2006.11.29

「旧穢多」の精神史的考察は可能か

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第1項】「旧穢多」の精神史的考察は可能か

『部落学序説』の執筆は、1ヶ月以上中断されたままになっていました。

その間、『被差別部落の地名とタブー』を書いていましたが、その道草を打ち切って、もう一度『部落学序説』の執筆に戻ることにしました。

『部落学序説』の第4章は、この章でもって終わりにしたいと思っていますが、第4章において、「太政官布告批判」という主題のもと、明治4年の太政官布告第448号・第449号について、多角的に批判・検証をしてきました。あらためて結論をいいますと、この太政官布告は、決して、穢多解放令・部落解放令・賤民解放令・・・等ではなく、近世幕藩体制から近代中央集権国家体制への移行期にみられる、旧身分制度の解体の一場面でしかないということです。

明治4年の太政官布告以降、「穢多」は「旧穢多」として認識されるようになりますが、「旧穢多」は、近代中央集権国家体制へ、多種多様なかたちで再編成されていきます。

明治初年から明治4年の太政官布告公布の間、「旧穢多」の中には、近代中央集権国家の近代的身分制度の「士族」・「平民」に組み込まれた人々も少なくありません。

明治4年の太政官布告以降の「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の身分を廃止され、「常民」として生きることを余儀なくされますが、「非常民」から「常民」への変化(現代的表現では、「警察官」をリストラされ「市民」になるという変化)は、近世幕藩体制下の「新百姓」になぞらえて、「新平民」という概念を生み出します。

この「旧穢多」・「新平民」は、明治30年代後半まで一般的に使用されることになります。明治30年代後半以降、官製用語として登場してきた「特殊部落民」という概念は、「旧穢多」・「新平民」という概念を駆逐して、「旧穢多」・「新平民」をも含む、新たな概念(外延と内包の拡大)として、一般的に使用されるようになります。

明治4年の太政官布告以降、「旧穢多」・「新平民」がどのように、近代中央集権国家の中に再編されていったのか・・・、史料・文献で確認できるものだけでも、実に多種多様なものがあります。

(1)「平民」にされたあとで、あらためて、近代中央集権国家の司法・警察システムの中に組み込まれていったひとびと(正規雇傭)
(2)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての専門的知識・技術のゆえに、近代中央集権国家の司法・警察システムの中に「警察の手下」として組み込まれたひとびと(臨時雇傭)
(3)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「探索」に関する知識・技術の民間転用として「探偵・調査」の仕事に転職していったひとびと。
(4)「平民」にされたあとで、司法・警察以外の教育職・一般職の公務員になっていったひとびと。
(5)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の、役務の報酬として認められていた「特権」的家職(皮革・竹細工等)を継承していったひとびと。
(6)「平民」にされたあとで、近代中央集権国家の近代的産業の新たな担い手となっていったひとびと。
(7)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下において「穢多」に許されなかった「平民」の一般的職業に従事していったひとびと。
(8)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下において「穢多」に許されなかった(禁忌のひとつであった)「屠殺」の職業に従事していったひとびと。

近代中央集権国家の司法・警察システムの中に再雇傭されなかった「旧穢多」の多くは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の職務から遠ざかっていくことになります。「非常民」の職務を継承していったひとびとは、警察官・探偵(公務員)、探偵・調査員(民間)に関与していったと思われますが、その他の多くの「旧穢多」は、「非常民」としての職務から離れて、多種多様な職業に転じていったと思われます。

筆者は、その際、「旧穢多」は、どのように、「非常民」意識を棄て、「常民」意識を獲得していったのか・・・、大いに関心をもちます。

前節でとりあげた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた、村方役人の名主であった田中正造は、足尾銅山鉱毒事件に政治家としてかかわっていく過程の中で、「非常民」意識を棄てて、「常民」意識を獲得するために、「苦学」をせざるを得なくなります。その精神的葛藤のすさまじさに驚かされざるを得ないのですが、その精神的葛藤を、田中正造の精神史として描ききったのが、林竹二著『田中正造の生涯』(講談社現代新書)でした。田中正造の精神史を描いた著作としては、林竹二著『田中正造の生涯』は不朽の名作にふさわしいものではないかと思われます。

筆者は、近世幕藩体制下の「村」レベルの司法・警察である「非常民」のもうひとつの極、「穢多」は、明治4年の太政官布告以降、どのように、「非常民」から「常民」への精神的葛藤を経験することになったのか、林竹二著『田中正造の生涯』と同等の論文・著作を探し続けてきたのですが、今日に至るまで、筆者に期待に応えてくれる論文・著作に遭遇することはありませんでした。

それにもかかわらず、今回、筆者は、あえて「旧穢多」の精神史的考察を敢行しようとしていますが、筆者に可能なことなのかどうか・・・、こころもとないものがあります。無学歴・無資格、しかも、被差別部落出身者ではない「差別(真)」の筆者が、「旧穢多」の精神史を描くことなど、あまりにも無謀ではないか・・・、というためらいの思いを持たざるを得ないからです。

「精神史」を『広辞苑』でひきますと、このような説明がなされています。

【精神史】(Geistesgeschichte)歴史的事実の背後に歴史を動かす力として精神的な力が働いていると考え、この見地から歴史をとらえ、芸術・学問・宗教などの文化形象を精神の歴史として考察するもの。とくにドイツ的な考え方。

『広辞苑』の精神史に関する定義に沿って、この節を論述することはとうてい不可能ですが、近代的部落差別が成立するためには、日本の近代国家建設の過程で近代的部落差別をシステムの中に組み込んでいった側の精神史(「差別の精神史」・「被差別の精神史」)だけでなく、その差別制度・差別政策・差別思想を受容していって、自らを、国家公認の被差別民・「特殊部落民」たらしめていった、被差別の側の精神史の考察は不可欠であると思われます。

「差別」は、差別する側だけでは成立しません。差別される側が、その差別を受容して、差別する側の差別的な視線で、被差別者が自分自身を認識するようになったとき、はじめて、「差別」は、制度的・社会的に存在するようになります。

明治4年の太政官布告以降、「旧穢多」の精神世界で何が起こっていったのか・・・。「旧穢多」は、「非常民」から「常民」への道程を、どのような精神的変革を伴いつつ歩んでいったのか・・・。「旧穢多」の精神史を解明することは、近代的部落差別の淵源を解明するためにも必要欠くべからざる研究テーマです。

しかし、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、「旧穢多」の精神史を解明することにはあまり熱心ではありませんでした。学者・研究者・教育者だけでなく、被差別部落の当事者自身も・・・。部落解放運動の担い手の側からの、「部落差別はいわれなき差別・・・」、「部落差別は差別されたものにしかその痛みは分からない・・・」という言葉と思想に阻まれて、その障壁の中に立ち入ることは難しいものがあったと思われます。

被差別民の歴史の実像に基づく研究は退けられ、部落解放運動の基本方針や闘争理論によって私的思想統制と検閲によって捨象された「イデオロギー」(『部落学序説』の筆者が「賤民史観」と呼んでいるもの)的理解のみが要求されました。多くの学者・研究者・教育者は、この差別的な「イデオロギー」を受け入れ、「学問」の本質、真実を探求するという学者・研究者・教育者としてのいとなみを放棄してしまいました。

