2009年10月20日 (火)

●馬の涙・・・

今朝、目が覚めたのは朝7時・・・

昨日深夜まで、<馬の一生>に関する文献を漁っていたのが影響したらしい・・・。目が覚めてからさらに1時間、布団の中にいました。

食事をしたあと、妻が、<昨日は、夜遅くまで何を読んでいたの・・・?>と尋ねますので、山口大学の研究員の獣医さんからいただいたメールの返事を書くのに時間をかけていたことをつげますと、妻、<それで・・・?>といいます。

妻が、<それで・・・?>という言葉を発するときは、<その内容についてもっと詳しく聞かせて・・・>という意味です。

それで、筆者、妻の実家のある東北福島の湖南町出身の結城昭八著『心象童話・流れる雲と野と人との賛歌』の1節を朗読しました。

<田植え前愛馬が行く>という文章の末尾のことば・・・

「この年にもう一つの事件があった。・・・我が家のその馬に、ある日召集令状が来たのだった。・・・役場の用務員さんが橋を渡り、我が家の方に向かってくるのを見て、ああとうとう来たのかと吃驚した。・・・隣村からの十頭あまりの馬とともに、我が家の馬は懲役にあい、日の丸を腹掛けにして家人に連れられ家を去った。バス通りの向こうの街道を行く何頭かの馬の中に愛馬がいた。私とともに田を走り、畦を曳いて歩いた馬が行く。精一杯のご馳走をして、「元気で、国のために役立てよ」と父が言った。赤飯を与え、卵を飲ませ、送別のご馳走を食べた馬が、坂道を小さくなりつつ登っていく・・・」。

<田植え前愛馬が行く>という文章を朗読する筆者の声をききながら、妻は、ちいさな体から、馬の涙のような大粒の涙をあふれさせました。そして、<あなた、もうやめて・・・。とてもかわいそうで・・・。戦争は絶対反対・・・。人間だけでなく馬にも悲しい思いをさせるから・・・>。

妻だけでなく、筆者も、胸詰まらせてやっと読み終えた文章の一節でした。

妻の実家は分家なので馬を飼っていなかったようですが、本家は3~4頭馬を飼っていたようです。戦後、昭和45年ころには、村から馬の姿が消えたようです。馬に代わって、トラクターが導入され農業が機械化されたためでしょう。

湖南町福良の千手院の寺の境内に<軍馬慰霊碑>が建てられていますが、かって戦場に送り出されて再びふるさとに帰ることがなかった数多くの愛馬のための慰霊碑です。その前に立つと、まだ消えやらぬ悲しみが漂ってきます。

  

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●馬の一生・・・

昨日、『部落学序説』を読んでくださっている獣医さんからメールをいただきました。

そこに書かれていたのは、研究中に遭遇したさまざまな問題・・・。

それで、昨晩は、筆者、<馬の一生>について、手持ちの文献をひもといて思いを馳せました。昨年末からこの秋にかけて、『部落学序説』執筆継続のための文献を集めてきましたが、発想の転換と視野の拡大につながるのは、直接部落史とは関係のない文献ばかり・・・。

筆者、今回、その獣医さんにさしあげる返事を書きながら、馬に関する知識を増やすことができました。

筆者の妻の実家は、東北福島の湖南町・・・、東日本に属しますが、その民俗学的文献・研究には、必ずといっていいほど馬に関する話しが出てきます。馬は、人間の生の営みと密接に関係して生きていったようです。

獣医さんからのメールを繰り返し読みながら、どんな学問も、本格的に研究すれば、その専門分野だけでなく、すべての分野に波及するような研究成果を残すことができると感じさせられました。獣医さん・・・、山口大学の研究員の方でいらっしゃるようですが、その研究課題、筆者がここで明らかにすることはできませんが・・・、その研究成果を読むことができる日を楽しみにまっています。

  

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2009年9月30日 (水)

