達してきた」といわれます。

つまり、社会人類学は、「禁忌」(タブー)を考察するとき、「法」(政治)を視野にいれるのに比較して、文化人類学は、「文化」を視野にいれて研究が遂行されてきたようです。アメリカで、「社会人類学」という表現は、「心理人類学、言語人類学、認識人類学、象徴人類学など」のひとつとしての「社会人類学」を意味します。アメリカの「社会人類学」は、「社会組織-とくに親族組織-の研究とされる傾向」があるそうで、「社会全体の構造をとらえ、それを理論化して比較することを目的とする」英国の「社会人類学」と、その学問的内容を大きく異にするといわれます。

中根千枝は、「社会人類学の調査というのは、社会学でよく行われるようなクエスショネアによるものとか、民俗学でしばしばとられるような物知りといわれる人(この種の人はどの社会にもいる)の話をきく、といった方法は、主要部分でない。むしろ、そうしたアプローチを避けるのである。」といいます。

「なぜならば、対象社会の生活全体を把握することによって、特定問題について深い考察をすることを目的とするものであるから、単なる直接質問はできるだけ避けて、具体的な事象をさまざまな角度から考察することによって、調査者の最も知りたいと思うことに迫るという方法が理想的なのである。つまり、相手がかまえないで自然に表出するプロセスをとおすということが、よりよいデータを得る方法なのである」。

また、中根千枝は、「社会人類学」の他の社会科学に対する独自性は、「その研究者が研究対象の人々に対して距離を持ちえた」点にあるといいます。「社会人類学」は、「研究者の生まれ育った社会とは異なる社会が対象となる。」といいます。しかし、「対象の人々から完全に自由」な研究者の立場は、現代の社会人類学者からは失われているといいます。

中根千枝は、社会人類学の研究の阻害要因となる「偏見や優越感」に拘束され、「そうしたものが研究自体に反映して研究の価値を害うという危険はミニマムになっているというのが常である。そのような危険は初期の優れた人類学者たちよりも、むしろ最近の人口増大によって出てきた二流・三流の人類学者の中に見出されるといえよう。」と記しています。

また、「偏見や優越感はむしろ安易な共鳴、過度の同情などと同様に、対象と自己を安易につなぐあまさを前提とするものであり、先に指摘した detachment とは相いれないものである。初期のすぐれた人類学者たちは、対象に対してこの detachment をもつことによって、経験主義に立脚した分析を重んずる科学的思考を十分生かして、社会人類学の基礎を確立するにいたった」といいます。

「偏見」・「優越感」・「安易な共鳴」・「過度の同情」を退け、研究方法上の detachment を習得することは簡単ではないといいます。

『部落学序説』の筆者は、「部落学」構築に際して、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して、この detachment を取得するために、「部落学」本論を執筆するまえに、「序説」(プロレゴメナ)の必要を感じて、『部落学序説』として執筆をはじめました。中根千枝は、「知識として社会人類学の成果をとり入れるということと、社会人類学の研究をするということとは異なる」といいますが、それは、「部落学」についてもおなじことがいえます。「部落学」の成果と取り入れるということと、「部落学」の研究をするということとは全く異なるいとなみです。

「社会人類学の研究というのは、既存の理論的枠組を使うのではなく、一定の方法を用いて未知の世界のシステムを自らの経験をとおして探求し、理論化していくものである。この過程において-異なる社会に自らをエクスポーズすることによって-日本では得られない知的な刺激を受け、自己の思考自体を成長させるのである」。

『部落学序説』は、社会人類学からの影響も多分に受けているのですが、『部落学序説』は、人種起源説を、部落差別の起源論として誤謬として退けていますので、社会人類学の方法論を文字通り援用しているというわけではありません。『部落学序説』は、社会人類学の研究成果ではなくて、研究方法に耳を傾けているのです。

中根千枝は、社会人類学の研究方法( detachment )を身につけていないと、「どんなに社会人類学を勉強しようと、それに関する知識を蓄積しようと、日本の古い祭や慣習を研究しようと・・・それらはすべて日本的思考のシステムの中に組み入れられていく」といいます。

社会人類学・文化人類学の研究方法ではなく、研究成果のみが受容されていくとき、日本の部落研究・部落問題研究・部落史研究に大きく貢献すると思われる「禁忌」(タブー)に関することがらは、日本の歴史学、ひいては、日本のすべての学問に通呈する、その差別思想である「賤民史観」という、極めて「日本的思考のシステム」の中に、いとも簡単に吸収されてしまうのです。

倫理学者・佐藤俊夫と部落学者・川元祥一の著作を比較検証してみるとき、両者の間の「差」のひとつに、「禁忌」(タブー)についての認識の違いがあるような気がします。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる「禁忌」と、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を比較検証する前に、それぞれの「禁忌」(タブー)についての研究の背景にある、人類学的な背景の違いに触れておくべきであろうと思いました。『部落学序説』の筆者の目からみると、佐藤俊夫は、英国をはじめとするヨーロッパの社会人類学の影響をより強く受けており、川元祥一は、アメリカの文化人類学の影響をより強くうけていると考えられます。

『部落学序説』の執筆計画の段階から、筆者は、部落問題・部落差別問題における「禁忌」(タブー)に関する理解に際して、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』の「禁忌」理解を採用し、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を退けることにしました。佐藤俊夫には、社会人類学の研究方法( detachment )を認めることができたのに反して、川元祥一には、その社会人類学の研究方法( detachment )を認識することができなかったからです。

佐藤俊夫の教説についてはすでに触れていますので、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」(タブー)に目を通すことにしましょう。川元は、『部落差別を克服する思想』の「第2章 ケガレと人間の存在-差別のメカニズムを解く」、「四、世界中の感染呪術=触穢意識とその克服」で、川元の文化人類学的理解を提示しています。

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2006年11月10日 (金)

3.タブーと被差別部落 7.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

3.タブーと被差別部落
 7.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して、川元祥一著『部落差別を克服する思想』からしばしば引用してきました。

その理由のひとつに、『部落差別を克服する思想』に対して、川元祥一の「部落学」の研究成果であるとの認識があるのと、そもそも「部落学」ということば自体、川元祥一の創作によるものであるとの認識があるためです。

無学歴・無資格、また「近世幕藩体制下の百姓の末裔」でる筆者は、学歴・資格を持ち、「近世幕藩体制下の穢多の末裔」として、その歴史を解明し、部落差別問題の解決に向けた提言をされている川元祥一氏に対して、そうとうの「敬意」を持ち合わせています。

そのようは川元祥一氏の「胸を借りる」つもりで、「部落学」という土俵の上で論戦をいどんでいるのですが、もちろん、それは公開論争というようなものではなく、無学歴・無資格の筆者の観念的な仮想の論争に過ぎません。

書名の『部落差別を克服する思想』と同じことばが、「この認識こそが部落差別を克服する思想である。」という文章の中に出てくるのは、全243ページ中の第133ページです。

川元は、その著『部落差別を克服する思想』の結論とも受け止めることができる内容を、その書のちょうどまんなかあたりに配置しているということになります。「部落差別を克服する思想」である「この認識」とはどのような認識のことなのでしょうか・・・。

それは、「世界中の感染呪術=触穢意識とその克服」という見出しのことばにもあらわれています。この文章は、わずか7ページに過ぎませんが、その7ページの中に、川元祥一氏の論点が明確に言及されているといえるほど濃縮された内容がつまっています。

川元祥一氏が「部落差別を克服する思想」を明らかにするために援用している科学(学問)は、人類学、しかも、前回とりあげた、アメリカで一般的な学問として成立した文化人類学です。

しかし、川元祥一氏は、文化人類学の「研究方法」についてはほとんど言及されておらず、その「研究成果」の援用にとどまっています。川元祥一氏は、文化人類学の研究成果を援用しつつ、それを最も重要な根拠として「部落差別を克服する思想」を提言しているのです。

彼は、その見出しの中で、「世界中の感染呪術」=「触穢意識」とう等式を定立しています。この等式を正確に表現すれば、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」ということになります。

「日本の触穢意識」というのは、日本的な「ケガレに触れると伝染するとする観念」のことです。

彼は、「触穢意識がもつ観念は、それをどのように呼んでいたか定かではない・・・」といいますが、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる和語の「ヒ」(「非日常的なもの」)と「イミ」(「それに対する態度」)のことなのでしょうが、彼は、「それをどのように呼んでいたか定かではない・・・」と表現して、この「ヒ」・「イミ」について言及することを避けています。

「部落差別を克服する思想」の論点を単純化・明確化するために、問題を複雑にする「ヒ」・「イミ」について言及することを避けたのでしょうか・・・。

彼は、「日本の触穢意識」を「部落差別の原理」であるといいます。部落差別にかかわる諸事象が依存する法則として認識しているといいます。彼は、「部落差別」を存続させ続けている原理としての「触穢意識」は「非合理、不当なものとして克服の対象である」といいます。

川元祥一氏にとっては、「部落差別を克服する」ということは、とりもなおさず「触穢意識を克服する」ということを意味しています。「触穢意識」によって、「人間の存在までケガレの諸事象と同じに見られ、忌避・差別の対象とされた」といいます。

川元祥一氏は、「ケガレに触れると伝染するとする観念」と捨てることによって、差別・被差別の立場をとわず、部落差別からひとびとは解放されると説きます。

川元祥一氏は、ここでも、部落差別の起源は、権力(政治システム・法システム・社会システム)にあるのではなく、民衆の中にある意識(「ケガレに触れると伝染するとする観念」・触穢意識)にあると主張しているのです。1990年代の部落史の見直しの中で主張された政治起源説の否定の傾向に、川元祥一氏も色濃く染まっているのでしょう。

川元祥一氏がそこまで確信するのは、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」という前提があるからです。

川元祥一氏は、イギリスの人類学者・フレイザーの説に従って、「未開の信仰」である「世界の感染呪術」は、「進歩的な宗教」である「キリスト教文化」によって駆逐された・・・と主張します。「私は日本の触穢意識を古来から世界中にある感染呪術のひとつと考える」という川元祥一氏は、近代的な思想・宗教によって無化され廃棄された「世界の感染呪術」のたどった経緯と同じ経緯をたどって、「日本の触穢意識」を日本文化の中から取り除くことができるといいます。

