2008年2月22日 (金)

●42年前の退職届書・・・?

今日、大阪府教育委員会事務局にある、公立学校共済組合大阪支部に、「退職届書」を郵送で提出しました。

最終、所属機関は、大阪市立十三中学校・・・。

<年金>の手続きは、はるか遠くの、昔のことを思い出させてくれます。

この1月、満60歳を迎えて、年金の申請手続きに行ったとき、徳山社会保険事務所の担当者の方が、強力に、筆者が公務員をしていたときの期間を、年金の算定期間に算入することをすすめてくださいました。

そのとき、教えてくださった手続き方法に従って、公立学校共済組合大阪支部に連絡をとったのですが、公立学校共済組合大阪支部の担当者の方、40年以上も前の記録を調べて、筆者の納付記録を確認してくださいました。

そして、最初の手続きが、「退職届書」の提出・・・。

最終所属機関名に、「大阪市立十三中学校」の名前を書きながら、「もし、あのまま、中学校に勤務して、中学校の社会科の教師になっていたら、どういうことになっていただろうか・・・」と考え込んでしまいました。

昔から、筆者は、「ひとからいろいろなことを押しつけられるタイプ・・・」。

たぶん、中学校の社会科の教師になっても、「同和教育担当」とやらを押しつけられ、「同和教育」の世界にのめり込んでいたのではないかと思われます。

筆者は、さらに、「思い込んだらいのちがけというタイプ・・・」。

同和対策事業・同和教育事業終了後も、「最後のひとりが差別されなくなるまで、取り組みを続けなければ・・・」と、部落差別と解放教育を見直し、過去の資料を整理、批判検証をし直し、定年を迎えて、教育の現場をあとにしたとき、それまでの一般説・通説・俗説を総括するような形で、『部落学序説』なるものの執筆をはじめたのではないかと思われます。

岡山県立児島高校を卒業、ほとんどの同級生がそれぞれ志望していた大学に進学する中、筆者は、ひとり、就職試験(大阪市立学校事務職員採用試験)を受けに行きました。岡山県立児島高校を最下位の成績で卒業したにもかかわらず、20数倍の倍率の試験に合格して、中学校教師になる途が開かれて行ったのですが・・・、「運命」というのは、いつどのようにそのひとの人生にいたずらをするやら・・・。

病気で倒れた父の看病と家族を支えて苦節10年・・・、学校教師になる夢を断たれて、進んだのが、日本基督教団の牧師になる途・・・。こちらの方は、年齢制限がありませんでした。

そして、西中国教区が筆者に与えた担当は、部落差別問題特別委員会・・・。4期8年委員を担当して、その委員を継続することを辞退したとき、山口東分区の教職たちは、「分区が決定した担当を辞退するようなものに、他の委員を担当させるわけにはいかない・・・」として、筆者をすべての担当からはずしてしまいました。そして、4期8年に続く、8期16年間は、無役、無担当・・・。

そして、無役、無担当の間、そのうちの10年間程は、山口県の職業訓練機関で情報処理の講師をしていましたが、こちらは、情報処理の業者としての「請け負い」・・・、年金とは関係がありません。

その10年間、パソコンの指導をしながら、余話で、筆者が調べた部落史の話、被差別部落の寺や村を尋ねた話・・・、『部落学序説』に書いているような話を、<社会同和教育>と称してしてきました。

受講生の中には、部落解放同盟の運動家の方々も、未指定地区の方々も、被差別部落出身の市議のご家族の方々も少なからず含まれていました。

山口県の担当の主任の方から、それぞれの受講生の「個人情報」の提供を受け、それぞれの受講生の経歴を踏まえながら講義と実技指導をしていましたが、担当の主任の方曰く、「普通、同和の話は暗い話が多いのに、吉田さんの話は全然違いますね。みんな、熱心に聞いて、頷いている・・・。○○さん、急に元気になりましたね。朝、事務室の前を通るとき、講座にくるのがうれしくてたまらないみたいに挨拶していくんですよ・・・」。

筆者は、ほんとうの同和教育は、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々のように、被差別部落の人々を、いったん、「賤民」として貶めたあと、「それでも差別をはねのけて闘った・・・」、「被差別部落のあなたも、差別をはねのけて闘わなければならない・・・」と、下げたり上げたりして、被差別部落の人々のこころをもてあそぶような教育のことではなく、被差別部落の人々が、差別思想である「賤民史観」という「共同幻想」から解放されて、昨日・今日・明日と、自己の歴史的同一性を生きることができるアイデンティティの確立を手助けする教育であると思うのですが・・・。

