2009年12月 1日 (火)

●荒れる中学校の教育現場・・・

今朝の朝日新聞の社会欄に、<小中高生暴力最悪6万件><昨年度3年間で1.7倍>・・・、という記事が掲載されていました。

<学校別にみると、最多は中学校で前年度比16%増の4万2754件・・・>

中学校の教育現場の荒廃、背後になにがあるのでしょう・・・?

中学生が荒廃する前に、中学校の教師が荒廃しているのではないか・・・、筆者、朝日新聞の記事を読みながら、そう考えざるをえませんでした。

<自殺した児童生徒は・・・136人>

事態は深酷です。  

インターネットを通じて知ることができる中学校教師の精神的荒廃・・・、それが、中学校生徒に影響を与えないはずはありません。同和教育はなやかなりしころ、山口県では、<同和教育の推進><学校教師の管理化>とは、同時並行で進行、深刻化していった経緯がありますが、同和教育から人権教育へ拡散されていく中、学校教師に対する管理化が促進され、それがさらに生徒に悪影響を与えるという、負のスパイラルが進行しているのでしょうか・・・。

中学校生徒の<問題行動の原因が複雑で多樣になってきた・・・>背景に、中学校教師の<問題行動の原因が複雑で多樣になってきた・・・>ことがあるのでしょうか・・・?

<病んだ中学校教師のこころは、病んだ中学生のこころをいやすことはできない・・・>。

<心の教育続けるしか・・・>解決策を見出すことができない日本の教育の現場・・・。その<心>って、何なのでしょうか・・・? 教える側も、教えられる側も、<こころ>が搖らいでいる・・・。地滑りを起こし、崩れかかっている・・・。

  

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2009年7月17日 (金)

●宮本常一著<ふるさとの生活>・・・

今日の午前中は、病院へ・・・。待っている間に、宮本常一著『ふるさとの生活』(講談社学術文庫)を通読しました。

この本、筆者の座右の銘のひとつになりそう・・・。

この『ふるさとの生活』が執筆されたのは、昭和25年・・・。戦後の高度経済成長の中で破壊されていった日本のふるき村の姿がまだ色濃く残っている時代・・・。この本の<巻頭をかざる一文>は、柳田國男の《旅と文章と人生》・・・。宮本常一、そのあとがきに、「私の師であり、日ごろもっとも尊敬している柳田國男先生から、この書物の巻頭をかざる一文をいただきました。こんなうれしいことはありません・・・」と記しています。

筆者にとって衝撃だったのは、その第1章の見出しと内容・・・。なんと、<ほろびた村>・・・。その章はさらに4つの項に別れています。

1.開拓失敗の歴史
2.雪のなかの暮らし
3.村をほろぼした原因
4.古代の村のあと

小中学生の読ませる民俗学の案内書の最初をかざる文章としては、<開拓失敗の歴史>は、とても印象的です。戦後の荒廃した社会を生きる小中学生に、しっかりした現実認識と夢と希望をあたえようとしたのでしょうか・・・。

日本人が生きてきた<村><失敗の歴史>の上に立っている・・・。ある時代の失敗は失敗のまま終わらず、次の時代の、あらたな<開拓の歴史>につながる・・・。宮本常一・・・、「新しく土地をひらいて住みついてゆくときには、人はみな、自分のいちばん困ったときのことを考えて、そのときをきりぬけることに重点をおいて村をつくった・・・」といいます。権力者はいつの時代にもそれを<悪く利用>し、政治の失策がもたらす最悪の事態を国民に押しつけるけれども、「なんとかして世の中を住みよくしようとする努力は生きとし生けるもののなかにあったといっていいと思います。」という・・・。

解説者の山崎禅雄氏、「宮本先生は、戦後、小・中学校に歴史とか地理としてではなく、「社会科」が新設されたことを先生の学問である民俗学の立場からかなり重んじている」といいます。

<歴史>・<地理>ではなく<社会科>・・・。筆者、多くのことを考えさせられます。

  

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2009年2月28日 (土)

