2007.03.15

水平社宣言(原文)

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第1項】水平社宣言(原文)



宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社


決議

一、吾々に對し穢多及び特種部落民等の言行によつて侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺彈を為す

一、全國水平社本部に於て我等團結の統一を圖る為め月刊雑誌『水平』を発行す。

一、部落民の絶對多数を門信徒とする東西兩本願寺が此際我々の運動に對して抱藏する赤裸々なる意見を聴取し其の回答により機宜の行動をとること

右決議す

大正十一年三月三日 全國水平社創立大會



『部落学序説』第5章・水平社宣言批判で使用する文献としての「水平社宣言」とその「決議」は、「決議」の中にうたわれている月刊雑誌『水平』第1巻第1号、27~28頁に収録されている上記「水平社宣言」とその「決議」を使用します。

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なぜ、史料としての「水平社宣言」なのか

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第2項】なぜ、史料としての「水平社宣言」なのか

前回、「水平社宣言」を紹介するにとどめましたが、筆者にとって、「水平社宣言」は、日本の近代史・現代史における史料のひとつに過ぎません。

その史料を、『部落学序説』の非常民論・新けがれ論などの解釈原理によって、明らかにするのみですが、これまでにも、『部落学序説』執筆の筆者の視点・視角・視座については、繰り返し言及してきました。

筆者は、近世幕藩体制下の「百姓」身分の末裔であり、いかなる意味でも、「武士」身分とは関わりがありません。「戦時」において「軍事」に携わる「武士」だけでなく、「平時」において「司法・警察」に関与する奉行・与力・同心・目明し・穢多・非人・・・とも一切関わりがありません。

筆者の先祖は、常に、「被支配」の側に身を置いていたのであって、いかなる意味でも「支配」の側に身を置くことはありませんでした。

戦後の部落解放運動の当事者、あるいは、彼らと連動して言動を繰り返した、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の目からみると、典型的な「差別者」の側に位置づけられる存在です。「被差別者でなければ差別者である」という強引な命題を強制されると、筆者は、間違いなく、「差別者」の側に立たされてしまいます。

『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築を目指して)は、戦後の部落解放運動の中で、運動家・学者・研究者・教育者によって、「差別者」としてラベリングされ批難の対象にされる立場に身を置いていることを明言した上で、近世・近代・現代を通じて、「支配」の側ではなく「被支配」の側に身を置き続けてきた「常民」としての「百姓」の末裔の視点・視角・視座から、近世幕藩体制下の司法・警察として「支配」の側に身を置いてきた「非常民」としての「穢多」とその末裔を論じたものです。

いわば、「民衆史観」からみた、「穢多」とその末裔の姿を描こうとしたものです。

2005年5月14日に『部落学序説』の執筆を開始して以来、大量の文章を排出してきましたが、『部落学序説』の研究対象・研究方法・非常民論・新けがれ論・・・などにつきましては、運動家・学者・研究者・教育者による批判はほとんどありませんでした。

兵庫県の丹波篠山の「被差別部落」出身の政治家から、罵詈雑言をあびせられたのみです。

彼は、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群をほとんど読まれることなく、表層的に通り一遍の非難・中傷を展開しているのみで、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する正当な批判とは到底認識することはできません。

『部落学序説』執筆開始以来、20カ月に渡って、筆者に、その執筆を許し続けているものはなになのでしょうか・・・。

団塊世代に属する筆者が、団塊世代が最も苦手とする情報リテラシーの知識・技術を駆使して、ネットワーク上で、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆しているためでしょうか・・・。

20カ月、20万の累計アクセス件数・・・、というのは、『部落学序説』とその関連ブログ群が、ネットワーク上でもほとんど無視されているという証拠に過ぎないという同世代の、運動家・学者・研究者・教育者からの批判は、的を得ているのかもしれませんが、『部落学序説』が、「差別者」のたわごとに過ぎないとうのであれば、徹底的に批判してネットワーク上から葬り去るのがよろしかろうと思うのですが・・・。

『部落学序説』の第5章・水平社宣言批判について言及をはじめるにあたって、最初にとりあげることにしたのは、史料としての「水平社宣言」でした。

<史料としての>という、「水平社宣言」に対する筆者のスタンスのとり方は、上記の、戦後の部落解放運動をになってきた運動家・学者・研究者・教育者から「差別者」とラベリングされる立場に立たされる筆者の唯一の語りの場であるように思われます。

筆者は、無学歴・無資格をかえりみず、<史料としての>「水平社宣言」に拘泥していくのみです。

<史料としての>というスタンスのとり方以外に、「水平社宣言」に対してどのようなスタンスのとり方があるのか・・・、筆者があえて語る必要もないほど、一般化したものがあります。

それは、<人権宣言としての>「水平社宣言」を評価する、戦後の部落解放運動をになってきた運動家・学者・研究者・教育者などのスタンスです。

「水平社宣言」を、「人権宣言」として認識するのは、「水平社宣言」執筆前後にすでに存在しています。『部落の歴史と解放理論』の中で著者の井上清が言明しているところですが、近世幕藩体制下の長州藩の支藩である徳山藩の東穢多村の末裔たちは、当時の「徳山新聞」の差別記事に抗議して、このようにその理由を記したといいます。「吾等の目的とすべき処は人権主張の為なれば、主義の徹底するまでは止めず捨てず進行すべく・・・」。井上清は、この、徳山藩の東穢多村の末裔たちの言葉は、「「人権主張」という原理原則」に基づく「権力機関に対する闘争宣言」であったといいます。

井上清は、「ここには、差別されて憤慨するというだけのものではなく、その憤激を理性的認識にまで高め・・・ている」といいます。そして、「ここからあの水平社の創立宣言までは一直線であった。」といいます。

