2008年4月16日 (水)

●NHKの番組「人間は尊敬すべきもの・・・」

今日の夜放送された、NHKの番組・・・。

番組で流された映像・・・、いままで何度も社会同和教育の会場で見せられた、同和問題の啓発映画以外の何ものでもありません。

息の抜けたサイダーのようなもの・・・。ほのかな甘味は残っているものの、のどを通り過ぎるときの、あのサイダーの刺激的な泡立ちはありません。

こういう映像・・・、何度放映しても、部落差別は解消することはないでしょう。

なぜなら、この番組の最初から最後まで、近代中央集権国家・明治天皇制国家において、「特殊部落」を創出してきた権力の側の責任をほとんど一切免罪しているからです。そして、「特殊部落」に対する差別の原因を民衆の側に一方的に押しつけているからです。

今日の夜放映されたNHKの番組・・・、その番組の背景にも、差別思想である「賤民史観」と「愚民論」が存在しています。人権感覚に富んだ国家権力や知識階級・中産階級に属する人々は「特殊部落」を差別することはないが、過去の慣習から自由になれない、人権感覚にとぼしい民衆が差別し続けている・・・、そう主張しています。

今日の夜は、春の冷たい雨が降っていますが、今日の夜放映されたNHKの番組の映像と雰囲気が似ています。

『悪あがきのすすめ』の辛淑玉さんがいわれる、「絵に描いたような「美しい被害者」」・・・、<絵に描いたような美しい被差別部落民>を描こうとしているように思われます。

大切なのは、歴史の<真実を描く>ことであって、<美しく描く>ことではないのでないでしょうか・・・? 

「部落の人の血はけがれている・・・」という言葉ですら、春の夜の冷たい雨のように、悲しみの色で描き、なぜ、そのような発想が生まれ、部落の人が差別されるようになったのか、一言もメスを入れることをしなかったのでしょうか・・・?

そのため、この番組を見た人々のこころの中に、「部落の人の血はけがれている・・・」というイメージが浸透していく可能性があるということを予測することもできなかったのでしょうか・・・?

同じ同和問題の啓発について放映するにしても、「部落の人の血はけがれていない・・・」となぜ科学的に論証しなかったのでしょうか・・・?

「人の世に熱あれ、人間に光あれ。」の西光万吉のことばを換骨奪胎させて、「人の世」から、日本によって植民地化された朝鮮や台湾を外させ、「人間」から、朝鮮人や台湾人を疎外させた、戦前の国家権力の責任について、なぜ、ひとことも言及されてなかったのでしょうか・・・。

今日の春の夜の雨・・・、ほんとうに暗くて冷たい雨となりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月29日 (土)

●差別文書、喜田貞吉著『賎民とは何か』・・・

2008年3月30日発行、喜田貞吉著『賤民とは何か』(河出書房新社)・・・。

その本の帯にこのような宣伝文句があいます。

人はなぜ賤しめられるのか。

賤民研究の決定版

被差別部落研究の第一人者であった喜田貞吉による、もっとも簡潔でわかりやすい賤民研究の名著『賤民概説』に、関連文献を併せた決定版。陵墓の守り人、葬送、牛馬の処理に携わった人、坂の者、放浪者、祝福芸能者まで、差別と被差別の構造を歴史的に考察する。

『部落学序説』の視点・視角・視座からすると、この喜田貞吉著『賤民概説』・・・、それ自体が差別思想そのものです。喜田貞吉流の「差別と被差別の構造を歴史的に考察する」こと自体が、部落差別の解消ではなく、部落差別の拡大再生産に<貢献>してきた<差別行為>です。

現在の時点で、この書を再評価して、「差別と被差別の構造を歴史的に考察する」ための「決定版」として推奨することは、かって差別文書として、部落解放同盟によって差別文書として糾弾された賀川豊彦著『貧民心理の研究』を「差別と被差別の構造を心理的・社会的に考察する」良書として推奨するに等しい・・・。

今日、この喜田貞吉著『賤民概説』は、今日歴史学に内在する・・・、と表現してもおかしくないような歴史学の差別思想である「賤民史観」構築のメカニズム解析のための史資料足り得ても、今日の部落研究・部落差別研究・部落史研究の依拠すべきテキストとして、無条件に受容されるべき文献ではありません。

喜田貞吉の「差別と被差別の構造を歴史的に考察する」、その歴史学の研究対象と研究方法の認識そのものが問われなければならないのです。喜田貞吉が依拠する歴史学・歴史研究法だけでなく、その前提となる喜田貞吉の<思想>・<歴史思想>そのものが批判検証の対象にされなければならないのです。

西光万吉とその『水平社宣言』を、歴史の文脈を無視して今日の時代状況の中でバイブル(聖典)視することと同じく、喜田貞吉とその『賤民概説』を今日の<被差別部落研究>の依拠すべきバイブル(聖典)視することは、同祖同根で、部落差別完全解消への歩みを逆行させることにつながります。

喜田貞吉の『賤民概説』を、部落研究・部落差別研究・部落史研究の学者・研究者・教育者としてどのように批判・検証し、その歴史的意味を描き直すことができるか・・・、それは、その学者・研究者・教育者の歴史研究が歴史研究の名に値するか否かにかかています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 1日 (土)

●春を呼ぶ春駒・・・

日本基督教団西中国教区の「教区月報」(2008年3月号)に、今年、2月4~5日間、尾道市で開催された、西中国教区・部落解放現地研修ツアーの参加報告が掲載されていました。

筆者は、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をしていたとき、山口県の部落解放運動に関与した・・・、という理由で、排除されるようになって、久しくなります。教区の部落差別問題に関する集会にも、ほとんど参加することはなくなりました。

参加報告の記録によりますと、尾道市人権センターで、「春駒」の詩の朗読を聞くことができたようです。水田さんという古老が自費出版した『詩集・春駒』の一節を、他の方が朗読されたようですが、「春駒」そのものは見ることができなかったようです。