「旧穢多」の精神史を解明する研究は、ついぞ、なされてこなかったように思われます。「旧穢多」の精神史は、「差別の精神史」・「被差別の精神史」で代替することができない、極めて重要な問題提起をはらんでいるように思われます。(続く)

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2006.12.02

ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第3項】ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)

「M源兵衛・Y新蔵・・・」

インターネット上で、この節に関連したページを検索していて、上記のような表現に遭遇しました。そのページは、著名な部落史研究者の書いた文章の1節ですが、この人名表記方法を前に、少しく考えこまざるをえませんでした。

その部落史の研究者は、なぜ、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と「旧穢多」の名前の姓を「M」だの「Y」だののイニシャルで表現したのでしょうか。部落史の世界に、通説・俗説の世界から一歩でも踏み込めば、その「M」・「Y」が「毛利」・「吉富」のイニシャルであることはすぐにわかってしまいます。それなのに、なぜ、あえて「M源兵衛・Y新蔵・・・」と表現したのでしょうか。

昨今、「部落地名総鑑」や「部落人名総監」のことが話題になっているようですが、どちらかいいますと、問題の本質に迫らないで、いたずらに、部落解放同盟方々と反部落解放同盟の方々との間で、「部落地名総鑑」や「部落人名総監」をめぐって、皮相的な批判の応酬合戦が続いているようです。江戸の敵を長崎で・・・みたいな、復讐的発想に満ちたやりとりに、この国と社会の精神的な貧困さを見てしまいます。

「部落地名総鑑差別事件」に関する文章(部落解放研究所編『部落解放史』熱と光を・下巻)に、部落地名総鑑に関する定義が出てきます。

「地名総鑑とは、全国で5300を越す部落の地名と所在地、戸数と主な職業を都道府県別に編集し、1冊の本にまとめたものの総称で、今日までに発覚しただけで9種類に及んでいる」。

「総称」としての「地名総鑑」は、(1)全国の部落について言及している、(2)都道府県別に編集されている、(3)「地名」・「所在地」・「戸数」・「主な職業」が掲載されえいる、(4)1冊の本にまとめられている、(5)複数種類存在する・・・、という属性でもって定義されています。

部落解放同盟が「部落地名総鑑差別事件」として「地名総鑑」を差別文書として告発するとき、その「地名総鑑」は、すべて、上記の(1)~(5)の条件を満たしているということになるでしょう。

「地名総鑑とは・・・」の定義の中にでてくる「部落」とは何なのか・・・。

『部落解放史』の表現はあいまいです。最初にその存在が確認された「部落地名総鑑」は、1975年の『人事極秘部落地名総鑑』です。そのあと、あいついで『全国特殊部落リスト』(第2)・『全国特殊部落リスト』(第3)・『大阪府下同和地区現況』(第4)・『日本の部落』(第5)・『特殊調査報告書』(第6)・『まる特分布地名』(第7)、1978年には『同和地区地名総鑑』(第8)の存在が明らかにされました。第9番目の地名総鑑は、その一部をコピーしたものです。

「地名総鑑とは・・・」の定義の中にでてくる「部落」とは、「特殊部落」および「同和地区」のことであることがわかります。「特殊部落」の前の「旧穢多村」に関する地名総鑑は、「部落地名総鑑」に含まれていないようです。

上記9つの「部落地名総鑑」のうち、上記「地名総監」の定義に違背しているのは、第4の「地名総鑑」である『大阪府同和地区現況』です。『大阪府同和地区現況』は、表題の文字通り、大阪府にのみ限定されたもので、「(1)全国の部落について言及している」という要件を満たしていません。しかし、部落解放同盟は、『大阪府同和地区現況』を「部落地名総鑑」のひとつに数えました。

『部落学序説』の筆者は、この『大阪府同和地区現況』の内容について一切情報をもっていませんので、それがどういう類の資料なのかまったくわかりません。

山口県にも《同和地区の概要》という文書があって、そこには、「部落地名総鑑」の内容と重なる記述が多数みられます。もちろん、この《同和地区の概要》という文書は、山口県と山口県教育委員会が、同和対策事業・同和教育事業のための基礎資料として作成したもので、上記の差別文書である9つの「部落地名総鑑」と同一視することはできません。

文書の表題は同じでも、誰が何のために作成したか・・・によって、その文書は、同和対策事業・同和教育事業の基礎資料、あるいは部落解放運動の組織化と運動の推進のための基礎資料になる場合と、被差別部落のひとびとを就職・結婚時に差別するための「部落地名総鑑」になる場合に分けられることになります。

昨今の「部落地名総鑑」に関する問題提起・議論は、両者が安易に混同されて、意図的にセンセーショナルな報道合戦が行われているようで、『部落学序説』の筆者としては、この節で、関連史料を引用するときの時代的状況・環境は決してこのましいものではありません。

部落解放同盟の方々から、筆者に対して差別的であると指摘のあった、被差別部落の「地名」・「人名」に関する「禁忌」(タブー)視の問題について、すでに『被差別部落の地名とタブー』と題して「反論」・「弁明」・「言訳」をしてきましたが、今回、「旧穢多」の群像(地名・人名)について具体的にとりあげることになるので、もう一度、「部落地名総鑑」・「部落人名総鑑」について、より、実践的に確認しておこうと思ったわけです。

『部落解放史』によると、1982年、「高知県の8つの市の家族名簿が販売されていることが発覚」したそうです。筆者が、下松市の、当時現役であった職員の方からいただいた「下松市末武地区世帯主名簿」の中から、被差別部落の住人だけを取り出せば、「家族名簿」といわれる「部落人名総鑑」ができあがるのでしょうか・・・。『部落解放史』は、「部落地名総鑑」については定義していても、「部落人名総鑑」には一切定義をしていないようです。「部落人名総鑑」は、それが全国・都道府県レベルだけでなく、市町村レベルで流布されてもより深刻な差別状況を生み出します。市町村内の個々の被差別部落のレベルでの「部落人名総鑑」についても同様です。

今回、『部落学序説』で、「「旧穢多」の精神史的考察」を考察する際に使用する史料には、「旧穢多」の地名・人名に関するリストが含まれています。

当然、『部落学序説』の筆者としても、その史料に出てくる「旧穢多」の地名・人名の取り扱い方について、過去、どのような取り扱いかたがされてきたのか・・・、調べることになります。

その結果、遭遇したのが、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と記すべきところを、あえて、「M源兵衛・Y新蔵・・・」とイニシャルまじりに表現した部落史研究者(石瀧豊美:研究分野 近代史・教育史・地方史・部落史の研究者、明治維新史学会・教育史学会・軍事史学会・社会経済史学会九州部会・福岡地方史研究会・福岡県地域史研究所に所属、福岡地方史研究会会長・福岡県地域史研究所研究員・福岡教育大学非常勤講師で「部落解放論」を教授されている)の表現です。

なぜ、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と記すべきところを、あえて、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と記す必要があったのでしょうか・・・。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して、「フィールドワーク」(現地調査・被差別部落探訪)を実施しようと思えば、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」の現在の子孫と直接つながってくるためでしょうか・・・?

