礼拝堂の廊下に、いつのころからか、放置されたままになっていた英書・独書などの神学書・・・。
神学校生活4年間、そして、中途半端な形で<退学>して牧師になってから数年間・・・、熱心に神学書、特に、英書と独書を集めてきました。
それが、ある日、ある時、突然と、それを断念・・・。それ以降は、英書・独書だけでなく、和書の神学書も入手することはなくなりました。
成長しているぶどうの枝を、突然、ナタで切り落とした・・・、そんな感じのする<断念>です。
ひとつには、学歴・資格が優先するキリスト教界に対する深い失望と、教団・教区・分区だけでなく、神学校からも切り捨てられた・・・、という深い絶望感が、筆者に、英書・読書・和書の読書を中断させてしまったのです。あとは、ひたすら聖書を読むのみ・・・。
そして、もうひとつの、たぶん、こちらのほうがより直接の理由なにかもしれませんが、地方の小教会において生活することの大変さ・・・。
こどもが大きくなり、教育費にお金がかかるようになって、なによりもまず、神学書の購入をあきらめざるをえませんでした。
昨日、出てきた洋書に、『DAS LUKAS-EVANGELIUM』というのがあります。副題に、DIE REDAKTIONS- UND KOMPOSITIONSGESCHCHTLICHE FORSCHUNG とあります。
ルカ福音書の編集史的研究以降のテーマについての論文集ですが、とても小さな本です。しかし、本の値段は、10,360円・・・。
娘の子育てを終えて、夫婦二人暮らしになった今も、この本を購入することができるゆとりはありません。これから高齢化・・・に突入する筆者には、もう、英書・独書、それだけでなく、和書の神学書を購入するゆとりはないと思われます。
教団副議長・教区副議長・神学校教授から、「君程度の人材は必要がない・・・」と烙印をおされてから、筆者は、<無学歴・無資格>を意図的に標榜するようになりました。ナタで切り落とされたぶどうの枝・・・、のような気持ちになったのです。
しかも、教区から押しつけられた仕事は、部落差別問題特別委員会委員・・・。
その委員を押しつけて、さらに筆者を排除しようとします。
その中で、東京山谷の労働者の闘いを描いた映画『やられたらやりかえせ』の上映運動を、下松愛隣教会で引き受けて活動していたとき、であった部落解放同盟新南陽支部の方々・・・、いつも笑顔を絶やさないで、反差別を訴えている当時の、今は、逝去されて久しい支部長さんや、現在の部落史研究会の方々との出会いは、筆者に、新鮮な息吹を注ぎ込んでくれました。
<無学歴・無資格>として合理的に切り捨てられていく筆者の中に、<無学歴・無資格>を逆手にとって反撃していく<非合理性>(筆者にとっては、非合理性こそ合理性なのですが・・・)を軸に生きていく術が培われていくようになりました。
『DAS LUKAS-EVANGELIUM』・・・。
堰で止められた水が、堰が崩されて一挙に水が流れ込むように、筆者の世界に入ってくるようになりました。
新しい時代の英書・独書などの神学書を購入することは不可能であるとしても、すでに手持ちの神学書は、完全に読破して、筆者の<無学歴・無資格>の糧にすべきであると考えるようになりました。
昔集めていた神学書は、新旧約聖書の「救済史」・「社会史」・「法制史」に関する文献です。<ぶち>(山口の方言)きられたぶどうの枝から、<ぶち>新しい芽がでそうです。
アドベント礼拝を前にした大掃除・・・。なかなか、前に進まないのは、途中、脱線することが多いためです。
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