2008年4月27日 (日)

●衆議院議員山口2区補欠選挙、民主党勝利!

P4140152衆議院議員山口2区補欠選挙、民主党が勝利したようです。

筆者、日本基督教団西中国教区の牧師の中でも、非政治的な牧師で通っています。

それなのに、今回、はじめて、特定の政党を応援することにしました。といっても、筆者、本質的に、非政治的な存在ですから、小沢民主党をどう応援したらいいのか、皆目見当がつきません。

公示前、平岡秀夫さんの秘書の方が尋ねてこられたとき、教会の市道沿いの植木の中に、民主党の看板を立ててもいい・・・、とお話しました。

そのあと、秘書の方、平岡秀夫さんと一緒にこられて、左の写真の場所に、民主党の看板を設置することにしました。

教会の前の市道を車で走っていると、必ず、小沢民主党のポスターが視界に入ってきます。昔は、県道でしたので、今でも、教会の前の道を利用される人が少なくありません。効果は、決して少なくないと思いましたので・・・。

選挙期間中、衆議院議員の土肥隆一さんと参議院議員のツルネン・マルティさんが、教会を尋ねてこられました。どちらも、クリスチャンですから、応援するのは、当然といえば当然なのですが、今回、民主党が勝利したのは、ていねいに、市民に訴えたことにあるのではないでしょうか・・・。

自民党の候補者の陣営からのはたらきかけは、一切ありませんでした。今回にはじまったことではありませんが・・・。

格差政策で、地方を疲弊させたのは、自民党・公明党の小泉連立政権・・・、今回の補欠選挙で、自民党は「地方の活性化」をうたい文句にされていましたが、なにか、「足を踏まれた相手から、おまえの痛みを緩和してやる・・・」といわれたようで、「そういうことをいうまえに、その足をどけろ・・・」といいたくなるような感じがしていました。

福田首相、衆議院議員山口2区補欠選挙に勝利しても敗北しても、そこに、国政に対する民意が反映しているとは考えない、という趣旨の発言をしたとか・・・、テレビのニュースで放送されていました。

教会の市道沿いの植木の中に設置した小沢民主党の看板、常設用です。

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2008年3月 1日 (土)

●昨日はひさしぶりに熟睡・・・

昨日は、ひさしぶりに熟睡しました。

今朝は、目のかすみは、少し和らいできました。

少しよくなると、すぐパソコンの前に座る筆者ですが、今朝は、『部落学序説』の1文書あたりのアクセス件数を出してみました。

被差別部落の地名とタブー  9033件
ある同和対策事業批判  1330件
部落学序説  786件
紀州藩「城下町警察日記」を読む  151件
田舎牧師の日記(Ⅱ)  62件

筆者が各文章、読者の方々が読みにきてくださるのは、部落差別問題関連記事です。教会・花・野菜・小鳥の話は、極少数の方々のみ・・・。

部落差別問題関連記事で、読者数の多いのは、以下の順です。

部落差別問題の現代>近代>近世>中世>・・・

執筆の主題が、中世よりも近世、近世よりも近代、近代よりも現代を主題にしたものの方が読者数が多いようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史学的研究ではありません。非常民に関する学としての「部落学」という、新しい枠組みで執筆されていますが、現在のところ、近世から近代へ、近代から現代へ・・・、と主題の時代的範囲を拡張していますが、現在は、その流れと逆行して、近世と近代のはざまに戻って、「百姓の目から見た渋染・藍染」について執筆しています。

アクセス件数をみすみす減少させる営みです。

しかし、これまで、『部落学序説』で紹介してきた視点・視角・視座、方法で、「岡山藩」の「渋染一揆」をとらえたらどうなるのか、その実践事例として言及するのも悪くはないかな・・・、と思って、執筆を続けています。

筆者の手元にある、部落差別問題関連資料は、現代>近代>近世>中世>・・・の順番ですから、ひとつの文章を書くために確認しなければならない資料は飛躍的に増えます。その資料を批判検証するためには、近世のテーマについて言及する以上に、執筆者の視点・視角・視座を明確にしなければなりません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に<破壊>・・・、するためには、膨大な時間と労力が必要なようです。

吉岡幸雄著『日本の色を染める』に記されているように、「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・。「貴色」・「賤色」という発想は、外来思想である中国の悪しき文化に汚染された古代天皇制の残滓でしかありません。「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・、のと同様、すべての「ひと」は、美しい・・・。そこに、本質的に「貴人」・「賤民」と呼ばれるような人が存在するはずもありません。