『部落学序説』でいう「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その職務に忠実に生きたひとびとで、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」もその「旧穢多」に数えられるべきひとです。

「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」は、小川順藏・古賀菊次・古賀斉基地・島津覚念・梅津和三郎・松田太平次・村井元半七・本田茂次郎・沢田甚之十・川越新次郎・津本茂八郎・津本亦次郎・巌平次・巌金次・樋口関蔵・小川為次郎・小川森次郎・古賀京太郎・松田松次・吉田和吉・金沢安兵衛の21名の「旧穢多」と共に、「旧穢多」とは何であるか・・・、その答えを内蔵する文章を残しているのです。その文章は、彼らの在所まで記されています。その在所名をひろいあげれば「部落人名総鑑」にくわえて「部落地名総鑑」のようなものができあがるでしょう。「小川順藏」を例にとっても、その在所は、「福岡県筑後国御井郡西久留米村千四百九拾七番地」と記されています。

地元福岡県の部落史研究者、しかも、福岡教育大学で非常勤講師として「部落解放論」を指導されている部落史研究者によっても、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と実名記載されず、「M源兵衛・Y新蔵・・・」と記号化・暗号化されてしか紹介されない史料というのは、まともな評価がされているのかどうか、疑問が残ります。

『部落学序説』の筆者である私は、上記23名の「旧穢多」に対して、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的まなざしを向けることなく、彼らを、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その「非常民」であるがゆえに、国家・社会から受容・排除を経験せざるを得なかった、「旧穢多」の精神史・・・に光をあてることができるのです。「部落差別」を拡大再生産するのではなく、「部落差別」を根底から解体し、「部落差別」の完全解消にむけた道程の上に、彼らを位置づけることができるのです。

「旧穢多」の地名・人名をかかげて、その存在を記録に残した「旧穢多」23名の意志に敬意を表して、「M源兵衛・Y新蔵・・・」ではなく、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」として論述していきたいと思います。

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2006.12.05

復権同盟結合規則に関する一考察

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第4項】復権同盟結合規則に関する一考察

小川順藏・古賀菊次・古賀斉基地・吉富新蔵・毛利源兵衛・島津覚念・梅津和三郎・松田太平次・村井元半七・本田茂次郎・沢田甚之十・川越新次郎・津本茂八郎・津本亦次郎・巌平次・巌金次・樋口関蔵・小川為次郎・小川森次郎・古賀京太郎・松田松次・吉田和吉・金沢安兵衛の23名の「旧穢多」の名前は、明治14年の「復権同盟結合規則」の発起人として記されています。

彼らは、今日の被差別部落のひとびとと違って、「旧穢多」の在所を示す「地名」と、「旧穢多」の家を示す「人名」に対して「禁忌」の思いを抱いてはいなかったようです。

彼らが情報交換するときの「名刺」は、「名刺雛形」にそって作成され、そこには、「何県 何国 何郡 何町村 何番地 平民」(1行目)、「何ノ何某」(2行目)が記載されることが了解されていました。発起人総代の一人、 小川順藏は、みずからを名乗るに、「名刺雛形」を先取りして、その在所を示す地名を、「福岡県 筑後国 御井郡 西久留米村 千四百九拾七番地 平民」(1行目)、「小川順藏」(2行目)と記しています。

「小川順藏」は、「旧穢多」としてのおのれの「地名・人名」を記すに、ほとんど何のためらいももっていなかったように思われます。

「小川順藏」だけでなく、「復権同盟結合規則」に発起人としてその名前を連ねた「旧穢多」は、その地名・人名を明らかにすることに、今日の被差別部落のひとびとがもっているような「地名・人名」に関する忌避感をもっていなかったと思われます。被差別部落の人々が、その「地名・人名」を恥ずかしく思い、それを隠すようになっていくのは、もっと後の時代であると思われます。

この「復権同盟結合規則」の23名の発起人たちは、「部落上層あるいは部落指導者層」に属する人々であったといわれます(岩波・日本近代思想大系『差別の諸相』)。

この「復権同盟結合規則」は、当時の福岡県令に対して出されたもので、明治13年に布告された「集会条例」(太政官布告第12号)に対して、上記23名の「旧穢多」を発起人として結成される「旧穢多」の結社が合法的であるかいなかの打診をしたものです。結果は、「集会条例ニ抵触セザル以上ハ届出ニ及バズ、依テ却下ス」として返却されます。

このことから見ても、「復権同盟」には、明治政府と福岡県に対する反体制的な組織・活動ではなかったと推測されます。むしろ、明治政府・福岡県にとって、「旧穢多」とその結社は、極めて親和性が高かったのではないかと思われます。

明治4年の「穢多非人ノ称廃止」に関する太政官布告が出されてから、この「復権同盟結合規則」が明治14年に県に提出されるまで10年の歳月が流れています。

「十年一昔」といわれますが、「十年たてば、もう昔である。十年を一区切りと見て、その間には大きな変化のあるものだということ。」(広辞苑)を意味します。つまり、「復権同盟結合規則」が出された明治14年からみると、明治4年の太政官布告はすでに過去のできごとになってしまっている・・・ということを意味します。

明治初期は、日本の近代中央集権国家建設のための近代化・欧米化が強引にすすめられた時代ですから、明治4年から明治14年の時代の変革は、無視できないものがあります。「旧穢多」23名も、それぞれの歴史と状況の中で、その10年間、さまざまな経験をしてきたのではないかと思われます。

「復権同盟結合規則」を歴史的に評価するときには、「旧穢多」23名の経験・体験した、この10年の足跡を検証する必要があります。「旧穢多」23名の置かれた歴史と状況が刻々と変わっているのに、その10年間を無視して、何の変化もなかったかのごとくに前提することは間違いであると思われます。

「復権同盟結合規則」の「緒言」において、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と記されていますが、『部落学序説』の筆者としては、このことばにいささか問題を感じてしまいます。「どういう理由があってか、穢多が穢多であるのかその起源は不明である」・・・といいます。

「旧穢多」23名は、「3県」(福岡県・熊本県・大分県)「11部落」(西久留米村・東久留米村・友田村・高瀬村・松園村・豊富村・巣林村・高良村・春武村・国武村・野中村)に散在しています。近世幕藩体制下において、それぞれ異なる歴史と状況を生き抜いてきた「旧穢多」です。当然、彼らは固有の、語るべき歴史と状況をもっていたと思われます。それなのに、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が口を揃えて、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と宣言するのは、なぜなのでしょう? なかなか理解しがたいものがあります。

「復権同盟結合規則」において、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と記されている背景には、明治4年から明治14年の間、「旧穢多」が直面した歴史的経験・体験が存在しているように思われます。

