2008年3月17日 (月)

●対談・・・

今日、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方が尋ねて来られました。

積もりにつもった話で、午後3時過ぎまで対談しました。机の上に、『部落学序説』の付論・「百姓の目から見た渋染・藍染」の執筆時に使用する各種史資料をひろげながら・・・。

執筆に際して使用した史資料と、その文章の中で使用することのなかった史資料をひもときながら、筆者の、今後の「百姓の目から見た渋染・藍染」の執筆の内容について説明しました。

その間、部落史研究会の方の携帯はなりっぱなし・・・。多忙な最中、筆者を尋ねてくださったようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、執筆は、孤独な闘いをすすめていますので、『部落学序説』とその関連ブログ群について話をするのは、筆者の妻と、教会の役員の方々がほとんどです。

部落史研究会の方と話をしている最中にも、筆者、頭の中にあるデータを整理していましたが、新しい視角が、次から次へと筆者の脳裏を過っていきます。

「岡山藩」の「渋染一揆」の関連史資料にでてくる、「穢多」の雨の日の履物・・・、雪踏・下駄・草履・草鞋・・・、それを履いて長距離を歩くとどうなるのか・・・。実際に、歩いてみればすぐ分かるのですが、歴史学研究というのは不便なもので、自分で実験するだけでは充分でなく、その時代に、実際に、雪踏・下駄・草履・草鞋・・・を履いて歩いた人の体験・経験を記録で確認・提示しなければなりません。

<文献民俗学>・・・

それ自体は、いろいろ可能性を秘めていておもしろいのですが、必要なことがらは、都合よく、どこにでも転がっているわけではありません。

<文献民俗学>の研究方法、部落史研究会の方にその実践例を提示しておめにかけながら、その最中にも、筆者、新たな発見をしました。

雨の日、雪踏・下駄・草履・草鞋のいずれを選択するか、それは、「身分」・「差別」・「経済力」等にはほとんど関係なく、当時の司法・警察官である「非常民」の「非常時」の身の処し方が大きく影響することをお話させていただきました。いわゆる、<公務員の危機管理能力>の問題・・・。

「岡山藩」の「渋染一揆」・・・、筆者が批判の基礎資料としているのは、今となっては、「岡山藩」の「渋染一揆」の古典的な論文である柴田一著『渋染一揆論』ですが、未解決の問題に溢れています。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」という<色眼鏡>をはずしてみれば・・・。

筆者は、「常民・百姓」の視点・視角・視座から発想しますが、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々は、「非常民・穢多」の視点・視角・視座から論点を整理して主張されます。

対談・・・。

まだまだ、続きます・・・。

神奈川教区議長をされていた鎌倉教会・内藤協牧師曰く、「人間の精神の偉大さは、自分にとって異質な精神をどれだけ受け入れることができたかどうかによって決まる・・・」

真に<学問>の何たるかを知ったものは、自分にとって異質な精神を受け入れ、その語ることばに耳を傾けることができます。しかし、<似非学>しか学び得なかったものは、自分にとって異質な精神を受け入れず、常に、他の学徒に対して、中傷と非難、排除と疎外をもって接することになります。自らそれに気づくことがないところが、<似非学>の<似非学>たる所以です。

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2008年3月 1日 (土)

●昨日はひさしぶりに熟睡・・・

昨日は、ひさしぶりに熟睡しました。

今朝は、目のかすみは、少し和らいできました。

少しよくなると、すぐパソコンの前に座る筆者ですが、今朝は、『部落学序説』の1文書あたりのアクセス件数を出してみました。

被差別部落の地名とタブー  9033件
ある同和対策事業批判  1330件
部落学序説  786件
紀州藩「城下町警察日記」を読む  151件
田舎牧師の日記(Ⅱ)  62件

筆者が各文章、読者の方々が読みにきてくださるのは、部落差別問題関連記事です。教会・花・野菜・小鳥の話は、極少数の方々のみ・・・。

部落差別問題関連記事で、読者数の多いのは、以下の順です。

部落差別問題の現代>近代>近世>中世>・・・

執筆の主題が、中世よりも近世、近世よりも近代、近代よりも現代を主題にしたものの方が読者数が多いようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史学的研究ではありません。非常民に関する学としての「部落学」という、新しい枠組みで執筆されていますが、現在のところ、近世から近代へ、近代から現代へ・・・、と主題の時代的範囲を拡張していますが、現在は、その流れと逆行して、近世と近代のはざまに戻って、「百姓の目から見た渋染・藍染」について執筆しています。

アクセス件数をみすみす減少させる営みです。

しかし、これまで、『部落学序説』で紹介してきた視点・視角・視座、方法で、「岡山藩」の「渋染一揆」をとらえたらどうなるのか、その実践事例として言及するのも悪くはないかな・・・、と思って、執筆を続けています。

筆者の手元にある、部落差別問題関連資料は、現代>近代>近世>中世>・・・の順番ですから、ひとつの文章を書くために確認しなければならない資料は飛躍的に増えます。その資料を批判検証するためには、近世のテーマについて言及する以上に、執筆者の視点・視角・視座を明確にしなければなりません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に<破壊>・・・、するためには、膨大な時間と労力が必要なようです。