それぞれの時代の支配階級が、自分の都合のいいように制度化したに過ぎません。

現代の「被差別部落」の人々は、その先祖の歴史にまでさかのぼって「賤民」として、部落史の学者・研究者・教育者からラベリングされることを黙って容認してはならない、差別思想である「賤民史観」という、一見、「被差別部落」の人々を「勦るかの如き・・・」教説は、「多くの兄弟を堕落させた・・・」教説であり、差別的な部落史の学者・研究者・教育者によってはきかけられた「クダラナイ嘲笑の唾・・・」に過ぎず、「呪はれの夜の惡夢・・・」に過ぎない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者によって押しつけられた「賤民」としての「烙印・・・」を投げ返さなければならない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な思想「賤民史観」を受け入れ、「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ・・・」・・・。そして、「被差別部落」の若い世代が、「人生の熱と光」を持って生きることができるよう、差別思想である「賎民史観」を葬り去り、民衆と共に差別なき新しき社会をつくろう・・・。被差別部落の人々を差別の奈落に落としこめた人々は、民衆ではない。背後にあって民衆を教育し、差別思想である「賎民史観」を注入し続けてきた、学者・研究者・教育者である・・・。彼らは、それぞれの時代の権力の走狗として、「被差別部落」の人々の「誇りうる・・・」近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として生きてきた歴史と人生の物語を奪い続けてきたのだ。自ら構築すべき歴史を、差別者である、部落史の学者・研究者・教育者にゆだねた結果、「賎民」とラベリングされてきたし、今もされている、そしてこれからもされ続けることになる・・。「被差別部落」の「人間を冒涜」することを許したことは、今日に至るも、「被差別部落」の「多くの兄弟を堕落・・・」させている。「被差別部落」の若い学徒たちが、「人間を尊敬する・・・」ことの真の意味を認識し、差別思想である「賎民史観」を投げ返し、「自らを解放せんとする者の集団運動を起こせるは、寧ろ必然である・・・」。近代以降の歴史学者・研究者・教育者が構築してきた、差別思想である「賎民史観」を破棄し、自らの歴史と物語を取り戻すとき、決して、差別されることのない「祝福された時が来る・・・」。差別なき社会の夜明けは近い。押し付けられた「荊冠・・・」をかなぐり捨て、勇気をもって、真の部落解放運動のために立ち上がるべきだ。大学の教室で、図書館で、研究室で、差別思想である「賎民史観」を打破すべく勉学を続けよ。毎日毎日、真の部落解放の姿を考えよ。これまでの部落解放運動は、真の部落解放運動の<前座>に過ぎない。戦いはこれからだ。差別思想「賎民史観」の打破と、それを永久に葬り去る課題は、大学で、その図書館や研究室で学ぶ、「被差別部落」出身の学生の肩にかかっている。「人の世に熱・・・」「人間に光・・・」、「被差別部落」の本当の歴史をその手に掴むために、差別思想である「賎民史観」の担い手である学者・研究者・教育者の言説を批判検証し、議論・討論し、「賎民史観」を放棄せしめ、「人間に貴賎はなし・・・」との理念のもと、真の部落解放運動に共同参画せしめよ。真の部落解放運動の前座でしかない、同和対策事業の様々な問題に臆するな。同和対策事業の最初から<罠>は想定されていた。大切なのは、真の部落解放運動の担い手足るべく自らを飛躍させることだ。無学歴・無資格、「被差別部落」出身ではない、ただの「百姓」の末裔に過ぎない、部落解放運動の門外漢に過ぎない筆者の言葉を読む、<あなた>、<あなた>にはそれができる!

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2008年1月29日 (火)

●今朝も雨が降っている・・・

今朝も雨が降っています。

しかし、昨日の、みぞれまじりの冷たい雨と違って、あたたかみのある雨です。小雨降る中、庭の木々の間から、小鳥のさえずりが聞こえてきます。昨日、固くなっていた梅の花も、また少し開いてきた感じがします。

その雨の中、ぶどう棚の下と簡易温室3箇所、礼拝堂南側の窓の軒の下・・・、そこで育てている花の苗に水をやりました。

「ここの牧師さん、雨の中、花に水をやっている・・・」。

通りを歩く人々の中には、青色のホースを持って、教会の庭の花の苗に水をやっている姿は、奇異に映るらしい・・・。しかし、そう思われてもしかたない・・・。筆者自身、雨の降る日にも、花の苗に水をやらなければならなくなるとは、夢にも思っていなかったのですから・・・。

