2006.05.02

「部落民とは誰か」-「穢多」を尋ねて長州藩一人旅-

【部落学序説付論】連休のコーヒータイム


「部落民とは誰か」-「穢多」を尋ねて長州藩一人旅-(吉田 向学)

『人権・反差別・共生 アファーマティブやまぐち21』(1997/第3号)掲載

     1

私と部落差別との出会いというのは、1988年8月16日の朝日新聞の記事に始まる。その内容を簡単に紹介すると、その年、山口県教委が主催したある集会で、講師の同和教育課指導主事が、小学校教師をしていた当時、社会科の授業で、受持ちの6年生に作成させた『士農工商から四民平等へ』という紙芝居を紹介したそうであるが、その時、紙芝居の一枚に、江戸時代の被差別民を辱めるような表現の絵があったということで運動団体から、部落「差別を助長」すると指摘されたというのである。

問題になった絵は、「士農工商」という江戸時代の基本的な身分制度の枠外に置かれたと言われる「その他」の人々が、「頭の真ん中をそり上げてまげも結わず、全身裸にはだしで腰みのだけをつけ、手には棒という異様な姿」で描かれていたというのである。(次頁の写真)

「昔は裸に腰みの階層も」という、誇張された新聞の見出しも手伝ってか、その記事は私の関心を誘った。「江戸時代の被差別民衆って、誰なのか。どのような生活をしていたのか…」。時々、図書館に行っては、江戸時代の被差別民衆の姿を記した史料を漁り、江戸時代、全国的には「穢多・非人」と言われた人達、長州藩においては「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達の姿を追い求めるようになったが、「裸に腰みの」姿の彼らの姿を見つけることはできなかった。

史料の中に、「裸に腰みの」姿の絵がなかったわけではないが、それは、「穢多・非人」と言われた人達のそれではなく、身を持ち崩し、農を捨てた農民達の姿でしかなかった。

「穢多」と言われた人達は、「いったい誰だったのか…」、何か大きな謎にぶつかったような感じがした。その謎を謎のままにとどめておくことができず、なんとか解き明かすことができないかと、私なりに調べるようになった。

自分の頭の中で、「穢多」と言われた人達の姿を想像してみるのだが、ついぞ具体的な像を思い浮かべることはできなかった。そのうち、あの差別を助長すると指摘された紙芝居の「その他」の人の姿、「裸に腰みの」姿が私の脳裏に浮かんでくるようになった。「このままではいけない…」、そういう思いが、「江戸時代の被差別民は誰だったかのか」という関心に拍車をかけることになった。

     2

私は、日本基督教団の牧師をしている。牧師になる前、「神学校」(学歴とは関係がない)に行ったが、まったくの無名の学校である。教団の中でも、影がうすい存在であるから、読者でこの学校の名前を知っておられる方は皆無であろう。四年制で、最終学年の時は、実践神学特講なるものがある。今日の社会に存在する様々な問題を取り上げて見識を深めるための授業であるが、そのひとつに部落差別問題があった。

講師は、今は亡き、明治学院大学の工藤英一教授である。今日に至るまで、部落差別問題について、彼に勝る「師」は現れていないから、神学校在学中に、部落差別問題について、彼から受けた影響はかなり大きなものがあったと言える。その講義中に読んだ書物に、"The Invisible Visible Minority・・・Jpana's Burakumin" というのがある。

その著書は、米国の学者であるが、日本の「部落民」を学術調査した人であるが、彼は、東京で、商店や食堂、書店や教会、駅やバス停でいろいろな人に尋ねるのである。「あなたは、部落民が誰か、知っていますか。」「部落の場所を知っていますか」。彼が驚いたのは、世界都市・東京に住んでいるほとんどの人は、東京から遠く離れたアメリカで差別されている黒人についてはよく知っているものの、日本の部落民についてはほとんど知らないという事実であった。

不思議に思った彼は、日本全国、部落と部落民を尋ねて歩くことになるのであるが、私も彼にならって、日本人のほとんどが意識の外に追いやって忘れてしまおうとしている江戸時代の被差別民衆、そしてその末裔としての現代の「部落民」がいったい誰なのか…、自分なりに調べてみようと思いたった。

