2007年11月22日 (木)

●鬼心なければ鬼人なし・・・

高野長英の言葉にこのような言葉があります。

「我身に鬼心なければ、何れの里にも鬼人なし」。

<人はみな同じ・・・。そこに鬼人などいるはずがない・・・。それでも、鬼人がいるように見えるのは、そう見る人のこころの中に鬼心があるからだ・・・>。

部落差別に置き換えて言えば、こういう表現になります。

<人はみな同じ・・・。そこに賤民などいるはずがない・・・。それでも、賤民がいるように見えるのは、そう見る人のこころの中に差別的なこころがあるからだ・・・>。

幕末の医師・高野長英の獄中書簡「わすれがたみ」(別名、鳥の鳴音)の一節です。

「我身に鬼心なければ、何れの里にも鬼人なし」。

教会の庭でたわむれる二羽のジョウビタキの姿を写真にとりながら、筆者の脳裏に、この「我身に鬼心なければ、何れの里にも鬼人なし。」という言葉が過って行きました。

筆者の若かりし日に目にした言葉です。今は、筆者の血となり肉となり、意識に登ることはほとんどありませんが、二羽のジョウビタキがこの言葉を思い起こさせてくれました。

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●捨てなかった愛読書・・・

昔、神学校に入ったとき、出身教会の牧師から、「献身するときは、何も持っていなかいように・・・」とアドバイスされました。

「本もですか・・・?」
「本もです」。

しかし、筆者は、そのアドバイスにも関わらず、筆者の愛読書だけは持参しました。

それは、『聖書』・『岩波英和大辞典』・『源信』・『法然・一遍』・『親鸞』・『キリシタン書・排耶書』・『民衆運動の思想』・『近世科学思想』・『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』・『貝原益軒・室鳩巣』・『新井白石』・『熊沢蕃山』・『山鹿素行』・『石門心学』(以上岩波日本思想大系)・『折りたく柴の木』・『ファウスト』・『パンセ』・『アミエルの日記』(全8巻)・『万葉集』・『ラートブルフ法学入門』・『同法哲学』・『講座・哲学大系』(全6巻)。

神学校に入るとき、全てを捨てないで、上記の愛読書を手元に残したことが、筆者の牧師としての生涯にどのような影響を残すことになったのか、分かりませんが、それは、筆者が洗礼を受けた<端典組合教会>の宣教師の影響によります。

「クリスチャンになることは、日本の歴史と文化を否定することではありません。日本の歴史と文化を認めた上で、それでなおかつクリスチャンであることをまっとうしなければなりません・・・」。

「日本のキリスト教を歪めたのは、欧米のキリスト教の教派主義です。あなたは、教派主義ではなく、聖書のみに立脚して、日本の社会をキリスト者として生きるべきです」。

高校3年生のときに、宣教師から教えられたことは、60歳を迎えようとする筆者のものの見方や考え方の中に、いまだに息づいています。

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