「水平社宣言」が、被差別の側の精神的葛藤の中から沸き起こった「人権宣言」であることは、否定すべくもありません。「水平社宣言」に対する、この修辞は、「水平社宣言」の本質を語ってあまりあると思うのですが、その認識は、戦前の水平社運動、戦後の部落解放運動の中で、繰り返し主張されてきました。しかも、<人権宣言としての>「水平社宣言」は、単なる人権宣言から、「日本における人権宣言」(井上清)、「日本の人権宣言」、「世界の人権宣言」として、その認識は高まる一方です。「水平社宣言の思想をもって、世界の差別撤廃運動に連帯する・・・」、全国水平社創立70周年を祝う、部落解放同盟中央本部執行委員長・上杉佐一郎のことばです。

しかし、「水平社宣言」をめぐっては、部落解放運動の更なる展開を願う人々の「水平社宣言」に対する熱き思い入れとは別に、「水平社宣言」のテキスト・クリティークを徹底しようとしている人々も存在します。「水平社宣言」の歴史的評価を不問に付して、現代の部落解放運動の理想・理念を逆に読み、「水平社宣言」を、ポスト同和対策事業・同和教育事業の運動理念足らしめようとする流れから身を引いて、「水平社宣言」を批判検証し、その歴史的再評価を獲得しようとする人々も存在します。

従来の部落解放運動の中では、部落解放運動の当事者、また彼らと連動する学者・研究者・教育者からは、「差別者」とラベリングされる一般民衆のひとりでしかない筆者は、「水平社宣言」を論ずるに、前者の立場に立つことはできず、後者の立場に立たざるを得ないのですが、無学歴・無資格の筆者は、更に、後者の立場からも身を置いて、<史料としての>「水平社宣言」について語ることしかできません。

筆者が、<史料としての>「水平社宣言」・・・、という表現を用いるようになったには、ある体験があります。(続く)

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水平社の宣言としての「水平社宣言」

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第3項】水平社の宣言としての「水平社宣言」

1992年・・・、その年は、水平社創立70周年の年でした。

その年、水平社創立70周年を記念して、住井すゑ原作の小説『橋のない川』が制作、上映されました。

映画『橋のない川』は、映画館で一般上映されると同時に、映画館のない地域においてもこの映画を観賞することができるよう、全国津々浦々で『橋のない川』上映運動が展開されました。

そのとき、部落解放同盟山口県連の要請で、日本基督教団の山口県諸教会も、『橋のない川』上映運動に参加することになりましたが、柳井地区の上映運動に参加したのが、日本基督教団柳井教会でした。

そのとき、『橋のない川』の上映運動に積極的にかかわってくださったのが、日本基督教団柳井教会の当時の牧師でした。彼は、解放同盟大阪府連の池田支部で書記を担当されていたとかで、部落解放運動の集会のもち方については、いろいろ経験があるということでした。

そこで、柳井地区の『橋のない川』上映運動をどのように展開するかは、その牧師に一任することになりました。その結果、彼は、映画『橋のない川』を上映する前に、なぜ、上映運動に参加することになったのか、「観客」にその趣旨を説明したあと、「水平社宣言」を朗読することにしたい・・・と、いうのです。そして、その朗読を筆者にしろ・・・、というのです。

日本基督教団柳井教会が主体となって、映画『橋のない川』の上映運動をするのは、そんなに簡単ではなく、いろいろ障害があると思われたし、その中にあっても、上映運動に参加してくれたことを考慮すると、筆者は、「水平社宣言」朗読を無碍に断ることはできませんでした。

そして、映画上映の当日、筆者は、柳井市労働者会館のホールの「すり鉢状の底」に立って、観客を前に、『橋のない川』の上映運動の趣旨を説明したあと、観客の視線が、スポットライトをあてられた筆者に注がれる中、水平社宣言を朗読しはじめたのです。

「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ!」

最初の一声で、静まりかえった会場が、さらに静まりかえったように思われました。筆者の耳元には、ホールの壁に反響して、「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ!」という自分の声が、こだまのように返ってきました。

そのとき筆者は、思ったのです。この宣言は、誰が、誰に対して、何のためにしている宣言なのか・・・、と。

筆者は、「水平社宣言」をただ単に朗読していただけなのですが、ホールの壁に反響して返ってくる、「水平社宣言」の言葉と音声は、単なる朗読ではなく、「宣言」として、響いきたのです。

昔、日本基督教団神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、信者の方から、筆者の説教は、説教ではなくアジ演説である・・・と批判されていましたが、「さもありなん・・・」と思われるほど、「宣言」を読み上げるアジ演説として響いてきたのです。

「兄弟よ、吾々の祖先は自由平等の渇仰者であり実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であった。ケモノの皮を剥ぐ報酬として生々しき人間の皮を剥ぎとられ・・・」、読みすすめるに連れて、筆者の顔が赤くなっていくのが分かりました。

そして、こころの中で、こう思っていたのです。

「なんなんだ、この宣言は・・・」。

「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」。

この言葉にさしかかったとき、上映運動に参加してくださった方々の視線が、「水平社宣言」を朗読する筆者に集中的に向けられるような気がしました。その視線は、「連帯と決意」に溢れたまなざしではなく、「差別と排除」に満ちたまなざしではないか・・・、と驚愕の思いを持たされたのです。

「水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。」と最後の言葉を読み終えたとき、柳井市労働者会館のホールは、更に静まりかえっていました。

1922(大正11)年の水平社創立大會のとき、「水平社宣言」を朗読したのは、駒井喜作でした。月刊雑誌『水平』第1巻第1号には、そのときの情景がこのように記されています。

「駒井氏の一句は一句より強く一語は一語より感激し来たり、三千の会衆皆な声をのみ面を伏せきょきの声四方に起こる、氏は読了ってなほ降壇を忘れ、沈痛の気、堂に満ち、悲壮の感、人に迫る、やがて天地も震動せんばかりの大拍手と歓呼となった・・・」。

「水平社宣言」を読み終えたとき、筆者は思ったのです。「この宣言は、わたしが朗読すべき宣言ではない・・・」、と。

筆者は、「水平社宣言」を朗読しながら、「この宣言は、それを朗読するものが、大衆の前に自分の身をさらすことなくして語ることができない信仰告白のようなものである・・・」と感じたのです。

