2007年11月28日 (水)

●歳のせい・・・?

歳のせいでしょうか・・・?

日本基督教団の牧師になるために農村伝道神学校で勉学していた時代が懐かしくなるのは・・・。

農村伝道神学校で学んだ4年間、筆者が学んだ人は、その教授たちだけではありませんでした。

「馬鹿(学歴のないもの)には教えない」と言われて、その学科の単位取得を放棄したことも何度かありますので、すべての教授から学んだわけではありませんが・・・。

当時農村伝道神学校の事務長をされていたのは、笹渕昭平氏でした。笹渕事務長は、東京大学出身・・・。筆者が、生まれてはじめて出会った東京大学出身のひと・・・。

筆者は、興味津々で、授業の合間に、事務室に行っては、彼に話しかけていました。

事務室で、ドイツ語の神学書を注文して、それが届いたとき、その神学書を開いてビックリ、なんと「ヒゲ文字」で書かれているではないですか・・・。

書店の人に、普通の文字の本に取り替えてください・・・、とお願いしていたら、笹渕事務長に、「君、なんてことをいってるんだ。ヒゲ文字程度に恐れをなさないで、読みなさい!」と一喝されました。

筆者が笹渕事務長から学んだのは、特に、天皇制の問題・・・。課外授業としての、笹渕事務長からの天皇制の<講義>は、今も、筆者に大きな影響を与えています。

当時、農村伝道神学校の付属幼稚園の教師をしていた、今の妻との結婚について相談したところ、履歴書を見せてくれたり・・・して、その結婚をすすめてくれました。

いろいろな場面でお世話になった笹渕事務長ですが、いつも不思議な思いを持っていました。東京大学を出て、どうして、農村伝道神学校の事務長をされているのか・・・、と。

農村伝道神学校の事務室には、もうひとり事務職員の方がいました。

東北出身の女性の方で、その話す言葉は、<東北弁>・・・。堂々と、<東北弁>で話すその方には、尊敬の思いすら持ちました。

筆者が結婚した妻も、東北の出身ですが、やはり、<東北弁>に誇りをもっています。<言葉なまりはお国の手形>・・・。

神学校時代のことがなつかしく思い出されるのは、歳をとったせいかもしれません。

今年の教会のクリスマス対外献金・・・、農村伝道神学校にすることを、12月の役員会に提案することにしましょう。時々は、個人的にも農村伝道神学校に献金することにしましょう。

筆者が、神学生時代に、Handbuch Zum Neuen Testament、新約聖書のKritisch-exegetischer Kommentar、新約聖書のTheologischer Handkommentar、キッテルの新約聖書神学辞典、カールバルトの教会教義学など、ドイツ語の神学書を入手することができたのも、笹渕事務長が、農村伝道神学校内部のアルバイトを提供してくださったおかげです。

英語やドイツ語の神学書・・・、いままで、マーカーをつけることもメモ書きをすることもありませんでした。大切に扱ってきたのですが、今回、意を決しました。『部落学序説』執筆の資料と同じく、「本」としてではなく、「資料」として取り扱うことにしました。

手持ちの神学書を読破する目的は、「聖書と差別」、「キリスト教と差別」を批判・検証すること・・・。

それにしても、当時の農村伝道神学校の笹渕昭平事務長、東京大学出身にも関わらず、学歴・資格による差別意識をほとんど筆者に感じさせなかったのはなぜなのでしょう・・・?

笹渕昭平事務長は、その後、牧師になり、今は、沖縄教区の教会で牧師をされているそうです・・・。

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●農村伝道神学校の教室で・・・

夜、ルター著『ローマ書講義』をひもといていると、農村伝道神学校在学中、当時神学校の事務長をされていた笹渕昭平氏が撮ってくださった1枚の写真が出てきました。

その写真は、農村伝道神学校の教室で、二人の神学生(Jhon F Cross牧師こと丸山文雅牧師と筆者)を前に、教理史を講義している松尾喜代司教授の講義風景を撮った写真です。

丸山氏は、ジャンバーを着て、筆者は、背広を着て講義を聞いています。

松尾喜代司教授は、黒の背広にエンジ色のネクタイ、神学生に配った教材(B.Lohse著『Epocken der Dogmengeschichte』の、ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語・日本語混じりの翻訳)を片手に講義中・・・。