「裸に腰みの」が差別的であるというなら、被差別部落の側は、代わりにどのような「像」を、歴史の実像として提示しようとしているのか。山口県教委は、運動団体から指摘を受けて、江戸時代の被差別民衆の真の姿をどのように捉らえ直すのか、大いに興味のあることであったが、その「差別事件」、それ以後、新聞の紙面上で報道されることはなかった。問題は解決されたのか、されなかったのか。解決されたとしたら、どのように解決されたのか。知りたいと思って図書館で何度となく新聞をめくつたのであるが、「差別事件」の解決の行方については何の報道もなされていなかった。

朝日新聞に限らず、各新聞は、部落差別について、差別事件や差別発言発生の報道はするが、その解決と経緯については、ほとんど取り上げることはない。一般の読者がこの種の事件を追跡することはほとんど不可能に近いのである。やはり、新聞各紙は、差別事件の発生だけでなく、解決とその経緯についてもきちんと報道すべきではないかと思う。差別事件が報道される都度、いつも思うことだが、部落差別事件のほとんどが、「闇から闇に」葬り去られていくようで、何となく後味が悪い。

     3

それからしばらくして、その紙芝居をめぐる差別事件は、NHKの番組で紹介された。また、1989年1月19日に「第4回山口県同和教育研究集会」が開催され、講師の大阪市教育セミナー教育研究室の稲垣有一さんの「部落問題学習をどうすすめていくか」という講演を聞く機会があった。

その中で、稲垣さんは、それまで学校同和教育の中で教えられてきた「士農工商・その他」という図式は、間違いであると指摘された。小学校や中学校で同和教育を担当している教師の方に、「士農工商・税多非人」という表現が、江戸時代のどの史料に出てくるのか、度々尋ねたことがあるが、ほとんどの人は、「たくさん史料を持っているから、調べてあげましょう…」と快く御返事下さるのではあるが、誰一人、その出典を明らかにして下さる方はいなかった。「あるはずなのに、見つけることができない…」と、意外な結論に驚く教師の方も何人かいた。

そもそも、「士」の下に「農」が、「農」の下に「工・商」が、そして、江戸時代の身分制度の最下層に「穢多・非人」がいたという図式は、江戸時代の身分制度の事実を伝えているものかどうか、疑問に思い始めていた時だけに、「士農工商・横多非人」という図式にかえて、稲垣さんが提示した(部落民裏貼説)には注目を引くものがあった。

「部落民裏貼説」(部落解放同盟新南陽支部福岡秀章氏の命名)というのは、「穢多・非人」と言われた人々は、「士農工商」よりもさらに一役「下」の最下層に置かれていたというのではなく、「士・農工商」のそれぞれの階層の「中」に位置づけられていたというのである。言葉をかえれば、「士」に属する「穢多・非人」もいれば、「農」や「工・商」に属する「穢多・非人」もいるという説である。江戸時代の被差別民衆の中にも、「士農工商」という身分制度が厳然と生きづいていた可能性があるということになる。

歴史学会の中では、まだ認められていない作業仮設として紹介された図式であるが、私は、この図式は非常におもしろいと思った。江戸時代や明治初期の部落差別に関する文献を読んでいて、「謎」 にぶつかるとき、「士農工商・稼多非人」という図式で理解するより、(部落民裏貼説)という図式を援用した方がよりよく理解できるからである。

私は、(部落民裏貼説)のとりこになり、ことあるごとに、この説を言い広めることになった。日本基督教団や各教区の、部落差別問題に関する研修会に参加する時は、決まって、この作業仮設が、被差別部落の歴史を読み解く際に有効であることを伝えた。しかし、少しく部落史を知っている人にとっては、江戸時代の被差別民衆は、やはり、「士農工商」より下の最下層の身分以外の何者でもなかった。「部落民裏貼説」が当てはまるのは、長州藩だけではないのか…。仮に、「部落民裏貼説」の正しさを認めるとしても、それは、江戸時代の諸藩に共通して適用できるものではなく、長州藩という限定された地域でのみあてはまるものでしかないのではないか、それが大多数の人の反応であった。私は、つい一~二年前まで、この(部落民裏貼説)がより史実に近いとの確信を持っていた。