●とんでもなく面白いサイト・・・

今日は、歯科で治療を受けたのち病院へ・・・

60歳前後から、いろいろ体調を崩したり、事故や怪我に遭遇することが多くなりました。日ごろから自分の健康にはもっと注意する必要がありそうです。

その帰り、国道2号線沿いの宮脇書店に立ち寄りました。そして、2009年10月1日発行の福田アジオ著『日本の民俗学 「野」の学問の200年』(吉川弘文館)に遭遇、迷うことなく購入を決めました。

理由は、福田アジオ氏の説明によりますと、わが国最初の<日本民俗学史>・・・。

この本、日本民俗学史の<試論>なのか、それとも将来日本民俗学史の定本になる可能性がある本なのか、筆者、まだ一読もしていませんのでなんともいえませんが、これまでの日本民俗学の歴史を体系的に把握するための資料として購入しました。

筆者の『部落学序説』でとりあげる<非常民>概念は、柳田國男民俗学からの借用です。『部落学序説』の執筆を継続するためにも、日本民俗学の全体像を把握しておく必要があると思っています。

そして、今日の夜、東京都公文書館非常勤職員の高尾善希氏が運営されている歴史学関係ブログ集成に紹介されているブログをチェックしていて、<はかとも(無縁彷徨)>サイトにこんな記事が掲載されていました。

民俗学について

週末の年会について確認しようとしたら、学会サイトにさりげなく、でもとんでもなく面白い!コーナができていた。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/fsj/education/about_folklore_studies.html

頑張って、定期的に更新してもらいたいなぁ・・・

<日本民俗学会>のホームページのようです。この文章を書かれた方と筆者では、かなり受けとめ方に相違があると思われますが、筆者にとっても、この<日本民俗学会>のホームページ・・・、<とんでもなく面白い>ホームページになりそうです。

筆者、無学歴・無資格・・・、学問とか学会とか、まったく無縁の世界に属する故、<日本民俗学会>のホームページもただ黙々と閲覧させていただくだけですが、<日本民俗学会>・・・、インターネット上で接点ができ、無学歴・無資格の筆者には、とても身近な存在になりそうです。

  

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2009年4月25日 (土)

●百舌鳥の鳴き声の歴史・・・

Ktr0904252今日の午後、西中国教区事務所に提出書類を持参し、その帰り、脳梗塞で入院している教会役員の兄を尋ねました。

ちょうど、姉と長男の方が一緒にこられたところとか・・・。

長男の方は、43歳・・・。筆者が現在の教会に赴任したときは、確か高校生でした。今は、3児の父・・・。長男の方も3人のこどもたちも、みんな、教会で幼児祝福式を受けています。43歳・・・、それはそうでしょうね・・・、筆者がこの教会に赴任してきたのは35歳のとき・・・。今61歳を迎えていますから・・・。

お見舞いに帰ってきたとき、誰もいない教会で筆者を待っていてくれたのは、百舌鳥2羽・・・。

その百舌鳥の姿を見たとき、もう一度、百舌鳥について書いて置かなければ・・・、と思ったのですが、それは、百舌鳥の鳴き声の歴史について・・・。

もちろん、筆者には、この主題で文章を書くほど、百舌鳥に関する史資料があるわけではありません。山l口仲美著『ちんちん千鳥のなく声は・日本語の歴史鳥声編』(講談社学術文庫)の百舌鳥に関する箇所を拾い読みする程度ですが、山口仲美氏には、百舌鳥の鳴き声はどのように聞こえるのか・・・。

「キチキチキチとなく百舌鳥の声を・・・」という文章からしますと、山口仲美氏の耳には、百舌鳥の鳴き声は、「キチキチキチ」と聞こえるようです。

筆者が、野鳥を観察するために持っている図鑑は2種類・・・。見かけで小鳥を識別するために使用している『野鳥』(山と渓谷社)、仕種と鳴き声で識別するために使用している『日本の野鳥図鑑』(ナツメ社)の2冊・・・。

