2009年6月 4日 (木)

●味野村庄屋文書<御倹約御触書写>・・・

筆者が洗礼を受けた教会は、<端典組合教会>・・・

今は別名になっているのですが、あまり迷惑をかけてはいけないと思って、筆者が洗礼を受けた教会は、<端典組合教会>ということにしています。

日本で<組合教会>といいますと、新島襄の<同志社>系の<組合教会>が有名ですが、筆者は、その主流から遠く離れた、傍流の<組合教会>・・・。

筆者の信仰の本質は、<組合教会>の信仰にあります。

今日、その<端典組合教会>の後裔の牧師から、『記念誌』が送られてきました。

掲載された写真の中に、<端典組合教会>の古い日本屋敷の礼拝堂の写真がありました。その屋敷、味野村の庄屋の屋敷で、筆者が、洗礼を受けたころは、時代劇の武家屋敷に出てくるような雰囲気を持っていました。石段の上の白壁つたいには、見事な松の木が生えていました。門の両脇は、<門番>の居室・・・。石畳の道をまっすぐ進むと、正面に屏風のある、武家屋敷の玄関・・・。左には、中門があり、それをくぐると、広い庭があり、庄屋の屋敷の母屋が見えます。その母屋、松竹梅をあしらった欄間があり、中には、茶室が3つあります。大きな五葉の松を左に見ながらまっすぐ進みますと、中庭にでますが、そこには、宣教師が植えたマスカットのぶどう棚と、本格的な茶室への入り口があります。さらに奥へ進みますと、防火用水をかねた池があり、御影石のベンチが置かれています。そこが、筆者の祈りの座・・・。白壁の角にある白梅が春を告げる一番花・・・。母屋の中庭には、清流が流れるようになっていて、その中央に切支丹灯籠があります。蝋燭の灯をともしますと、十字架の光りが見えるようになっています。真四角の中庭を取り囲むように設置された廊下は、切支丹の礼拝がなされた場所ではないかと言われていました。その中庭の廊下・・・、倉の入り口に通じています。どんな大火にも耐えれるという厚い鉄製の扉・・・、その中は、真夏でも、ひんやりとしていて涼をとることができます。その蔵の2階の板間・・・、筆者の高校3年生のときのもうひとつの<勉強部屋>・・・。

この庄屋の屋敷・・・、備前藩味野村庄屋・荻野家の屋敷・・・。

戦後、荻野家の当主が屋敷を手放されるとき、屋敷は、端典組合教会へ・・・。荻野家に代々伝わる庄屋文書は、岡山大学に寄贈・・・、現在、岡山大学図書館の蔵書となっています。

味野村庄屋の荻野家の文書は、3031件・・・。

『岡山部落解放研究所紀要』(第6号・1988)<渋染一揆関係史料集・附現代語訳>に収録されている、<5.御倹約御触書写>は、この荻野家の庄屋文書3031件のひとつ・・・。

荻野家庄屋文書は、<支配>15、<土地>18、<租税>22、<村>43、<町>50、<戸口>50、<身分>52、<治安>52、<凶荒>53、<救恤>53・・・などの古文書が含まれています。

荻野家文書から、<御倹約御触書写>だけを抽出し、それだけを恣意的に引用する・・・、なにとなく、渋染一揆の学者・研究者・教育者の研究そのものの恣意性を感じてしまいます。

備前藩味野村の庄屋・荻野家の屋敷に身をおいて、筆者が直接感じた<百姓>身分・・・、そんじょそこらの<武士階級>(下士・中間足軽・穢多非人等)が足元にも及ばないような権勢を誇っていたようです。『部落学序説』の筆者の見解では、荻野家は、<百姓>身分でありながら、司法・警察権を保有する<非常民>・・・。<荻野氏系図>によりますと、<善左衛門>を名乗る人が多い・・・。

送っていただいた資料をひもときながら、筆者、近世幕藩体制下の味野村の庄屋・荻野家の屋敷を、記憶の糸をたどりながら、今はなきその屋敷のすべての部屋と廊下、蔵や納屋の中を散策しました。

<端典組合教会>の信仰の継承者である筆者・・・、宣教師のグンナル・クリスチャンソン牧師から教えられた<日本的基督教>の大切さ・・・、いまだに枯渇させることなく堅持しているようです。

