2006.09.13

田中正造と明治維新 その1

【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第1項】田中正造と明治維新 その1

田中正造・・・。

昔、小学生のときに、授業でその名前習ったことがあります。

小学校5年生のときだったと思いますが、参観日の授業科目は、社会科でした。授業の内容は、日本の鉱山について。

そのときの教師は、生徒に、日本にはどのような鉱山があるのか、宿題に出しておいて、参観日のときに、その教師に、「○○鉱山はどこにありますか」と質問させて、その教師が生徒の質問に答えて、地図上でその場所を指揮棒の先で指す・・・、というもの。

私は、その前日、小学校の図書館に残って、小学生用の参考書や地図にのっている鉱山だけでなく、いろいろな鉱山を調べておきました。

参観日の当日、授業がスムースに進んでいきます。生徒は地図と教科書を閉じたまま、教師は、その生徒の側から質問を受け付けるのです。生徒から、「足尾銅山、どこですか・・・」、と質問がだされると、その教師は、「ここ・・・」、といって、大きな日本地図に棒で指していきます。しかし、授業が進むにつれて、だんだん、手をあげる生徒の数が少なくなっていきます。

担任の教師は、「もうないのですか・・・。あらかじめ、宿題を出していたでしょう。それでは、宿題をきちんとしてきたひと、手をあげて・・・。」というので、私は手をあげて、その教師に質問をはじめました。「△△鉱山はどこですか」、「□□鉱山はどこですか」・・・、私の質問に、担任の教師は、ものの見事に答えていきます。

やがて、小学生用の地図や教科書にのっている日本の鉱山の名前は出尽くしてしまいます。

問題は、その次の段階でした。担任の教師は、「もうありませんか・・・」と質問してくるので、私は、再度手をあげました。「××はどこですか」。その教師は、まってましたとばかり、もっている指揮棒を地図の上に下ろそうとしますが、はたとその指揮棒をとめてしまいます。指揮棒の先が微妙に振れています。

「ええ、そんな鉱山あったかな。吉田君、先生を困らせようと思って、適当なこと、言ってません?」といいます。私は、「先生が宿題をだされたので、昨日図書室で、調べてきました。百科事典に出ていた鉱山の名前と場所を覚えてきました」・・・、話し終わらない間に、うしろの親たちから、ざわざわと動揺の声が聞こえはじめました(「頭も悪い子」で通っていた生徒の暴走に驚いたのかもしれません・・・)。

ことのなりゆきは、当然といえば当然です。

通常、学校教育というのは、教師が教えたことを生徒がどれだけ学習したかを成績として評価します。

そのときの授業参観の授業内容は、その一般的な指導方法と、正反対の方法でしたから、授業の質を決めるのは、教師の側ではなく、生徒の側にありました。教師の指示通り、「宿題」をきちんとすれば、たとえ小学生であったとしても、教師の知識にまさる知識を図書室で入手することは可能です。

担任の教師曰く、「吉田君、誰も知らない、小さな鉱山ではなく、みんなが知っている鉱山の名前を質問してください」。

なぜか、時間がとまってしまったかのように、シーンと静まり返った教室で、私は、「●●鉱山はどこですか」と質問しました。

そのときも、担任の教師は、地図上でその場所を指すことができませんでした。授業参観にきた親たちから動揺の声があがります。その鉱山は、岡山県内の誰でも知っている鉱山だったからです。

その授業参観の日、家に帰った私を待っていたのは、母のこごとでした。「どうして、あんな意地の悪い質問するの? 先生、困っていたじゃない! おかあさんは、あなたに、頭のいいこではなく、ひとのこころがわかるやさしい子になってほしいの・・・」と涙ぐんでいうのです。母のことばは、とてもショックでした。

私は、その社会科の授業で、担任の教師から、足尾鉱山とその公害事件、そして、村のひとと一緒になってたたかった田中正造のことを習ったように思います。田中正造は、金原明善とともに、偉大な人物であった・・・、と習ったと記憶しています。

その学期の社会科の成績は、「5」でした。私にとって、担任の教師もまた、田中正造や金原明善とおなじく偉大な人物でした。参観日のとき、授業を壊した私の成績に「5」をつけるのですから・・・。

その田中正造は、それ以来、私の記憶から遠のき、その名前を思い出すことはありませんでした。日本の高度経済成長の陰の部分である公害問題はなやかなりしころ、新聞雑誌で、田中正造のことがとりあげられていました。また、農民運動家としてとりあげられることもしばしばありましたが、田中正造の話は私の脳裏を通り過ぎていきました。田中正造の思想と行動を支えたのは、キリスト教の信仰であるとの見解も目にしましたが、それ以上関心を持つことはありませんでした。

田中正造も金原明善も、『広辞苑』(初版本)に見出しとして掲載されています。

【田中正造】
政治家。栃木県の人。1890年(明治23)以来衆議院議員に当選。足尾鉱山の公害問題解決に努力。1901年直訴。以後終生治水問題に意を用いた。(1841~1913)

【金原明善】
社会事業家。静岡県の人。養蚕・植林・牧畜の奨励、天竜川の治水、免囚保護などに尽力。(1832~1923)

日本の公教育を受けたひとの中で、「田中正造」の名前とその業績を知らないひとはいないといっても過言ではないでしょう。

『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、その「まえがき」をこのようなことばで語りはじめます。

「1962年に、「思想の科学」が、没後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にはほとんど忘れられた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題が喧しくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも依然として知られざる人である。田中正造は、小説家や劇作家には好個の題材であるのに、その研究者は乏しい。これはどうしたことだろうか」。

林竹二は、その著『田中正造の生涯』を書き終えたあとも、その理由を明言しているようには思われません。田中正一著『田中正造 その思想と現代的意義』によると、田中正造は、若い時から晩年に至るまで、「自分が無学で愚であることを繰り返し」語っていたといいます。田中正造は、「無学であるがゆえによく学ぶことができる、愚であるがゆえによく真実に迫ることができる、という弁証法」(同書)を体得していたといわれます。

その田中正造は、明治36年3月、谷中村に入る前の年、その日記に、「大学廃すべし。腐敗の淵藪なり。」と記していたといいます。

「帝国大学の学士中、おおくは忍耐力の一つは卒業せり。
恥を忍ぶ、
侮辱を忍ぶ、
惻隠の心を失うを忍ぶ。
醜汚を忍ぶ、
人の財を奪うを忍び、
人を殺すを忍ぶ。
同胞兄弟に破廉恥を為すを忍び、
国の滅びるを忍ぶ。
この学生はこの忍耐力を卒業せり。
地方教育、学生の精神を腐らす。中央の大学もまた同じ。

学ばざるにしかず」。

権力を仰ぎ、権力に服従し、権力のおもんぱかって、その学識を披露する、そして、「しえたげられる者の涙」を理解することなく、「惻隠の心」(あわれみのこころ)を棄ててかえりみない、当時の中産階級・知識階級に対する、激しい田中正造の批判のことばではないかと思います。

「見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しえたげる者の手には権力がある。」

ドイツのワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが、『旧約聖書』という岩から切り出したこの聖書のことばを、その生涯をかけて生き抜いた基督者として、田中正造の名をあげるのはけっして間違いではないでしょう。「しえたげられる」谷中村の農民の涙をみて、その涙の原因たる「しえたげる」国家(中央政府・地方行政)の手の中にある「権力」の不正を文字通りいのちをかけて追究した田中正造の名をあげずして、他の誰の名をあげることができるのでしょう。

田中正造を支えた思想は、皇国史観でも、唯物史観でもないのです。「非常・民」であることを徹底的に棄てて、谷中村の農民と共に「常・民」として共に生きようとした背景にあったものは、近世幕藩体制下で、身につけていった「百姓」としての自信と誇りではなかったかと思われます。

『部落学序説』の筆者の目からみると、すぐれた学的研究の成果である、林竹二著『田中正造の生涯』をてがかりに、大胆に読み直しをしながら、「百姓」として、「非常・民」から「常・民」への精神的葛藤(「苦学」)を経て、徹底的に、「公義」・「正義」を説いていった田中正造の精神世界を振り返ってみたいと思います。

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2006.09.14

林竹二氏の田中正造解釈

【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第1項】林竹二氏の田中正造解釈
(旧:田中正造と明治維新 その2 「田中正造穢多を愛す」の真意)

この項を執筆するにあたって、筆者の手元にある田中正造に関する資料は、林竹二著『田中正造の生涯』、ただ1冊です。

林竹二は、その「まえがき」で、「田中正造は今日でも依然として知られざる人である」といいます。「田中正造の生涯という大きく深い森のなかを歩きまわって、内部の情景をさぐっているうちに、いつかそれだけの時が流れてしまった。この仕事を通じて、私にようやく明確になってきたことがいくつもある。」といいますが、林竹二の田中正造研究においては、『部落学序説』の筆者がとりあげている「常民」・「非常民」という概念はとりあげられることはありません。

林竹二の『田中正造の生涯』は、『部落学序説』の筆者が定義する「常民」・「非常民」概念のもとで読み直しますと、「私にようやく明確になってきたことがいくつもある・・・。」という林竹二ですら、明確にすることができなかった田中正造の精神的世界の一面を描くことができるのではないかと思っています。

ひとりの人間の精神世界を描くことは、非常に難しい側面があります。

スイスの哲学者・アミエルは、その日記のなかでこのように記しています。

「人生の肝要な事柄に関して我々は常に孤独である。我々の本当の歴史はいつになっても他の人からは殆ど読み解かれることがない。この悲劇の最も優れた部分は独白、むしろ神と我々の良心と我々との間に交わされる内密の科白のやりとりである。涙、悲しみ、あてはずれ、侮辱、悪い考へ、いい考へ、決心、不安心、熟慮、すべて我々の秘密である。その殆ど全部は、たとひ我々がそれを話そうとしても書いて見ても、通じようがないし伝えることが出来ない。我々自身の一番大切なところは決して現れることがない。親密な間柄に於ても出口を見出さない。我々の意識にも確かに一部分しか出て来ない。殆ど祈りのうちにしか活動を始めない。恐らく神によってしか拾い上げられないであろう。というのは我々の過去は我々にとって永劫に他人だからである・・・」。

しかし、アミエルは続けて、このように語ります。

「しかし不明なものがあるのは、やがてなくなる為なのである。」、と。

田中正造の精神世界も、アミエルのいう、人生の孤独と秘密に満ちています。田中正造自身も、解くことができなかった人生の秘密に満ちています。しかし、もしかしたら、その残された田中正造の記録(日記)をひもとけば、その秘密・謎をときあかすことができるかもしれない・・・のです。