花屋さんで販売されているきれいな花を買ってきて楽しむだけなら、こういう作業は一切しなくてすむのですが、昨年も咲かせ、今年も咲かせ、そして、来年も咲かせていこうとすると、春夏秋冬、その花とかかわることになります。そして、場合によっては、雨に日に、花の苗に水をやることも・・・。

妻が植えた教会の庭の草花木・・・。

その時々の流行の「時分の花」とは無関係で、3年前、5年前、10年前、20年前・・・の花の種や宿根、球根が受け継がれていって、毎年、きれいな花を咲かせています。昨日・今日・明日・・・、花にも、アイデンティティがあります。

「時分の花」を追いかけていますと、花のアイデンティティなどという概念、視野に入ってくることはないのでしょうが、同じ花を、毎年、毎年、咲かせていると、否応なしに、その花のアイデンティティを認識するようになります。

教会の庭に咲く花は、その花の「クラス」の「インスタンス」です。教会の庭に、毎年咲く花は、その花の本質(「真実の花」)の現象面の姿です。

花屋さんの花を買い求めることを断念し、教会の瓦礫とバラスだらけの庭を開墾して、花をさかせていった・・・、結果です。「真実の花」は、どのような環境の中でも、花を咲かせることができるのです。

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2008年1月22日 (火)

●発生学と病気・・・

青年時代、筆者は、病院に勤めていたことがあります。

そのとき、臨床病理検査室で、お昼の休憩時間に、医師の方々のいろいろな話を耳にしました。

人間の受精卵も、細胞分裂をしながら成長していくのですが、初期の段階で、内胚葉・外胚葉・中胚葉に分化します。そのとき、内胚葉・外胚葉・中胚葉の健康状態に優劣が生じます。

発生学的な段階で、一番弱い部分、それが、その人が人間としてこの地上に生まれ、育ち、成長して大人になり、やがて老衰して死んでいく過程の中で、どのような病気を経験することになるのかを決定する・・・、という話もありました。

内胚葉が弱い人は内胚葉系の病気になり、外胚葉が弱い人は外胚葉系の病気になり、中胚葉が弱い人は中胚葉系の病気になる・・・、というのです。人間は、三つの系列のいずれかの病気を経験するのが普通で、他の系列の病気を併せ持つことはまれである・・・、というのです。

コーヒーを飲みながら、そんな話をしていた医師・・・。「吉田君は、外胚葉系だな・・・。若いときから、外胚葉の臓器には、注意した方がいいよ・・・」。

その説が正しいとしますと、筆者は、「関節」(外胚葉系)をわずらっても、「肝臓」(内胚葉系)はわずらわない・・・。自分に都合のいい、身勝手な論理ですが、まあ、そういうことにしておきましょう。

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●簡単ではない年金申請手続き・・・

今日は、朝から年金申請のための準備作業・・・。

最初に直面したのが、筆者の住所、下松市大海町・・・。社会保険庁から送られてきた書類に印字されています。下松市役所の支所で話を聞いたところでは、この住所は通称であって、正式には存在していないといいます。

<公的>手続きでは使用できない・・・、といいます。

そうだとすると、筆者は、長い間、日本の社会の中では<公的>に存在していない住所に棲息していたことになります。筆者の存在に重さがないのは、そのためかも知れません。

年金申請に必要な戸籍謄本をとろうとしますと、下松市役所では発行できないといいます。「本籍地に出向いて戸籍謄本をとってください・・・」。筆者の本籍というのは、神学校在学中、妻と結婚したときに、婚姻届けを出した場所・・・。

教会に帰って、本籍のある神奈川県某市に電話で照会したところ、懇切丁寧に説明してくださって、その上、年金申請に使う場合は手数料は無料なので送付しないでいいとか・・・。ご厚意にあまえて、早速、速達料金を同封して、郵送で申請しました。

そして、行きつけの郵便局へ・・・。

年金を受け取るためにの口座を開設してほしい、と頼みますと、顔見知りの受け付けの女の子曰く、「吉田さん、口座持ってなかったんですか・・・?」 「ええ、長い間その日暮らしですから、口座持っていないんです・・・」。「ええ! そうだったんですか・・・」 郵便局の方々も意外だったようです。

教会の口座はあっても、筆者個人の口座は今日に至るまでなかったのです。年金受給の受け皿として、今回はじめて、郵便局に口座をつくることになりました。筆者の口座の残高、今日開設時に入れた1万円のみ・・・。

