2007.07.15

「部落」と「暴力団」に関する一考察(1)

「部落」と「暴力団」に関する一考察
第1回 長州藩の史料から・・・

筆者にとって、「部落」も「暴力団」もほとんど関係のない世界のことです。

しかし、山口県の小さな教会に赴任して、教区の部落差別問題特別委員会の委員をさせられたことがあって、「部落」差別問題に関与することになりました。

そして、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査をきっかけに、「部落」とは何か、その問いに対する、学校同和教育・社会同和教育で提示される解答に疑問の思いを抱くようになり、徳山市立図書館の郷土史料室に通って、「部落」の歴史的実像を追求してきました。

その結果を、『部落学序説』とその関連ブログ群にしたためて、インターネット上で公表してきましたが、無学歴・無資格をかえりみず、非常民の学としての「部落学」を提唱してきました。

何分、一人で「開拓」していくため、すべての分野を網羅しているわけではありません。

「部落」と「暴力団」との関係についても同様で、いままでほとんど触れることはありませんでした。「部落」だけでも謎にみちているのに、「暴力団」まで付加すると、 x と y の関係式が、x と y に z を加えた関係式になり、解答することが非常に難しくなります。

しかし、すでに、『部落学序説』で、第1章から第3章までの執筆を終えていますので、「部落」と「暴力団」という現代的な関係の背後にあると推定される、近世幕藩体制下の「穢多」と「博奕」の関係を少しく論じてみたいと思います。

「博奕」は、「ばくえき」・「ばくち」と読むそうですが、広辞苑によりますと、「博奕」は、「バクチウチの約」だそうです。

「バクチウチ」(博打打)は、「賭博を専業とする者。やくざ。博徒。」を意味するそうですが、「部落」と「暴力団」について考察するときに、広辞苑的な意味合いでは、歴史的に、「穢多」と「博奕」の関係について論ずることは決して意味のないことではないでしょう。

まず、『部落学序説』風に、近世幕藩体制下の長州藩の史料から、「穢多」と「博奕」との関係について考察してみましょう。

山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄氏の『長州藩部落解放史』の巻末に収録されている「付録 長州藩部落史年表」から、両者の関係をたどってみましょう。

この年表は観応3年(1352年)からはじまっていますが、長い間、両者の関係を想定させる記録はありません。

全国的に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」の類の存在とその職務の内容の充実と強化がはかられた時代、諸藩は、「穢多・非人」の類(以下「穢多・非人」とよぶ)がその職務を忠実に遂行するように藩令を出していますが、萩藩も、正徳3年(1713年)、藩令を出して、その職務を逸脱した「穢多・非人」を厳しく詮議し、監視するように庄屋に対して命令しています。

「穢多・非人」は、「穢多之名」を辱めることがないよう、「悪人」(犯罪者)の悪に加担することがないようにという言葉ではじまっています。当時の、法を執行する、司法・警察である「穢多・非人」が、自ら、法を逸脱して犯罪に走るようでは、治安警察の職務遂行に支障をきたすので、くれぐれも違背行為をしないようにという訓戒の言葉です。

「穢多・非人」は、本来の職務を十分自覚して、「穢多共随分精を出、悪人捕候様ニ可申付候事」というのです。犯罪の予防と、発生した犯罪者の検挙率を高めるようにという命令です。

そして、最後はこのような言葉で結ばれています。「悪人捕候者えは御褒美可被遣候、若右之廉々相背ハ可被処厳科候・・・」。つまり、「穢多・非人」は、司法・警察である非常民としての自覚を持ち、犯罪者の摘発につとめれば、褒美をつかわす。しかし、その職務に違背するようなことがあれば、厳罰に処する・・・、というのです。

しかし、正徳3年の、「穢多・非人」の職務に関する法令の中には、「穢多・非人」が「博奕」に走らないようにという法令は含まれていません。

なぜか・・・?

『部落学序説』の筆者の目からみますと、当時の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」が、「博奕」に関与しないということは、その職務上当然のことで、あえてその禁止条項を設定する必要がなかったからではないかと思います。

「博奕」は、「天下一統の御法度ニ候ヘは事新敷不及申候」(長州藩「当用諸記録提要」)という背景があったからではないかと思われます。

その「穢多・非人」が、いつ、どのようにして、司法・警察官の職務を忘れて、法を逸脱、「博奕」の仲間になっていったのか・・・、長州藩は、「博奕」に走ったり、自宅を「博奕宿」として提供する「穢多・非人」を厳しく断罪しています。

現代の、「部落」と「暴力団」との関係を想定させる、近世幕藩体制下の、「穢多」と「博奕」との関係は、近世幕藩体制下の法制度における、法的逸脱としてのみ存在していたのです。

「部落」=「暴力団」という観念的幻想を近代・現代において成立させているものは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のなせるわざです。皇国史観も唯物史観も、「穢多」「博奕」も、社会の少数者として「賤民」という差別的概念に周延させてしまいます。「博奕」を違法行為として取り締まる側の「穢多」と、当時の司法・警察官である「穢多」に取り締まられる「博奕」とを、「賤民」という概念で同等の存在として、少数者として、差別されたものとして曲解してしまうのです。

長州藩の史料をもとに、「穢多」と「博奕」との関係について、もう少し詳しく論じてみましょう。

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2007.07.16

「部落」と「暴力団」に関する一考察(2)

「部落」と「暴力団」に関する一考察
第2回 「穢多」と「博奕」の関係事例・・・

布引敏雄氏の「長州藩部落史年表」において、「博奕」が登場してくるのは、元文5年(1740)のことです。

【事例1】
元文五年(1740)
閏7月 萩町人市兵衛博奕につき、萩追放。立帰りの後、渡世に困り非人小屋をたより賃夫等を行う。無断で立帰るに付き、牢舎。(常御仕置帳)

ここで、「博奕」という罪を犯したとして、逮捕、裁判にかけられ、「萩追放」(萩城下追放?)の刑を言い渡されているのは、萩城下の町人・市兵衛という人物です。

長州藩の法令集のひとつ、『二十八冊御書付』に掲載されている正徳3年(1713)の史料によりますと、「天下一統の御法度」として、ことさらあらためてとりあげる必要もない・・・、と言われている「博奕」という罪を犯した人々として想定されているのは、代官・与力などの藩士や、その支配下の同心・目明し・穢多・非人などの武士支配の身分ではなく、彼らによって支配されていた町人・百姓身分の人々です。