「根幹的な解決方法として、非合理的な呪術の克服の道がある・・・」といいます。

川元祥一氏は、「キリスト教文化圏では、このような不合理な信仰としての呪術を、キリスト教という教学をもつ宗教によって克服してきた」といいますが、「キリスト教文化圏」にはない日本においては、「呪術」を全面否定するのではなく、「部落差別の原理としてのケガレへの忌避観と・・・触穢意識を克服する」を目指しながら、その第1歩として、「呪術」を「自然と人間の共存をはたす思想の母体として現代的に再生する」(筆者にとっては?)、具体的には、「忌避・差別の対象とされた」ひとびとがその中ではぐくんできた「さまざまな技術や文化」(地域の危機管理・医学や皮製品細工物などの生活文化・伝統芸能・民俗芸能)を「日本文明・文化の創造者としてあらためて高く評価」することで、「非合理的な呪術の世界を克服する道」をたどることができるといいます。

川元祥一氏は、「そしてこの認識こそが部落差別を克服する思想である。」と断言します。

しかし、川元祥一氏が指摘する「部落差別を克服する思想」という認識は、「呪術」を克服の対象であると認識しつつ、結局はそれを打倒・破棄するのではなく、それと和を結んでなかよくやっていこうという、妥協と矛盾に満ちた提案になっていないのでしょうか・・・。

フレイザーの『金枝篇』の教説から、そこまで断定することができるのでしょうか・・・。

佐藤俊夫は、その著『習俗-倫理の基底-』の中で、フレイザーの理論を、「フレイザーの解釈は・・・あまりにも理詰め・・・あまりにも割り切れすぎ・・・混乱し・・・あまりにも画一的・・・」であると指摘し、このように記しています。

「フレイザーの解釈の根本的な弱点は、彼がタブーを「未開人」のものときめてかかっていることに起因する。しかも彼は未開人を劣れるものとして向こう岸にすえ、自らは優れたる「文明人」の側にたって観察しているのである。さらに、彼は未開人を「未開社会」からまったくもぎはなした「個人」として観察し、しかもその未開人の知的側面のみをもっぱら重視しているのである」。

フレイザーの欠点は大幅に修正されつつあるそうですが、川元祥一氏の「呪術」を克服の対象としつつ、ある面で妥協しつつそれと共存をはかろうとする発想は、「フレイザーの解釈の根本的な弱点」の克服としたなされたものなのでしょうか・・・。

部落差別は、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」という等式の中に還元させてしまうことができるのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、「日本の触穢意識」は、未開人の「呪術」ではなく、日本の古代・中世・近世・近代・現代に通呈して存在する天皇制の政治システム・法システム・社会システムに内在している「禁忌」ではないかと思います。「禁忌」(タブー)の背後には国家・権力の意志が控えていると思っています。この事実を無視して、部落差別の起源を、「職業」(職業起源説)や「呪術」(宗教起源説)に求めるのは、部落差別を、さらに捉え難い世界へ追いやることにならないでしょうか・・・。

部落差別は、権力(政治と宗教の合体した天皇制)によってつくられたものです。部落差別を政治システム・法システム・社会システムの中に体系的に認識しなおさないと、部落差別を永遠に解消することはできないのではないでしょうか・・・。

それに、川元祥一氏が指摘するように、キリスト教社会は「禁忌」(タブー)を完全に排除も克服もしていなと思われるのですが・・・。キリスト教は、未開社会を、その地方の伝統的な古来の「禁忌」(タブー)から解放(破壊)し、それに代えてキリスト教の「禁忌」(タブー)を強制してきたのではないでしょうか・・・。

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2006年11月13日 (月)

4.被差別部落と禁忌(タブー) 1.地名に関する禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 1.地名に関する禁忌

被差別部落の地名の表記方法に関する問題について、雑誌『地理』(第36巻1号・1981年1月)に掲載され《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という文章があります。

この文章の執筆者は、灘本昌久というひとです。

彼は、こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社)の中で、次のように自己紹介しています。「私は1956年生まれで、満32歳。2人の子持ちです。私はまったく部落の外に生まれて育ちました。父方も母方もみな部落民ですから、血統的にはサラブレッドのような「賤民の後裔」なんです。父方の祖父は融和事業で村には顕彰碑がたっています。母方の祖父は、大阪の豊中水平社の創立者です・・・」。

彼は、京都大学文学部歴史学科で現代史を専攻され、現在、京都産業大学文学部教授をされておられる方だそうですから、《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という文章は、「被差別部落出身者」であると同時に、高学歴・高資格の灘本昌久によって書かれた文章であるということになります。

この文章は、地理学的研究における地名の取り扱い方について論じたものですが、この文章には、灘本昌久の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者としての「理屈」と、「被差別部落出身者」としての「感情」の両方が滲み出ています。

灘本昌久は、学者・研究者・教育者としての地理学的研究における地名の取り扱い方についての一連の考察を、「理論」とよばないで、「理屈」と呼んでいるところをみると、灘本昌久は、「被差別部落」の地名の取り扱いかたについて、まだ自他共に納得させる方法にたどりつけていないということを示唆しています。

『広辞苑』によると、【理屈】というのは、「①物事のすじみち。ことわけ。②こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。・・・」だそうですから、灘本昌久は、学者・研究者・教育者による被差別部落の地名の取り扱い方については、①ではなく、②の意味でとらえていると言えるのではないかと思います。

灘本昌久が「理屈」と呼んでいるところのものは、次のような見解です。

「基本的には部落の地理学的研究で部落を対象とした場合でも、地名は極力記すべきであり、みだりに伏せるべきではないと考えている。そのことによって、当該地域に不利益が生じる可能性がゼロとはいえないが、それは部落問題を問題として考えはじめた途端にさけられない危険性である。研究に限らず、例えば、ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。しかし、そうした危険性をゼロにする方法はないわけで、あるとすれば部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する以外にはない」。

灘本昌久は、そう綴ったあと、「しかし、理屈でそう割り切ったとしても・・・」と文章を続けています。

灘本昌久は、被差別部落の地名の取り扱い方について考察しておきながら、それは、「理論」ではなく「理屈」でしかない・・・と言っているのです。

「基本的には部落の地理学的研究で部落を対象とした場合でも、地名は極力記すべきであり、みだりに伏せるべきではないと考えている。」と考察した、その直後に、「そのことによって、当該地域に不利益が生じる可能性がゼロとはいえないが、それは部落問題を問題として考えはじめた途端にさけられない危険性である。」と、警告とも悲鳴ともとれることばを発しています。

灘本昌久の発想では、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を無視して被差別部落の地名を実名記載するか、それとも、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を極力避けるために「部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する」か、二者択一の道しかない・・・と考えられます。

灘本昌久の発想を前にすると、被差別部落出身ではない学者・研究者・教育者は、前者を避け、後者を選択せざるを得ないでしょう。ほとんどのひとが無関心を決め込む部落差別問題にかかわる学者・研究者・教育者のほとんどは、あえて「被差別部落に不利益が生じる可能性」のある方法を採用するとは思えないからです。

灘本昌久は、具体的な事例をあげてこのように記しています。「ある公共図書館で古地図などの展示会を開催したところ、その片隅に「穢多村」と描かれているのが見つかり問題化したことがある。実際には、その旧「穢多村」には、現在さまざまな同和事業に基づく住宅や病院、会館などがたちならんでおり、古地図に「穢多村」と出ていたところで今さら実害などあろうはずもないのだが・・・」。

そう発想する理由は、先に紹介した文章に出てくるように、「ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。」という認識が働いているからです。被差別部落の地名を、学者・研究者・教育者が実名記載するよりも、被差別部落の中で部落解放運動を展開する方が、「被差別部落に不利益が生じる可能性」が大きいというのです。

『部落学序説』の筆者の目からみると、両者をそのように単純に見ていいのかどうか・・・、検証する余地なしとは思えません。学者・研究者・教育者が、その論文に被差別部落の地名を実名記載することは、文書として、全国的に拡散した形で永遠に残すことになります。しかし、全国の部落解放運動の中には、その記録をいっさい残さない形での運動もなしとしないからです。その場合、灘本昌久が指摘しているような、「ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。」という認識は事実とまったく反した内容になってしまいます。

灘本昌久もその可能性があることを認識しているからこそ、「理論」ではなく「理屈」としてしか思えないのでしょう。

彼の感じている「理屈」としてのわりきれなさは、『京都の部落史』(全10巻)の地名表記に関する言及の中で明らかにされています。その書においては、「明治19年臨時穢多非人調書」にとりあげれている被差別部落の地名は「あまりにも網羅的であり、また一覧性も高いので・・・郡名だけを残して村名以下を省略してしまった」といいますが、その結果、「歴史資料としては使いようもないもの」になってしまったといいます。

灘本昌久は、「冷静に考えれば、史料に出てくるのは古い地名であり、現在に及ぼすようなものではない・・・」とくりかえし表現していますが、彼は、被差別部落の地名の実名記載について考察を重ねた結果、「部落問題研究で祿をはんでいる私たちのようなものでさえ、確固たる方針が出せないのだから、人様に提言などできた筋合いではない・・・」と思考を中断してしまいます。

そして、当時、若干35歳の灘本昌久は、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を無視して被差別部落の地名を実名記載するか、それとも、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を極力避けるために「部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する」か、というジレンマを克服して、「若い世代の研究者諸氏」が「具体的な地区を対象としてのフィールドワークに基づいた研究」を期待して、その文章を閉じているのです。

而立と不惑の間にある灘本昌久が耳順の思い(若い研究者の研究に耳を傾ける)を語るのは、どううけとめていいものやら・・・。

灘本昌久が、被差別部落の地名の表記方法に関する問題について考察を重ねながら、それを総体として「理屈」としてしか表現できないのは、「被差別部落」のひとびとの中に、「部落の地名表記に関する過剰な反応」が存在しているからです。現代の部落差別は、「現在もしくは過去に部落に居住していたかどうかによって、部落民としての血統を擬制的に確認」する差別システムですから、「部落地名総鑑」などによって「被差別部落の在所をしめした一覧表」として流布されるようになると、就職・結婚時に被差別部落のひとびとに不利益をもたらしかねないというおそれがあるからです。

灘本昌久は、「被差別部落」のひとびとの中には、被差別部落の実名記載について、「感情をいたく刺激され」るひともいるというのです。灘本昌久は、被差別部落出身者としての側面から、そのような感情を「自然な感情」として無条件に受容しているようです。運動団体が、その素朴な、被差別部落の「自然な感情」を、部落解放運動の中でストレートに反映することについては批判的なようですが、灘本昌久自身、被差別部落出身者として、その「自然な感情」に深くとらわれているのです。

灘本昌久の、学者・研究者・教育者であるがゆえに持っている「理屈で割り切った結論」と、被差別部落の出身者であるがゆえにもっている「個々の部落住民の感情」とは、「差別の現実が消えない限り、なかなか一致するものではない。」といいます。