    4

しかし、一枚の地図が、[士農工商・穢多非人」という図式でも、(部落民裏貼説)の図式でもない、別な図式の存在の可能性を教えてくれた。

その地図というのは、国立国会図書館に所蔵されている『長門国図』・『周防国図』であるが、今は復刻されて、少し大きな図書館に行くと誰でも閲覧できる。私は、この二つの地図を、コピー機で修正しながら、一つの地図に貼りあわせた。三尺六尺、畳一枚分の大きさの地図である。

この地図は、江戸時代の地図の上に、明治初期の行政区画を書き込んだものである。つまり、一枚の地図に、江戸と明治という両方の時代が共存しているのである。この地図をじっとみつめていると、江戸時代から明治時代への移行が、明治維新と共に突然と瞬時に行われたのではなく、二十数年の歳月をかけて徐々に行われたものであることが見えてくる。

私は、この地図を片手に、江戸から明治へ移行していく過程の長州藩を一人で旅をしてみることにした。SF(科学推理小説)に出てくるタイムスリップである。地図に記された街道を自分の頭の中で歩きながら、「被差別部落はどこにあるのか。被差別部落民は誰であるのか」、旅をしながら自分の目で確認することにした。

もちろん、長州藩に、『地下上申図絵』と言われるものが存在しているということを知らないわけではない。当時の地図である、『地下上申図絵』には、各村にある「穢多」と言われた人々の住んでいた場所がはっきりと明記されている。戸数が分かる場合も多い。一部は、部落史研究の論文や市町村史の近代の部分に紹介されているが、長州藩全体の「穢多」と言われた人々の所在を一望することは部落史の専門家でないとできない。しかし、『長門国図』・『周防国図』と「防長風土注進案』を照らし合わせながら、調べを進めると、江戸時代の「被差別部落」・「被差別民衆」の姿がなんとなく見えてくる。その結果、江戸時代の「被差別民衆」を表現するに際して、現代一般化された用語をアナクロニズム的に過去に投影させてはならないということが分かってきた。

たとえば、1871年(明治4年)8月28日に公布された「稼多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」と布達された太政官布告は、一般的には、「身分解放令」と言われているが、太政官布告を「身分解放令」とするのは、ひとつの歴史解釈に過ぎない。江戸時代から新しい時代への移行期の中で、その当時の人々が、今日で言われるところの「身分解放令」と称えていたかどうかは分からない。「身分解放令」は、大正時代の水平社運動前夜から使用された言葉で、その時代の部落解放運動の要請から使用された言葉で、太政官布告が出された時代の状況を反映しているものではない。

江戸時代、「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達は、太政官布告が出されたとき、「士農工商」という身分制度の枠外の位置から、明治・近代身分制度の中の「皇族・華族・士族・平民」の枠内の最下層の「平民」身分に格上げされたという説は、「士農工商・その他」という図式が成り立たなくなることで、危うくなる。格上げでなく格下げでなかったのではないか…。江戸時代の「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達は、江戸時代よりもかえって明治の太政官布告以降において、より苛酷な被差別の状況に追いやられたのではないか、そのような気がする。

地図上の街道を旅しながら、街道沿いの村々の「穢多・茶筅・宮番・道の者」を尋ね歩いているうち、彼らが誰であるのか、ぐらついてくる。武士階級は、農民から年貢を搾取するために、農民よりもより低い身分のものをおいて、農民の武士に対する批判を和らげようとしたという説は、学校教育の現場で何度か耳にしてきたが、彼らは、本当にそのような機能を担っていたのだろうか。

民衆支配の方法として彼らに対する差別政策が展開されたというなら、長州藩五百を越える村々のすべてに「被差別身分」が設置されてもよさそうであるが、長州藩五百の村々のうち数十パーセントにのぼる村々には、「被差別身分」は設置されていないのである。その村の住民は、苛酷な年貢取り立ての時に、「より下を見て」自らをなぐさめる手段を持たない…ということを意味している。

