昨日、日本基督教団西中国教区の『教区通信』の編集長からメールが届きました。
平和聖日特集号に、この前、取材された下松愛隣教会の歴史と課題を掲載することに、難しさを覚えておられるようです。
理由は、一般的・常識的なクリスチャンの頭では、下松愛隣教会の歴史と課題、そして、その取材に応じた吉田牧師・・・、筆者の説明をほとんど理解することができないことにあるようです。
理解することができない・・・、そんなとき、無理に掲載しようとするとどういうことになるのか・・・? 想定し得ることは、下松愛隣教会に対する誤解と偏見を更に拡大することに繋がるのではないでしょうか・・・? 西中国教区の諸教会に、下松愛隣教会の歴史と課題を共有する機会を提供するというより、さらに、下松愛隣教会を排除と疎外の対象にする・・・、という姿勢が伺えます。
今度、教会の役員全員がそろって、<臨時役員会>で承認を得ることができるのは、7月27日の主日礼拝ですが、たぶん、教会役員会は、『教区通信』編集者から送付されてきた掲載予定の記事は、承認するに至らないでしょう。
それに、取材された日、ちょうど、教会の庭の花が咲き変わる時期で、記事の主題「花咲き乱れる教会」に相応しい写真を撮影することはできなかったようです。教会の庭の花は主日礼拝にささげる切り花用として栽培していますが、そのため多品種少量生産です。つまり、いろいろな種類の花がたくさん咲いてはいますが、ひとつの花が、たとえばバラの花などが教会の庭一面に咲いているわけではありません。
主日礼拝に切り花としてささげる・・・、それを外すと、下松愛隣教会の庭で花を栽培する意味がまったくなくなってしまいます。
それに、下松愛隣教会の歴史と課題を支え続けてくださったのは、聖書に記された神さま(イエスさま)ご自身です。そして、牧師・役員・信徒です。西中国教区の常置委員会をはじめとする諸教会です。
しかし、『教区通信』の編集者は、下松愛隣教会を支えてきたのは、「部落解放同盟」だと断定されていますが、『教区通信』の編集者は、下松愛隣教会の<教会性>を容認したくないのでしょうか・・・?
また、ぶどう栽培にしても、「ぶどうの栽培もなさり、手作りのワインができるとか……。」という表現は、取材に起因するものではありません。筆者、教会の庭でとれたぶどうから、「ワインを作る・・・」などと一度も言葉にしたことはありません。「栽培しているぶどうはみどりいろのマスカットの類、ワインを作っても白ワインにしかなりませんので、教区の諸教会の聖餐式用のワインを製造することはできません・・・」とそのときはっきりとお断りしたのですが、「ワインにすると、バザーで売れる・・・」とコメントを繰り返しておられましたが、それがたとえ亀の里支援という大義名分があったとしても、教会の庭で栽培しているぶどうをバザーに提供することは100%ありません。
教会の庭ではじめたぶどうの栽培、小さな教会の庭でつくるたった1本のぶどうの木ですよ。バザーで販売できるようなぶどう酒が作れるわけがありません。
それに、教会の庭にぶどうの苗を植えたのと同時に、教会役員宅の庭でもぶどうの栽培をはじめたということもとりあげることはありません。今年は無理ですが、計画通りにことがすすめば、来年は、牧師が作ったみどりいろのぶどうと、教会の役員が作ったむらさきいろのぶどうを、翠峰とピオーネを1房づつ1箱につめて、ぶどうをつくるためにお世話になった方々へお送りすることにしていますが、教会の庭のぶどう、その程度の収穫しか得ることができません。
「基督葡萄」として商品化することも、インターネットで「通販」して、それを亀の里に献金することもありません。
それに、牧師が、瓦礫とバラスだらけの教会の庭を開墾して、木を植えたり、花や野菜を植えたりしているのは、老朽化した教会を台風の風から守る防風林を構成するためであり、野菜は、日本の農業、食の問題を、兼業農家の教会員と一緒に考えるためです。
日本の農政によって、上から押しつけられた農業ではなく、自分たちの食の安全を確保するため、<考えながらする農業>への転換をはかるためです。下松愛隣教会では、牧師と信徒の間のやりとりは、<信仰>だけではありません。かって、賀川豊彦が提唱した、近代農法ではなく、「立体農業」という自然農法を一緒に考えることで、<農>と<農に携わる者>の<復権>をめざしているのです。
それに、下松愛隣教会は、前任の牧師が自害された・・・、ということを隠す意図はありません。下松愛隣教会が、その付帯事業の私物化をめぐって苦悩したという事実も否定することはありません。教会は、常に、事実・現実に立脚して、日々の教会の歩みをしています。『教区通信』の編集者は、下松愛隣教会の宣教の課題の<本質>を外して、その<現象>だけをとらえようとしていますが、教会と牧師である筆者に疎外と排除をもってむくいてきた「山口東分区」からの取材・・・、最初から<無理>だったようです。
理解できないなら、理解する必要はありません。
『教区通信』掲載予定の文案・・・、「ニーハオ!! 今回の風の旅は下松市にある下松愛隣教会におじゃましました。そこはまさに春の花咲き乱れるきれいなお庭の教会でした。」という文章ではじまりますが、どうして、「ニーハオ」という外国語ではじめるのですか・・・? 下松愛隣教会の取材を、理解することができない<外国>(異質という意味)の教会として認識されている『教区通信』の編集者の方の姿勢が如実に物語られています。
記事を捏造する日本基督教団西中国教区の『教区通信』・・・、どうして、悪しきマスコミの血筋をひくのでしょうか・・・?
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