キリスト教における「信仰告白」は、閉じられた世界である教会の礼拝堂の中で語られることばではありません。信仰者が、その全存在をかけて、自分の身をこの世の中に曝しながら告白することばこそ、真の「信仰告白」に値するのです。

「水平社宣言」は、「水平社」の「宣言」であり、「水平社」を創設していった「特殊部落民」、および、「穢多」と自らを称する人々の、身を曝して語る告白ではないのか・・・。筆者は、そのとき、キリスト者として、筆者の全存在をかけて、その信仰を告白することはできても、「水平社宣言」は、筆者にとって同等の意味をもっていない、というより、筆者とは無縁の世界の告白である・・・、と感じたのです。

それ以来、それまで、筆者が観念的に受け止めていた、「水平社宣言は人権宣言である」という命題をそのまま承認することはできなくなりました。「水平社宣言」が、一般的な意味での「人権宣言」であるなら、すべての人の唱えることのできる宣言であるはず・・・、しかし、「水平社宣言」は、すべての人のための「人権宣言」ではなく、「水平社」にかかわった人々の「宣言」に過ぎない。それは、彼らによる、彼らのための「人権宣言」に過ぎない・・・、と認識するようになったのです。

部落解放同盟大阪府連池田支部の書記をしていたという柳井教会の当時の牧師の要請で、『橋のない川』上映運動のときに、見ず知らずの観客を前に、「水平社宣言」を朗読した、その経験は、映画『橋のない川』を筆者をして、別様に見させることになりました。

孝二「そんなら七重さん、結婚式は」
七重「する。あの人なしでも、結婚式するの、うち」
孝二「え?」
七重「あの人はうちの旦那さんやけど、もうひとり、旦那さんいてるもん、うち」
孝二「もう一人?」
七重「うち、水平社宣言と結婚するんやもの。」

『部落学序説』の筆者である私は、「水平社宣言」について言及するとき、七重のように、愛と思いをこめて「水平社宣言」を告白することは不可能です。「水平社宣言」に対して言及する可能性は、<史料としての>「水平社宣言」でしかありません。

筆者の「水平社宣言」に対する距離のとり方を理解できない方は、筆者と同じように、見ず知らずの不特定多数を前にして、「水平社宣言」を朗読されてみたら分かります。「密室」で何の躊躇いもなく朗読できる「水平社宣言」も、多くの群衆の集まる「広場」で公然と朗読することは、非常に困難なことになります。なぜなら、被差別部落出身でないものが、「水平社宣言」を朗読(告白)することは、「精神的似非同和行為」という愚を犯さずしてなし得ないからです。

『橋のない川』上映運動のとき、筆者に、「水平社宣言」を朗読させた、部落解放同盟池田支部の書記をされていた牧師は、ほんとうは、部落解放とは何なのか、その本質を理解できていなかったのではないか・・・、と考えるようになりました。彼が、たとえ、部落解放運動の経験者であり、プロであったとしてもです。

もし、私が彼の立場であったとしたら、被差別部落出身ではない、部落解放運動に対して「生半可」な、中途半端な知識しか持ち合わせていない牧師に、「水平社宣言」を朗読させたりしないで、部落解放運動に参加し、それでメシを食ったことのある存在として、自ら「水平社宣言」を朗読したことでしょう・・・。

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「水平社宣言」の本文批評の背景

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第4項】「水平社宣言」の本文批評の背景

「水平社宣言」の研究史に関して、筆者の手元にあるのは、ごくわずかです。

その中でも、参考になるのは、吉田智弥著『忘れさられた西光万吉』(明石書店)です。

吉田智弥氏は、「私はこれまで水平社宣言を批判したり・けなしたり・貶めたり、というような評価は聞いたことがありません。」と記していますが、「水平社宣言」を、<史料として>また<文献として>、本文批評の対象にする・・・、ということは、つい最近のことのようです。

彼は、また、このようにも記しています。「水平社宣言は、部落解放運動のバイブルのような扱いになっていますから、今日、これを正面から批判した文章にはなかなかお目にかかれません」。

「水平社宣言」は、戦前・戦後を通じて、部落解放運動に関わっていく人々にとっては、バイブル(聖書)に等しい存在であって、多くの部落解放運動家は、この「水平社宣言」を無条件に受け入れ、それに依拠してきたと思われます。

「水平社宣言」には、近世・近代における「穢多」の末裔にとって、歴史の「中点」のような側面があります。戦前戦後の水平社運動・部落解放運動は、1922(大正11)年3月3日に明らかにされた「水平社宣言」を絶えず「想起」しながら、それぞれの時代の部落差別撤廃のための闘いを続けてきたのです。

「水平社宣言」は、部落差別撤廃のために闘う「被差別部落」の人々にとって、彼らの父祖たちが作成した「宣言」を「想起」することによって、そこから、常に、部落解放運動の基本的な精神に立ち戻り、水平社運動に関わった人々の「熱と光」に触れることで、新たな息吹と反差別闘争への意欲をくみとってきたのです。

「水平社宣言」と、それぞれの時代が直面した状況との間を、「想起」の形で往復することは、「水平社宣言」そのものと、「部落解放運動」との間に相乗効果をもたらし、「水平社宣言」は、「部落解放運動」に基本的な方向と運動のあり方を指し示し、「部落解放運動」は、「水平社宣言」を単なる、「水平社」の「宣言」ではなく、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」にまで高めることに結果しました。

戦後の「部落解放運動」は、日本の社会に存在する部落差別を世界にしらしめ、その運動のバイブルともいえる「水平社宣言」を「日本発の世界的な人権宣言」にまでおしあげてきたのです。

しかし、吉田智弥氏は、現代の部落解放運動は、「部落問題の不幸」に直面しているといいます。

「部落問題の不幸」というのは、同和対策事業によって「達成されつつある平等」は、必ずしも、「被差別部落」の人々にとって、その部落差別からの「解放」に直結してこなかった・・・、国家や地方行政が、同和対策事業の名目で「被差別部落」の人々に提供してきた「平等」のための施策は、「被差別部落」の人々がこころから願う「部落差別」の完全解消に直結してこなかったという亀裂のことです。