林竹二は、そうして、田中正造の人生の孤独と秘密を明らかにして、その著『田中正造の生涯』という論文を書き上げることになったのでしょう。『部落学序説』の筆者は、『田中正造の生涯』と読みながら、『田中正造の生涯』は、田中正造の残した資料や、田中正造に関する研究論文と格闘しながら、田中正造の精神世界をあきらかにしていった、秀作・労作であると評価せざるをえません。秀作・労作であればあるほど、『部落学序説』で田中正造の精神世界をとりあげるとき、林竹二著『田中正造の生涯』に依存せざるを得なくなります。

そこで、筆者は、ふと思ったのです。

田中正造のことばに直接触れてみよう・・・、と。2、3の田中正造の著作を読んでみて、林竹二著『田中正造の生涯』に書かれていることが正しいと確認できたら、その書に依拠して、それを読み替える形で、『部落学序説』の研究手法を適用してみよう・・・、と。

それで、『田中正造全集』の全20巻のうち、第1巻(自伝)と第9~13巻(日記)を入手することにしました。

それを読んでから・・・、というのでは、またまた『部落学序説』の完成が遠のくことになりますので、これまでの執筆計画にそって、書き続けていくことになります。筆者は、『部落学序説』を「真剣勝負」のつもりで執筆していますので、ときどきは、自分を賭けて、このような決断をしなければならないこともあるのではないかと思います。田中正造について書いた文章を、『田中正造全集』の自伝と日記を読むことで、『部落学序説』の筆者みずから批判検証することになります。


林竹二著『田中正造の生涯』の構成は以下の通りです。

目次
まえがき
序章 田中正造の遺跡を訪ねて
第1章 政治家田中正造の形成過程
第2章 田中正造の議会の戦い
第3章 谷中村問題
第4章 田中正造の谷中の戦い
第5章 砕けたる天地の間に
田中正造略年譜

「第1章 政治家田中正造の形成過程」は、更に次の節に分かれています。

1 田中正造の生まれた家
2 村の小さい政治
3 政治への発心
4 鉱毒問題との出会い
5 明治の民権運動がたどったみじめな歴史
6 鉱毒問題小史

『部落学序説』の筆者が特に関心を持つのは、第1章の「1 田中正造の生まれた家」「2 村の小さい政治」です。

林竹二によると、田中正造は、1841(天保12)年11月3日、「下野国安蘇郡小中村(現在佐野市小中)」に生まれました。父の名は、庄造、母の名は、サキ。庄造は、その長男として生まれ、幼名として、兼三郎と呼ばれました。

Tanaka 林竹二著『田中正造の生涯』には、「小中村の翁の生家(改修前のもの)」と題された写真が掲載されています。下のカラー写真は、インターネット上で検索したもので、渡良瀬短信-歴史と自然に掲載されているものです。

林竹二は、田中正造の生家を訪ねたときの感想をこのように記しています。

「田中正造の遺跡巡礼をしたとき、私は、はじめて「翁」の生家を見ることができた。その印象は、それがいかにも小さいということであった。庭田家などとはくらべものにならない。父の隠居所にあてられた、門に接した別棟の二階家があり、裏に倉もあるがこれも小さかった。たくさんの年貢米が運びこまれる情景などを思い描く余地などまったくない屋敷の構えで、到底豪農などいうことばとは無縁の、ささやかな家のたたずまいで、家族の農耕の営みによって生きている、まごう方なき「下野の百姓」の家であった」。

林竹二は、明治39年に田中正造宅を訪ねた木下尚江の印象、「代々の名主の家の建物にしては小さい。・・・祖父の代までの田中家の生活は、嘘のように質素なものであった・・・」ということばを引き合いに出しながら、林竹二が自分の目でみた田中正造の生家の印象を裏付けていますが、林竹二は、ここでものごとを片づけず、なぜなのか、その理由を尋ねます。

そして、「私は翁の生家のささやかなたたずまいをみて、一つ発見したような気がした。」といいます。そして、このように推測します。

「田中家から出てはじめて名主となった祖父正造は気性の激しい人であったらしい。おそらく家の格式や財産によってではなく、その能力が小中村の百姓の信望を集めて彼は名主に選ばれたのであったろう。父は温厚な人であったが、割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである」。

幕末期の一時期、庄屋であった田中家の家の建物が、林竹二には、「普通の農家としても中以下の規模のように感じ」られたのは、林竹二が言及しているとおり、田中家が、近世幕藩体制下300年間を通じて、藩主から名主の役を与えられ代々に渡ってその富を蓄積してきた、いわゆる「豪農」としての「名主」ではなかったことを意味します。

祖父・正造のとき「名主」の役を与えられ、父・庄造のとき、「名主のたばね役」である「割元」の役に「昇進」したそうですが、わずか2、3代「名主」の役を担ってきただけの田中家と、近世幕藩体制下を通じて代々「名主」の役を担ってきた他の「名主」とくらべてもほとんど意味がないと思われます。

この「名主」ということばは、東日本で一般的に用いられていることばですが、西日本では「庄屋」と呼ばれています。『部落学序説』の筆者が棲息している旧長州藩領では、「庄屋」の規模は実にまちまちです。「庄屋」は、すべての村(自然村)に配置されました。平野にひろがる村の「庄屋」もいれば、山間部の少数の村の「庄屋」もいます。「庄屋」の家の建物がどのような規模のものであるかは、その村の「百姓」人口で決まります。通常、「庄屋」の倉は、年貢米の一時保管場所の機能も果たしていましたが、その蔵の大きさは、その村の「百姓」人口によって決まります。下野国安蘇郡小中村がどのような村であったのか、地理的・社会的・歴史的条件についてまったく知識をもちあわせていない『部落学序説』の筆者としては、即断しかねますが、さまざまな資料を駆使して総合的に判断しないと大切なことを見逃してしまいます。

筆者は、現在の岡山県倉敷市児島・・・に生まれ育ち、29歳までそこで生活していましたが、その地の「庄屋」というのは、立派な屋敷です。筆者がクリスチャンとして洗礼を受けた教会は、元庄屋の屋敷とかで、800坪の屋敷は、白い土塀で囲まれ、石段をのぼった正面玄関は、どちらかいうと農家というより、武家屋敷の感じがします。屋敷の中には、大きな倉がいくつかあり、茶室も3つあります。それどころか、塩百姓の庄屋となると、町の何分の1かを占めるような広大な敷地が白い土塀で囲まれています。

「庄屋」というものはそういうものだ・・・、と思っていましたら、山口にきて、ときどき聞き取りに尋ねる「庄屋」は、どの家も、規模もイメージもまったく異なるものでした。おそらく、幕末期の「庄屋」・田中家を想像させる「庄屋」が少なくありません。

長州藩では、「庄屋」の上にあって、「庄屋」をたばねる役をしている「庄屋」を「大庄屋」といいます。「大庄屋」になると、筆者が、岡山県倉敷市児島の地で想定していた「庄屋」のイメージに近くなります。

この「大庄屋」、誰でも、その職務を遂行できるというわけではありません。長州藩の枝藩である徳山藩の庄屋文書の中に、1789(寛政元)年に藩から出された『大庄屋小庄屋江上使より御尋并御供衆被相尋候節御返答可申上覚」があります。幕府の巡検使を迎えて、「政情の査察」を受けたとき、想定される質問にどのように答えるべきか、藩がその内容を指示したものです。大庄屋は、傘下の庄屋にも藩の指示を徹底させることを義務つけられたと思うのですが、まかり間違えば、幕府からの徳山藩の改易につながらないとも限りません。藩の政治・経済・治安について、藩の指示通りに答えることが要求されます。その答えは、実際の藩の政治・経済・治安の常識とことなる場合もあります。

徳山藩は、「穢多」を「町押之役人衆」と呼ばせています。「穢多」は、徳山藩では、「穢多」役という役職名のことであって、一般的には、「役人」とよばれていたようです。徳山藩だけでなく、徳山藩をとりまく、長州藩本藩においても、「穢多」は「穢多」役を識別したり強調されたりする場合に用いられ(藩の公文書に頻繁に登場)、一般の生活においては、「役人」ということばが用いられたようです。

田中正造の父・庄造が、「名主のたばね役」を担っていたというのは、林竹二が、「割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである。」と指摘するのは、当然すぎるほど当然です。大庄屋は、名誉職や年功序列で担うことができるほど軽佻浮薄な「役」ではありません。田中正造の父・庄造は、当時、彼をおいて他に「大庄屋」(「名主のたばね役」)を担える人物はいないと信望を集めていたのでしょう。

「田中中家が苗字帯刀を許された」のも、名誉職としてではなく、「下野の六角領7ヶ村」の治安を担うだけの実力を持っていたからでしょう。「大庄屋」としての権限は強大です。なにか、殺人・強盗・火付などの「非常」に遭遇したときには、「大庄屋」は、代官所に指揮のもと、村役人や村番人を動員して、犯人の探索・捕亡・糾弾に従事することになるのですから・・・。年貢の算術・経済に明るいだけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての知識・技術にも長けていなければならないからです。置かれた時代と状況によっては、「庄屋」が「大庄屋」に抜擢されることもあり得るのです。

田中正造という人物をはかるには、その生家の規模の大きさではなく、近世から近代への過渡期に、田中家に担わされた「職務」(非常民としての職務)の大きさで判断すべきです。

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2006.09.15

小松裕氏の田中正造解釈

【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第1項】小松裕氏の田中正造解釈
(旧:田中正造と明治維新 その3 続・「田中正造穢多を愛す」の真意)

今日、徳山市立図書館で、田中正造に関する書籍3冊を借りてきました。『田中正造全集第1巻』、『田中正造全集月報』(徳山市立図書館が付録をまとめて1巻としたもの)、小松裕著『田中正造』の3冊です。

数多い文献の中から、その3冊を選んだのは、田中正造の『回想断片』に収録されている、「田中正造穢多を愛す。6年出獄してより・・・」という書き出しではじまる短文が執筆された前後の歴史的状況、田中正造が置かれた状況を考察するに、適当な史料が含まれているのではないかと想定されたからです。

『田中正造』の著者・小松裕は、この本の著者紹介では、「早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学・・・、現在、熊本大学文学部助教授」とあります。インターネット上で確認すると、今は熊本大学文学部教授だそうです。

徳山市立図書館で、小松裕著『田中正造』をパラパラめくってみたところ、「はじめに」にこのようなことばがありました。

「私が田中正造の思想をまとめてみようと思いたったより直接的な理由は、次のような研究史の状況に存在している。田中正造に関する手軽な研究書としては、すでに、林竹二『田中正造の生涯』・・・がある。しかしながら、残念なことに、これらの著作においては、田中正造の思想の特徴が充分に描かれているとはいいがたい。林の『田中正造の生涯』は、正造の、とりわけ谷中村入村後の思想の分析に優れたものであるが、史料の歴史的背景と文脈を無視した強引な解釈も目立ち、必ずしも正造の思想を正しく伝えているとはいえない。・・・つまり、田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書は皆無といっていい状況なのである」。