「復権同盟結合規則」には、「世ニ人外視セラレテ而テ別ニ異界ヲナシ、世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業ニノミ従事スルヲ以テ我曹ノ当務トセシ事、年已ニ久矣。」と記されていますが、この言葉は、明治4年から明治14年の間、「旧穢多」が経験した経験や体験が反映されたことばではないかと思われます。

従来の「復権同盟」に関する研究は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠して解釈されてきました。その結果、「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」ということばは正当な解釈を施されることなく、「農民層の部落への差別感情」が強調されてきました。従来の「復権同盟」に関する研究は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が避けることができなかった歴史のできごとと、そのできごとにおける「旧穢多」の役割・位置づけを不問に付してきたように思います。「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」も、そのことについて、直接言及することを避けたのではないかと思います。

「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」とは何だったのか・・・。

これまでの『部落学序説』の論述を踏まえて、その内容を推測することにしましょう。

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2006.12.08

「一般民衆の「視線」を気にしはじめた」旧穢多

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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第5項】「一般民衆の「視線」を気にしはじめた」旧穢多

「史料」が何を語っているのか、その真意を明らかにするのは難しい・・・。

今回、明治14年11月に出された「復権同盟結合規則」を読み直していて、その解釈の難しさに直面しました。

最初は、テキストを字義的に解釈しました。そのあと、「復権同盟結合規則」の注解者・ひろたまさきの解説《日本近代社会の差別構造》にそって、「復権同盟結合規則」の歴史的意義を明らかにしようとしました。無学歴・無資格の筆者ですが、「先行研究」について、網羅的に調べ上げる時間的・経済的ゆとりも、学識・能力もないにしても、せめて、手持ちの資料ぐらいは目を通そうとします。

岩波日本近代思想大系『差別の諸相』の末尾の解説《日本近代社会の差別構造》は、ひろたまさき著『差別の視線 近代日本の意識構造』(吉川弘文館)に同じ文書名で再録されていますので、その気になれば誰でも目にすることができる文章です。

その中で、ひろたまさきは、このように記しています。

「部落民衆はまず一般民衆の「視線」を気にしはじめたのである。たとえば明治14(1881)年、自由民権運動の高揚を背景に結成された「復権同盟」は、福岡・熊本・大分といまだかってない広汎な部落民衆の団結をめざすものであったが、その趣意書は「他ノ人民我曹ヲ蔑視凌辱スル事昔時ニ異ルナキハ、夫レ何ニ由リテ然ルカ。是他ナシ、名ハ既ニ穢多ノ汚界ヲ脱シタリト雖モ、其実未ダ之ヲ去ル事能ハズ、依然トシテ汚穢ノ業ニ而已従事シ自ラ卑屈ニ安ンズレバナリ」と、その「視線」は自己に向けている。つまり一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしているのである」。

差別というものが、差別する側が差別するだけでは成立せず、差別される側がそれを受け入れた場合にのみ、差別は差別として存在するようになることを考慮しますと、明治14年11月に出された「復権同盟結合規則」の中に、「一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしている」という事実が確認できるということは、明治14年11月には、近代的部落差別がすでに成立していたということになります。

「一般民衆」が「部落民衆」に「差別の視線」を向け、「部落民衆」はその内面において、その「差別の視線」を受容し、その「差別の視線」でおのれを見るようになっている・・・。

ひろたまさきの解釈をそのまま受け入れていいのかどうか、筆者は大いに迷うのですが、その理由は、明治14年11月時点で、「復権同盟結合規則」の発起人・「旧穢多」23名を「部落民衆」として認識することは、時代錯誤的認識を内包する可能性が高いからです。近代的「部落」概念は、法律用語として、明治20年頃に使用されはじめますので、明治14年時点では「部落民衆」という概念は成立しえないからです。「旧穢多」・「新平民」に代わって「特殊部落民」という差別的概念が使用されはじめるのは、明治40年3月のことですから(部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を 中巻』)、明治40年頃の「部落民衆」という概念を、、明治14年の「旧穢多」・「新平民」に向けて使用することに問題を感ずるからです。

『部落学序説』の筆者としては、明治14年11月時点の「旧穢多」に対して、「部落民衆」という表現を使用することは、問題をアナクロニズム的に複雑化させ、歴史の真実から遠ざからせる可能性があると思われます。

「復権同盟結合規則」の「依然として汚穢の業にのみ従事し・・・」ということばは、明治14年11月時点での意味内容と、明治40年3月時点での意味内容とでは、おおきな違いが生じている可能性もあります。歴史学の専門家としては、当然、想定される違いを解明する必要がありますが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、差別的な解釈で、時代と状況を越えて一色に染めあげる傾向があります。「旧穢多」にまつわる「汚穢の業」は、近世・近代・現代においても同じ意味内容をもっている・・・、と。近世の「穢多」の「汚穢の業」は近代の「旧穢多」の「汚穢の業」と同じものであると推定というか、断定して、歴史解釈を遂行します。

無学歴・無資格の「しろうと学」の筆者の目からみると、「穢多非人ノ称廃止」に関する太政官布告」が出された明治4年、「復権同盟結合規則」が出された明治14年、「部落」概念が政治用語・行政用語として登場してきた明治20年、「特殊部落」という差別的概念が政治用語・行政用語として登場してきた明治40年・・・、明治維新以降、近代化にともなうめまぐるしい変革は、「旧穢多」概念の内包・属性についても大きな変革を余儀なくしていったのではないかと思われます。

その変革にそって、「旧穢多」の精神史が刻まれていった・・・。

「復権同盟結合規則」の中に、どのような「旧穢多」の精神史が刻み込まれていったのか、「復権同盟結合規則」の中に、どのような精神史の変革が含まれていったのか・・・、いろいろ「迷想」している間に、筆者は、『部落学序説』の解釈原理である、「常民・非常民論」・「新けがれ論」に基づいて、ひろたまさきとは異なる解釈を獲得するにいたったのです。

以前、『部落学序説』の「【第4章】・【第A節】・【第5項】 続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤」の中で、このように記しました。「明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の本体であった「穢多・非人」は、どのようにして、「非常民」意識(特権意識・選民意識)を捨てて、「常民」意識を獲得していったのでしょうか・・・。すくなくとも、筆者の手元にある資料の中には、田中正造と同じ精神的葛藤と苦闘を経験したことを記録に残した「旧穢多」の存在を確認することはできないのです」。

しかし、「旧穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」から、近代中央集権国家の「常民」(平民)であることを強烈に意識して闘争しようとしていた・・・、それを示す文書は、この節で取り上げようとしている「復権同盟結合規則」であると認識するようになりました。

「復権同盟結合規則」は、ひろたまさきが指摘するような、「一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしている」ことを示す文書ではなく、まったく逆に、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、自分たちに向けられた、差別的な「視線」を跳ね返そうとした文章ではないのか・・・。「復権同盟結合規則」は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、自分たちに向けられた「差別」・「排除」・「疎外」を受容したことを示す文書ではなく、まったく反対に、それらを跳ね返そうとした、抵抗の書・闘いの書ではないのか・・・、そう、認識せざるを得なくなりました。