否、むしろ、江戸時代の「穢多・茶集・宮番・道の者」は、そのような機能を持たされたことは決してない、というのが史実に近いようだ。

武士は、民衆支配の貫徹のために、彼らを、「農工商」の下に置いたのではなく、むしろ、「農工商」の枠の外、「士」の枠の中に彼らを位置付けたと言えよう。

山口県のある行政が主催した同和教育の場で、その地区の被差別部落の人がこのような発題をしていた。

「数年前、立派な○○市史が発行されました。でもその○○市史について思うのです。私が生まれ育ってきた場所は、私の親もまたその親も生活してきた歴史があります。にもかかわらず、あの分厚い市史の中には、ほんの限られたページにしかでてきません。それも22年前の同和対策の記述以外は、江戸時代の「地下上申」の資料に、町場の牛やうまの数のあとに、「穢多の家六戸…」とあるんです。町の男何人、女何人、馬何頭、牛何頭、その後に、穢多の男何人、穢多の女何人、穢多が持っている牛が何頭、馬が何頭と書かれているのです。それを見ただけでも、江戸時代、部落の人間が牛や馬よりもそれよりももっと以下に見られていたということを表していると思います」。

最初、この言葉を耳にしたとき、被差別に置かれた人々の言いようのない悲しみや心の痛みが伝わってくるような思いをした。

そうであるなら、古地図を片手に、江戸時代にタイムスリップして 「穢多」といわれた人々を尋ね歩く私の目の前に、そのような人々の存在が、否定すべくもなくはっきりと姿を現わすはずであった。しかし、江戸時代、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々が、牛馬以下におとしめられていたという記録や資料に遭遇する可能性はほとんどないということが分かった。『地下上申』の記述からそのような被差別の側からの自己理解がなされるなら、もうひとつの重要な文献である『防長風土注進案』の記述から、次の様な推測もなされていいはずである。

『防長風土注進案』にも、同様の調査記録が掲載されているが、「穢多・茶筅・宮番・道の者」と言われた人々の位置づけはそれほど単純ではない。彼らは、確かに百姓(農工商その他…この場合(その他)は、僧侶・神主・座頭等を指す)や所有される牛馬の後に登場してくるが、ある場合には、両者の間に、もう一つの別な存在が入ってくる事例が多く見られる。それは、在郷諸士である。本藩の職務を解かれて、自分の領地で生活している武士階級である。彼らは、「農」によって生活している。先の被差別部落の人の話の文脈では、この在郷諸士も、「農工商」の一段下の身分に置かれていたことになる。どんなに想像を達しくしてもそのようなことがあるはずはない。

となると、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々の位置付けを考え直す必要がある。彼らは、「農工商」の下にではなく、武士階級の下に位置付けられていたのではないか。「防長風土注進案」を読み進めていくに従って、「士農工商・その他」という図式も、「部落民裏貼説」も音をたてて崩れていくような気がした。

『防長風土注進案』の資料から、江戸時代の支配体制の二重構造が明らかになってきた。「武士支配」と 「百姓支配」、この二重支配の中で、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々は、武士支配の中に組込まれ、長州藩の様々な職務(警察・刑吏・看守・道路保守・皮革産業・軍需産業等)を担っていったと思われる。

庄屋をトップとする百姓支配の最下層に位置付けられた人々は、名子や走り百姓・潰れ百姓といわれた人々で、決して、「穢多・茶筅・宮番・道の者」でなない。幕末から明治初年代の身分制度がぐらついていた時代に、最も惨めで悲惨な最下層から身を起こし、近代天皇制国家の重鎮にまで上り詰めた人・伊藤博文は、武士支配の最下層に身を置いていた人ではなく、百姓支配の最下層を生きた人物であった。

百姓支配の身分階層はたかだか十数しかないのに比べて、長州藩の武士階級は、六十階級の多さにのぼっていたという。身分差別という観点では、百姓支配の下積みで喘ぐ人よりも、武士支配の末端で苦しむ人々の方が、より強く封建的身分差別の重圧に苦しんだのではなかろうか。本来の武士階級と準武士階級(士雇)、そしてそこにすら入らない中間・足軽層。所属する身分に拘束され、自由を疎外されていた人々は、百姓よりもむしろ武士の方に多かった。所属する身分階層が異なると婚姻が極度に制限された。