筆者は、42年前の運命のいたずら・・・、に関係なく、歩むべくして今の人生を歩まされたように思われます。<学校同和教育>にかかわったか、<社会同和教育>にかかわったかの違いだけで・・・。

42年前の退職届書・・・

薄い1枚の紙切れなのですが、筆者にとっては、何か、ものすごく重たいと感じました。

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2008年2月14日 (木)

●公立学校共済組合大阪支部から電話・・・

満60歳になって、社会保険事務所に年金の申請手続きに行ったとき、担当者の方から、「大阪市立中学校に勤務していた期間の年金の申請をするように・・・」、と指導を受け、連絡先を教えてもらって、関連機関に調査を依頼していたのですが、今日、公立学校共済組合大阪支部から、その記録が見つかったとの電話がはいりました。

最終勤務校は、大阪市立十三中学校・・・。

大阪市立十三中学校に勤務しながら、関西大学の夜間学部で勉強して、社会科の教師になるつもりでした。研修校は、瓜破中学校でしたが、校長によると、「関西大学は、十三中学校に近い。中学校の社会の教師になるなら、関西大学で勉強した方がいいかもしれないので、君の任地は、十三中学校に推薦しておいたから・・・。大学を卒業したら、そのまま教員になることがでる・・・」という話でした。

そして、瓜破中学校での研修を終えて、十三中学校へ転任していったのですが、公務員をしていた筆者の父の脳梗塞が再発・・・。失意と傷心の思いをもって、故郷、岡山へ帰って行きました。そして、苦節10年、病気の父と家族を支えて、長男の<つとめ>を果たしてきましたが、公立学校共済組合大阪支部の担当者の方からお電話いただいて、その時代のことが、いろいろと思い出されてきました。

その担当者の方の声・・・、瓜破中学校で一緒に研修を受けていた前田雛子さんの声に似ているようでした。「岡山から田舎がはじまる・・・」と言われていた時代、田舎者の筆者に、大阪の町と、その町での生活の仕方をいろいろと指導してくださったのは、同期の前田雛子さんでした。日教組の幹部の娘さんとか・・・。

筆者にとっては、忘れることのない名前です。

これで、筆者の年金に、大阪市の中学校で勤務していた時の、ほんのわずかな期間ですが、共済年金が加算されることになります。

強引に、確認をすることをすすめてくださった、社会保険事務所の担当者の方のおかげです。

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2008年2月 1日 (金)

●一地方都市で「孤独死」年間231人・・・

今日の朝日新聞の山口県版に、北九州市の「孤独死」の統計が出ていました。

「北九州市内で過去一年間に、誰にもみとられずに亡くなり、死後しばらくしてから発見された「孤独死」が少なくとも231人に上ることが31日、明らかになった」。

「市が民生委員に調査した結果」だそうです。

北九州市は、調査に先立って、「孤独死」を、「家族や友人など誰にもみとられず亡くなり、死の翌日以降に発見されること」と定義したそうです。

北九州市が、その民生委員に1431人にアンケートした結果、231人の「孤独死」が明らかになったというのです。「孤独死した人」は、20~40歳代13人、50歳代32人、60歳代38人、70歳代97人、80歳代49人・・・。

大友信勝・龍谷大教授は、この数字は、「年間の自殺者数に匹敵する」といいます。毎年、自殺者、孤独死した人は、それぞれ30000人を超えているといいます。

この記事を読んで、筆者がショックをおぼえたのは、国は、「孤独死の定義も、全国的な統計」も一切していない・・・、ということです。国にとっては、孤独死する人に対して関心も持たず、配慮する必要もない、ということでしょうか・・・? 問題にすると、格差社会を意図的に構築していった国の施策の失敗が白日のもとに曝されるからでしょうか・・・?

北九州市が出した数字・・・、「生活保護に絡む孤独死が3年連続発覚した・・・」(行政が市民の生命を切り捨てた・・・)行政の数字であることを考えると、孤独死した、あるいは、孤独死させられた国民は、3万人をはるかに超えているのではないかと想定されます。

自殺者と孤独死、年間60000人・・・。

国は、2年に1回、「日露戦争」と同じ死亡者を出しているようです。

自殺したり、孤独死したりする「国民」に告ぐ! 黙って死ぬな!