徳山市立図書館から帰って、最初に目を通したのは、小松裕著『田中正造』でした。小松の「はじめに」のことばから、林竹二著『田中正造の生涯』を超える田中正造研究の成果を期待したのですが、期待はものの見事に裏切られてしまいました。

無学歴・無資格のものがなにをいうか・・・、と批難されるかもしれませんが、『田中正造』の「はじめに」に記された、林竹二の田中正造研究に対する批判は、いわゆる批判のための批判・・・でしかないと思わされました。小松の林に対するどの批判のことばをとっても、林の研究成果をいたずらに否定する、悪しき中傷でしかないのではないかと思わされるのです。

『部落学序説』の筆者の目からみると、林の田中正造研究は、小松の指摘するのとはまったく逆で、「史料の歴史的背景と文脈」を踏まえ、田中正造の内面の苦悩と葛藤、その思想を描き出してあまりあるものです。林竹二著『田中正造の生涯』は、「田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書」として評価されてしかるべきものです。

それにひきかえ、小松裕著『田中正造』の内容は、無学歴・無資格の筆者の目からみても軽佻浮薄としかいいえないような内容です。小松が明らかにしようとしている、田中正造の思想は、田中正造の思想と人格を無視して、近代歴史学の一般的・通俗的見解である「近代進歩史観」を、それこそ「強引」に適用したものにほかなりません。

林竹二の田中正造研究が、史料からの「読み出し」であるとするなら、小松の研究は、史料への小松の価値観の「読み込み」に過ぎません。小松の林批判は、批判によって、田中正造研究の質をひきあげるものではなく、まったく逆に引き下げて、貶めるものに他なりません。

小松は、その著『田中正造』の「第1章 田中正造の生の軌跡と足尾鉱毒事件」で、田中正造の生涯をとりあげていますが、『田中正造全集 第1巻』(自伝)を読んだのだろうか・・・、と首をかしげたくなるほど、田中正造本人のことばを無視しています。しかし、林竹二著『田中正造の生涯』の「第1章 政治家田中正造の形成過程」では、その行間にすら、田中正造の人格と思想が滲み出ています。

表面的・形式的な論述に終始する小松の『田中正造』は、田中正造と谷中村の農民に深い共感を持って執筆された林竹二著『田中正造の生涯』には、足元にも及ばない・・・と思われます。

両者とも、田中正造の生涯についての言及のなかで、『回想断片』の「田中正造穢多を愛す。」ではじまる田中正造の短文に直接触れることはありませんが、林竹二は、その章全体において、行間に、そのことをにじませます。しかし、小松は、完全に無視してかえりみないようです。

明治7年、田中正造は、「上役暗殺事件で嫌疑を受けて投獄されて、明治4年2月から36カ月と20日間の牢獄生活を経験」します。明治7年4月出獄が許可された直後、帰った故郷での田中正造のことばとして、「田中正造穢多を愛す。」が語られているのです。当時の男が「愛す」と宣言するのは、尋常ではありません。それでも、「愛す」と宣言した田中正造の精神世界を解明せずして、田中正造のほんとうのすがたを描くことは不可能ではないでしょうか・・・。(続く)

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2006.09.16

「田中正造穢多を愛す」(断片23)

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第1項】「田中正造穢多を愛す」(断片23)
(旧:田中正造と明治維新 その4 続々・「田中正造穢多を愛す」の真意)

Hon0916 昨日(2006年9月15日)、徳山市立図書館で借りてきた『田中正造全集第1巻』(岩波書店)・・・、昨々日の夜、インターネット上で検索して、古書店に注文のメールを入れていました。

さきほど、古書店から、『田中正造全集』の「伝記」(第1巻)と「日記」(第9巻~第13巻)を発送したとのメールがありました。

筆者は、文献を読むとき、マーカーを使って色分けをし、整理することを常としています。そのため、図書館や知人から借りた本というのは、マーカーでしるしをつけるわけには生きませんから、なかなか読みにくい事態に直面します。筆者にとって、文献を読むというのは、論文執筆のためのノートつくりに等しいところがあります。

特に、年をとってくると、記銘力が衰えて、記憶の残ったページを探すのが至難の業になります。「確かにこのあたりにあったはずだが・・・」と思って探す時間ほど、無駄な時間はありません。マーカーをつけていれば、ものの数分でそのことばを見つけることができるのですから・・・。

徳山市立図書館で借りてきた『田中正造全集第1巻』をひもときながら、『部落学序説』で田中正造をとりあげる方向性にまちがいがないことを確認しました。林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造の残した資料を忠実に執筆されています。最初、林竹二著『田中正造の生涯』だけを読んで、文章を執筆することにしていましたが、念のため、『田中正造全集第1巻』(自伝)で確認することにしたわけです。

16日の夕方届くということですから、この文章は、『田中正造全集第1巻』(自伝)を解析したうえで書くことが可能になりました。田中正造を研究する多くの学者は、田中正造の自伝を充分には把握することができないようです。研究者の中に、田中正造に関する間違った固定観念が蔓延しているような気がします。

『田中正造全集』を全巻精読すれば、これまでの学者・研究者・教育者がなそうとしてなすことができなかった田中正造の精神世界を解明することができる・・・、筆者は、いま、その予感と感動でふるえています。『部落学序説』執筆完了後、予定している論文に、「新田中正造論」を含んでいいのではないかと思っています。

歴史研究において、従来の一般説・通説を根底から覆すことの機会・・・、というのはそれほど多くはないと思われます。たとえ、「自己満足でしかない・・・」と笑われようと、その機会が筆者の手元にある・・・、というのは痛快極まりありません。

とりあえず、徳山市立図書館で借りた『田中正造全集第1巻』(自伝)の中から、『回想断片』に収録されている「断片23」の全文を転載します。

「田中正造穢多を愛す。7年出獄してより郷里に帰り農業に従事す。夏麦打雇人に穢多を用いたり。時に炎熱の侯麦打の労甚し。雇人等に与うるに清水を桶に盛り来り、一碗その内に投じ置、雇人をして交る交る自由に其水を飲ましむ。穢多も飮み正造も飲めり。正造此穢多と一碗交る交るにす。衆皆之を卑しとしたり。当時村中の流俗穢多を卑しみて床上に登らせず、また湯に入れず。正造即ち穢多を湯に入れ座上に登す。毎日毎日日課卒りてより夜に入り穢多の労を慰め酒を与う。正造又其の盃を交換す。当村老弱男女神仏を祈るの徒は正造の行為を賤しみて隣伍親戚又来らず。正造穢多の人類中に区別すべからざるを説けり。而して説けば説くほど衆皆眉をひそめ唾を吐き、終に正造をも穢多の如く正造に湯茶を飲ますることを忌みて正造不便多かりき」。

当初の執筆計画に基づいて、この「田中正造穢多を愛す」ということばの意味を、林竹二著『田中正造の生涯』の研究成果に基づいて確認してみましょう。

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2006.09.17

田中正造の穢多理解

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第1項】田中正造の穢多理解
(旧:田中正造と明治維新 その5 続々々・「田中正造穢多を愛す」の真意)

徳山市立図書館で借りた『田中正造全集第1巻』に収録されている『田中正造昔話』に目を通しました。『田中正造昔話』は、「余は下野の百姓なり。」ということばではじまっています。

『部落学序説』でこれまで何度も指摘してきましたように、「百姓」というのは、近世幕藩体制下の「武士」・「百姓」という身分制度の中の「百姓」であることをいいます。

つまり、田中正造が、「余は下野の百姓なり。」というとき、それは、田中正造が下野の「百姓」であって「武士」ではない・・・、と主張しているのです。

『田中正造昔話』を読みますと、田中正造が、「百姓」であることに、自身と誇りを持って生きていたことを彷彿とさせるいろいろなことばに遭遇します。田中正造は、「百姓」に生れたことを誇りとし、「百姓」としての天分をまっとうしようとします。

田中正造は、「武士」身分におくれをとることなく、「百姓」の目からみて、「武士」の生き方を、ときにはするどく批判します。みずからが「武士」であることを誇り、その特権にあぐらをかいている「武士」に対して、激しく批判のことばをあびせます。

田中正造の「百姓」としての尊大ともみえる生き方は、祖父・正造、父・庄造から受け継いだものです。

田中正造の父・庄造は、六角家2000石の割元(西日本では大庄屋ともいう)になったひとで領主から信頼された庄屋のひとりです。父・庄造も、祖父・正造と同じく、「小中村の百姓の信望を集めて・・・名主に選ばれた」の(林竹二著『田中正造の生涯』)でしょう。父・庄造は、領主から信頼され、苗字帯刀を許されます。

その父・庄造のもとで、田中正造は少年時代を過ごすのですが、こどもの頃、田中正造は「がき大将」としえ名を馳せていたといいます。その昔話のなかで、田中正造は、「がき大将」であり続けるためには、「喧嘩の腰前と腕力の強き」だけではむずかしいといいます。田中正造は、「信を守る」ことに徹したからこそ「がき大将」でありつづけた・・・といいます。

この少年時代の田中正造の経験は、田中正造の全生涯を通じて影響を与え続けたのではないかと思います。人として最も大切なのは、「信を守る」ことである、と。

郵政民営化のために、同じ政党に属している同志を「刺客」を送り込んで排除する、どこかの国の首相のような「信を守る」ことに重きを置かない生き方とはまったく逆に、かたくななまでに「信を守る」ことに生涯をかけた人物はそんなにたくさんいるわけではありません。田中正造は希有な人物のひとりなのでしょう。

田中正造をとりまく人々は、彼を「強情」な精神の持ち主であるかのようにいいますが、「強情」にもプラスとマイナスの両面があります。「強情」がプラスに働くと、かたくななまでに「信を守る」ということにつながっていきます。

田中正造は、「信を守る」ことを止めたとき、ひとはどのような辛酸をなめることになるのか、15歳のときに経験します。15歳のとき、悪友にそそのかされて青楼に遊び、梅毒をうつされるのです。1回の遊びで3年間という長きに渡って、その病苦にさらされるのです。田中正造は、その事実を隠そうとすればするほど、そのことが露顕する経験をさせられるのです。田中正造は、おのれは、嘘、偽りを遠ざけ、信義に基づいていきるべき・・・と確信を抱くようになったようです。

15歳で梅毒を経験したことは田中正造の不幸ですが、その苦い経験によって、田中正造が、嘘、偽りを遠ざけ、ならぬものはならぬ・・・という精神でいきることの大切さを学んだのは不幸中の幸いであったと思われます。田中正造は、ふたたび同じ過ちをおかすことはありませんでした。

田中正造の父・庄造は、六角家用人坂田某と協力して、六角家の不良債権を解消し財政再建に貢献するのですが、坂田某死去のあと、林三郎兵衛というものが役につきます。この林という人物、法的逸脱行為に走ること意に介せず、坂田某と庄造が蓄積した5000両を「公共事業」の名を借りて私せんとします。工事代金の3~5割を賄賂として業者から還流させようとするのです。