吉田智弥氏は、両者の間には「千里の径庭がある」といいます。「質的な落差がある」といいます。

そして、深刻なことには、「そこのところは当初は部落の人たちの大衆的な認識としても、運動側の理屈としてもまったくわからなかった。まして同伴者においてをや。・・・」という状況があったといいます。

吉田智弥氏は、自らをどの立場に置かれてこの文章を書いているのか、筆者には、知るよしもありません。大衆的な部落民、部落解放運動家、それと連帯する学者・研究者・教育者・政治家・企業家・労組・・・。

吉田智弥氏は、「部落問題の不幸」に、「同和対策事業」に内在する問題に加えて、「同和教育事業」にも大きな問題があったといいます。

多くの時間と費用をかけて実施されたにも関わらず、「同和教育事業」は、部落差別問題の基本的なことがらも解明することはできなかったというのです。「「部落とは何か」についての定義ができていません・・・・」。また、「「部落民とは何か」の定義も曖昧です・・・」といいます。

そして、「部落問題認識の大きな躓きの石」である、「士農工商・えた・ひにん」の枠組みから基本的にはまだ自由になっていない・・・、といいます。「士農工商・えた・ひにん」の小手先の変更では、「躓きの石」を取り除くことはできません。

部落解放研究第40回全国集会(2006年度)においても、『福岡発!今Dokiの部落史学習-部落史学習の新構想』(福岡市同和教育研究会・大谷和弘、原田雅秀)の中で、福岡教育大学の石瀧豊美氏の「武士・町人・浦人・宗教者・かわた(穢多)など」という新たな図式が紹介されていますが、吉田智弥氏は、「そうした歴史学者の研究に沿った物のいい方では、なおさら「部落民」という規定が難しい。」といいます。

吉田智弥氏は、いいます。「事実」「理論」がどこかで食い違ってきている・・・。そして、その食い違いの発端は、「「水平社宣言」ではないか・・・」というのです。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」を、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」であると確信しながら、そうであるにも関わらず、戦前における国民総動員体制下の水平社運動の変節、また戦後の同和対策事業・同和教育事業下の部落解放運動の変節を防ぐことができなかったのか・・・、と自らにといかけ、そして自らその問いに答えます。水平社宣言の中にその原因が内在しているはずだと・・・。その変節の「予兆」は、「すでに「水平社宣言」のどこかで垣間見ることができるはずだ」と。

吉田智弥氏は、その「仮説」を証明するために、「水平社宣言」のテキスト批判をはじめるのです。

吉田智弥氏は、「すでに発表されている研究者の文章を寄せ集めて転記しているに過ぎない・・・」といいますが、現時点での、「水平社宣言」の本文批評に関する研究の網羅的紹介であると思われますので、吉田智弥氏の文章をてがかりに、「水平社宣言」の本文批評(テキストクリティーク)に挑戦してみましょう。

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「水平社宣言」の本文批評

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第5項】「水平社宣言」の本文批評

『忘れさられた西光万吉』の著者・吉田智弥氏は、「「水平社」創立大会「宣言」」である「水平社宣言」は、「厳密にいえば何種類もあります・・・」といいます。

「文章は基本的には一つですが、漢字にルビがあったりなかったり、そのルビの打ち方が異なっていたり、宣言主体の団体名が「水平社」であったり「全国水平社」だったり、微妙に表記の違うものがいくつもあります。」と指摘しています。そして、水平社宣言の本文批評の本格的な研究として朝治武著『水平社の原像』を紹介しておられます(筆者は買いそびれたまま読んでいない・・・)。

「水平社宣言」が複数存在しているということは、「水平社宣言」の原本と写本が存在している・・・ということを意味しますが、それでは、「水平社宣言」の原本がどれで、写本がどれなのかといいますと、部落史の学者・研究者・教育者、あるいは運動家の間では、定説・・・、というようなものは、いまだに確定されていないようです。

吉田智弥氏がとりあげる「水平社宣言」は以下のとおりです。

(1)1922(大正11)年3月3日の創立大会でまかれた「水平社宣言」(原文?)
(2)水平社パンフレット「よき日のために」に収録されている「水平社宣言」
(3)『西光万吉著作集』第1巻に掲載されている「水平社宣言」
(4)雑誌『部落』31号に掲載された西光万吉の自筆の宣言原稿の写真版
(5)上記写真版を井上清が『部落の歴史と解放理論』で活字化して紹介した「水平社宣言」
(6)雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」
(7)崇人小学校所蔵のビラ

吉田智弥氏によると、「水平社宣言」の原文を確定することの困難さは、代々の部落史に関する学者・研究者・教育者が、誰ひとりとして、「水平社宣言」の原文の保存について関心をもっていなかったことに起因します。吉田智弥氏は、「実をいうと、当日の会場で宣言文を印刷したビラが撒かれたかどうか・・・」と、(1)の「水平社宣言」(原文?)の存在すら疑わしい・・・といいます。無為に時は流れて、「80年前にそこに立った人たちに改めて証言を求めることもすでに不可能」な時代に突入している現在、「水平社宣言」の原文を明らかにすることは難しいといいます。

それにしても、部落史の学者・研究者・教育者の、「水平社宣言」の原文に関する関心度が極めて薄く、原文を忘却の彼方に追いやってしまったことは、無学歴・無資格の筆者にとっても「残念」の極みです。

しかし、歴史上の直接の史料・伝承がない場合でも、それで、「水平社宣言」の原文が、永遠に歴史から抹殺されてしまったわけではありません。部落史の学者・研究者・教育者は、彼らの歴史研究者としての、意地と自負心にかけて、歴史学的に「水平社宣言」の原文を推定・確定する作業を遂行する責任があります。

