2008年4月24日 (木)

●近世幕藩体制下の武士身分の差別意識の分析・・・

今日は、一日、ミニ菜園と花の手入れをしていました。

キンセンカの花をはじめ、春の雨にあたって散った花をいくつも手折ったためでしょうか、筆者の右の手、植物の匂いが染みついたようです。

特に、筆者の右手の指・・・、少し苦みのある薬草の匂いがします。

春の雨にあたったためでしょうか、ミニ菜園に植えた、この前園芸店で買ってきたキュウリの苗が2本ともしおれていました。しかし、筆者が種から育てたキュウリの方は、とても元気で、春の雨にあたって、ますます成長しています。

5月の連休は、日本基督教団西中国教区の総会があったり、筆者、公私共に多忙です。教会の花壇・お花畑・ミニ菜園の手入れをする時間を十分にとれそうにありませんので、とりあえず、まかなければならない種・球根は、今日、全部まいたり、植えたりすることにしたのです。

夕方になると、疲れから、筆者、思考停止状態・・・。

疲れがとれたころ、以前、国道2号線沿いのBOOKOFFで購入して、一度、『田舎牧師の日記』に感想をかいたことがある、山本博文著『男の嫉妬-武士道の論理と心理』(ちくま新書)を読み直してみました。

山本博文氏は、『部落学序説』の文献一覧表にリストアップしているとおり、『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』(講談社学術文庫)の著者でもあります。この山本博文氏を、東京大学で指導された教授が尾藤正英氏ですが、尾藤正英著『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』(岩波現代文庫)とあわせて読みますと、歴史学研究における師と弟子の関係のありようの一端を知ることができます。

筆者は、どちらかいいますと、心理的あるいは心理学な研究というのは、あまり関心がないのですが、BOOKOFFで、山本博文著『男の嫉妬-武士道の論理と心理』を立ち読みしているとき、著者の<独創性>にひかれて、つい、買ってしまいました。

山本博文氏の近世幕藩体制下の武士身分に関する研究の<独創性>はなにかといいますと、「士農工商」の「士」と「農工商」の間における差別はきわめて希薄で、どちらかいいますと、ないに等しい・・・、しかし、「士」の身分間における階級差における差別は露骨なものがあった・・・、と主張しているところです。

近世幕藩体制下における、「差別」的な武士身分が、明治維新を経て、近代身分制度の「天皇・皇族・華族・士族・平民」の「士族」に組み替えられ、「武士」の中における「差別」を、「士族」の中で保持することができなくなった旧武士身分は、「士族」の下に「平民」を位置付け、露骨に「平民」を「差別」するようになっていきます。

そして、近代の教育・研究の世界において、「立身出世」をこころざす旧武士身分は、近代の身分制度の「士族・平民」の差別的上下関係を、近世幕藩体制下の身分制度の中に読み込んでいきます。そして、「職業ないし職能の区別」に過ぎない「士農工商」という概念を、「士」>「農工商」として、身分の上下関係として強引に認識し、それを、国民の間に「正史」として流布させていくのです。

近代中央集権国家・明治天皇制国家の差別・差別意識の創出者は、旧武士身分です。

山本博文氏は、『男の嫉妬-武士道の論理と心理』の中で、山本博文氏が、その指導教授・尾藤正英氏から受け継いだ歴史学研究の遺産を継承して、近世幕藩体制下の武士身分を解明するのに、「家格」「役職」というキーワードを導入します。

『部落学序説』の筆者は、近世幕藩体制下の身分を「役務」と「家職」をキーワードで論じてきましたが、尾藤正英・山元博文両氏は、「家格」「役職」をキーワードにして、近世幕藩体制下の身分制度の中核、武士身分の本質を明らかにしていきます。

尾藤正英・山本博文氏のいう「役職」というのは、「役」と「職」のことで、「役」は、筆者が『部落学序説』でいう「役務」に、「職」は、「家職」にあたります。尾藤正英・山本博文氏は、「家職」を「家」と「職」にわけ、「家」という概念を独立させ、「役職」「家格」として対置させて、論述を展開するのです。

尾藤正英・山本博文両氏は、「家格」「役職」の二つの概念における「職」(「役職」・「家職」)においては、「政治や軍事を職分とする武士」(『部落学序説』の筆者がいうところの軍事・警察にたずさわる非常民)と「一般の庶民」(常民)の区別はあっても、それは、「絶対的なものではない」といいます。「武士がその身分にふさわしくない行動をすれば、それに対して庶民の立場から「侍畜生」と非難しても、別にとがめられることはない・・・」といいます。

山本博文氏は、「町人」は、武士身分に「嫉妬」することも「差別意識」を持つこともなかったといいます。「町人」だけでなく、「百姓」についても同じことが言えるでしょう。

近世幕藩体制下の身分制社会において、「嫉妬」「差別意識」を培い、近代中央集権国家・明治天皇制国家における近代身分制下のおける差別と差別意識の創出にあずかっていった武士身分の中に、身分にともなう露骨な「差別」・「差別意識」があったことを証明してみせるのです。

しかも、その「差別」・「差別意識」・・・、身分が高ければ高いほど、「誇り高い家柄の武士であればあるほど」、その内面と生活・職務の中に、露骨に「差別意識」がかもしだされ、構築されていったというのです。

尾藤正英・山本博文両氏は、「家格」「役職」というキーワードを、近世幕藩体制下の社会の「表」「裏」を描くときの指標として用いているのです。

近世幕藩体制下の社会の「表」の顔は、その身分制度の根幹を物語る「家格」という概念で表現します。「家格制を維持すること」、それは、「幕府の体制を守る道」として、了解されていたといいます。

しかし、実際の、現実の幕藩体制下の社会は、「家格」だけで動いているのではなく、実務れべるでは、「役職」に重点がおかれます。

この「役職」・・・、実務の世界ですから、与えられた職務をこなすに必要な実務能力が要求されます。そのため、近世幕藩体制下においては、「家格」に関係なく、実務能力をもったものが、より上位の、責任ある「役職」に抜擢された・・・、といいます。

つまり、「家格」においては、「貴」身分にあたる武士階級が、「役職」においては、下位の職にあまんじなければならないこともあれば、「家格」においては、「賤」身分にあたる武士階級が、「役職」においては、上位の職につくということもあるというのです。しかも、それは、決してめずらしいことではなく、近世幕藩体制下において時間・空間を超えて普遍的なものであったというのです。