  

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2009年5月25日 (月)

●岡山部落解放研究所紀要第6号入手・・・

Sib090525先週、インターネットの古書店で文献を検索していて、偶然目に入った、『岡山部落解放研究所紀要』(第6号)渋染一揆関係史料集・・・、今朝、届きました。

この紀要、ほとんど新本・・・。ページをめくりますと、糊がほどける音がします。

以前、探したときは見つけることはできなかったのですが、筆者が『岡山部落解放研究所紀要』(第6号)に近づいた・・・、というより、『岡山部落解放研究所紀要』(第6号)が筆者の方に近づいてくれたようです。

水は、高きに向かって流れるのではなく、低きに向かって流れるのが常ですから・・・。

この文章を書く前に、<忍者バリアの無効化のための操作手順>を書いたのですが、<非公開>にしました。そのうち、<公開>することにしましょう。

<ブログ>だけでなく、<BBS>・<HP>に対しても有効です。

筆者の岡山の、差別思想である賎民史観に立脚する学者・研究者・教育者、戦前戦後の融和運動・部落解放運動の運動家に対する批判検証はまだまだ続きます。

午後、関連文献3冊をインターネットの古書店に注文・・・。

  

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2008年11月 1日 (土)

●木綿と藍・・・

Han081101今年、『部落学序説』の付論で、岡山藩の渋染一揆の本質に迫るためにいくつか文章を書きました。

そのとき、木綿と藍を自分で育ててみようと思って、園芸店で木綿と藍の種を買い求め、教会の庭にまいてみました。

いずれも、わずかプランター3個分の土地で育てただけなので、収穫した木綿と藍を用いて、藍染の木綿を製造できるわけではありませんが、木綿と藍がどのように育てられてきたのか、その雰囲気ぐらいはわかります。

左の写真は、上から、①綿の実、②綿の実がはじけて中から綿が飛び出してきたもの、③それを収穫したもの、④収穫した綿から綿毛だけを分離したもの、⑤綿毛をとったあとの種・・・。

園芸店で販売されていた綿の種は、1袋に7、8個種が入っていただけなのに、綿毛を分離したあとには、数十倍の綿の種が残りそうです。

F1でなければ、来年はもっとたくさん綿を栽培することができそうです。

手作業で、綿毛と種を分離していますので、全部分離し終えるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。

絹をつくることを想像しますと、綿の種と同じ数だけカイコを<処分>することになります。カイコも<虫>・・・、といっても、たくさんのカイコを殺してまで絹を着る必要はないか・・・、と思ったりします。

もちろん、近世幕藩体制下の百姓の末裔である筆者、この年になるまで、絹の衣をまとったことは一度もありませんが・・・。

筆者、天性の百姓の末裔かも知れません。絹の衣を身にまといたいとは思いませんから・・・。

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2008年10月11日 (土)

●手繰り寄せる綿摘みの話し・・・

「綿摘み」の話し・・・

どこを探せばいいのか・・・?

しばらく思いめぐらしていて、頭に浮かんだのは、ある民俗学者・・・。しかも、男性ではなく、女性の民俗学者・・・。

「あの人の本の中には出てくるかもしれない・・・」と思って、開いた数冊の本の中にありました。《綿畑と狐のゆくえ》・・・。

民俗学者・山川菊枝の著書『わが住む村』(岩波文庫)に収録されています。

「昔は家族の人数次第で、三畝、五畝、あるいは一反ぐらいの綿を作らない家はありませんでした」・・・。

「綿の花は、一面緑の夏の野に、雪の咲いた趣でした。女たちは、大きなしょい籠をしょって、ようやく柔らかになった日ざしの中に、綿の花をつみに行きます。早生の花は小さく、晩生の花は大きいのでした・・・」。

そして、民俗学者の山川菊枝さん、記憶をたどりながらこのように記しています。「明治30年ごろ、小学校の2年生ぐらいのとき、教科書の中に、一面白い花に覆われた綿畑に半身埋もれて、手拭いを姉さまかぶりにした襷がけの娘が、左手にかかえた大きな籠の中に花をつみ入れている挿絵のあったのを思い出します」。