部落差別の完全解消への道は、被差別部落の具体的な地名・人名・歴史・文化に言及することなく可能なのか、それとも、被差別部落の具体的な地名・人名・歴史・文化に言及していくなかで、部落差別の完全解消が可能になっていくのか・・・、若干35歳の灘本昌久は、その考察すら中断し、放棄し、その精神的葛藤から遠ざかってしまったようです。

《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という小論文は、『部落学序説』の執筆計画をたてている段階で、すでに目にしていました。灘本昌久のかかえたジレンマを想定しながら、無学歴・無資格の筆者がない知恵をしぼりだして考え出したのが、被差別部落の地名の絶対座標(実名)を避け、被差別部落の地名と地名の相対座標として表現するという方法でした。

『部落学序説』の中で、近世幕藩体制下の長州藩の有名な「穢多寺」の写真を掲載しています。掲載してから相当長い月日が経過するのですが、どなたからも差別であるという指摘はありません。山口県の浄土真宗のすべての寺院を訪ねれば、その寺がどこのあるのか判ってしまいます。それでも、今に至るまで差別的であるとの批判はありませんでした。長州藩の四カ所の「穢多寺」・・・、それは東西南北に配置されていますので、筆者のいう相対座標で「長州藩東穢多寺」・「周防国東穢多寺」というのは、長州藩の被差別部落の歴史を少しく調べれば、その寺が聞光寺であることはすぐにわかります。『部落学序説』の筆者としては、聞光寺と表現して、被差別部落のひとびとや、そのとりまきの学者・研究者・教育者の神経を逆撫でするよりは、相対座標で「長州藩東穢多寺」・「周防国東穢多寺」と表現する方がよりベターであると考えたのです。

『部落学序説』の筆者である私は、「部落地名総鑑」の実物を一度も目にしたことはありません。

「部落地名総鑑」に、被差別部落に関するどのような情報が、どのような方法で掲載されているのかまったく知りません。そのため、「部落地名総監」問題について、批判検証の方法がないのです。「部落地名総監」がなんであるのか確認しないで、部落地名総監について論じるのは、批判検証の名に値しないと思います。

被差別部落の住所が、リストの形で全国に配布される・・・

各地方の、被差別部落のある地域においては、いわずもがなであっても、その被差別部落の地名が全国的に知れ渡る・・・、ということに、「感情をいたく刺激され」、「過剰な反応」を示す被差別部落のひとが存在しているであろうことは想像に難くありません。

Zu41_1 以前にも書いたことですが、筆者が20数年棲息している山口県下松市では、過去、同和対策事業が行われた地域というのは、3箇所あります。AとBとCです。

しかし、一般的には、下松市の被差別部落は一カ所であるといわれています。灘本昌久が、被差別部落出身の学者・研究者・教育者として採用した「郡名だけを残して村名以下を省略・・・」式の方法で、山口県の被差別部落の多くは、被差別部落を含む大字名の被差別部落として表現されています。

筆者は、山口県下松市の小さな教会に赴任して日の浅いころ、大字の全所帯の名簿を入手しました。それは、下松市の行政が作成したもので、「住所・地番」・「世帯主名」・「通称・番地」が掲載されています。「住所・地番」というのは、正式名称で、「通称・番地」というのは、通称にあたります。

問題は、その通称に、上記A・B・Cの被差別部落名が記載されているということです。

名簿そのものは、「住所・番地」順にならんでいます。

あるとき、部落解放同盟の方と、その名簿を分析したことがあります。ゼンリンの住居地図で、その番地を確認して、マーカーで色分けをしていくのです。すると、意外な結果に驚いたのです。被差別部落名Aの記載された地番は、ゼンリンの地図上では、A地区を越えて、Aの周辺地域のD・E・F・・・にも存在していたのです。

可能性とした考えられたのは、被差別部落Aというのは、地図上のAという地域のことではなく、Aという地域の住人とされた「被差別部落民の集合概念」であるということでした。ゼンリンの地図上のA・B・Cには、混住化がすすみ、一般地区のひとびともその地域に住んでいるのに、その名簿においては別の通称名が記されている・・・という驚くべき結果でした。

部落解放同盟の方は、山口県では、このような名簿は広く出回っており、部落解放同盟の方もなすすべがなく放置されているといっていました。

「部落地名総監」において、下松市の被差別部落がどのように記載されているのか、見たことがないのでわかりませんが、それを見て、「このひとはAに住んでいたから、被差別部落出身である」とか、「このひとはAに住んでいるから、被差別部落出身である」と安易に判断することは、どのような意味合いにおいても大きく判断がくるうことになってしまいます。

『部落学序説』の筆者である私には、農村部の被差別部落と違って、都市の農村部は、日本全国、下松市の被差別部落とおなじような状況にあるのではないかと思われます。被差別部落の固有の「地名」でもって知られている被差別部落の外延と内包は大きく異なっているのに、「部落地名総鑑」などでは、いぜんとして、「地名」が被差別部落の実態を伝えているように表現されているのではないかと、推測せざるを得ないのですが、なにしろ、「部落地名総鑑」を見たことがないので、推測の域を脱しません。

被差別部落の地名を「禁忌」(タブー)状態におくことは、被差別部落の都市化、混住化、住居表示変更、区画整理事業などによって、あいまいにされた被差別部落の中に移り住んだ、あるいは、行政によってその中に算入された、被差別部落出身者ではない一般のひとも、被差別部落住民として他者の差別的なまなざしの対象にされている・・・、そのことを許す結果になっているのではないかと思います。

そういう意味では、「部落地名総鑑」を差別文書として葬りさる前に、「部落地名総鑑」によって具体的に誰が、どのように被害をうけることになるのか・・・、精確に検証する必要があります。「部落地名総鑑」の地名の不精確さの解明は、「部落地名総鑑」の価値を著しく減少させるものになるのではないかと思われます。

灘本昌久のいう、被差別部落の地名の実名記載について、「理屈」も「感情」もともに持ち合わせていない筆者は、冷徹に、被差別部落の地名にまつわる「禁忌」(タブー)を取り除いていくのみです。

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2006年11月16日 (木)

4.被差別部落と禁忌(タブー) 2.差別名字と差別戒名

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 2.差別名字と差別戒名

「差別名字」と「差別戒名」・・・

この問題について触れるのは、それほど簡単ではありません。「差別名字」は、被差別部落の人々が生きているときに押しつけられた名前であり、「差別戒名」は、被差別部落のひとびとが死んでから押しつけられる名前のことです。

被差別部落の人々にとって、此岸においては「差別名字」、彼岸においては「差別戒名」が、被差別部落の人々の意志を無視してつけられる・・・というのは、被差別部落の人々にとっては、彼らが「過酷な部落差別」にさらされていればいるほど「差別名字」や「差別戒名」に対する「苦悩」は耐えがたいものがあるのでしょう。

「名字」とはなになのでしょうか・・・。

『名字と日本人』(文春新書)の著者・武光誠は、「名字について語る場合、まずそれがどのようないきさつで作られたかを知る必要がある。ところが、今日その問いに正確に答えられる歴史学者は一人もいない。」といいます。

しかし、著者の武光誠は、東京大学大学院国史学博士課程を終了し、現在、明治学院大学の教授をされているのですから、れっきとした歴史学者であるということになります。

この本の初版が出された1998(平成10)年の時点において、武光誠は、「名字」がつけられた経緯を説明することができる唯一の歴史学者であるということになるのでしょうか・・・。

武光誠は、「名字」の発生は、「日本的家の成立」が大きく関係しているといいます。「名字」は、「家を単位に代々うけつがれ」ていったといいます。

武光誠は、「家をあらわす名称がなければ社会生活に支障をきたすことになる。」といいます。そういう意味では、「農民や町民が名字をもたなかったとする考えは、明らかに誤りである。」といいます。「「水呑百姓」とよばれた小作人まで名字を名のっていたことを示す文献が多く残っている。」そうですが、そうなると、2つの問題が発生してきます。

ひとつは、近世幕藩体制下においては、「農民や町民が名字をもたなかったとする考え」(通説・一般説)はどのような意味をもっていたのか、ということと、もうひとつは、明治になって出される「苗字必称令」と呼ばれる明治8年2月13日の太政官大22号布告はなにを意味していたのか、ということです。

木下真弘著『維新旧幕比較論』には、「平民の苗字、詳らかならざる者は新に苗字を製せしむ。同名の者且分別するの便あり。」とあります。木下真弘は、近世幕藩体制下においては、「大抵苗字あらざるものなし。而して之を其家に存録して、公に之を称するを得ず。」と記しています。

木下真弘は、近世幕藩体制下においては、苗字の使用は、武士だけでなく百姓・町人にも認められていた・・・と認識していたと思われます。家の苗字、そして、家の苗字を代々受け継いでいった先祖の名前を家系図としてその家に記録・保存することが奨励されていた・・・と推測されます。禁じられていたのは、その苗字を「公に・・・称する」ことであったと考えられます。

百姓・町人がその苗字を「公に・・・称する」ことをなぜ禁止されていたのか・・・、想像をたくましくするとこのようなことが言えるのではないかと思います。

近世幕藩体制下の民衆支配の方法は、「村」を単位にしたものであって「家」を単位にしたものではなかった・・・。幕府も藩も、百姓・町人が、「村」を越えて、「家」と「家」とが結束し「類族」を形成することを、封建的支配上、極度に警戒したためではないかと思います。「村」を越え、「郡」を越え、さらには、「藩」を越えて、百姓・町人が「家」を拡大し「類族」を形成していくことは、封建支配を根底から覆すことにつながりかねません。

幕府と藩は、「家」の概念が、その外延を時間系列に拡大することは容認できても、「家」の概念が、空間的にその外延を拡大することを禁止したのではなないかと思います。

木下真弘が、「大抵苗字あらざるものなし。而して之を其家に存録して、公に之を称するを得ず。」と記したのは、近世幕藩体制下の百姓・町人は、「苗字」を大切にすることで、「家」を時間的、過去・現在・未来へと一貫して継承していくために、「之(苗字・家系図)を其家に存録」していたが、その苗字・家系図は、「村」という封建的枠組みの中においてのみ許可されていた・・・ことを意味しているのではないかと思います。

「苗字」は、近世幕藩体制下の検地台帳・宗門改め台帳などに記録するためにも必要欠くべからざるものであったと思われます。

ところが、明治に入ると、明治新政府は、日本の近代化を急激に短期間にすすめていきます。封建的な村制度を解体し、村と村との境(村境)を規制していた、当時の警察官である「穢多非人等」を廃止し、すべての農民が村境を自由に越境できるようにします。

