●部落差別問題との取り組みを継続できるための要因・・・
某市人権課の課長さん・・・
礼拝後の茶話会のとき、そのあとの筆者との質疑応答のとき、くりかえし、筆者に尋ねてこられたことがあります。
それは、「どうして、いままで部落差別問題との取り組みを継続できたのか・・・」、その理由をしりたいというもの・・・。
筆者、思いつくことを列挙していったのですが、その係長さん、「それは、ブログで読みました。それ以外に・・・」と言われます。筆者、さらに、言葉を重ねたのですが、その係長さん、「それも、ブログで読みました。もっと根本的な理由をしりたい・・・」といわれます。
たたみかけてくるように問い続ける係長さんの姿を見ていて、筆者、高校1年生のとき、高校2年の先輩に連れられていった現代国語の教師・落健一先生のことを思い出していました。先輩たちの語ることばに、「なぜ?」、「なぜ?」・・・、と問い詰めていき、先輩たちから本音を引きずり出す技法を・・・。
係長さん、その目的を達したかどうかはわかりませんが、筆者、昨晩、考えていました。
日本基督教団西中国教区の小教会に赴任して27年目・・・、最初の8年間は、設置されたばかりの西中国教区部落差別問題特別委員会の委員をしていましたが、その委員を辞退してから今日まで18年間、ずーっと部落差別問題との取り組みを継続してきました。そして、その取り組みを総括・集大成する意味で『部落学序説』(ココログは、1つのアドレスで10個のブログを構成できますので、『部落学序説』とその関連ブログ群とよんでいます・・・)の執筆をはじめましたが、被差別部落出身でもなく、部落史の学者・研究者・教育者でもない筆者が、部落差別問題とかかわり続けることができた理由をあらためて考察してみました。
その理由1
筆者、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員をしていたとき、委員長・宗像基牧師の要請で、西中国教区部落差別問題研修会で、<賀川豊彦の差別性について>発題することになりました。
筆者が洗礼を受けた端典組合教会の<役員会室>(茶室が3つもあるような大きな庄屋の屋敷なので、いろいろな部屋がありました・・・)には、賀川豊彦直筆の額がかかげられていました。筆者にとっても、賀川豊彦は尊敬すべき牧師であったのですが、宗像基委員長から、委員会として<賀川豊彦の差別性について>発題するように求められたのです。
しかし、筆者、賀川豊彦については、小冊子しか読んだことがありませんし、賀川豊彦とは一面識もありません。端典組合教会で信仰生活をしていたとき、高梁市巨瀬の難波孝子姉のお宅で教会学校の夏期学校をさせていただいたとき、賀川豊彦の立体農業の影響を受けて、立体農業をしている基督者農家の方々を尋ねて話をお聞きする機会があたえられました。それで、賀川豊彦に尊敬の念をいだくようになり、日本基督教団の牧師になるために、賀川豊彦ゆかりの農村伝道神学校で勉学することにしたのですが、その神学校を出た筆者に、宗像基委員長は、<賀川豊彦の差別性について>発題しろ・・・、というのです。
そこで、筆者、差別文書として問題になっている『賀川豊彦全集第8巻』(貧民心理の研究などを含む)をはずして、第8巻はそのとき絶版にされていて筆者読むことができませんでしたので、第8巻をのぞく23巻を読んで発題することにしました。
当然、差別文書といわれるものは第8巻のみに限定されていて、部落解放同盟は、その第8巻の絶版のみを求めてきたので、他の23巻には問題がなにもない・・・、という前提で、しかも、そのことを通して<差別者・賀川豊彦>とは異なる<賀川豊彦>像を描くことができるのではないか・・・、という予測のもとに通読していったのですが、しかし、筆者が遭遇したのは、賀川豊彦のすべての文書、戦前・戦後を通じてすべての文章に滲み出ている<優生思想>でした。
筆者、賀川豊彦の差別性の背後にあるのは、賀川豊彦が青年時代に大きな影響を受けた<時代思潮>のひとつ<優生思想>に由来する・・・、と判断して、発題をしたのですが、筆者の発題を聞いた方々からの反響は大きなものがありました。
「若僧の分際で、教団の指導者のひとりの差別性を論じるなどもってのほか・・・」として、筆者、賀川豊彦を批判したということで、西中国教区の牧師・信徒から、<批判>に対する<批判>・・・、というより<批判>に対する<非難>を受けるようになりました。そして、山口東分区の先輩牧師たちからは徹底的に排除・疎外され、西中国教区の宣教活動から一切しめだしをくらうことになりました。筆者に対する宣教活動からの排除・疎外はいまでも続いていますが・・・。
筆者に、<賀川豊彦の差別性について>、発題をもとめてきた当時の西中国教区の部落差別問題特別委員会委員長の宗像基牧師ですら、そのことで筆者を批判するようになっていきましたから・・・。
そのとき、筆者、はじめて、<批判を許さない>人々の存在を知らされたのです。
<世の中には、批判すべからざる人がいる・・・、そのひとを批判することは、不特定多数の人々から逆批判を招くことになり、疎外・排除に直面させられる場合がある>・・・、という教訓を身をもって学ばさせられることになったのです。そのとき、筆者の頭を過ったのが、内村鑑三の姿でした。戦前も戦後も、明治も昭和も、基督者の体質は、ほとんどなにも変わっていないのではないか・・・、その衝撃は決して小さなものではありませんでした。
その理由2
日本基督教団の、<社会派>・<福音派>、いろいろな教派の別を越えて存在する、<批判>を許さない、筆者の目からみますと、<偏狭>なひとびとと違って、<批判>を受け入れことができる、こころの広さを持ったひとびととの出会いが、2番目の理由です。