『野鳥』では、百舌鳥の鳴き声は、「キイキイキイ」・・・。『日本の野鳥図鑑』では、「ジュン、ジュン・・・」、「ギチギチギチ」、「キィーキィー」の3種類・・・。

厳密にいいますと、山口仲美氏の耳に聞こえる「キチキチキチ」という百舌鳥の鳴き声が百舌鳥の鳴き声だとしますと、『野鳥』や『日本の野鳥図鑑』に出てくる鳴き方をする百舌鳥は百舌鳥でなくなってしまいます。

おそらく、百舌鳥の鳴き声・・・、すべての野鳥図鑑を調べてみますと、多種多樣な鳴き方が表記されているように思われます。

山口仲美氏・・・、その本の中で、「われわれ現代人に心のふるさとを思い出させ、興味深い事実を教えてくれる」野鳥の声をとりあげた・・・、とのことですが、残念ながら、そのなかに百舌鳥は出てきません。その他の野鳥の脇役としてのみ取り上げられています。

山口仲美氏によりますと、1113年頃、源俊頼によって執筆された<和歌の作り方>に関する本『俊頼髄脳』に百舌鳥の鳴き声が記録されているそうです。その百舌鳥の鳴き声は・・・、

「コトゴトシク」・・・。

現代人の感覚からしますと、百舌鳥の鳴き声が、どうして、<コトゴトシク、コトゴトシク・・・>なんですか・・・、と山口仲美教授に質問したいところですが、無学歴・無資格の筆者・・・、質問したところで、<空>にむかって独り言をささやくようなもの・・・。

源俊頼のいう<百舌鳥>というのは、果たして現代に棲息する百舌鳥と同じ野鳥をさしているのやらどうやら・・・。もし、同じ野鳥だというなら、ことばで表記された百舌鳥の鳴き声は時代によって変遷されているということになります。

源俊頼の目にうつる百舌鳥の姿・・・、「梢にとまっていて、声高にも鳴かないで、気配も見せず、垣根伝いに移り、時々「コトゴトシク」とつぶやいている・・・」と記していますが、百舌鳥の鳴き声を、中世・近世・近代・現代を通して通用する、共通の鳴き声を確定することは、非常に困難です。

しかし、この困難な作業を、いとも簡単にやってのけた人々がいます。

百舌鳥の世界の話しではなく、人間の世界の話しですが、部落史の学者・研究者・教育者は、日本全国多種多樣に存在していた、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の一翼、<穢多・非人>の、中世・近世・近代・現代に一貫して存在する共通の属性を、明治以降の歴史用語・学術用語である<賎民>概念でもって把握しようとします。

百舌鳥の鳴き声ですら、中世・近世・近代・現代を通して通用する、共通の鳴き声を確定することは困難をきわめるのに、まして、人間・・・、それが人口の数パーセントの人々であったとしても、<賎民>概念ですべてを認識することはほとんど不可能な話です。しかし、部落史の学者・研究者・教育者たちは、<賎民>概念でもってすべての問題を論究できると考えます。

筆者は、近代以前の、司法・警察である非常民<穢多・非人>を<賎民>概念で把握しようとするのは、<無理>だと思いますね・・・。四角い豆腐を、丸形の枠に押し込むようなものです。豆腐は、丸形の枠にまるくおさまるどころか、豆腐自体がくずれてしまいます。

筆者の視点・視角・視座からしますと、部落史研究の学者・研究者・教育者たちは、司法・警察である非常民<穢多・非人>歴史と伝承を、<賤民史観>という間違った枠組みに押し込んで、本来の非常民<穢多・非人>の歴史と伝承の真実を破壊している・・・、ように見えます。

百舌鳥は歴史上なんと鳴いてきたのか・・・。司法・警察である非常民<穢多・非人>は、みずからをどのように歌ってきたのか・・・。部落史研究は、部落史の研究とあわせて、部落史を綴る基本的な概念の歴史をも研究の対象にしなければならない・・・。

