2009年8月14日 (金)

●今朝は、廊下に積み上げていた本を礼拝堂の床で陰干し・・・

今朝、教会の廊下に積み上げていた書籍を、教会の礼拝堂の床の上に並べて陰干しをしました。

集中豪雨と断続的に続いた梅雨の長雨によって、廊下に積み上げていた本・・・、すっかり湿気にとりつかれてしまいました。それで、今日は、その湿気をとるために、礼拝堂の床の上に並べて乾燥させることにしました。

それにしても筆者の蔵書・・・、文庫本と新書判の多いこと・・・。

本を床に並べながら、目に入った新書判の次の言葉・・・。「上流に生れた人ほど金弁難生活態度や、社会や国家のために物を考え行動する習慣が身に付いているが、下流に生れた人ほど怠惰に気楽に生きようとする・・・」。

筆者より10歳若い1958生まれの高学歴・高資格の持ち主の著者のことばですが、日本の知識階級・中産階級の発想・・・、どうしようもないな・・・、と感じながら、あとで精読するために、机の上に移動しました。

<社会や国家のために物を考え行動する習慣>・・・、それが、国の同和対策事業・同和教育事業の追従に終わり、被差別部落の人々の部落差別からの完全解放どころか、賎民史観という差別思想に隷属させていった、部落史研究の学者・研究者・教育者の本質を示すものではないかと・・・。

筆者、60歳を越えてから、<何が論じられているか>ということより、<何が論じられなかったし、論じられていないし、論じられようとされていないか>ということに関心を抱くようになりました。

ときどき、蔵書の虫干しをするのも悪くありません。発想の転換のためのよい機会になります。

  

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2009年5月 1日 (金)

●宮台真司「日本の難点」を読む・・・

Mdi090430本の<あとがき>に、「これ以上はあり得ないというほど、噛み砕いて書かれています・・・」とありましたが、無学歴・無資格の筆者が読んだ限りでは、宮台真司著『日本の難点』・・・、決して読みやすい本ではありません。

たぶん、宮台真司氏が想定している読者は、筆者のような無学歴・無資格の「ただのひと」ではなく、学者・研究者・教育者・学生・・・などが対象なのでしょう。理論社会学の学術用語が基本的に理解できる人々を対象に書かれている・・・。

そのため、理論社会学の学術用語と無縁な日々を過ごしている筆者には、本のはじめにある<はじめに>の文章から違和感のある用語が羅列されている・・・と思われます。<サバティカル・郊外論・収束・欧米的普遍主義・普遍的普遍主義・個別主義的普遍主義・不可能性と不可避性・社会の底が抜ける・全域化・やり過ごしや覆い隠しのメカニズム・コミットメント・ベタからネタへ・境界線の恣意性・人間は死んだ・コミットメントを通じた政治共同体の保全・・・>などなど。

宮台真司『日本の難点』・・・、読破するためには、この学術用語・専門用語という<バリアー>を突破しなければならない・・・。

そこで、筆者、筆者になじみのない学術用語・専門用語、またそれを使ったいいまわしを、ピンク色のマーカーで識別することにしました。どのページも、ピンク色のマーカーで埋めつくされます。

そして、そのうち、筆者にとって、未知の、アトランダムに配置されていると思われるような学術用語・専門用語が、脈絡を持つようになり、宮台真司『日本の難点』の語る内容が把握できるようになりました。

そして、この宮台真司『日本の難点』・・・、<相対的>相対主義と<絶対的>相対主義の葛藤がテーマであることに気づきました。宮台真司が相対主義の終焉と呼ぶところの相対主義は、相対主義そのものを絶対化した<絶対的>相対主義のこと・・・。健全な<相対的>相対主義まで否定しているわけではありません。むしろ、<相対的>相対主義を宮台真司は再構築しようとしている・・・。

どのように<相対的>相対主義を再構築しようとしているのか・・・?