明治新政府の富国強兵政策で、徴兵制が実施されますが、徴兵そのものは、近世幕藩体制下の村境を越えて集められた集団を前提にしてはじめて可能なことがらです。

宮地正人は、「明治8年2月13日の太政官大22号布告」について、「今後は必ず苗字を名乗るべきこととされ、祖先以来の苗字不分明の向は新たに苗字を設けるよう令された。これは徴兵軍隊の訓練の必要から要請されたものであった。」と説明しています。

これまでのべてきたことは、「旧穢多非人」についてもあてはまることがらであると思われます。

阿部善雄著『目明し金十郎の生涯 江戸時代庶民生活の実像』(中公新書)に登場してくる「金十郎」は、「吉田」という「姓」をもっています。阿部善雄は、「彼の姓は吉田氏である。」といっています。「姓」は、「苗字」のことでしょう。

「苗字」が、「家」において語り伝えられてきた「祖先以来の苗字」であるなら、その苗字が「差別苗字」(差別的な苗字)である可能性はほとんどありません。「苗字」は、先祖の歴史を語り継ぐものでもあるからです。

そうだとしますと、「差別名字」などあるはずがありません。

しかし、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一は、「差別名字」について言及します。

中山英一は、近世幕藩体制下から明治・大正・昭和の戦前まで、その名字は「○○○」であったといいます。中山英一は、「○○○というのは、恐らく日本中にないと思われる珍し名字なのです。」といいます。

中山英一は、その母から、「この部落の人の○○とう名字は、K寺の住職がつけたのだ。○○○という名字は『厄介な者』という意味だそうだ・・・」と聞かされたといいます。

「五里(約20キロメートル)四方の人たちは「○○○は長吏」と知っていました。」といいます。明治中期以降であると思われますが、「○○○の名字を、30軒の部落の仲間衆は、悪い名字、恥ずかしい名字だと思っていました。」といいます。

戦後、仲山家は、30軒の部落に先立って、「兄姉たちの強い願い」で、「名字」(法律用語では「氏」というそうです)の変更を家庭裁判所に訴え、名字の改名を勝ち取るのです。そして、「家」の「名字」として、採用していったのが「中山」姓であったというのです。「その後、29軒がそれぞれ名前を変え」たそうですが、「一軒だけは、「名字を変えても、部落差別をなくすことにはならない」という考えで、現在も○○○を名乗っています。」といいます。

その「差別名字」からの解放を戦った中山英一は、このようにいいます。少しく長い引用文になりますが、紹介します。

「ここで私がいいたいことは、全部ではないにしても、知識階級といわれ、仏道を歩む僧侶がこのような残酷は差別名字を、厳に生きている人にさえ恥じることなく平気でつけるのですから、「死人に口なし」で、死者に冷酷非道の差別戒名をつけることなど朝飯前であったのでしょう。僧侶はきっと、私たち部落の人を最初から人間として扱わないで、差別してきたのだと思います。こんなにまで残虐なことをされて・・・。胸が張り裂けるほど悔しいです。このように、死者につけた「差別戒名」だけでなく、生きている者にも「差別名字」をつけた。現在でも、むしろ抗議のために差別的な名字を使っている人もいます。これが字を知っています、教養があります、という僧侶が行ってきたことです。僧侶は当時のインテリゲンチア(知識階級)です。ですから、私は単純に、インテリゲンチアというものを信用しません。何をやってきたかわかりません。

中山英一は、小学校4、5年の頃から、「差別戒名」の存在を知り、部落解放同盟長野県連合会の書記長として1949(昭和24)年から今日に至るまで、「差別戒名」の差別性を訴えてきた・・・といいます。

中山英一の「差別名字」と「差別戒名」に対する怒りと抗議・・・

受けた部落差別があまりにも大きく深刻であるがゆえに、中山英一の語ることばに、前回とりあげた灘本昌久のいう、被差別部落のひとにとって固有の「理屈」と「感情」が噴出しているように思われます。

今回、筆者は、中山英一氏のたましいの奥深くからの訴えに、飲み込まれてしまったようです。被差別部落の出身者であるがゆえにもっている、「理屈で割り切った結論」と、「個々の部落住民の感情」、それから自由になってみつめなおすとき、「差別名字」と「差別戒名」の中に、別の世界がみえてきそうです・・・。また、日と章節項をあらためて、「差別戒名」の問題を『部落学序説』風に取り上げてみたいと思います。

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4.被差別部落と禁忌(タブー) 3.人名に関する禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 3.人名に関する禁忌

「差別名字」・「差別戒名」という例外的な事例を別にすれば、被差別部落の人々にとって「人名」は、いかなる意味でも「禁忌」(タブー)の対象ではなかったと思われます。

もしあるとすれば、それは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務の内容が大きく影響しているように思われます。

「穢多・非人」は、奉行・与力、同心・目明しと共に、近世幕藩体制下の司法・警察として、その「権威」・「権力」の象徴的存在でしたから、その職務遂行にあたって、その個人名が前面にでることはほとんどなかったと思われます。司法・警察である「非常民」は、その職務遂行上、治安警察上、重要な拠点に配置・配属され、その拠点で「権威」・「権力」の仮面をかぶって、その職務を遂行していたと思われます。

それは、現代の警察官についても同じです。

警察署という閉鎖的な枠の中に、どのようなひとが働いているのか・・・、ほとんどの市民は関心がありません。市民の側の了解は、警察署の警察官は、そのひとがどこに住み、どういう名前をなのっているのか、詮索することはしてはいけない・・・とみずからに「禁忌」(タブー)を課せているのではないかと思います。

それと同じで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の在所としての「地名」、彼らを特定するための「人名」は、「触れてはならない」「禁忌」(タブー)状態にあったと思われます。

「穢多・非人」とへんにかかわると、予期しないさまざまな問題へと発展しかねません。司法・警察である「穢多・非人」を利用して自己の利益を追求しようとするひとが出てきます。「穢多・非人」は、そのことで、予期しない不祥事へとひっぱりこまれる場合も出てきます。「穢多・非人」は、司法・警察の職務の遂行上、いつも襟をただして、「武士」だけでなく、「百姓・町人」に対しても、一定の節度ある距離を保っていたと思われます。

それが明治4年の太政官布告によって、「穢多非人等」が旧来の職務から解雇されることによって、その地名と人名に、差別的な意味合いが付加されるようになっていきます。

被差別部落の「地名」・「人名」が「禁忌」(タブー)の対象にされるのは、「特殊部落民」という現代的部落差別が成立した以降のことです。それまで、「禁忌」(タブー)の対象ではなかった、旧「穢多・非人」の在所とその住人の名前には、卑賤感がともなうようになり、自他共に「禁忌」(タブー)の思いを持つようになっていったと思われます。

くりかえしになりますが、「差別名字」・「差別戒名」という例外的な事例を別にすれば、被差別部落の人々にとって「人名」は、いかなる意味でも「禁忌」(タブー)の対象ではなかったと思われます。

長州藩の枝藩である徳山藩の旧北穢多村の系譜をひく地域を『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』(1971年版)でみると、その被差別部落の住人の名字が一目瞭然にわかります。

部落解放同盟の運動によって、あたらしい住宅がつくられる以前の被差別部落の状況がわかります。

この『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』は、筆者が、徳山藩の旧北穢多村の系譜をひく地域を調査していることを知った地元出身のひとが「参考にしてください・・・」といって、古い方の住宅地図をくださったものです。

部落解放同盟の方の話によりますと、『ゼンリンの住宅地図』を、時系列でたどっていけば、被差別部落の在所はすぐにわかるということです。最初、被差別部落の地名は掲載されていましたが、同和問題がきびしくなりはじめると、『ゼンリンの住宅地図』から被差別部落の地名が削除され空白にされていったといいます。しかし、現在ではふたたびその地名は表記されているようですが、筆者がたまたま入手した『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』は、被差別部落の地名がまだ表記されていた時代のものです。

その名字には、「差別名字」のようなものはみあたりません。「名字」だけで、被差別部落の住人と識別できるような「名字」は皆無です。

近世幕藩体制下の徳山藩の「穢多頭」の「名字」も含まれていません。

ふつう、被差別部落の方々の「名字」そのものには、「禁忌」(タブー)の対象になるようなものは何一つ含まれていません。被差別部落の「地名」と結びついて、「地名」と「名字」がセットにされて、「○○の○○」と呼ばれるとき、「名字」が「禁忌」(タブー)の対象になっていきます。「名字」は「地名」と結びつくときはじめて、被差別部落のひとびとの人権侵害に直接つながっていくがゆえに、「名字」は「禁忌」(タブー)の対象になっていくのです。

「地名」から切り離された「名字」は、「禁忌」の対象ではなくなります。

日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師は、「地名」から切り離された「名字」、「東岡」という実名をなのって運動を展開されてきたのですが、そういう意味では、日本基督教団の部落解放運動・・・というのは、「地名」から切り離された「名字」に基づく運動である・・・と言えます。

部落民はなのるけれども、その出身地に身をおいては運動はしない・・・、という限定的な部落解放運動にとどまることになります。

『部落学序説』執筆の動機となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いは、東岡山治牧師をはじめとする日本基督教団の部落解放運動の担い手とは、まったくことなる関心を筆者に引き起こしました。

部落差別のきびしいこの山口県の寒村にあって、先祖伝来の土地に根ざして生き続けている古老の姿は、筆者に多くのことを語りかけてきました。「地名」と「名字」、それは、決して切り離すことができないものであり、「地名」は「人名」を裏打ちし、「人名」は「地名」を裏打ちし、「地名」と「人名」ひとつとなって、被差別部落の古老の生きた物語を形成しているのです。

筆者が『部落学序説』を書き続ける背景には、「地名」と「名字」をその身に引き受けて生きる、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する敬意の思いがあります。

その古老を前にすると、筆者の目には、日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師の取り組みも、部落解放同盟新南陽支部の取り組みも色あせて見えてしまいます。部落解放同盟新南陽支部の方々は、筆者の地名・人名に関する考察を、「理解不能」とし、「ていげい主義、都合主義、方便、どうとらえたらよいものか。」と歎いておられるようですが、「ていげい主義」・「都合主義」・「方便」・・・、それは、『部落学序説』の筆者にとってはまったく無縁のことがらです。

「都合主義」なら、2002年の同和対策終了後、学者・研究者・教育者・運動家・政治家がこぞって部落解放運動の前線から逃亡を図っていくなか、狂い咲きのさくらのように、秋の荒涼たる世界に花をさかせるようなことはしなかったでしょう。