「家格」は「貴」身分、「役職」は下位の職・・・に置かれた武士階級は、逆の、「家格」は「賤」身分、「役職」は上位の職・・・についた武士階級に対して、激しい「嫉妬」にさいなまれたといいます。山本博文氏は、「家格は低くとも羽振りがよい者に対しては、強い嫉妬心が生ずる。」といいます。

山本博文氏は、「武士の出世競争」(より上位の役職を求める武士身分間の闘争・・・)においては、「他人が出世すれば自分は出世できない。自分の栄達のじゃまになる他人の存在が目障り二なり・・・嫉妬の念が強く起こってくる」といいます。

山本博文氏によりますと、この「嫉妬」・・・、「それと表裏の関係にあった正論による他者批判」に帰結するといいます。彼らは、「人の業績を認めたがらない」だけでなく、「さまざまな場所で」、「正論や批判」を展開します。自らが、「大きな力を持ち」、「人事に影響を与える」能力を持っていることを鼓舞するのです。

自らより低い「家格」の武士を、「賤吏」として罵倒します。そして、「かかるいやしきものの子と相まじはることをはづ」ると高言するのです。山本博文氏曰く、「その嫉妬心は、本来、武士としてふさわしいのは自分であるという自負に裏付けられているだけに、正義の観念も伴い、より強いものになる。ただ嫉妬というよりも、身分の低い者に対する差別意識にまで発達するのです」。

「家格」においては、「貴」身分にあたる武士階級が、「家格」においては、おのれより「賤」身分にあたる武士階級が、「役職」において上位の職についたとき、はげしい「嫉妬」にさいなまれるとともに、それでは、「貴」身分のおのれのメンツが立たないとして、「役職」に要求される実務能力とは関係がない、近世身分制度の中で固定された「家格」を持ち出して、むきだしの「差別意識」・差別行為に身を委ねることになるというのです。

「家格」「差別意識」とは表裏一体のものとして、近世幕藩体制下の武士身分の精神構造を形作るのです。

「嫉妬」を覚える相手に対して、「差別意識」をもって、おのれの精神の安定を保つ・・・、近世幕藩体制下の武士階級が、そのような心理的メカニズムの中を生きていたという、山本博文氏の説が正しいとしたら、「武士がなんぼのもんや・・・」とつぶやきたくなります。

「差別意識」と表裏一体の「家格制の遵守は、・・・武士の嫉妬心を抑え、秩序を守るための武士社会の根幹的な方策であったと見ることもできる」。

そして、山本博文氏は、「差別意識」と表裏一体の「家格制があったから、役職にめぐまれるかどうかや、能力の有無や経済的な浮沈にかかわらず、武士は武士としてのアイデンティティを保つことができたのである。」と断定します。

山本博文氏、まるで、「武士道とは、人を差別することによって、おのれの精神的安定を獲得する道である・・・」と主張されているかのようです。

武士を武士たらしめる武士のアイデンティティである「家格」「差別意識」・・・、その目に見える形が「衣類統制」のようです。

「儀式のとき、「布衣(絹地無紋の裏のない狩衣)」を着することができる役職」・・・、それは、山元博文氏によりますと、「幕府旗本にあっては中間管理職的なもの」であったとしいます。「当然学問があるはず」の人々だそうです。つまり、近世幕藩体制下の知識階級・中産階級である武士身分の中にも、「貴」身分の「賤身分」に対する「家格」「差別意識」のせめぎあいが存在していたということを物語っています。

山本博文氏、「こうした嫉妬心を緩和し、温存する種々の慣行(差別意識・差別行為)は、武士社会だけでなく、それ以後の日本社会にも受け継がれてきたものと思われる」。

「明治維新」以降の、知識階級・中産階級となる旧武士身分は、解体されていく、近世幕藩体制下の武士階級の中における貴賤の別、そして、貴の立場から常に賤を差別して自らの社会的位置を保とうとするその生活と思想・・・、近代中央集権国家のあらたな身分制度「天皇・皇族・華族・士族・平民」の枠組みの中で、自らの「貴」を守るために、その下の身分「平民」を差別し限りなくおとしめていく、日本の歴史学の世界に、「賤民史観」や「愚民論」を組み込んでいったのは、近世幕藩体制下の武士身分の<陰>の部分であったと思われます。彼らは、近世の歴史、その身分制すら、塗り替えてしまったのです。

禁制幕藩体制下、平和な時代における、軍事・警察のキャリアである「武官である番士」は、軽んじられていたといいます。軍事・警察にたずさわる非常民の末端、全国津々浦々に配置された司法・警察である「穢多」役・「非人」役・・・、現場の警察官は、キャリア以上に軽んじられていたのかもしれません。

同心・目明し・穢多・非人・・・、彼らに「差別意識」を向けていたのは、「家格」「差別意識」を表裏一体のものとして生きていた「貴」身分であることを自覚しつつ、「賤」身分に「嫉妬」する武士身分・・・、なさけない、みじめで、あわれな・・・、武士身分以外の何ものでもなかったと思われます。

もういちど、山本博文氏のことばを繰り返しましょう。

「町人も武士身分に嫉妬することはなかった」。

「町人」だけでなく「百姓」も・・・。「武士」の世界、「町人」・「百姓」にとっては、別の世界のことですから・・・。


*「家格」にこだわり「差別意識」をもってしか自分の精神的安定を維持できない武士身分、彼らは、このように訓戒します。「つまらぬ反感」を持たないで、「黙って職務に励むのがよい」と。しかし、山本博文氏曰く、「黙っていると一生・・・で終わるしかない」。

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2008年4月21日 (月)

●「色の名前で読み解く日本史」・・・

読者の方から、中江克己著『色の名前で読み解く日本史』(青春出版社)・『浮世絵』・『風俗画と浮世絵師』(小学館)をいただきました。

著者紹介:中江克己
1935年、北海道函館市生まれ。ノンフィクション参加・染織文化研究家。染織文化誌『藍』(青桐社)の編集長を務めて以来、伝統染織の文化史的側面を追い続け、『日本の染織』(全23巻・秦流社)の編集者を努めた。著書に『日本の染め織り』(紀尾井書房)、『染織事典』(秦流社)、『江戸の意外な生活事情』(PHP研究所)、『忠臣蔵と元禄時代』(中央公論社)、『徳川将軍百話』(河出書房新社)ほか多数。