その参加報告の中に、「春を呼ぶ春駒・・・」という言葉がありました。

『部落学序説』に記している、山口県北部の寒村にある、ある被差別部落にも、尾道市の「春駒」に並ぶ門付芸がありました。

日頃、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(総称としては「穢多」ですが、長州藩の史料では「茶筅」として出てきます)は、年のはじめに、芸をしながら、村々の家々を尋ね歩きます。村の家々は、一年間、村の治安を守ってくれた司法・警察官としての「穢多」に感謝のしるしを差し出します。このときの貰米は、その職務に対する公式の報酬の一部であって、決して「乞食」に対する御恵米ではありません。

この年のはじめにだけ許可される「春駒」・・・、「春を呼ぶ」儀式・行事としてだけでなく、その年の村人の生活を打診するための、大切な職務でした。前年の秋、豊作のときには、「春駒」の際に集まる貰米は、おのずと増加しました。しかし、前年の秋、凶作のときには、正月の「春駒」に対して集まる貰米は、おのずと少なくなります。

「春駒」は、「役人」による、農民の生活の実態調査のひとつです。

ある年の大凶作・・・。

その村の「穢多」が村の百姓の家々を尋ね歩いたとき見た光景は、凶作のため、食べるものもなく、飢えた人々の姿でした。「春駒」を演じるどころではありません。厳しい寒さの中、餓死者が続出する中、その村の「穢多」は、代官所にかけあい、藩とかけあい、御救米を求めるために東奔西走します。藩は、司法・警察官である「穢多」とその家族には特別米を拠出しますが、百姓の分まで拠出することはありません。その時、「穢多」は、自分の食べる飯を、飢えた百姓の子供や老人、病人に差し出し、自らは飢えて死んでいくのです。

「春駒」の話が、悲しい響きを持つのは、「春を呼ぶ春駒」を演じても、なかなか春がやってこない・・・、その辛さや悲しさを、当時の司法・警察官である非常民としての「穢多」は、肌身にしみて感じていたからです。

といっても、こんな話・・・、部落史の常識に反する・・・、といって、打ち消されるだけなのですが、大凶作で餓死した百姓の名簿の末尾に、決して忘れることがないように、その名前を書きとどめられた「穢多」たち・・・。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の持ち主である学者・研究者・教育者は、百姓は、差別するために、餓死者の名簿の末尾に「穢多」の名前を付け加えたのだと、<推測>します。

同じ<推測>なら、差別思想である「賤民史観」を払拭しようと努力している分、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者の<推測>の方が優っています。

一年の年のはじめだけに許された「春を呼ぶ春駒」・・・、隠された伝承のほんとうの意味は、まだまだ、雪の中に閉ざされたままのようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●昨日はひさしぶりに熟睡・・・

昨日は、ひさしぶりに熟睡しました。

今朝は、目のかすみは、少し和らいできました。

少しよくなると、すぐパソコンの前に座る筆者ですが、今朝は、『部落学序説』の1文書あたりのアクセス件数を出してみました。

被差別部落の地名とタブー  9033件
ある同和対策事業批判  1330件
部落学序説  786件
紀州藩「城下町警察日記」を読む  151件
田舎牧師の日記(Ⅱ)  62件

筆者が各文章、読者の方々が読みにきてくださるのは、部落差別問題関連記事です。教会・花・野菜・小鳥の話は、極少数の方々のみ・・・。

部落差別問題関連記事で、読者数の多いのは、以下の順です。

部落差別問題の現代>近代>近世>中世>・・・

執筆の主題が、中世よりも近世、近世よりも近代、近代よりも現代を主題にしたものの方が読者数が多いようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史学的研究ではありません。非常民に関する学としての「部落学」という、新しい枠組みで執筆されていますが、現在のところ、近世から近代へ、近代から現代へ・・・、と主題の時代的範囲を拡張していますが、現在は、その流れと逆行して、近世と近代のはざまに戻って、「百姓の目から見た渋染・藍染」について執筆しています。

アクセス件数をみすみす減少させる営みです。

しかし、これまで、『部落学序説』で紹介してきた視点・視角・視座、方法で、「岡山藩」の「渋染一揆」をとらえたらどうなるのか、その実践事例として言及するのも悪くはないかな・・・、と思って、執筆を続けています。

筆者の手元にある、部落差別問題関連資料は、現代>近代>近世>中世>・・・の順番ですから、ひとつの文章を書くために確認しなければならない資料は飛躍的に増えます。その資料を批判検証するためには、近世のテーマについて言及する以上に、執筆者の視点・視角・視座を明確にしなければなりません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に<破壊>・・・、するためには、膨大な時間と労力が必要なようです。

吉岡幸雄著『日本の色を染める』に記されているように、「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・。「貴色」・「賤色」という発想は、外来思想である中国の悪しき文化に汚染された古代天皇制の残滓でしかありません。「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・、のと同様、すべての「ひと」は、美しい・・・。そこに、本質的に「貴人」・「賤民」と呼ばれるような人が存在するはずもありません。