それに、仏教用語としての「方便」ということばをおとしめ「うそをつくことを正当化する」ような意味合いで用いるのは感心しません。サンスクリット語の「方便」は、「目的に到達するための道筋」(中村元著『仏教語源散策』)を意味することばです。仏教語としての「方便」は、「仏やボサツが、衆生をすくうためにたくみな手段をもちいること」を意味します。しかし、筆者は仏教徒ではありませんので「方便」を具現することはありません。

「仏やボサツ」ではないけれど、日本の社会から部落差別をなくし、だれひとりとして差別を受けて苦しむことがない社会にしたいという願いは、仏教徒に負けることはありません。

さらにいえば、「ていげい主義」とも無関係です。「ていげい主義」は、沖縄発のことばですが、そのことばの背景には、沖縄のひとびとの歴史と文化があるような気がします。卑近な意味で、「都合主義」・「方便」と同列に使用するのは、沖縄のひとびと、民衆に失礼であると思います。(参考にていげい主義の使い方:吉田町長は「ていげい」(ウチナー語で「いい加減・おおざっぱ」という意味)という言葉がピッタリな人で、基地の実態を私たちに見せようと、ホントはハイッチャイケナイ基地にも観光バスごと入れてしまいます。「天皇も総理大臣も入れないけれど、私は入れるんだよ」と笑う町長。いいですよね? 私はすっかりファンになってしまいました。)

『部落学序説』をかきはじめて、被差別部落の「地名」・「人名」に関する取り扱いが、ここまで、筆者と部落解放同盟新南陽支部の方々との「亀裂」に発展するとは夢にも思っていませんでした。

この「亀裂」は、筆者をキリスト教の「牧師」でなく仏教の「僧侶」として認識したときからはじまっているのではないかと思われます。対話は最初から成立していなかったのかもしれません。

『部落学序説』の筆者が、机上での対話が成立しにく学者・研究者・教育者のひとりとして、渡辺俊雄がいます。筆者が理解しにくい論文として、「地名は大胆に、人名は慎重に」という文章があります。被差別部落出身者ではない渡辺俊雄の「地名は大胆に、人名は慎重に」というキャッチフレーズと、日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師の「人名は大胆に、地名は慎重に」という姿勢とどちらが理にかなっているのか・・・。

『部落学序説』の筆者としては、「大胆」に語ることはないけれど、「旧穢多」(旧茶筅)の末裔として、その歴史を担い、先祖伝来の地で生き抜いておられる、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の生きかたの方にどうしてもこころひかれます。「地名もありのまま、人名もありのまま・・・」、自然体で歴史をにない、先祖をになっていきる生きかたに敬意の思いをもってしまいます。壊れた蛍光灯のようについたり消えたりするような部落解放運動より、部落解放運動の担い手から、運動のない、遅れた地域とみなされるその世界で、黙々と歴史をにない続ける、麦のような美しさを秘めた古老の姿に魅力と敬意を抱いてしまします。

この『部落学序説』はそのようなひとびとへの賛歌です。

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2006年11月17日 (金)

4.被差別部落と禁忌(タブー) 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌

今回は、文献を一切引用しないで、筆者自身のことばで綴っていくことにしましよう。

『部落学序説』において、筆者は、「差別」と「被差別」の関係を4つのパターンに分類して考察してきました。

「差別(真)」・「被差別(偽)」と「被差別(真)」・「差別(偽)」の4パターンです。被差別部落出身でもないし、被差別部落出身者としてことばを発したり行動したりしていない筆者は「差別(真)」の立場で、この『部落学序説』とその関連ブログ群の文章を執筆してきました。

より具体的には、近世幕藩体制下の被支配の側に身を置いていた「百姓」の末裔、「常民」の末裔として、その対極にある支配の側に身を置いていた「穢多」の末裔、「非常民」の末裔に対する理解と認識を文章にしてきました。

昨年の5月14日に『部落学序説』の書き下ろしを開始して数ヶ月後、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方から、抗議の文書をいただきました。手書きの文章です。

その抗議内容というのは、いままで、何回となく触れてきましたので、さらにことばを重ねる必要はないのですが、それは、筆者が、『部落学序説』を執筆するときの、被差別部落の地名・人名を取り扱うときの姿勢に関する批判でした。被差別部落の地名・人名を極度に「タブー視」することによって、『部落学序説』の文章は差別文章に陥っている・・・といわれるのです。

彼の批判は、筆者にとっては、予想外の批判でした。

従来の部落解放同盟の運動は、被差別部落の地名・人名を「タブー視」して、「差別者」に「被差別者」の地名・人名について一切言及させないもの・・・として理解してきましたので、『部落学序説』執筆に際しては、今日に至るまで、一切の地名・人名の実名記載はしていません。

ただ、例外として、出版された本の執筆者として使用されている「人名」については、そのまま引用しています。川元祥一・辻本正教・灘本昌久・東岡山治等です。彼らが、実名記載していると思われる「人名」まで「タブー視」することは、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方がいわれる「極度のタブー視」にあたるでしょう。

しかし、『部落学序説』の筆者である私は、被差別部落の「地名」・「人名」そのものを「タブー視」することはありません。

被差別部落の「地名」・「人名」は、一部の例外(「差別名字と差別戒名」で言及)をのぞいて、「地名」・「人名」そのものを忌避しなければならない特性はないと考えています。

もし、被差別部落の「地名」・「人名」そのものが忌避されなければならない内容をもっているのだとしたら、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、被差別部落の「地名」・「人名」を避け、研究上の忌避扱いを徹底するようになってしまうでしょう。被差別部落の「地名」・「人名」だけでなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究そのものから撤退を余儀なくされてしまうことでしょう。

部落研究・部落問題研究・部落史研究そのものから撤退は、もっと卑近な理由で、2002年の同和対策事業・同和教育事業の国家による終了宣言も影響して、学者・研究者・教育者の部落研究・部落問題研究・部落史研究からの撤退は現実のものとなっているのではないかと思います。

インターネット上で公開されている、部落差別問題に関する学士論文・修士論文・博士論文の概要を読めば、その傾向が著しく進展していること、全体として、部落研究・部落問題研究・部落史研究から後退している現実を確認せざるを得ません。指導教授がまともに指導しているとも思われないような学士論文や修士論文も少なくありません。

『部落学序説』の筆者の目からみると、部落研究・部落問題研究・部落史研究が大幅に後退していっている要因として、これまでの部落解放運動における「地名」・「人名」の極端な「タブー視」があげられるのではないかと思います。

部落解放運動が、被差別部落の「地名」・「人名」を禁忌扱いする一方、どの「地名」・「人名」を公表するかしないか・・・を部落解放運動の諸団体が恣意的に判断し、被差別部落の「地名」・「人名」の公開・非公開の「検閲」、フィルターの役割をになってきたことが、今日の部落研究・部落問題研究・部落史研究の進展の障碍となり、ひいては、部落差別完全解消の闘いを失速させているのではないかと思われます。

全国津々浦々に存在する被差別部落の完全解消につながる貴重な資料群は、こんにちの「時間」と「空間」に限定された、部落解放運動の担い手によって「私物化」され、「私的検閲」にさらされることによって、その史料的価値を剥奪・改竄・隠蔽にさらされ、部落研究・部落問題研究・部落史研究の資料足りえなくされているのです。

この問題を考えるとき、筆者は、よく漁業権の問題を思い出します。

漁業で生計を立てているひとびとにとっては、海は生活をささえる大切な場です。その海は、島国日本の貴重な資源として、先祖代々から受け継いできたものです。そして、それは子々孫々に渡って受け継がせていなかければならないものです。海は、漁師だけのものではなく、その周辺に生きているすべてのひとびとのいのちを養い育ててきたものです。

しかし、戦後、全国総合開発計画の名のもとに、産業の工業化・近代化が促進され、海は、工場から排出される有害物質で汚染され、魚に奇形を生じ、それを食べたひとびとに公害病を発生させました。海が公害で死に瀕したとき、多くの漁民は、漁師としていきることに絶望し、その絶望を見透かすかのように、国家と企業は、その漁師と組織・運動団体である漁業組合を相手に、彼らがまるで、彼らが漁をしてきた海のすべての権利を持っているかのように見立てて、彼らと交渉し、漁業保障とした施策を実施してきました。

そのとき筆者思ったのです。「海は漁師だけのものではない。みんなのものだ。漁師は、国家や企業と密約しないで、それらを破棄して、先祖伝来の海をとりもどすべきだ。そして、先祖から受け継いできた海を次の世代にも残すべきだ。」、と。

筆者は、おなじことを、部落研究・部落問題研究・部落史研究の場面においても考えるのです。

こんにちの部落解放運動の諸団体は、被差別部落の歴史にまつわる史料・資料に対して、「私的検閲」を行使し、その史料・資料を「私物化」し、「焼いてくおうが煮てくおうが俺たちの勝手・・・」みたいなふるまいをしているけれども、それは大きな間違いではないか・・・。取り除かなければならないのは、部落差別そのものであって、その史料・資料ではないはず・・・と考えたのです。

被差別部落の側は、学者・研究者・教育者からの申し出に対して、「私的検閲」を執行して、被差別部落の「地名」・「人名」の公開・非公開を決めているけれども、「私的検閲」をするならするで、その検閲の基準を明らかにして、公開・非公開の正当な理由を提示すべきである・・・と考えたのです。

部落差別完全解消につながる可能性のある史料・資料を、現代という歴史の一時期を生きているにすぎない現代の被差別部落のひとびと・部落解放運動の担い手が、その史料・資料の価値を恣意的に判断するのは間違いである・・・と考えたのです。

部落解放同盟山口県連の中で、山口県とその市町村、学者・研究者・教育者からの申し出に対して、山口県の被差別部落を代表して「私的検閲」をになってきた新南陽支部の方は、『部落学序説』の筆者のそのような発想に激怒し、被差別部落の地名・人名を過度にタブー視することは、かえって部落差別を助長することになると批判を展開されてきたのです。

「わたしは思う。どんなに強固な運動があろうとなかろうと、松本冶一郎だろうと誰だろうと、本人の意志によって姿を示すのである。それによって「類族」は影響を受けよう。それがどうした。先祖、子孫にどう責任を持つかは誰とて個人の意志であり、それ以上でも以下でもない。それは運動の中身の良し悪しをめぐる話ではない」。

部落解放同盟山口県連新南陽支部の、『部落学序説』の筆者に向けて語りかけられた怒りに満ちたことばです。

『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方との関係は、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係です。