やはり、「茶摘み」と同じ風景の「綿摘み」があったようです。

民俗学者の山川菊江さん、「夜業」のことを「夜鍋」(よなべ)といいますが、その言葉の由来を、綿の糸を繰る間、大きな鍋で「大根と里芋の味噌汁」をことこと煮たことで、夜遅くまで綿の糸を繰る仕事を「よなべ」というようになったと説明しておられます。

その「綿摘み」が、日本の村々から姿を消したのが、「一般的には日露戦争のころ・・・」。「綿摘み」の経験がある女性は、明治10年代生まれまで・・・。「日露戦争のころから・・・アメリカの綿花が大量に入ってきたので、内地で綿など作っている必要もなし、そんなことをしては不経済・・・」ということになっていったそうです。

民俗学者・山川菊枝さん、綿畑が日本の村々から姿を消したとき、それと歩調をあわせるように村里から消えていったものがあるとか・・・。それは、きつね・・・。きつね・・・、綿畑がなくなった村里に見切りをつけて、更に深い山里に消えていったとか・・・。

喜田川守貞著『近世風俗志』に出てくる「わたつみと云ひしも土妓にてありし・・・」といわれている、「綿摘の雇婦・・・」、山川菊枝さんがものごころついたときは、その姿はすかっりなくなっていたのでしょうか・・・。

日露戦争は1904年、柳田国男が『木綿以前の事』を書いたのが1924年・・・。日本の農村・山村から、綿畑と「綿摘み」の姿が消えて20年後・・・、「綿摘み」がすでに過去の出来事となったとき、柳田国男は、その「綿摘み」にまつわる民俗伝承を、「女性史学」の文脈でとらえながら保存しようとしたようです。

『部落学序説』をはやく書き上げて、その執筆過程で遭遇した史資料を読み直し、いろいろな文章を書いてみたい・・・。

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●藍と綿に思いを寄せて・・・

Han0810112今年の1~5月、岡山藩の渋染一揆について、アトランダムに思いついたことを文章にしてきました。その数67・・・。

執筆している途中、藍と綿のことが気になり、筆者、藍と綿の種をまきました。

その藍と綿の写真が左の写真です。上2枚が藍、下2枚が綿です。

いずれも園芸店で販売されていた種を1袋買ってきてまいたものですが、藍にしても綿にしても、花を鑑賞するために改良されてもののようです。染色用・木綿用の品種とは少し違うようです。できた綿も少しこぶり・・・。

それでも、あわせてひろげた両手の手のひらにいっぱいになるほど、綿の実がとれました。

  1. 「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、あれに見えるは茶摘みぢやないか、あかねだすきに菅の笠・・・」と歌われる「茶摘み」の他に、「綿摘み」(守貞漫稿著『近世風俗志』)があったとは・・・。

    その「綿摘み」・・・、その背後には、悲しい生き方を余儀なくされた女性たちの物語ががいっぱいつまっているようです。

    渋染一揆の時代の「綿摘み」に目を向けることで、時間と空間を越えて、全世界の「綿摘み」にかかわった人々の悲しみ、苦しみ、差別の痛みに思いを馳せざるを得なくなるようです。

    渋染一揆に関する文章を書き続けてきて、一番の収穫は、このことに気付かされたことかも・・・。

    「綿摘み」の女性たちに対する差別の痛み・苦しみに、かすりさえしない、「人権闘争」としての「渋染一揆」・・・、それは一体何だったのか?

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2008年7月19日 (土)

●綿の花・・・

Han0708191「岡山藩」の「渋染一揆」の時代にも咲いていた綿の花・・・。

その花、どんな花なのか・・・。この春、園芸店で販売されていた綿の種を買ってきて花壇に播きました。今、40センチほどの背丈になっていますが、中には、花が咲いているのもあります。

左の上の写真が、教会の庭に咲いた綿の花・・・。クリーム色に、中が赤・・・。下は、綿の花のつぼみです。

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2008年7月 5日 (土)

●岡山藩「倹約御触書」の釈義・・・

『部落学序説』の執筆を中断したままです。

第5章・水平社宣言批判の執筆を再開する前に、読破しなければならない史資料が増えましたので、再開までに少々時間がかかります。

それまでに、予告していた、「岡山藩」の「倹約御触書」の釈義を文章化することにしておきましょう。いままで、『部落学序説』の付論「百姓の目から見た渋染・藍染」の諸文章の内容を<釈義>の形で要約します。