筆者、歴史学と歴史学的研究方法に対して、みずからを批判検証することができる歴史学とその研究法だけが、その名に値すると考えています。

教会の庭に棲息する百舌鳥・・・、いちばんよく耳にするのは、<チュー、チュー>とか、<チュン、チュン>とか・・・。

百舌鳥・・・、スズメの鳴きまねをしているのか、それとも餌のネズミの鳴きまねをしているのか・・・。

こんなことを書くと、学歴・資格のある、高邁な、岡山の岡山の中学校教師の方から、<頭が悪いと思っていたら、耳も悪かったのか>と揶揄されるかもしれませんが、筆者が直接知っている百舌鳥は、実に多種多樣な鳴き方をします。専門家からバカにされるのを覚悟して、百舌鳥のほんとうの鳴き方を、筆者なりに表記すれば、早口で<ジキジキジキジキジキジキジキジキ・・・・>(直々直々直々直々)・・・ということになります。朝はやく、教会の庭で鳴く百舌鳥の鳴き声です。

山口仲美氏の耳には、百舌鳥の鳴き声、<キチキチキチ>(吉吉吉)・・・、と聞こえるようですが、<縁起担ぎ>の好きな日本人、なぜ、百舌鳥を<吉>を呼ぶ縁起のいい小鳥としてもてはやさなかったのでしょうか・・・。<縁起担ぎ>・・・、明治以降、民衆の間にひろまったという説もありますが・・・。

<学問>というのは、対象が何であれ、実に楽しい作業ですね・・・。

岡山の中学校教師の藤田孝志さん・・・、そのブログで宣言されているとおり、無学歴・無資格、学問とほとんど縁のない筆者にかかわらないで、今年の長~い連休、高学歴・高資格を生かして、昔、インターネット上で公開された、今となっては黴の生えたような論文を手直しして再掲、茶を濁すようなことをされないで、時代の先端を行く、同和教育・人権教育の論文を執筆されては、いかがでしょう。

筆者・・・、岡山の中学校教師・藤田孝志氏と、<柳田國男の精神>でかかわり続けているのは、そのことを期待してのうえですが・・・。


*上の写真は、雨上がりの教会の庭の上の電線にとまっていたオスの<もずくん>・・・

  

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2009年4月16日 (木)

●猪苗代湖南の民俗に関する資料集3冊注文・・・

妻の故郷、東北福島の湖南町の民俗に関する資料集、3冊注文・・・。

湖南は、筆者が下松愛隣教会の牧師を辞任したあと、人生の晩年を過ごす地・・・。<帰郷>するまえに、湖南町の自然・歴史・文化・民俗・言語・産業などについてできる限り情報をもっていたい・・・、という思いから、昨年4月から受給している<年金>の最初の用途として、妻の故郷・湖南町を知るための資料を購入することにしました。

わが家の経済も緊縮財政であることはいうをまたないのですが、多くの人が<年金>を受給できるようになると、<旅>をするのが普通・・・。山口の教会内外の方々の話をお聞きしているとそれが一般的・・・。

そういう意味では、筆者、<体>を使った旅ではなく、<心>の旅・・・。

この旅・・・、妻と筆者の間に、いままで以上に豊富な話題を提供してくれます。そして、妻と筆者の間の<共通理解>・<共通認識>を強化・深化させてくれます。

この<心>の旅が可能になったのは、下松の眼科医の方が、「あなたは、いい眼をしている。年をとるにつれて、近くも遠くも眼鏡をかけないで見ることができるようになる・・・」と太鼓判を押してくれたことが背景にあります。

<年をとると活字が読めなくなる・・・>のではなく、<年をとると活字が眼鏡なしで読めるようになる・・・>というのですから、湖南町の自然・歴史・文化・民俗・言語・産業などについ文献を集めても、決して無駄になることはない・・・、と確信を持つことができたからです。

筆者の晩年の生活・・・、<晴耕雪読>・・・。<晴>の日、<雪>の日・・・、いずれの時も湖南での生活を楽しみながら生き抜くため、昨年4月から受給している年金で購入した湖南の歴史と民俗に関する本は、筆者にとっては、人生の晩年をよりよく生きるための投資・・・。