「往還筋其外端々ニ商人なとゝ号し、或屋宅を構、或借家ニ居、渡世の品強不相見、送光陰候者」は、「盗人・はくち打」の類として、庄屋・畔頭等村方役人に取り調べを命じています。

「博奕」が、近世幕藩体制下の重大な犯罪のひとつであることは、「博奕」をするものが、「盗人」と同列に置かれていることから見ても確認することができます。「博奕」に関わるものは、「百姓の名子・門男・小商人・漁師」の外、「浪人」等も含まれます。

庄屋等の村方役人は、「宗門究」の制度である「五人組」を用いて、盗人・博奕、また盗人宿・博奕宿を営んでいるものを摘発せよと藩から命じられています。もし、「五人組」の中に、そのような人がいたら、即刻申し出るように百姓に指導せよ、というのです。もし、「五人組」で、組みの者をかばい立てするようなことがあれば、「残四人同罪」に処すというのです。

これらのことから考えても、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、司法・警察官としての職務の遂行上、「博奕」はほとんど無縁の話でしかなかったのではないでしょうか。「穢多・非人」が「博奕」に関与するというのは、その犯罪に関する情報収集、内偵が目的であって、「博奕宿」「博奕」を楽しむ・・・、ということはあり得なかったと思われます。

【事例2】
元文5年から12年後の宝暦2年(1752)、「博奕打」「清常太郎右エ門」が、「山口羽坂」の穢多に接触したということでおとがめを受けています。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」は、法の執行官です。現在の警察官とほぼ同じ社会的地位にあったと思われますが、司法・警察官とねんごろになって、便宜をはかってもらおうとする輩は、昔から存在していたようです。彼らは、金・酒・女・・・、などの手段を駆使して、司法・警察官の抱え込みをこころみますが、それを許して、「穢多」「博奕」との間の癒着を許したのでは、近世幕藩体制下の法的秩序を維持することはできません。そこで、幕府・諸藩は、司法・警察官である「穢多・非人」と、百姓・町人・浪人などとの接触を禁じていたのです。

ところが、宝暦5年(1755)、とんでもない事件が発生します。

【事例3】
こともあろうに、「穢多」(三田尻宰判の穢多)・「非人」(美祢の宮番)が、美祢郡嘉万村百姓喜右衛門宅にて、「その他多数の人」が集まって「博奕」を行うという事件が発覚、その「博奕」にかかわったものは、みな「牢舎」を命じられているのです。「博奕」には参加していなかったが、その場に「同座」したとして、吉田宰判百姓・八左衛門は「郡退」をめいじられています。

【事例4】
それから、42年後の、寛政9年(1797)、吉田宰判内で、「宮番・垣之内・非人の所へ行き、賭勝負をする平人がいる」ということで、萩藩は、吉田宰判代官に、「宮番・垣之内・非人」は、「今後は交際しないよう」彼らを指導するよう訓告処分を受けています(部落史研究者は、「今後は交際しないよう」という文言から彼らは差別されていたいたと主張します・・・)。「博奕」の誘惑に勝てず、違法行為に走った「宮番」の名前・五郎右衛門の名前が記されています。

【事例5】
さらに69年後の文政7年(1824)、小郡宰判の、司法・警察官の「穢多・非人」の相次ぐ不祥事をきっかけに、問題を引き起こした穢多村の穢多「五五人署名捺印の請状を提出」することを余儀なくされますが、その項目に、このようなものがあります。「博奕を行うものがいたら報告する。百姓がえたの所にきて博奕する時は密告する」。

布引敏雄氏が、その「長州藩部落史年表」において、近世幕藩体制下の長州藩の各種裁判記録・判例集の中からどのように事例をピックアップされているのか、確認することはできませんが、当時の司法・警察官である「穢多・非人」が、法を犯してまで、「博奕」に走り、「博奕打」である町人・百姓身分と交わるということは、極めて稀な、例外的なできごと、衝撃的に世の中を騒がせるできごとであったと思われます。法を守るべき司法・警察官が法に違う行為にはしる・・・、多くの民衆の批判を受けることになったのではないでしょうか・・・。

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2007.07.17

「部落」と「暴力団」に関する一考察(3)

「部落」と「暴力団」に関する一考察
第3回 「穢多」に広がる「博奕」の誘惑・・・

布引敏雄氏の「長州藩部落史年表」に取り上げられている「博奕」に関するできごとを、更に追跡してみましょう。

【事例6】
天保4年(1832)
3月山口宰判○村えた政吉、平人と博奕に付き、牢舎。

山口宰判の穢多・政吉は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の掟を無視して、「穢多」として、百姓・町人とまじわります。それだけでも職務規定違反として代官よりお咎めを受けるのですが、政吉は、更に、彼らと禁止されている「博奕」に興じます。捕らえられて牢につながれます。

この場合、「博奕宿」(博奕をする場所)を提供し、「博奕」という違法行為をしかけたのが、「穢多」の方なのか、「百姓・町人」なのか・・・、布引敏雄氏の要約文だけでは判明しません。

【事例7】
天保6年(1835)
5月 奥阿武宰判○村えた吉兵衛、博奕宿をするに付き、牢舎。

事例6から3年後に起きた、阿武宰判での、司法・警察官である「穢多」の不法行為・「博奕」が発覚します。この事例の場合、穢多・吉兵衛の行為は、あきらかに、「博奕」に対して積極的に関与していることが推定されます。穢多・吉兵衛は、ただ単に「博奕宿」を提供しただけなのか、それとも、<勧進元>として寺銭を徴収し、不法に収入を得ていたのかどうか・・・、布引敏雄氏の要約だけではなんとも言えませんが、どちらにしろ、穢多・吉兵衛は、職務規定違反・不法行為に対する攻めを免れることはなかったでしょう。

【事例8】
天保11年(1840)
5月 大島宰判○村出生茶筅彦右衛門、上ノ関にて交わり博奕を打つに付き、牢舎。懸り相の平人らも同断。

長州藩では、「穢多」も「非人」も、「穢多の類」として把握され、両者の違いは、配置形態の違いに依存します。「穢多」は、どちらかいいますと、現代の警察署あるいは機動隊の駐屯地の警察官を意味します。そこには、「穢多頭」をはじめ、多くの年配の監督者がいますので、「穢多」村の中で、「博奕」が開帳される・・・、ということはあり得なかったでありましょう。

しかし、他藩でいう「非人」として、長州藩では、茶筅や宮番という役人も配置されています。茶筅・宮番の場合、各村毎に1戸から数戸配置されていますので、現代の駐在所あるいは派出所の警察官に類比できます。