『部落学序説』の筆者としては、まだ、目を通さなければならない文献があるので、「水平社宣言」の原文に関する論述は、今後の課題にすることにして、『部落学序説』執筆に際して使用する「水平社宣言」を、(6)雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」を<原文>として見立てて論述していくことにします。

吉田智弥氏が、「水平社宣言」を「「水平社」創立大会「宣言」」として認識していることを踏まえれば、全国水平社創立後の、雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」を「水平社宣言」として認識することが最も妥当であると判断するからです。

沖浦和光氏は、『水平・人の世に光あれ』の解説の中で、「大会前日の3月2日」「京都の東七条」「全国水平社仮事務所」で、「西光が起草にあたった」「宣言草案」「原案に対して各人が意見を述べて、最終案が決定された・・・」と記しています。

その「最終案」は、水平社創立大会によって、「宣言」として採択されたわけですから、大会後の記録である「全国水平社創立大会記」に収録されている「水平社宣言」をもって原文とみなす方が自然であると思うのですが、戦後の部落解放運動、部落史研究の中では、上記の(2)水平社パンフレット「よき日のために」に収録されている「水平社宣言」の方が採用されてきたようです。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」の本文批評をそこそにして、その関心を、西光万吉が作成した「水平社宣言」の「草案」・「原案」に移していきます。西光万吉が「水平社宣言」を起草したときの執筆意図・編集意図の解明をはかろうとします。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」を、「水平社」の「宣言」としてではなく、それを執筆・編集した、西光万吉の部落解放思想の表出物として認識しようとします。「水平社宣言」の中から、西光万吉固有の部落解放思想を抽出しようとします。

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「水平社宣言」の草稿の解析

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第6項】「水平社宣言」の草稿の解析

『部落学序説』の筆者が参考にしている歴史学研究法は、今井登志喜著『歴史學研究法』(東大新書)と古島敏雄著『地方史研究法』(同)であることは、これまでも繰り返し述べてきたところですが、「史料批判」(外的批判と内的批判)を徹底するためには、多くの時間と労力を必要とします。

『部落学序説』は、既存の歴史学・社会学・民俗学・・・などの部落研究・部落問題研究・部落史研究の時代的制約と限界を突破すべく、歴史学・社会学・民俗学に限らず、すべての「学問」(科学)の学際的研究として、独自の研究対象・研究方法を設定したうえで、既存の文献の批判・検証を通じて独自の見解を展開してきました。

多くの場合、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と、「賤民史観」を無批判的に継承する学者・研究者・教育者に対する批判を展開することになりましたが、日本の歴史学・社会学に内在する差別思想は、「賤民史観」だけでなく、「愚民論」や「優性思想」も存在します。

しかし、それらをすべて解明し、解体していくには、多くの時間と労力を要します。無学歴・無資格の筆者のよしとするところではありません。もし、筆者が、たったひとりで、「賤民史観」をはじめとする差別思想を解明・解体していこうとしているなら、それは、「狂気の沙汰」以外の何ものでもないでしょう。

そこで、既存の歴史学・社会学・民俗学の研究成果を尊重しつつ、「部落学」からのあらたな批判検証を展開するために採用したのが、ひとつのテーマに対して、相反する学説を展開する学者Aと学者Bを、『部落学序説』の解釈原理を適用、比較検証して、いずれかの説を「受容」し、いずれかの説を「排除」するという方法でした。

無学歴・無資格の筆者が、ほとんど「専門家」によってしか研究されていない部落研究・部落問題研究・部落史研究のテーマについて言及する際、当然予想される「批判」をできる限り排除するために、採用することにした苦肉の策でした。

『部落学序説』のどの部分も、その苦肉の策が織り込まれていますので、『部落学序説』の読者の方が『部落学序説』を批判しようとすると、筆者の論述の背景にある、相反する学説を展開する学者Aと学者Bの批判を余儀なくされます。学者Aと学者Bの両方の説を肯定するか、否定するか、それとも、学者Aの説を肯定し学者Bの説を否定するか、それとも、学者Aの説を否定し学者Bの説を肯定するか・・・、『部落学序説』の読者の方は、筆者に対する批判に先立って、そのいずれかを自分で確認する必要があります。

現在のところ、筆者が、苦肉の策として取り入れた「防塁」を突破して、筆者の論述を批判してこられる方々は、極めて少数です。「そういう書き方をすると、誰もコメントをつけることができなくなる・・・」と『部落学序説』の執筆方法に不満を寄せられる方は少なくないのですが・・・。

今日は、2007年3月1日です。

明後日は、3月3日は、水平社創立記念日です。3月3日は、「日本の最初の人権宣言」としての「水平社宣言」が出された日です。沖浦和光氏は、この日を、「かくして水平社は、被差別部落のみならず、全人類の完全解放をめざす運動として、その光輝ある長征の途についた・・・」日と記念します。

しかし、2007年3月3日・・・、1922(大正11)年3月3日に「水平社宣言」が朗読されてから満85年になります。

果たして、日本人のうち、3月3日に、この「日本の最初の人権宣言」を覚え、記念し、決意をあらたにするひとがどれほど存在しているのでしょうか・・・。

おそらく、『部落学序説』の筆者は、「希有」なひとりとして、この文章を書いているのではないでしょうか・・・。被差別部落出身者でも、部落解放運動の担い手でもない、彼らによって、「差別者」とラベリングされてきた多くの「差別者」のひとりに過ぎない筆者は、好奇の目でみられるに過ぎない存在かもしれません。

前置きが長すぎましたが、「水平社宣言」の草案の解析・・・について、話をすすめていきましょう。

昔も今も、「水平社宣言」は、水平社の創立メンバーのひとり、西光万吉の執筆によるものであるという認識が一般的でした。執筆者とみなされてきた西光万吉自身、繰り返し、「水平社宣言」の執筆者であると言明してきましたから・・・。