インターネットの古書店(日本の古本屋スーパー源氏)・・・、北海道から沖縄までの古書店にある文献を紹介してくれます。同じ本なら、価格の一番安いものを注文することに徹していますが、いままで、期待を裏切られたことは一度もありません。

筆者・・・、経済的には貧しくとも、いい時代を生かされているものです。<晴耕雪読>は、<土を耕し、活字を耕す生活>のこと・・・、いずれも、天を仰ぐことなくして前に進めることはできません・・・。

  

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2009年3月25日 (水)

●山桜の咲き誇る美しき<穢多村>・・・

今日の午後、仕事休みの妻と一緒に、上関・長島へドライブしました。

瀬戸内の海岸沿いを走る国道188号線を通って、そのまま上関・長島へ向かいます。上関・長島へ行く途中も、瀬戸内の海岸沿いを走ります。そして、そのまま、目的地の上関・長島の中の浦にとどりつきます。

筆者の妻は、上関方面、八代方面、羅漢高原方面のドライブが好きです。

理由は、妻の故郷がある、東北・福島の湖南町の<風景>にとてもよくにているからです。

それが分かったのは、妻と一緒に湖南町に帰郷したとき、レンタカーで走ったときに目にすることができる<風景>にとてもよくにていたからです。

上関・長島は、山桜がいたるところ、きれいに咲いています。観光地の染井吉野はやっと咲き始めたばかりですが、山桜は、7、8分先です。

帰りは、柳井市の町並みを抜けて、周防国極楽寺の前の道を通り、高森から熊毛郡八代村へ行こうとしたのですが、途中、道路標識を見落としたようで、思いがけない場所にでました。

それは、妻と一緒に、長州藩の古地図を片手に尋ねあるいた旧<穢多村>のある場所・・・。それに最初に気がついたのは、筆者ではなく、妻でした。

その旧<穢多村>の前にひろがる山には、山桜の花が咲き乱れていました。今日の午後のドライブで目にした、一番きれいな山桜です。この山桜・・・、山里に春の彩りを添えているようです。

この旧<穢多村>の住人・・・、昔から、春先には、その家々の窓から、向いの山に咲く山桜の花を見ていたに違いない・・・、筆者、そう想像せざるを得ませんでした。

その旧<穢多村>出身の、クリスチャンでもあり、神戸のスラムでセツルメント運動をしていた賀川豊彦から多くの影響を受けた詩人・松木淳・・・、教会に帰って、その詩集をひもといていましたら、ありました、ありました・・・、詩人・松木淳が、その旧<穢多村>の前の山に咲き誇る山桜の花をうたっている歌が・・・。

いつしかに桜のつぼみみえにけり
近く桜の丘にいこわむ

詩人・松木淳の、おさない頃に抱いたふるさとのイメージなのでしょう。しかし、松木淳・・・、こんな歌も歌っています。

人はみな 古里のことを恋しと言へど
われには呪ひの何てありけり

朝霧深き小野の木立に泣きぬれて
再びは見じと出でし古里

山河はいたくも恋しさはあれど
差別の村ゆ古里は憂じ

泣きぬれてふっと目醒めぬ
古里の小野の小径にある夢をみき


山桜の咲き誇る美しき<穢多村>の山桜を、詩人・松木淳は、再び目にすることはなかったのでしょうか・・・。

旧<穢多村>出身の詩人・松木淳・・・、<穢多>であることを自覚し、<目覚め>て立ち上がることができる日まで、ふるさとの山に咲き誇る山桜を前に憩うことができなかったのでしょうか・・・。

筆者、山口の小さな教会に牧師として赴任してきて27年目・・・。筆者、<差別者>であるにもかかわらず、長い間、部落差別問題に取り組むことができたのは、被差別部落の人々の<こころのひだ>を見ることができ、見続けようとしたからではないかと思います。