中江克己氏、「藍染」と「藍色」を区別しておられるようです。「藍色」は、「藍染」のひとつに過ぎない・・・。「岡山藩」の「穢多」に強制された、「無紋渋染、藍染」の「藍染」は、何を意味しているのか、中江克己氏がいう「藍色」なのか、「藍染」なのか・・・。前者だと、色が完全に特定されることになり、後者だと、「青色系統」の色を指すことになり、色を特定されたとは言い難くなります。

「渋染」についても同じ・・・。

「岡山藩」の「穢多」に対する『倹約御触書』の「無紋渋染、藍染」の「強制」・・・、赤色系統・黄色系統・紫色系統・灰色系統の衣類の禁止、青色系統・茶色系統の色の許可ともとれます。

読者の方、坂村真民と生前、交流があったとか・・・。

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2008年4月16日 (水)

●「むずむずする資料」・・・

昨日、国道2号線沿いのBOOKOFFで入手した、牧英正・藤原明久編『日本法制史』(青林書院)、巻末に30ページにわたる「参考文献」が掲載されていました。

概説通史・氏族法・律令法・鎌倉室町期の法・分国法・幕藩法・近代法の各分野について、【史料】・【著書・論文】が掲載されています。

「警察官」という概念は、明治以降に採用された概念ですが、この「警察官」という概念と同等の概念は、日本の法制史の中で多種多様な形で存在します。

筆者は、『部落学序説』執筆を計画している段階で、日本法制史の基本的な枠組みを認識できるようこころがけてきたつもりですが、昨日、期せずして、BOOKOFFで、牧英正・藤原明久編『日本法制史』を入手しました。

この牧英正・藤原明久編『日本法制史』の中にも当然ながら、近世以前の「警察官」の諸相が描かれています。

筆者は、『部落学序説』で、その各時代に通底する「警察官」の本質を「非常民」という概念で再定義して使用してきたのですが、筆者にとって、牧英正・藤原明久編『日本法制史』は、史料、著書・論文、法制史の概要の全体像と研究方法を知る上で、貴重な資料となります。

編集者のひとり、牧英正氏・・・、以前、インターネット上で、こんな題名の文章を読んだことがあります。

「むずむずする資料」・・・。

紀州藩『城下町警察日記』発刊を記念して書かれた短いコメントです。その末尾に、「むずむずする資料と言ったのは、読んでいて、もっと調べてみたい、確かめたい、整理したい、考えたい等の衝動に駆られるという意味である。まことに中身の濃い記録である。」とありました。

日本法制史の代表的研究者の牧英正氏にとっても、紀州藩『城下町警察日記』は、法制史研究の魅力的な資料<原>のようです。

無学歴・無資格、歴史学や法学の門外漢である、『部落学序説』の筆者にとって、牧英正・藤原明久編『日本法制史』は、間違いなく「むずむずする資料」に該当します。紀州藩『城下町警察日記』がそうであるのと同様に・・・。

牧英正・藤原明久編『日本法制史』と紀州藩『城下町警察日記』・・・、それを食材にたとえますと、筆者、その食材を前に、どのように調理をしたらいいのか、その知識と技術をもち、それを実践することができる・・・、そんな気持ちが、筆者をして、「むずむずする資料」と感じさせるのかもしれません。

『部落学序説』の付論「百姓の目からみた渋染・藍染」・・・、「前菜料理」はほどほどにして「メイン料理」を出すことにしましょうか・・・。

料理というのは、好き嫌いがつきものです。

筆者の「前菜料理」を食べて、口にあわなくて席をあとにされた方は去って久しいでしょうから・・・。いまだに、『部落学序説』の付論・「百姓の目から見た渋染・藍染」を読んでくださる方々のために、腕を奮って、「メイン料理」を差し出すことにしましょう。

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2008年4月13日 (日)

●非公開の「同和教育資料」・・・

今日の午後、長州藩の部落史に関する史資料に目を通しました。

中には、<非公開>の論文集もあります。その論文集、山口県の「同和教育資料等調査専門委員会」が執筆編纂したもの・・・。

同和教育は、日本全国一律・・・。北海道から沖縄まで、一律の同和教育が展開されてきました。

しかし、<それぞれの地域の同和教育推進の背景となる同和教育資料>については、同和教育の全国一律性と違って、それぞれの地域性がにじみでてくることになります。当然のことですが、全国共通の同和教育の内容と抵触するような、場合によっては、その一般説・通説・俗説を否定するような史資料も含まれることになります。

山口県だけでなく、その他の県、島根・鳥取・広島・山口・兵庫・・・等においても同様であると思われます。

同和教育をめぐっては、それぞれの地域の一次資料を含む文献調査と、被差別部落での聞き取り調査に直接関与してきた教職員と、彼らによって、整理され、まとめられ、<公開された同和教育資料>に基づいて、「研究」と「教育」にかかわる教職員と、同和教育の専門職と一般職のような二重性が存在します。

同和教育にたずさわる学校教師の方々と、同和教育について論じるとき、その教師の方々が、同和教育の専門職なのか、一般職なのか・・・、見極める必要があります。

山口県の場合、同和教育の担当者をさせられた教師に対して、被差別部落の在所やその住人、地区出身の子供に関する個人情報(住所・名前等)、既存の調査研究等を一切提供することなく、その同和教育に従事させた・・・、という事例も少なくありません。学校教師が自ら、被差別部落の親や子供と一緒になって、その歴史を掘り起こす・・・、という作業をしたのは、ほとんど例外的なのです。そして、仮に、そういうことがあったとしても、その実践事例、研究成果は、被差別部落の<地域性>に具体的に触れる・・・、として、その実践事例のレポート・報告は公表されないまま終わることも少なくなかったそうです。