その問いが、筆者の頭の中を支配するようになりますと、宮台真司『日本の難点』の42の論点が、ひとつの体系を形作っているのが見えるようになり、そして、『日本の難点』の論調の背後にある、宮台真司氏の<真意>が認識できるようになりました。

<相対的>相対主義は、真に<絶対的>なものを前提として成立しますが、筆者の場合、それは<聖書>の神の言葉・・・、ということになりますが、宮台真司氏は、そのことについて言及することを極力回避しているようです。日本の文化には、<聖書>の神の言葉に代わる絶対的なものが存在しませんから・・・。あるとすれば、明治以降、擬似的に創設された国家神道・・・。宮台真司氏は、一歩手前の、柳田國男の「国土保全」の再評価の提案に踏みとどまります・・・。

明治以降現代まで、戦後においても一貫して看過された「国土保全」に関する、知識階級・中産階級の責任をたなあげにして・・・。

宮台真司『日本の難点』で描かれる日本再生のシナリオ・・・、高山の稜線のようなものです。右に転ぶか左に転ぶか、危うさをもっているようです。

宮台真司『日本の難点』・・・、これまでの知識階級・中産階級の学者・研究者・教育者が言いにくかったことを端的に表現していることは評価に値しますが、<日本の難点>を分析してみせただけで、<日本の難点>を突破できるかどうか、そのための<人文知>から<実践知>になることができるかどうかは、<不可能性と不可避性>の危険な稜線上にあります。

大学・大学院で理論社会学を専攻した娘曰く、「『日本の難点』・・・、宮台真司らしい本よ。いままでと異なる新しいことを語っているのではないみたい・・・」。29日は、郡山市内は、市民マラソンが行われるとあって、いたるところで交通規制・・・、渋滞もかさなり、ひさしぶりにあった娘と、車内での話しは多岐に渡りました。この日は、快晴で、郡山市内から、会津磐梯山の雪形が見えました。

  

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2009年3月12日 (木)

●無学歴者の執筆責任・・・

郵便局にでかけたついでに、国道2号線沿いのBOOKOFFに立ち寄りました。

そして、<贅沢禁止令>を破って、次の5冊を購入・・・。

林周二著『研究者という職業』(東京図書)
内川芳美他著『日本のジャーナリズム』(有斐閣選書)
阿部斉藤著『概説現代日本の政治』(東京大学出版会)
玉井金五他著『新版社会政策と学ぶ人のために』(世界思想社)
石井一著『政権交代 あなたの政治参加が日本を救う!』(自由国民社)

帰って、一読したのが、林周二著『研究者という職業』・・・。

筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群で、部落史の学者・研究者・教育者を<批判>(クリティーク)していますので、<学者・研究者・教育者>とは何なのか・・・、<研究者>をキーワードに少しく整理しておきたいと思ったからです。

同種の本に、鷲田小彌太著『研究的生活の方法』等があるのですが・・・。

林周二氏曰く、「実力がなければ田舎回りで一生終わることにもなる」とか・・・。この文の中に用いられている<田舎>という言葉・・・、ふりがながつけられています。そのふりがなは<どさ>・・・。

筆者、<田舎>を<どさ>と読むのを、はじめて目にしました。筆者の『田舎牧師の日記』も、『どさ牧師の日記』と読む人が他にもいるかもしれませんね・・・。

しかし、筆者、現在の教会に赴任して27年目を迎えていますから、<どさ回り>だとしたら、ずいぶん長い周期の<どさ回り>になります。というより、島流し・左遷・幽閉・・・、されているということばの方が適切かもしれません。

林周二著『研究者という職業』を読んでいて、無学歴・無資格、部落史とは縁のない筆者が、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆することにともなう<責任>とは何か・・・、に思いをはせることができました。

①無学歴・無資格であるにもかかわらず、部落史研究に抵触するような論文を書くのであるから、「無報酬」で公開しなければならない(ちなみに、プロの学者は<無報酬>で研究成果を公表することはない・・・)。

②プロの学者の研究上の
「アイディアを剽窃したり、論文を盗用したりしてはならない」(『部落学序説』とその関連ブログ群は、筆者固有の、<新けがれ論・非常民論>などの解釈原理に基づくもので、プロの学者・研究者・教育者の差別思想である賎民史観を剽窃・盗用・援用することはない・・・)。