それぞれの時代の支配階級が、自分の都合のいいように制度化したに過ぎません。

現代の「被差別部落」の人々は、その先祖の歴史にまでさかのぼって「賤民」として、部落史の学者・研究者・教育者からラベリングされることを黙って容認してはならない、差別思想である「賤民史観」という、一見、「被差別部落」の人々を「勦るかの如き・・・」教説は、「多くの兄弟を堕落させた・・・」教説であり、差別的な部落史の学者・研究者・教育者によってはきかけられた「クダラナイ嘲笑の唾・・・」に過ぎず、「呪はれの夜の惡夢・・・」に過ぎない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者によって押しつけられた「賤民」としての「烙印・・・」を投げ返さなければならない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な思想「賤民史観」を受け入れ、「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ・・・」・・・。そして、「被差別部落」の若い世代が、「人生の熱と光」を持って生きることができるよう、差別思想である「賎民史観」を葬り去り、民衆と共に差別なき新しき社会をつくろう・・・。被差別部落の人々を差別の奈落に落としこめた人々は、民衆ではない。背後にあって民衆を教育し、差別思想である「賎民史観」を注入し続けてきた、学者・研究者・教育者である・・・。彼らは、それぞれの時代の権力の走狗として、「被差別部落」の人々の「誇りうる・・・」近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として生きてきた歴史と人生の物語を奪い続けてきたのだ。自ら構築すべき歴史を、差別者である、部落史の学者・研究者・教育者にゆだねた結果、「賎民」とラベリングされてきたし、今もされている、そしてこれからもされ続けることになる・・。「被差別部落」の「人間を冒涜」することを許したことは、今日に至るも、「被差別部落」の「多くの兄弟を堕落・・・」させている。「被差別部落」の若い学徒たちが、「人間を尊敬する・・・」ことの真の意味を認識し、差別思想である「賎民史観」を投げ返し、「自らを解放せんとする者の集団運動を起こせるは、寧ろ必然である・・・」。近代以降の歴史学者・研究者・教育者が構築してきた、差別思想である「賎民史観」を破棄し、自らの歴史と物語を取り戻すとき、決して、差別されることのない「祝福された時が来る・・・」。差別なき社会の夜明けは近い。押し付けられた「荊冠・・・」をかなぐり捨て、勇気をもって、真の部落解放運動のために立ち上がるべきだ。大学の教室で、図書館で、研究室で、差別思想である「賎民史観」を打破すべく勉学を続けよ。毎日毎日、真の部落解放の姿を考えよ。これまでの部落解放運動は、真の部落解放運動の<前座>に過ぎない。戦いはこれからだ。差別思想「賎民史観」の打破と、それを永久に葬り去る課題は、大学で、その図書館や研究室で学ぶ、「被差別部落」出身の学生の肩にかかっている。「人の世に熱・・・」「人間に光・・・」、「被差別部落」の本当の歴史をその手に掴むために、差別思想である「賎民史観」の担い手である学者・研究者・教育者の言説を批判検証し、議論・討論し、「賎民史観」を放棄せしめ、「人間に貴賎はなし・・・」との理念のもと、真の部落解放運動に共同参画せしめよ。真の部落解放運動の前座でしかない、同和対策事業の様々な問題に臆するな。同和対策事業の最初から<罠>は想定されていた。大切なのは、真の部落解放運動の担い手足るべく自らを飛躍させることだ。無学歴・無資格、「被差別部落」出身ではない、ただの「百姓」の末裔に過ぎない、部落解放運動の門外漢に過ぎない筆者の言葉を読む、<あなた>、<あなた>にはそれができる!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 3日 (日)

●おもしろそう、渋染一揆研究・・・

岡山藩の渋染一揆・・・。

日本基督教団の部落差別問題研修の主要なテーマになりつつありますが、今頃、どうして・・・?

『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者としては、なにとなく、疑問の思いを持ちます。

現代の部落差別問題が直面している問題は、少なくありません。過去の同和教育・同和事業をめぐる様々な問題に対して、分析と検証が必要なことはいうまでもないのですが、それらをさしおいて、部落史の問題、とりわけ、幕末から明治初頭にかけての、岡山藩の「渋染一揆」や美作の「解放令反対一揆」に関心を集中させるのは、何か意味があるのでしょうか・・・?

1995年に兵庫教育大学の柴田一氏の『渋染一揆論』以来、「渋染一揆」に関する本格的な研究はほとんど出ていません。「ほとんど・・・」というのは、無学歴・無資格の筆者は、部落史に関しては門外漢で、渋染一揆に関する論文・書籍の追跡はしていませんので、もしかしたら、柴田一氏の『渋染一揆論』を凌駕する研究がなされているのかもしれません。

20数年筆者と交流のある、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々、昔の高同教・県同教の方々、それから、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆を開始して以来交流がはじまった東洋史研究者・日本文化史研究者の方、そして、古書店の店長さん・・・、いずれの方々からも、「渋染一揆」に関する新しい論文が出た・・・、との話を耳にしていないので、柴田一著『渋染一揆論』を凌駕する研究は、まだ出てきていないのでしょう。

教団・教区が、「渋染一揆」に関心を持つのは、同対審答申以降の部落解放運動に郷愁をおぼえ、その時代を回顧し、その時の部落解放運動のエネルギーを取り戻そうとされているのではないかと<推察>されます。

<昔の夢よもう一度・・・>。

そういう意味では、柴田一著『渋染一揆論』で「渋染一揆」を学ぶより、その20年前の1975年に出版された、川元祥一著『渋染一揆』を学んだ方が、理にかなっているかもしれません。川元祥一氏は、岡山の被差別部落出身を名乗り、キリスト教主義大学で「部落学」を講義されていますから・・・。歴史学的な批判、あるいは、部落学的な批判に耐えれるかどうかは別として、その時代、なぜ、川元祥一著『渋染一揆』が書かれなければならなかったのか、そして、それが、なぜ、岡山の部落解放運動に取り入れられていったのか、その運動論的、歴史的背景を把握することもできるのではないかと思われます。

1975年の川元祥一著『渋染一揆』にしても、1995年の柴田一著『渋染一揆論』にしても、部落解放運動と部落史研究の相乗効果のもとで作り出されていった、「渋染一揆」の歴史解釈です。

もしかしたら、柴田一著『渋染一揆論』を凌駕する論文は、その20年後の2015年頃まで待つ必要があるのかもしれません・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●部落解放現地研修・・・

2月4日(月)~5日(火)、日本基督教団西中国教区部落差別問題特別委員会主催の「部落解放現地研修ツアー」があります。

昨年は、岡山県の「渋染一揆」の史跡めぐりを含めた「部落解放現地研修ツアー」が実施されました・・・(最近、歳のせいでしょうか、記憶があいまいになる場合がありますので、たぶん・・・)。

部落差別問題特別委員会委員長・東岡山治牧師の指導のもとに、広島・山口・島根の各県の部落解放運動をされている方々との交流も兼ねて、実施されているものですが、日本基督教団の牧師は、学歴・資格を持っている人が多くて、昔から、部落研究・部落問題研究・部落史研究の盛んな教区です。

「渋染一揆」の現地研修を経た牧師たちが、「渋染一揆」に関して、その後どのように研究を進めておられるのか、筆者は寡聞にして何も知りませんが、かなり進展しているのではないかと思われます。

6月9日(月)~11日(水)に開催される、日本基督教団部落解放センター主催の、第10回部落解放全国会議で、西中国教区からの「現場」報告として、明らかにされるのでしょうか・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●第10回部落解放全国会議・・・