社会保険事務所に、年金申請の書類を提出するのは、来週になりそうです。

郵便局の窓口の女の子たち、きっと驚くことでしょうね・・・。「牧師の吉田さんの年金、こんなに少ないの?」

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●大寒来りなば立春遠からず・・・

冬来りなば春遠からじ・・・。

中学生のとき、英語の教師が教えてくれたことばのひとつに、<If winter comes, can spring be far behind.>という言葉があります。

この英文、上田敏の名訳、「冬来りなば春遠からじ」で知られていますが、その英語の教師の説明では、「冬が来ると、春ははるか遠くにある・・・。だから、充分冬の備えをしなければならい・・・」という意味だそうです。上田敏は、その英文を全く逆の意味に訳して、「冬来りなば春遠からじ」と意訳して、名訳の名を得たとか・・・。

昨日、1月21日は、大寒・・・。

教会の会計担当の役員の方が、年末調整のために税務署に行かれました。源泉徴収票と納税振込用紙をもって教会に帰られたとき、寒くて、ガタガタ震えておられました。税務署は寒いとか・・・。納税額を見て、筆者もガタガタ・・・。なんで、例年の数倍に跳ね上がるの? 今年60歳になって、年金受給者になることを先取りして、税金の還流・・・、なんて勝手な<迷想>をしてしまいます。

税務署の人、「生命保険でもかけていれば5000円安くなったのに」と言われたとか・・・。筆者も妻も生命保険には、昔から入っていない。そんな経済的ゆとりなどなかったから・・・。

国道2号線沿いの米沢園芸でもらったカレンダーには、「大寒」が刻印されています。そして、2週間後の2月4日は「立春」・・・。

カレンダーを見ていて、<大寒来りなば立春遠からず・・・>という言葉を思い起こしました。上田敏というひと、カレンダーで大寒と立春の文字をみながら、<If winter comes, can spring be far behind.>という言葉を思いついたのでしょうか・・・?

日本の国民感情からしますと、「冬来りなば春遠からじ・・・」。

しかし、現代日本の政治家の職務怠慢・職務放棄・・・。政治・行政の失敗の責任をとることなくその損失を、国民すべてに押しつけてくる手法、小企業は倒産、失業者と派遣労働者は巷にあふれ、こころやさしき人は助けを求める声をあげず、病を抱え、食を失い孤独死していく・・・。少しく抗議の思いを秘める人は、愛する家族と一家心中の道を選ぶ・・・。格差社会は、資本主義の理念とばかり、格差社会を促進させ、「勝組」に加わるために「負組」を踏みつける人々・・・。あちらこちらにみられる中産階級・知識階級の人間性崩壊と権力におもねる姿・・・。

<If winter comes, can spring be far behind.>の、上田敏による美しき誤訳に酔わないで、冬の時代に突入して久しい現在、国民にとっての春は、まだまだ、<はるかに遠い>ことを胆に命じ、長い冬に耐えることのできる覚悟と備えをしなければならないのかもしれません。

「歴史の主」である神が、権力者の首をすげ替えてくださるときまで・・・。

今朝の礼拝堂の温度は6度C・・・。シクラメンは、元気です・・・。

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2008年1月19日 (土)

●ガン告知・・・?

昨日の夜、寝る前に、妻がこんなことを言い出します。

「あなた、もし、もしもよ・・・、あなたが肝臓ガンだと診断されたら、あなたにそれを告知していいの?」
「ああ、いいよ。」
「動揺しない?」
「動揺なんてしないよ。」
「あと、余命1カ月と言われても・・・」
「たとえ、1カ月でも、1カ月でできる可能性のあることに挑戦するだけ・・・。」
「小鳥がさえずるように、○○さん(筆者は妻のことをそう呼ぶ)に、<愛しているよ>って、生き続けることができたときに言える回数をまとめていうかなあ・・・」(筆者は、結婚して以来今日に至るまで、洗礼を受けた端典の宣教師のすすめで、1日3回は妻に<愛しているよ>と言い続けている・・・)
「あなたは深刻な話をしているときに、すぐ、そんな冗談をいうのだから・・・」
「冗談ではないよ。<愛している>のは本当だよ。」
「C型肝炎ウイルスに感染して30年後に肝臓ガンになる可能性が高いとか、あと5年・・・、というと、あなたが65歳のとき・・・?」
「65歳では死ねないよ。東北の実家に帰って、その畑を耕し、山の木の手入れをしてやらないと・・・」
「それでも・・・」
「そんなことないよ。霊峰会津磐梯山と霊湖猪苗代湖が待っててくれるよ。」
「あなた、本当のこと教えて? 死んだらどうなるの?」
「死んだら、そのまま・・・」
「死んで、天国にいくんじゃないの?」
「死んで、行くのは、アブラハムのふところ・・・。天国じゃないよ。」
「アブラハムのふところというのは・・・」
「永遠の眠りにつくということ。」
「体は滅んでも魂は神様のもとへ行くのじゃないの?」
「体が死ぬときは、魂も一緒・・・。だから、キリスト者は、自分の一生を大切にするんじゃないか・・・。神様が貸し与えてくださった、かけがえのない人生だから・・・。人間は死ぬと、すべてが終り・・・。だから、聖書は<復活>というものを教えてる・・・。最後は、死んでも生き返るって(すべての者は、最後の審判のとき復活させられて、神の前でその生涯をさばかられることになります)・・・」
「あなた、死んだら、魂も死ぬのね・・・。ああ、よかった・・・。」
「どうして・・・?」
「どうしてって、あなた、執念深いもの・・・。死んでも、夢の中で、<愛しているよ>って言われたら、わたし、ゆっくりねむれないもの・・・。」