③無学歴・無資格で論文を書くものは、プロの学者・研究者・教育者が習熟している「基礎学識を身につける努力をすること」が求められる。しかし、「伝統的な学問の理論体系にしがみつき、それによって状況を説明する」ような弊害に陥ってはならない(プロの大家研究者には許される・・・)。

④無学歴・無資格、部落史の門外漢は、部落史の一流・二流の学者・研究者・教育者の研究に
「正面からぶつかる」研究主題を避け、三流の名にふさわしく独自の研究主題に取り組むべきである(部落史研究者の中にも、「専門家の仕事に口出しするな」と腹を立てる人が多い・・・)。

⑤無学歴・無資格の<研究者>は、
「古典に親しむ」ことを通じて<教養>を高め、いたずらに部落史研究の流行と先端を追い求めてはならない。「研究のテーマを自分自身の眼で現実のなかから発見し、自分自身の頭で分析の筋道を模索することに努め」なければならない(無学歴・無資格の<研究者>は、プロの学者・研究者・教育者以上に独創性が求められる・・・)。

⑥無学歴・無資格の<研究者>は、プロの学者・研究者・教育者と、研究上の
「競争」をしてはならない。「既存の学問文脈」から自由な世界で「清新な研究」を続けるべきである(「権威主義的、保守主義的なプロの研究大家」はそのことから逃れられない・・・)。

⑦無学歴・無資格の<研究者>は、執筆を中断した時点で<研究成果の枯渇>を疑われるので、絶えず論文を執筆し続けなければならない。


無学歴・無資格、部落史に無縁の筆者が、部落問題・部落差別問題・部落史研究に関する論文を書き続けるためには、無学歴・無資格者、アマの<研究者>に課せられる、上記7つの項目をクリアする必要がありそうです。

  

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2009年2月12日 (木)

●自給自足・読書思索の森の生活・・・

昨日の午前中、仕事休みの妻と一緒に、国道2号線沿いの宮脇書店へ行きました。

広い店内を散策しながら、あらためて出版物の多さに驚きの思いを持ちました。筆者がいつも散策するのは、文庫・新書、情報処理・農業・歴史・哲学・社会学のコーナーのみですが、昨日は、全店内を散策しました。

ほんとうにたくさんの本が出版されていますね・・・。

筆者が読むことになる本は、そのほんの一部でしかありません。砂浜の2、3粒・・・、に過ぎません。

購入したのは、H.D.ソロー著『森の生活・上』(岩波文庫)『森の生活・下』(岩波文庫)と金関丈夫著『発掘から推理する』(岩波文庫)の3冊・・・。

『森の生活・上』を手にしてパラパラめくったとき、こんなことばが目に飛び込んできました。「偏見を捨て去るのに遅すぎるということはないのだ。思考や行動の方式は、いかに古くからのものであれ、証拠なしに信じることはできない。今日はだれもが口をそろえて正しいと言い、黙認していたものが、明日はまちがいだということになるかもしれない・・・」。

「大学者や大思想家・・・、彼等は事実上、自分の先祖とおなじような大勢に順応してなんとか生きのびているだけだから、いかなる意味でも高貴な種族の鼻祖となることはできない。・・・諸国民を軟弱にし、破滅に導く・・・」。

見つけるつど、筆者、そのページの角に折り目をつけていきます。出会ったことばをあとで探すのが大変ですから・・・。当然、折り目をつけた本は購入することになります。

H.D.ソロー著『森の生活・上』、このような言葉がありました。「たいていの人間は、静かな絶望の生活を送っている。いわゆるあきらめとは、絶望の確認にほかならない。ひとは絶望の都市を出て、絶望の田舎へ行き・・・みずからを慰めるほかはない。・・・ともあれ、絶望による行動はしないというのが、知恵のひとつの特徴である」。

筆者、やがて、日本基督教団西中国教区の一番ちいさな教会を辞して、妻の実家のある東北・福島の湖南町で晩年を過ごすことになりますが、それは、決して、「絶望の都市を出て、絶望の田舎へ行」くいとなみではありません。