『部落学序説』の筆者である私は、「復権同盟結合規則」という霊峰を覆っていた暗雲がとりのぞかれ、そのすばらしい姿が展望できるようになった・・・、そんな感じがしています。

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2006.12.12

差別の「色眼鏡」をはずして「復権同盟結合規則」を見る・・・

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第6項】差別の「色眼鏡」をはずして「復権同盟結合規則」を見る・・・

明治14年の「復権同盟結合規則」に関する研究は、それのみで一書を構成することができます。

「復権同盟結合規則」に関する研究は、明治以降の近代歴史学に対する天皇制・近代中央集権国家の「囲い込み」という呪縛の中、戦後の民主主義の社会においても、それから脱することなく、その枠組みの中ですすめられてきました。

その結果、日本の歴史学に内在することになった「賤民史観」は、戦前・戦後を通じて、「復権同盟結合規則」の諸研究に差別的な暗い影を落とすことになりました。

歴史学に携わる多くの学者・研究者・教育者は、明治以降の近代歴史学に対する天皇制・近代中央集権国家の「囲い込み」という呪縛の中に身を置くことに甘んじ、日本の歴史学に内在する「賤民史観」を補強し、体系化してきました。ほとんどの学者・研究者・教育者は、その両方に対して、無自覚・無批判になり、「賤民史観」という差別的思想の枠組みの中で、戦前・戦後を通じて、国民に対する歴史教育を実践してきました。

『差別の視線 近代日本の意識構造』の著者・ひろたまさきは、「差別意識の構造化」にふれて、「格差」が日本の近代化において果たした役割をこのように記しています。

「日本の近代化は西洋近代文明の摂取ではじめられ中央権力の指導でおしすすめられたから、中央と地方、都市と農村の格差がすすみ、それは中央権威主義をもたらし、中央への距離が文明度の度合序列を示すという構造をこの明治前期の短期間につくり上げた・・・」。

ひろたまさきは、この「格差」は、「富」と「学問」によって増幅されるといいます。経済至上主義と学歴偏重主義は、その「度合に応じての優越と劣等のコンプレックスをたえず生み出す・・・」といいます。「富める者」は「貧しき者」に優越感を抱き、「貧しき者」は「富める者」に劣等感を抱き、「学歴のある者」は「学歴なき者」に対して優越感を抱き、「学歴なき者」は「学歴ある者」に対して劣等感を抱く・・・というのです。

ひろたまさきは、「それが人々を活性化するとともに差別意識を支えることにもなる・・・。」といいます。競争社会は、世の中を「活性化」するという陽の面と、競争社会から疎外・排除されていくものを生み出し「差別社会」を作り出すという陰の面とがあるというのです。

明治維新ならぬ「平成維新」の流れの中で、今日、再び「格差」社会がつくられようとしています。「平成維新」も、明治維新と同等の本質を内在していて、国と社会を活性化するという名目で競争社会の促進が唱えられるなか、その競争から疎外・排除・切り捨てられていく人々は、競争社会の敗残者として塗炭の苦しみを舐めさせられることになります。

ひろたまさきは、「西洋や東京へのコンプレックス・・・、まさにそのコンプレックスこそ自己よりも文明的に劣位な存在をつねに視野の中におき、さらには文明(ひろたは「富」と「学問」の意味で使用)に決定的に見放されたと観念された存在たる被差別者を措定することによって心理的バランスを回復しようとさせるのであり、差別的意識を支える近代的支柱である。」といいます。

国家の施策の中で採用される「格差」は、「差別的意識を支える・・・支柱」でもあるのです。現在、政府与党によって成立が画策されている「教育基本法改正」は、明治維新以降の「格差」社会の再現を指向するもので、今後の日本を100年、200年に渡って、「格差」社会の存続、結果としての差別社会の存続を容認するものになるのです。

ひろたまさきの歴史学者としての良心的な発言に対しては異論をはさむつもりは毛頭ないのですが、しかし、無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者である私の視点・視角・視座からみますと、ひろたまさきの説は、「部落差別」の「コンプレックス起源論」として響いてきます。

近世幕藩体制下の身分制度が、身分の上・下(貴・賤)に基づくものであり、それは相対概念として機能し、「上」に対しては自らを「賤」と位置づけ、「下」に対しては自らを「貴」として位置づけるのに比して、近代天皇制国家の身分制度においては、「文明(富・学問)」の程度によって、自分よりも富と学歴のあるものにたいしては「劣等感」をいだき、自分よりも富と学歴のないものにたいしては「優越感」を抱く・・・という点では、近世幕藩体制下の「差別意識の構造」と近代天皇制下の「差別意識の構造」とは酷似したものがあります。

近代差別社会の根幹には、「学歴差別」があるといっても過言ではありません。

日本の知的システムは、「優越感」と「劣等感」に染め抜かれ、それは、ひろたまさきによると、近代天皇制国家においては、「劣等感」にもとづく「崇拝」と、「優越感」にもとづく「蔑視」に帰結するといいます。日本の知的システムは、「崇拝」の頂点を「天皇」に見出し、「蔑視」の最底辺に「被差別部落民」を見出すというのです。ひろたまさきが、近代身分制度を「天皇・皇族・華族・士族・平民そして「新平民」「アイヌ」「沖縄人」」という序列で認識するのもそのあらわれです。「崇拝」の頂点を「天皇」に見出し、「蔑視」の最底辺に「新平民」「アイヌ」「沖縄人」を見出すのです。

ひろたまさきが、近代部落差別の根源にたどりつく可能性が秘めながら、結局、一般的・通俗的な「士農工商穢多非人」の焼き直しでしかない「天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民/アイヌ/沖縄人」として認識せざるを得ないのは、ひろたまさきが、明治以降の近代歴史学に対する天皇制・近代中央集権国家の「囲い込み」という呪縛の中に身を置いていることのしるしであり、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に無自覚でいるか、是認していることのあらわれです。

筆者の手元にある、明治14年の「復権同盟結合規則」に関する研究の中で、ひろたまさきの論述(『差別の諸相』・『差別の視線』)は数少ない貴重な論文ですが、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からすると、いくつかの論理的矛盾と破綻を内蔵しているように思われます。

ひろたまさきという「フィルター」を通してではなく、「復権同盟結合規則」を直接読んで、テキストレベルで批判していく必要があります。

明治13年の集会条例などにみられる明治政府の思想・信条などの言論に対する過酷な弾圧・迫害下の中で、九州北部の「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が「復権同盟」を結成するにあたって、その真情をありのまま吐露したとは考えられません。明治国家の言論弾圧をかいくぐるために、ことばを慎重に選んで表現していったと推測されます。

少なくとも、歴史の真実に目を向けることを職分とする学者・研究者・教育者は、「復権同盟結合規則」の表面的・形式的なことばとその用法の背後に、ことばにならなかった「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」の真情が含まれていることについて思いを馳せる必要があるのではないでしょうか・・・。

「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」ということばではじまる「復権同盟結合規則」の緒言はその必要性を暗示してやみません。「復権同盟結合規則」の文書もまた、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」と同様、日本の差別思想である「賤民史観」から解放されて、歴史の事実・真実に根ざした解釈をもとめているといっても過言ではないでしょう。