●読者の方からの筆者に対する批判・・・

岡山の中学校教師・藤田孝志氏・・・、筆者に対する誹謗中傷をまた再開されたようです。

以下の文章は、インターネット上で公開されたもの・・・。筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群は、ペンネーム・吉田向学で執筆しています。筆者の曾祖父の名前です。

筆者の実名は、日本基督教団下松愛隣教会のHPで公開していますので、その気になればすぐ分かります。

しかし、岡山の中学校教師・藤田孝志氏・・・、学校教師に似合わず、ずいぶん<卑怯な>方ですね・・・。筆者に対して批判を継続されるなら、正々堂々と論争されれがいいでしょうに・・・。

筆者には<アクセス制限>、不特定多数の読者に対しては、「ブログ炎上 初の摘発」事件にかこつけて、筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言を再開されようとするのですから・・・。

筆者、藤田孝志氏の誹謗中傷・罵詈雑言の文章・・・、すべて<公開>して論争してもいいのですが・・・。


「ネットモラル:誹謗中傷  投稿者:藤田孝志  投稿日:2009年 2月11日(水)     編集済 

先日,新聞に「ブログ炎上 初の摘発」という記事が載った。
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著名人などのブログに悪意の書き込みが集中して閉鎖に追い込まれるなどする問題で,警視庁は,男性タレントのブログを攻撃した17歳~45歳の男女18人について,名誉毀損容疑で刑事責任を追及することを決めた。「殺人犯」などと事実無根の書き込みが繰り返されたという。警視庁によると,「炎上」と呼ばれる問題を起こした集団攻撃の一斉摘発は初めて。匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。
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事実無根の書き込みが拡散し,新たな中傷を生むネット社会の悪弊は,掲示板やブログのコメント欄だけではない。自分が運営しているHPやBlogに「日記」と称して好き放題を書いている人もいる。個人情報もプライバシーも重視せず,独断と偏見をもとに実名を挙げて特定の個人に対して事実無根の誹謗中傷を繰り返している。その内容もいい加減なものだが,表現も厭味と皮肉で他者を愚弄しながら自己正当化に終始している。

私に対して「差別者」「似非」と独断で決めつけて書き続ける下松愛隣教会の○○○○(吉田向学)牧師もその一人と思う。私は2年以上,一切相手にしていないつもりでいるが,未だに「誹謗中傷・罵詈雑言」を私に投げ続けられていると何かにつけて書いているし,HPやブログをまだ復旧できないのかと皮肉を雑えての挑発を繰り返している。私の言動の何が「誹謗中傷・罵詈雑言」なのか,具体的に例示してはっきり書けばいいだろうが,それについては一切書かない。なぜ書かないのだろうか,書けないからだと思う。なぜなら,私は○○○○(吉田向学)牧師個人に関しても,彼の論説に対しても何も書いてはいないからだ。私の書く文章を○○○○牧師が自分のことと勝手に思い込んでいるだけだ。第一,彼を「誹謗中傷」して私に何のメリットがあるだろうか。逆に,○○○○(吉田向学)牧師にとっては,自分を被害者として書くことで自己正当化をはかることができる。この手法は,私に対してだけでなく基督教団関係者などにも使われている。
逆に,○○○○(吉田向学)牧師が私に対して書いている内容や表現は「批判」であって「誹謗中傷・罵詈雑言」ではないと言うが,私の言説を自分に都合良く曲解した上で,一部分を取り上げて「差別者」「似非」等々と決めつけて書くことの方が「誹謗中傷・罵詈雑言」と私は思うだが…。

先日,国会答弁で麻生総理が「詐欺」と言われ「詐欺は犯罪である」と発言の撤回を求めていたが,ネット上ではそんな書き込みなど日常茶飯事である。私など○○○○(吉田向学)牧師から「差別者」呼ばわりを常にされている。私だけでなく,灘本昌久さんなど部落史・部落問題に関係する学者・研究者で彼の考え(視角・視点・視座)に合わない人間は「差別者」であり「似非」だそうだ。一面識もない人間に対して平気でそのような言動を繰り返すことは,単に常識知らずの失礼を通り越して個人の人間性を否定する名誉毀損と考える。私はいかなる理由があろうとも他者に対して「差別者」と名指しすることは個人の尊厳を傷つける無礼な言動と思う。まして,その根拠が個人の主観による独断であれば尚更だ。偏見を根拠に他者を揶揄・愚弄することをネット上に公開することこそが「誹謗中傷」である。いかに学者の言葉を引用して自己正当化をはかろうとも,安易に他者の人間性を貶めるような表現内容はモラルに反していると考える。