「穢多」が、「宰判廻り」、つまり、配属されている町・村を離れて、その町・村が所属する「宰判」(郡のこと)内の他の村々にでかけることができるに反して、「茶筅」・「宮番」は、「村廻り」という制限があり、同じ「宰判」に属する村であったとしても、他村に出向いていって職務を遂行することはできません。茶筅も、百姓同様、村境を超えるときは、代官・庄屋にその旨申請しなければなりません。

この茶筅・彦右衛門、幾重にも、職務規定違反をしています。彦右衛門が当時の司法・警察官である「茶筅」という任務についている村境を超えて、それどころか、大島を抜け出して、隣の宰判・上ノ関宰判の村まででかけていって「博奕」をしています。彦右衛門が、「茶筅」という身分を隠して不法行為に及んだかどうかは判然としませんが、摘発を受けて逮捕され、裁判にかけられ、お仕置きを受けることになるのです(おとり捜査ということも考えられないわけではありませんが・・・。)。

【事例9】
天保12年(1841)
6月 山口宰判の神社祠官その外は、同宰判○村宮番豊吉宅に集り、博奕を打つに付き、追込。

この事例の場合、神社祠官まで関与してきます。この場合も発覚。おそらく「密告」によって、「博奕」に参加した人すべてが御用になったのでしょう。

司法・警察官たるものの服務規定を無視して、不法行為の「博奕」に走る「穢多・非人」を内偵・探索・捕亡するのも、奉行・代官、与力・同心・目明し・穢多・非人、庄屋などの村方役人であることを看過することはできません。長州藩の史料によりますと、「穢多」は「穢多」を支配下(監督下)に置くと定められていますが、それは、こういうことを意味しているのでしょう。

その他にも同種の事件が発生します。

【事例10】
安政3年(1856)
8月 上関宰判茶筅力蔵、盗人宿を貸すにつき、代官所にて御究。後に牢舎。

司法・警察官であることの自覚が欠落してきますと、犯罪を取り締まる側が犯罪に巻き込まれたり、犯罪に加担したりするようになります。「博奕」・「博奕宿」に対して、不法意識が希薄になってきますと、その他の犯罪に対しても鈍感になってきます。「博奕宿」どころか、「盗人宿」まで関与するようになります。茶筅・力蔵は、同僚の司法・警察官である「穢多・非人」から拷問を受け、かかわった犯罪のすべてを白状させられたと思われます。

事例11】
万延元年(1860)
長府領百姓藤吉方にて、当島宰判○村えた喜平次、吉田宰判○村えた勘藏その他が酒を飲み、博奕を行う時に喧嘩となり、喜平次が死亡。右につき、かかわりの者それぞれに御咎。勘藏は二月十五日遠島。

とうとう殺人事件に発展してしまいます。現代的にいえば、酒の席上、余興で博奕をはじめた警察官がその博奕をめぐって喧嘩、相手を撲殺してしまったという警察の不祥事・・・、という内容です。

長州藩は、幕末期、司法・警察官の風紀の乱れを憂い、司法・警察官である「穢多・非人」の不法行為を厳しく罰することになります。

【事例12】
文久元年(1861)3月、大島宰判の茶筅・初五郎は、「博奕打風の行い」をしたということで、萩城下に送られ取り調べを受けたのち「遠島」に処せられています。事例11と比べると、かなり厳しい処断です。長州藩が、幕末期、司法・警察官である「穢多・非人」に、法に忠実にその職務を遂行するように求めた結果が、このようは法的逸脱に対して厳しい処断をすることになったのでしょう。

長州藩の史料によると、「穢多」と「博奕」は、相互に相いれない概念なのです。両者が両立する世界というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」が、その職務に不誠実に違背行為を行ったときのみです。長州藩は、その支藩を含めて、「穢多」に「博奕」を許すこともなければ、「博奕」に、司法・警察官のシンボルたる十手を渡してその職務にあたらせた・・・、ということはほとんどあり得ないのです。

時代劇に出てくる、江戸時代の「やくざ」は、少なくとも、長州藩の、司法・警察に関する史料の世界では、その存在を確認することはできないのです。現代の警察が、暴力団と手を結ぶことがないように、江戸時代の「穢多」も「博奕」と手を結ぶことはないのです。

「穢多」と「博奕」とが相矛盾する世界であるのと同様、「穢多」の末裔である、現代の「部落」も、「博奕」に深くかかわる現代の「暴力団」とは無関係のはず・・・。それなのに、いつ、どのような経過をたどって、「穢多」の末裔である「部落」は、油と水の関係にある「博奕」の末裔としての「やくざ」や「暴力団」を内側に抱え込むようになったのか・・・。そして、部落解放運動の中から、彼らを排除できないのか・・・。

筆者は、戦後の部落解放運動にかかわってきた人々が、「部落民とは誰か」、「部落民とは何か」、その問いに対する基本的・本質的な答えを持ち合わせていなかったことが大きく原因しているのではないかと思っています。

『部落学序説』第4章から第6章は、この問題に対する根本的な解決を提示することになります。

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「部落」と「暴力団」に関する一考察(4)

「部落」と「暴力団」に関する一考察
第4回 幕府の法システムにおける「穢多」と「博奕」について

過去、3回、近世幕藩体制下の長州藩の史料をもとに、「穢多」と「博奕」との関係について一瞥してきました。

結論を再度繰り返しますが、近世幕藩体制下においては、「穢多」と「博奕」とは、決して両立することができない概念です。「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民として、「博奕」を取り締まる側に身を置いていました。法の番人である「穢多」が、みずから法を犯すことは、ほとんどあり得なかったからです。

山口県立文書館の元研究員・布引敏雄氏の「長州藩部落史年表」に収録されている、「穢多」と「博奕」に関する記事は、観応3年(1352)から明治4年(1871)までの500年以上に及びます。しかし、「穢多」が、法度に違反して、また司法・警察官としての服務規定に違背して、「博奕」にかかわった犯罪事件と裁判結果に関する記事は、十数件に過ぎません。これは、法度をおかしてまで、「博奕」に走る「穢多」が如何に少なく、例外的であったかを物語っています。