次回、「復権同盟結合規則」を、『部落学序説』の視点・視角・視座から釈義(字義的解釈)をしてみましょう。

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2006.12.13

「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ」

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第7項】「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」

「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」

「復権同盟結合規則」の緒言の冒頭のことばです。このことばは、西南戦争という、明治新政府に対する武力を用いた最後の抵抗のあとの時代が反映されたことばです。

「維新後の政府の最初の大きな仕事は、政府に対する抵抗や反乱の動きを排除することであった。」(正村公宏著『世界史の中の日本近現代史』)と言われます。明治政府によって排除された抵抗勢力は、「幕藩制時代の支配層」・「旧武士層」・「農民などの一般国民」であったと言われます。

明治6年政変後の大久保利通と旧長州藩閥による独裁体制に対する抵抗・反乱は、「江藤新平らの佐賀の乱」(明治7年)、熊本の「新風連の乱」(明治9年)、福岡の「秋月の乱」(同年)、山口の「萩の乱」(同年)を誘発し、最後の抵抗・反乱になったのは、鹿児島の「西郷隆盛らの西南戦争」(明治10年)です。九州における10ヶ月に及ぶ内乱は、明治政府の基盤がもはや武力による抵抗・反乱では抗いようがないことを如実に示すものでした。西南戦争後は、明治政府に対する抵抗は、「武力」から「言論」にシフトして行きます。その抵抗は、「体制内」の抵抗という制限の中で行われるようになっていきます。それは、やがて、自由民権運動として展開されるようになります。

原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、このように記しています。「明治十年前後からいわゆる自由民権運動がさかんになりました。・・・解放令が実質的に有名無実になっていたのに失望した部落の人びと、また経済的にもっとも不平等な地位に圧迫されていた部落の人びとが、この運動に期待をよせたのは当然なことでした。東京、大阪、兵庫、奈良、福岡などの部落では、この運動に参加するものもあらわれました。明治十四年に、福岡では松園の人びとが中心になって、県内はもとより、大分や熊本の両県の部落にはたらきかけて、復権同盟をつくろうとしました。・・・「復権同盟結合規則」には「旧えたなる我らも皇国の人民・・・」にはじまり・・・」。原田伴彦は、明治14年の九州北部の復権同盟結成の動きを自由民権運動の文脈でとらえようとしているのでしょう。

しかし、部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を 中巻』の「復権同盟」に関する評価はかなり異なります。全国的にみると、「自由民権運動という時代的な潮流に影響」された事例は多々みられるが、「復権同盟」については、「無関係ではないにしても・・・その運動への連帯については一切口をつぐんでおり、そこから離れた地点に自らを位置づけているかにみえる。」といいます。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、原田伴彦説より、『部落解放史』説の方に妥当性があるように思われます。

「復権同盟結合規則」は、「御届」・「緒言」・「復権同盟結合規則」の3部構成からなりたっています(岩波近代思想大系『差別の諸相』)。最初の「御届」は、自由民権運動抑圧のために制定されたと思われる明治13年布告の「集会条例」に違背しているかどうかの問い合わせを当時の福岡県令・渡辺国武にしています。「右復権同盟規則書ノ通リ創設之儀届出候条、御差支モ無御座候ハヾ、何分共御聞通リニ相成度、此段副申仕候也」。

それに対して、福岡県は、「明治十三年太政官第拾弐号公布集会条例ニ抵触セザル以上ハ届出ニ及バズ、依テ却下ス。」という「付箋」をつけて返送しています。

福岡県は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」から出された「復権同盟」は、自由民権運動の取締りと弾圧を趣旨とする「集会条例」に抵触するものではない・・・と判断していたと思われます。なぜなのでしょうか・・・?

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみますと、それは、「復権同盟」の組織・運営方針・活動内容が「集会条例」に違背するものでなかっただけでなく、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」そのものが、明治政府によって排除された抵抗勢力としての「幕藩制時代の支配層」・「旧武士層」・「農民などの一般国民」とは別様の存在として認識されていたためではないかと思われます。

当時の福岡県は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、反体制的な批判、抵抗や反乱に関与するとはあたまから信じていなかったのではないかと思われます。なにしろ、明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告が出されるまでは、「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としてその職務遂行にあたってきたし、布告以降も、なんらかの形で、近代中央集権国家の近代「警察」の職務に関与し続けていたからです。福岡県の管理者の立場からすると、「旧穢多」は、支配される側の存在ではなく、支配する側の存在として認識していたのではないかと思われます。

「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」ということばは、そのことを暗示しているように思われます。「御届」においては、「かたじけなくも、王政復古・開明進歩のときに遭遇し、はじめて四民平等の権利を復するの自由を与えられたり・・・。」という表現がみられますが、「復権同盟結合規則」は、明治政府の施策を是認しつつ、「いかんせん、旧染卑屈の陋習にわかに脱却するあたわず・・・」として、明治4年の太政官布告にもかかわらず「旧穢多」に対する社会的位置づけが旧態依然としているのは、「旧穢多」みずからの責任であるかのごとく論述しています。「実に慙愧感慨の至り」であるといいます。

明治4年から明治14年まで、10年の歳月が流れているにもかかわらず、なぜ、「旧染卑屈の陋習にわかに脱却するあたわず・・・」と語らざるを得なかったのでしょうか・・・?

「復権同盟結合規則」の「御届」においては、その原因は、「恒職」にあるといいます。「恒職」ということばは『広辞苑』の見出しにはみられません。「恒」は、「常に変わらないこと」を意味するそうですから、「恒職」というのは、「時代を越えて変わらざる職務」という意味あいで使用されているのでしょうか・・・。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「恒職」が、「旧来の汚業」・「世の最も穢はしとする所の業」として、「他の人民の我らを蔑視・凌辱すること昔時に異なるなき・・・」と強烈に「旧穢多」に意識せしめたのは、明治元年から明治4年の「旧来の汚業」と、明治4年の太政官布告以降明治14年までの「穢多の醜称」を脱したあとの「職」との間の同質性に由来したのではないかと思われます。

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「旧穢多」の「汚穢ノ業」とは何か

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【第4章】太政官布告批判
【第B節】「旧穢多」の精神史的考察
【第8項】「旧穢多」の「汚穢ノ業」とは何か

明治4年の「復権同盟結合規則」の「御届」の中で「恒職」とよばれているものは、いろいろなことばで表現されています。

「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」

「旧穢多」の「恒職」の説明として使用されているこれらの表現は、「けがれ」(「汚」と「穢」)に関するものであることは一読してすぐに認識できるのですが、ここでいう「けがれ」とは何を意味するのでしょうか。

最近の、部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』で、「なんでいつも「穢れ」の話になると、このようなどうでもいい貴族趣味のお遊びばなしをまことしやかに真面目に語る人ばかりなのだろう。私には、どう考えても気が知れない。」と記されていますが、「けがれ」が部落差別と深い結びつきがあると認められていながら、現在に至るも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によってその内容はあまり解明されてはいないようです。