私は一日も早くネット世界におけるモラルが法的に整備されることを願っているが,法的な規制以前に,このような言動を平気で行える人間性の方を問題と考える。どちらにせよ,まだ先のことになるだろうが,○○○○(吉田向学)牧師が私について好き放題に書くことは止まりはしないだろう。私としては迷惑なことだが,今のところさしたる実害もないので,私の方から彼に対して言及する気もないし,まして反論などする気もない。論争や議論の対象でもない。

このBBSや新しいBlogもやがてネット検索に浮上してくると思っていたが,先日(2月6日)偶然に検索にかかったのであろうが,私のBlogの一つにアクセスしてきた。わずか数分間に8回もアクセスと検索を繰り返しているが,アクセス制限(バリア)のため閲覧できなかったようである。いつもであれば厭味や皮肉を書くところだが,今回は未だに何も書いていない。これで諦めてくれればいいのだが,今までの執拗さから考えても,やめることはなく,さらにヒートアップして書くことも予測できる。私としては一切関わるつもりはない」。

関わるつもりがなければ、こういう文章・・・、インターネット上で流さない方がいいのですが・・・。

   
   

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2008年7月28日 (月)

●岡山の中学校教師・・・

筆者は、岡山県生まれです。

小学校・中学校・高校は、岡山県の小学校・中学校・高校です。

義務教育の期間中、一番尊敬していた教師は、小学校5、6年の担任です。小学校の教師は、全科目を教えるのが常ですが、その担任、専門は美術・・・。筆者も、小学校に入ったときから、絵を書くのが好きで、よく絵画コンクールに入選していました。特に、小学校5、6年生のときは、入選する回数が多かったように記憶しています。

そして、筆者、将来は、その担任教師のような教師になろうと夢を抱くようになっていました。

中学にすすんだとき、その担任教師、筆者が通うことになった中学校の隣の中学校に、美術の教師として赴任して行きました。

中学校では、美術クラブに入って、新しい先生に指導を受けていましたが、筆者、よく、批判されていました。その教師がいうには、筆者が、人の評価を気にして絵を描いている・・・、というのです。絵は、コンクールで賞を得るために画くものではない・・・、というのです。

「ほんとうの絵の書き方を教えてやる・・・」といわれて、その教師、クラブ活動の時間には、筆者を学校の周辺にある<田園>に連れて行って、一緒に写生をし、いろいろ指導してくれました。

筆者、その教師が描く絵・・・、決して上手であるとは思えず、こころの中で、小学校の5、6年の担任教師の描く絵にあこがれの思いを募らせていました。

そして、中学3年生の3学期、高校受験を前にしたある日、ラジオで流されていた、あるニュースが耳に入ってきました。それは、筆者が尊敬していた小学校5、6年生の時の担任、そのとき味野中学校の美術の教師をしていた教師が、「公金横領詐欺事件」で逮捕された・・・、というできごとです。

そのときの味野中学校の校長は、中島校長です。中島校長の娘さんは、筆者が通っていた琴浦西中学校2、3年のときの国語の教師です。中島校長は、責任をとって校長を辞任することになりました。味野中学校だけでなく、「公金横領詐欺事件」を起こした教師に指導してもらったことのある生徒の多い琴浦西中学校でも大問題になりました。

「公金横領詐欺事件」を起こした教師・・・、自分のアトリエ欲しさに、自分が教師をしている味野中学校の<公費>を詐欺したのです。

その事件の衝撃は、筆者の中に葛藤を引き起こしました。崩れ行く教師に対する信頼と、なんとかその教師を善意に解釈しようとする、相反するふたつのこころの葛藤が生れたのです。それは、失われていく教師に対する信頼を維持しようとする筆者のこころの戦いでもありました。