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2008年1月28日 (月)

●草花のデザインの小皿5枚・・・

今日、社会保険事務所へ行く前に、郵便局によりました。

年金の振込先の証明印をいただくためですが、そのとき、郵便局の女の子から、市田ひろみデザインの、草花の模様の入った小皿5枚組みを頂きました。

妻は、その草花の模様の入った小皿がとても気にいったようです。

そして、曰く、「あなたが、<老人>になった記念品よ・・・。大切にすることにしましょう・・・」。

牧師には、定年退職制度は、基本的にはないので、60歳になった筆者は、今しばらく牧師を続けることになるので、実質上の<停年>ではないのですが、いくらなんでも、<老人>という言葉は筆者にとって、まだ、まだ、<酷>です。

妻曰く、「私、何十回となく、水上勉の『土を喰う日々-わが精進十二ヶ月-』を読んでます。福島の地に帰ったら、あなたが畑で作った野菜で、毎日、この本に出てくる精進料理を作ってさしあげてよ・・・」。

水上勉著『土を喰う日々-わが精進十二ヶ月-』にこんな言葉がありました。

一つには功の多少を計り彼の来所を量る
二つには己が徳行の全欠を付って供に応ず
三つには心を防ぎ、過を離るる事は貧業を宗とす
四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんがためなり
五つには成道のための故に今この食を受く

いま、六十歳になって、この偈をこころ深く思うてみるのである。

これは、禅宗の「寺で、食前に唱じた経のこと」「五観の偈(げ)」というそうです。

『土を喰う日々』には、水上勉の<現代訳>が記されていました。

六十歳になった、<耶蘇の坊主>が、日々、「こころ深く思うてみる」のは、<主の祈り>のひとつひとつの言葉なのかも知れません。日頃、唱えれど省みることのない、主イエス様が教えてくださった<主の祈り>・・・、ひとことひとこと、「こころ深く思うてみる」ことにしましょう。

60歳になったことを記念していただいた、市田ひろみデザインの、草花の模様の入った小皿にもられた惣菜を食べながら・・・。

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●年金の申請手続きのため社会保険事務所へ・・・

今日、社会保険事務所へ行きました。

年金の受給申請の書類を携えて・・・。

行きは、冷たいみぞれが降っていました。帰りは、そのみぞれ、雨に変わっていましたが、その雨の冷たいこと、冷たいこと・・・。

「年金手続き/相談」の窓口・・・、たくさんの人が群れをなしていました。それで、筆者と妻は、その待合室で、順番を待つことになりました。待ちくたびれるにつれて、だんだん、わびしさを感じるようになりました。

年金申請のための提出書類は、すべて、整えて行きましたので、何も問題はなかったのですが、筆者が、大阪市立中学校に勤務していたときの、「共済年金」が問題になり、社会保険事務所の担当者の指示に従って、帰宅してから、その詳細を関係機関に連絡して調査を依頼したのですが、結局、「大阪市教育委員会に照会してみるので、二、三日かかります・・・」ということで回答待ちになりました。

公的機関に勤めていたときの期間は、どんなに短期間であったとしても、年金に反映させた方がいいとか・・・。

妻曰く、「大阪の公務員をしていて、どうして、すぐやめたの? もったいない・・・」。

筆者答えて、「大学進学を断念したのも、公務員をしていた親父が脳梗塞で倒れたから・・・。折角、23倍の倍率の試験を乗り越えて、採用された公務員を辞めたのも、親父が脳梗塞で再度倒れたから・・・。人生、いろいろあるさ・・・」(その当時、医療補助制度はありませんでした・・・)。

苦節十年、人生の一番若き時代を家族のためにささげて、そのあと、日本基督教団の牧師になり、山口の小さな、「閉鎖対象」の教会に赴任して25年・・・、前任者が自害したという教会を閉鎖するにしのびず、<それでも、主イエス様の教会に違いはない・・・>と、小さな教会にとどまり続けてきましたが、<隠退>したあとの老後の生活は、寒々としたものがあります。

妻曰く、「これでは、とても生活できないわ・・・。私、働くことできる間は働くことにするわ・・・」。

礼拝堂の温度は6度C・・・。

礼拝堂のうしろに設置しているパソコンのキーボードを叩く指が、みるみるうちに冷えて、指の先から冷たくなっていきます。

梅の花も、この冷たい雨のため、咲くのをやめたようです。春は、まだ、まだ、遠い・・・。本当に、遠い・・・。

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