「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々は、同一存在ではなく、それぞれ固有の役職を持ったものとして長州藩の「官僚機構」に組み込まれた存在であった。彼らは、百姓の下に置かれた、哀れむべき悲惨な民ではなく、百姓支配の外にあって、百姓を支配する側の官僚機構の一部でしかなかったのではなかろうか。

記録によると、飢饉の時、餓死者が出る状況の中でも彼らは飢え死にすることはなかった。官費が支給されたからである。

長州藩の古地図を片手に旅をして、そこで出会う彼らの姿は、そのようなものであった。身分階層の中で、着る服装さえ厳しく制限された社会の中で、「穢多」と言われた人々が、武士の装いで職務を担っていたことを示す史料は少なくない。

     5

今、部落史と取り組む時の作業仮設として「士農工商・その他」という図式でも、(部落民裏貼説)でもなく、第三の図式が手元にある。古地図と『防長風土注進案』と関連史料を片手に、今後も「穢多」を尋ねての長州藩一人旅を続けることになるが、この取り組みはあまり他の人に理解されない。「部落を尋ねて、調べて、その結果、みじめな歴史しかでてこなかったらどうするのか」とすごまれたこともある。「部落の秘部を暴くことになるのではないか」と忠告して下さる方もいる。歴史学の常識を否定しない方がいいのではないか…と助言して下さる方もいる。「あなたの取り組みは、研究というよりは個人的趣味でしかない」。「有名な歴史学者の傍証がない限り、認めることはできない」。そのような批判や助言はありがたく受け取るとして、それでも私は、一枚の古地図に記された江戸時代と明治時代の二重写しの世界につい引き摺り込まれてしまう。そのような江戸時代の「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々が、いつ、どのようにして、水平社宣言の時代の悲惨でみじめな「部落民」におとしめられていったのか。現代部落差別の本当の起源の謎について、なんらかの答が目の前をちらつき始めて
いる。

心の中で、この旅を続けていく中で、確実に変わったものが一つある。

それは、私の中の被差別部落の人々に対する「差別意識」である。「差別意識」がどこかで崩れ始めている。そして、「部落民とは誰か」という問を前にして、私が自分の頭の中に想像することができる「穢多・茶筅・宮番・道の者」の姿が、次第にはっきりと像を結びつつある。「差別紙芝居」の「像」は消えうせ、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人達の真実な歴史の実像が見え始めている。

多くの人がいうように、被差別部落の歴史は否定され忘却されるべき歴史ではないと思う。被差別部落の解放は、歴史を捨てることによってではなく、歴史を見直すことによってしか達成することはできないのではないかと思う。「水平社宣言」にこのような言葉がある。「我々は、かならず卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、阻先を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」。

被差別部落の人々が、先祖の歴史をみじめで悲惨な歴史ととらえ、ただそこから、言葉と行為を持って逃亡するいとなみは、『水平社宣言」がいう、「卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、祖先を辱かしめる」ことにつながることになりはしないだろうか。被差別の歴史は、部落差別だけでなく、アイヌ差別、沖純差別、民族差別等々も、被差別者自身の手によってその歴史が解き明かされなければ解決することはできないと思う。

私は、いつか、歴史学者の手によって書かれた被差別の歴史ではなく、第三者や傍観者の立場で書かれた歴史ではなく、被差別の側から被差別の手によって書かれた歴史を読みたいと思う。「穢多」を尋ねて長州藩一人旅・・・、この旅はやがて、現在の、誇りある部落の歴史を担い、生き抜いている今日の被差別部落の人にたどりつくことができるのだろうか・・・。こころの旅は続く・・・。(注 穢多・茶筅・宮番・道の者等という表現は歴史用語として使用しました。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

21世紀の部落民像を求めて

【部落学序説付論】連休のコーヒータイム


21世紀の部落民像を求めて(福岡秀章)
解放新聞新南陽支部版(1997年11月3日)

多くの愛読者の期待を裏切り続けてきた新南陽版ですが、21世紀が後3年強に迫ったこの時期につき1回の発行を最低のノルマとして自らに課しここに再開いたします。

部落民を取り巻く現状は多岐に渡り、小数支部、その運動的基盤の弱さを言い訳にしばらく休眠していた私たちの支部ですが、しかし、昨今の状況は、どこまでも自らの部落民性にこだわり続けてきた私たちにとっては、ますます生きにくいものとなってきました。