礼拝の説教をしている最中、教会の庭に一台の車が入ってきました。

礼拝に誰かこられたのか・・・、と思って、説教をしながら待っていたのですが、しばらくして、その車、去って行きました。

教会の玄関の前に立って、入るか入るまいか、迷った末に、入るのを断念されたのか、と思いましたが、礼拝のあと、教会の玄関の郵便ポストの中をのぞきこみますと、中に、宅急便が配達した封筒が入っていました。

発信人は、「日本基督教団部落解放センター」・・・。

中に、「部落解放全国通信」(2008年1月31日号)と、日本基督教団の第10回部落解放全国会議の案内が同封されていました。

宣教の課題としての部落解放
「私の中の部落差別~解放へのつながり~」

岡山へおいでんせい!
今回、4年ぶりの開催です。東中国教区が思いを寄せて担当します。現地では実行委員会を立ち上げ、皆様を気持ちよくお迎えするため、鋭意努力しています。そこで、積極的にあがたが、教会・教区の皆様がご参加いただき、共に聞き、語り、学び、そして祈りの時を、もちたいと考えています。一人でも多くの人が、出会いを通して変えられ、また部落差別からの解放へと意識改革がなされていくことを、私たち東中国教区も願っています。皆様のご参加を期待し、お誘い申し上げます。

日時:2008年6月9日(月)~11日(水)
会場:日本基督教団岡山教会(岡山市中山下1丁目10-18)
宿泊:コンフォートホテル岡山
現場研修:3コース(渋染一揆・解放令反対美作騒擾・ハンセン病療養所の現在)
参加費用:25000円+往復旅費


山口から参加すると40000円を超える・・・。

第10回部落解放全国会議の案内のチラシを見て、すぐに、不参加を決定・・・。40000円あると、岡山藩渋染一揆に関する資料が多数入手できるからです。

それに、筆者は、日本基督教団・部落解放センターから、「あなたの取り組みは、教団の取り組みとは方向性が違います。それでも、取り組みを続けるというなら、教団とは、関係のないところで取り組んでください・・・」と、切り捨て宣告を受けて久しくなりますので、それをあえて参加しても、疎外・排除の視線にさらされ、しんどい3日間になるだけでしょうから・・・。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、司法・警察である「非常民」のひとつであり、日本の歴史学上の「差別思想」である「賤民史観」が指摘するような「賤民」・「被差別民」ではなかった・・・、とする筆者の論証は、学者・研究者・教育者、あるいは、運動団体の研究機関によって認知されていない・・・、というのが、疎外・排除の理由です。

昔、筆者が尊敬する元日本基督教団議長・鈴木正久牧師の説教を目にしたことがあります。

「ひとりだけで、私たちはひとりになったらなにができると思ったことがあるでしょうか。ワイワイ後押しをしてくれる人がなくて何ができるだろう。何かできそうに思えることも、すべてとてもててもできるものではない。・・・いつかルターがこんなことをいいました。我々は、自分の前にある神と、その前にいる自分とのたった二人だけである。そこで自分が聞いたことを、そこで自分がすべきだと思われたことを、いったり、やったりするのだ、と。何かこれは、私たちが普段考えたりしたこともないような言葉です。そして普段全然考えもつかなかったような、開けた道というものが、世間的常識のまっただ中に、その壁をつき破って開けている・・・」(『鈴木正久説教集』日本基督教団出版局発行)。

筆者は、鈴木正久牧師がいう、「信仰的不信仰、不信仰的信仰みたいな人間」の典型ですが、鈴木正久牧師が愛用されていた、カールバルトの『教会教義学』(ドイツ語原文)は、今、日本基督教団・農村伝道神学校に保管されています。

筆者が、農村伝道神学校で学んでいる間、阿佐ヶ谷東教会に在籍していましたが、3年目のクリスマス、阿佐ヶ谷東教会の青年会の方々(鐘ケ江晴彦・根本敬・西阪仰・・・諸兄)から、クリスマスプレゼントとして、『鈴木正久著作集』全巻をいただきました。

もう一度、牧師になったときの、原点に立ち戻って、牧師として、神の前で、「自分が聞いたこと」、「自分がすべきだと思われたこと」を実践していきたいと思います。それが、たったひとりの闘いであったとしても・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 3日 (木)

●<勝手同和>・・・

<勝手同和>・・・、という言葉があります。

山口県文書館の元研究員、現在山口大学で講師をされている北川健先生の造語です。

「私の同和教育は<勝手同和>です・・・」と、繰り返し、この言葉を使用されていましたが、<勝手同和>というのは、公務員(行政職員・教職員・大学教授)が、その職務上、税金からの給与・謝礼をもらいながら、仕方なく従事する同和教育ではなく、国民が、国民的課題の担い手として、手弁当で押しかけてする同和教育のことです。

手弁当で、無報酬で、同和教育をするのだから、話す内容も勝手、本当のことを本当のこととして話をする・・・、そういうところから、<勝手同和>と名付けられたようです。

北川健先生は、『部落学序説』の筆者である私の唯一の師・・・。

当然、筆者も、北川健先生にならって、<勝手同和>を実践することになりました。

筆者にとって、<勝手同和>の実践の場所は、山口県の職業訓練機関で実施されるパソコン講座でした。

筆者が、その講師をしていたとき、その講座の受講生は、19歳から55歳までの女性たちでした。高校・大学を卒業してすぐの方もいれば、息子・娘を大学に進学させるための費用をつくるために再就職する必要に迫られている人、離婚して経済的自立に直面している人、受講生は実に多種多様でした。

しかも、職業訓練機関の担当者を通して伝えられるハローワークからの個別の指示にそって、再就職に必要な知識・技術を徹底的に指導していました。

「パソコンの資格だけを取っても意味がありません。大切なのは、その資格に見合う実務能力を身につけることです」。

そういいながら、パソコン本体と周辺機器の接続、ハードディスクの初期化、OSのインストールと設定、アプリケーションの環境設定、情報処理の基礎教育、コマンドシェルの使い方、トラブル対策法・・・を指導しました。ワープロ・表計算の検定試験受験者にそこまで指導する必要があるのか、と非難されることもありましたが・・・。