田中正造の父・庄造は、この林三郎兵衛の奸計にくみすることなく、その奸計を潰してしまうのです。庄造と「気質互に相容れず」、父・庄造によって、そのたくらみを阻害された林三郎兵衛から、「仇讐の如く」つけねらわれることになるのです。その怨念、逆恨みは、父・庄造だけでなく、子・正造にまで及びます。

その怨念に端を発した六角家の騒動を「六角家騒動」(小松裕著『田中正造』)といいます。

林竹二著『田中正造の生涯』では、この「六角家騒動」は、「領主六角家の政治の「不法」を正すため」「農民の抵抗運動」であったとしていますが、小松裕は、田中正造の昔話に書かれていることは、「話をおもしろくしようという意図からか、かなり勧善懲悪的な潤色が施されており、また、これを執筆した1895(明治28)年時点の正造の思想も多分に投影されている。歴史の史料として扱うときには注意が必要である」といいます。「六角家騒動」の発端となった件については、「他の多くの藩や領主も取った一般的な施策」であるとし、「正造には、それが、六角家筆頭用人の林三郎兵衛などの私腹を肥やすためのたくらみとしか見えなかっただけのこと・・・」と切って棄ててしまいます。

当時の「公共事業」にまつわる不正事件について、「他の多くの藩や領主も取った一般的な施策・・・」と強弁し、「公共事業」をめぐって不正に利権を漁ろうとした六角家筆頭用人の林三郎兵衛を弁護し、田中正造の批判は事実誤認、田中正造の妄想に基づく・・・という、熊本大学文学部教授・小松裕の発想はどこから出てくるのでしょうか・・・。

小松は、田中正造を「ヒロイックな心情」の持ち主であると断定します。

この「六角家騒動」の際、田中正造は、獄中にとらわれの身になりますが、田中正造は、「予が奸党等の為に封鎖せられたる牢獄と云は、其広さ僅かに3尺立方にして・・・」と昔話で語っていますが、小松は「真偽のほどは確かではない。」と疑義を表します。

林は、「生きながらえて勝利を収めた」と評価しますが、小松は、「紆余曲折を経ながら、最終的に六角家側が、主君後退、林らの追放・・・」に終わったことを、間違った裁判の結果・・・であると主張しているようにみえます。

小松裕著『田中正造』の「第1章 田中正造の生の軌跡と足尾鉱毒事件」を読みながら、熊本大学文学部教授・小松裕の不可思議な解釈にあきれてしまいます。

小松は、田中正造の昔話を全面的に否定して、そのうえで、なおかつ、田中正造の思想を明らかにすることができるとほんとうに考えているのでしょうか・・・。田中正造がみずから語る昔話を、小松の歴史学者としての、あるいは政治的信条からしての予見と偏見で断裁するのではなく、その昔話という、ひとつの「伝承」の背後にある「歴史の核」をなぜ追究したり、明らかにしたりしないのでしょうか・・・。

「六角家騒動」の背景には、近世幕藩体制下の「武士」身分と「百姓」身分の葛藤があります。当時の「公共事業」によって不正な富を画策しようとした林三郎兵衛と田中親子は、「支配」と「被支配」の関係ではなく、「支配」と「支配」の関係です。どちらも、領主から、「役」を与えられ、その「役」を忠実に果たさなければならない義務があります。

「筆頭用人」「割元」との抗争は、「支配」と「支配」の葛藤状態を意味しています。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」は、小松裕の中にも深く浸透しているのでしょう。「武士」を高く評価し、「百姓」を低く見下す、愚民論に深くとらわれているように思われます。

『部落学序説』の筆者の目からみると、小松裕は、この「愚民論」にたって、田中正造の人と思想を見ているようです。田中正造の父・庄造が、近世幕藩体制下の、司法・警察である「非常民」として、十手を預かっている現実を故意に無視しています。林竹二は、「名主」としての田中父子は、「村内一切の公務」とともに「非常の権力」を領主から公認されていることを指摘しています。

この「非常の権力」というのは、「法」に照らして「法」を執行する権力のことです。田中父子は、領主からこの権力を付与されているといっても過言ではないでしょう。もちろん、「領主」が「法」に背く状態にある場合は、「法」の執行官として「非常の権利」を行使するのは非常に複雑な様相を呈してきますが・・・。

小松裕著『田中正造』において、小松裕は、田中正造の「武士」批判をことごとく否定・抹殺する傾向があります。

支配される側の「百姓」であると共に、支配する側の「名主」でもある田中正造の、同じ支配する側にあって法的逸脱をしてまで、私腹を肥やそうとする「武士」に対する批判は、近世幕藩体制下の「武士」・「百姓」という身分的序列に反するとでも考えておられるのでしょうか、小松裕は切り捨ててかえりみません。

田中正造は、その昔話において、「幕末の時、仰ぐ可きの法制なし。守る可きの規律なし。」といい、「武士」が本来の「武士」たるものの職責をまっとうしないがために、弱肉強食を背景に殺生与奪の権が「武士」に私物化されている・・・と主張します。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常の民」としての「名主」(村方役人)である田中正造は、「非常」に際してどのような措置をとらなければならないか、熟知していたと思われます。

ところが、領内における政道をただそうとする「非常の民」・「名主」田中正造に対して、「武士」たちは、「天下の大罪」を犯したものに課せられる「三尺立方」の牢屋に田中正造を閉じ込めた・・・というのです。なせ、領内の不正をただそうとしたものが、「天下の大罪」を犯したものに課せられる「三尺立方」の牢屋に閉じ込められなければならないのか、田中正造は、「非常の民」(名主)として「非常の民」(武士)に対峙したと思われます。

「非常の民」として生きてきた田中正造は、「陸中国在職中の殺人疑獄」に巻き込まれ、積極的に被害者の救済につとめたために、その血を身に負うことになり、「非常の民」としての知識と経験が禍して殺人事件の容疑者にされていきます。

田中正造は、異郷の地にあって、近代中央集権国家の「非常の民」(警察)から厳しい取り調べと拷問をうけるのです。そのとき、田中正造は、「正理」をもって、「弾正台の審判を請求」するのです。しかし、異郷の「非常の民」(警察)は、ますます拷問をもって田中正造に接したといいます。明治4年6月から明治7年4月まで、ほぼ3年間に渡って、「江刺の獄」につながれて辛酸を味わわされるのです。

この疑惑、被害者の次男の証言によってはらされ、無罪放免となるのですが、田中正造は、このとき、その故郷に帰ります。

このときの状況を、田中正造は、『回想断片』の21と23に記しています。「断片21」と「断片23」は、同時に読まれるべきものです。一方を受け入れ、一方を排除するのは、どちらの断片の真意も見逃すことになるでしょう、両方の断片を排除するのは、田中正造のひとと思想を最初から、根源的に否定することに通じるでしょう。

「断片21」は、幕藩体制下の「武士」支配の頂点である「元領主」(六角雄太郎)に対する、また「断片23」は、同じく幕藩体制下の「武士」支配の最下層である「元穢多」に対する、田中正造の真意が綴られているのです。

「武士」身分によって数々の辛酸をなめさせられた田中正造は、「旧武士」(軍人)に対して厳しく批判する一方、「元名主」であった田中正造同様、「非常・民」として共に、六角家の領内の治安維持にあずかってきた「旧穢多」(警察官)に対して限りない尊敬と愛着をもって接するのです。

それが、「断片23」の「田中正三穢多を愛す」の真意なのです。

田中正一著『田中正造 その思想と現代的意義』のなかで以下のように記述されるのは、田中正造のひとと思想を無視した典型的は評価・・・、的を外したまったく見当はずれの解釈であるといわざるをえないでしょう。

「ここで問題となるのは部落差別というものは、被差別部落民の立場からすれば、田中正造一個人の庇護や温情によって解決されるものではない。彼の側からは、「平民主義」の実践であるものも、被差別者から見れば当人の気休めにしかならないこともある。その冷厳な断絶について、彼は無自覚であったと言えるであろう。これと同じ型の関係が、彼と農民との間でもしばしば生じたようである」。

田中正造に代わって、田中正一氏に反論すれば、

田中正造と「穢多」との関係は、差別・被差別の関係ではない。
田中正造は、「穢多」を「庇護」しようとも、「穢多」の問題を「解決」しようともしていない。

田中正一が田中正造に対して、「当人のきやすめ」、「その冷厳な断絶について、彼は無自覚であった」と断罪するのは、時間・空間を無視してなされる、単なるたわごと・虚妄でしかない・・・といわざるをえません。

現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究、あるいは部落解放運動の概念と研究「成果」を、時空を超えて、田中正造のことばに適用することによって、田中正一氏自身の自己満足しか生み出さず、田中正造のほんとうの姿を見ることからますます遠ざかっていくのではないでしょうか・・・。

大学の教授・小松裕にしても、大学生として卒論に『田中正造 その思想と現代的意義』をしたためた田中正一にしても、田中正造のひとと思想を明らかにするというよりは、小松裕・田中正一固有の価値観をいたずらに適用した身勝手な研究、否、研究の名に値しないものではだいでしょうか。

1891(明治24)年12月18日、「第2帝国議会において、はじめて、足尾銅山鉱毒問題に関する質問書を提出」まえの、田中正造の人生51年間の歴史と、そのひとと思想を、「田中正造」ということがらに則して解明せずして、その後の田中正造の思想と行動を把握することができるのでしょうか。

小松裕は、その著『田中正造』の「あとがき」でこのように記しています。

丸山真男の「追創造」について紹介したあと、「思想史の研究も同じであり、その魅力も、史料的制約の枠内で、可能な限り想像力を駆使して行う解釈という作業に存在している。・・・しかし、思想史の魅力は同時に恐さでもある。それは、いくらあがいても、研究者の力量に見合った”等身大”の思想家像しか描けないという恐さである」。

小松裕の恐れは、その著『田中正造』において現実のものになっているとしかいいようがありません。小松裕の『田中正造』のなかで描かれている田中正造は、小松裕が理解している「田中正造」であって、田中正造そのものではないのです。

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2006.09.18

「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第2項】「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」

『田中正造全集第1巻』に収録されています『回想断片』から、21番目と23番目の断片をとりあげてみましょう。

「断片21」は、「明治7年と覚ゆ、正造南部盛岡県の獄を出でて郷に帰る。」ということばではじまります。

田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。六角家は、2000石の旗本です。

『武家の女性』(岩波文庫)の著者・山川菊栄によりますと、近世幕藩体制下においては、「武士」は、500石以上を「上士」、500石未満から100石以上までを「中士」、100石未満を「下士」と3段階に区別されていたようですが、そういう意味では、2000石の六角家は「上士」(最上級の身分)になります。