最近の国家公務員・地方公務員が、法の主旨を無視し、法違反すれすれのところで不正を積み重ね、私腹を肥やしていると非難される、こんにちの時代とは大きく異なります。

近世幕藩体制下においては、奉行・代官、与力・同心、目明し・穢多・非人などの、司法・警察職務に従事する非常民は、法度を無視した違法行為によって、百姓・町人よりも、一等級重い刑罰が課せられることになっています。部落史の学者・研究者・教育者は、同じ罪を犯しても、「穢多・非人」が、「百姓・町人」より重い刑罰を課せられていることを「差別」と受け止め、「穢多・非人」は「百姓・町人」に比べて差別されていた存在であったと主張します。

しかし、『部落学序説』の筆者の目からみますと、当時の司法・警察官である「穢多・非人」が、法度に違背して「博奕」にかかわることで、法秩序の信頼性を著しく害うことを鑑みると、司法・警察官である「穢多・非人」に、一般人(百姓・町人などの常民)よりも刑が重加算されるのは極めて当然のことであると思われます。

しかし、筆者が長州藩のみの史料をもとにこのような結論を提示しますと、「長州藩という極めて限定された場所でのみ通用する論理ではないか・・・」と非難を招くことになるでしょう。

部落史研究の世界においては、歴史の史料に基づいて実証的に研究するというより、運動団体や政治団体などのイデオロギー的解釈をもって歴史解釈と信じきっている人々が多数おられるからです。自ら歴史資料をひもとかずして、一般説・通説・俗説でもって自己充足、知的満足に陥っておられる方が少なくないからです。

それで、今回、長州藩を遠く離れた守山藩における「穢多」と「博奕」との関係についても言及することにしましょう。

長州藩にとって守山藩は、ほとんど縁がない藩であるのと同様、守山藩にとっても長州藩はほとんど縁がない藩であるといえましょう。長州藩は現在の山口県、守山藩は現在の福島県に位置します。

近世幕藩体制下の諸藩は、徳川幕府の法システムの中に組み込まれていましたので、幕府の「街道」を伝ってたどりつくことができる長州藩と守山藩は、ほとんど同じ法制度の中に置かれていたと思われます。当時の人が旅をしていて、ある藩では「博奕」が許されるが、ある藩では禁止されている・・・、ということは事実から遠く、どの藩においても、幕府の御触・法度に従って、「博奕」は禁止されていた・・・、と受け止める方が極自然です。

徳川幕府のもと、東日本(守山藩)においても西日本(長州藩)においても、同じ法が施行されていたと思われますが、それを実証する史料として『守山藩御用留帳』があります。

この『守山藩御用留帳』は、福島県郡山市教育委員会が所蔵されているようですが、それを分析・批判したものに、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』(中公新書)というのがあります。『部落学序説』において、これまで何度か引用・参照してきた論文です。

この『目明し金十郎の生涯』に、「ばくち宿の摘発」・「陣屋の目明し追求」・「賭博出入りの始末」という小項目がありますので、5回から7回において、その内容を紹介することにしましょう。もちろん、『部落学序説』の筆者の解釈原理に従って・・・。

長州藩と守山藩・・・、西と東を取り上げると、その中間点をとりあげるようになることは必然です。筆者の手持ちの史料では、その中間点にある藩として、紀州藩の史料、紀州藩『城下町警察日記』があります。紀州藩城下町の司法・警察制度は、紀州藩主が江戸幕府の将軍になることで、江戸の司法・警察制度として一般化されていきますので、紀州藩の「穢多」と「博奕」の関係について言及すれば、ほぼ、近世幕藩体制下の「穢多」と「博奕」の関係についての全体像を獲得することができるのではないかと思われます。

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「部落」と「暴力団」に関する一考察(5)

「部落」と「暴力団」に関する一考察
第5回 誤解された目明し金十郎・・・


東日本の「穢多」と「博奕」について、その実像を切り出すために使用する史料は、『守山藩御用留帳』です。

しかし、郡山市教育委員会所蔵のこの史料、筆者が読める状況にはありませんので、この『守山藩御用留帳』を解析してまとめられた、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』(中公新書)を通じて、そこに記された「穢多」と「博奕」について批判・検証していきたいと思います。

批判・検証に入る前に、『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏と、『部落学序説』の筆者との間にある視点・視角・視座の違いを明確にしておく必要がありそうです。

『目明し金十郎の生涯』には、「江戸時代庶民生活の実像」という副題がつけられれいますが、一方、筆者の『部落学序説』には、「非常民の学としての部落学構築を目指して」という副題がつけられています。この副題が、阿部善雄氏と筆者の視点・視角・視座の違いを如実に物語っています。

(1)

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」を、守山藩の藩士ならざる身分に属する「やくざの顔役」として認識します。

彼は、金十郎を、「博徒でありながら、陣屋の御用を折りにふれて承るほど、陣屋との接近度が高くなっている者」で、「単なる顔役」とも違った、「やくざの顔役」にふさわしい人物であったと推定します。

阿部善雄氏は、なぜ、「目明し金十郎」を描くにあたって、そのような前提を設定したのか・・・、これは筆者の推定ですが、「通り者」ということばの恣意的な解釈に由来するのではないかと思われます。阿部善雄氏が、「通り者」を、「やくざたちに顔の通った者」として認識したことが、「目明し金十郎」の人物理解における誤解・曲解につながっていったのではないかと思われます。

「目明し金十郎」こと、吉田半左衛門を父として守山藩領内に生れた金十郎は、享保年(1724)守山藩陣屋の「取り締まり御用を勤める通り者役」として12年、元文3年(1738)からは、守山藩陣屋の「正目明」として32年間目明しを勤めたといいます。金十郎は、陣屋の「警察権の一部を託されて」、実に46年の長きに渡ってその職務をまっとうしたというのですから、彼は、筋金入りの目明しだったのでしょう。

その金十郎を、阿部善雄氏は、「通り者」ということばをキーワードに、「やくざたちに顔の<通った者>」という意味と、「取り締まり御用を勤める<通り者>役」という意味の、二重の意味に解釈するのです。

金十郎の表の顔は、守山藩陣屋の「目明し」であったが、裏の顔は、「やくざの顔役」であったというのです。当時の「街道」で、不法をはたらく「不良分子」である「博奕」(「やくざ」)を取り締まるためには、当時の、守山藩陣屋の司法・警察のエリートである武士にはふさわしくない職務であり、「にらみを利かして取り締まりうる者」として、金十郎のような人物が必要であったというのです。

現代的にいえば、暴力団を取り締まる警察官は、キャリアではなく、警察官になる前に「やくざ」・「暴力団」として行動していたという履歴をもっていたり、警察官になったあとも、「やくざ」・「暴力団」とつながりを持ち、そこから裏社会の情報を入手することができる、警察官という表の顔と、「やくざ」・「暴力団」の「通り者」としての裏の顔を同時に持ち合わせている現場に精通している警察官でないと、その職務を十分こなしえない・・・、ということになるのでしょうか?