しかし、1967年、「西光が亡くなる3年前、72歳の時に」(吉田智弥氏)、このような文章を発表したといいます。「水平社を創立するについて、もとより大会宣言がいりますから、その宣言をつくるについて私は気になって前から幾度も書いたり消したりして居ました。それで当時平野さんに大添削をしていただいても、それ程に思わず忘れてしまったのでしょう。(略)ですから、平野様がそれほど添削して下さったことも忘れて、自分だけで書いたように思い込んでいました。平野様と皆様にお詫び申し上げます・・・」。

「水平社宣言」の「合作説」が、「水平社宣言」の執筆者とみなされていた西光万吉の口から証明された瞬間でした。

その後、「水平社宣言」における、西光万吉の思想の「オリジナリティ」が問題にされるようになり、西光万吉の部落解放思想の表出とみなされていた「水平社宣言」から、相当部分が、「引用」・「借用」・「剽窃」部分であることが明らかにされていきます。

剽窃」というのは、「他人の詩歌・文章などの説または文句をぬすみ取って、自分のものとして発表すること」(広辞苑)を意味しますから、「水平社宣言」の執筆者としての信用を著しくそこなう表現です。

「剽窃」は、現代的にいえば、著作権の侵害にあたるということでしょうか・・・。

『部落学序説』執筆にあたって、筆者は、作花文雄著『詳解・著作権法・第3版』(ぎょうせい)、約850頁を読破しました。『部落学序説』は、上記しましたように、学者Aの説と学者Bの説の比較・検証を必然的に含みますので、それらの学者の「引用」を避けることはできません。

また、『部落学序説』とその関連ブログ群の文章に対する読者の方々からの正当な「批判」、また「非難中傷」に対しても反論のため「引用」を余儀なくされる場合もあります。「著作権侵害」を理由に俎上におかれる場合は、裁判資料として自他の関連文書を確保する必要も出てきます(現在のところ、筆者の文章中の引用は、著作権法で定められている、「引用の要件」をすべてクリアしています)。

しかし、「水平社宣言」の場合は、「剽窃」ということが該当する可能性もあります。

「水平社宣言」を、「日本の最初の人権宣言」として標榜し続けていくためにも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、「水平社宣言」の草稿にともなう諸問題を徹底的に解明していく必要があります。

とりあえず、吉田智弥氏の『忘れさられた西光万吉』に従って、「水平社宣言」の、その執筆者とみなされる西光万吉の「非オリジナリティ」部分を図示してみましょう。

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■平野小剣
_「民族自決団・檄」
■ゴーリキー「ドン底」
■「よき日の為に」追記一枚刷り
■相馬御風『ゴーリキー』

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

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上記の色分けした部分(■平野小剣・_「民族自決団・檄」・■ゴーリキー「ドン底」・■「よき日の為に」追記一枚刷り・■相馬御風『ゴーリキー』)が、西光万吉の創作でないとしたら、それ以外の部分は、西光万吉のオリジナリティといえるのでしょうか・・・。

「宣言・・・長い間虐められて來た兄弟よ。・・・我等の爲の運動が、・・・夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の・・・自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。兄弟よ。・・・そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。・・・・・・そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。大正十一年三月三日 全國水平社」

学者・研究者・教育者が、西光万吉のオリジナリティを疑う箇所を取り除いた残りの部分を一読しますと、そこには、奇妙な「宗教混淆」的表現がみられます。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、それらの「宗教混淆」的表現が、西光万吉のオリジナリティであるという説は受け入れがたいものがあります。

吉田智弥氏は、「結局、「宣言」の大部分は西光の創作文章ではなくて、様々な人たちの書いた文句・語句の寄せ集めではないか、ごった煮ではないかという指摘が、最近になって様々な論者から出されるようになりました。」といいます。

しかし、吉田智弥氏は、西光万吉の筆になる「水平社宣言」の構成要素となった思想・信条について、さらに批判検証をすすめ、「水平社宣言」の総体と、それらの構成要素との間の有機的関連を明らかにするのではなく、それらの「水平社宣言」に対する本文批評をわずかなことばで切り捨ててしまいます。

吉田智弥氏は、「にもかかわらず、私はそれでも西光万吉が「宣言」を書いたと見なします。」と主張します。「内外の先人たちからの引用が多くあって、平野小剣からの助言や加筆があったのはその通りでしょう。であるとしても、それらを一つの文体で作品としてまとめたのは西光だった、ということを重視したいと思う・・・」といい、「若干26歳の青年」であった西光万吉の、「当時の部落の人たちの心の底に沈潜してきた思いを汲み出して、喉の奥から吐き出すような響きがある」文才を、「私はほとんど無条件に感服したい気持ちでいます。」と力説します。

「宣言文の文章の中に引用部分がある、剽窃部分がある、借用部分があるということは十分に承知しながら、なおかつ西光万吉をこの宣言の起草者としてもう一度位置付け直す・・・」といいます。

吉田智弥氏は、西光万吉を、「水平社宣言」の「執筆者」としてより「編集者」として認識し、その「編集」と文体の中に、西光万吉のオリジナリティを再発見しようとしているかのようです。

その場合、「水平社宣言」起草に関して、西光万吉の「執筆意図」ではなく、「編集意図」がクローズアップされてくるようになりますが、筆者には、西光万吉の「編集意図」への傾斜は、「水平社宣言」をめぐる本文批評上の問題を解決に導くどころか、さらに問題を複雑にしていくことに結果するのではないかと危惧の念を持ちます。

「水平社宣言」は、部落差別完全解消に向けた、「被差別部落」の人々の思想・信条、挫折と失敗、夢と希望・・・、種々雑多な流れが集約されていく場所であり、また同時に、「水平社宣言」以降の時代を生きる「被差別部落」の人々にとって、「水平社宣言」は常に「想起」の対象であり、「想起」することによって、今日の部落解放運動の置かれた現実を「改革」し、明日の部落解放運動のあらたな展望を切り開いていく拠り所になっていくべきものです。