今日、目を通した、山口県の「同和教育資料等調査専門委員会」が執筆編纂した論文集には、中国・四国地方の比較研究も含まれています。「穢多・非人」に関する衣類統制の比較研究もあります。ただ、この論文集、「本書からの転載・複写を禁じます」と注意書がしてあります。学術論文における引用については、特に、制限が設けられてはいませんので、筆者、関連史資料を検索するときの文献集として使用させてもらっています。各論文の執筆者の研究方法について、具体的に批判を展開することはありません。

この手の研究、山口県だけでなく、中国・四国地方の各県、各市町村の、教職員による専門委員会で実施されてきたそうですが、長年、同和教育を担当されても、その存在を知らない方は知らない、ご存知ないようです。

同和教育担当者を歴任された方々の中には、地域の部落史に直接触れることなく、部落解放運動の<プロパガンダ>役を担当させられた、また、みずから、それを引き受けられた方々も少なくないようです。

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2008年4月10日 (木)

●衣類統制の図式化の難しさ・・・

Test080410昨日夜、近世幕藩体制下の長州藩の支藩・徳山藩の衣類統制に関する史資料を、身分・階級毎に整理して図式化していましたが、試行錯誤の連続・・・。

左の図はその途中段階の図ですが、上は、「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山がいう「士一等」に属する33階級とその衣類統制の内容を筆者が整理して図式化したものです。

下の図は、「士一等」「妻女」に対する衣類統制を図示化したものです。衣類統制について、男女の違いがあるのは当然なのですが、徳山藩の「衣類定」が男女の区別をしているので別図にしました。

このような図式、「士一等」の中では、衣類統制における身分間の格差をうまく説明することができるのですが、日本史の一般説・通説・俗説に従って、「士農工商穢多非人」の枠組みで整理・図式化しようとすると、ほとんど作業は破綻状況に陥ります。

「士」の下に「農」・・・。

当然、そこには、一般説・通説・俗説でいう、「士農工商穢多非人」という、身分制度を実質化ならしめる、衣類統制上の区別・差別があったと推定されることになるのですが、「士」と「農」の衣類統制上の<区別・差別>・・・、明確に上下に<区別・差別>することは難しく、確認できるのは、相互に入り交じった複雑な関係です。一筋縄では、図式化することはできません。

ただ、無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者の解析能力のなさに由来するのかもしれませんが・・・。

『江戸時代の村人たち』の著者・渡辺尚志氏、『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の著者・成松佐恵子氏は、「士農工商」という身分制度に対応した衣類統制の枠組みを前提にして、地方文書の研究から、「男女とも、麻・木綿に限るといった衣服の規制は、野良着に関してならともかく、すでに守られていなかった・・・」と言及されますが、中国地方の小藩の衣類統制上では、元禄期(17世紀後半)すでに、衣類統制は破綻していたということになります。

破綻して・・・、19世紀後半まで、約200年間にわたって、近世幕藩体制下の身分制度が維持されてきた・・・、ということになりますが、筆者は、この説、それほど簡単に納得することはできません。

近世幕藩体制下の衣類の統制・・・、歴史学の学者・研究者・教育者は、相当無理な解釈をしてきたのではないかと思われます。

どうして、そこまでして、武士身分と百姓身分の<区別・差別>を図らなければならなかったのか・・・。近世幕藩体制下の史資料の内容を否定し、資料価値をうばって、闇から闇へと葬り去ってまで、「士農工商穢多非人」の枠組み、士>農・工・商>穢多・非人の階級の序列にこだわってきたのか・・・。

幕末・明治初頭・・・、諸藩の武士・百姓が入り混じり、それまで自藩の中でのみ了解していた身分制度が、諸藩の現実に触れ、比較することで、少なからず衝撃を受け、認識の変更をせまられたのではないかと思われます。下級武士よりも、豊かな生活をしている百姓の存在・・・。

近代になって構築された新たな身分制度、皇族・華族・士族・平民という枠組みを正当化するために、近代の学問・教育の世界に身を寄せていった旧下級武士(熊沢蕃山のいう「士一等」「下士」階級)は、近世にまでさかのぼって、歴史の解釈に手を加え、武士階級としての歴史上の位置づけを再評価、否、新しく創造していったのではないかと思われます。

近世幕藩体制下の衣類統制、中国筋の小藩・徳山藩ですら、最初から、「百姓」(百姓・町人)身分ですら、木綿・麻だけでなく、絹の着物を所有し、それを身にまとうことができる社会の中を生きていたようです。

筆者の目からみますと、地方文書の中に、「百姓」(百姓・町人)が絹の着物を所有し、それを身にまとう層がいたということは決して不思議ではありません。

もし、そうなら、近世幕藩体制下の、司法・警察である「非常民」としてその職務を担っていた「穢多の類」・・・、その衣類の中に、絹・紬の類が含まれていたとしても不思議ではありません。

関西大学の講義用のテキストである、上杉聰氏の『これでわかった! 部落の歴史』に、「日常生活を規制する差別法の形成」という項目があります。

「差別が制度となっている過程をかなり見てきましたが、やがて衣服や立ち振る舞いなど、日常的な生活レベルでの法制化へと進みます。・・・その結果、差別的な制度が次から次へと成立したわけですが・・・、そうした差別法を最初に確認できるのは、先にも述べましたが、1683年の長府藩(現山口県)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣類を着てはならないとういうものでした」。

長府藩は、日本海側に居城をかまえる長州藩が、中国筋に配置した支藩、4藩のうちのひとつです。

その「穢多」に対する衣類統制令が、近世幕藩体制下の「穢多」に対する最初の差別法令とは・・・?