『部落学序説』の筆者は、その「けがれ」を二重定義の概念として認識し、「日常・非日常」の世界における「気枯れ」と、「常・非常」の世界における「穢れ」を別様に理解してきました。「気枯れ」を習俗的概念としますと、「穢れ」は法的概念として認識されます。本来、両者は、近世幕藩体制下において明確に区分されていたと思われるのですが、明治4年以降、この「気枯れ」と「穢れ」が混同されるようになります。

「復権同盟結合規則」が「けがれ」を表現するに際して、「汚」と「穢」を混同して、あるいは同義語として使用する背景には、明治4年以降の「気枯れ」と「穢れ」が混同されるようになる歴史的状況・政治的状況が反映しているのではないかと思われます。

「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、明治元年から明治4年まで「穢多」として、また、明治5年から明治14年まで「旧穢多」としてどのように、その歴史的・政治的状況を生き抜いてきたのか、その「蹤跡」を尋ねずして、「けがれ」にまつわる「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」という表現を理解することは不可能であると思われます。

『差別の視線』の著者・ひろたまさきは、明治14年の「復権同盟結合規則」にふれて次のように記しています。

「部落民の存在形態が変化した・・・。「穢多役」が解除され・・・、一般民衆の村落共同体との間にあった不可分の関係が解除され・・・「キヨメ役」は、警察官、看守、共同体による掃除作業、皮革業者等々にとって代わられるのである」。

さらに、「不可分の関係をもたなくなった部落民に対して、これまで以上に無責任に関係を「忌避」し、大ぴらでなく隠微におそれと嫌悪の「視線」をつきつけることになるとすれば、それらは近世とは違った差別の樣式というべきであろう。」といいます。

ひろたまさきは、明治40年以降一般化した「部落民」概念を使用しながら、「部落民」が差別されることになるメルクマール(指標)は、「キヨメ」から、「コレラをはじめとする急性伝染病の度重なる流行を介する中で・・・育てることになった」、「貧困」「不潔」「不徳」等の「イメージ」にシフトし、近世とは異なるあらたな近代的「差別の視線」が作り出されていったといいます。

ひろたまさきは、明治4年の太政官布告以前の「旧穢多」の「キヨメ役」にもとづく差別と、明治10年以降のコレラ騒動以降の「貧困」「不潔」「不徳」等の「イメージ」にもとづく差別は、別様のものであるといいます。「衛生警察的なその威圧的強権的行政は民衆に恐怖を広げることになった。」といいます。

ひろたまさきは、明治4年の太政官布告をさかいにして、「部落民」に対する差別に急激な変化があったとする自説に対する反論として次のような立場もあると想定します。

「明治初めの10年や20年の時間でやたらに変化するものではない、いや変化するものもあろうけれども変化しないものもあるにちがいないという考え方は、それこそごく自然に想像できることである。たしかに二百数十年間につちかってきたものが10年や20年で簡単に消え去るものではないし、明治の変革は旧支配層によってなされたので身分制の否定も不十分であったためなおさらに、差別意識や感覚あるいは行動樣式が残り続けたとすべきであろう」。

しかし、ひろたまさきは、その想定される反論を否定してこのように綴ります。「だが・・・古い差別意識はそのままの姿で明治に残り続けたのではなく、まさにインクの一滴によってその全体の色どりが変化するようなそうした変化が必ずあったのであり、それ程までに明治の変革は大きな変革であった・・・。誰も否定できない・・・。」と力説します。

近世幕藩体制下の古い差別を、明治天皇制下の新しい差別に染めてしまう「インクの一滴」とは何を意味しているのか・・・。ひろたまさきが導入する「たとえ」はよく理解することができるのですが、そのたとえが、具体的に歴史上何を意味しているのかは、さっぱり見えてきません。常識的に判断すれば、たった一滴のインクが、真水を一瞬にしてインクの色に染めてしまうような魔術的な施策などあろうはずもありません。

『部落学序説』の無学歴・無資格の筆者には、ひろたまさきによって示されるような、歴史学研究の枠組み、その枠組みの中に自らを閉じ込める研究者としての自制・・・のようなものは持ち合わせていません。歴史学の枠組みを越えて、学際的にすべての学問成果を貪欲に参照・引用します。

「復権同盟結合規則」の「「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」は、『部落学序説』の解釈原理のひとつである「常民・非常民論」のみで十分説明することができます。

「復権同盟結合規則」の「汚穢ノ業」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の「職務」内容との関連で、十分説明しきることが可能なのです。

部落解放同盟新南陽支部の方がそのブログ『ジゲ戦記』で、「どうでもいい貴族趣味のお遊びばなし」として批判される「穢れ」談義とは異なる「穢れ」の本質に肉薄することができます。それは、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座が、「貴族」(皇族・華族・士族)ではなく、その対極にある「平民」(百姓・町人)の視点・視角・視座であるために、「穢れ」をかえって直視することができるのです。

明治14年の「復権同盟結合規則」が出される1年前、司法省から『全国民事慣例類集』が出版されています。『民事慣例類集』は、当時の「慣例」を集めたものです。『民事慣例類集』によると、「慣例」とは、「政府ノ公認スル法ニ非スト云ヘドモ、人民相因襲シテ服従スル所ノ者」のことです。

その「慣例」として列挙された事例に、「警察ノ手先ヲ為ス」(山城国愛宕郡・葛野郡)、「専ラ警察探偵ノ事ヲ任ス」(摂津国八部郡)、「捕盗警察ヲ業トシ」(尾張国愛知郡)、「捕盗警察ヲ為シ」(三河国額田郡)、「無宿乞食ノ取締及ヒ警察ノ手先ヲ為ス」(上総国)、「警察ノ手先ヲ職トス」(近江国犬神郡)、「警察ノ手先ヲ為ス事アリ」(美濃国安八郡)、「官ノ警察手先ヲ為ス」(岩代国信夫郡)、「囚獄ノ夜番、警察ノ手先ヲ為シテ些少ノ給料ヲ受」(佐渡国雑太郡)、「警察ノ手先ヲ為シ・・・多少ノ給料ヲ受ク」(豊前国)等の記載がみられます。

「警察」概念は、明治以降に行政用語・政治用語として採用された概念です。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、明治4年の太政官布告以降、公的には、「外国交際上」の理由で、旧警察システム解体にともなってリストラされました。いわば、日本の歴史史上、前代未聞の近世警察のリストラが実施されるのですが、表向きは、「旧穢多」は、近代警察から排除されていったように見えますが、実際は、相当数の「穢多」が近代警察に再編成されて組み込まれていったのです。近代「警察」として再雇傭されなかった「旧穢多」の一部は、近代「警察ノ手下」として、「多少ノ給料」(警察機密費として支出)によって従来の業務に従事させられていったと思われます。