なぜ、牧師になり、山口の小さな教会に身を置くことになったのか・・・。

筆者は、考えられるすべてのことを考えながら結論づけるのですが、それは、イエス・キリストの福音を民衆に伝えるために最大の障碍になる部落差別を日本の社会から取り除くため・・・。

新約聖書の中に、「汝の敵を愛せよ」ということばがあります。近世幕藩体制下のキリシタンたちにとって、その「敵」とは、キリシタンを弾圧し迫害する当時の武士階級・・・。「穢多・非人」は、全国津々浦々に配置された宗教警察官・・・。それが、開国と共に諸外国から非難されるようになり、明治政府は、「あれは、宗教警察ではなく、身分外身分の賤民である」と苦しい言訳をした。それが、明治以降、「旧穢多」が、欧米化した日本の天皇制社会から排除されていく理由・・・。なぜ、「旧穢多」だけが、その責めを負わされるのか。なぜ、当時の権力者やキャリアの警察官が免罪され、現場の警察官だけに不利益が押しつけられたのか・・・。イエス・キリストの「汝の敵を愛せよ」ということばが、筆者の目を開かせ、キリシタン弾圧に従事させられた「旧穢多」の名誉回復・・・のために労することを余儀なくさせた・・・。

『部落学序説』・・・、主イエス様は、筆者に、それを書き上げるために充分な時間を与えてくださる・・・。それは、筆者にとっては、なによりもまず、主イエス様の宣教命令に従うことと同義であるのですから・・・。「汝(キリシタンの末裔)の敵(宗教警察)を愛せよ」・・・。

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2008年1月18日 (金)

●病院からの回答・・・

昨日、妻が、朝日新聞に折り込まれていた政府広報『C型肝炎ウイルス検査をお受けください』を読んだのをきっかけに、今朝、筆者が、右手首の関節炎の主術を受けたことがある神奈川県と山口県の二つの病院に照会の電話を入れました。

その回答が夕方届きました。

どちらの病院も、10年前のことなので、カルテは破棄されているとのこと・・・。最初にかかってきた山口県の病院は、手術内容からして、「フィブリノゲン製剤が使われた可能性はほとんどない・・・」ということでした。

ほっと一安心しているところへ、神奈川県の病院から電話がありました。やはり、こちらの病院もカルテは破棄されているとのこと・・・。ただし、電話の話は、微妙な話でした。「手術内容からして、フィブリノゲン製剤が使われていないという保証はできません。早急に、公的機関で、C型肝炎ウイルス検査をしてください。もし、陽性なら、薬害C型肝炎訴訟原告団に連絡をとって情報をもらってください・・・」というものでした。

筆者の右手首の関節炎の手術・・・、どうやら、政府広報の文書で言われている「大きな手術」に入るらしい・・・。

茶の間で、薬害訴訟のニュースを見ていたら、突然、その薬害の被害者に立たされる・・・、薬害というのは、ほんとうに恐ろしいものだと思います。

来週、山口県の病院で、肝機能検査とC型肝炎ウイルス検査を受けることにしました。

筆者は、これまで肝臓疾患で治療を受けたことはないので、たぶん、大丈夫であるとは思うのですが・・・。妻は、将来に禍根を残さないために、この際、徹底的に調べてもらった方がいいといいます。

インターネットで検索しますと、「「フィブリノゲン製剤」は1980年以降285,000人に使用され、3%(8,500人)が肝炎を発症していると推定されると報道された・・・」とあります。筆者が手術を受けたのは、1982年と1983年の2回・・・。1983年の手術は使用されていない可能性が強く、1982年の手術は使用されている可能性が否定できないということなので、来週、必ず検査を受けることにしましょう。