『部落学序説』の筆者である私は、最初に記したとおり「差別(真)」です。しかし、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方は「被差別(真)」ではなく「被差別(偽)」です。つまり、彼は、「本人の意志によって姿を示すのである。それによって「類族」は影響を受けよう。それがどうした。」といいますが、彼は、被差別部落出身者ではないにもかかわらず、部落解放運動に参加しているということで、自らを「被差別部落民」と擬制して、「被差別部落民」として、「差別(真)」の『部落学序説』の筆者に、公開で論争を挑んでいるのです。

彼は、彼の土俵であるブログ『ジゲ戦記』の中でこのようにいいます。

「一方は己れの無力、おろかさに沈み、 他方は己れのプライド、自尊感情につき動かされ悲劇の主人公を演じる。しかれど、世界も幾多のコミュニケーション不全から、悲惨な歴史をくりかえす。多弁であろうとなかろうと、コミュニケーション不全は歴然としている。目の前にいて話そうとしないのだから……。話すほどの他者でもないのなら、無視して先に行けばよろしかろう。ごたくを本人にぶつけず、全世界に開ちんすればそれですむのか」。

「歴然」としている「コミュニケーション不全」は、決して、「差別(真)」と「被差別(真)」の間の「コミュニケーション不全」ではありません。「差別者」であることを自覚しつ、「差別者」として、『部落学序説』を執筆し続けている筆者と、「差別者」でありながら、「差別者」であることを棄て、「被差別者」として生き発言を続けている彼との間の「コミュニケーション不全」です。彼との対話は、筆者が山口に赴任してからの20数年、ほとんど全期間に渡って繰り返されてきました。『部落学序説』の筆者である私は、彼が、「部落解放同盟」という葵の印籠を片手に語りかけてくるがゆえに、「差別(真)」・「被差別(真)」を仮想して応答しているのです。

彼は、「差別者」であることを棄て、「被差別者」に同化していっているようです。

「被差別者」になりきるのは彼の自由ですが、「精神的似非同和行為者」にだけはなってほしくない・・・と願っています。「精神的似非同和行為」に埋没すればするほど、「差別者」であることを認め、その上で、部落差別完全解消の提言をしている『部落学序説』の筆者である私との間の「コミュニケーション不全」はより決定的なものになってきます。「差別者」はどんなにがんばっても「被差別者」にはなれません。「被差別者」になりきれる・・・という幻想を棄てて、「差別者」に回帰し、その上で「被差別者」と共に生きる道を再度たどられては・・・。きっと、山口県の部落解放運動の歴史に確実にその足跡を残すことができるでしょう。

ブログ『被差別部落の地名とタブー』・・・、そろそろ筆をおいて、『部落学序説』の執筆に戻り、第5章水平社宣言批判にむけて、第4章の最後のテーマ、「旧穢多はどのようにして、賤民意識をみずから受容していったのか」について言及していきたいと思います。1ヶ月と1週間の「道草」を終えて、あらためて、『部落学序説』という「ごたく」を並べることにしましょう。

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2006年11月18日 (土)

4.被差別部落と禁忌(タブー) 5.「別火別婚」という禁忌について

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 5.「別火別婚」という禁忌について

前項で、『被差別部落の地名とタブー』に終止符を打って、本論の『部落学序説』の執筆に復帰する予定にしていたのですが、再度言及することにしました。現在、インターネット上を賑わせている、部落解放同盟員による不正事件や、それに付随して起きているとみなされる部落地名総鑑事件、それに対して何の言及もすることなく終わることにためらいが生じてきたためです。

前回同様、今回も、資料・論文から引用することなく、『部落学序説』の筆者自身のことばで語ることにしましょう。

筆者は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」について語るとき、近世幕藩体制下の司法・警察に従事していた「非常民」の一翼をになう存在として「穢多・非人」を認識してきました。

地方史に埋もれてしまった文献の中には、「穢多・非人」が自らを非常の民として語っていたことを示す文書が少なくありません。「諏訪、御用之節は、御忠勤尽し奉つる身分」としておのれを理解していたのは、渋染一揆の当事者である岡山藩の穢多だけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としていきてきた、全国の諸藩支配下の穢多たちです。

強盗・殺人・放火など、世の中を不安と混乱に陥れる非常時に際しては、「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の非常民である奉行・与力・同心・目明し・村方役人同様、犯人確保のため日夜探索に励み、犯人逮捕にさいしては、日頃から訓練された、犯人を殺さずして生きたままつかまえる逮捕術(十手術・棒術)を磨き、その専門的な知識と技術を駆使して捕亡のわざに従事しました。

犯人逮捕は、昔も今も、司法・警察官の個人プレーによってなされるものではなく、梯子・刺又等の捕亡用具を用いての組織プレーによって行われていたのです。「非常民」を支配していた精神的支柱は、彼らが、近世幕藩体制下の「法」である法度に対する遵法精神でした。「穢多・非人」も、奉行・与力・同心・目明し・村方役人などの他の「非常民」同様、「法」に基づいてさまざまな治安維持に関わってきました。

『部落学序説』の筆者である私が、その執筆活動を通じてますます確信していることは、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、「差別された、あわれで、みじめで、気の毒な・・・」「賤民」としての「穢多・非人」ではなく、与えられた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務に忠実な「役人」を担ったひとびとです。

しかし、現在、問題になっている、部落解放運動の運動家にまつわるさまざまな不正事件・・・。そこにある、現代の被差別部落民の姿は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の姿と比べてみますと、まったく似て非なるものであることがすぐにわかります。

新聞・ラジオ・テレビ等のマスコミでとりあげられる部落解放運動に従事してきた被差別部落のひとびとの不正にまみれた姿は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の目からみますと、まったく異質な存在として映るのではないでしょうか・・・。近世においては、「法」の遵法者としての「穢多・非人」の姿と、昨今の様々な不正事件をおかし、社会のひんしゅくをかっている部落解放運動の従事者の「法」の違反者として姿は、まったく矛盾したものであると思われます。

近世幕藩体制下において、「法」を遵守していたはずの「旧穢多」は、現代社会のおいては、「法」の逸脱者として生きているように思われます。

なぜ、そのような状況へ、追い込まれ、被差別部落のひとびとも自らその世界へ飛び込んでいくことになったのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者としての私は、その背景には、被差別部落の側の歴史の忘却、自分たちの祖先が、近世幕藩体制下の司法・警察官として、「法」の下でその職務を遂行してきた・・・という歴史を忘却してしまっているという現実が存在しているように思われます。

なぜ、「旧穢多」の末裔は、「旧穢多」の歴史を忘れてしまったのでしょうか・・・。

明治以降の「旧穢多」の末裔たちは、様々な、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に課せられた政治的・社会的・文化的な「禁忌」(タブー)から自由になりえなかったためではないかと思います。それどころか、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての歴史と誇りすら奪い取られていったのではないかと思います。明治以降、「旧穢多」に課せられた新たな「禁忌」(タブー)は、「旧穢多」が「旧穢多」であることを認識せしめるようなことがらを排除し、最終的には、「旧穢多」に、その歴史の実像とはまったくことなる、日本の歴史・文化・政治から「賤民」として認識する、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって、「差別された、みじめで、あわれで、気の毒な存在・・・」としての歴史の虚像を押しつけることになったと思われます。

多種多様な「差別」の中で最も深刻な「部落差別」の本質は、被差別部落のひとびとから本当の歴史を剥奪し、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がつくりあげた歴史の虚像を強制することにあったのではないかと思います。

剥奪された、近世幕藩体制下の「旧穢多」のほんとうの歴史を取り戻し、あるべき姿に回復し、自己の「存在理由」の根拠をつかむことができなかった被差別部落の多くの人々は、ただ、「いわれなき差別を受けてきた・・・」という抽象的な発想を根拠に、「いわれなき同和対策事業・同和教育事業を要求し続けてきた・・・」のではないかと思います。

歴史の実像を忘却し、歴史の虚像に生きる被差別部落のひとびとは、大地に根を持たない浮き草のように、現代の差別社会の中を生きているのではないか・・・と思わされます。被差別部落のほんとうの歴史・物語をうばわれたとき、あとに残るのは、「目に見える形」(同和対策事業・同和教育事業の恩恵にあずかること)を追求することだけであった・・・と思わされます。

近代部落差別・現代部落差別の成立において、おおきな役割を演じた明治政府、近代中央集権国家・明治天皇制国家と、戦前・戦後を通じてその体質を継承している現代国家の果たした役割は無視できないものがあります。

国は、『同和対策審議会答申』によって、「被差別部落」のひとびとを「旧穢多」の末裔としてではなく、国と行政によって、「同和地区」として指定されて地域にのみ同和対策事業を実施します。その地域の歴史的事実がどうであれ、国・行政によって「同和地区」として指定されて地域を、同和対策事業・同和教育事業の対象地域としたのです。

「被差別部落」の外延には、「旧穢多」だけでなく、「特殊部落民」(「旧穢多」+その他のひとびと)に拡大され、「同和地区」指定されたあとには、「同和地区住民」(「旧穢多」+同和地区指定される前のその他のひとびと+同和地区指定された後のその他のひとびと)はさらに概念の外延を拡大させられていきます。

同和対策事業関連法は、「旧穢多」を対処にしたものではなく、「同和地区」と「同和地区住民」を対象にしたものであったために、同和対策事業・同和教育事業を舞台にした「似非同和行為」を抱え込むことになりました。「同和対策審議会答申」は、そのための理論的装置を提供し、同和対策事業関連法は、その法的基盤を提供していったのです。

部落解放運動内部の、国の同和対策事業に対する不安・懸念・危惧は無視され、多くの行政と被差別部落は「同和地区」指定を受け、同和対策事業・同和教育事業に参加していきました。「似非同和行為を含むことになろうと、同和対策事業・同和教育事業は、部落差別という、今日的人権侵害を取り除くためには急務である・・・」との認識で、それらの事業は推進されてきたのです。

今日、問題にされている部落解放同盟関連の様々な「不正事件」が、どのような被差別部落の層を反映しているのか・・・、部落解放同盟の不正事件に関する報道を目にしたり耳にしたりする都度、『部落学序説』の筆者としては、その疑問が頭の中をよぎっていきます。

部落解放同盟関連の様々な不正事件を、かつて、部落解放同盟の闘争手段である「糾弾」を逆手にとっての「逆糾弾」の様相を呈する今日の批判者たちは、みそもくそも一緒にする形で、部落解放同盟の批判に徹しています。

『部落地名総鑑』事件をめぐっては、果てしのない泥沼状態に陥りつつあります。

「部落地名総鑑」・・・、『部落学序説』の筆者は一度もその現物を見たことはありませんが、「部落地名総鑑」というときの「部落」とは何を意味しているのでしょうか・・・。「旧穢多」の在所のことでしょうか・・・。戦前の「特殊部落」と呼ばれた地域のことでしょうか・・・。それとも「同和地区」指定された地域のことでしょうか・・・。