そのためにも、「水平社宣言」は、徹底的に批判検証にさらされる必要があります。

吉田智弥氏のように、その批判検証を中断し、安易に、「水平社宣言」と、その起草者・西光万吉を擁護すべきではないと思っています。

『部落学序説』の著者である私は、被差別部落出身でもないし、部落解放運動の担い手でもありません。また、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者でもありません。無学歴・無資格の「ただのひと」です。「ただのひと」にして思うことですが、「水平社創立大会の宣言」としての「水平社宣言」は、「水平社」の「宣言」として、「水平社宣言」に対する徹底的なテキスト批判に耐えることができる内容を秘めていると思われます。

筆者は、「水平社宣言」をほんとうの意味で理解するためには、歴史の「中点」である「水平社宣言」に立脚して、そこに至る、「被差別部落」の人々の思想・信条、生活と闘いの諸相と継承を明らかにするとともに、「水平社宣言」が、それ以降の「被差別部落」の人々の部落差別完全解消の闘いに、常に「想起」されるべきものとして作用し、それぞれの時代において、部落差別完全解消への展望と希望を与えてきたことを明らかにしなければならない・・・と思います。

『忘れさられた西光万吉』の著者・吉田智弥氏は、「水平社宣言」を把握するに、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の思想・信条、生活と闘いを、ごっそり欠落させ、削り落としてしまいます。吉田智弥氏の「水平社宣言」解釈には、近世と近代の通史的視点・視角・視座はありません。最初から最後まで、「近世」を切り離した「近代」以降の歪(いびつ)な解釈に終始していると、筆者には、思われます。

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「水平社宣言」の2資料説

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第7項】「水平社宣言」の2資料説

1922(大正11)年3月3日、水平社創立大会で「宣言」として採択され、雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」に収録された「水平社宣言」をもう一度、再掲します。

『部落学序説』の筆者としては、西光万吉が晩年に告白した、「水平社宣言」の、西光万吉と平野小剣の「合作説」を踏まえて、下記のように、西光万吉の筆になる部分を「S資料」、平野小剣の筆になる部分を「H資料」と呼ぶことにします。

「S資料」と「H資料」を区分するのは、朝治武著『水平社の原像』(解放出版社)の吉田智弥氏による引用を参考にしたものです。「H資料」は、「この部分は全部、平野小剣の文章ではないかと、あるいは平野の助言、添削によって書かれた文章ではないかと推量されています。」と吉田智弥氏が紹介している部分ですが、筆者は、「H資料」は、「平野小剣の文章」であると仮定して、これからの論述を展開していきます。

「仮説」・・・、というのは、今後、この部分の研究が進み、「S資料」と「H資料」の区分が見直されるようなことがあれば、筆者の論述の変更の可能性もある・・・、という意味です。

既存の研究の中では、朝治武著『水平社の原像』の論述に勝るものはないと思われますので、暫定的に「仮説」として採用します。

あらためて、「水平社宣言」を、「S資料」・「H資料」に色分けしますと、以下のようになります。

■S資料(西光万吉の文章)
■H資料(平野小剣の文章)

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

『部落学序説』の筆者は、「水平社宣言」の執筆者が、西光万吉ひとりではなく、西光万吉と平野小剣の二人であった・・・、ということは、「水平社宣言」の価値を貶めるものではなく、むしろ、「水平社宣言」の価値を高めることであると考えます。

「水平社宣言」の「合作者」が、ほかならぬ平野小剣であった・・・、ということは、「水平社宣言」に、多様性と、異なる精神の葛藤をもたらせることになるからです。

「S資料」の西光万吉と、「H資料」の平野小剣とは、水平社創立のために先陣をきって活躍した思想家・運動家であるといえます。言わば、西光万吉と平野小剣は、「水平運動」の東と西の両巨頭であるといえます。

平野小剣は、東日本の出身、西光万吉は、西日本の出身・・・。網野善彦説に従いますと、「東日本」の「穢多」と、「西日本」の「穢多」との間には、無視することができない、歴史と伝統、「穢多」の「役務」と「家職」に大きな違いがあり、それは、今日に至るまで、大きな影響を与えています。

「水平社宣言」は、西日本の「被差別部落」を中心に展開されたのではなく、最初から、東日本と西日本の「被差別部落」の人々の共闘作業として展開されていた・・・、のですから、「水平社宣言」の執筆に、西日本の西光万吉だけでなく、東日本の平野小剣も深くかかわっていたということは、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、それは、「水平社宣言」の価値を貶めることではなく、逆に、「水平社宣言」の価値を高めることにつながると思われるからです。

「水平社宣言」は、水平社運動の西光万吉と平野小剣の両巨頭を通して、東西の旧「穢多」の歴史と文化、思想と信条が、ある種の緊張を孕みながら統合されていったとのではないかと思われるのです。

西光万吉と平野小剣という、縦糸と横糸が織りなす「水平社宣言」という布の、「表地」は、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって、「引用部分」・「剽窃部分」・「借用部分」と揶揄、非難中傷される、西洋の思想・信条・文化の影響を受けた<外来の思想>の部分が燦然と輝いて目に飛び込んできますが、しかし、筆者は、「水平社宣言」の「裏地」は、<外来の思想>によって駆逐されることのない、「穢多」の末裔として生きなければならない<古来の思想>、「穢多」の歴史と伝承、生活と闘いが織りなされていると思われるのです。

『部落学序説』第5章・水平社宣言批判は、「水平社宣言」という錦の「表地」と「裏地」の両方を批判・検証することによって、近世の「穢多」と、近代以降の「旧穢多」との間に、歴史的一貫性を描くことにあります。「近世」から切り離された「水平社運動」ではなく、「近世」の継承と延長線上に「水平社運動」を描くことにあります。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者があまり関心を持つことなく看過してきたテーマです。

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朝治武・歴史の記憶としての「水平社宣言」説

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第8項】朝治武・歴史の記憶としての「水平社宣言」説

筆者が、第1節・史料としての「水平社宣言」で、原文として紹介したのは、水平社創立後、その機関誌『水平』(第1巻第1号)で、「全国水平社創立大会記」に収録された「宣言」です。