それでも、このまま消えて無くなってしまいたくはない。そんな気持ちだけは日々強くなってきました。部落差別に対する反対の意思は同じでも、21世紀に部落差別を持ち込まないというコピーには若干の違和感を持ってきました。つまり、部落差別をなくしていくには、部落民であるというこだわりを捨てることが大事という国民融合論では、私たちの様な、自分たちは部落民であると主張していくことがいけないのだということになります。

それでなくても、気の弱い私たちにとっては厳しい状況の中ますます孤立させられていってしまうような感さえします。

最近、私たちの数少ない仲間である下松愛隣教会の吉田さんが、山口県の部落人の歴史についての膨大な歴史資料の再検討をはじめられました。

川崎に関する数少ない資料など、前々から感じてはいたことだったのですが、吉田さんの研究によって、いよいよ江戸時代の私たちの先祖たちの実像がはっきりしてくると、今まで半ば常識化されてきていた「江戸時代の部落民は悲惨は姿」はますます怪しくなってきました。

全国的にも最近盛んに「部落史の見直し」と銘打っていろいろな研究が発表されています。ここにも江戸時代の部落民は決して悲惨な生活をしていたわけではないということが実証とともに出ているのです。

しかし、吉田さんの仮説は、更に一歩踏み込んで「江戸時代の部落民は悲惨な生活どころか、差別さえされていなかった」というものなのです。確かに農民たちとの確執は機能していたのです。

吉田さんによると、これらのことは、その気で調べれば特別な文献に寄らなくても、どこにでもある公立の図書館にある資料だけで十分にわかることなのだそうです。そんなことが何故今まで多くの著名な部落史に研究者たちには見えなかったのでしょうか。

ここに生じる疑念は、結局その時々の運動体の都合ではなかったのではないでしょうか。

江戸時代の部落民像は、ある意味では警察権力であり、軍事的なマニュファクチャ集団だったのです。つまり、多くの民衆を結果的にとは言え、抑圧する側の権力の手先だったのです。

このことをすんなりと納得することは私たち部落民のアイデンティティに関わる重大事です。どんなに差別され続けても、私たちの子孫はその中で生活し私たちにつながってきたのだ、やられ続けてきてもなお誇り高き人間の血は枯れずにあったのだ。そう思うことでしっかり自分たちを維持してきた面も確かにあったのです。そこの部分が揺れているのです。確実に私たちのアイデンティティが揺らいでいるのです。

しかし、こんな時期だからこそ、どんな歴史的事実が出てこようとも、それを正面から受け止められるだけの私たちの主体を鍛える(まったく不得手な分野ではあるのですが)必要を感じています。

まず、手始めに、「今を生きる山口県内の部落民の実像」を当事者の側から当事者の言葉で発信することを大切にしていこうと決意したのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

部落民の苦悩

【部落学序説付論】連休のコーヒータイム

部落民の苦悩(青木広)
解放新聞新南陽支部版(1997年11月3日)

私が、最初に公の場で部落民であることを話してから、既に10年近くが過ぎようとしています。

その間、ぼんやりとではあるのですが、私自身の部落民であることへのこだわりが、今の社会の中でどんな意味を持つのか持たないのか、考えてきました。

この春、運動体中央も昨今の中央政界の動向に連動するかのように、綱領改正で「部落民」という言葉を「部落住民」に替えてしまいました。これは部落民というありもしない幻想に惑わされてはいけないという日本共産党の「国民融合論」にも通じています。つまり、部落民性への「こだわり」を捨てていく方が多くの日本国民に受け入れられやすいということなのです。

私のまわりには部落民がたくさん存在しています。

もちろん親戚関係がありますから当然のことなのですが、いろいろ考え込んでしまうのです。正確には、その人が部落民であることを私が知っていることが多いだけなのですが、本人は、知っているのかどうなのか、はっきりしない場合も多いのです。