上杉聰氏・・・、同じ1683年、長州藩本藩と支藩において「穢多の類」とされる人々の役務遂行のために、「加賀絹・丹後絹・郡内絹・日野絹・紬等」が認められている・・・という記録の方は、<無視>されます。「サヤ・チリメン・リンス・羽二重・綾」については「一切無用の事」とされていますので、絹の着物が許可されていたとしても、制限があるので、やはり<区別・差別>があったとして、不問に付されたのでしょうか・・・。

衣類統制令・・・、本格的に追究していけば、封建的身分制度の一般説・通説・俗説の見直しをはからざるを得なくなります。

筆者が、『部落学序説』執筆への最初のきっかけとなった、山口県教育委員会の同和教育主事による、近世幕藩体制下の身分制度理解と「穢多」の衣類統制の解釈の問題・・・、『部落学序説』の付論「百姓の目から見た渋染・藍染」についてながながと言及してきましたが、その結果見えてきたのは、筆者が、昔立ったことがある、『部落学序説』執筆への最初のきっかけ・・・、出発点でしかありませんでした。

部落史の学者・研究者・教育者による、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して使用される史資料の「恣意的」な操作の問題・・・、筆者が、『部落学序説』の<序説>に関心をもちはじめたのは、その<恣意性>にあります。例外事項として、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」になじまない史資料は、その歴史研究から排除・疎外されてきましたが、筆者、それらの史資料も内包することができるような理論・解釈として、『部落学序説』の「非常民論」・「新けがれ論」などの解釈原理を提示してきました。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々による、『部落学序説』とその関連ブログ群への「非難中傷・罵詈雑言」的批判・・・、『部落学序説』の<序説>の意味とその大切さを再認識させられただけで、ほとんどの<批判>は旧聞に属しいていて、学ぶところはありませんでした。

山口県の学校同和教育に携わっていた同和教育担当の教師の、差別事件の糾弾交渉の中で繰り返されてきた弁明以上のものではありませんでした。

筆者、本丸攻撃(「賤民史観」批判)に徹することにしましょう。

上の図で、(青色・藍色)と(柿色)は、身分にともなう職務遂行上、みにまとうことが要求された衣類の色です。徳山藩の衣類統制の中で、唯一、「色別」される事例です。(青色・藍色)と(柿色)を身にまとうことを要求されたのは、徳山藩の「穢多」ではありません。

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2008年4月 9日 (水)

●煩雑極まる、近世幕藩体制下の衣類統制・・・

昨日の夜、近世幕藩体制下の長州藩の支藩・徳山藩の衣類統制に関する史資料を精読していて、武士・33階級の階級間の衣類による<区別・差別>の煩雑さには辟易しました。

史資料に目を通しながら、徳山藩の、武士・33階級の階級間の衣類による<区別・差別>について筆者の理解を困難ならしめている原因は、戦後の同和教育・解放教育で主張されてきた、「士農工商穢多非人」という封建的身分制度の枠組み理解と、各身分間における衣類上の<区別・差別>の主張・・・ではないかと、あらためて、思わされました。

その典型的なものが、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者によって、十年一日の如く主張されてきた、衣類による<区別・差別>による封建的身分の固定・強化がはかられたとする説・・・。

徳山藩の衣類統制に関する史資料と、上記の部落史における<賤民史観>的枠組みとの調整を図ろうとすると、極めて煩雑な処理と批判検証を要求されることになります。

渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)、成松佐恵子著『庄屋日記にみる「江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)、筆者は、大いに参考にさせてもらっている論文ですが、「農民の衣類は木綿と麻に限られていたか」という問題設定、研究成果としての「村人が着用していた衣服が・・・木綿・麻に限られていたとは考えにくい」という推論、村人の質草としての衣類の検証から、「男女とも、麻・木綿に限るといった衣服の規制は、野良着に関してならともかく、すでに守られていなかった・・・」という結論の証明。

筆者・・・、今回、徳山藩の衣類統制に関する史資料を批判検証していて、渡辺尚志・成松佐恵子両氏とも、近世幕藩体制下の衣類統制に関する<現象>をあまりにおいかけ過ぎているのではないかと思われました。衣類統制の背後にある政治・行政<理念>の解明や、衣類統制令の法的解釈の徹底・・・を、おろそかにしているのではないかと、思わされました。

筆者、無学歴・無資格・・・、いわゆる歴史学者とは一面識もありませんし、当然、人間関係もありませんので、筆者の<相手>は、歴史学者の論文・書籍を批判検証の対象にするのみです。

筆者にとって、いい論文とは、最初読んだとき、<とてもすばらしい論文に見える・・・>、しかし、再読したとき、<その論文の限界と欠点が見える・・・>、しかし、何度か読み直していくときに、<その限界と欠点にもかかわらず、その論文の意図と目的が見える・・・>ようになり、筆者にとって、その学者・研究者・教育者から学びとった内容を言葉化することができるような論文・・・。

渡辺尚志・成松佐恵子両氏の論文は、筆者が今後批判するようなことがあったとしても、筆者にとっては、<いい論文>であることに違いはありません。

筆者の、誤解かもしれません。両書を精読しなおすことにします・・・。

昨日、徳山藩の衣類統制に関する史資料を読みながら、それを個々別々に列挙したり、自分で十分批判検証をすることができず、史資料を読者に丸投げするのも見苦しいので、なんとかそれを図式化できないものかと、悪戦苦闘していたのですが、礼拝堂の窓が朝の光がさしこむころ、筆者のこころの目に、幕藩体制下の小藩・徳山藩の衣類統制の全貌がくっきりと姿をあらわすようになりました。

衣類統制の<煩雑さ>が縮減されて、その背後にある衣類統制の本質が見えるようになってきました。

『部落学序説』は、インターネット上での書き下ろしです。書き下ろしの最先端は、いつも、古くて新しい事実に直面させられます。腹の底から、グーッと、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆継続の意欲が沸き上がってきます。

いままで、いろいろな史資料を提供してくださった、日本文化史研究者の方に、もし蔵書しておられるなら、『徳山市史』の史資料編を提供していただけるよう、お願いすることにしましょうか・・・。筆者、解析するときは、史資料に<暴力>(色別・メモ・切取)を加えますので、本の價値はゼロになってしまいますが・・・。

しかし、徳山藩の衣類統制だけが例外なのではありません。同じ、近世幕藩体制下において幕府の出す御触・御法に基づいて諸藩の衣類統制が行われていますので、日本全国どの藩においても同種の史資料は多々存在するものと思われます。いままで、学者・研究者・教育者によって、本格的に研究対象になってこなかっただけです。

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2008年4月 7日 (月)

●夜、「衣類定」に関する史資料を読む・・・

左目がかすみめになったにもかかわらず、筆者、日曜日の夜は、近世幕藩体制下の諸藩における「衣類定」に関する史資料を再読していました。

昔、かすみめとは無縁の時代、徳山市立図書館の郷土史料室で、徳山藩の「穢多」と衣類の関係について、文献を集めたことがありますが、今回、それを再読しました。

「衣類定」について、史資料のあること、あること・・・。

徳山藩の「家臣の階級は、家老以下の三十余級から成っている」そうですが、その階級ごとの「衣類定」をすべて確認しました。もちろん、近世幕藩体制下の司法・警察であった、徳山藩の「穢多」に対する「衣類定」についても・・・。