この松尾喜代司教授・・・、他の農村伝道神学校の教授と違って、あまり、学歴や資格、能力や性格には無頓着で、講義したいように講義される方でした。

事務長の笹渕氏の話では、戦前、検事をされていた方だそうで、戦前、検事をやめて牧師になられたそうです。

松尾喜代司教授といえば、宗教改革者ルターの代表的著作物である『ローマ書講義』の翻訳者です。

その『ローマ書講義』の第5版序に、初版発行の経緯が記されています。昭和15年、その「原稿を危うく警察に押収される・・・」可能性があったといいます。「北京より帰国中の某右翼団体幹部」が、松尾喜代司氏を「スパイだとして乗務刑事三人」と一緒にやってきて、「満員の特別急行列車つばめ号」から強制的に引き下ろされ、「山陽線の小駅」で取り調べを受けた・・・、というのです。しかし、幸い没収されず、『ローマ書講義』を出版、その「約半年後に太平洋戦争が始まり」、その『ローマ書講義』は、「出征キリスト者たち」に講読されたといいます。

そして、松尾喜代司教授は、「今回第五版が出るに際し、左右両翼の思想がはげしく渦巻く世相に直面して、福音による自由と愛が、今日的に把握され証しされ、建設的に展開せしめられて行くべく、本書が活用されることを信じかつ願う。」とその第5版序を結んでいます。

「左右両翼の思想に拘泥することなく・・・」。

松尾喜代司教授の姿勢は、『部落学序説』の筆者に大きな影響を残しています。

松尾喜代司教授の講義風景を撮った一枚の写真・・・。机の上には、大きな鞄が置かれています。教授は、毎回、鞄いっぱい、いろいろな文献を詰め込んできて、それを丸山文雅氏と筆者に見せてくださいました。

あるとき、宗教改革時代の聖書を持参されて、「宗教改革時代の聖書に触って、その香りをかいでみなさい・・・」といわれるのです。

松尾喜代司教授が、その聖書を開きますと、なにやら、白い煙のようなものが出てきます。

そこで、筆者は質問しました。「先生、その聖書から出ている白い煙は何なのですか・・・」。

松尾喜代司教授の答えは意外なものでした。

「この聖書は、とても古いものですから、湿気の多い日本ではすぐかびがきて虫に喰われてしまいます。それで、たっぷりDDTを振りかけているのです・・・」。

丸山文雅氏も筆者も、自分たちの手に白い粉をつけながら、黴とDDTと聖書のいりまじった匂いをかぎました。

写真の黒板には、ひとこと、「R・G・G」と書かれています。

そのとき、松尾喜代司教授は、『R・G・G』(第三版)の Synergismus について講義をされていたのです。授業のおわりに、松尾喜代司教授は、筆者に、「君、ライフワークとして、 Synergismus を研究したまへ。」と、 Synergismus の研究をすすめる理由を話してくださいました。

農村伝道神学校の他の教授の多くは、「吉田? あんなのは弟子ではない!」といいます。何度か、そんな話を聞かされて、筆者は、「指導教授なし・・・」ということにしてきましたが、松尾喜代司教授は、今でも筆者にとっては教授であり、その結果、筆者はその弟子であり続けている・・・、わけです。

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2007年11月 2日 (金)

●農村伝道神学校で学んだこと・・・

筆者は、29歳のとき、牧師になるために、日本基督教団・農村伝道神学校にはいりました。

その年、筆者と一緒に入学したのは、菊地泉氏でした。

しかし、彼は、1年生、筆者は、2年生・・・。

彼は、日本基督教団の教会で洗礼を受け、農村伝道神学校に入ってきたのですが、筆者は、日本基督教団の教職たちの目からみますと、「純福音」とラベリングされている日本基督教団外の教会の出身・・・。

先輩方の話では、「純福音」から来た神学生は、「この神学校は悪魔に乗っ取られている」と意味不明な言葉を発しながら発狂した人もいたとか・・・。

神学校は、「純福音」の筆者が彼に逆に<悪影響>を与えることを懸念して、そのおそれの全くない2年生に編入させたのでした。そこにいたのが、JhonF Cross さんと 筆者より10歳年下の村田敏牧師・・・。そのクラスには、もうひとり、青山学院大学神学部を出られた太田春夫氏が学士編入されて、同じ教室で勉強されていました。