資格をとってすぐ、家電製品の量販店で、パソコンの設置と初期指導についた受講生の方もおられました。ハローワークからの、二人の子供を抱えて離婚した若き母親のために、充分な収入が得られるように用意した職場に必要な知識と技術を指導するように・・・、という指示にしたがって指導しました。合格したあとすぐ再就職・・・。しばらくして、「困ったことがあるかどうか・・・」電話してみましたが、そのときも、「問題解決法を教えてもらったので、自分でトラブルを解決できます・・・」という返事が返ってきました。

年齢・家庭環境・学歴・職歴・学力・能力・・・等がそれぞれ異なる人々を対象に、同時に同じ資格をとらせることは容易なことではありません。筆者は、一人も不合格者を出さないように、指導法の改善とカリキュラム作りに力を注ぎました。

その中で、早く課題をこなした受講生を対象に、いろいろな「雑談」をすることにしたのです。情報処理についてはもちろん、人生全般について・・・。そして、北川健先生の<勝手同和>の技法も取り入れて、講座中に、同和教育を実践することもしばしば・・・。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いの話、「穢多寺」を尋ねた話、江戸時代「女性」も「穢多」と呼ばれていたという話、学校同和教育や社会同和教育とは異なるいろいろな歴史の話・・・、講座期間中に、そのような話を組み込みました。

北川健先生の弟子である筆者は、北川健先生風の<勝手同和>の実践者でもありました。

そのことで、筆者に、『部落学序説』執筆の前提となる史料・伝承が集まるようになってきました。受講生の中には、元学校教師や、小中校の臨時教員の方々も少なくありませんでした。<差別>・<被差別>両方の立場からの情報が集まってきました。

しかし、その中には、差別的なものはほとんど含まれていませんでした。<差別>・<被差別>の立場に関係なく、差別問題について差別的でない対話が可能である・・・、と確信を持つことができるようになりました。

受講生の中には、被差別部落出身の方も少なくありませんでした。講座のはじめの自己紹介のとき被差別部落出身であることをはなされる女性も少なくありませんでした。部落解放同盟・同和会・全解連・全国連の支部に所属している方もいましたし、被差別部落から立候補した市議会議員の家族の方もおられました。

在日韓国人・在日中国人の方もいました。

彼らは、職業訓練を受けている最中、筆者によって、北川健先生風の<勝手同和>を押しつけられたにも関わらず、一度も、筆者や、職業訓練機関の筆者の上使に対して、「差別的である・・・」とか、「被差別部落の人々を差別している・・・」とか、「女性を蔑視している・・・」とか、「セクハラをしている・・・」とか、「民族差別をしている」・・・とか、そういうクレームを出したり、密告したりする人はいませんでした。

ただ、「暇つぶしに受講しているのに、本格的な職業訓練をされて不愉快でした。私は資格をとらなくても食べていけます・・・」という人はいましたが・・・。

山口の小さな教会に身を置くようになって20数年、『部落学序説』執筆に至るまで、気の遠くなるような試行錯誤の連続でした。しかし、その、細心の注意を払いながらの、長期間に渡る試行錯誤があればこそ、今日の『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆が可能になっていると思われます。

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆は、「一日にしてならず・・・」です。

最近は、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆とその準備に追われて、<勝手同和>を実践する暇は少なくなりましたが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日 (日)

●今年最後のメール・・・

先週金曜日(12月28日)、仕事納めの日でしょうか・・・。

某市の旧同和対策室の方から、メールをいただきました。無断で転載させていただきます。

「今年の仕事も一段落して、空いた時間でお気に入りに入れていた興味深いHPを見直す時間ができたので、ここ3日ほど「部落学序説」を読み始めました。非常に勉強になります。また、本質的な部落差別問題の解決につながるのでは、という実感がわき、思わずメールいたしました。これからもがんばってください」。

「思わず・・・」

『部落学序説』の筆者にとっては、最高のはげましのことばです。

新しい年、部落差別完全解消を目指して、それぞれの場で<共に>闘っていきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 6日 (木)

●NHKの大河ドラマ「風林火山」、川中島の戦いで「穢多」の姿をどのように描くのか・・・

日曜日の午後8時から、「風林火山」があります。夕食をとったあと、妻と一緒に観賞することが多いのですが、なかなか連続してみることはできません。我が家には、ビデオ装置なるものがないので、録画してあとで見るということはできません。土曜日の午後、再放送があるのですが、それとて、思いのままにはなりません。

昔、山口県の職業訓練機関で、パソコンの資格取得講座の講師をしていたとき、その受講生のひとりに、徳山高専の教授夫人がいました。筆者が、タッチタイピングの練習に、島崎藤村の詩を暗唱して、それを受講生にタイピングさせていたのですが、そのこともあって、その教授夫人、いろいろな話をしてくださいました。

彼女は、「由布姫の末裔」であるとか・・・。

「何代目ですか・・・?」と尋ねたら、「何代目かは数えたことがありません・・・」と答えておられましたが、「由布姫の末裔」であることは、その方の雰囲気からして間違いない・・・、と思われました。

しかし、そのとき、筆者は、「由布姫」がどのような女性であったのか知りませんでした。その日、書店に行って買い求めたのが、土橋治重著『武田信玄 物語と史跡をたずねて』(成美堂出版)でした。

今回、NHKで「風林火山」が放映されることになって、筆者は、「風林火山」鑑賞の傍らときどき、この『武田信玄』を紐解いていましたが、筆者の手元には、もう1冊、気になる本があります。

以前、BOOKOFFで見つけた、中山英一著『私を変えた源流』(日本同和新報社)です。

その第4章は、「人間にひかりあれ」という題がつけられていますが、その第1節は、「雨宮水平社前史」、第1項は、「重い歴史」・・・。

その「重い歴史」で描かれているのは、信濃国川中島で、武田信玄と上杉謙信が戦ったときに、その戦局に大きな影響を与えたという「雨宮穢多村」の「穢多」(中山氏の言葉は「長吏」)・・・。

戦国時代といえ、当時の「非常民」は、軍事と警察に分かれていました。「雨宮穢多村」は、「千曲川端」にあって、「長吏」役のかたわら、千曲川の渡し船の「船頭」も兼ねていたのです。「川のことは河童より熟知していた」そうです。