「C型肝炎ウイルスに感染しても、長期間格別の自覚症状がないので本人がウイルスに感染している事を気付かない内に徐々に進行して、異常に気づいた時には慢性肝炎から肝硬変、肝臓ガンに移行している事もあるから怖い。・・・C型肝炎ウイルスに感染しても肝臓は「沈黙の臓器」と言われており、目立った症状がない事が多い。このため、現在国内で感染者200万人(患者150万人)と言われているが、きっちりとした治療を受けているのは約25%程度に過ぎないと言われる。キャリアーの内40%は急性肝炎にかかって治り、60%の人が慢性化して、15~30年かかって慢性肝炎から肝硬変、肝臓ガンに進む事があり、40才以上、特に60才以上を中心に約35,000人が肝臓ガンで死亡しており(肝硬変を含めると4.5万人が毎年死亡)、現在増加傾向にあると言われる。血液検査でGOT(正常値は7~38)やGPT(正常値は4~43)が高い人や血小板の低い(180,000以下)人は肝臓の精密検査を受けた方がよい」。

60歳の誕生日を前にして、「特に60才以上を中心に約35,000人が肝臓ガンで死亡しており、現在増加傾向にあると言われる」というメッセージ、どう受け止めたらいいのやら・・・。

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●山口県の病院へも電話・・・

右手首の関節の2度目の手術を受けた山口県の病院へも電話してみました。

こちらの担当者の方も、とてもていねいな対応をしてくださいました。筆者が、山口の小さな教会に赴任してきて以来、その病院のお世話になっているのですが、すべてのカルテが保存されているそうです。すべてのカルテを精査して、返事をくださるそうです。

そのことを踏まえて、その病院で、健康診断で指摘された肝機能の精密検査と「肝炎ウイルス検査」を受けることにしました。

筆者は、神奈川県と山口県の病院で、右手首の関節炎の手術を受けたとき、輸血された以外に、輸血が必要なほど大きな病気をしたことはありません。右手首をわずらって障碍が残り、その右手首を庇いながら生活してきたためでしょうか・・・。

突然と降ってわいたような話・・・。無事に収束できるといいのですが・・・。

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●手術を受けた病院へ電話・・・

朝、右手首の関節炎で手術を受けたことのある横浜の病院へ電話しました。

電話に出られた担当者の方は、とてもていねいに対応してくださいました。古いカルテは、管理会社にその保存管理を委託しているので、数日中に調べてその結果を必ず連絡してくださるということです。

右手首の関節の手術、「大きな手術」の範疇にはいるのでしょうか・・・?

インターネットで検索すると、関節炎の手術と、問題となっている「フィブリノゲン製剤の投与」との関係は少なくないようです。

昨年の春、右手首を酷使して「気を失う・・・」ということがあって、右手首の二度目の手術をしていただいた病院で健康診断を受けたのですが、異常なし。そのとき、「肝機能の精密検査を受けてください・・・」と診断されていたのですが、受診することなく今日に至っています。

来週、「肝炎ウイルス検査」を兼ねて、「肝機能の精密検査」も受けることにします。

妻に指摘されなければ、昨日の朝日新聞に折り込まれていた政府広報「C型肝炎ウイルス検査をお受けください」という記事、筆者とは何の関係もないことがらとして、筆者の目を素通りしてしまっていたことでしょう。

それにしても、なぜ・・・。

筆者が、神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、市内の整形外科で腱鞘炎の治療を受けていましたが、そのときの塗り薬、あとで、副作用があることが分かり、製造中止になっていました。副作用というのは、軟骨組織が破壊されるという・・・。筆者の右手首の関節炎、医者の診断ミスと薬害が重なったものである可能性が強かったのですが、その医者が匙を投げた筆者の関節炎を、その病院が手術をしてくれました。手術の担当医は、北里大学医学部の整形外科医の先生でした。

そのことがあって、神奈川教区の開拓伝道を辞して、山口県の小教会に転任して以来、筆者は、薬という薬を敬遠するようになってしまいました。特に、痛みを和らげる薬というのは、使用しません。病気も怪我も痛みがくるのは当たりまえ・・・、と受け止めています。

今年、神奈川教区の開拓伝道時代の信徒の方とお話をして以来、横浜時代のことがいろいろと思い出されます。

「右手首に障碍を持った牧師は、神奈川教区の開拓伝道にふさわしくありません。すぐ出て行ってもらいましょう・・・」、そんな教会役員のことばを耳にして、妻は、「私たち、何のために、イエス様につかえようとしたの? こんなことを経験するため・・・?」と筆者にくってかかっていました。

