2008年3月 1日 (土)

●昨日はひさしぶりに熟睡・・・

昨日は、ひさしぶりに熟睡しました。

今朝は、目のかすみは、少し和らいできました。

少しよくなると、すぐパソコンの前に座る筆者ですが、今朝は、『部落学序説』の1文書あたりのアクセス件数を出してみました。

被差別部落の地名とタブー  9033件
ある同和対策事業批判  1330件
部落学序説  786件
紀州藩「城下町警察日記」を読む  151件
田舎牧師の日記(Ⅱ)  62件

筆者が各文章、読者の方々が読みにきてくださるのは、部落差別問題関連記事です。教会・花・野菜・小鳥の話は、極少数の方々のみ・・・。

部落差別問題関連記事で、読者数の多いのは、以下の順です。

部落差別問題の現代>近代>近世>中世>・・・

執筆の主題が、中世よりも近世、近世よりも近代、近代よりも現代を主題にしたものの方が読者数が多いようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史学的研究ではありません。非常民に関する学としての「部落学」という、新しい枠組みで執筆されていますが、現在のところ、近世から近代へ、近代から現代へ・・・、と主題の時代的範囲を拡張していますが、現在は、その流れと逆行して、近世と近代のはざまに戻って、「百姓の目から見た渋染・藍染」について執筆しています。

アクセス件数をみすみす減少させる営みです。

しかし、これまで、『部落学序説』で紹介してきた視点・視角・視座、方法で、「岡山藩」の「渋染一揆」をとらえたらどうなるのか、その実践事例として言及するのも悪くはないかな・・・、と思って、執筆を続けています。

筆者の手元にある、部落差別問題関連資料は、現代>近代>近世>中世>・・・の順番ですから、ひとつの文章を書くために確認しなければならない資料は飛躍的に増えます。その資料を批判検証するためには、近世のテーマについて言及する以上に、執筆者の視点・視角・視座を明確にしなければなりません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に<破壊>・・・、するためには、膨大な時間と労力が必要なようです。

吉岡幸雄著『日本の色を染める』に記されているように、「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・。「貴色」・「賤色」という発想は、外来思想である中国の悪しき文化に汚染された古代天皇制の残滓でしかありません。「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・、のと同様、すべての「ひと」は、美しい・・・。そこに、本質的に「貴人」・「賤民」と呼ばれるような人が存在するはずもありません。

それぞれの時代の支配階級が、自分の都合のいいように制度化したに過ぎません。

現代の「被差別部落」の人々は、その先祖の歴史にまでさかのぼって「賤民」として、部落史の学者・研究者・教育者からラベリングされることを黙って容認してはならない、差別思想である「賤民史観」という、一見、「被差別部落」の人々を「勦るかの如き・・・」教説は、「多くの兄弟を堕落させた・・・」教説であり、差別的な部落史の学者・研究者・教育者によってはきかけられた「クダラナイ嘲笑の唾・・・」に過ぎず、「呪はれの夜の惡夢・・・」に過ぎない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者によって押しつけられた「賤民」としての「烙印・・・」を投げ返さなければならない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な思想「賤民史観」を受け入れ、「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ・・・」・・・。そして、「被差別部落」の若い世代が、「人生の熱と光」を持って生きることができるよう、差別思想である「賎民史観」を葬り去り、民衆と共に差別なき新しき社会をつくろう・・・。被差別部落の人々を差別の奈落に落としこめた人々は、民衆ではない。背後にあって民衆を教育し、差別思想である「賎民史観」を注入し続けてきた、学者・研究者・教育者である・・・。彼らは、それぞれの時代の権力の走狗として、「被差別部落」の人々の「誇りうる・・・」近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として生きてきた歴史と人生の物語を奪い続けてきたのだ。自ら構築すべき歴史を、差別者である、部落史の学者・研究者・教育者にゆだねた結果、「賎民」とラベリングされてきたし、今もされている、そしてこれからもされ続けることになる・・。「被差別部落」の「人間を冒涜」することを許したことは、今日に至るも、「被差別部落」の「多くの兄弟を堕落・・・」させている。「被差別部落」の若い学徒たちが、「人間を尊敬する・・・」ことの真の意味を認識し、差別思想である「賎民史観」を投げ返し、「自らを解放せんとする者の集団運動を起こせるは、寧ろ必然である・・・」。近代以降の歴史学者・研究者・教育者が構築してきた、差別思想である「賎民史観」を破棄し、自らの歴史と物語を取り戻すとき、決して、差別されることのない「祝福された時が来る・・・」。差別なき社会の夜明けは近い。押し付けられた「荊冠・・・」をかなぐり捨て、勇気をもって、真の部落解放運動のために立ち上がるべきだ。大学の教室で、図書館で、研究室で、差別思想である「賎民史観」を打破すべく勉学を続けよ。毎日毎日、真の部落解放の姿を考えよ。これまでの部落解放運動は、真の部落解放運動の<前座>に過ぎない。戦いはこれからだ。差別思想「賎民史観」の打破と、それを永久に葬り去る課題は、大学で、その図書館や研究室で学ぶ、「被差別部落」出身の学生の肩にかかっている。「人の世に熱・・・」「人間に光・・・」、「被差別部落」の本当の歴史をその手に掴むために、差別思想である「賎民史観」の担い手である学者・研究者・教育者の言説を批判検証し、議論・討論し、「賎民史観」を放棄せしめ、「人間に貴賎はなし・・・」との理念のもと、真の部落解放運動に共同参画せしめよ。真の部落解放運動の前座でしかない、同和対策事業の様々な問題に臆するな。同和対策事業の最初から<罠>は想定されていた。大切なのは、真の部落解放運動の担い手足るべく自らを飛躍させることだ。無学歴・無資格、「被差別部落」出身ではない、ただの「百姓」の末裔に過ぎない、部落解放運動の門外漢に過ぎない筆者の言葉を読む、<あなた>、<あなた>にはそれができる!