しかし、筆者のような、一般市民の立場からしか発想できない者にとっては、阿部善雄氏の発想は、かなり偏見と誤謬に満ちているのではないかと思われます。

「守山藩陣屋の目明し」としての表の顔と、「やくざの顔役」としての裏の顔を使い分けながら、46年間の長きに渡って、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務をまっとうするというのはあり得ないことです。使い分けはいつか破綻を来し、「やくざの顔役」としての裏の顔は厳しく糾弾され、その結果として、「目明し」としての表の顔も同時に剥奪され、阿部善雄氏が指摘しているように、「ばくちは天下一統、どこでも仕置きに決めており、宿元は打ち首、同類は追放・・・」という幕府の法に従って、「打ち首」・「追放(遠島)」という極刑を言い渡されたのではないかと推察されます。

しかし、吉田金十郎は、守山藩陣屋の司法・警察官として、「七十の高齢を超えて」その職務を遂行していたことを考慮すると、目明し、吉田金十郎は、近世幕藩体制下の司法・警察官として筋金入りの「目明し」であった・・・、と考えられます。

『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏は、金十郎を理解するに、『守山藩御用留帳』のことばの背後にある、当時の司法・警察システムについてほとんど考察することなく、俗説に従って、「穢多」=「博奕」(現代的にいえば、「部落」=「暴力団」)という差別的なイメージを前提に、自説を展開しているのではないかと思われます。

(2)

それと、もうひとつ、阿部善雄氏の気になる視点・視角・視座があります。

それは、「目明し金十郎」を、「陣屋機構とは一線を画される」存在であったと断定するところにみられます。阿部善雄氏は、目明し金十郎を、その著『目明し金十郎の生涯』の副題に出てくる「庶民」として認識します。守山藩陣屋の藩士・役人(「陣屋の押衆や郷足軽」)などの武士身分とは違って、「領民にすぎなかった・・・」というのです。

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」のような「存在は・・・時代の泥濘」であったというのです。

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」を、守山藩陣屋の「目明し」として表の顔と、「やくざの顔役」としての裏の顔とを併せ持った、得体の知れない存在として描き、そのあげく、その存在は、近世幕藩体制下の「泥濘」であったと言い切るのです。日本の歴史学者の中に見受けられる「愚民論」的発想が前提されています。

そして、このように断言します。「やくざ社会の顔役を目明しに任命して、警察権の一部を付与したことは、「毒をもって毒を制す」といった諺があるように、支配者の知恵だった」。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、「毒をもって毒を制す」方法で、徳川幕府が300年間に渡って、全国をその支配下に置くことはできなかったと思われます。近世幕藩体制下では、幕府の定めた法度や御法をもって「毒を制す」ことが行われたからこそ、徳川幕府が300年に渡ってその治安を維持できたのだと思われます。

近世幕藩体制下の司法・警察制度、法システムは、汚職・脱法行為を公然と行う現代の官僚、政治家などの悲惨な現実と比較するとき、日本の歴史の中で誇るべき法制度であったと評価されても不思議でないほど充実した制度であったと思われます。

阿部善雄氏は、『目明し金十郎の生涯』を、次のことばで結んでいます。

「非常な高齢に達した金十郎が、いよいよ目明しをやめるときが訪れた。それは明和7年(1770)6月晦日だった。その日は一日中どんよりと曇った日であり、金十郎と孫の源之助が陣屋に呼び出され、金十郎の退役と跡役任命が申し渡された。源之助は金十郎の勤めぶりにしたがって目明し役を勤め、同僚の兵蔵と万事相談して、職務を遂行するよう言い付けられたうえ、帯刀を許可された。そしてなお、源之助は祖父の名を襲うて、金十郎を称せよと言われた・・・」。

「金十郎」・・・、その名前は、跡を引き継いだ孫の源之助にとって、また、守山藩の町人・百姓にとっても、生涯をかけて、法の番人、まもりて(衛手=えた)としての職務をまっとうした名誉ある役職名でもあったのです。表の顔も裏の顔も、同じ、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「目明し金十郎」の顔を、孫の源之助は継ぐことになったのです。

『部落学序説』の筆者としては、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』から、「賤民史観」や「愚民論」などの差別思想の影響を洗い落とし、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「目明し・穢多・非人」としての金十郎を見つめなおすことで、「穢多」と「博奕」、ひいては、現代の「部落」と「暴力団」というなんとも得体の知れない問題に少しく光を注ぎたいと思います。

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2007.07.28

「部落」と「暴力団」に関する一考察(6)

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「部落」と「暴力団」に関する一考察
第6回 守山藩の博奕取り締まり・・・

近世幕藩体制下の守山藩では、博奕をどのように取り締まっていたのか、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』を手がかりに少しく確認してみましょう。

阿部善雄氏は、「ばくち」は、「藩の財政が窮迫していようがいまいが、世間が景気であれ不景気であれ、社会に悪臭を放って、とめどもなく蔓延していた・・・」といいます。

守山藩もこの「ばくち」に汚染され、「広く深く社会を毒していた・・・」といいます。守山藩においては、この「ばくち」は、それを「業」とする「やくざ」だけでなく、町人・百姓の、分別のある「老婆」すら楽しんでいたといいます。

阿部善雄氏によると、『部落学序説』の筆者である私が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「目明し・穢多・非人」の世界においても、また、直接、「ばくち」を取り締まる責任のある町方役人・村方役人の中にも、その「汚染」が広まっていた・・・、といいます。

守山藩は、「ばくち」天国であったとでもいうのでしょうか・・・?

老若男女を問わず、素人玄人を問わず、半ば公然と「ばくち」に興じていた、とでもいうのでしょうか・・・?