「倹約御触書」の見直しは、『禁服訟歎難訴記』の見直しに直結することになります。当然、「渋染一揆」に関する見直しにもつながります。

しかし、この批判分析の過程・・・、以前、『部落学序説』で、「渋染一揆」に関して言及したときの前提となったものです。

『部落学序説』のどの文章も、淡々と言及している場合も、気の遠くなるような、史資料を前にした筆者の自問自答の試行錯誤の繰り返しがあります。史資料の批判分析を前提にした議論は意味あることでしょうが、単なるIdeologieに基づくステレオパターン型の誹謗中傷には打つ術がありません。関連BBSの脈をとりはじめて1年以上が経過しますが、何の変化もありませんね・・・。

筆者の血圧は、最高血圧118、最低血圧74です。

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2008年5月31日 (土)

●昨日夜も雨・・・

昨日夜も雨が降りました。

しかし、教会の玄関には、雨漏りの音がしない・・・。

この前、教会の玄関の上の出屋根の保守作業をしましたが、1回の作業で、とりあえず、瓦屋根の崩壊と雨漏りが防止できたようです。

教会の雨漏りは、この教会に赴任してきた26年前から続いているのですが、芸予地震と台風被害によって、雨漏りが激しくなり、2年前本腰を入れて雨漏り対策をしました。その結果、ほとんど雨漏りを防止できたのですが、強い雨と風の日には、教会の玄関にあまもりがします。廊下は水浸し・・・。それが、今回の保守作業で、嘘みたいになくなりました。

雨漏りは、その原因となる箇所と、雨漏りが現象としてあらわれる箇所とが異なるのが常なので、完全に雨漏りをなくすことは至難のわざです。

日本の社会に根強く存在する部落差別も、この雨漏りと同じかもしれません。部落差別の本当の原因となる場所と、それが、現象としてあらわれる場所が大きくずれているため、対症療法的な同和対策事業・同和教育事業が、部落差別完全解消に寄与しない・・・。

雨漏りの箇所を見て、雨漏りの原因はここだ・・・、と強固に主張されても、それなら、雨漏りの箇所を雨漏りが目立たないように糊塗すればそれで問題解決できるのかといいますと、ほとんど何に役にも立ちません。雨漏りを直すことができない業者は、そのうちこんな説明をはじめます。「この雨漏りは、この建物の構造的欠陥です・・・」。

「岡山藩」の「渋染一揆」に関する学者・研究者・教育者の論文を読んでいて、その論調、戦後の「被差別部落」の経済的困窮という<土砂降りの雨>の中、差別実態としての<雨漏り>をなくすために、雨漏りで衣魚と黴が生えた天井を張り替える作業にたとえられます。その場限りの、間に合わせの対策に過ぎず、部落差別の完全解消につながっていない・・・、と思われます。

部落差別をなくすためには、差別<現象>の本当の<原因>を明らかにして、そこで、対策を立案・実施しなければ・・・。

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2008年4月24日 (木)

●近世幕藩体制下の武士身分の差別意識の分析・・・

今日は、一日、ミニ菜園と花の手入れをしていました。

キンセンカの花をはじめ、春の雨にあたって散った花をいくつも手折ったためでしょうか、筆者の右の手、植物の匂いが染みついたようです。

特に、筆者の右手の指・・・、少し苦みのある薬草の匂いがします。

春の雨にあたったためでしょうか、ミニ菜園に植えた、この前園芸店で買ってきたキュウリの苗が2本ともしおれていました。しかし、筆者が種から育てたキュウリの方は、とても元気で、春の雨にあたって、ますます成長しています。

5月の連休は、日本基督教団西中国教区の総会があったり、筆者、公私共に多忙です。教会の花壇・お花畑・ミニ菜園の手入れをする時間を十分にとれそうにありませんので、とりあえず、まかなければならない種・球根は、今日、全部まいたり、植えたりすることにしたのです。