しかし、「旗本」というのは、「石高1万石以下で將軍に直接謁見を許される者」(竹内理三編『日本史小辞典』(角川小辞典))ですから、その石高は、最大から最小までは天と地ほどの差があることになります。「旗本」の60%は、「100石から500石の小知行主で、領地の支配は幕府代官にゆだね、年貢の収納していた。」といわれます。「旗本」が、「陣屋を置き、自分で支配」することを許されるのは、3000石以上ということになります。

2000石の六角家は、「年貢の収納」については、六角家の用人がそれを担当していたように思いますが、六角家が、その領地に「陣屋を置き、自分で支配」していたかどうかは定かではありません。「陣屋」を置いた場合は、「年貢の収納」だけでなく治安の維持も自前でおこなわなければならないでしょうから・・・。

他の幕府領内と同じように、治安の維持については、村ごとに「穢多の類」が配置されていたと思われますから、「村」単位の治安の維持というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」と「村役人」(庄屋・名主等)によってになわれていたと思います。このことについてはすでに論述済ですが、「穢多」はおもに司法警察、「村役人」はおもに行政警察的な仕事をしていたと思われますが、その区別明瞭ならざる時代のことですから、その職務内容は微妙に入り乱れていたと思われます。

近世幕藩体制下の「庄屋」・「名主」というのは、その「非常民」としての職務上、武士支配の中の「武士」とも「穢多」とも交流する場面が多々あったように思われます。明治前半期までは、「庄屋」ないし「庄屋」の末裔は、一般の「常民」でしかない「百姓」とは、異なった視点から「武士」ないし「穢多」を見ていたように思います。

「庄屋」・「名主」という立場は、近世幕藩体制下においては、「武士」対「百姓」という、支配・被支配の関係に置かれていただけでなく、「非常民」対「常民」という、支配・被支配の関係にも置かれていたと思われます。

つまり「庄屋」・「名主」は、「百姓」に属するという点では、「武士」の支配を受ける被支配の側にたたされたと思われますが、「非常民」としての「庄屋」・「名主」は、その他の「百姓」との関係においては、「百姓」を支配する側に身を置いていたと思われます。

「庄屋」・「名主」の職務は、武士支配の「武士」・「穢多」と違って、「支配」・「被支配」の両方の側にたって、遂行されなければならないものです。

『部落学序説』の筆者である私は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しては、「庄屋」・「名主」の研究が必須であると思っています。「庄屋」・「名主」が、「武士」(軍事を担当)をどう見ていたのか、また、「穢多」(警察を担当)をどう見ていたのか、そして、「武士」と「穢多」の関係をどのように見ていたのか、「武士」と「百姓」の関係・「穢多」と「百姓」の関係をどのように見ていたのか・・・、それを研究することによって、部落史の見直しをはかりつつ、研究の窒息状態に追いやられている、部落研究・部落問題研究・部落史研究を突破して、部落差別完全解消につなげるための新しい視点を入手することができるのではないかと思っています。

このことは、山口の地で知り合った、部落解放同盟新南陽市部の現・部落史研究会のメンバーの方々に、筆者が繰り返し指摘してきたことがらです。近世幕藩体制下の「穢多」が、当時の支配階級である「武士」(「士・農・工・商」の最上級に身分とされる)にどのように見られ、どのように記録にとどめられたかを研究するにとどまらないで、「穢多」と同じく、十手をあずかっていた「非常民」としての「庄屋」・「名主」によって、またその他の「百姓」によってどのように見られていたかを研究する必要がある・・・、と話してきました。

「講演」のお礼として『城下町警察日記』(紀州藩牢番頭家文書編纂会編)といただいたときにも、あつかましくも、紀州藩の「穢多」文書より「庄屋」文書がほしかった・・・と感想を話させていただいたのも、それまでのそういう経過があったからです。部落学の祖である川元祥一著『部落差別を克服する思想』の中にはこういう発想はありませんから・・・。

少しく脱線しましたが、『武家の女性』の著者・山川菊栄は、明治維新による「武士」階級の没落のすがたを、「武士」階級の女性の立場から、冷徹に観察しています。近世幕藩体制下においては、「武士」は「土と絶縁して城下町に住み、一定の俸祿によって生活」していて、「現代の俸給生活者と類似」していたといいます。

山川菊栄は、幕末期の「武士」の家は、「みんな貧乏」で、「ガランとして寒々しい感じ」がしたといいます。「明治を迎え、今までの地位と禄とをにわかに失った」「下級武士」は、生活に苦しむどころか、「自己の勤労や技能によって生活し得る」限り、「身分制度からの解放」は、元「武士」を、封建的貧困から解放したといいます。「あのガランとして古ぼけた侍屋敷は、朽ち亡びゆく封建制度を象徴していた」といいます。「自己の勤労や技能」を持ち合わせていない「上士」・「中士」層の「武士」の中に、「没落」していくものが多かったといいます。中でも、「旗本」「没落」ほど、あわれむべきものはなかったそうです。山川菊栄は、「旗本の娘の中に、芸娼妓や妾奉公に出た者が多かったこと」を指摘し、「面白い対照をしている」として、「水戸藩士の娘で、そういう境界に落ちた者は、知られているかぎりでは、ただひとりしかいなかった・・・おそらくこれは諸藩を通じて共通の現象であろうと思います。」といいます。

「旗本八万騎」・・・、彼らがどのように明治という新しい世界を生きていったのか・・・。どのように没落していいたのか・・・。そのような歴史研究はあるのでしょうか・・・。

水戸藩においては、「下級武士」だけでなく、「同心・目明し・穢多・非人」も、もちまえの「勤労や技能」を駆使して生き抜いていったのではないかと思います。

山川菊栄がいう「没落」してく「武士」・「旗本」の現実の姿が、田中正造の「断片21」に記されているのです。

田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。それは、生活「困窮の為め・・・旧領民の救いを乞」うものでした。六角雄太郎は、かつて、田中正造が「賢君」として認めた人物です。「然るに今生活に窮したりとて旧領地に来るとは・・・」と驚きはてて「骨なしの所作なり」と心の中で思うのです。

田中正三は、旧領主・六角雄太郎にむかって、自分の襟をただして、このように質問します。

「公は、その後、何等の学文を為せしや」。
元領主、答えて、「学文を為さず」といいます。

田中正造は、「然らば芸は何を為せしや。礼楽射御書数、その内何をもって熟達せられしや」と問いかけます。
元領主、答えて、「そのうち1科も学ばず」といいます。

「芸」というのは、今日的には「教養」のことで、「六芸」(「礼楽射御書数」)のことです。「学文」が「学問」を意味する一方、「芸」は、新しい時代が要求する知識と技術を身につけ国家のために労する気力を養うことを意味します。田中正造は、明治政府からの禄を食んでいる間、旧領主が、将来のために何の備えをしたのか・・・、問いかけているのです。

田中正造は更に問いかけます。「武術撃剣柔術いかに?」
元領主は「学ばず」と答えます。

ここにいたって、田中正造は「憤怒」して、「当世高家本領安堵の上は、専ら士道を研究せらるる余地もありながら、いたづらに座して何等の学文をも為さず、又、国家興亡のことに関せずとは何等の事ぞ。」と元領主に詰め寄るのです。

誰によってそそのかされたかは知らぬが、「恥知らぬ者共の君を勧めて此醜態を為さしむものなむ・・・」といって、田中正造の心中を吐露し、「よくもおめおめ来たり乞食を我が面前に述べたり、一文半と雖も公に呈するものなし」と、元領主に「痛く恥辱を与」えたといいます。

よこで、両者の話を聞いていた田中正造の父は、たまりかねて、元領主・六角雄太郎をつれだし、村民有志に働きかけて、「多少の金円物品を集めて・・・献納」したといいます。

13年後、田中正造は、東京に出向いたとき、元領主・六角雄太郎の音信をたずねます。六角雄太郎は、「君に較然悟る処あり爾来節倹を守り身を修め、終に多少の余財を貯えて地所長屋をも所有して今は相当無事に今日を送」ると答えたといいます。

13年後のことはともかく、明治7年の田中正造「憤怒」のできごとは、近世幕藩体制下の「武士」に対する田中正造の深い失望の思いを伝えています。

それにひきかえ、同じ「非常民」とはいえ、「旧穢多」の生き方のなんとさわやかなことか・・・。「身分制度からの解放」によって、「武士」同様、「穢多」も、旧身分から解放された・・・。しかも、「武士」のように、明治政府の禄を食むこともない。田中正造の住んでいる村の「穢多」たちは、生きるために、農家の「雇人」までしている。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」のしるしである十手・捕亡道具をとりあげられ、「平民」と同様に働いて生きなければならない・・・。

異郷の地の元「武士」や元「穢多」によって、不法な拷問を受けてきた田中正造にとって、故郷の「穢多」は、かつては、近世幕藩体制下においては、同じ「非常民」として、六角家の領地の治安維持に身をささげてきた身、彼らは、田中正造に不法な拷問をもってすることはなかった・・・。武士支配の末端にあって、「非常民」として従事してきた「穢多」に対して、田中正造は深い共感をもったのかもしれません。

「田中正造穢多を愛す」ということばは、「田中正造、「武士」よりも「穢多」を愛す」ということばではなかったかと思います。

元領主を「痛罵」して空手で帰した田中正造が、旧「穢多」に対して、麦打ちの仕事を提供し、休憩時にはつめたい水をさしだし、一日の労をねぎらって、風呂に入れ、酒を馳走し、床につかしめ、次の日は給金を渡す・・・。

『部落学序説』の筆者からみると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「庄屋」・「名主」と「穢多」は同じ「支配」の側に身を置いていたがゆえの、親近感と相互理解が存在していたのではないかと思います。廃藩置県によって、「庄屋」・「名主」も「穢多」も同様に、「非常民」としての役務から解雇された・・・。これからは、「非常民」としての名を汚さぬよう、「庄屋」・「名主」も「穢多」も新しい時代を生きなければならない・・・、そんな田中正造の内なる声が聞こえてくるように思われます。

「衆」は、支配者側にたって、「百姓」を虐げてきた過去の歴史にこだわって、旧「穢多」と距離をもとうとするけれども、明治になって、区別する時代は過ぎ去った・・・。「断片23」の「田中正造穢多を愛す・・・」ということばではじまる田中正造の真情の吐露は、田中正造の「名主」としての、「非常民」としての、「支配」と「被支配」の両方の領域に同時に身を置いて生きるものとしての宣言ではなかったかと思われます。

「非常民」として、「法」に忠実に、「法」に生きようとする田中正造は、鉱毒問題で谷中村の農民の世界に入っていくとき、この「非常民」性が激しく問われることになります。田中正造の生き方(ことばとふるまい)の中から、「非常民」に固有の「支配」の側に身を置いて発想する体質を払拭しないかぎり、谷中村の農民の世界に、その権力との闘いの世界に入っていくことはできませんでした。