少なくとも、子どもたちにそれを主体的に伝えている部落の親たちは皆無に近いのが実情です。それがいいのか悪いのか、置いておくにしても、部落出身者であることをまったく意識しないでも成長していける層は部落内でさえも少なくないのです。

偏見を打ち壊すためにとは言え、絶対的多数である一般市民との確執の中でそぎ落とされてけた部落民性・・・

「同じ人間じゃないか」(それは、その通りなのだけれど・・・)
「どこが違うのか!同じ血が流れているんだ」(もちろん、そななのだけれど・・・)

かって、水平社の創設期に運動の側から「部落民異民族論」を強く主張していた人々がいました。この「大和民族ではないんだ!」という主張は今では荒唐無稽なのですが、当時の、差別され続けていた人々が主体性を覚醒するのには必然だったのかもしれません。結局、水平社主流はこの異説を葬ってしまいました。

これ以降、戦時体制下水平社も結果的には天皇制にひれ伏してしまうのですが、そこには、やはり「同じ大和民族ではないか」という主張が見え隠れしていたのではないでしょうか。

実は、70年以上が過ぎた今の部落民にも同じ課題が内包しているようにも思えるのです。

最近「部落史の見直し」が盛んにいわれるようになりました。かっての政治起源説だけでは語れない事実がたくさん出てきているのです。江戸時代の部落民の実像は、決して差別されてばかりではなく、経済的にもかなり恵まれていた部落は多く、確かに農民達とは引き裂かれていた面もありましたが、基本的には権力側の末端とは言え封建社会の一翼を担っていたのです。(警察権力の末端であり、軍事的マニュファクチャ集団としての姿は確実にあったのです。) 

それが、明治維新以降崩され、近代天皇制国家が強引に作られていく過程で、過去に引き離されていた一般農民から強烈に差別されるようになっていったと言うのが、どうやらその概略のようです。

私たち部落民は、この歴史的事実にも向き合わなければならないのです。

結構きついなあと正直感じます。

それは、「不合理な差別」などという形で、どこか多数の側の論理に依拠していた今までの私たちの生き方を問い返すものでもあります。誤解を恐れずに言えば、「差別されるには差別されるだけの根拠はあったのです」。しかし、もちろん、これは差別する側の論理に過ぎません。

それでも、どこかでそこにすり寄ってきていた私たちの姿もあったのです。そんな部落民の姿に誇りなど持てるのでしょうか。精神的には、差別され続けてはいたけれど、そこに負けないで我々は生きてきた!と言える方がどれだけ元気がでるか分かりません。

それでも、私は過去の部落民の実像を知りたいと思うのです。
今は、未来を大切にしたいから。

*この文章は、解放新聞新南陽版1997年11月3日に掲載されていたものです。元の原稿は本名が記載されていますが、このブログに転載するにあたって、『部落学序説』の筆者が仮名にしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「GO」と「破戒」

【部落学序説付論】連休のコーヒータイム

「GO」と「破戒」(福岡五月)
2001年12月13日福岡五月氏からFAXで送られてきたもの

島崎藤村の詳説「破戒」(初版)を読んでみた。

部落解放運動の中では「破戒の主人公、丑松のようになるな。」との合言葉で宣伝されてきた明治時代の小説である。

それゆえ、永らく私のなかでは、瀬川丑松は差別に負けた部落民、卑屈はヤツと認識され、その小説を読み直してみようなどとは思ってもみなかった。嫌だったのは出身を告白する時、子ども達にひざまづいてまで許しを乞う場面である。何もそこまでしなくとも良かろうにという思いが強かった。

それが、長州藩の穢多の歴史を調べている吉田牧師から、「藤村は、破戒を書く前に信州の長吏(穢多)頭を取材して直接話を聞いているよ。」と教えられ、にわかに読み直して見る気になったのである。