柳田國男の『民間傳承論』(共立社)・・・、序の冒頭のことばは、「民間傳承論は明日の学問である」・・・。

柳田國男・・・、民間伝承の<採集方法の形態>は3種類あるといいます。

生活外形、目の採集、旅人の採集
生活解説、耳と目の採集、奇遇者の採集
生活意識、心の採集、同郷人の採集


山口の地にあっては、<異郷の民>であり<異邦人>でしかない筆者・・・、旧<穢多村>に関する、民俗学的資料の採集は、柳田國男のいう<生活外形、目の採集、旅人の採集・・・に過ぎません。

しかし、筆者、被差別部落の<奇遇者>・<同郷人>と出会うことによって、<目の採集>から、<目と耳の採集>・・・、そして、<心の採集>と、旧<穢多村>、被差別部落の人々の<こころ>、精神世界が見えるようになったことは、偶然の出会いがもたらしたもの・・・。

筆者、やがて、<長州>山口の地を離れ、<会津>福島の、妻の実家のある地で晩年を過ごすことになります。その日までの残された歳月・・・、柳田國男のいう<旅人の採集>を徹底して、山口の被差別部落の写真を撮っておくことにしましょう・・・。

松本淳・・・、このような歌をも歌っています。

教員になるてう男の語ること
中学校の教科書を出でず

○○○○を語る博識の
言葉に 力のこもりておらず
・・・

周防の国の山里は、山桜・馬酔木・木蓮・コブシ・モモ・巴旦杏の花でいっぱい・・・。楽しいドライブのひとときでした。

  

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2008年8月 2日 (土)

●沖縄の宝失った無念・・・

今朝の朝日新聞の文化欄に、新谷裕一著『沖縄の宝失った無念』という記事が掲載されていました。

紹介されている作家は、1947年生まれの沖縄県浦添村出身の又吉栄喜さん・・・。琉球大学史学科を出たあと地方公務員をしながら、小説を書いていたそうで、1980年『ギンネム屋敷』ですばる文学賞受賞、1996年『豚の報い』で芥川賞を受賞されたとか・・・。

又吉栄喜さん、筆者と同じ学年、団塊の世代に属します。

しかし、筆者、又吉栄喜さんの作品を一度も読んだことがありません。それにもかかわらず、新谷裕一著『沖縄の宝失った無念』という記事を読んでいますと、又吉栄喜さんが、その小説を通じて描こうとしている世界は、柳田國男の民俗学に<自然>を組み込んだ<野本民俗学>の世界のような気がしてきます。

「沖縄の宝」と表現されているのは、沖縄の「歴史や信仰」だけでなく、それらと不可分に結びついている、沖縄の「自然」のことです。

沖縄も、戦前・戦後の<近代主義>に汚染され、「森が削られ、海が埋め立てられ」て行きました。「島全体がフラット(平板)に」なっていきました。戦中、日本軍と米軍によて、沖縄の自然が破壊され、戦後は、米軍の基地拡張と、沖縄の本土並近代化によって、自然が破壊されていきました。

沖縄の歴史と信仰に深く結びついている沖縄の自然の至るところに存在していた「神が宿るとされていた聖域」が軽んじられ、「自然には魂がないと思っている」やからによって、沖縄の自然は徐々に崩壊され、それと同時に、沖縄の歴史と信仰も軽んじられてきました。

柳田民俗学の主題に自然を加えた野本民俗学・・・、それが描きうる「神話的な世界は、もはや壊れかけのように見える・・・」と新谷裕一氏はいいます。

又吉栄喜さん、「海は魂を揺さぶる。生命力の象徴じゃないかと考えています。」といいます。目を閉じるときにまぶたの奥に浮かぶものは、「幼いころに魚やタコを捕って遊んだ、色とりどりの珊瑚礁の海」。そこには、「波のはざまでの命の躍動」がみなぎっていました。

しかし、沖縄の戦後、近代化と本土並の生活と暮らしを追求していく中で、沖縄の人々にとって、「歴史と信仰」に勝るとも劣らないほど大切な「自然」・・・、特に、<霊場>(「聖域」)が破壊・喪失されていきました。

沖縄・・・、「色とりどりの珊瑚礁の海」と共に、沖縄の<霊場>としての自然を取り戻すことができるのでしょうか・・・?