中山英一氏は、このように記しています。

「千曲川の南に位置する妻女山に本陣を構えていた上杉勢は1561年9月9日の払暁、濃霧を利用して対岸の八幡平に本陣を張っていた武田勢へ一挙に攻撃をかける奇襲戦法に出た。このとき上杉勢に千曲川渡河の水先案内をしたのは、千曲川端の雨宮部落(ママ)の人であった。・・・上杉勢は雨宮部落の人々の手引きにより、その二か所(雨宮の渡しと猫の瀬)に分散して渡河に成功したのである」。

現在の「雨宮部落」の旧家である小山家の家宝である「刀と槍」は、そのとき、上杉謙信から拝領したものであるとか・・・。

この日曜日のNHKの大河ドラマ「風林火山」で、濃霧の中陣を張る武田信玄勢のところへ、上杉謙信勢を導く「雨宮穢多村」の「穢多」・・・、それはどのように描かれるのでしょうか・・・。

この前の日曜日の放映分では、負傷した武田の家臣を救った川沿いに住む老婆は、外科的・内科的治療を施して、多くの負傷した武士を救った・・・、と描かれていましたが、『部落学序説』の筆者の目からみると、その老婆も、「穢多」の流れをくむもの、「女穢多」であったのではないか・・・、と思わされます。もっと的確に表現しますと、「女穢多医者」・・・。現在の外科の女医・・・。

そう判断しますと、武田勢と上杉勢の川中島の戦いで、重要な戦局を作り出した、「雨宮穢多村」の「穢多」が映像として全国に流される可能性は十分あります。

そういう意識をもって、今回の「風林火山」を見ないと、せっかくの、戦国時代の、中世の「穢多」の姿は、多くの映像と同じように一瞬にして、私たちの視界から消え失せてしまうことになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

●敗北主義からの脱却のすすめ・・・

原田伴彦著『被差別部落の歴史』・・・。

この書は、いまでも近くの書店で簡単に入手することができる部落差別に関する本です。

1975年に発行されてから30数年間に渡って、広く読まれてきました。

筆者の所有しているこの本、いつのまにかボロボロになってしまいました。本文は、マーカーをつけたり、メモを入れたりして、何十回読んだことか、その数を忘れてしまうほどです。

「生涯探求」を実践しようとしますと、一番大切なことは、「探求」するための基準を確定することです。

部落差別についていえば、そのときどきの自分の位置を知るために、基準となる教説・理論を確定することです。筆者の場合ですと、原田伴彦著『被差別部落の歴史』ということになりますが、それは、筆者のすべての判断をその書に依拠する・・・、という意味ではありません。

「探求」をすすめる上での作業上の仮の「基準」として、原田伴彦著『被差別部落の歴史』に立ち返る・・・、ということを意味します。

「生涯探求」を徹底しようと思っても、その障害となるものは種々雑多なものがあります。

部落史の見直しが盛んに行われるようになって、従来の一般説・通説とは異なる、主観的な論説が急速に増えました。その結果、それまで、差別的・・・、と思われていた視点・視角・視座が、「反差別」の装いで復権されてくる場面も多々ありました。

その典型的なものが、「人種主義」でしょう。

この「人種主義」が、部落差別問題にもたらしたもの、その影響を、原田伴彦氏は、次のように考えるのです。その影響は、部落差別は「どうにもならぬほど歴史的、伝統的に厳然として存在するのだという考え方」、あるいは、「部落問題の根本を、ユダヤ人問題や黒人問題のように、民族のちがいの次元にもちこんで考える」考え方に現れるというのです。

インドのアウトカーストの問題も、ユダヤ人問題や黒人問題と同じ側面があります。

「民族や人種のちがいと、それを根源として生まれてくるさまざまな矛盾、対立や緊張」は、それとかかわる人々に、「本質的には永久に解決しえないものだという見方」を与えます。

「部落差別問題は単純な問題ではない・・・」、「部落問題は単純な理論で解決できるような問題ではない・・・」、「明治以降、多くの学者・研究者・教育者によって部落差別問題の解決のために努力されてきたにもかかわらず、いまだに解決をみていないのだから、部落差別はこれからも続く・・・」、「制度は変わっても、人間は変わらない・・・」、「歴史は変わっても、人間の差別意識はなくならい・・・」、「解決不能な問題を、さも解決できるかのように吹聴するのは、被差別部落の人をあざむく行為である・・・」等々。

それらは、「人種主義」が残した思想的残滓、影響であると思われます。

「人種主義」ほど、被差別部落の人々にとって、部落差別完全解消への足枷になってきたものはありません。

「人種主義」は、「賤民史観」・「愚民論」・「優性思想」と共に、近代日本・現代日本の歴史学において、特に、部落史において、学者・研究者・教育者の精神構造の中に巣くってきた病巣でしかないのです。病んだ時代の、病んだ社会と病んだ精神が創り出した、社会病理的現象でしかないのです。

戦後の部落解放運動の中で、根絶されたはずの「人種主義」・・・。

なぜ、部落解放・人権研究所あるいは部落解放同盟中央本部の外国向け文書の中で、「賤民史観」的、「人種主義」的色彩に彩られた表現を使用して、差別思想の流布・伝搬をはかろうとするのでしょうか・・・。

この英文、被差別部落の当事者によって書かれたものでしょうか・・・、それとも、被差別部落出身ではない学者・研究者・教育者によって書かれたものでしょうか・・・。

部落差別完全解消のためには、「人種主義」だけでなく、「人権主義」がつくりだした部落差別完全解消への障碍を、ひとつひとつ取り除いていく必要があります。

「そんなことできるはずがない・・・」。

結果を先取りしないで、できるかできないか、とりあえず、挑戦してみることにしましょう。最初から諦める・・・、それを敗北主義といいます。敗北主義は、政治・運動・人生の墓場です。敗北主義からは何も生まれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●流布される部落差別の偏見・・・

今日、夕方、『部落学序説』の読者の方からお電話いただきました。

筆者が差別文章として紹介した英文を読まれたようです。英語に長けたお方のようですが、やはり、あの英文、これまでの部落解放運動の流れの中で読みますと、差別的な要素の多い文章のようです。

それも、部落解放・人権研究所及び部落解放同盟中央本部の公式サイトで発信されている海外向けの文章だとしますと、外国の研究者、たとえば、メールをくださった方の話を踏まえれば、ハーバード大学での部落史研究において、大学の教授・院生・学生等によって、日本の部落差別問題の基礎知識として、この英文が用いられ、彼らの研究に組み込まれる可能性は多分にある・・・、ということでした。

日本の部落差別は、日本のアウトカーストに対する差別である・・・、という認識は、欧米の知識人、あるいは、中国・韓国などのアジアの知識人の間にも、広く流布されているとしたら、それは、何を意味しているのでしょうか?