驚いたことに、徳山藩にも、<藍染>・<渋染>の強制に関する文書が残っているではありませんか・・・。強制されたのは、徳山藩の「穢多」ではなく、徳山藩の家臣33階級のある階級に対して・・・。

かすみめが直ったら、『部落学序説』の「百姓の目からみた渋染・藍染」の続きで、徳山藩の武士階級の<種類>・<祿高>・<上着に関する統制>・<下着に関する統制>・<夏服に関する統制>・<妻女の衣類に関する統制>・<召使下女の衣類に関する統制>について、精察の上、一覧表にして紹介させていただくことにしましょう。

そして、百姓身分の衣類統制についても・・・。

岡山藩の史資料の中にも、徳山藩同然の史資料が存在していると思われますが、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々・・・、自分で、それらの史資料を読んでこられなかったのかもしれません。自分で、史資料を読んで、自分で分析していれば、戦後の「渋染一揆」<捏造>の過ちに加担することはなかったでしょうに・・・。

筆者の手元には、紀州和歌山藩の衣類統制の実態を示す史資料も存在します。

衣類というのは、人間の生活の基本的要素である衣・食・住のひとつですから、衣類に関する、あるいは、衣類統制に関する史資料は決して少なくはないのですよね・・・。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々・・・、あまりに関連史資料が多すぎて、一般説・通説・俗説に乗っかってこと足れりとして、自分で、その関連史資料を読んで批判検証をされることななかったのでしょう・・・。残念といえば、残念な思いがします。

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2008年4月 1日 (火)

●パソコンの前に座ったとたん、眠ってしまった・・・

昨日の夜は、「百姓の目からみた渋染・藍染」の続きを執筆する予定でした。

「岡山藩」の藩政に関する史資料にみられる「倹約」(「倹約令」の「倹約」)の4種類の意味について言及する予定でしたが、パソコンのスイッチを入れ、ココログにアクセスしたまま、眠ってしまいました。

目が覚めたのが、なんと朝の5時過ぎ・・・。

その間、約6時間・・・、筆者、一坪の書斎の椅子に座って寝てしまったのです。妻が独身時代に使っていた30年前の電気ストーブをつけていましたので、風邪を引くことはありませんでしたが、昨日、根をつめて庭の手入れをしたのが疲労の原因のようです。

「岡山藩」の史資料に出てくる4種類の「倹約」・・・、藩主・池田光政が考えていた「倹約」はその4種類のうちの1つのみです。当時から、すでに、「倹約令」の「倹約」を誤解する向きがあったようですが、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くは、池田光政の考えていた「倹約」の意味を忘却してしまったようです。

そして、当時すでに存在していた「倹約」の趣旨の誤解の上に立って、渋染一揆論を構築していきます。「倹約令」は、「贅沢禁止令」・「貧困強制令」などと・・・。

「岡山藩」の「史資料」にもとづいて、「倹約令」の目的・意味と、その実践事例、そして、それが、「渋染一揆」の原因となった「倹約御触書」にどのように表現され、「藩民」によって誤解されていったのか、少しく言及していきたいと思います。

といっても、今日、その時間をさくことができるかどうか・・・。

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2008年3月22日 (土)

●徳川家康、「藍染」を愛用す・・・

以前、この『田舎牧師の日記』で、《徳川家康、「渋染」を愛用す・・・》という文章を掲載しましたが、読んでくださった読者数は18名・・・。

今回、その姉妹編として、《徳川家康、「藍染」を愛用す・・・》を掲載することにしました。

筆者が、「文献民俗学」の資料としてよく引用する、喜田川守貞著『近世風俗志』に、将軍を隠退後の徳川家康が身にまとっていたという衣類の話が出てきます。

喜田川守貞、『事跡合考』からの引用のようですが、隠居となった家康、「浅葱染の御小袖に小倉織の木綿の御合羽織」を身にまとっていた・・・、そうです。

当時、「木綿」「小倉織」は、<藍染>に染められるのが一般的でした。木綿に藍染めがよくあっていたということですが、徳川家康の身にまとっていた「小倉織の木綿の御合羽織」も<藍染>、しかも濃い<藍染>(紺)ではなかったかと推定されます。

一方、「小袖」「浅葱染」というのは、薄い<藍染>(水色)ですから、徳川家康、薄い藍染の着物に、濃い藍染の羽織をはおっていた・・・、ということになります。藍染尽くしの装いです。

その「御供の女中」、徳川家康が、<木綿藍染>の衣類を身にまとわれるので、同じく、<絹>ではなく、木綿の衣類を身にまとってお供したとか・・・。

近世幕藩体制下の「貴賤」というのは、関係概念ですので、元将軍・徳川家康が<木綿藍染>を身にまとっているときは、彼に仕える人々は、その衣類についても、相対的に「賤」を演出する必要があったのでしょう。

喜田川守貞、「徳川家康の召させられしと云ふ小倉羽織は、近年、雇夫など小民の用となりて、それも今は廃れて・・・」といいます。天保期の喜田川守貞、<木綿藍染>を愛用した徳川家康のことに思いを馳せながら、「古の質素、想像すべきことなり。」といいます。

幕末期においては、隠居した元将軍が、「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山がいう、「庶人の官にあるのたぐひ」が身にまとっていた<木綿藍染>を身につけるということなど、想像することができなかったのでしょう。元禄期において、徳川家康の質実剛健・質素倹約は、過去のものだったようです。

「岡山藩」の特産・備前木綿は、藍染の小倉織・・・。

「岡山藩」の「渋染一揆」を起こした「穢多」たち、なぜ、徳川家康が愛用した、「渋染・藍染」を身にまとうことを拒否しようとしたのか・・・。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々の研究にもかかわらず、そのほんとうの理由は未だに不明確なまま・・・。

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山は、「士一等」の着る衣類は「絹」・・・、「庶人一等」の着る衣類は「木綿」・・・と、堅く信じてやまなかったようです。本来は「庶人一等」に属しながら、「官」(「役務」)を拝命しているがゆえに「士一等」に与せられていた「岡山藩」の「穢多」・・・。その意地がそうさせたのでしょうか・・・。