「部落地名総鑑」の出版目的、また、その図書の購入目的から察して、現代社会の中を生きている被差別部落の若い層、青年層を対象にした結婚・就職時の「人定」のために用いられていることを考慮しますと、「同和地区」指定されて地区の一覧表のことなのでしょうか・・・。

日本の近代化にともなって、近世幕藩体制下の自然村を核とした「むら」は、統廃合を繰り返され、その名称はくりかえし変更されてきました。「部落地名総鑑」の目的から考えても、その「地名」というのは、現在有効な「地名」のことなのでしょう・・・。

最近の地方行政の再編成によって、「旧穢多村」、「旧特殊部落」、「旧同和地区」(同和対策事業が終了したので「同和地区」ではなく「旧同和地区」になっている)等の「被差別部落」の地名は大きく変更を余儀なくされています。それに都市区画整理事業などが加わりますと、その「被差別部落」の「地名」はますますあいまいなものになってきます。

「部落地名総鑑」が、一部の地域の「地名総鑑」ではなく、全国を縦断する「地名総監」である場合、今後、あたらしく、こころもとないひとびとによって作成されるかもわからない、新しい住所で記載された「部落地名総監」は、部落差別の再生産に資することになります。

『部落学序説』の筆者としては、それは絶対に許してはならないことであると思っています。

数日前、インターネット上で次のような記事を目にしました。

2006,11,08, : 衝撃スクープ!部落解放同盟系人権団体が「部落地名総監」を発行していた!
以下の画像をご覧ください。大阪市内の「旧同和地区の住所」、及び世帯数、人口が掲載されています。紛れもなく「部落地名総監」と呼ばれるものです。但し部落差別の拡大を防ぐべく、当サイト管理人が一部黒塗り、モザイク化等の加工を施しました。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、この記事は、すごく悪意に満ちた文章であると思われます。

その記事は、「紛れもなく「部落地名総監」と呼ばれるもの・・・」と断定していますが、この程度の、被差別部落の在所一覧は、徳山市立図書館郷土史料室に行けば、だれでも見ることができます。山口県に多数存在している「隣保館」にいって、その「年鑑」に相当する文書(自由閲覧)をみせてもらえばいつでも目にすることができます。

上記の写真入りで説明される住所の一覧表は、被差別部落の単なる名簿であって、「部落地名総鑑」と呼べるものではありません。

「部落解放同盟系人権団体が「部落地名総監」を発行していた!」という表現は、部落解放同盟に対する過度な批判・中傷以外のなにものでもありません。「組織」があるところ、「組織」の住所録が存在しても決して不思議ではありません。被差別部落の青年から結婚・就職の機会をうばうことにつながる「部落地名総鑑」とはまったく別なものです。

それは、部落解放同盟の組織の在所や、組織の人員構成は、部落解放運動にかかわったひとびとの「責任」の所在を明確にしたもので、「部落地名総鑑」が、日本全国に散在する被差別部落の青年の就職・結婚に際して、本人のあずかりしらないところで不利益を被せたり、差別の対象としたりする根拠として機能する差別文書とは質的に異なるものです。

単なる住所録も「部落地名総鑑」の区別をしないで、部落解放同盟内部の構造的(国と行政が大きく関与している)に発生している「不正事件」にかこつけて、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式のいやがらせ的言辞に徹するのは、部落問題・部落差別問題がなにもわかっていない「たわごと」ではないでしょうか・・・。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」の在所である「地名」に関する「禁忌」(タブー)は、今日でいう、被差別部落の「地名」に対する「禁忌」(タブー)とは別のものです。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」は、当時の社会の治安を維持する機能を果たすために、「村境」、あるいは「郡境」・「国境」に置かれました。

「穢多」の在所がどこにあるのか・・・・、その村・郡・国の住人はよく知っていました。しかし、その村・郡・国を通過する旅人にとっては、その在所は不明であったと思われます。他村・他郡・他国を旅するひとびとは、その境において、ときとして、「検問」の対象にされ、その身元の確認がなされ、持ち込み・持ち出しが禁止されている「御禁制品」を保持していないかどうか取り調べを受けることになりました。

近世幕藩体制下の「穢多」の在所は、地元のひとは知っているが、よそものにとっては、その在所が不明なままでした。禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」の在所は、その職務遂行上の緩やかな「禁忌」(タブー)であったのです。

人名についても同じです。長州藩では、長門国の「宮番」、周防国の「茶筅」は、「村廻り役人」のことで、その村に住み、その村の治安維持のために、その職務についていたひとびとですから、その名前は、村民にすべて知られていました。彼らの「名前」(名字を含む)に「禁忌」(タブー)などあろうはずがありません。

しかし、村境を越えて、「郡廻り役人」として、郡(長州藩では才判という)全体の視察・探索・捕亡に従事するとなると、それに従事していた「穢多」(現代の警察官・機動隊)の名前は「忌避」(タブー)の対象になってきます。彼らは、○○村の○○兵衛・・・として行動するのではなく、○○代官所支配の「穢多」としてその職務を遂行することになります。

治安維持のための探索に失敗すると、「穢多」は、捕亡の職務をとりあげられ、穢多村において、草履つくりや竹細工の「家業」に従事することになったでしょう。

「穢多・非人」は、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「権力」の末端装置、武士・百姓・町人に顔をさらしながらその職務を遂行するのですが、その職務の内容によっては、その地名・人名は、職務上の「禁忌」(タブー)項目として、「被支配者」から隠さなければならない・・・とされる場合も多々あったように思われます。

部落差別にともなう、様々な「禁忌」(タブー)の根っこは、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務に起因するものです。

「別火別婚」はその代表的なものです。

「別火」というのは、禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」に対する極度の差別のあらわれ・・・として存在していたのではなく、非常民としての職務遂行上、是非とも守らなければならない「禁忌」として存在していたのです。

日本だけではありません。紀元前の古の司法・警察である非常民を含む「役人」は、その職務を公正に行うことを要求され、「汚職」は、「役人」としてもっともはずべきものであると認識されていました。

中近東の古い文献には、「まつりごとをするものと共に食事をしてはならない・・・」という不文律が掲載されています。「まつりごとをするもの」が、差別されているから・・・というのではありません。「まつりごとをするものと」と食事をすることが、往々にして、「汚職」や「公金横領」の不正事件に発展するからです。

「別火」というは、禁制幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の職務遂行上の基本的精神として守ることが要求された、司法・警察官としての倫理的規定でした。

「別婚」というのも、宗教警察・政治警察・治安警察としての「穢多・非人」の結婚を通じて、その組織と職務内容が一般に流出し、司法・警察システムそのものが機能しなくなる可能性を排除するために設定されたものでしょう。

「別火」・「別婚」は、今日の警察官にも「禁忌」(タブー)として存在します。「別火・別婚」は、それ相応の合理的理由があって、非常民である「穢多・非人」によっても、それをささえる常民である「百姓・町人」によっても、「禁忌」(タブー)として機能してきたのです。

明治政府・近代中央集権国家は、国際外交上の問題で日本の司法・警察を近代化することを求めれ、代官・与力・同心・目明し・村方役人とともに、「穢多・非人」も、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の職務から原則として解雇されます。

しかし、明治政府は、キリスト教の国内での勢力拡大をおそれて、「宗教警察」でもあった「穢多・非人」を「半解半縛」状態において、日本の社会をキリスト教から防ぐための「防波堤」にしようとします。その取締りの対象であったキリスト教は、「半禁半許」の状態に置かれます。

明治4年の太政官布告によって、禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」はその職務からみかけ上は解放されたはずなのに、実質はその旧職務が継承されたため、禁制幕藩体制下の司法・警察として身におびていた「別火別婚」という「禁忌」(タブー)は温存されることになり、旧「穢多・非人」の内外から、「別火別婚」という「禁忌」(タブー)が強制されはじめます。

浄土真宗の熱心な門徒であった「旧穢多・非人」は、キリスト教排撃のため、キリスト教に接近し、情報を収集し、治安維持に抵触するとおもわれることを摘発・密告し、明治期の国家の方針の忠実な僕として、かげの職務を遂行してきたのです。

「旧穢多・非人」の歴史の中に深く刻み込まれた反キリスト教的体質は、今日に至るも、そうとう根強いものがあります。被差別部落のひとびとが、キリスト教の信仰を持つに至るのは極めて例外的なことです。

キリスト教の信仰をもった被差別部落のひとびとは、その「被差別部落」から自分を切り離し、キリスト教会の中の知識階級・中産階級として生きていったようにおもわれます。

しかし、彼らもまた、被差別部落の歴史のほんとうの姿を見失い、歴史の真実からかぎりなく逃亡している・・・、といってよいでしょう。被差別部落のほんとうの歴史の真実に立脚しないかぎり、キリスト教会においても、「別火別婚」は、差別的な「禁忌」(タブー)としていびつなかたちで存在し続けることになるでしょう。

水平社宣言において、「祖先を辱めてはならない」ということばがありますが、今日噴出している部落解放同盟関係者による汚職・不正事件は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、300年間に渡ってその職務を法にてらして遂行してきた「穢多非人」の「祖先」を辱めるものです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての歴史とほこりを捨象し、同和対策事業・同和教育事業にまつわる「利権」のみを追求し、部落解放運動そのものを汚辱につきおとしてやまない彼らは、いったいだれなのでしょう・・・?

「旧穢多」の末裔なのでしょうか・・・? それとも、「旧穢多」ではないけれども、日清日露の戦争によって悲惨のどん底に追いやられ、「旧穢多」の在所にころがりこんだ市民を含む「特殊部落民」の末裔なのでしょうか・・・? それとも、同和対策事業関連法によって「同和地区」・「同和地区住民」と「法定」されただけのひとびとなのでしょうか・・・?