国内では、部落差別に関して、「人種主義」を否定し、外国向けにおいては、「人種主義」を肯定・流布・伝搬するという、二重構造が構成されていることになります。

近代日本は、国内向け情報と外国向け情報を使い分けるのが常でしたが、それと同じ手法を、部落解放・人権研究所及び部落解放同盟中央本部も踏襲しているということになります。

近代中央集権国家・明治天皇制下において構築された政治的体質は、部落差別問題においても、いまだに払拭されることなく継承されているのでしょうか・・・?

戦後の「賤民史観」構築の過程において、日本の部落差別問題と、インドのアウトカーストの問題の関連性が追究されてきましたが、その第一人者である沖浦和光氏が述懐しているように、その関連性・つながりはいまだに証明されていません。

部落史研究の前線に立つ学者・研究者・教育者がそれを証明できない段階で、部落解放・人権研究所及び部落解放同盟中央本部は、それを先取りして、日本の部落差別を、日本のアウトカーストに対する差別として、諸外国に印象づけしようとされたのでしょうか・・・?

あの英文・・・、いろいろと謎に満ちているようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●「反応」に対する「応答」・・・

部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々がいわれる『部落学序説』に対する読者の方々からの「反応」・・・。

2005年5月14日に執筆を開始して以来、読者の方々からいただいた「反応」は、少なくありません。

多くの場合は、その「反応」、読んでそのまま、筆者の胸の奥にしまってしまいます。個人的な「反応」はあくまで個人的な「反応」です。

しかし、その「反応」の背後に、政治団体・運動団体・教育委員会の存在が想定される場合は、それがたとえ非論理的な「反応」であったとしても、できるかぎり誠実に応答してきたつもりです。

10月25日、この『田舎牧師の日記』に、「●久々に目にした典型的な差別文書・・・」として、Yahoo Canada から検索して遭遇した、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみたときの典型的な差別文章を紹介しました。

アップロードしてすぐ、読者の方からメールをいただきました。

その内容は、「あの文章、実は私も以前読んだことがあります。3、4年ほど前でしょうか。私の記憶によると、あれは中国系アメリカ人の大学生グループで書かれたものだったと思います。・・・ハーバード大学の法律を学ぶアジア人学生グループのアジアにおける法律研究・・・。ネイティブの文章かそうでないかは、読めばだいたい判ります。
残念ながら、そのグループの中に日本人は含まれていません。・・・世界の教育中枢と言われても、こんな感じです。世界の経済、教育や研究の流行はここから始まるらしいです。ここで発表された論文や論調が、約3年後に日本で流行るといわれています」(抜粋)
というものです。

インターネットの世界・・・。

よく仮想の世界である・・・、といわれますが、その読者の方も、『部落学序説』の筆者に対して、「派バード大学」という仮想世界から情報を発信されているのかもしれませんが、筆者が差別文書であると指摘した英文は、<中国人・韓国人>の研究者によって執筆されたもので<日本人>は関与していない・・・、という読者の方の主張・・・。

筆者にとっては、「仮想世界」がガラスの器が壊れるように壊れていく瞬間でした。

読者の方が「現実世界」の方であるなら、筆者が、それに配慮して、「●久々に目にした典型的な差別文書・・・」に追いかけるように、差別文章(英文)の出典を明らかにしたのですから、早急に「応答」されたはずです。

「反応」はされても「応答」はなさらない・・・。

筆者は、無学歴・無資格である・・・、と繰り返し発言してきましたが、無学歴・無資格であるということは、いかなる学歴・資格にも影響を受けない・・・、ことを意味します。

いろいろな論文を読んでみて、東京大学出身の学者・研究者・教育者にはすぐれたものが多い・・・、とは思っていますが、だからといって、東京大学出身の学者・教育者・教育者に対して、無批判的に追従・服従・屈従することはありません。東京大学とハーバード大学を対置されても、筆者は、その評価を覆すことはありません。

筆者には、日本の基督者にありがちな、欧米の神学に対するコンプレックスもなければ、拝外主義もないのです。

部落史の研究者にとって必要なことは、部落史に関してジャーナリスティックな情報通になることではなく、自己の研究主題に対して、批判・検証という地道な努力を続けて行かれることではないかと思われます。

『部落学序説』の筆者としては、アメリカのハーバード大学の研究状況に明るい、あなたの部落史研究の成果を論文として、それが学位論文であろうとなかろうと、読んでみたいと思います。 英文であると邦文であるとを問わず・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月25日 (木)

●差別文書・・・、前回紹介した英文

前回、紹介した差別文書・・・。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から見ると、差別文書に数えられるものですが、出典は、Yahoo Canada から検索・閲覧できる 「What is Buraku Discrimination ?」 です。

著作権は、Buraku Liberation and Human Rights Research Institute(社団法人 部落解放・人権研究所)にあるとの表記があります。

しかし、この文章、「社団法人 部落解放・人権研究所」(Buraku Liberation and Human Rights Research Institute)のホームページ「English」版からは閲覧できないようです。

『部落学序説』の筆者が「差別文章」とみなす英文の出所は、部落解放・人権研究所のようです。その英文の執筆者は、おそらく、部落解放・人権研究所に関係のある研究者ではないかと推測されます。

この文章、部落解放・人権研究所の公式ホームページで閲覧できる文章のようですから、研究者個人の私的見解というよりは、部落解放・人権研究所の公的見解として受け止めることができます。

どちらかいいますと、「日本国内向け」というよりは、「海外向け」のアナウンスということになります。

部落解放・人権研究所が、部落差別について、どのように諸外国に情報発信しているのか・・・。

筆者は、今回、その英文、「What is Buraku Discrimination ?」 を読んで、驚きの思いを持ちました。どうして、こんな差別的な文章を諸外国に向けて発信しているのでしょうか・・・。

筆者は、無学歴・無資格、語学は極めて苦手な方ですが、しかし、その英文を読みながら、「穢多」・「非人」の翻訳に使用された英単語、「extreme filth」(穢多) ・「non-human」(非人)の持っている語義の不適切さ、また、彼らを、「outcaste populations 」と、日本の被差別部落民をインドのアウトカーストの人々と暗に同一視するような表現・・・。「人種主義」を是認しているような節さへ見られます。

カナダの人々に、日本の部落差別を知ってもらうために、彼らに理解し易いように表現を選択されたのかも知れませんが、日本の部落差別の歴史とは、かなり異なる表現に、筆者の視点・視角・視座からしますと、差別的表現になってしまっていると感じます。

部落解放・人権研究所は、なぜ、このような差別表現を、そのホームページで許容し続けているのでしょうか・・・?