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2008年3月21日 (金)

●今日も一日、庭の手入れ・・・

今日も一日、庭の手入れをすることになりそうです。

簡易温室の中の花の苗、すべて戸外に出しましたが、まだ、花壇やお花畑に移植してやらねばなりません。

それに、3月に種をまいたり、球根を植え付けたりしなければならないものもありますので、作業は大変です。庭に咲いたきれいな花を見たり、主日礼拝の生花としてささげるのはいっときですが、そのためには、時間と労力が必要です。

筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、この花を育てる作業によく似ています。書かれた文章を読むのは、わずかな時間ですみますが、書くための準備と作業には、相当時間と労力を奪われます。

しかし、日毎に増えるアクセス数と読者数・・・。

昨日は、国民の祝日とあって、アクセス数は1260、読者数は435でした。平日の昨々日は、アクセス数958、読者数421でした。この1週間の平均アクセス数は1207、平均読者数は446でした。

筆者は単純ですので、『部落学序説』とその関連ブログ群を読みに来てくださるだけで、しあわせです。

新しい文章を書いて、それが読者の方々によって読まれるようになるには、相当時間がかかります。「百姓の目から見た渋染・藍染」についても同じことがいえます。今は、アクセス数も読者数も僅少ですが、読者の方々に受け入れられるようになりますと、何ヶ月後にアクセス数・読者数とも増加します。

ブログ『ジゲ戦記』に、「止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい。」ということばがありましたが、部落史の学者・研究者・教育者は、まさにそうです。「止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい」。

特に、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々についてはこのことばがぴったりあてはまります。「止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい。」

ただ、「同和教育」の名を借りた「差別教育」だけは早急に撤回していただきたいですね。いまだに、「被差別部落の人々」の歴史を、「賤民」と位置づけて教育するなんて、犯罪行為に等しいものです。

教育者の名がすたります。

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2008年3月19日 (水)

●岡山藩の部落史に関する文献を読み直す・・・

今は、雨が降っています。

教会の前の道を通る車が、水しぶきをあげて通っていく時の音が聞こえてきます。

小鳥の鳴き声はほとんどなく、<退避場>で休んでいるのでしょう。

昨日の夜から今朝にかけて、筆者、岡山藩の部落史に関する資料を再読していました。といっても、無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者は、<岡山藩>領地から遠く隔たった地に身を置いていますが故に、岡山藩の部落史に関する、手持ちの資料は極めて僅少です。

そのため、筆者は、手持ちの資料を何度も何度も繰り返して読み、精読いたします。そして、ついには行間をさへ読むことになるのですが、昨日の夜から今朝にかけて読んだのは、岡山藩の初期の御用学者・熊沢蕃山の『集義和書』と『大学惑問』、柴田一著『渋染一揆論』、同《徳川幕府の部落改宗政策と部落民衆の拒否闘争-幕府・岡山藩・部落民衆の関係》、横山勝英著《全体社会から見た部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》・・・等です。

熊沢蕃山の『集義和書』と『大学惑問』は、「岡山藩」の藩政初期の統治理念を確認するため、横山勝英著《全体社会から見た部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》は、ややともすると閉鎖的・独善的な研究になりがちな「渋染一揆」の研究的視野を広範に拡大するため・・・。

いずれも、従来の「岡山藩」の「渋染一揆」研究に際しては、ほとんど評価されてこなかった史資料です。

雨の日がもたらしてくれた、静かな自己研鑽のとき・・・。

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2008年3月13日 (木)

●新井白石と藍染の捕縄・・・

『折りたく柴の木』に、新井白石が、17~18歳のとき、その父に叱られた・・・、話が出てきます。

新井白石の父は、新井白石に向かって、「かほどのわきまへなからん年齢にもおはせぬものを・・・」と辛辣なことばを投げかけます。

「わきまへ」というのは、『部落学序説』の筆者が指摘する「常民」・「非常民」、あるいは、「非常民」においても、「軍事」・「警察」の区別のことです。

新井白石は、その父から、武士は「軍事」に関与するけれども、その職務についていないときは「警察」に関与すべきではない・・・、というのです。「すべてもののふのわざは、何事も心得べき事勿論也。されど、人はほどほどにそのつけてなすべきわざと、なすまじきわざとある事也」。

白石は、その父から、「すべて武士のなすべきわざは、なにごとも心得ていなければならないこと、いうまでもない。しかし、ひとには、身につけて、それを実践していいわざと、実践してはいけないわざがある・・・」と叱られたのです。

それは、新井白石が、懐中にしのばせていた「とり縄」を、その父の前で落としたことに端を発します。「とり縄」というのは、「人を捕えてしばるのに用いる縄」のことです。犯人を捕縛するのは、「同心」・「目明し」・「穢多」・「非人」などの役です。

その「とり縄」「青き糸を細く組ませて、其末にとりかぎといふものをつけし・・・」ものです。「青き糸」・・・、それは、藍染の糸ということでしょうか・・・。

享保・文化・文政のころ、「捕縛四季弁色の制」というのがあって、「とり縄」は、青・赤・白・黒・黄の各色が季節ごとに決められていたそうです。幕末期は、南町奉行所同心は「青色」、北町奉行所同心は「白色」の「とり縄」を使用したそうです。「伝馬町牢獄関係は紺色染め」の「とり縄」を使用していたそうです。

その藍染の「とり縄」・・・、本来は、新井白石の持ち物ではなく、その父の持ち物でした。新井白石の父が「目付役」をしていたとき、その職務上、警察権を発動して、犯罪者を逮捕しなければならないときがあったそうですが、常に、藩主から拝命した職務については怠ることがなかった新井白石の父は、部下の「同心」・「目明し」・「穢多」・「非人」が、捕縛の際に必要な「とり縄」を持っていない場合を想定して、いざというときに、彼らにそれを渡すために、「燧袋」に入れて常時携帯していたというのです。

しかし、新井白石の父、「目付の役」を返上したあとは、その「とり縄」は必要なく、それを、「猫のつな」として用いていたというのです。

新井白石の父は、白石に、「すべてもののふのわざは、何事も心得べき事勿論也。されど、人はほどほどにそのつけてなすべきわざと、なすまじきわざとある事也。」といさめたというのです。