夕方になると、疲れから、筆者、思考停止状態・・・。

疲れがとれたころ、以前、国道2号線沿いのBOOKOFFで購入して、一度、『田舎牧師の日記』に感想をかいたことがある、山本博文著『男の嫉妬-武士道の論理と心理』(ちくま新書)を読み直してみました。

山本博文氏は、『部落学序説』の文献一覧表にリストアップしているとおり、『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』(講談社学術文庫)の著者でもあります。この山本博文氏を、東京大学で指導された教授が尾藤正英氏ですが、尾藤正英著『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』(岩波現代文庫)とあわせて読みますと、歴史学研究における師と弟子の関係のありようの一端を知ることができます。

筆者は、どちらかいいますと、心理的あるいは心理学な研究というのは、あまり関心がないのですが、BOOKOFFで、山本博文著『男の嫉妬-武士道の論理と心理』を立ち読みしているとき、著者の<独創性>にひかれて、つい、買ってしまいました。

山本博文氏の近世幕藩体制下の武士身分に関する研究の<独創性>はなにかといいますと、「士農工商」の「士」と「農工商」の間における差別はきわめて希薄で、どちらかいいますと、ないに等しい・・・、しかし、「士」の身分間における階級差における差別は露骨なものがあった・・・、と主張しているところです。

近世幕藩体制下における、「差別」的な武士身分が、明治維新を経て、近代身分制度の「天皇・皇族・華族・士族・平民」の「士族」に組み替えられ、「武士」の中における「差別」を、「士族」の中で保持することができなくなった旧武士身分は、「士族」の下に「平民」を位置付け、露骨に「平民」を「差別」するようになっていきます。

そして、近代の教育・研究の世界において、「立身出世」をこころざす旧武士身分は、近代の身分制度の「士族・平民」の差別的上下関係を、近世幕藩体制下の身分制度の中に読み込んでいきます。そして、「職業ないし職能の区別」に過ぎない「士農工商」という概念を、「士」>「農工商」として、身分の上下関係として強引に認識し、それを、国民の間に「正史」として流布させていくのです。

近代中央集権国家・明治天皇制国家の差別・差別意識の創出者は、旧武士身分です。

山本博文氏は、『男の嫉妬-武士道の論理と心理』の中で、山本博文氏が、その指導教授・尾藤正英氏から受け継いだ歴史学研究の遺産を継承して、近世幕藩体制下の武士身分を解明するのに、「家格」「役職」というキーワードを導入します。

『部落学序説』の筆者は、近世幕藩体制下の身分を「役務」と「家職」をキーワードで論じてきましたが、尾藤正英・山元博文両氏は、「家格」「役職」をキーワードにして、近世幕藩体制下の身分制度の中核、武士身分の本質を明らかにしていきます。

尾藤正英・山本博文氏のいう「役職」というのは、「役」と「職」のことで、「役」は、筆者が『部落学序説』でいう「役務」に、「職」は、「家職」にあたります。尾藤正英・山本博文氏は、「家職」を「家」と「職」にわけ、「家」という概念を独立させ、「役職」「家格」として対置させて、論述を展開するのです。

尾藤正英・山本博文両氏は、「家格」「役職」の二つの概念における「職」(「役職」・「家職」)においては、「政治や軍事を職分とする武士」(『部落学序説』の筆者がいうところの軍事・警察にたずさわる非常民)と「一般の庶民」(常民)の区別はあっても、それは、「絶対的なものではない」といいます。「武士がその身分にふさわしくない行動をすれば、それに対して庶民の立場から「侍畜生」と非難しても、別にとがめられることはない・・・」といいます。

山本博文氏は、「町人」は、武士身分に「嫉妬」することも「差別意識」を持つこともなかったといいます。「町人」だけでなく、「百姓」についても同じことが言えるでしょう。

近世幕藩体制下の身分制社会において、「嫉妬」「差別意識」を培い、近代中央集権国家・明治天皇制国家における近代身分制下のおける差別と差別意識の創出にあずかっていった武士身分の中に、身分にともなう露骨な「差別」・「差別意識」があったことを証明してみせるのです。

しかも、その「差別」・「差別意識」・・・、身分が高ければ高いほど、「誇り高い家柄の武士であればあるほど」、その内面と生活・職務の中に、露骨に「差別意識」がかもしだされ、構築されていったというのです。