阿部善雄氏は、「ばくち打ちのやくざ」という表現を用いていますが、「の」という助詞を同格の「の」であると解釈しますと、「ばくち打ち」(紀州藩『城下町警察日記』などの近世幕藩体制下の司法警察に関する文献では「博奕」として表現される)=「やくざ」という等式が成り立つことになります。

阿部善雄氏によると、「ばくち」を根絶することができない守山藩は、取り締まるすべがなく、「おどしの効果を高め」ることで、「天下一統、どこでも仕置きに決めており、宿元は打ち首、同類は追放・・・」という裁きを下し、世の衆目と批判を集めることがないように、「裏社会」にとどめ、決して「表社会」に醜態をさらすことがないように、妥協的な措置をとっていた・・・、と主張しているように見えます。

しかし、どこかで、「やくざ」を、近世幕藩体制下の存在として容認しようとする阿部善雄氏の『目明し金十郎の生涯』の論述は、いたるところで論理的矛盾を来してきます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、守山藩は、「ばくち打ち」=「やくざ」の世界を一切認めず、守山藩から徹底的に排除しようとしたのではないかと思われます。

守山藩は、領内の村から、「毎月・・・賭博をしないという証文」と提出させています。「ばくち」は、「普通の犯罪」ではなく、その結果として、「百姓がばくちに打ち込んで財産をなくせば、自分も妻子も年季奉公に出るようになり、あげくの果てには田畑や家屋敷まで手放してしまう・・・」。百姓が田畑を手放し年貢をおさめることができなくなると、結局、「お上の不利益」として跳ねかってくるのであるから、「陣屋を踏みつけたも同然となる・・・」というのが、守山藩の理由です。

「ばくち」は、守山藩にとっては、「普通の犯罪」ではなく、強盗に匹敵する犯罪である・・・、というのです。「ばくち」は、裁判において、「打ち首」・「遠島」などの重刑に結果します。

阿部善雄氏は、その著『目明し金十郎の生涯』の「ばくちの流行」の小見出しのもとで、守山陣屋の「ばくちの摘発」がどのように行われたのかを記しています。

「賭博の宿元」となった者だけでなく、それを取り締まり、未然に事件を防ぐ義務と責任があった、「庄屋・組頭・長百姓らの職務怠慢の責任も当然問われることになった」のです。毎月出すことが義務付けられた、「賭博をしないという」「月切証文」は、「偽り」であったと断定して、「偽りの証文を提出したことも、改めて糺明の対象になった・・・」というのです。

町や村で、「ばくち」・「賭博」・「博奕」という犯罪事件が発生した場合は、その容疑者だけでなく、「とばく」防止のための「監督をきびしくしなかった」町方役人・村方役人も同罪に処するというのです。

守山藩の「ばくち」撲滅のためのなみなみならぬ決意をうかがいみることができます。

「元文二年三月晦日」、「芹沢村にある照明院の観音堂の祭りに、「二十三人もの博徒」によって賭場が開帳されようとしたとき、庄屋仲左衛門は「守山領における賭博の禁止を告げて、追い立てることにした」そうです。「博徒」を村から「立ち去らせるまでには一通りの苦労ではなかった」そうですが、「やくざたちの恨み」を買うことになり、「奥羽仙道筋のばくち打ち・・・六十人が庄屋宅に押し入る」という脅迫を受けることになります。

庄屋をはじめとする村方役人は、守山藩陣屋に、「やくざ集団が来襲する」ぞという脅迫を伝えるのですが、「陣屋はやくざたちが守山領内へ踏み込むなどとは、とうてい考えられない」として、芹沢村の村方役人にこのように指示するのです。

「万一そうした事態が発生し、刃向かうことになったならば、棒で打ちすえて縄をかけよ、もしまた刃傷に及ぶことがあれば、打ち殺しても結構だ、そうなれば一郷の敵だから、村中で相談して手筈を決めておくように・・・」。

庄屋仲左衛門は、「庄屋」といっても、郷士階級の家柄・・・、守山藩から、「やくざ集団」撲滅の許可が下りた以上は、文字通りそれを実践したかもしれません。守山藩では、犯罪者の処刑は、郷士階級が執行したようですから・・・。そうしないと、「ばくち・・・を取り締まらなかった」「職務怠慢の責任」を問われ、「庄屋」身分を剥奪、屋敷・田畑も藩に取り上げられ、一族郎党糊口をすする身にならないとも限りません。

守山藩は、「やくざ」・「やくざ集団」を取り締まりの対象としてのみ認識し、素人玄人を問わず、「ばくち」・「博奕」に極刑をもって対処した・・・、といってもいいのではないかと思われます。

強盗・殺人に匹敵する「博奕」・・・。

強盗・殺人が、いつの世にも存在しているから、その存在を社会的に認めざるを得ない・・・、という発想がナンセンスであるのと同様、博打・博奕が、広く世の中に行われているから、その存在を社会的に認めざるを得ない・・・、という発想もナンセンスです。

『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏は、「目明しがやくざの親分として、また顔役として、どのような悪事をしてきたか、さらにどのように彼らが支配者の命令によって、自分の仲間と連絡をとりながら、他領に逃亡した犯罪者を追跡したかということなどは、目明し金十郎の生涯から、十分に読み取れるだろう。」といいますが、『部落学序説』の筆者である私は、『目明し金十郎の生涯』を何度読み直しても、そのように<読み取る>ことはできないのです。

目明し金十郎は、その生涯を通じて、近世幕藩体制下の守山藩の陣屋の、司法・警察である非常民の一翼をになったひとであり、その生涯の最初から最後まで司法・警察官であったと確認せざるを得ません。

次回、目明し金十郎自身が、自らを「やくざの顔役」でもなければ「博奕」・「博打ち」でもないことを弁明する場面を検証してみましょう。もちろん、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』の論述を参考にしながら・・・。

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「部落」と「暴力団」に関する一考察(7)

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「部落」と「暴力団」に関する一考察
第7回 目明し金十郎の賭博容疑に対する弁明

延享元年(1744)11月、守山藩陣屋は、「ばくち」に対する一斉取り締まりを実施しました。

「守山陣屋には代官のほか郡方・代官方・目付方の役人がいて政務をとり、その下に押衆・郷足軽と呼ばれる農民から採用された下級役人がいた・・・」そうですが、その他に、街道筋の治安・維持を担当する「通り者」や「目明し」が、近世幕藩体制下の司法・警察システムを構成していました。

「ばくち」に対する一斉取り締まりを実施する前に、陣屋は、さまざまな情報収集をしていたと思われます。

金十郎をはじめとする「目明し」や「通り者」の、当時の司法・警察である「非常民」としての基本的な職務は、情報収集です。犯罪を立証するための情報収集をしたうえで、陣屋の指揮で、犯罪者の捕亡に着手するのが普通でした。