林竹二著『田中正造の生涯』の「谷中の苦学と開眼」の中に、その葛藤がしるされています。

「正造は、谷中の人民の中に、自分とは類を異にする存在・・・別の「人類」を見たのである。強制破壊の前夜、正造はこの「人民」と生死を共にすることを誓ったのである。正造に彼らのために死ぬ覚悟があったことは、疑う余地はない。だがこの誓いを守るのに、決定的な困難があった。それは正造が、いままでの正造であるかぎり、彼らのために死ぬことはできても、彼らとその生を共にすることはできないという一事である。正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかったのである。彼は自分の中に、まさしく「人類以外に立って、人のために何かをしようとしている」愚人を認めざるを得なかったのである。・・・正造は改めて、谷中の人民の中にはいって、その一人となるか、あるいは谷中の戦いから手を引くかの二者択一の前に立たされたのである」。

林はさらに続けます。

「一つの事を学ぶということは、その事において自分が新たに作られることだ・・・学ぶということは・・・自己を新たにすること、すなわち、旧情旧我を誠実に自己の内に滅ぼしつくす事業であった。その事がなしとげられないあいだ正造においては「理解」は成立しなかったのである。・・・学問が人を自由ならしめるのは、学問が借りをつぐなうことにおける仮借のない誠実さに裏付けられているときだけである。学問が田中正造の人生を救う力であったのは、それが充分にこの裏付けを有していたからである。田中正造の苦学の中心課題は、旧情旧我の牢獄を出ることである」。

『部落学序説』の筆者の目からみると、田中正造の「苦学」は、「庄屋」・「名主」としての「非常民」であることを棄てて、一「百姓」としての「常民」の視点・視角・視座を身につけるための戦いであったと思わされます。

ここで筆者は考えざるをえません。

「非常民」のもう一方の極、旧「穢多」は、どのように「苦学」・「学問」して、「非常民」から「常民」への道、「旧情旧我の牢獄」を脱出しようとしたのでしょうか・・・。旧「穢多」にとって、「旧情旧我」は、決して、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的自己理解のことではありません。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の自己理解のことです。マイナスを克服するのではなく、プラスを克服するに、どのように克服していったのか・・・ということです。マイナスを棄てることもむずかしいのですが、プラスを棄てることはもっとむずかしいことです。

「非常民」から「常民」への精神的戦いを放棄して、「旧情旧我」に座していては、「部落差別」は永遠になくならないのではないでしょうか。「部落差別」を温存してまで「同和対策事業」を追究する、国家と国民に対する「乞食」(こつじき)を主張するだけでは、「部落差別」は永遠に解決することはできないでしょう。

「部落差別」を完全解消に導くため、「棄てる」ために、「被差別部落」のほんとうの歴史を「得る」努力をしなければならないのではないでしょうか・・・。

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2006.09.30

「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第3項】「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・

この文章は、筆者の極めて主観的な文章です。

「琴線」ということばがあります。

『広辞苑』では、次のような説明がなされています。

きんせん【琴線】①琴の糸。②感じやすい心情。心の奥に秘められた、感動し共鳴する微妙な心情。「-に触れる」

筆者の論文『部落学序説』が、「被差別部落」の出身者ではない、しかも、「被差別部落」のひとびとの差別される痛みも苦しみもわからない差別者のたわごと・・・でしかない場合、「被差別部落」のひとびとは、『部落学序説』に対して馬耳東風を決め込むこともできるでしょう。

なかには、一応、筆者に対する「世辞」で、『部落学序説』に対して一定の評価をしてくださる方々もいないわけではありませんが、しかし、『部落学序説』が、「被差別部落」の出身者ではない、しかも、「被差別部落」の人々から見れば、「被差別部落」のひとびとの差別される痛みも苦しみもわからない差別者・・・と同定される筆者の書く文章は、最初から危うさを内包していると思われます。

『部落学序説』は、「被差別部落」の人々の思想や運動方針、その生き方に100%「寄り添う」ものではありませんし、また逆に100%「寄り添わない」ものでもありません。

『部落学序説』は、筆者の解釈原理、「常民・非常民論」・「新けがれ論」・「賤民史観批判」によって、史料・伝承の分析・批判がなされていますので、当然、『部落学序説』の論述は、「被差別部落」の人々の思想や運動方針、その生き方に「寄り添う」部分もあれば、その逆の「寄り添わない」部分も抱え込むことになります。

その場合、「寄り添わない」部分を棄てて、「寄り添う」部分だけを取り入れるということが可能であるのかどうか・・・、といいますと、『部落学序説』の筆者の目からみると、それは、非常に難しいのではないかと思われます。

英語のことわざに、"Don't Throw The Baby Out With The Bath Water"というのがあります。

このことわざは、「ことわざ」というより、単なる「ジョーク」のようですが、ときどき、日本のことわざ「角を矯めて牛を殺す」の英語版として紹介されることがあります。「汚れた」水を棄てようとして、「清らかな」あかちゃんを棄ててしまう愚を表現したものですが、最近、このことわざを地でいったような事件が少なくありませんが、『部落学序説』の中から、「寄り添わない」部分を棄てて、「寄り添う」部分だけを取り入れる・・・、というのは、ほとんど意味のないことです。

『部落学序説』を執筆するための長い歳月の間においても、ブログ上で執筆を開始した以降においても、ときどき、筆者の「寄り添う」部分と「寄り添わない」部分が指摘されてきました。「寄り添う」部分は、「被差別部落」の人々から歓迎されて受け入れられるのですが、「寄り添わない」部分については、「被差別部落」の人々の「琴線」に触れ、ときとして、彼らに「悲しみ」をあたえたり「怒り」の気持ちをかきたてたりしてきました。

「琴線」というのが、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」であるがゆえに、それをことばに出して表現することは非常に難しいものがありますが、無学歴・無資格の筆者の「独断と偏見」を駆使して、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」について一考してみたいと思います。

昔、東京・山谷の労働者の闘いを描いた「やられたらやりかえせ」の上映運動に参加したことがありますが、上映会のあと、上映運動をしているキャラバン隊の方々と懇親会を開催したことがあります。

ちょうど、日本全国、造船不況のまっただなかで、筆者の住んでいる下松市の笠戸島の造船所も閉鎖対象になり、各政党を超えて、「下松から造船の灯を消すな」という市民運動が起こりました。

下松市にある、日本基督教団の小さな教会に赴任してきて日の浅い筆者は、「やられたらやりかえせ」の上映運動や、「下松から造船の灯を消すな」という市民運動に担ぎだされました。新左翼系の作成した映画・「やられたらやりかえせ」が、日本共産党系の笠戸造船の労組でも上映されていたのです。

「下松から造船の灯を消すな」という市民集会には、地元のひとはのちのち差し障りがあるから・・・、というので、「よそもの」の筆者に、市民代表としてのあいさつ(アジ演説)がまわってきました。

今から考えると、若気のいたりというか、「世の光・地の塩」の役をつとめなければならないという「使命感」にとんでいたというか・・・、思い出しても赤面せざるを得ない「演説」をしたものです。「ひとが企業をつくる。ひとを大切にしない企業はやがて滅びる。ひとが国をつくる。ひとを大切にしない国はやがて滅びる・・・」、みたいな発言をしたように思います。

筆者の演説はまったく、時代状況とは無縁で、その後、日本の国も企業も、「ひと」を軽んじる方向に突っ走ってしまいました。バブルがはじけてから、その傾向はますます強くなり、小泉政権下においてはその傾向が一段と加速されました。「格差」の問題は、国や企業が「ひと」(国民・市民)を軽んじてきた結果にほかなりません。

話が脱線しましたが、その「やられたらやりかえせ」の上映運動のあとの懇親会に、筆者が所属する日本基督教団西中国教区の「キリスト教社会館」(広島市内の被差別部落の中にある私設隣保館)の青年が、キャラバン隊の一員として参加していました。

そのとき、自己紹介の席で、彼が、「やられたらやりかえせ」の上映運動に参加するようになって、「たかが部落差別と思うようになった・・・」と話したのです。キャラバン隊の彼のことばに反応するように、上映運動の執行部側のひとり、高校教師で市の同推協のメンバーをしているひとが、「そうだ、そうだ、たかが部落差別だ!」といったのです。

自己紹介が筆者の番にまわってきたとき、筆者はそのことに触れざるを得ませんでした。「被差別の側から、「たかが部落差別・・・」というのは理解できるが、差別者の側から、「たかが部落差別・・・」というのは問題ではないか・・・、と発言しました。

「たかが・・・」ということばは、考察の対象を軽視するときに使用されることばです。被差別の側が、「たかが部落差別・・・」といって、自己の直面する部落差別を相対化して差別と闘うということもあるのですが、差別者の側が「たかが部落差別・・・」と相対化することに問題を感じたからに他なりません。

そのとき、懇親会に参加していた部落解放同盟新南陽支部の方々が、「その通り・・・」とあいのてをいれられていました。

そのことが影響したのかどうかはわかりませんが、その後、部落解放同盟新南陽支部のある被差別部落の中の隣保館で開かれた写真展に招待され、生れてはじめて、自分の意志で、被差別部落をたずねることになりました(そのことについては、すでに記述しています)。

筆者と部落解放同盟新南陽支部との出会いの端緒からして、「部落差別」の相対化・絶対化の問題は避けることができない問題として存在していたわけです。それから、二昔の歳月が過ぎてしまいましたが、「部落差別」の相対化・絶対化の問題は、今も、未解決のまま両者の間に、部落解放同盟新南陽支部との間だけでなく、筆者と部落解放運動の担い手との間に存在し続けているのです。

無学歴・無資格に端を発する「独断と偏見」からあえていえば、部落解放運動に従事している被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」として、自らが直面している差別を「絶対化」する傾向があるのではないかと思います。「部落差別」は、他の差別と根本的に異なる「特殊」な差別である・・・、と。

「特殊部落」ということばが、差別語であることは、『部落学序説』の立場からも明確にそうであると断言できます。「特殊部落」ということばは、時の明治政府・内務省・警察によって造られた、極めて差別的な用語です。明治政府の「棄民化」政策によってつくられたことばで、この「特殊部落」を一般に流布させた、当時の学者・研究者・教育者・政治家・運動家は、現代部落差別の構築に関して重大な責任があります(誰もとろうとはしませんが・・・)。

言葉としては、差別語として認識される「特殊部落」は、意識レベルになると、被差別部落の側に相当受け入れられていったのではないかと思います。「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としては、被差別部落の人々は、自らを「特殊」という言葉で、絶対化していったのではないかと思います。