尾藤正英・山本博文両氏は、「家格」「役職」というキーワードを、近世幕藩体制下の社会の「表」「裏」を描くときの指標として用いているのです。

近世幕藩体制下の社会の「表」の顔は、その身分制度の根幹を物語る「家格」という概念で表現します。「家格制を維持すること」、それは、「幕府の体制を守る道」として、了解されていたといいます。

しかし、実際の、現実の幕藩体制下の社会は、「家格」だけで動いているのではなく、実務れべるでは、「役職」に重点がおかれます。

この「役職」・・・、実務の世界ですから、与えられた職務をこなすに必要な実務能力が要求されます。そのため、近世幕藩体制下においては、「家格」に関係なく、実務能力をもったものが、より上位の、責任ある「役職」に抜擢された・・・、といいます。

つまり、「家格」においては、「貴」身分にあたる武士階級が、「役職」においては、下位の職にあまんじなければならないこともあれば、「家格」においては、「賤」身分にあたる武士階級が、「役職」においては、上位の職につくということもあるというのです。しかも、それは、決してめずらしいことではなく、近世幕藩体制下において時間・空間を超えて普遍的なものであったというのです。

「家格」は「貴」身分、「役職」は下位の職・・・に置かれた武士階級は、逆の、「家格」は「賤」身分、「役職」は上位の職・・・についた武士階級に対して、激しい「嫉妬」にさいなまれたといいます。山本博文氏は、「家格は低くとも羽振りがよい者に対しては、強い嫉妬心が生ずる。」といいます。

山本博文氏は、「武士の出世競争」(より上位の役職を求める武士身分間の闘争・・・)においては、「他人が出世すれば自分は出世できない。自分の栄達のじゃまになる他人の存在が目障り二なり・・・嫉妬の念が強く起こってくる」といいます。

山本博文氏によりますと、この「嫉妬」・・・、「それと表裏の関係にあった正論による他者批判」に帰結するといいます。彼らは、「人の業績を認めたがらない」だけでなく、「さまざまな場所で」、「正論や批判」を展開します。自らが、「大きな力を持ち」、「人事に影響を与える」能力を持っていることを鼓舞するのです。

自らより低い「家格」の武士を、「賤吏」として罵倒します。そして、「かかるいやしきものの子と相まじはることをはづ」ると高言するのです。山本博文氏曰く、「その嫉妬心は、本来、武士としてふさわしいのは自分であるという自負に裏付けられているだけに、正義の観念も伴い、より強いものになる。ただ嫉妬というよりも、身分の低い者に対する差別意識にまで発達するのです」。

「家格」においては、「貴」身分にあたる武士階級が、「家格」においては、おのれより「賤」身分にあたる武士階級が、「役職」において上位の職についたとき、はげしい「嫉妬」にさいなまれるとともに、それでは、「貴」身分のおのれのメンツが立たないとして、「役職」に要求される実務能力とは関係がない、近世身分制度の中で固定された「家格」を持ち出して、むきだしの「差別意識」・差別行為に身を委ねることになるというのです。

「家格」「差別意識」とは表裏一体のものとして、近世幕藩体制下の武士身分の精神構造を形作るのです。

「嫉妬」を覚える相手に対して、「差別意識」をもって、おのれの精神の安定を保つ・・・、近世幕藩体制下の武士階級が、そのような心理的メカニズムの中を生きていたという、山本博文氏の説が正しいとしたら、「武士がなんぼのもんや・・・」とつぶやきたくなります。

「差別意識」と表裏一体の「家格制の遵守は、・・・武士の嫉妬心を抑え、秩序を守るための武士社会の根幹的な方策であったと見ることもできる」。

そして、山本博文氏は、「差別意識」と表裏一体の「家格制があったから、役職にめぐまれるかどうかや、能力の有無や経済的な浮沈にかかわらず、武士は武士としてのアイデンティティを保つことができたのである。」と断定します。