筆者の右手首の関節の2回に渡る手術で、「フィブリノゲン製剤の投与」があったにしろ、なかったにしろ、少なくとも、現在の筆者は、<元気>です。

それに、『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、書き上げるまでは、死ぬに死にきれない・・・。2005年5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始して以来、筆者の説く、「非常民論」・「新けがれ論」が筆者の固有の説として認証されはじめたことを考えると、最後まで書き上げる責任が生じてきたため、<元気>は当分維持しなければ・・・。

さらにいえば、妻の実家のある東北・湖南町での、筆者と妻の第二の人生がまっている・・・!

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2008年1月17日 (木)

●青天の霹靂・・・

今朝の朝日新聞に、政府広報『C型肝炎ウイルス検査をお受けください。』という記事が添付されていました。

「フィブリノゲン製剤納入先医療機関」の一覧表を見た妻が、「あなたが手術を受けた病院の名前が出ている・・・」 。

筆者は、日本基督教団神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、右手関節炎を患ったことがあります。

赴任して2年目の夏・・・。そのとき、横浜の大きな病院で手術を受けたのですが、右手首が蟹のように固定されて動かなくなる可能性があった関節炎の手術は成功・・・、握力が減少し、筆記や複雑な作業をすることはできなくなりましたが、日常生活には困らなくなりました。神奈川教区の開拓伝道を辞して、西中国教区の現在の教会に転任してきて、山口県の病院で二度目の手術を受けました。

今日の政府広報には、筆者が手術を受けた神奈川県の病院と山口県の病院の両方の名前が出ています。

神奈川県の病院の担当医は、「障害者手帳の申請をしましょう・・・」と筆者にすすめてくださったのですが、筆者は断りました。担当医の方、「人生は長いですよ。牧師を続けるなら、障害者手帳は必要ないかもしれませんが、もし、牧師を辞めて他の仕事につくようなことになれば、その右手では仕事になりませんよ・・・」とあくまで、障害者手帳の申請をすることをすすめてくださいました。

二度、右手関節の手術を受けたあと、右手首をつくと、複雑骨折する可能性がありますので、座った状態から立ち上がるときは、右手・左手は、こぶしで体を支えることが習慣化されました。そのため、筆者の手の甲の関節は、いつのまにやらコブができてしまいました。

昔、北九州市内の某会社の業務用ソフトの保守を請け負ったことがありますが、そのとき、筆者の右手と左手の関節のコブをみながら、その会社の社長曰く、「君の手を見ていると、ふるえがくる。何年空手をしているの?」 その社長、福岡大学で空手部の主将をされていたとか・・・。「空手などしたことがありません・・・」と答えると、「ウソをいってはいけない。そのコブ、間違いなく空手でできたコブだ・・・」と言います。

夏であったため、筆者は背広を脱ぐと半袖のシャツから右手がのぞきます。そこには、手術のときの傷痕が二か所・・・。その社長、「その右手の傷、迫力あるね・・・。出入りの切り傷・・・?」とさらに問いかけてきます。

筆者には信じがたい話でした。

体の障害はどんな小さな障害でも、長い歳月の間には、目に見える形となって現われてくるようです。右手の切り傷とこぶしのコブ・・・、筆者に<やくざっぽさ>を付加することになったようです。もしかしたら、右手の術後の傷とコブ、それが、筆者をしてケンカに耐えれるようにしてくれたのかもしれません。

後遺症は残ったけれど、もうその話は昔の話・・・。

それで、終わるはずだったのですが、今日の朝日新聞に折り込まれていた、『C型肝炎ウイルス検査をお受けください。』という政府広報を見て、びっくりすること限りなし・・・。青天の霹靂とはこのこと・・・、と思ったりします。

その政府広報に、「①②以外の方でも、次のような方は、一度は検査を受けることをおすすめします。」とあり、7項目が列挙されています。

筆者は、その7項目のうち、第2と第7が該当するようです。

2)おおきな手術を受けた方
7)その他(健康診断等で肝機能検査の異常を指摘されているにもかかわらず、その後肝炎の検査を実施していない方など)

インターネットで、「おおきな手術」とはどのような手術なのか、事例をしらべたところ、関節の手術に際しても、問題となっているフィブリノゲンが投与された可能性が少なくないとか・・・。