それは、筆者が、部落差別問題特別委員会の委員として活動していたときに、偶然であった、部落解放報同盟新南陽支部の支部長さんのことです。
あるとき、支部長さんが筆者にこのような話をもちかけてこられました。筆者に、その被差別部落のことについて調べてほしい・・、というのです。部落差別についてほとんど何も知らない筆者のようなものが、その被差別部落について調べようとしたら、どこまで調べることができるか・・・、知りたいといわれるのです。
支部長さん、それまで、他の人に同じような話をされたことがあるそうですが、支部長さんの話しでは、学者・研究者・教育者の方々は、<さしさわりのないことだけを報告して、さしさわりのあることは報告してくれない・・・>と言われます。それで、支部長さん、<調べたことは、良くも悪くも、すべてそのまま報告してほしい・・・>といわれるのです。
最初、筆者、支部長さんの申し出をお断りしました。当時の、西中国教区の部落差別問題特別委員会の共通認識としては、「部落の歴史を調べることは差別である」という認識があったためです。しかし、支部長さん、「あなたは、ほんとうに部落差別についてなにも知らないようなので、あなたのような人に是非調べてもらいたい・・・」と力説されるので、筆者、その被差別部落の歴史を調べることにしました。
そのとき、支部長さん・・・、<調べているときに、差別発言・差別行為として指摘されるようなことがあれば、こちらで善処しますので、その方面は心配されることはありません>と言われます。
しかし、筆者、しらべはじめてすぐ分かったのです。学者・研究者・教育者の多くは、調べた結果、<その被差別部落が差別されていたということを証拠だてると思われるようなことばかりを報告して、部落差別解消につながるような資料については一切報告してこなかった>ということが・・・
筆者は、約束通り、徳山藩の<穢多>の身分的位置付け、徳山藩の<穢多>の役務と家職、徳山藩<穢多>の役人としての給与明細、徳山藩<穢多>の司法・警察官としての勤務状況、その被差別部落の頭・<穢多頭>の名前、徳山藩の<穢多医者>の名前、徳山藩の<穢多>の配置形態、徳山藩の<穢多>の通婚圏、徳山藩の<穢多>の旦那寺・・・、いろいろな資料で遭遇した、その被差別部落の歴史の事実を伝えることになりました。
筆者、無学歴・無資格、歴史学の門外漢です。その筆者ですら、読むことになるこれらの史資料・・・、高学歴・高資格を持つ学者・研究者・教育者の方々がその存在について気付かないことはありえません。彼らは、調べた結果、現代の被差別部落のひとびとを<賤民>としておとしめる資料ばかりを提供して、被差別部落の人々の先祖のほんとうの歴史を物語る史資料を被差別民衆の目から隠してきたのではないか・・・、その衝撃も、決して小さなものではありませんでした。
これが、2番目の理由です。
その理由3
筆者が、部落差別問題との取り組みを続けてこれた理由の3番目は、部落差別問題特別委員会の委員を引き受けるかどうか、新南陽市の被差別部落の学習会に陪席することについての是非について、賀川豊彦の差別性について発題することの是非について、・・・、筆者が部落差別問題と取り組み、やがてその総括として『部落学序説』を執筆することになるすべての経過について、教会の役員会、礼拝後の茶話会などで話し合ってきたことがあげられます。
部落差別について論じるときに、まず、筆者と同じく、日本基督教団の部落解放センターの活動家の目からみますと、差別者でしかない筆者と教会の信徒の間で話される部落差別に関する話題・議論・情報交換に<タブー>を持ち込まなかったことが特筆されるべきではないかと思われます。
<タブー>・<禁忌>にまみれた知識・情報をただ蓄えるだけ・・・、というのは、とても<しんどい>作業になります。どんなにがんばっても数年ともたないでしょう。
筆者にとっては、下松愛隣教会の中での部落差別問題に関する話し合いは、部落解放運動家によって<差別者>とラベリングされる側の<見解>を知る機会になりましたし、部落解放同盟新南陽支部の被差別部落の人々との交流は、部落解放運動家から<被差別者>とラベリングされる側の<見解>を知ることになりました。
筆者は、両者の<見解>のつきあわせと検証を常日頃からくりかえしてきたのです。
思想とか運動とか、そのイデオロギーに凝り固まった、部落差別に関する知識を受容する・・・、ということには一線を画して、<差別者>の視点・視角・視座からみた<被差別者>、<被差別者>の視点・視角・視座からみた<差別者>の姿を実証的に認識しようとしたのです。
日本基督教団下松愛隣教会の信徒の方々は、公務員の方々がおおく、多くの場合は、近世幕藩体制下において<庄屋>格の家柄が多く、民俗学者・柳田國男が指摘し、筆者が継承している<非常民>の範疇に入る彼らとの史実の共同検証・・・、そういう環境が与えられたということが、第3番目の理由です。
そして、この3つの理由の背後にあるのが、中世・近世・近代・現代を通じて、地下水脈のごとく流れている<穢多>と<キリシタン>の関係・・・、<特殊部落>と<基督教社会事業>の関係・・・。この、話をしたとき、某市人権課の係長さんは、筆者に、「どうして、いままで部落差別問題との取り組みを継続できたのか・・・」と問うことをやめられました。
<正しく問いかけることは正しい答えを手に入れることができる>・・・、ほんとうかもしれません。
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