H.D.ソロー著『森の生活・下』・・・、その最後のページに記された言葉・・・、「われわれが目覚める日だけが夜明けを迎えるのだ。新たな夜明けが訪れようとしている」。

筆者、ひさしぶりに<読書を楽しむ>ことができる本に出会ったようです。

金関丈夫著『発掘から推理する』は、ページをぱらぱらめくっていて、「日本の巡査」という言葉が目に入ってきたため・・・。近代日本による台湾の植民地支配の<先兵>となった日本の警察官のことですが、明治政府が<特殊部落民>概念を構築していく過程を明らかにするに有益な資料・・・。

部落解放同盟のご用学者・秋定嘉和氏の論文を読むより、より多くの、部落差別完全解消への有益な情報を入手することができます。『発掘から推理する』は、人類学者・金関丈夫氏の筆になる書・・・。

妻曰く、「ねえ、あなたとわたし、よく似ていない・・・。知性・感性・・・、どれもよく似ていない・・・」。

筆者こころのなかで思ったのは、「似ているのではなく、いつのまにか、妻の影響を受けて、妻に似るものになっていった・・・、というのが正解・・・。会津若松生まれの妻・・・、会津磐梯山のように、筆者の精神世界に場所を占めている・・・」ということ・・・。

妻は今日は検診を受けに病院へ・・・。4度目の手術を受けることになるのかどうか・・・。生き長らえて、東北福島の妻の実家のある湖南町で、夫婦なかよく晩年を過ごしたい・・・。

  
   

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2009年2月 1日 (日)

●礼拝後、借りていた論文集の返却に・・・

礼拝後、ブログ『ジゲ戦記』のサンチョさんのお宅へ・・・。

この前借りていた、京都部落問題研究資料センター『2007年度部落史連続講座・講演録 京都の被差別部落の仕事』を返却するために・・・。

サンチョさん、今日は在宅で、風邪をひかれているとか・・・。

玄関先で2、3分話をして別れましたが、帰りに、国道2号線沿いのBOOKOFFに立ち寄りました。BOOKOFFは、日曜日とあって、大人も子供も、たくさんの客でごった返しています。そして、至るところで、風邪の咳をする人が・・・。休日のBOOKOFFは、風邪のウイルスの巣窟になってしまったかの感がします。

サンチョさんのすすめで、風邪がうつらないようにすぐいとまをしたのに、<他の人に風邪をうつすと治る・・・>という山口流の迷信の坩堝のようになったBOOKOFFに立ち寄るなんて・・・。

しかし、BOOKOFFで4冊購入しました。

渡辺昌平著『つきあいきれない韓国人』(中公新書ラクレ)・寺沢浩一著『日常生活の法医学』(岩波新書)・中島早苗著『「北欧流」愉しい倹約生活』(PHPエル新書)・中谷巌著『日本経済の歴史的転換』(東洋経済)。

渡辺昌平著『つきあいきれない韓国人』は、この前、テレビの討論番組で、極めて不遜な姿勢でステレオタイプの発言を繰り返す在日韓国人の某大学准教授の姿を見て、不愉快さを感じたため・・・。その女性の方、年配のコメンテーターを前に、机に頬杖をついて話をしていました。その准教授・・・、<世界はグローバル化しつつあるのだから、どこが悪い・・・>と反論されるかもしれませんが、少なくとも、筆者は、グローバル化とは無関係にあまりその人を好きになれない・・・。ついでに、その人が双肩に背負っている<韓国人>も・・・。この本を買ったのは、<韓国人>について考え直すため・・・。

寺沢浩一著『日常生活の法医学』・・・。こちらは、<冤罪>に対する<予防>のため・・・。

中島早苗著『「北欧流」愉しい倹約生活』は、日本基督教団豊科教会のシオン幼稚園のこどもたちの姿を思い出したため・・・。この本に、北欧デンマークの「雨でも雪でも毎日、外で遊ぶ保育園」・・・、「移動保育園」の話が紹介されていました。