妻に言われて、さらに、インターネットで、神奈川県の病院の情報を検索・・・。その病院では、「昭和63年6月30日以前の診療録は保管されているが、投与記録の保管は不明です。フィブリノゲン製剤を投与した事実は、紹介のあった対象者(患者)又はその家族に限り応答しています。」とあり、連絡先が明記してありました。

さっそく、明日、神奈川県の病院に連絡してみます。そして、山口県の病院で、「肝炎ウイルス検査」を受けることにします。

昨年は、年金でびっくりさせられ、今年は、肝炎ウイルスでびっくりさせられ、なにか、先が思いやられる60代になりそうです。

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2008年1月 5日 (土)

●物価上昇、収入減少、国民の家計がガタガタになる年・・・

朝食をとりながら、テレビを見ていた妻曰く、「あなた、今の言葉聞いていた・・・? 今年は、物価上昇・収入減少、国民の家計がガタガタになる年ですって・・・。どうするの? 今年・・・」。

山口の地に赴任してきて25年・・・。

西中国教区で一番小さな教会・・・。筆者と妻の副業で、なんとかその日暮らしを続けてきましたが、節約できるところは節約してきました。

昨日、農協に行って、電気代とガス代の自動引き落としを記帳してきましたが、通帳の数字を見た瞬間、相当値上がりしている・・・、と思いました。これからも、値上がりが続くとしますと、我が家の家計は、風前の灯火・・・、という事態にもなりかねません。

筆者は、妻のため息にさらに、筆者のため息を付け加えます。「教会の会計もなんとかしないといけないし・・・」。

その日暮らしというのは、貯蓄ゼロ・負債ゼロの生き方のことですが、この年末年始も、諸教会から多くの献金依頼の手紙が届きました。「教会が破産する。なんとかして・・・」という悲鳴に満ちた手紙もいくつかありました。

その手紙をみながら、「全国の諸教会に向けて、こんな手紙を発信できるなんて、幸せだなあ・・・」と思います。

日本基督教団下松愛隣教会から、そのような手紙を発信することはできません。「牧師が自殺した経歴を持つ教会に明日はない・・・」というのが、教会の常識ですから、その教会の存続のための援助してください・・・、という嘆願書は、出しても無意味です。

出しても、「牧師を自殺に追い込む教会は、教会ではありません。そういう教会は、すべて神様にまかせて、すぐ離れるべきです。そして、普通の教会に赴任して、牧師としての職務をまっとうするべきです・・・」という助言の山を築くことになります。

不況の最中、牧師の副業も簡単ではありません。「本業は、日本基督教団の牧師さん・・・。あの、岩国の基地移設に反対したり、上関の原発建設に反対したり、天皇制や自衛官の合祀に反対したり・・・、その教会の牧師さんですか・・・?」と敬遠されることもしばしば・・・。

筆者は、山口東分区から疎外されているので、岩国の基地問題も、上関の原発問題も、天皇制の問題も、直接関与しているわけではないのですが、そういわれても、反証することはありません。

牧師としての生活を保証されて、岩国の基地問題も、上関の原発問題も、天皇制の問題に取り組んでいる牧師と、世の荒波に曝されながら生活し、その中で、「世の塩」としての生き方を少しでもまっとうしようとしている筆者とでは、かなり置かれた状況に違いがあります・・・。

昨年末、ある教会の信徒の方と電話で話をしました。

「下松愛隣教会の牧師さんは、幸せな生活をしているのですね。270坪の土地に、花と野菜を作って・・・。いつも、有機栽培の新鮮な野菜を食べれるなんて・・・。大阪の町に住んでいる私たちには、贅沢過ぎて・・・。献金は他の教会に送ることにしました・・・」。

あとで、妻にこの話をしますと、意外なことに、「私もそう思っているわよ。有機栽培で無農薬の新鮮な野菜を毎日食べることができるなんて、とてもしあわせ・・・。庭に咲いているお花も、見るだけでこころが安らぐもの・・・。私は、経済的には大変でも、今の生活で満足しているわ・・・。でも、物価が上昇して、これ以上生活が圧迫されると大変になるわ・・・」。

筆者は、ポツリ・・・。「そろそろ、<百姓一揆>を考えないといけないかな・・・」。国民の生活を改善するためには、国の指導者の首をすげ替えないといけない・・・、という意味。その手段は、衆議院選挙の際の「票」という鋤と鍬のことですが・・・。まかり間違っても、<百姓一揆>を実力行使しなければならない時代にはなってほしくないと思います。

東北岩手の田舎から、<百姓一揆>ののろしが挙がってくれたらいいのですが・・・。

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