部落解放運動が、「旧穢多」の末裔だけでなく、「その他」のひとびとも含んでなされたことはよく知られた事実です。

被差別部落出身ではない、ただの差別者のひとりにすぎない筆者が、この『部落学序説』とその関連ブログの文章をかきはじめたのは、同和対策事業・同和教育事業にまつわる汚職・不正によって、その濁流によってすべてのものが押し流されていくように見える状況の中にあって、部落解放運動の始源ともいえる源流の存在、人里離れた山間に端を発する清水の流れを知ってしまったからです。

筆者は、部落解放運動の「濁流」をみつめながら『部落学序説』を書き下ろしているのではなく、部落解放運動の「源流」・・・、「清水」をみつめながら執筆しているのです。部落差別は、完全に解消しなけばならない・・・、そのためには、被差別部落の青年は、その「濁流」に身をゆだねて、挫折し絶望するのではなく、その「濁流」から抜け出て、部落解放運動の「源流」に立脚すべきです。近代日本がしかけた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」をとりのぞき、おのれの先祖の歴史を史料にもとづいて冷徹に「観察」(かんざつと読む:現象をみつめることで本質に達するという意味の仏教用語)すべきです。

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2009年12月 4日 (金)

5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 1.高佐郷の歌 

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 1.<高佐郷の歌>

インターネット上で、<高佐郷の歌>を検索してみますと、まずヒットするのが、ブログ『ジゲ戦記』・・・。

そのプロフィールに<高佐郷の歌>全文が掲載されていますので、ブログ『ジゲ戦記』にアクセスすれば、すぐ目に入ります。

今回、<高佐郷の歌>に出てくる<地名>をてがかりに、被差別部落の地名に関する<禁忌>について少しく考察をしてみることにしました。

筆者の手元にある<高佐郷の歌>は、全部で4種類。最初の3つは、<高佐郷の歌>を発掘された、山口県文書館の元研究員、現在、山口大学の講師をされている北川健先生の論文の中に出てくるもの。最後のひとつは、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々のブログ『ジゲ戦記』で紹介されている<高佐郷の歌>・・・。

この最後の<最後の高佐郷>の歌は、北川健先生の3番目の1983年版の<高佐郷の歌>に、部落史研究会の方々の独自の解釈が読み込まれているという点で、第4番目の<高佐郷の歌>としてとりあげることにしました。前3つが<差別者>の立場からの<高佐郷の歌>の解釈であるとしましたら、最後の<高佐郷の歌>は<被差別>の立場からの<高佐郷の歌>の解釈であると言えます。

とりあえず、現時点で、その気になれば誰でも読むことができるブログ『ジゲ戦記』<高佐郷の歌>をとりあげてみることにしましょう。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗制道し
高佐郷中貫取

1983年版の<高佐郷の歌><せいとふ>とかな表記されているいる箇所は、ブログ『ジゲ戦記』版では<制道>と漢字表記に改められているところをのぞけば、両者はほぼ同じです。

しかし、部落史研究会の方々が、その<高佐郷の歌>に読みを付すことで、北川健先生の1983年版の<高佐郷の歌>と、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々のブログ『ジゲ戦記』版の<高佐郷の歌>とでは大きな違いが出てきます。

部落史研究会の方々は、上記の<高佐郷の歌>を次のように読んでいます。

1 ショウオカハカキノウチ
2 ヤマベハケガスカワハリバ
3 チョウリノヤクハタカサゴウ
4 ナンゾヒジョウノトキアラバ
5 ヒシギハヤナワコシドウグ
6 ロクシャクニブノボウカマイ
7 タビビトゴウトウセイトウシ
8 タカサゴウナカカンドリ

無学歴・無資格の筆者、高校生時代、古文は苦手科目であまり熱心に勉強してきませんでしたので、この<高佐郷の歌>を読むときにも、その読み方にほとんど自信はありません。乏しい、筆者の文学的知識に依拠して考察をすすめれば、日本の詩歌には、<五七調><七五調>がありますが、この<高佐郷の歌>は、<七五調>にあたります。

しかし、この<七五調>は、部落史研究会の方々の読みでは、<高佐郷の歌>の2行目から7行目までにあてはまりはしても、1行目と8行目は該当しません。

1 ショウオカハ・カキノウチ
8 タカサゴウ・ナカカンドリ

部落史研究会の方々の読みでは、一行目は<五五調>、8行目は<五五調>の<字あまり>になっています。8行詩のうち、1行目と8行目が強調された形になっています。無学歴・無資格、古典文学とはほとんど無縁の筆者、こういう<強調>がどの程度一般性があるのか、判断することができる資料をもちあわせてはいません。

筆者の乏しい知識では、本来<七五調>であるべきはずの句を<五五調>で読むのは、<読みの間違いではないか・・・>と想定せざるを得なくなります。部落史研究会の方々が<ショウオカ>、あるいは<ナカカンドリ>と読まれていることばの品詞はなになのか・・・。彼らは、それを地名であると認識しておられるようです。<高佐郷>における<穢多>の在所を示す地名・・・。

しかし、筆者が、徳山市立図書館の郷土史料室で史資料にあたった限りでは、<高佐郷>には、古代・中世・近世・近代を通じて、<少岡>・<中貫取>という地名はありません。『地下上申』・『風土注進案』・『山口県風土記』、そして<高佐郷>に関する郷土資料を探っても、<高佐郷>の地名の中には出てきません。

そういう意味では、1行目の<少岡ハ>と8行目の<中貫取り>は、<七五調>の基本に立ち戻って、<ショウオカハ>は<□□□□□□□>として、<コウサゴウナカカンドリ>は<□□□□□□□ □□□□□>として読みを正規化する必要があります。

無学歴・無資格、文学とはほとんど縁のない筆者が、文学の専門家から笑われるのを覚悟してあえて、新たな読みを付すとすれば、<ショウオカハ><スクナキオカハ>と読み、<コウサゴウナカカンドリ><コウサゴウチュウ ツナギトリ>と読むことになります。

その理由は、のちほどとりあげるとして、<高佐郷の歌>の読みは、次のようになります。

1 スクナキオカハ カキノウチ
2 ヤマベハケガス カワハリバ
3 チョウリノヤクハ タカサゴウ
4 ナンゾヒジョウノ トキアラバ
5 ヒシギハヤナワ コシドウグ
6 ロクシャクニブノ ボウカマイ
7 タビビトゴウトウ セイトウシ
8 
タカサゴウチュウ ツナギトリ

この<高佐郷の歌>・・・、山口県の部落史研究、あるいは同和教育においては、軽々しく取り扱うことができない、被差別部落の地名が入った歌として認識されてきました。その経緯は、筆者の手元にある、山口県文書館の元研究員で、現在山口大学の講師をされている北川健先生の3つの<高佐郷の歌>の、<公開>のための3つのパターンを検証すればすぐ分かります。

北川健先生は、山口県の部落史研究において、際立って良心的な研究者ですが、その北川健先生をも巻き込まずにはいなかった、被差別部落の地名に対する、必要以上の、極端な<禁忌>(タブー)、筆者、無学歴・無資格、山口県の部落史研究の門外漢であるにもかかわらず、批判検証をこころみたいと思います。

  

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2009年12月 5日 (土)

5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 2.高佐郷の歌の伏字について 

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 2.<高佐郷の歌>の伏せ字について・・・

山口県文書館の研究員・北川健先生によって、<高佐郷の歌>が紹介されたのは、1980年(昭和55)の雜誌『草論』(第3号)<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文でした。

残念ながら、筆者の手元には、その<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文はありませんので、その論文の中で、<高佐郷の歌>がどのような形で紹介されているのか、確認することができません。

しかし、同じく1980年の2月22日の<山口県の文芸の中の部落の歴史>という北川健先生の論文の中には、<高佐郷の歌>が紹介されています。筆者、そのふたつの論文で紹介されている<高佐郷の歌>は、時期的に見てほとんど同じ内容であるという推測のもとに、<山口県の文芸の中の部落の歴史>に紹介されている<高佐郷の歌>を引用させていただくことにします。

□□□□□□ハ垣ノ内
□□□は穢す皮張場
長吏の役ハ□□□郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
               (『□□□廻地名記』)

部落史に関する史資料を引用するときに、しばしば見ることになるこの<□>という記号・・・、<伏字>を示す記号です。この<伏字>を一般的に公開することで、この<高佐郷の歌>という文章が、被差別部落に対する差別助長につながることをおそれて、部落史の学者・研究者・教育者があえて<伏字>にして非公開とする・・・、という部落史の学者・研究者・教育者の配慮のあらわれです。

こういう<伏字>の入った、部落史に関する史料集・論文集は決してめずらしいものではありません。

たとえば、旧幕藩体制下の長州藩には、<穢多寺>と称される寺は4ケ寺存在しています。この寺について、山口県の部落史の学者・研究者・教育者が言及するときは、A・B・C・・・や、<>という記号を使って<伏字>で表現されるのが一般的でした。

たとえば、上記<高佐郷の歌>に出てくる<□□□郷>に存在していた<穢多寺・□□寺>(筆者は、相対表記で、<長門国北穢多寺>とよぶ・・・)は、次のように紹介されます。

真宗□□寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の□□宗門寺にて御座候事

これでは少しく難解になりすぎますので、次のように表現されることもありますが、そのときは、<穢多>ということばが、一般的に使用されると差別語になるが、部落史研究の学者・研究者・教育者が使用するときは<差別語>としてではなく<歴史用語>として使用していると注を施す必要が出てきます。

真宗穢多寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の穢多宗門寺にて御座候事

上記、<高佐郷の歌><□>という記号をつかった<伏字>も同じ意味合いをもっています。

山口県文書館の研究員の北川健先生は、<高佐郷の歌>を論じるとき、<□>という記号で<伏字>にしたところは特に注意が必要である・・・、と注意を喚起しているといえます。できれば、<伏字>のまま、そっとしておくべきことがらであると・・・。

しかし、北川健先生、《『防長風土注進案』と部落の歴史》という論文においては、

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

と、<□>という記号を使った<伏字>を解除して、<高佐郷の歌>に関心を持つ人々にその全文を公開しています。<伏字>を解除して公開に踏み切った背景には、山口県文書館の研究員・北川健先生の、部落史の学者・研究者・教育者としてのこころの葛藤と、文書館の研究員間で葛藤が存在していたのではないかと推察されます。北川健先生の論文には、後続の学者・研究者・教育者が、史実に遭遇できるように、いたずらに<伏字>にしないで、原文のまま記載しようとする傾向がみられます。

最初の<高佐郷の歌>の<伏字>は、たとえ<伏字>をつけても、この<高佐郷の歌>を公開しようとした、山口県文書館の研究員・北川健先生の、歴史研究者としての戦いの足跡なのでしょう。

<伏字>になったところを、もういちど確認してみましょう。

□□□□□□ハ垣ノ内・・・スクナキオカ→少岡
□□□は穢す皮張場・・・オカベ→岡部
長吏の役ハ□□□郷・・・タカサ→高佐
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
・・・タカサ→高佐
               (『□□□廻地名記』)・・・高佐郷

当時、山口県文書館、あるいは、その研究員の北川健先生は、この<□>の部分をなぜ<伏字>にしなければならないと考えたのでしょうか・・・? <少岡>・<岡部>・<高佐>ということばが<伏字>にされなければならない、どんな理由があったというのでしょうか・・・?。

  

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