「移動保育園」というのは、ほとんど施設らしい施設をもたないで、自然の中でこどもたちを保育するというもの・・・。デンマーク・・・、1年のうち半年は、雨と雪が続くそうですが、雨と雪の日は園舎で・・・、ということになると、半年の間、園児たちは戸外に出て遊ぶことができなくなります。

「移動保育園」では、赤・青・黄・・・色とりどりのレインウエアを身にまとったこどもたちが、雨と雪の中、自然の中で遊んだり観察したりするそうです。小さな園児も3ヶ月を過ぎると、風邪ひとつひかない健康な体になっているそうです。<健全な精神は健全な身体に宿る・・・>、それを絵に描いたように実践しているようです。

豊科教会のJohn F Cross 牧師は、春夏秋冬、園児を自然の中に連れ出しておられるようですが、デンマーク式<移動幼稚園>の要素をふんだんに取り入れておられるようです。

デンマークの保育園(幼稚園)・・・、園庭が広くて、庭の端まで行くと、園児たちの視線から、「園児1人につき2㎡」と国の法律で決められた園舎が見えなくなるそうです。

日本基督教団豊科教会・シオン幼稚園の、John F Cross 牧師夫妻と幼稚園教諭の方々、いい<保育>をされています・・・。

そんなことを考えながら中島早苗著『「北欧流」愉しい倹約生活』を購入・・・。

中谷巌著『日本経済の歴史的転換』については、この前、テレビのニュースで、自分の学説を否定した希有な学者がいると紹介されていた一橋大学教授・中谷巌氏の著書だから・・・。もちろん、105円・・・。

筆者、自分の学説を否定する学者にいままで一度もおめにかかったことがありません。多くの場合は、学説というのは、<とかげのしっぽ切り>の側面をもっていて、<しっぽ>は間違いであったけれども<本体>は間違いではなかった・・・、と自分の学説を擁護、温存させるのが常・・・。こういう行動パターンを採用するのは、経済学者・歴史学者に多い・・・。

中谷巌著『日本経済の歴史的転換』は、経済に関する本であると同時に、歴史に関する本・・・、筆者、中谷巌氏が簡単に自説を否定するとは思えなかったので、自説を否定したとされる中谷巌著『日本経済の歴史的転換』に目を通してみようと思ったからです。

「歴史的知識がそれほど深くない・・・」と謙遜表現される中谷巌氏・・・、現代の経済学者の歴史研究の枠組みが何であるのか、端的に表現してくれています。

ついでに、国道2号線沿いの宮脇書店によって、清水勲著『ビゴーが見た明治職業事情』(講談社学術文庫、2009年1月発行)を買ってきました。こちらは、京都部落問題研究資料センター『2007年度部落史連続講座・講演録 京都の被差別部落の仕事』を読み比べるため・・・。この文庫本は、講談社学術文庫の<外国人の眼に映った日本>シリーズの最新刊・・・。

何と何を比較して検証するかは、無学歴・無資格の筆者の自由・・・。

「下級官吏」・「下級公務員」という概念の「下級」という言葉の意味・・・。「低賃金」労働者としての明治期の「警察官」の位置づけ・・・。近世から近代への移行は、2色のグラデーション風に遂行される・・・、ことを考えると、『ビゴーが見た明治職業事情』『被差別部落の仕事』を比較することも決して意味のないことではない・・・、と思われたからです。

宮脇書店の客の中にも風邪を引いている人が少なくありませんでした。

みなさん、風邪を引くと、書店・古書店に行って、風邪の菌やウイルスをまき散らす方々が多いのですかね・・・。インフルエンザが流行っているときは、書店・古書店に出向くのは自粛しておいた方がよさそうです。

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2008年11月25日 (火)

●尊敬すべき我師・ベッカリーア・・・

無学歴・無資格の宿命・・・

筆者、今年、満60歳になりましたが、60歳は、世の中一般で言われている<還暦の年>・・・。

テレビのニュースで、赤いちゃんちゃんこを着て、還暦を祝う団塊の世代の男女の姿を見て、筆者、限りなく違和感を感じていました。

確かに年齢は、彼らと同じく団塊の世代に属するが、筆者、精神的には、彼らと同じ団塊の世代に列することはない・・・、と。

なぜなら、彼らは、60歳になるまで、<功なり名をとげて>大成して、その歳を祝っているのでしょうが、無学歴・無資格、田舎牧師の筆者・・・、日々、その日その日の生活と闘いに追われる日々・・・。