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2007年12月11日 (火)

●中学校教師の人権と差別理解・・・

今日、<BOOKOFF>で100円で購入した『道徳教育原論』(教職科学講座第13巻)を通読しました。

この本、どちらかいいますと、中学校の学習指導要領に準拠した、道徳教育に関する知識と技術について論述した、「教育学を学ぶ学生および教職過程にある学生」だけでなく、「日常の授業にのぞむ教育関係者に実践のための課題と問題解決への指針」として執筆されたもののようです。

『道徳教育原論』を読みながら、大学の教育学部において、中学校教師がどのように形成され、また、教師となったあとどのように教師としての自らを構築していくのか・・・、その過程を、垣間見たような気がします。

筆者は、教育学についてはまったくの門外漢ですが、道徳教育の指導方法は、他の科目の指導方法とほぼ共通しているのではないかと思われます。指導計画に基づく指導案の作成と授業の展開・・・。

『道徳教育原論』を通読して思うのですが、この書・・・、読めば読むほど、次から次へと疑問が沸いてきます。今の中学校・・・、この程度の理解で、中学校教師によって、授業が実践されているのだろうか・・・、と思うと、日本の教育に対して不安に襲われます。

現在の学校教育上の様々な問題・・・、起こるべくして起こっているのではないかと推察されます。

「偏見や差別・・・民衆自身がつくりだしていく点にこそ問題がある」。

国家、文部科学省、教師養成機関としての大学、小中高等の学校、教師・・・、に問題があるのではなく、「民衆」に問題があるという、「安易な形で・・・論じる・・・態度」。筆者の中で、学校教育に抱いていたイメージが音を立てて崩れていくような感じがします。

同和教育も人権教育も、「アドバルーンを定期的に打ち上げるだけでよしとし」、実態は、差別・人権の本質を理解していない教師によって、差別・人権についての差別的教育・言辞が「闊歩する・・・」状況にあるのではないかと思われます。

これでは、いつまでたっても、差別はなくならない・・・。

「民衆」のひとりとして、『道徳教育原論』には、反旗を翻したい・・・。

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2007年10月19日 (金)

●同和教育批判は・・・

戦後の学校同和教育・社会同和教育に対する批判・検証は、『部落学序説』の第6章・同対審答申批判で行う予定です。

「同和教育」は、日本全国画一的に実施されたもので、「同和教育」にともなう、学校教師の差別行為・差別意識も地方の格差・特色を超えて多くの共通点があります。具体的事例をあげて言及する予定です。

『部落学序説』の執筆を準備してきた段階で、一番最初に入手可能だった資料は、当然、同和対策事業・同和教育事業に関する資料でした。

なぜ、「部落差別の完全解消」を目的とすべき「同和教育」の中で、ことさら、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がまかり通ってきたのか、そして、「賤民史観」の根拠となった唯物史観・マルクス史観が破綻した今日に至っても、その亡霊の如く、「賤民史観」が生き延びているのか・・・、その実態を言及していきたいと思っています。

読者の方々の中には、結論を急がれたり、結論を先取りして『部落学序説』に対して批判を展開される方もおられますが、『部落学序説』は、「非常民の学としての部落学構築を目指して」遂行される、インターネット上の書き下ろしです。

基本的には、執筆計画に基づいて執筆しています。

『部落学序説』の一部の読者の方々と、議論をして、新たな理論を構築していく作業ではありません。

『部落学序説』の書き下ろし開始後、筆者に、司法・警察に関する資料、初期の水平社運動に関する資料、初期の部落解放運動に関する資料を提供してくださる、日本文化史研究者の方、東洋史研究者の方、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究者の方々、全国各地からメールを送ってくださった、自分探し・先祖探しをされた方々・・・、そのご厚意をこころにとめつつ『部落学序説』の執筆を継続していくことはいうまでもありませんが、当面は、『部落学序説』第5章・水平社宣言批判の執筆に集中したいと思います。

国の同和対策事業終了後、潮が引いていくように、学者・研究者・教育者は、同和教育や社会同和教育から身を引いて行きました。彼ら自身が構築してきた同和教育そのものを批判・検証して総括することなく・・・。同和教育を継続していると主張している学者・研究者・教育者にしても、それまでの禄を食んでいるだけで、一時、部落史の見直しが叫ばれ、部落差別完全解消に向けて、新たな歴史的段階が期待されたにもかかわらず、それは夢・幻に終り、あとに、被差別部落の人々の心を凍らせてきた、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が残ることになりました。

『部落学序説』第5章・水平社宣言の執筆を完了後、城攻めの本丸攻撃ともいうべき、「同和教育」批判に着手したいと思います。

国民の差別意識をなくすためには、まず、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の差別意識をなくす必要があると思います。彼らの中にある、中産階級的・知識階級的特権意識に基づく、「賤民史観」・「愚民論」・「優性思想」が無化されない限り、彼らによって教育され指導される国民は差別意識から自由になることはないでしょう。

無学歴・無資格の名と責任において、微力ながら、「同和教育」の欺瞞性と、「同和教育」にかかわった学者・研究者・教育者の差別性を明らかにしていきたいと思っています。

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