高校に進学してから、その事件を契機に、筆者、あることを失ってしまいました。それは、絵を描く能力です。デッサンをしても鉛筆が走らず、絵筆をもっても画用紙に絵の具がのらず、それどころか、絵を描くこと自体が苦痛にすら感じられるようになってしまったのです。

理由は、筆者が、小学校5、6年生のとき絵画コンクールで度々入選したのは、筆者が描いた絵に、その担任が筆を加えたためではないか・・・、という疑心暗鬼が芽生えてきたためです。筆者、ほんとうは、絵を描く実力がないのに、その教師の<不正行為>によって、入選してきたのではないか・・・、そうでないことを願いつつ、日毎に、その懸念を払拭することができず、そのことでこころが深く傷つけられていったのです。

その葛藤は、高校に入ったとき、更に深くなり、教師に対する<反発>となってあらわれました。授業をボイコットして、柔道場で座禅をしていたり、授業を抜け出して、高校の図書室で、教育学や哲学の本を読書したり・・・。数学の問題は、解ける問題は解かないで、解くのが難しいと思われる問題だけを解答したり、大学入試の模擬テストのときは、高校が受験科目として指導していない倫理社会で高得点をとったり、国語の授業のときは、教科書に掲載されて小説の全部を読んで、教師の指導に反論したり、放課後、教員室を尋ねて、カントの『実践理性批判』の言葉の意味を質問したり・・・、崩れていく学校教師という偶像を前に、筆者、苦悩と闘いの日々を過ごしていたのです。

学校教師の信頼が失われたとき、生徒はどういう苦境におかれるのか・・・。

学校教師のほとんどは一考だにしたことがないのではないかと思われます。教師の不正が問題にされるとき、決まって持ち出される論法は、「不正行為をした教師は、ほんとうの教師ではありません・・・」といいう弁明です。教師全体は信頼すべきもので、その信頼を裏切った教師は、もともと教師ではなかった・・・、という<とかげのしっぽ切り>的詭弁です。

学校教師のこのような体質・・・、今も昔も何も変わっていないと思われます。

筆者、絵を描く楽しみを忘れると共に、尊敬していた「公金横領詐欺事件」の教師の思い出も忘れていました。

しかし、筆者、ブログ上で、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆するようになって、筆者が中学生の時に経験した教師の不祥事件を思い出すようになりました。

それは、岡山のある中学校教師のインターネット上のBBSの書き込みに起因します。被差別部落の人々と関わりがあることを背景に、BBSにおいて、部落差別に関する他者の発言を差別的であると、一方的に糾弾してやまない中学校教師の姿です。

インターネットに残された彼のBBS上でのやりとりを追跡しても、筆者だけでなく、いろいろな人の差別性を指摘し、「誹謗中傷・罵詈雑言」を投げかけています。中には、「誹謗中傷・罵詈雑言」ではなく、正々堂々と議論をしろ・・・、と呼びかけられても、自分に都合の悪い議論は無視します。

現職の中学校教師とも思えないような傍若無人な言葉使い、中学校教師としては、人格的に破綻を来しているのではないかと思えるような言説・・・、筆者、昔筆者の中で音を立てて崩れ落ちた、「味野中学校公金横領詐欺事件」の教師、その教師と、同和教育担当のその教師・・・、体質的には、ほとんど同じであると認識するようになりました。

岡山県の公教育、昔も今も、何も変わっていないのではないか・・・、そのように考えるに至っていますが、BBS上の「誹謗中傷・罵詈雑言」のすべての記事を保存しながら、分析をすすめていますが、その中学校教師、岡山県教育委員会の幹部・・・だそうですから、岡山県の教育も地に落ちたものです。

筆者、裁判員制度より、<教師再任判定制度>に、市民を参画せしめた方がいいのではないかと思われます。そうしないと、日本の社会、決してよくならないと思われます。

岡山県の中学校教師の動向・・・、しばらく情報収集をすることにしましょう。特に、同和教育・人権教育の担当者の動向・・・、特定の個人ではなく、同和教育・人権教育を担当している、岡山県の教師全体を視野に入れながら・・・。

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