●筆者の「農」との出会いの原点・・・
筆者の「農」との出会いの原点・・・
それは、三一書房から出されていた『講座・農を生きる』(全5巻・1975)です。
日本基督教団・農村伝道神学校に入る前に、筆者が読んでいた農業に関する書物というのは、岩波新書とこの講座ぐらいですが、この講座、「農業のありようがはじめて明かす人間生活の原点」という副題がつけられています。
第1巻:農業の論理とは何か 近代化と農民
第2巻:”たべもの”を求めて 食料危機と農民
第3巻:”土”に生命を 農法と農民
第4巻:”むら”でどう生きるか 共同体と農民
第5巻:歴史をふまえて 主体性と農民
農村伝道神学校で、この『講座・農を生きる』を発展させることができるはずだったのですが、筆者、農村暮らし、あるいは、農家の生活を経験したことがあまりにも乏しくて、教授・先輩から、農村伝道に向いていないと烙印を押され、農村伝道を断念せざるを得ませんでした。「農村伝道は、馬鹿にはできない・・・」(無学歴・無資格に農村伝道はできない・・・)。
1980年10月13日付けの朝日新聞学芸欄に、「稲は強し・青森の農家よ、友よ、強く生きてくれ」という作家・倉光俊夫氏の文章が掲載されていました。その中にこのような言葉がありました。
「たくさんの農家のなかには米作りが、すでにデータを入れれば答えが出てくるコンピューターでできるかのように錯覚しているひとたちもいることを僕は否定しない。しかし本当の意味で「百姓」と呼ばれるに値するようなひとたちがいなくなったわけではない。・・・青森には僕は友人が多い。それらの農家よ、友よ、この稲を見よ。そして強く生きてくれと、願わずにはいられないのだ。米は日本の心だと思っている、僕は古臭い明治の人間だから」。
1980年といいますと、NECから8ビットのパソコンPC-8001が発売された次の年です。基本セットで100万円を超えた時代です。しかも、それを農業経営に実際に役立てようとすると、プログラミングからはじめなければならないという時代・・・、農村伝道神学校の農業実習の経験では、ほとんど農村が直面している現実に対応することが不可能であったことも、筆者に、農村伝道を断念させるに十分でした。
しかし、当時の農村伝道神学校の教授たちの反対を押し切ってでかけていた三里塚・・・、近代農法ではなく、有機農法に徹する反対農民のものの見方考え方に、筆者、否定しがたい影響を受けました。ほんとうの「百姓」が、いのちをかけて作り上げてきた農地を、近代的な<豊かさ>を象徴するコンクリート漬けの滑走路にすることは大いに疑問を感じていました。三里塚の「百姓」の、有機農法への援農に参加することで、筆者、近代農法とは別の農法、自然農法を実感できるようになっていました。
今日、書棚を整理していて、いつのまにか、本箱の奥に埋もれてしまっていた『講座・農を生きる』を前面に持ち出しました。
ぱらぱらめくっている間に、筆者の目に入ったことば・・・。
なだいなだ氏の「百姓に学ぶ学校」の一節です。
ある時、農業高校から、講演をたのまれた。そして、学校に着くと、校長さんからいわれた。
「あの、参考までに申しあげますが、うちの学校は農業高校でして・・・」。
「はあ、わかっております」。
ぼくは答えた。だが、校長さんは、疑わしそうに、ぼくを見た。
「農業を教える学校ですね」。
ぼくは、いった。
「ええ、そうです。しかし、ずばり申しますと、生徒の程度が低いので、お話をされる時にも、あまりむずかしいことは、さけていただきたいと思いまして・・・」。
・・・しばらく、何と答えていいのやら、わからなかった。
「農業高校というのは、程度の低い生徒の入る学校なんですか?」
そして、そのあとなだいなだ氏は、こう記しています。
教える人間が、そんな気持ちで、いったい何ができるのか、と。
筆者、機会与えられて、山口県立田布施農業高校大島分校に3年間ほど、仕事に通ったことがあります。そのとき、大島分校の教師の方々の生徒に対する指導ぶりを「観察」(かんざつ)させていただきましたが、みんな熱心に指導されていて、「この分校の先生方は、昔の教師のままだ・・・」と感激させられました。
その、山口県立田布施農業高校大島分校、本当の教育を実践したためでしょうか、閉鎖が決まっています。
なだいなだ氏は、他の「百姓」さんの言葉を紹介しています。
「わしは、せがれが学校で百姓を勉強してくるとは思えねなあ。だって、学校には先生がいて、百姓がいねえもの。あのひねこびた作物を作っている連中がよ、なにをおしえられるもんかね」。
そういった彼に、ぼくはたずねた。
「じゃあ、どうすればいい」。
「ほんとうに、百姓を作るつもりだらな、わしら、百姓に教えさせればいいさ」。
なだいなだ氏は、その「百姓」さんの言葉を、「別の言い方をすれば、農業の技術を学ぶよりは、百姓について学べ、ということだ」と解説しています。
そして、<正気>に立ち返った、その農業高校の校長さん、このように語ったといいます。
「なるほど、札幌農学校は、百姓をつくらなかった。だが、百姓の哲学を教えた。百姓の哲学とは、自立の哲学だ。内村鑑三は、百姓にはならなかったが、百姓の心を持っていた。一人、反戦をとなえた彼の頑固さは、百姓の頑固さですね」。
その校長、「百姓の心」を理解したのやらしないのやら・・・。
筆者、農村伝道神学校においても、その「百姓の心」・・・、独学せざるを得ませんでした。
東北の妻の実家に帰って農業を引き継ぐまで、山口の地で、山口のお「百姓」さんから、「百姓のこころ」を教えてもらうことにしましょうか・・・。そんな機会があたえられるかどうか、こころあたりをあたってみましょう。
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