2007.03.15

好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・

《読書案内》《総合目次》
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部落学序説付論
好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・

筆者は、筆者が住んでいる下松市の書店で本を買うことはほとんどないのですが、数日前、久しぶりにその書店を尋ねました。

そのとき、目に入ってきた1冊の新書版があります。それが、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書)でした。

著者紹介をみますと、「1956年大阪市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程・・・。現在は筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・・・」とあります。

20年ほど前、解放社会学会の鐘ヶ江晴彦先生から送っていただいた本に『被差別の文化・反差別の生きざま』(明石書店)があります。その編著者に、福岡安則・好井裕明・桜井厚・江嶋修作・鐘ヶ江晴彦・野口道彦の名前がみられます。そのとき、好井裕明氏は、広島修道大学助教授と紹介されていますから、20年の歳月の間に、好井裕明氏は、西日本の大学から東日本の大学に在所を移されていたようです。

好井裕明氏は、『被差別の文化・反差別の生きざま』に先立って、その本の内容である、奈良県小林部落の聞き取り調査について、解放社会学会の紀要『解放社会学研究1』で、「ある被差別部落の共同心性」という論文を公表しています。

筆者は、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読みながら、社会学者としての好井裕明氏は、この20年という歳月の間にどのように「変化」(当然、成長・発展という方向での変化ですが・・・)したのか関心をもちはじめました。

好井氏は、「本書は、社会学における社会調査、特に質的なフィールドワークをめぐるものである。」といいます。「「世の中を質的に調べる」うえで、基本であり大切だと考えるセンスについて、好きに語ったものである。」といいます。

好井氏は、「社会学的な調査研究では、使用する概念を設定し、定義を明らかにし、論理的に現象を説明しようとする」といます。社会学的な調査研究だけでなく、およそ「学」と名のつくものは、同種の手続きを踏んで学的研究を遂行していきます。無学歴・無資格の筆者ですら、『部落学序説』執筆に際しては、その基本手続きは踏襲せざるを得ません。

好井氏は、社会学的調査を十全なもとのするためには、「調査する技法、方法、装置」だけでなく、「世の中を質的に調べるセンス」が必要であるといいます。それをより万人向けにやさしく表現すると、「日常への〃まなざし〃」であるといいます。「世の中を調べようとするときには、日常を生きている人間が何をどのように調べようかと発想し、さまざまな違いを生きている人間を調べるという営みがある。すなわち、調べる私も含めた他者が普段から暮らしている日常への〃まなざし〃が基本にある。」といいます。

専門的な知識と技術だけでなく、調査する側、調査される側の「日常への〃まなざし〃」の共有は、「相手との相互行為のなかで、研究者もまた、さまざまに変貌していく可能性を持つ・・・」といいます。

「どうしたら、語りだされる力を受けとめ、語る人間と向き合うことができるのだろうか。どうしたら人々が生きてきた現実や、人々の語りや営みと出あうことができ、それらを彼らの「場所」から解釈することができるのだろうか・・・」と自ら問いかける好井氏は、その問いに対してふさわしい解答を提示していきます。

他者に対して聞き取り調査を実施していく中で、聞き取り調査を実施する側も、「相互行為」による、相手からの問いかけにさらされ、調査を実施する側のありようが問われることによって、共有しているはずの「日常への〃まなざし〃」が危うくされるといいます。「それまで聞いたことのなかった、壮絶な、しかし豊かな、誇りに満ちた人生の語りと出会い、感動し、自分の背後にある自明性のどこかに亀裂が入り、崩れた部分が新たなパーツに取り替えられていくような感覚」を持つようになるといいます。

好井氏は、「こう書いていて、いつも思い出すシーンがある。」といいます。

そのシーンとは、「大学院生時代、奈良の被差別部落へ聞き取りにいったときのシーン」であるといいます。少し引用が長くなりますが、そのシーンを紹介します。

「そこでは上水道が長い間ひかれず、ずっと水の苦労があったという。生活のためにためていた水を濾過するタンク。その狭いタンクの中を掃除しているとき、あやまって道具の柄が目にあたり失明した母のことを、ある男性が語ってくれた。

「いま、朝起きてもね、顔洗うのに、栓ひねったら、水ピヤッと出まんねん。なんで、これ、母親が生きているあいだに、いっぺん、これをキュッとひねったら、お母さんが、『ああ、ありがたいな』て言うて、死んでほしかったということだけは、私の心にあります」

上下水道を利用できる喜び。母親に一度でいいから水道水の栓をひねってきれいな水を使ってほしかったという思い。蛇口をひねり、冷たい水が流れ出て、それを両手いっぱいにすくおうとするしぐさ。男性はこうしたしぐさをしながら、喜びを前身で現すように語ってくれた。