おそらく、目明し金十郎も、延享元年11月の「ばくち」に対する一斉取り締まりのために、日夜走り回って、その職責を果たしていたと思われます。

ところが、その月の16日、金十郎は、陣屋に呼び出されて、「ばくち宿」を開いて「ばくち」をした嫌疑で厳しい詮索を受けるのです。

それは、「目明し役の者はばくちをしてもよいと思っているのか、お前たちを目明しに任命しているのは、領民たちがばくちをしないよう、また盗賊が入り込まないように取り締まって、領内を平和に保たせるためであるにもかかわらず、それどころか自宅でばくち宿をやり、近くの者まで賭場に引き入れたというではないか・・・」というものでした。

「もしお前が一文構えのばくちをしているのを見つけたならば、きびしくやめさせなければならないのに、逆にお前自身が相手になっているとは目明しにふさわしくない行為である。」と陣屋から厳しく取り調べを受けます。

現代の警察官にひきつけて考えれば、賭博の一斉検挙の最中、現職の警察官宅において賭博が開帳されたことが発覚、警察署は、「賭博を取り締まるべき警察官がなんてことをしてくれたんだ。これでは、警察の威信が揺らぐ・・・」と上使が部下を厳しく取り調べをしている光景を想像することができます。

金十郎が、「ばくち宿」を開き、「ばくち」をしていたというのが事実なら、金十郎は、目明しの職務に違背するいとなみをしたということで目明しの職務を剥奪され、犯罪者として処罰されることになったでしょう。

しかし、金十郎は、陣屋の取り調べに対して、次のような弁明をしているのです。

<「賭場」を開いた覚えはありません。陣屋の耳に入った情報は、もしかしたら、「自宅の普請の祝儀」の席での話かも知れません。金十郎こと、私は、念願かなって家を新築することになりましたが、そのことを祝って、目明し仲間たちがやってきました。その夜、「慰み遊びのためのばくちをした」ことがありますが、それは「一文構え」のばくちであり、今回取り締まりの対象になっている賭博のように、一瞬にして家・屋敷を失うような投機的な賭博とは異なります。新築祝いに駆けつけてくれた仲間うちでの慰め遊びに過ぎません。関係者以外は、一名たりとも参加させてはおりません。「ばくち宿をしたような事実」はまったくありません。今回、「風聞にせよ、陣屋をわずらわし申し訳ない」とつくづく反省しております。今後は、疑わしい所作をすることがないよう、「いっさい慎み、領内の(「ばくち」の摘発をはじめとする)吟味」に力をいれたい・・・>。

金十郎の自己弁明に対して、守山陣屋は、「それならば今回のことは不問にするが、・・・守山町付近の四か村ばかりでなく領内全体にわたってばくちがなされないよう取り締まり、ふだんから不行跡者とされている者にはよく注意を与えるよう努めよ・・・」と戒告を与えるのです。陣屋の情報収集は、金十郎が「わたましてら」(普請祝いの賭博の寺銭)を13貫ほど手にしたことまで徹底したものでしたが、「聞き捨て」扱いとされたようです。13貫というのは、3両1分に該当します。金十郎の新築祝金を含んでいると考えると、この金額が実質上のとばくになるのかどうか・・・。ちなみに3両といいますと、一人の浪人に対する臨時雇い、各種職人の常雇いの年収に匹敵します。

ともかく、目明し金十郎は、守山陣屋の「ばくち」に対する一斉取り締まりの際に受けた嫌疑を上記のような弁明ではらしたのです。

その後、目明し金十郎は、司法・警察官としてまぎらわしい行動をとることを避け、その職務を忠実に果たしていきます。寛延元年(1748)、下白岩村の賭博に関する事件を捜査し(他藩の「やくざ」が賭博で巻き上げられた5両と取り戻そうとして白刃を振りかざして暴れた事件)、みずからが「目明し」ではあっても「博徒」ではないことを立証していきます。そして、「ばくち」の嫌疑を晴らしてから26年間、目明しの職務を辞するまで、近世幕藩体制下の司法・警察官である「目明し」の職務をまっとうするのです。そして、名誉ある目明しの職務を甥の源之助に受け渡していくのです。「博奕」・「やくざの顔役」としてではなく、司法・警察官たる「目明し」として・・・。

阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』で、「目明し」=「ばくち打ち」=「やくざ」として立証しようとしていますが、その同じ論述の中で、はからずも、「目明し」≠(「ばくち打ち」=「やくざ」)であることを立証しているのです。阿部善雄氏がその矛盾に気付いていない、気付いていてもそれを無視している背景に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の法を遵守する姿勢を見失っていることがあるのではなないかと思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から自由になることができない限り、その矛盾に気付くことはないのかも知れません。

筆者の『部落学序説 非常民の学としての「部落学」構築をめざして』の視点・視角・視座からしますと、現代的社会問題としての「部落と暴力団」問題の背後に、近世幕藩体制下の「穢多と博奕」問題を重ね合わせることは歴史の事実に著しく違背するものであると思われます。

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2007.08.03

「部落」と「暴力団」に関する一考察(8)

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「部落」と「暴力団」に関する一考察
第8回 総括の方向性について・・・

筆者の手元にある資料のみをもちいて、「部落」と「暴力団」に関する一考察という主題で論じてきました。

近世幕藩体制下の西日本(長州藩)においても東日本(守山藩)においても、「博奕」は、最初から最後まで犯罪のひとつです。

「博奕」が合法化され、組織としての「博奕」集団が社会的に認知される・・・、という可能性はほとんどあり得なかったのではないかと思います。

「博奕」は、違法行為であり、犯罪そのものです。

『部落学序説』の筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」概念の外延に、「同心・目明し・穢多・非人、村方役人」を数えました。「非常・民」は、権力に無条件に屈従するのではなく、権力の定めた法・法度に忠実にその職務を遂行していました。

「穢多」と「博奕」について考察するとき、「穢多」は、違背行為である「博奕」を取り締まる側であり、「博奕」は、司法・警察官である「穢多」によってその法的逸脱を摘発される側でした。「穢多」と「博奕」は、相互に相矛盾する存在であったのです。

もちろん、どの世界にも常に例外が存在します。

司法・警察官といえども、あるときは誘惑に負け、違法行為と知りつつ「博奕」に身をゆだねることもあったでしょう。しかし、それは、司法・警察官全体が「博奕」であったということを証明するものではありません。「穢多」=「博奕」という事実は、あくまで、法的逸脱、犯罪事例としてのみ存在します。