最新作の又吉栄喜著『呼び寄せる島』・・・、是非、読んでみたい。野本民俗学の世界が小説の世界で展開されていることを期待しながら・・・。

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2008年6月 8日 (日)

●久賀歴史民俗資料館・・・

Mgi0806071昨日、周防大島で「漁業体験ツアー」がありました。

29名参加のうち、広島県からの参加者27名、山口県からの参加者2名でした。

午前は、久賀歴史民俗資料館で、そこに展示されている漁具431点を前に、ガイドの方から説明をお聞きしました。(「海に囲まれた周防大島は、海運業や漁業が盛んで、それらの諸用具や漁師たちによって使われた用具431点が展示されています。」

そのとき、筆者、最後尾にいて、担当者の方に、展示されている民具の写真を撮っていいかどうか・・・、お尋ねしました。「原則はダメですが、今回は少ない枚数でしたら・・・」と許可をいただきました。

久賀民俗資料館、展示されているのは漁具だけではありません。農具・生活用具・道具・「久賀で育った石工、鍛冶屋、船大工、桶・樽屋、傘・提灯屋、機屋、紺屋、醤油屋、瓦屋の9種職の諸職用具」が展示されています。

この久賀民俗資料館・・・、筆者は、妻と一緒に何度も見学してきましたが、いままで、一度も写真を撮ったことはありません。今回、漁業体験ツアーに参加したのを機会に尋ねてみましたら、今回に限り写真を許可してくださいましたので、お言葉に甘えて、筆者が関心を持っている民具をデジカメでフラッシュをたかないで撮影しました。

その枚数は300枚・・・。

今、『部落学序説』の付論で、「百姓に目から見た渋染・藍染」について、思いつくまま文章化していますが、岡山藩の渋染一揆の関連史資料に出てくる民俗学的用語に該当するものを目の前にして思いを馳せることができます。百姓が用いた農具・製糸・染織・織布・草履・下駄・簪櫛等に関する民俗資料も豊富なので・・・。

それどころか、「9種職の諸職用具」の他に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民として、町や村の治安維持に当たっていた、村方役人・浦方役人・穢多・茶筅等が使用していたと思われる捕亡具・武器、また、海の警固にあたる際に使用したと思われる武器・道具も展示されています。これらは単独では、それと分かる形で展示はされていないのですが、他の民具に紛れ込ませるように配置されています。

今回、それも写真に撮ることができました。

時々、久賀歴史民俗資料館の館長さんの説明に耳を傾けながら・・・。

もちろん、久賀歴史民俗資料館の照明、一様ではありません。光源が電球であったり蛍光灯であったり、また明るさも各コーナーでまちまち、ガラスケースの中に保存されているものも少なくありませんので、露出を適当に合わせることが、「ツアー」の流れの中ではかなり難しかったので、露出不足や手振れも少なくありませんが、「岡山藩」の「渋染一揆」の関連史資料を読むときの具体的なイメージを獲得することができそうです。

この久賀歴史民俗資料館、「周防大島が生んだ宮本常一氏の指導により収集された15,000点の貴重な民俗資料が保存・展示されています。昔の人々の息づかいとエネルギーを感じることができ、現代の人々が何をなすべきかを考えることが大切であると考えます。 」と紹介されています。

これらの民俗資料を前に、「現代人」として「何をなすべきか」・・・、筆者にとっては、長州藩の、司法警察である非常民として、長州藩の役人として、周防大島の百姓・町人と共に生き抜いてきた、周防大島の「穢多・非人」の真実な姿を描くために必要不可欠な資料になりそうです。

上の写真は、筆者が撮影した久賀歴史民俗資料館に展示されている民具・・・。一番下の写真は、今回の漁業体験セミナーのガイド役をしてくださった方です。

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