水平社は、創立大会から第16回の最後の大会まで、全11の宣言が採択された・・・(朝治武)、といいます。それは、いずれも「宣言」として採択されますが、一般的には、第1回の創立大会の「宣言」を指して、「水平社宣言」という名称が用いられています。

この「水平社宣言」の原文とは何か・・・

筆者が、朝治武氏の「水平社宣言」に関する論文にはじめておめにかかったのは、1999年2月発行の雑誌『現代思想 特集・部落民とは誰か』(青土社)に収録されていた、朝治武著《歴史的記憶としての「水平社宣言」》でした。

筆者の「史料としての「水平社宣言」」という表現は、朝治武氏の「歴史的記憶としての「水平社宣言」」という表現を相当強く意識したものにほかなりませんが、朝治武氏は、「歴史的記憶という言葉は一般的に使われているわけではなく、私がそう呼んでいるものである。」と説明しておられます。

彼にとって、「歴史的記憶」は、「日常に埋没している時には歴史を振り返ろうともしないし、体験や歴史的な事柄は過ぎ去った単なる過去でしかない。」といいます。「しかし時として、生活・仕事や生き方で何かにぶつかったり、課題に直面したりすると、歩んできた道を辿ってみることがある。その時に蘇るのが・・・歴史的記憶」であるといいます。

「被差別部落」のひとびと、あるいは、「部落解放運動」に従事してきた「被差別部落」のひとびとが、人生のいろいろな問題に挫折し途方にくれたときに、立ち返る場所としての「歴史的記憶」が「水平社宣言」であるというのです。

筆者の場合、同様の状況に立たされたとき、筆者が立ち返る場所、そこに立ち返って、現状を認識・克服して、あらたな希望に向かって旅立ちをすることができる場所は、キリスト教の歴史の中で「信仰告白」と呼ばれているもので、いかなる意味でも、「水平社宣言」ではありません。

朝治武氏は、「水平社宣言」の原文の可能性として、今日、部落解放同盟全国大会・都道府県連合会・支部大会で採用されている「水平社宣言」のテキストは、「1982年時点で全く新しく作られたもの」であると主張します。

今日、多くの学者・研究者・教育者が「水平社宣言」として引用しているものは、この「1982年時点で全く新しく作られた」「水平社宣言」でしかないのです。25年前の部落解放運動団体、それと連動していた部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が合同で、公的に認定した「水平社宣言」が、今日、一般的に「水平社宣言」として流布されているのです。

それ以降、「水平社宣言」は、当時の部落解放運動の要請から再解釈されて、各種、現代語訳を生み出したきました。「水平社宣言」の歴史的原文からの逸脱的解釈、著しいものがあります。

朝治武氏は、「水平社宣言」の原文として可能性があるのは、次の3点であるといいます。

(1)京都市立崇仁小学校などに所蔵されているビラ
(2)全国水平社の機関誌『水平』第1巻第1号に収録されている「宣言」
(3)(2)の誤植を直して作成されたビラ

朝治武氏は、今日、一般的に流布されている1982年版「水平社宣言」は、「原文」として評価することはできないと断定しています。

朝治武氏は、(1)のビラに印刷された「宣言」を、「全国水平社創立宣言は創立大会に提出された可能性が高い、もしくはすくなくとも最も早く作成されたビラを原テキストとすべき」であるといいます。「一歩譲っても・・・」、上記の(2)と(3)に「とどめるべき」であるといいます。

ところが、朝治武氏も指摘しておられる通り、美作修氏は、「全国水平社創立大会では印刷された宣言文があるかどうかについては全国水平社創立者の西光万吉と阪本清一郎はなかったといい・・・「いまとなってはたしかめるすべはない」といいます。

「水平社宣言」の起草者とみなされる西光万吉が、<全国水平社創立大会では、水平社宣言は印刷物としては配布されなかった・・・>と回顧している事実を最大限尊重すると、朝治武氏のように、(1)をあえて「原文」として選択することは大きなリスクを背負うことになります。

『部落学序説』の筆者としては、筆者自身、無学歴・無資格を十分自覚していますので、学的研究方法については極めて一般的・常識的であろうとしますので、(1)を捨てて、朝治武氏が、「一歩譲って・・・」原文として認めることをやぶさかとしない(2)の全国水平社の機関誌『水平』第1巻第1号に収録されている「宣言」を、「水平社宣言」の「原文」としたわけです。

「水平社宣言」の「原文」を、(1)にするか、(2)にするか、で「水平社宣言」の解釈は大きく影響を受けることになります。そのことに触れる前に、朝治武氏の、「水平社宣言」の西光万吉と平野小剣による「共同執筆説」・「合作説」をとりあげてみましょう。

朝治武氏は、「共同執筆説」を採用しているひとに、木下浩(「平野重吉(小剣)について」)・原田伴彦(『入門部落の歴史』)・渡辺徹(『部落問題事典』)がいるといいますが、村越末男(『部落解放のあゆみ』)・師岡佑行(『西光万吉』)によって、西光万吉単独執筆説が主張され、結局、「全国水平社宣言の執筆はあくまでも西光万吉のみである」とされるにいたったといいます。

朝治武氏は、「これは裏切者視さえするこれまでの平野評価の低さと、それを前提とした研究の蓄積の貧困さも関係していると思われる。」とその背景を推測しています。

朝治武氏は、「水平社宣言」の、西光万吉単独執筆説を捨て、西光万吉・平野小剣共同執筆説を採用します。

そして、西光万吉の思想の核心を、当時の日本の知識階級を席巻していた欧米の「人間主義」であるとし、平野小剣の思想の核心を、伝統的な「部落民意識」であるとします。朝治武氏が、西光万吉については「主義」とよび、「平野小剣については「意識」と呼びかえることにいささか疑問の思いを持ちますが、朝治武氏は、「この人間主義と部落民意識が全国水平社創立宣言の思想的特徴である」とし、「人間主義と部落民意識は部落問題およ