牧師の本業の他に、副業の情報処理、生活のための園芸、趣味のための『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆、そして、最近とみにウエイトを増しているのが、晩年の人生を有意義に生きるための生活学・・・、学んで、身につけなければならない知識と技術があまりにも多すぎます。

長く続いたその日暮らしが長かったため、筆者、仕残したことがあまたあります。

そのひとつに、昨日、入手した、岩波文庫7冊の読書があります。『資本論』・『帝国主義』・『家族・私有財産・国家の起源』・『歴史哲学講義』・『雇用、利子および貨幣の一般理論』・『自由と社会的抑圧』・『犯罪と刑罰』・・・。

いままで避けてきたことを、避け続けることをよしとせず、その世界を理解するために、60歳にして、挑戦することにしました。

それらの本を読みはじめて思うのですが、その内容が、筆者の精神世界にすっと入り込んできます。無学歴・無資格の筆者、若いときにひもといてほとんど理解することができなかった、それらの本の内容が明瞭に理解できるようになっているのです。

それらの本を読んで内容を把握するには、筆者、60歳の人生の歳月が必要だったということでしょうか・・・。人間として成長するまで、それらの本の精神世界に入っていくことができなかった・・・。

ベッカリーア曰く、「ひさしい間、悲しむべきあやまりの海にただよい、じぶんたちの生存と自由とをあやうくしたあとでなければ、苦しみぬいてどん底まで行きづまったあとでなければ、人間はおしひしぐ害悪に対して手段を講じる決心をしない・・・」。

ベッカリーア、「この真理は・・・俗人の精神・・・にはとらえられない」といいます。

「俗人の精神」とは、「対象を分析する能力がなく、他人から与えられる印象を無批判に言葉の上でだけ受け入れるように習慣づけられた精神」のことだそうです。

インターネットの2チャンネルとやらで、「吉田無学」なる人物が、筆者の『部落学序説』の各項を2行で要約、その後、<議論>を展開されているようですが、「吉田無学」なる人物、筆者の『部落学序説』の一番肝心な<教説>を無視、『部落学序説』を、日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観の海に引きずり込もうとしているようです。

「吉田無学」なる人物、ベッカリーアのいう「俗人の精神」の持ち主か、それとも、「俗人の精神」の持ち主を演じているに過ぎないのか・・・。

筆者が期せずして選んだ7冊の岩波文庫・・・。どの本も、知識階級・有閑階級の<暇>の産物ではなさそうです。<権威・権力>から迫害され、「文字通り生命の危険」に直面しながら執筆された書のようです。いたずらに世の批判、権力からの抑圧にさらされないように、「遠まわしの上にも遠まわしの言い方をし、あるいはほとんど反たいにしかとれないほどにまで反語的な言いまわしをしている・・・」といいます。

それでも、避けることができない「わるい底意をもった批評家」「攻撃」・・・、ベッカリーアはその対処法を書き残しています。「それじしん自己むじゅんしているウソや、狂信者たちのあやまった憤激や、憎悪や、しっとからくるひきょうな中傷」に対して・・・。

耳をかたるべき「批評」と、退けるべき「批評」とを、区別する方法を・・・。

「人目にかくれて、うちすてられた書斎のすみから、実をむすぶまでに永い時間がかかる有用な真理の種を民衆のあいだにまく勇気のあった哲学者・・・」、すこしく<傲慢>が許されるとしたら、筆者、ベッカリーアがいう<哲学者>に連なるものでありたいと願います。

ベッカリーア著『犯罪と刑罰』を最初に読んだのは、大学進学が許されず、ゲーテの『ファウスト』に出てくる中世の学問、神学・哲学・法学・医学を独学することを決心して、自らカリキュラムを組んで、独学していた20代の頃・・・、いまから40年前の話しです。