吉岡幸雄著『日本の色を染める』に記されているように、「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・。「貴色」・「賤色」という発想は、外来思想である中国の悪しき文化に汚染された古代天皇制の残滓でしかありません。「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・、のと同様、すべての「ひと」は、美しい・・・。そこに、本質的に「貴人」・「賤民」と呼ばれるような人が存在するはずもありません。

それぞれの時代の支配階級が、自分の都合のいいように制度化したに過ぎません。

現代の「被差別部落」の人々は、その先祖の歴史にまでさかのぼって「賤民」として、部落史の学者・研究者・教育者からラベリングされることを黙って容認してはならない、差別思想である「賤民史観」という、一見、「被差別部落」の人々を「勦るかの如き・・・」教説は、「多くの兄弟を堕落させた・・・」教説であり、差別的な部落史の学者・研究者・教育者によってはきかけられた「クダラナイ嘲笑の唾・・・」に過ぎず、「呪はれの夜の惡夢・・・」に過ぎない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者によって押しつけられた「賤民」としての「烙印・・・」を投げ返さなければならない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な思想「賤民史観」を受け入れ、「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ・・・」・・・。そして、「被差別部落」の若い世代が、「人生の熱と光」を持って生きることができるよう、差別思想である「賎民史観」を葬り去り、民衆と共に差別なき新しき社会をつくろう・・・。被差別部落の人々を差別の奈落に落としこめた人々は、民衆ではない。背後にあって民衆を教育し、差別思想である「賎民史観」を注入し続けてきた、学者・研究者・教育者である・・・。彼らは、それぞれの時代の権力の走狗として、「被差別部落」の人々の「誇りうる・・・」近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として生きてきた歴史と人生の物語を奪い続けてきたのだ。自ら構築すべき歴史を、差別者である、部落史の学者・研究者・教育者にゆだねた結果、「賎民」とラベリングされてきたし、今もされている、そしてこれからもされ続けることになる・・。「被差別部落」の「人間を冒涜」することを許したことは、今日に至るも、「被差別部落」の「多くの兄弟を堕落・・・」させている。「被差別部落」の若い学徒たちが、「人間を尊敬する・・・」ことの真の意味を認識し、差別思想である「賎民史観」を投げ返し、「自らを解放せんとする者の集団運動を起こせるは、寧ろ必然である・・・」。近代以降の歴史学者・研究者・教育者が構築してきた、差別思想である「賎民史観」を破棄し、自らの歴史と物語を取り戻すとき、決して、差別されることのない「祝福された時が来る・・・」。差別なき社会の夜明けは近い。押し付けられた「荊冠・・・」をかなぐり捨て、勇気をもって、真の部落解放運動のために立ち上がるべきだ。大学の教室で、図書館で、研究室で、差別思想である「賎民史観」を打破すべく勉学を続けよ。毎日毎日、真の部落解放の姿を考えよ。これまでの部落解放運動は、真の部落解放運動の<前座>に過ぎない。戦いはこれからだ。差別思想「賎民史観」の打破と、それを永久に葬り去る課題は、大学で、その図書館や研究室で学ぶ、「被差別部落」出身の学生の肩にかかっている。「人の世に熱・・・」「人間に光・・・」、「被差別部落」の本当の歴史をその手に掴むために、差別思想である「賎民史観」の担い手である学者・研究者・教育者の言説を批判検証し、議論・討論し、「賎民史観」を放棄せしめ、「人間に貴賎はなし・・・」との理念のもと、真の部落解放運動に共同参画せしめよ。真の部落解放運動の前座でしかない、同和対策事業の様々な問題に臆するな。同和対策事業の最初から<罠>は想定されていた。大切なのは、真の部落解放運動の担い手足るべく自らを飛躍させることだ。無学歴・無資格、「被差別部落」出身ではない、ただの「百姓」の末裔に過ぎない、部落解放運動の門外漢に過ぎない筆者の言葉を読む、<あなた>、<あなた>にはそれができる!

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2007年12月 5日 (水)

●考える力を育てるには・・・

12月5日付の朝日新聞の社説に「考える力を育てるには」という文章が掲載されていました。

深刻化する日本の子供たちの学力低下・・・、その原因として、朝日新聞社説は、①文部科学省が「ゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やして総合的な学習を減らすことを決めた」こと、②「授業のあり方」を取り上げています。

しかし、どちらかといいますと、「授業のあり方」に方に重点が置かれた論調になっています。

「一人一人の学習の進み具合をつかみ、授業についてこられなくなったら、そのつど手助けする」、「論理を子どもたちに自ら考えさせる」、「そんな授業が求められる」・・・。

そのためには、「十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう・・・」、といいます。

朝日新聞の社説を読みながら、何か、とても大切なことが欠落しているような感じがしてなりません。戦後の日本の教育・・・、それは、子どもたちから、個性や独創性を奪い、日本全国均一な「中流階級」に帰属する、体制に忠実な国民を育成することを理念・目標にして遂行されてきたのではないでしょうか・・・?