『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の著者・成松佐恵子氏は、このように記しています。

「幕府が出す法令を集めた『御触書天保集成』によると、「博奕之部」(天明八年より文化一三年まで)に見える博奕禁止令は二〇回に及んでいる。いずれも博奕、賭の勝負について前々より御禁制であるにもかかわらず、いまだに止まないとして厳重に取締まる内容となっている。」

近世幕藩体制下の「博奕」は、「やくざ」という組織的集団として一度たりとも公認されることはなかったのです。上記『御触書天保集成』を見ても、「博奕」と、それが組織化され、集団化されることを、時の権力者は極力警戒し、早期にその芽を摘み取っていたのです。

明治維新によって、近世幕藩体制は破棄され、近代中央集権国家が構築されていきますが、明治元年、「新刑法が定立」されるまで「従前通り」という方針のもと、『仮刑律』が制定されます(以下の引用は、岩波日本近代思想体系『法と秩序』)。

「博奕

凡、博奕いたすものは皆笞五十、当場之財物は官没す。若博奕せずといへども奕の宿いたし座銭を受るものは同罪。宿いたす迄の者は笞三十、奕座之世話いたすものは笞二十、礼銭を受るもの一等を加ふ。若軽き帯刀人并浮浪之徒犯すは奪刀、庶人と成す。僧尼犯すものは脱衣、追院。其奕場におゐて奕犯を捕へ及び捕へ得ずと雖も官に訴へ告るものは、奕之財物を以賞に充」。

明治3年、明治政府が出した『新律綱領』では、次のように規定されています。

「賭博

凡財物ヲ賭シ、博戯ヲ為ス者ハ、皆杖八十。賭場ノ財物ハ、官ニ入ル。其賭房ヲ開帳スル人ハ、其列ニ与ラズト雖モ、同罪。飲食ヲ賭スル者ハ、論ズルコト勿レ。
若シ産業無クシテ、常ニ帯刀ヲ挟帯シ、無頼ノ徒ヲ招結シ、賭場ヲ開帳シ、四隣ニ横行スル者ハ、皆流一等」。

明治6年の『改定律例』においては、次のように明文化されています。

「賭博条例

第二百六十九条 凡賭博、三犯以上ハ、懲役一年。
第二百七十条 凡賭場現在ノ財物ハ、官ニ入ルト雖モ、其田宅等不動産ニ係ル者ハ、原主ニ還付シ、官ニ入ルゝノ限ニ在ラズ。
第二百七十一条 凡博戯ニ用フル骰子・骨牌ヲ売ル者ハ、賭博者ト同罪。再犯ハ、一等ヲ加ヘ、三犯以上ハ、懲役一年。
第二百七十二条 凡賭博ノ列ニ与ラズト雖モ、母銭ヲ借シ、息ヲ収ル者ハ、犯人ト同罪」。

明治13年の、ボアソナードの指導のもとに編纂された近代的刑法である『刑法』には、次のように記されています。

「第六章 風俗ヲ害スル罪

・・・
・・・
第二百六十条 賭場ヲ開帳シテ利ヲ図リ、又ハ博徒ヲ招結シタル者ハ、三月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ、十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス。
第二百六十一条 財物ヲ賭シテ現ニ博奕ヲ為シタル者ハ、一月以上六月以下ノ重禁錮ニ処シ、五円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス。其情ヲ知テ房屋ヲ給与シタル者、亦同ジ。但、飲食物ヲ賭スル者ハ、此限リニ在ラズ。
賭博ノ器具財物、其現場ニ在ル者ハ、之ヲ没収ス」。

近世幕藩体制下の司法・警察官である「非常民」のひとつであった「穢多・非人」は、明治政府の外交上の諸問題(キリシタン弾圧等)の影響で、旧制度の解体に合わせて解体されます。しかし、明治4年の「穢多・非人ノ称廃止」の太政官布告によって、表向き、宗教警察機構としての「穢多・非人」制度が廃止されますが、明治政府は、近代中央集権国家を神道国家にすべく、キリスト教弾圧の方針を徹底しようとします。そして、「穢多・非人」を、「半解半縛」(『部落学序説』の筆者による造語)のかたちで、「警察の手先」として組み込んでいきます。

「穢多・非人」は、明治初期には、近世幕藩体制下の司法・警察官としての職務を、事実上遂行していたのです。

法の執行者としての「穢多・非人」の職務に対する忠実さは、「博奕」・「賭博」についても及んだことと思われます。「旧穢多」は、明治12年頃まで、「博奕」・「賭博」に関与することはないと思われます。あるとしたら、それは、「旧穢多」の先祖達が、近世幕藩体制下において、法に忠実に職務をになってきた歴史を否定し、それを反故にして顧みない場合のみです。

「穢多」=「博奕」という等式は、あり得ない等式なのです。

しかし、日本国家によって、「旧穢多」が「特殊部落民」・「同和地区住民」として、また、「博奕」が「暴力団」として、新たな行政用語として再認識されていく過程で、「部落」=「暴力団」という等式が、行政・政党・運動団体によって唱えられるようになります。

『部落学序説』の筆者としては、「部落」=「暴力団」という等式からかもしだされるイメージを一人歩きさせないためにも、「旧穢多」の末裔である、被差別部落民、同和地区住民は、「穢多」≠「博奕」との認識をもって、部落解放運動の「正常化」を図るべきではないでしょうか。

同和対策事業の認証システムは、行政・政党・運動団体・暴力団等による似非同和行為を生み出すことに結果したのではないでしょうか・・・?  国の同和対策が、本来の立法主旨からそれて、同和対策事業費の適用範囲を拡大していったことが、似非同和行為問題や「部落」=「暴力団」というキャンペーンを拡大再生産させていったのではないでしょうか・・・?

33年間、15兆円の同和対策事業・同和教育事業に群がっていった行政・政党・運動団体・暴力団・新左翼等は、部落差別問題の解消ではなく、その利権漁りに汲々としてきたのではないでしょうか・・・? その証拠に、部落差別の現実は、ほとんど何の解決ももたらすことなく(経済的改善も被差別部落の中の格差を広げたのみ・・・)、部落差別として現存しているのです。「旧穢多」・「特殊部落民」・「同和地区住民」・「被差別部落民」・・・、彼らは、33年間、15兆円の同和対策事業・同和教育事業に群がっていった行政・政党・運動団体・暴力団・新左翼等によって、昔、「賤民」という差別的なレッテルをはられ、そして、今も、「賤民」としてラベリングされ続けているのです。

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