昔、読むのに難航した書物も、60歳の年齢を数えると、手にとるように読めるようになるらしい。そういう意味では、歳をとることも決して悪いことではなさそうです。

「人目にかくれて、うちすてられた書斎のすみから、実をむすぶまでに永い時間・・・」をかけて、はじめた『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆・・・、筆者の、田舎牧師としての人生に、その機会を与えてくださった神に、こころから感謝することにしましょう。

若いときに学んだこと・・・、それは、決して無駄になることはない・・・。
長い人生の歩みの中で、いつかかならず豊かな実を結ぶことになる・・・。
「苦しみぬいてどん底まで行きづまったあとでなければ」到達することができない真理のあることも忘れてはならない・・・。
人生の真の意味は、与えられた人生を最後まで歩みきってみないとわからない・・・。
形あるものはやげてくずれる・・・。
目に見えるものより目に見えないもの、人間が人間であり続けるためにもっとも大切な<真理>・<真実>に目をそそがなければならない・・・。
<停滞>は、<前進>のひとつの形態に過ぎない。
<停滞>せざるを得ないからといって、自らを人間として<後退>させべきではない・・・。

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2008年11月23日 (日)

●『資本論』を探しにBOOKOFFへ・・・

今日の午後、『資本論』を求めて、国道2号線沿いのBOOKOFFへ行きました。

残念ながら、そのBOOKOFFには、『資本論』はおろか、唯物史観・社会主義思想などに関する本は皆無でした。

資本論・唯物史観・社会主義思想に関する本は、もう、BOOKOFFなどの大衆的古書店からは、すっかり姿を消してしまっているのでしょうか・・・。

60歳を過ぎて、『資本論』に関心を持つなんて、自分でも変な気分ですが、『部落学序説』第5章・水平社宣言批判の執筆を再開するためにも、水平社運動と唯物史観・社会主義思想との関連が密接にあるので、筆者、その原点でもある『資本論』を自分なりに読んでみたいと思ったわけです。

もちろん、筆者、無学歴・無資格であるゆえ、マルクス著『資本論』を、独学で、どれほど理解することができるか、こころもとないものがありますが、読まないより、読む方がいいと考えられますので、資本論・唯物史観・社会主義思想について、原典にあたりながら、自分なりの解釈をもちたいと思っています。

「学問に平坦な道はない。そして学問のけわしい坂道をよじのぼる労苦をいとわない人たちだけが、その輝ける頂上にたどりつくしあわせを持つものである・・・」。

この、どこかで、何度か、耳にしたことがあることばは、『資本論』第1巻の「フランス語版への助言および後書き」に出てくることばであったとは・・・。

マルクスは、『資本論』を、<学問的経済学>として執筆するだけでなく、その<学問的経済学>が、<労働者の解放運動>の道筋をしめすものとして執筆したようです。『資本論』を、マルクスが意図した通りに読み進めることができたとしたら、その読者は、<学問>と<解放運動>を同時に習得することができる・・・、筆者にとっては、<魅力>ある主題で執筆されているようです。

日本の知識人の間で広く受け入れられた「宇野理論」は、『資本論』の学問的解釈学に徹し、<労働者の解放運動>を<事物の学問的認識を妨げる障害物>とみなして排除したものだそうです。

『資本論』第1巻が発刊されたのが1867年・・・。明治元年の前の年・・・。ということは、今年2008年は、『資本論』第1巻の発刊190周年の年、ということになるのでしょうか・・・。190周年の年もあと1ヶ月少々・・・、無学歴・無資格の筆者、ひとりで、その190周年を祝うことにしましょう。

今日、BOOKOFFで入手した文庫・新書は、次の通りです。

西川潤著『世界経済入門第3版』(2004年、岩波新書)
宮崎勇他著『日本経済図説第3版』(2001年、岩波新書)
佐藤光著『入門・日本の経済改革』(1997年、PHP新書)
仁科剛平著『株式投資ハンドブック』(200年、PHP)
浅井隆著『勝ち組の経済学・2010年までに起る12の出来事』(小学館文庫)