学校の教師は、その文部行政の忠実な走狗・・・。ただ、学校の教師と授業方法にのみ、子どもたちの学力低下の原因を押しつけるのは酷です。

「自分で問題を設定し、解決方法を考える」の能力と習性を身につけさせるためには、子どもたちの個性や独創性を育む教育システムが必要だと思います。

同和教育ひとつを例にとっても、学校教師の硬直化した、従来の指導内容と教育法では、「自分で問題を設定し、解決方法を考える」教育をすべての子どもに実践することは不可能ではないでしょうか・・・?

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2007年10月26日 (金)

●生涯探求・・・

生涯学習・・・。

その言葉が普及するようになって久しくなります。

高齢化が進めば進むほど、「生涯学習」はますます重要性を帯びてくると思われます。

60歳で定年退職しても、年金を満額受給できるようになるためには、5年間という歳月がかかります。その間、どのように生きていくのか・・・、その選択枝のひとつに「生涯学習」というのがあります。

それまでの人生とは無縁なことがらを新たに学ぶことで、人生にゆとりと幅をもたせることになります。

しかし、医学博士の酒井和夫氏は、「「生涯学習」から「生涯探求」へ」移行することをすすめておられます。

酒井和夫氏は、「主婦たちに大流行のカルチャーセンターは、たんに知識をあたえられるだけにすぎない。自分で探求するということに比較すれば、ナッシングにすぎない。」といいます。

そして、「生涯学習」「生涯学習」で終わらせず、「生涯探求」にまで高めることを推奨されています。

この文章、酒井和夫著『博士になる方法教えます』(リヨン社)の「おわりに」の一節ですが、酒井和夫氏はこのように記しています。

「好奇心と、情報の収集と、周辺の領域の知識と、アイディアがあれば、研究計画を立てることは意外にたやすいのである。何歳になっても、またたとえば家庭の主婦であっても、好奇心を探究心に高め、関心のある領域の知識を豊かにすれば、創造的な研究はいつでも可能だといえる」。

「「生涯学習」の時代だといわれるが、それを「生涯探求」に高めることは、人生80年をどれほど豊かにすることだろうか」。

無学歴・無資格の筆者がこの書を読むのは、文字通り、「博士になる」ためではなく、「博士になる」ための「方法」(メソッド)を修得するためです。

酒井和夫氏は、「生涯探求」を生きるための条件として、三つの「資質」をとりあげています。「好奇心」・「探究心」・「集中力」。

そして、「好奇心」・「探究心」・「集中力」の中で、最も重要なのは、「集中力」であるといいます。「ひとつのことにこだわる力」、「持続する意志」、「執拗にあることにこだわる力」が求められるといいます。

しかし、酒井和夫氏は、最初の三つだけでなく、四番目の「インスピレーション」も大切であるといいます。「インスピレーション」というのは、「「思いつき」というものをふだんから大切に」して、それを生かすことができる能力のことです。「思いつき」を大切にする習慣・・・、「生涯探求」には不可欠の要素です。

酒井和夫氏は、更に、「インスピレーションとは別に、自分はこうだろう、という「予断」を持つことがかなり重要である。ああだこうだと思っているのではなくて、自分のやっていることは意義のあることなのだ、正しいことなのだと独断と偏見を持つことも重要な適性と言える。」といいます。

酒井和夫氏が、「生涯探求」を生きるために必要とすると列挙される、「好奇心」・「探究心」・「集中力」・「インスピレーション」・「予断」・・・、そこで語られる、<こだわり>・<執拗さ>・<思いつき>・<独断と偏見>・・・、それらの言葉は、『部落学序説』の一部の批判的(非難的)な読者の方々が、筆者である私に投げかける言葉です。

予断でもの申せば、一般説・通説・俗説に従って「生涯学習」の中を生きている人々からの、「好奇心」・「探究心」・「集中力」・「インスピレーション」・「予断」に満ちて、「生涯探求」を生きている筆者に向けられた、非難・中傷の言葉であるといえます。否、彼らが無意識に筆者の「生涯探求」を、言葉の表面的意味とは裏腹に、逆に称賛している言葉なのかもしれません。

「生涯探求」における「研究テーマは「独創的」であることが基本条件です」

「研究というものは、ある研究機関に属していなければできないというものではない。学際領域すなわち、オーバーラップする部分については、あまり多くの人が取り組んでいないので、実際に研究しやすい。・・・学際領域を散策しているうちにさらに新しい学問領域を生み出す可能性がある」。

酒井和夫氏は、「この本は、本当に学問が好きな人のために書いた・・・」といいます。

ただ、一般説・通説・俗説を学習し、その信奉者・追随者になる「生涯学習」から脱却し、「生涯探求」にまで自分を高め、人生80年を豊かなものにしたい人は、酒井和夫著『博士になる方法を教えます』を読書し、そこに記されている「生涯探求」のノウハウを実践してみてはいかがでしょう。

筆者の『部落学序説』は、その実践事例のひとつです。

無学歴・無資格故、「博士になる」こととは無縁の筆者ですが・・・。

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