明治元年から明治4年までは、近世幕藩体制下の司法警察である「非常民」として「穢多」は、「旧来の・・・業」に従事していったと思われます。その職務の内容としては、殺人・強盗等の一般的な犯罪者、政治犯、百姓一揆の首謀者などに対する探索・捕亡・糾弾であっと思われます。しかし、廃藩置県によって近代中央集権国家の基礎を固めたあとは、それをより強固にするために、明治政府は、反体制・反政府の立場をとる政敵に徹底的に弾圧を加え、明治政府の支配システムから排除していこうとします。その結果、近世幕藩体制下の法的安定状態とはまったく異なる悲惨で残酷な状態が出現するのです。

それらの事態に、当時の正規の近代警察官(当時、近世警察官は近代警察官を「ネス」と揶揄していた・・・)だけでは対処することができず、近世幕藩体制下の司法・警察である「旧穢多」(当時、近代警察官は近世警察官を「エタ」と揶揄していた・・・)が「警察ノ手下」として動員されることになります。

これは、「民衆」の目からみると、非常に複雑で分かりにくいことがらです。近代警察官(「ネス」)も近世警察官(「エタ」)も一様に避けて通る傾向が生まれます。しかし、それは、「民衆」による近代警察官(「ネス」)も近世警察官(「エタ」)に対する差別的な排除・・・というようなものではありません。

今日の一般市民も、「何も悪いことをしていない・・・」のに、警察官に呼び止められ職務質問されると、どきっとして、不安と警戒感のようなものを抱いてしまします。明治以降、特に戦争中に、近代警察が一般国民に対して与えた不安と警戒感は、戦後の「民衆」の潜在意識の中に強く刷り込まれているのでしょう。

『部落学序説』の筆者は、近代警察官(「ネス」)に対する感情と、近世警察官(「エタ」)に対する感情は極めて類似したもの、あえていえば類似を越えて同質のものであると考えています。

明治に入ってからも続けられた会津戦争・函館戦争・西南戦争・・・、近代中央集権国家を磐石なものにするために、反体制・反権力の側に対する厳しい弾圧・抑圧を展開していきます。その結果、多くの人々が戦場で、戦争が終結したあとは戦争犯罪人として牢獄で、そしてそれ以上に、「犬死に」と表現される「戦病死」で死んでいきました。明治元年から明治10年の西南戦争も期間は、江戸後半期の近世幕藩体制下では想定することができなかった「大量殺戮」の状況に直面するのです。戦死者、戦死者の死亡原因の確認と死骸の処理、脱走・逃亡兵の追捕、行き倒れや不審死の検死と埋葬・・・、「近代警察」は、処理しなければならない大量の事案をかかえ込むことになります。「近代警察」の本来の職務遂行に深くかかわっていったのが、明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって解体された、近世幕藩体制下の司法・警察であった「旧穢多」であったと思われます。

明治4年の太政官布告以後は、戦死者・戦病死者が増加する傾向にあります。

「復権同盟結合規則」が作成された九州においては、「佐賀の乱」・「新風連の乱」・「秋月の乱」が発生しますし、明治10年に至っては、鹿児島で「西南戦争」が勃発します。地方で発生する小さな「乱」ではなく、「戦争」的規模の明治政府に対する反政府活動が展開されます。

「西南戦争」の死者は、「政府側」が、「死者が6279、負傷者9523という大変な人数」にのぼったと言われます(小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』中公新書)。「西郷」側の「死者・負傷者」は「2万」にのぼったと言われます。

九州の「旧穢多」は、この非常時に際して、「西南戦争」の後方支援と治安維持のために、「警察ノ手下」として動員されたと考えられます。九州の「旧穢多」は、明治政府の要請・命令に従って、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」という精神の基づいて粛々と目前の職務に従事していったのではないかと思います。

刀で切り裂かれ、槍と弓で刺し抜かれ、鉄砲で砕かれ、大砲で肉片を引きちぎられた戦死者の検死と埋葬・・・、脱走兵や逃亡兵の探索と捕縛、処刑などの戦時職務にも従事させられてと思われます。その職務内容こそ、明治14年の「復権同盟結合規則」のいう「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」にあたると思われます。

九州の「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、プロの警察官としての意識のもとで、そのような、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」に従事していったと思われます。

明治18年の「警務要書」には、近代警察の職務内容として、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「営業警察」・「河港警察」・「道路警察」・「建築警察」・「田野警察」・「漁猟警察」を列挙していますが、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」は、その中でも、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「道路警察」に関する職務に深い関連があると思われます。

九州の「旧穢多」が従事した「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」の中には、「衛生警察」・「道路警察」が含まれています。それは、「安寧警察」(公安警察)以上に、「旧穢多」に対する一般国民の視線に深刻な影響を与えました。

明治政府は、西南戦争という内戦によって多数の国民を喪失しますが、明治政府は、西南戦争終結後、あらたな「戦争」に直面したといわれます。「明治10年9月に開港場の横浜と長崎から」、「コレラが大流行」して、「さらには西南戦争の帰還兵が九州からもち帰ったものを全国にばらまいて拡大した・・・」(ひろたまさき)と言われます。当時、「コレラの原因がわかっていないので、その予防法も決めてがなく・・・清潔・消毒・隔離の公衆衛生的は方法と日常の養生法によるしかなかった。」といいます。

九州でのコレラ感染の悲惨を報じた新聞によりますと、このように記されています。「蓋シ当時西南ノ紛擾初メテ定マリ、数万ノ兵士役夫等ガ未ダ全ク凱旋解散セザルニ際シ、軍陣ノ間俄然トシテ一大敵ヲ生ジ、我ガ猛士軽卒ト雖ドモ、一タビ之ニ逢ヘバ数時間ヲ出デズシテ必ズ斃ル。鹿児島ノ如ク八代・熊本・大分の如キハ、死者ノ路頭ニ枕籍スルヲ見ルニ至リシト云フ」。

コレラは、西南戦争の終結をまたず、政府軍・西郷軍の陣営を襲い、多くの兵士のいのちを奪っていったのです。当時、コレラの感染者のうち、60%のひとがそのいのちを失ったといいます。

西南戦争終結後、それぞれの故郷の帰途についた兵士は、コレラの感染・発病によって倒れ、故郷をはるかに仰ぎ望みながら、無念の思いをもって、冷たい路上に屍をさらすことになったのです。帰還兵は、重なり合うようにして、倒れていったといわれます。八代・熊本・大分の惨状は言語に絶するものがあったのでしょうが、コレラがもたらした悲惨は、九州全域、「復権同盟結合規則」の発起人、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」の在所にも及んだと思われます。

陸路帰還したものは、その旅の途上、街道の路傍に倒れ、海路帰還したものは、寄港地で、そのいのちを失っていったと思われます。

明治政府と県行政は、コレラの蔓延を防ぐため、「道途ニ関ヲ設ケテ」コレラ罹患者を隔離していったといいます。その第一線にたたされたのが、「警察ノ手下」としての、近世幕藩体制下の司法・警察という「非常民」であった「旧穢多」ではなかったかと思われます。

西南戦争の陣営の中で発生したコレラは、陸路・海路を経て、全国に拡散されていきます。とりわけ、コレラは、西日本において猛威をふるったと思われます。安保則夫は、《眼差し/言葉/権力 近代部落問題の可視化・対象化》という論文の中で、「1877(明治10)年以後