私は講義でこのときの経験をよく語るが、男性の語りやしぐさを鮮明に思い出し、」いまでも思わず鳥肌が立つ。

差別はいかに人々の暮らしや生きていく思いを侵食してきたのか。人々はいかに差別と向き合って生きてきたのか。差別とはこのようなものだと、なかば自明のものとして私の中にある理解。それがいかに薄っぺらなものであるかを思い知らされ、崩れていく。そして、男性の語りや思いが、差別を考える新たな現実の手がかりとして、私の中で〃生き始める〃のである。

また、想像したこともないような世界や暮らしのありようを体験したとき、それまで研究者をとらえて離さなかった常識が一気に崩れさり、そのあとを新たな価値や知識が埋めていくこともある」。

ほんとうの聞き取り調査は、聞き取り調査をするものの、ものの見方や考え方を変えていく力をもっている・・・。

好井裕明氏が、大学院生時代、奈良県小林部落の聞き取り調査で経験した出会い・・・、その出会いは、好井裕明氏の「原体験」として、20年後の、筑波大学大学院人文社会科学研究科教授としての学究のいとなみの中にも影響し続ける・・・、その出会い、「原体験」は、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の中で経験した出会い、「原体験」と大概において共通するものです。被差別部落の人々に対する聞き取り調査が、一般説・通俗説の確認にとどまらず、それらを根底から見直し、発想を逆転させるほどの衝撃を受けた・・・、という点では、著しく共通したものであるといえるでしょう。

学歴・資格の持ち主である好井裕明氏にとっても、無学歴・無資格の筆者にとっても、その出会い、「原体験」は、等しく襲ってくるもののようです。

好井裕明氏は、「「聞き取る」という営みは、目の前にいる相手の「生きた歴史」「いま生きている固有の経験を知りたく思い、そうした語りを、他でもない目の前にいる自分に語ってほしいと相手に要請することである」といいます。彼は、「そのような要請がある場で、自分が「透明人間」」になることはできないといいます。

好井裕明氏にとって、社会学とは、自らを透明にして学者としての本分を全うすることではなく、社会学者である自らを曝け出しながら、聞き取り調査の対象になってくれる相手と生きた格闘をすることである・・・、というのです。彼は、彼のライフワークであるエスノメソドロジー(対話的構築主義)を、「相手と向き合って話し合い(「対話」し)、何かをつくりあげる(「構築」する)こと。」であるといいます。

無学歴・無資格の筆者は、何度聞いても、エスノメソドロジー(対話的構築主義)がどんな学問であるのかさっぱり理解することはできませんが、『部落学序説』は、広い意味では、その実践事例ではないかと思わされます。

好井裕明氏は、「おさえきれない思いのわきあがり」の小見出しのもと、このように綴ります。

「それにしても、なぜ人は、自分の人生のできごとを単に記憶としてとどめておくのではなく、文字で「人生の物語」を残そうとするのだろうか。・・・人生で起こるできとごとの意味を、どこから、どの視点から語るのか。できごとを経験した当事者が、自らの記憶、自らの思いをてがかりとして、自分の言葉で語りだす。世の中のきまりやものの見方、標準的な理解では、おさまりきらないような生きる意味があるからこそ、人は、語り、書くのではないだろうか・・・」。

学歴・資格、無学歴・無資格を問わず、「おさえきれない思いのわきあがり」という熱い思いなくして、学的追究はほとんど不可能であるといえるでしょう。

好井氏は、「本書が主張する社会学。それは、常識的なものの見方に絡めとられている私たちを解放しようとする。・・・「あたりまえ」を常に疑い、「普通であること」に居直らない「ものの見方」が、いかに「わたし」という存在を・・・<ひと>にまっすぐ向き合」う存在たらしめることになる・・・」といいます。「<ひと>の生と出あう社会学。それは〃学ぶ〃ものではなく、自分なりに〃生きる〃ものだ。これだけは、まちがいない。」と言い切ります。

筆者のこの文章・・・、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を紹介するためではありませんでした。

20年前の《ある被差別部落の共同心性》、『被差別の文化・反差別の生きざま』、そして、20年後の『「あたりまえ」を疑う社会学』を合わせ読んで、好井裕明氏が、奈良県の被差別部落の聞き取り調査で経験された、「出会い」・「原体験」・・・、「水」についての話の中で、好井裕明氏が、いまだに気づいておられないと筆者には見える視点・視角・視座について、批判的に言及するつもりでした。しかし、筆者は、抜きかけた批判の刃を鞘に収めることにしました。

というのは、筆者があえて指摘しなくても、好井裕明氏が指向する「日常への〃まなざし〃」は、やがて、筆者が言わんとすることを明らかにしてくれるでしょうから・・・。小林部落の方々との出会いを、自分のうちに反芻していく中で、筆者が言わんとしていることがらは、やがて、自らを開示することになる・・・、と確信することができたからです。好井裕明氏による、小林部落の方々に対する聞き取り調査、想起のうちに、いまだに途上にある・・・、と思われるからです。

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