日本の社会から、部落差別がなくならないのは、その一因に、部落解放・人権研究所の差別的な研究が横たわっていることがあげられるのではないでしょうか・・・?

In addition, there are many incidents of discrimination, particularly in marriage and employment as well as discriminatory remarks and inquiries made by non-Buraku people, including public officials.

部落解放・人権研究所は、上記の文章の「inquiries made by non-Buraku people」を堂々と公開し、「many incidents of discrimination」の担い手のひとつの機関に成り下がってしまっているのでしょうか・・・?

補記(2007/10/26)
『部落学序説』の視点・視角・視座からみると差別文書とみなされる英文、部落解放同盟中央本部のホームページENGLISH版に掲載されていました。部落解放同盟の海外向け、公式見解のようです。部落解放同盟みずから、差別文書を掲載している、ということになるのでしょうか・・・?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

●久々に目にした典型的な差別文書・・・

Yahoo Canada を散策していて、下記の「What is Buraku Discrimination ?
」(部落差別とは何か?)という文章に遭遇しました。

そして、筆者の乏しい語学力で読んでみたのですが、読んでいるうちに気分が悪くなってきました。被差別部落に対する、邦語の、差別的言辞にあふれた差別文書を読んでいるときの胸くそ悪さと吐き気を感じました。

この文章、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、差別文書以外の何ものでもない、と思われるのですが・・・。

下記の文書の水準で、日本の部落研究・部落問題研究・部落史研究がなされているのだとしたら、部落差別の完全解消などほど遠い世界におかれていると思われます。

この偏見に満ちた文章を書いた人は誰なのでしょうね・・・?

What is Buraku Discrimination ?

-----------------------------

What is Buraku ?

Buraku is a Japanese word referring to village or hamlet. The word began to acquire a new connotation after the administration in Meiji era (1868 - 1912) started to use "Tokushu Buraku" (special hamlet) in reference to former outcaste communities. The intention was to negatively distinguish former outcaste communities from other areas.

At present the word "Buraku" is usually referred to as communities where discriminated-against Buraku people reside. On the other hand, the term"Tokushu Buraku" has been figuratively used from time to time in distinguishing a different society from a so-called ordinary society as well as in describing Buraku areas, resulting in fostering discrimination against Buraku people.

-----------------------------

Origin of the Discrimination

Buraku people or Burakumin (min refers to people) are the largest discriminated-against population in Japan. They are not a racial or a national minority, but a caste-like minority among the ethnic Japanese.

They are generally recognized as descendants of outcaste populations in the feudal days. Outcastes were assigned such social functions as slaughtering animals and executing criminals, and the general public perceived these functions as 'polluting acts' under Buddhist and Shintoist beliefs.

When the social status system was established in the 17th century (early Edo era) in the form of three classes (warrior, peasant, townsfolk), those outcastes, origin of the present Buraku people, were placed at the bottom of the society as Eta (extreme filth) and Hinin (non-human) classes.

1n 1871, the Meiji government promulgated the 'Emancipation Edict', declaring the abolition of the lowest social rank. Nevertheless, this has never gone further than a simple statement, without any effective measures.

-----------------------------

Buraku Liberation Movement

Confronting the continued discrimination, the National Levelers Association was founded by Buraku people in 1922 to unite and fight against daily occurrences of discrimination. As Japan, however, moved toward militarism and took sides in World WarU, the association was suppressed and stopped halfway.

After the war, Buraku liberation movements were reunited in 1946 under the name of the National Committee for Buraku Liberation, which later evolved into the Buraku Liberation League (BLL), the present name.

The Committee started to demand responsible local authorities to improve living environments of Buraku areas which were extremely poor as a result of the negligence of the government services. This struggle developed into a movement demanding a national policy on Buraku problems.

As a result, the Cabinet Dowa Policy Council clearly stated that the solution of the Buraku problem was a State responsibility, in their recommendation of 1965.

The Committee and subsequently the BLL successfully facilitated the national government to consecutively enact laws to improve the living environment of Buraku areas.

-----------------------------

Reality of Buraku Discrimination Today

According to a 1993 government survey, there were about 1.2million Buraku people at 4442 Buraku communities nationwide. These figures, however, only represent those areas classified as Dowa districts. (Dowa districts refer to Buraku areas in terms of government policy administration). Actual figures are estimated to as many as 6000 Buraku communities with over 3 million population.

Although living standard of Buraku people became higher compared to the past, there are still gap between Buraku people and non-Buraku people. In addition, there are many incidents of discrimination, particularly in marriage and employment as well as discriminatory remarks and inquiries made by non-Buraku people, including public officials.

-----------------------------

Fundamental Law for Buraku Liberation

In response to the campaign, the government enacted in December 1996 the Law for the Measures for Promotion of Human Rights Protection. It stipulates that the government shall establish the Council for Promoting Human Rights Protection, that is required to conclude a policy recommendation for the measures of human rights education and awareness-raising within 2 years, and for the relief measures for the victims of human rights violations within 5 years.

In addition, the government decided in February 1997 on the 5-year extension of the Law Regarding the Special Fiscal Measures of the Government for Regional Improvement Projects, which would expire in March 1997.

Thus the campaign is step by step pushing forward to the enactment of the Fundamental Law for Buraku Liberation.

-----------------------------

International Solidarity

In 1988 the BLL, BLRI and other organizations concertedly founded the International Movement Against All Forms of Discrimination and Racism (IMADR), a non-governmental human rights organization devoted to