筆者、資本論・唯物史観・社会主義思想に関心をもちはじめたのは、『部落学序説』第5章執筆を再開するための準備のため・・・、読むことになった関連文書は史資料としてですが、マルクス著『資本論』・・・、<人生の闘いの書>として読んでもおもしろそうです。

マルクスの唯物史観に立って、日本の差別思想である賤民史観に染め抜かれた日本の唯物史観を<撃つ>・・・、というのも、魅力に満ちた課題であるようです。
 
 

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2008年11月17日 (月)

●老人が使いやすい道具・・・

今日、BOOKOFFで購入した本、最後の2冊は、

銀ちゃん便利堂編『老人が使いやすい道具案内』(晶文社)
増澤紀男監修『家庭の健康べんり事典』(旺文社)


『家庭の健康べんり事典』は、2つの目的をもって執筆されたようです。

ひとつは、体調が悪いとき、「医者に診てもらう必要があるかどうかの指針」として、もうひとつは、「健康管理」に役立つ資料として、「現代の『養生訓』(貝原益軒1630-1714)」として編纂されたようです。

『老人が使いやすい道具案内』は、老後を生きやすくするための<ツール>案内・・・。

筆者も歳を重ねると、いずれお世話にならなければならなくなりますが、それらを<道具>として使いこなす知識と技術・・・、今から<習熟>しておいて損はなさそうです。

その本の最後の章は、「老いにやさしい社会とは」・・・。

その1節に、「お年寄りが世話される町と、お年寄りが働く村」というのがありますが、その「お年寄りが元気な村」に、旧会津藩領地の村が紹介されていました。旧長州藩領地の教会の牧師を辞して、旧会津藩領地の妻の実家に戻ったとき、過ごすことになる<老後>の生き方を具体的に教えてくれる書のようです。

この前、『農家が教える便利な農具・道具たち』(農文協)を入手しましたが、筆者の人生の晩年、必要なのは、<機械>ではなく<道具>のようです。

今日は、楽しい読書日よりになりそうです。

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●頭がいい人の時間術・・・

BOOKOFFで購入した6冊の内の2冊は、医者の書いた本・・・。

斉藤茂太著『頭がいい人の時間術』(サンガ新書)
日野原重明著『人生の四季に生きる』(岩波書店)

いずれも、筆者にとっては、人生の<先輩>にあたる・・・。

日野原重明氏については、日本基督教団豊科教会の John F Cross 牧師のブログにしばしば登場してくるクリスチャン医師のことですが、筆者、 John F Cross 牧師と違って、いままで、日野原重明氏の文章を読んでことはほとんどありません。

単行本として読むのは今回がはじめて・・・。

筆者、短期間に『部落学序説』を書き上げるつもりでいたのですが、ずるずると3年半をかけて、いまだ半ば途上・・・。この際、時間に区切りをつけて、早急に書き上げなければ・・・。

斉藤茂太著『頭がいい人の時間術』は、そんな筆者の指南役として・・・。

無学歴・無資格の筆者、<頭がいい人>が書いた<頭がいい人の時間術>に寄せる期待・・・、大きなものがあります。

今日は、読書三昧で一日を終えることになりそうです・・・。

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●へたな頭の使いかたで一生を終わるな!

宮脇書店へ行ったついでに、BOOKOFFにも立ち寄りました。

105円コーナーで入手した本は、6冊・・・。

その2冊は、鈴木健二氏の著書です

『へたな頭の使い方で一生を終わるな!』(三笠書房)
『自分を賢く生きるために何をなすべきか! 人生80年時代の生きがいの見つけ方』(KKベストセラーズ)の2冊・・・。

鈴木健二氏は、元NHKのアナウンサー・・・。

筆者の読書法の基本は、この鈴木健二氏譲り・・・。筆者が読む本の大半は、学者・研究者・教育者が書いた論文・・・。その枠を越えて、読書の広がりを持つことはあまりないのですが、元NHKアナウンサーの鈴木健二氏の本は別格・・・。

読書好きの鈴木健二氏に、読書好きの筆者が学ぶことは多い・・・。

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