水平社運動の時代、その「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」がわざわいして、「特殊部落」にかわる言葉を創出することができなかったのではないかと思います。「人間解放」を訴える、水平社宣言において、「全国に散在する我が特殊部落民よ・・・」とよびかけていますが、「特殊部落民」ということばをもってしてしか、自らを表現することができなかった背後に、被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」として、自らを「特殊視」する視点がふくまれていたのではないかと想定せざるを得ないのです。

被差別部落のひとびとがみずからをみつめるまなざし・・・。そのまなざしの中に、差別者のまなざしが取り入れられていると主張する学者・研究者・教育者・政治家・運動家も少なくありませんが、みずからの存在の「特殊視」(近世幕藩体制下の「常民」からみずからを「非常民」として区別する傾向)の主張は、本源的に被差別部落のひとびとの歴史と思想、生き方の中に内在するのではないかと思われます。

その「特殊視」に乗っかって戦前・戦後、水平社運動・部落解放運動が展開されてきたのではないかと思われます。

日本の歴史をひもとくと、差別されてきたひとびとはたくさんいます。女性・こども・障害者・アイヌのひと・沖縄のひと・貧しいひと・・・、それなのに、なぜ、「被差別部落」のひとびとだけが、「被差別」に対する総合的施策としての同和対策事業・同和教育事業の対象になっていったのか・・・。それを許していった背景のひとつに、「被差別部落」の側の、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」があったのではないかと思います。

誤解を恐れずにいえば、この「特殊視」を根拠にして、部落解放運動が実践され、同和対策事業・同和教育事業という、「特殊視」にみあう事業・教育が推進されていったのではないかと思われます。

同和対策事業・同和教育事業が終了した時点でも、被差別部落のひとびとがみずからを「特殊視」する視点は批判検証されることはなかったのでしょう。この「特殊視」は、被差別部落の存在とその解放運動を絶対化し、部落差別を相対化する、ありとあらゆることがらを否定しようとします。「被差別部落」の側の、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」は、「特殊部落」という差別の裏返しとしての、被差別部落の側の自己理解の視点・「特殊視」なのです。

筆者の『部落学序説』は、被差別部落のひとびとの中に潜在的に宿る「特殊視」という絶対化に対して、相対化した視点・視角・視座を提供するものです。

『部落学序説』は、最初から、「差別」と「被差別」の両者の間の精神的葛藤を前提としているのです。「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」(賤民史観)を否定し、「一般視」(常民・非常民論)を提案しているのです。

『部落学序説』の筆者が、これまでかかわってきた被差別部落のひとびととの間に齟齬が生じるのは、共通点がひとつあります。それは、筆者が、被差別部落のひとびとの「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての、被差別部落にひとびとの自分自身に向けた「特殊視」(賤民史観)を否定することです。

部落差別を完全解消に導くためには、「部落差別は差別者にのみ問題がある、被差別者はいわれなき差別を受けてきた被害者に過ぎない・・・」という「虚妄」を払拭し、被差別・差別の両者に存在する「特殊視」(賤民史観)を破壊しなければなりません。

部落差別は、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」(賤民史観)をなにか「宝石」のように大切にしているが、ほんとうは、きらきら光り輝いているけれども「ガラス玉」でしかない、しかも取り扱い方によっては自他を傷つけてしまう危険な「ガラス玉」を自分の手に握りしめてはなさないこどもにたとえることができます。

『部落学序説』は、ほんとうの光を放つ「宝石」(常民・非常民論)を提示して、危険な「ガラス玉」(賤民史観)を手放すことをすすめるものですが、危険な「ガラス玉」(賤民史観)をほんとうの「宝石」と信じ込んでしまっている、差別・被差別の両方のひとびとの意識改革は決して簡単ではありません。

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2006.10.06

排除される「庄屋」の視点・・・

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第4項】排除される「庄屋」の視点・・・

近親憎悪・・・、ということばがあります。

かなり、一般的に使用されているように思っていたのですが、『広辞苑』をひもといてみますと、その見出しには、「近親憎悪」ということばは見当たらないようです。

「近親憎悪」ということばは、まだ、一般的な用語としては認知されていないようです。

「近親憎悪」ということばは、精神分析学の専門用語だそうですが、筆者の蔵書の中には、精神分析に関する本は1冊もありません。

イタリアの社会学者・アルベローニの2冊の書(『他人をほめる人、けなす人』・『借りのある人、貸しのある人』)の中に出てくる109の「人間性」のパターンのうち、「近親憎悪」の持ち主は、どのパターに属するのか調べてみました。

『部落学序説』の筆者として選択したパターンは、『他人をほめる人、けなす人』の中に収録されている「他人を引きたてない人」・・・。

この種のパターンに属するひとは、「知的な高い才能を備えている」場合が多いようです。「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」と言われます。『部落学序説』の筆者の目からみますと、部落解放運動の運動団体(同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)は、それぞれ、「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」ように見えます。

どの運動団体に属していても、その運動家は、「協力者の取りまきをつくる」ことに長けています。いわゆる組織力を持っている方々です。彼らは、彼らの運動団体に組み込まれた組織人である被差別部落のひとびとに対して、それぞれの運動と方針に忠実であることを要求します。彼らは、その傘下にある被差別部落のひとびとが、「その個性や思想を明らかに」することを好みません。「従順で、勤勉で、凡庸な人物」で、組織と組織の指導者に服従的であることを要求します。

もし、若い人々が、「その個性や思想を明らかに」しようとすると、組織の指導者としては、上杉聡のように、「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる・・・」と、強権を発動し、組織の方針に抵触するひとびとを排除しようとします。

「若くて有能な人びと・・・を可能なかぎり、自分の成功のために利用し、搾取しておいて、それから彼の前に障害を設けはじめる。もしも若者が自由になろうとし、独力で歩もうとすると、これを迫害する」。

「このタイプの人びとは勇気に・・・欠けている。しかし、その臆病さを隠すことも心得ている。大仰な言葉を口にし、やたらに憤慨し、激しく批難するが、自分をさらすことはしない。人を先に立てておいて、ことがうまく運ばないとみると、自分は姿を隠してしまう。もしもうまく運べば、それは自分の功績だと主張する」。

『他人をほめる人、けなす人』の著者、イタリアの社会学者・アルベローニは辛辣な言葉で続けます。「卑劣なのは恐れるものではない。卑劣なのは、勇気ある人びとを楯にして身をかばい、その人びとを犠牲にしておいて、それを否定する輩である」。

『部落学序説』の筆者である私は、アルベローニのことばを読みながら、「近親憎悪」を持っているひとびとの「人間性」と、『他人をほめる人、けなす人』の「他人を引きたてない人」との間にかなり類似性があるのではないかと思います。

「近親憎悪」とは、「近親」(部落解放のための運動団体、同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)が、自分以外の「近親」(部落解放のための運動団体、同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)との間に差別化を図り、自分の所属する運動団体の組織と方針のみを価値あるものとみなし、それ以外の運動団体の組織と方針を、無価値なもの、否、害あるものとして、「大仰な言葉を口にし、やたらに憤慨し、激しく批難する」ことによって、徹底的に叩き潰そうとする心情のことである・・・、と定義できそうです。

日本共産党系の全解連(今は名称を変更していますが、実態は変わりません)の部落解放同盟に対する批判は、文字通りの「近親憎悪」です。そのことに対する部落解放同盟の側からの日本共産党系の全解連に対する批判も、ほとんど間違いなく「近親憎悪」です。

部落差別問題・人権問題を標榜する運動団体の多くは、相互に、その組織の内外にむけて、「近親憎悪」的体質を持っています。

アルベローニは、部落差別問題・人権問題を標榜する世界においても、「独占的地位」を追求してやまない「モンスターがいる」といいます。

そのモンスター(怪物・化物)は、「何かに成功でもすると(例えば裁判闘争に勝ったりすると)、自分を他のだれよりも優れているものと考える。私の知っているある人物は、ある国際的な成功を収めた後、すべての友人、すべての弟子を徹底的にこきおろして、こう述べた。「私はもう君たちには用がない。君たちは私の過去の生活に属する人びとだ」と」。

部落差別問題・人権問題を標榜する世界において、また、部落研究・部落問題研究・部落史研究を標榜する世界において、この「近親憎悪」という「モンスター」は、過去において猛威をふるってきたし、現在においてもふるっています。そして、未来の世界においても、ふるい続けることになるでしょう。

「近親憎悪」は、安芸の農民が、権力によって、農民運動がどのように潰されてきたのか、自戒のことばとして語った「きりうなぎ・ざるどじょう・たるへび」ということわざの「たるへび」の状況に酷似しています。

部落解放運動は、権力によって押し込められた「賤民史観」という、差別的思想の枠組みである「たる」の中で、「近親憎悪」という「モンスター」に身をゆだね、お互いを暗くて深い、絶望の淵へ引きずり込んでいるのです。

イタリアの社会学者・アルベローニは、「そういう人物を見破るため」の方法を記しています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の中には、正規の武士階級の「与力」もいれば、正規の武士階級ではない準武士階級の「同心」もいます。また、警察・検察・司法の本体として組み込まれていた「穢多・非人」もいます。また、百姓身分の中には「庄屋・名主」という村方役人もいます。

部落差別問題・人権問題を標榜する世界において、また、部落研究・部落問題研究・部落史研究を標榜する世界において、旧「穢多・非人」の立場に身を置く現代の学者・研究者・教育者の多くは、旧「庄屋」の立場から「非常」を論じる人々に対して、「近親憎悪」的批判を展開してきました。

旧「庄屋」の末裔である讃岐の宮武外骨、長州の上山満之進、信州の島崎当村、群馬の田中正造、奈良の阪本清一郎・・・、彼らは、一度たりとも正統な評価を受けたことはないのではないでしょうか・・・。奈良の阪本清一郎の名前をあげることを不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、旧「庄屋」の末裔である讃岐の宮武外骨、長州の上山満之進、信州の島崎当村、群馬の田中正造・・・の正統な評価なくして、「旧庄屋の家の息子」(宮崎学著『近代の奈落』)である、「柏原三青年」のひとり、奈良の阪本清一郎・・・をすら正当な評価をすることはできないのではないでしょうか・・・。

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2006.10.15

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
【第5項】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

『部落学序説』の第4章の執筆に多くの時間をかけてしまいました。

『部落学序説』の第4章に入って、いわゆる明治4年の「解放令」批判をはじめたころから、『部落学序説』の筆者のところに、いろいろなかたちで批判が舞い込むようになりました。

明治4年の「解放令」に対して批判をすることは許さない・・・、という雰囲気を感じてきましたが、明治4年の「解放令」の歴史的意味を誤解・曲解すると、その後の「部落解放史」は、大きく歴史の真実からそれていくことになります。そして、唯物史観・皇国史観の共通属性であると見えるような「賤民史観」に彩られて歴史を描くようになります。