新井白石の父は、藩主から、捕縛の職務を与えられていない限り、たとへ、武士であったとしても、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、「同心」・「目明し」・「穢多」・「非人」の所作をしてはならない・・・、というのです。

元服を過ぎて、大人の仲間入りをして、2~3年の歳月が過ぎた白石に、「とり縄は、「わぬしの身に随ふべき物にはあらず。」として、「これほどの分別がつかない年齢でもあるまいに・・・」とこごとを言ったというのです。

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2008年3月 9日 (日)

●「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史資料をチェック・・・

今日の夜は、手持ちの、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史資料のチェックと通読です。

自分でいうのも変ですが、筆者は、無学歴無資格、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する研究では、まったくのしろうと・門外漢なのですが、それにしても、関連史資料の多いこと・・・。

これまで、『部落学序説』の付論「百姓の目から見た渋染・藍染」で論じてきたことを、「岡山藩」の史資料で一応確認、ほぼ間違いないので、論考を続けることにしました。

筆者、柴田一著『渋染一揆論』に出てくる、「宝永3(1705)年」の「31品目」の内容を知りたかったのですが、手持ちの資料の中にやっとそのリストを見つけることができました。

柴田一氏、「31品目」について言及しながら、そのすべてを公開せず、「・・・等」で、まとめてしまいます。

無学歴・無資格、歴史学の素人、「渋染一揆」研究のしろうとである筆者は、以前から、その「・・・等」が気になっていました。柴田一氏は、その「・・・等」という表現で、その論文の読者を大切なことがらから遠ざけているのではないか・・・、と懸念していたのですが、今回、そのことを確認することができました。

「・・・等」を考察することによって、筆者、「岡山藩」の「穢多」が、藩によって容認されていた、当時の司法・警察である「非常民」としての職務に伴う反対給付としての「特権」を「観察」(「かんざつ」と読む、仏教用語で、現象を考察して本質にたどりつくこと)することができるとの確信を強くしました。

「岡山藩」の「倹約御触書」の釈義をすると宣言して、かなり日数が経過しますが、全29箇条の逐語解説が可能になりつつあります。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々の、「倹約御触書」に対する釈義、解釈学の徹底の甘さ・・・、それが、「渋染一揆」研究を大きくミスリードしてきたのではないかと思わされます。「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々・・・、いたずらに、「倹約御触書」の各箇条に対して、差別思想である「賤民史観」的解釈を読み込み過ぎた可能性が濃厚です。

一旦、差別思想である「賤民史観」にとりつかれると、そこから脱却することは難しいのでしょうね・・・。戦前の皇国史観ととりつかれた教育者がそこから自由になれず、教え子を営々と戦場へと送り出したことに類似しているような気がします。

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2008年3月 1日 (土)

●昨日はひさしぶりに熟睡・・・

昨日は、ひさしぶりに熟睡しました。

今朝は、目のかすみは、少し和らいできました。

少しよくなると、すぐパソコンの前に座る筆者ですが、今朝は、『部落学序説』の1文書あたりのアクセス件数を出してみました。

被差別部落の地名とタブー  9033件
ある同和対策事業批判  1330件
部落学序説  786件
紀州藩「城下町警察日記」を読む  151件
田舎牧師の日記(Ⅱ)  62件

筆者が各文章、読者の方々が読みにきてくださるのは、部落差別問題関連記事です。教会・花・野菜・小鳥の話は、極少数の方々のみ・・・。

部落差別問題関連記事で、読者数の多いのは、以下の順です。

部落差別問題の現代>近代>近世>中世>・・・

執筆の主題が、中世よりも近世、近世よりも近代、近代よりも現代を主題にしたものの方が読者数が多いようです。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史学的研究ではありません。非常民に関する学としての「部落学」という、新しい枠組みで執筆されていますが、現在のところ、近世から近代へ、近代から現代へ・・・、と主題の時代的範囲を拡張していますが、現在は、その流れと逆行して、近世と近代のはざまに戻って、「百姓の目から見た渋染・藍染」について執筆しています。

アクセス件数をみすみす減少させる営みです。

しかし、これまで、『部落学序説』で紹介してきた視点・視角・視座、方法で、「岡山藩」の「渋染一揆」をとらえたらどうなるのか、その実践事例として言及するのも悪くはないかな・・・、と思って、執筆を続けています。

筆者の手元にある、部落差別問題関連資料は、現代>近代>近世>中世>・・・の順番ですから、ひとつの文章を書くために確認しなければならない資料は飛躍的に増えます。その資料を批判検証するためには、近世のテーマについて言及する以上に、執筆者の視点・視角・視座を明確にしなければなりません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に<破壊>・・・、するためには、膨大な時間と労力が必要なようです。

吉岡幸雄著『日本の色を染める』に記されているように、「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・。「貴色」・「賤色」という発想は、外来思想である中国の悪しき文化に汚染された古代天皇制の残滓でしかありません。「日本の色・・・」、それはどの色も美しい・・・、のと同様、すべての「ひと」は、美しい・・・。そこに、本質的に「貴人」・「賤民」と呼ばれるような人が存在するはずもありません。

それぞれの時代の支配階級が、自分の都合のいいように制度化したに過ぎません。

現代の「被差別部落」の人々は、その先祖の歴史にまでさかのぼって「賤民」として、部落史の学者・研究者・教育者からラベリングされることを黙って容認してはならない、差別思想である「賤民史観」という、一見、「被差別部落」の人々を「勦るかの如き・・・」教説は、「多くの兄弟を堕落させた・・・」教説であり、差別的な部落史の学者・研究者・教育者によってはきかけられた「クダラナイ嘲笑の唾・・・」に過ぎず、「呪はれの夜の惡夢・・・」に過ぎない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者によって押しつけられた「賤民」としての「烙印・・・」を投げ返さなければならない。「被差別部落」の人々は、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な思想「賤民史観」を受け入れ、「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ・・・」・・・。そして、「被差別部落」の若い世代が、「人生の熱と光」を持って生きることができるよう、差別思想である「賎民史観」を葬り去り、民衆と共に差別なき新しき社会をつくろう・・・。被差別部落の人々を差別の奈