●牧師の歳のとりかた・・・
毎週、礼拝堂の講壇の上から説教をします。
この説教の聴衆は誰かといいますと、すべての人・・・。幼児から老人まで、1歳のあかちゃんから100歳の老人まで、礼拝堂の椅子に1時間ほど座ることができるすべての世代を含みます。
この点、小中高、大学の教師や教授の方々と違って、ある特定の世代・年代に限定されることはありません。
場合によっては、あかちゃんとそのおかあさん、そのおかあさんのおかあさんが一緒に礼拝に出られる場合もあります。孫・娘・母・祖母・・・、場合によっては4世代の人々が、教会の礼拝に出席して、同じ牧師の説教に耳を傾ける・・・、という場面も決してめずらしくありません。
そういう意味では、牧師は、時代に則しながら、時代を超えて、全世代的に説教を組み立てる必要があります。孫に対しても、娘に対しても、母に対しても、祖母に対しても・・・。つまり、牧師は、数世代の歴史を生き抜いてきた人々を前に、それぞれに時代の苦悩と葛藤を踏まえながら、聖書に基づいて、なぐさめとはげましのことばを語らなければなりません。
しかも、毎週、主日礼拝の出席者の世代構成は異なります。
牧師自身は・・・、といいますと、孫・娘・母・祖母の4世代の中に身を置くことになります。教会の中には、牧師より、歳を重ねているクリスチャンがたくさんいます。牧師は、自分より若い人々を指導・教育するだけでなく、自分よりも、知識・経験が豊富な年配者に対しても<指導・教育>することになります。
つまり、教会の牧師は、人生の常に途上にあるものとして、説教しなければならないのです。
その途上において、牧師は信徒に説教するだけでなく、信徒から、クリスチャンとして<どのように生きていくべきか>を学ぶだけでなく、クリスチャンとして<どのように老いていくべきか>を学ぶことになります。同じ信仰を持ってその人生を歩んでこられたクリスチャンの方々の老い方を「観察」(かんざつ)することで、牧師は、みずからの老いのあり方を学び、その道筋をつくっていくことになるのです。
老いを静かに受け入れ、枯れていく菊の花がその頂きをいつまでも残すような生き方をする人もいれば、老いにあらがって、周囲を巻き込み、悪戦苦闘をしながら、疲れ果てて失意の中をさっていく人もいます。
下松愛隣教会の庭に咲く花、信仰者として生き抜かれた兄弟姉妹たちの庭から移植された草・花・木が、途切れることなく咲き続けています。先に天に召された兄弟姉妹のしのぶぐさ・・・、それを見つめながら、筆者、天にめされた兄弟姉妹との対話を続けることになります。
老いについて学び、その老いを生きることができるということは、牧師という仕事にともなう、神さまの恵みのひとつです。
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礼拝堂のシクラメンの花・・・。
教会の庭に植えているぶどう、「すいほう」という品種です。
教会の庭を点検し終えて時計をみると、12時が近い・・・。
教会の庭には、筆者の妻が植えたウツギの木が2本あります。
5月の教会の庭・・・
教会の庭のシランの花・・・。
教会の庭に植えたぶどう・・・
礼拝のあとの茶話会で、教会役員の方がいうには、「教会のぶどうにはたくさんの花芽がついている・・・」。
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