●「部落史の学者・研究者・教育者」という表現・・・
『部落学序説』とその関連ブログ群の文章の中でよく使用する言葉に、「部落史の学者・研究者・教育者」という表現があります。
戦後の同和対策審議会答申以降の同和教育に携わってきた知識階級・中産階級に属する人々の総称として、この表現を使用しているのですが、「学者・研究者・教育者」という表現・・・、インターネットで検索してみますと、決してめずらしい表現ではなさそうです。
ただ、「学者・研究者・教育者」の3概念の定義については、いろいろな見解があるようです。
3概念を用いて、「学者は研究者 and 教育者である」と定義する方々も少なくないようです。「学者」は、大学等の高等教育機関において<研究>をすると同時に、その研究成果を学生に<教育>することになりますので、「学者」を定義する場合に、「研究者」・「教育者」はその属性になります。
しかし、中には、「学者は、研究者 and 教育者である」という定義を否定する方々もおられます。理由は、「学問」と「政治」との関係について考察するとき、その命題には、二様に解釈されることになります。
というのは、「教育者」というのは、小中高の教師について考察すればすぐにわかることですが、国家の文部科学行政の枠組みの中に置かれた存在です。小中高の学校教師の資格そのものが公的資格であるし、その教師としての指導方法・内容は、教師の恣意性に委ねられているものではなく、教科書検定制度のよって公的承認を受けた教科書を使用して、学習指導要領に基づいて、教育を実践することが義務づけられます。
つまり、「教育者」というのは、国家権力による国民教育の機関として存在するのであって、「教育者」であること、そして、「教育者」として「教育」すること・・・、それ自体が極めて政治的な営みであるということができます。
そのため、「学問」の政治からの中立を主張する人々は、「学者」の属性から「教育者」をはずして、「学者は研究者である」と定義します。「研究者」であることは、政治から自由であることを内包し、「教育者」であることは、政治に拘束されていることを内包するということを意味するのでしょうか・・・。
「学者」という概念は、今日、さらに「研究者」という属性すら切り離されてしまう場合があるようです。修士・博士の資格を持ち大学等の高等教育機関において教授・准教授・講師などの高等教育にたずさわっているひとびとを指し、「研究者」であることを求められなくなったひとびとの存在が、「学者」という概念を変質させていっているのでしょう。
筆者が、「学者・研究者・教育者」として想定している人々は、戦後の部落史研究に関与し、国の同和対策審議会答申に沿って、小学校・中学校・高校・大学等で同和教育に関与してきたすべての人のことです。その総称として、「学者・研究者・教育者」と表現しているのですが、『部落学序説』とその関連ブログ群の文章で、筆者、繰り返し指摘している通り、「教育者」だけでなく、「学者」・「研究者」も極めて、それぞれの時代の「政治」と深く結びついていると考えています。
「学者・研究者」と「教育者」の「政治」との関係・癒着は、五十歩百歩です。
その点、無学歴・無資格の筆者・・・、部落史研究の学者・研究者・教育者が拘束されているような研究上の枠組みとは無関係です。また、運動団体の基本方針・運動方針とも無関係です。さらにいえば、被差別部落の人々とその生活、闘いからも自由です。常民の視点・視角・視座から、非常民としての「穢多・非人」を見直す・・・、と宣言して『部落学序説』の執筆を開始してます。基本的には、非常民の側の史資料によってではなく、常民の側の史資料によって、「穢多・非人」、「新平民」、「特殊部落民」、「未解放部落」、「被差別部落」、「同和地区住民」、「被差別民」の歴史と本質を明らかにしようとしています。
現代の警察官を、その内部の史資料を一切使用しないで、一般に公開された史資料のみで論究する様に似ています。
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