「賤民史観」を、日本の歴史学に内在する差別思想として排除することを求める『部落学序説』の筆者としては、明治4年の「解放令」を、歴史学だけでなく、その他の学問の成果を総動員して、その歴史的な意味を再検証することは避けて通ることができないいとなみです。

部落史研究の大御所である上杉聡の明治4年の太政官布告を「賤民廃止令」とみなす、今日、多くの部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって支持されている説を根底から否定しようというのですから、『部落学序説』は、学者・研究者・教育者だけでなく、部落解放同盟やその活動家に対して、その一般説・通説に反論を提示するという無謀なこころみでもあります。

部落差別の地名・人名の実名記載・・・、という基本的な差別表記・差別発言・差別行為で批判され、糾弾されても面白くないので、用意周到な執筆計画を立てて、この『部落学序説』を執筆しています。

それでも、『部落学序説』を執筆しはじめてからというもの、多方面から、批判・攻撃にさらされるようになりました。その結果、第4章は、執筆途上で、度々、中断に追いやられたし、読者の方々の不安と疑問を解消するために、少々執筆計画を変更して、執筆する予定のなかった主題について言及してきました。

【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

この節の執筆を再開しようとして、この節のすべての文章に目を通したのですが、読者の方々の不安と疑問を解消しようとして、今から考えますと、不用な説明や釈明を至るところに散りばめ過ぎました。そのうえ、「部落解放運動」に対して過剰な批判のことばまで付加するようになりました。

その結果、どうなったのかといいますと、『部落学序説』の読者の方々が、『部落学序説』を読むことをやめられたり、筆者から離れていったり・・・、ということになりました。

ココログのアクセス解析のログをみれば一目瞭然に分かります。

それでも、『部落学序説』の訪問者数・累計アクセス数をみれば、増加傾向にあります。それは、従来の読者層が減少する一方、新たな読者層が増加して、増減を差し引きすると、増加傾向にあるということを意味します。『部落学序説』は、あらたな季節に入っているのでしょう。芽生えの「春」の季節から、「夏」に向かっているのか、「秋」にむかっているのか、それとも「冬」に向かっていっているのか・・・、定かではありません。

筆者が牧師をしている教会の庭は、この前の台風13号による風害・塩害で、庭木や草花に大きな被害がでました。風があたった部分は、すっかり枯れてしまっていますが、風害・塩害を免れた部分は、いま、再生して、きれいな花を咲かせています。『部落学序説』の筆者に対する批判・攻撃で疲れ、傷ついたこころもやがて回復して、もういちど、『部落学序説』の執筆をはじめたころの、部落差別完全解消の夢を追いかけることができるでしょう。

そのためにも、この節をきちんと押さえておく必要があります。

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤・・・、として、とりあげるのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた「名主」(西日本では庄屋という)である田中正造のことです。その村方役人である「名主」としての「役務」に主体的にかかわっていった田中正造は、「常民」と「非常民」の両方に身を置いて、希有な経験をしてきたひとです。

『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、田中正造にとって、谷中村に入ることと谷中村の人民になることとは異なることであったといいます。「正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかったのである。」というのです。

林は、田中正造は、「自分の中に、まさしく「人類以外に立って、人のためになにかをしようとしている」愚人を認めざるをえなかった」と断定します。「愚民論」に立って、谷中の百姓のために何事かをなしとげようとする自分の中に、田中正造は「愚人」の姿を見たのです。田中正造は、「愚民論」を払拭し、「愚人」であることをやめるために、人生64歳にして「回心」、生きかたを変えて、73歳にいたるまで、谷中村人民として、「百姓」・「常民」としての生きざまをまっとうするのです。

田中正造の晩年の生涯は、「非常民」意識を棄てて、「常民」としての生きかたを、谷中村のひとびとと共有する旅であったのです。田中正造は、「非常民」意識を棄てるとともに、「政治の力を借りて谷中村問題を解決する意志」を棄てるのです。「田中正造は、憲法や人道に訴える、手慣れた政治的な戦いを捨て、より根本的に、いまだどこでもたたかわれたことのない新しい戦い・・・砕けたる天地を回復する、砕けたる天地における戦いを組織するという困難極まる課題を自己に課する」のです。国家の事業や援助は、人民のためにならず、人民を腐敗させるのみである・・・、それを拒否し、「百姓」(常民)の公道に生きようとする谷中村人民に、田中正造は、自らの「非常民」性を捨てて自己変革しつつ共死共生の道をたどるのです。

人生70までは自力で戦うことができる、あとは野垂れ死に・・・、と覚悟した田中正造の生涯は、林竹二は一つの言葉で言い表せるといいます。「それは、田中正造が、ことばの真の意味でラジカルな思想家であったということである。ラジカルとはつねに、その都度、何度でも、根底に帰って出直すことができるという意味である」。

林竹二は、田中正造のその生きかたを「生ける一貫性」といいます。「自己の全存在と行動とで、その思想に責任をもつ」ことであるといいます。

筆者の『部落学序説』も、田中正造の「その都度、何度でも、根底に帰って出直すことができる」ラジカルさを身に呈するものでありたいと思います。

『部落学序説』の新しい季節には、それにふさわしい新しい論文を書き続けたいと思います。

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2006.10.16

続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

《読書案内》《総目次》
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【第4章】太政官布告批判
【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

【第5項】 続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造研究の金字塔です。

なぜ、林竹二著『田中正造の生涯』について、そのような評価を下すことができるのかといいますと、著者の林竹二は、田中正造の生涯に渡る精神史を解明しているからです。

『部落学序説』の筆者は当然、「田中正造穢多を愛す」の著者・田中正造について言及するときにも、「常民・非常民」論という解釈原理に依拠せざるを得ないのですが、『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、「常民」・「非常民」ということばを一度も使用することなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた名主・田中正造の、名主(非常民)であるがゆえの自負と責任感に満ちた精神的葛藤と、やがて、「非常民」であることを捨てて、谷中の元百姓と、「常民」として、共に生きる道を闘い取っていったその精神的過程を、克明に描ききっています。

林竹二の田中正造研究と、その他の学者・研究者・教育者による田中正造研究の違いを大きく隔てているものが、この1点にあるのではないかと思います。

林は、「田中正造は安政4(1857)年17歳で、父の割元昇任のあとをうけて小中村の名主となった・・・。」といいます。「身分の意識はうすかった・・・」けれども、「12年の間、小中村の「政治」に対して責任を負って生きていた・・・」といいます。

近世幕藩体制下の武士階級にありがちな、その身分を誇るような側面は、田中正造に見出すことはできないけれども、「村内百姓の公選」によって、「名主」としての「非常の権力」を授けられて、村方役人としての職務をまっとうしようとした田中正造の生きかたの中には、「非常民」としての鮮烈な意識と自覚があったのではないかと思います。

田中正造の「非常民」としての意識は、同じ「非常民」であるといっても、武士支配の末端の「非常民」である「穢多・非人」と違って、百姓支配の先端の「非常民」として、「百姓」に対して、「非常」時だけでなく、「常・非常」時を問わずかかわり続け、「村と人民の生活を守る」ために「権力の恣意と戦う意志を捨てなかった・・・」といわれます。

田中正造の生涯に幾多の試練と苦難をもたらしたものは、田中正造の「非常民」(庄屋・名主・村方役人)であることの自覚と責任感であったのではないかと思われます。

その「非常民」意識は、明治維新以降、ますます、田中正造の精神世界にあって増幅され、明治11年、田中正造は、「権力の恣意から人民の生活を守る制度的・法的な保障を確保するための戦いに・・・残る35年の生涯を賭けようと身構えた」といいます。この、林のことばは、田中正造が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、庄屋・名主・村方役人としての経験で培った政治感覚を、近代中央集権国家の政治の世界に持ち込み、それを貫徹しようとした・・・、と受け止めることができます。

田中正造は、明治23年第1回総選挙によって、衆議院議員に当選します。

林は、「数多くの・・・政治家中、田中正造だけが、人民を裏切らなかった」といいます。「その秘密の一つは、彼が政権への傾斜からまったく自由であった・・・事実のうちに求めることができる」といいます。「政権を握らないかぎり、何もできないという政治家」と違って、田中正造は、逆に、「政権」そのものから自由になって、政権に組み込まれずとも、その政治理念をまっとうしようとした希有な政治家であったと思われます。

足尾鉱山鉱毒問題と、渡良瀬川周辺で生活する人民(百姓・平民・常民)の被った公害とその被害の悲惨さを知った田中正造は、国会議員を辞職し、谷中村に入り、そこで戦う「共同体」(林のことば)に身を置くようになるのです。

林は、「人民を代表して議会で戦って、人民を守ることのできなかった田中正造は、直接人民の中に入って、人民と共に戦おうとしたのである。だが谷中に入ることと、谷中の人民の中に入る・・・、その一人となるということとは全く別のことであった。」といいます。

田中正造は、谷中村に入っても、谷中村の人民(百姓・平民・常民)と共に戦うことができませんでした。共に戦うためには、田中正造は、それまでの「非常民」としての、名主・国会議員としての意識を捨てて、谷中村の「常民」としての、人民(百姓)になりきらなければならなかったのです。

林は、「田中正造は、9年にわたる谷中の苦学に堪えて、谷中人民の一人になった。」といいます。

林のことばは、田中正造が、その死をもって、やっと、「谷中人民の一人になった。」ことを意味します。「非常民」から「常民」へ、その生きざまの転換は、想像を絶する精神的葛藤を田中正造にもたらしたのでしょう。田中正造は、自らの生きざまを「天国にゆく道ぶしん」といいます。

『部落学序説』の筆者である私は、「非常民」としての田中正造が、「常民」として、谷中村の「百姓」と同じ地平線・水平線に立って生きるためにたどった精神的葛藤と苦闘を、林竹二著『田中正造の生涯』は、充分に描ききっていると思うのです。林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造の真正な精神史・思想史であると思うのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、武士支配の「奉行・与力・同心・目明・穢多・非人」は、どのようにして、その「非常民」(司法・警察に携わることへの特権意識・選民意識)を払拭して、「常民」になることができたのでしょうか・・・。そのための精神的葛藤と苦闘はどのようなものだったのでしょうか・・・。

明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の本体であった「穢多・非人」は、どのようにして、「非常民」意識(特権意識・選民意識)を捨てて、「常民」意識を獲得していったのでしょうか・・・。すくなくとも、筆者の手元にある資料の中には、田中正造と同じ精神的葛藤と苦闘を経験したことを記録に残した「旧穢多」の存在を確認することはできないのです。「旧穢多」の多くは、「旧百姓」の精神を共有することなく、今日にいたっているのではないか・・・。ときどき、そのように推測せざるを得なくなります。

「旧穢多」の「非常民」意識は、明治4年の太政官布告以降、どのような意識へと変節していったのでしょうか・・・。次回、節をあらため論じてみたいと思います。

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