筆者は、2年間、神学校の寮にいましたが、4~5年生のとき、神学校の付属幼稚園の教師をしていた人と結婚して相模原市にアパートを借りて住んでいましたので、後輩・先輩とのつながりは希薄なところがあります。社会問題にほとんど関心をもっていない筆者と比べて、後輩・先輩の多くは、天皇制や差別問題、万博問題や教団問題に長けた人ばかりでした。

JhonF Cross さんは、寮ではありませんが、神学校の敷地内に住居を借りて住んでおられたので、後輩・先輩とのつながりも相当あるのではないかと思われますが、筆者は、ほとんどつながりを持つことはできませんでした。

その神学校でのカリキュラム・・・、筆者が西中国教区で部落差別問題と取り組むようになって役立った科目というのは、新約釈義<聖書と被差別民>(高橋敬基)・日本宗教史<宗教と差別>(生原優)・日本基督教史<天皇制と内村鑑三>(原島三郎)・実践神学特講<部落問題>(工藤英一)・実践神学特講<自由民権運動>(浪江虔)・実践神学特講<天皇制と靖国問題>(角田三郎)・実践神学特講キリスト教倫理<近代合理主義批判>(池明観)・教義学<プロレゴメナ>(雨宮栄一)等。課外授業<三里塚闘争>(戸村一作/最終学年の夏期伝道実習に含まれていた・・・)。

神学校4年間、通った教会の青年会で影響を受けた人、専修大学教授・鐘ケ江晴彦氏、上智大学教授・根本敬氏、明治学院大学教授・西阪仰氏。教会員の井上健氏からの影響(ヤスクニ・天皇制問題)も大きなものがありました。

神学校を卒業してからというもの、師と仰ぐ人にはあまり恵まれませんでした。

山口県立文書館の研究員・北川健氏(山口県の部落史研究)と、宇部短期大学・杉山博昭氏(山口県の社会福祉研究)のみでした。

日本基督教団西中国教区の小教会に来てからというもの、<知的飢饉>に遭遇した筆者ですが、上記の方々から学んだ基礎的な知識を背景に、20数年間、山口の地で、部落差別問題に取り組んできました。

最近は、その集約として、『部落学序説』の執筆に多くの時間をさいていますが、神学校在学期間と前任地の期間を含めると30年の歳月が過ぎようとしていますが、『部落学序説』・・・、筆者の牧師として、教区から強制された課題への取り組みの<総括>のようなものです。

神学校の卒業式を前にしたある日、青山学院大学教授・関田寛夫氏(農村伝道神学校で説教学を担当)が、「牧師は、普通、その最後に説教集を一冊出してその生涯を終える人が多いようですが、君は、そういう生き方をしない方がよい。なにかひとつのことを研究してそれを最後にまとめるようにしたらいい・・・」というようなことをアドバイスしてくださいました。

最初に任地として紹介されたのが、茨城県の教会・・・。教会員には、大学の教授が多く、昼間は牧師としてすることが少ないので、近くの茨城県立図書館で勉強をしたらいい・・・、ということでしたが、筆者は、「伝道がしたい・・・」ということで、神奈教区の開拓伝道の方を選びました。

しかし、それから、25、6年・・・。

最初に任地の話があった教会に身を置いたのと同じ生き方をしている自分に気付かされます。

それと同時に、茨城県に身を置いても、山口県に身を置いても、筆者は、結局、同じことをしていたのではないかと思われます。農村伝道神学校で培われたのは、権力史観ではなく民衆史観なのですから・・・。いずれ、部落差別問題に遭遇することになったのではないかと思われます。

たとえ茨城県の教会に赴任したとしても、筆者は、部落差別問題に対して、政治団体や運動団体とは一線を画して、一宗教家として、一民衆として、一百姓の末裔として視点・視角・視座を明確にしたでしょうから・・・。

筆者は、Jhon F Cross 牧師や村田敏牧師と違って、農村伝道神学校の落ちこぼれ・・・。『部落学序説』は、こぼれ種から育った、人目を引くことのない、季節はずれの地味な花・・・。

神学校在学中に、寮の部屋で愛読した本に、『茨木のり子詩集』(思潮社)があります。その一節にこのようなことばがありました。

ひとびとは探索しなければならない
山師のように、執拗に
<埋没されてあるもの>を
ひとりだけにふさわしく用意された
<生の意味>を

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