山本博文氏、まるで、「武士道とは、人を差別することによって、おのれの精神的安定を獲得する道である・・・」と主張されているかのようです。

武士を武士たらしめる武士のアイデンティティである「家格」「差別意識」・・・、その目に見える形が「衣類統制」のようです。

「儀式のとき、「布衣(絹地無紋の裏のない狩衣)」を着することができる役職」・・・、それは、山元博文氏によりますと、「幕府旗本にあっては中間管理職的なもの」であったとしいます。「当然学問があるはず」の人々だそうです。つまり、近世幕藩体制下の知識階級・中産階級である武士身分の中にも、「貴」身分の「賤身分」に対する「家格」「差別意識」のせめぎあいが存在していたということを物語っています。

山本博文氏、「こうした嫉妬心を緩和し、温存する種々の慣行(差別意識・差別行為)は、武士社会だけでなく、それ以後の日本社会にも受け継がれてきたものと思われる」。

「明治維新」以降の、知識階級・中産階級となる旧武士身分は、解体されていく、近世幕藩体制下の武士階級の中における貴賤の別、そして、貴の立場から常に賤を差別して自らの社会的位置を保とうとするその生活と思想・・・、近代中央集権国家のあらたな身分制度「天皇・皇族・華族・士族・平民」の枠組みの中で、自らの「貴」を守るために、その下の身分「平民」を差別し限りなくおとしめていく、日本の歴史学の世界に、「賤民史観」や「愚民論」を組み込んでいったのは、近世幕藩体制下の武士身分の<陰>の部分であったと思われます。彼らは、近世の歴史、その身分制すら、塗り替えてしまったのです。

禁制幕藩体制下、平和な時代における、軍事・警察のキャリアである「武官である番士」は、軽んじられていたといいます。軍事・警察にたずさわる非常民の末端、全国津々浦々に配置された司法・警察である「穢多」役・「非人」役・・・、現場の警察官は、キャリア以上に軽んじられていたのかもしれません。

同心・目明し・穢多・非人・・・、彼らに「差別意識」を向けていたのは、「家格」「差別意識」を表裏一体のものとして生きていた「貴」身分であることを自覚しつつ、「賤」身分に「嫉妬」する武士身分・・・、なさけない、みじめで、あわれな・・・、武士身分以外の何ものでもなかったと思われます。

もういちど、山本博文氏のことばを繰り返しましょう。

「町人も武士身分に嫉妬することはなかった」。

「町人」だけでなく「百姓」も・・・。「武士」の世界、「町人」・「百姓」にとっては、別の世界のことですから・・・。


*「家格」にこだわり「差別意識」をもってしか自分の精神的安定を維持できない武士身分、彼らは、このように訓戒します。「つまらぬ反感」を持たないで、「黙って職務に励むのがよい」と。しかし、山本博文氏曰く、「黙っていると一生・・・で終わるしかない」。

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2008年4月21日 (月)

●「色の名前で読み解く日本史」・・・

読者の方から、中江克己著『色の名前で読み解く日本史』(青春出版社)・『浮世絵』・『風俗画と浮世絵師』(小学館)をいただきました。

著者紹介:中江克己
1935年、北海道函館市生まれ。ノンフィクション参加・染織文化研究家。染織文化誌『藍』(青桐社)の編集長を務めて以来、伝統染織の文化史的側面を追い続け、『日本の染織』(全23巻・秦流社)の編集者を努めた。著書に『日本の染め織り』(紀尾井書房)、『染織事典』(秦流社)、『江戸の意外な生活事情』(PHP研究所)、『忠臣蔵と元禄時代』(中央公論社)、『徳川将軍百話』(河出書房新社)ほか多数。

中江克己氏、「藍染」と「藍色」を区別しておられるようです。「藍色」は、「藍染」のひとつに過ぎない・・・。「岡山藩」の「穢多」に強制された、「無紋渋染、藍染」の「藍染」は、何を意味しているのか、中江克己氏がいう「藍色」なのか、「藍染」なのか・・・。前者だと、色が完全に特定されることになり、後者だと、「青色系統」の色を指すことになり、色を特定されたとは言い難くなります。

「渋染」についても同じ・・・。

「岡山藩」の「穢多」に対する『倹約御触書』の「無紋渋染、藍染」の「強制」・・・、赤色系統・黄色系統・紫色系統・灰色系統の衣類の禁止、青色系統・茶色系統の色の許可ともとれます。

読者の方、坂村真民と生前、交流があったとか・・・。

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