●自分でまいた種は自分で刈り取らなければならない・・・
今日、日本基督教団部落解放センターから『解放へのはばたき』(№83)が送られてきました。
今回の特集は、「ネット社会と差別」・・・
同志社大学の教授の方が書かれた文章ですが、最後はこのようなことばで締めくくられています。
「自分のまいた種はちゃんと自分で刈り取らなければならない。それは現実の世界でもインターネット世界でも同じことだし、そうあらねばならないのである」。
西中国教区の牧師たちの話では、日本基督教団の関係者で、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群を読んでいるひとはほとんどいないそうです。
おそらく、その教授、筆者の『部落学序説』を読んだことはないと思われますので、彼のことばは、直接、筆者とは関係がないと思われます。
「自分のまいた種はちゃんと自分で刈り取らなければならない・・・」という、同志社大学の教授のことば、マイナスイメージが濃厚ですが、筆者、そのことば、必ずしも負の側面だけではないと思います。
「自分のまいた種・・・」、芽を出すものと出さないものとがあります。芽を出しても、鳥に食べられたり、人に踏みつけにさらされたり、夏の暑い日射しでかれたり。「自分のまいた種・・・」、刈り取ることができるようになること・・・、そのこと自体がひとつの収穫です。
筆者、『部落学序説』の執筆の最初から、筆者が所属する教団の部落解放運動とは無関係である・・・、というより、排除・疎外されて久しい・・・、それゆえ、すべて筆者個人の責任でこの『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆している・・・、と宣言してきました。
それは、今も、何も変わっていません。
『解放へのはばたき』(№83)に「読書案内」欄にこのようなことばがありました。楠木裕樹著『被差別部落の謎』(岡山部落解放研究所)についてのコメントです。
「大学の研究者ではなく、また経歴を見ても「専門」の日本史学者とはいえない(失礼)著者が、いわば部落解放運動の現場から地味ではあるが大胆で、困難なフィールドワークの積み重ねから本書をあらわしたことに敬意と同時に驚きを禁じ得ない。」
日本基督教団神奈川教区部落差別問題特別小委員会委員長、農村伝道神学校講師の牧師のコメントです。
その牧師の視点・視角・視座・・・、それは、何なのでしょう。「失礼」と認識したうえで、「失礼」な表現をあえてする・・・、「敬意」をしめしたあとで、「驚きを禁じ得ない」とする、著者の方に対する度重なる「失礼」・・・、極めて遺憾に思います。
「今後の課題として・・・「清め役」であった被差別部落がどのようにして「賤視」されて差別されるようになったのかとう問題への、取り組みではないだろうか・・・」と文章を結んでおられますが、その問いかけ・・・、誰に対する問いかけなのでしょうか・・・?
上から、高みから見続ける視点・視角・視座・・・、筆者はいただけないと思います。
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教会役員の方と、『部落学序説』の執筆に際して使用している史資料について話をしました。
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