読み始めは、ほうらやっぱり卑屈な男じゃん、ウジウジ考えていつも出身がばれないかとびくびくしてて、好きな女も告白するまえから諦めている。

それが、出身が暴かれ教師の職を追われ、最後信州から旅立つ場面に至ると、私は爽快な気分になった。ここにくるまでの鬱屈した気分がいっきに吹き飛ばされた。なぜなら、結局、丑松は彼なりの自己実現を成し遂げたからである。彼の出身宣言は現代では陳腐といってもいいくらいのひくさだけれど、それは明治という時代とその当時の社会の差別・抑圧を考えさせるものである。なにより、丑松は社会の抑圧と自己の出身とに真摯に対峙し、思想家の猪子連太郎がいう「我は穢多なり」に触発され出身を皆に告白する。出身を告白することで親友とのきずなは深まり、その親友の協力により志保という恋人も得る。そして、新たな仕事と希望に向かって旅立つのであるから、個人としてはこれ以上のハッピーエンドはあるまい。

そう思いながら最近映画化された、「GO」という小説の爽快な読後感を思い出した。

「GO」の作者金城一紀はジャパニーズコリアンであり、時代は多分、1980年代後半、「在日」朝鮮人の男子高校生が主人公。本名『李』、通称名『杉浦』、実に魅力的なこの青年の語り口は、あくまで明るく、差別やイデオロギーをしなやかにやり過ごしながら、最後、出身の告白によって一度は壊れかけた恋愛を成就させていく。時代も環境も主人公の個性も作者の立場もまったく違う小説でありながら、似たような爽快感を感じたのはなぜなのだろう。

この2編の小説が共に日本人社会の差別・抑圧を描いていること。それは「破戒」ではジメっと「GO」ではカラっと描かれるのだが。主人公たちは共にとの時代の差別・抑圧と対峙し自分なりの方法と個性で人生を切り開いていく。個人の苦闘と悲しみの後に訪れる幸福。まさにこれが同じなのだと気がついた。

藤村は最初の短編小説『緑葉集』の序に次のようなことを記している(抜粋)。

「眼に映じたまま心に感じたままを写して見ようと思いたった。予は先ず農夫の粗末な写生からはじめた。(中略)日露戦争が始まってから、予の知人も多く招集された。(中略)予は遠く山家にあって都の友人等が観戦の企てを聞き、自分も亦筆を携えて従軍したいと考えたが、遂にその志を果たさなかった。そこで予は『破戒』の稿を起こした。人生は大なる戦場である、作者はすなわちその従軍記者である-こう考えて、遠く満州の野にある友人等も、小説に筆を執りつつある予も同じ勤めに服して居ると思い慰めた」。

『破戒』は明治時代1904年から5年にかけて書かれた。水平社の創立大会が1922であるから、『破戒』に登場する猪子連太郎はその時代にあって過激なごく一部の思想家である。そのため猪子は殺される。丑松の父は山に隠棲し、牛飼いとなり、息子に出身を隠すのは生き死の問題と戒め、事故で死んでしまう。牛松は猪子と父に導かれながらも、2人の人生のどちらとも違う独自の道を切り開いていく。藤村は明治という時代の社会、そこに穢多の末裔を主人公として、生きることの困難とそれを克服しようと奮闘する人々を写生(スケッチ)してみせた。写生に解放運動的姿勢やアジテーションはいらないのである。

「GO」の作者・金城一紀は映画版のパンフレットにこう書いている(抜粋)。

「杉原をめぐる環境については映画を観た人があんまりイロイロ考えちゃうと、思想による運動にいっちゃうこともあるから考えないほうがいいですよと僕は言いたい。杉原のとった行動を観て、なにか共鳴しれくれればいいんです。僕は小説や映画は何も変えられないし、変えてはいけないと思っています。小説や映画でできることは、個人的な小さな化学反応を起こすくらいでいい、でも、その個人の小さな化学反応が大切なんです」。

はからずも時代を越えて、島崎藤村と金城一紀は、自分は小説家であり狭量な社会主義運動とは一線を画すと主張しているように思える。芸術はその影響力の大きさゆえプロパガンダに利用される。それは、人間の営みのすべてを包み込むような、懐の深い社会運動に今まで私たちは出会った事などないという証左であろう。

そろそろ『牛松のようになるな』というアジテーションはやめたほうがいいのではないか。明治という時代にあっての、藤村の先駆的な小説の試みと勇気はもう少し誉められてもいいと、読み直してみて思うことである。

そしてもっとも興味深いことは、次のような丑松の父に関する描写である。

「父は小諸の穢多町にうまれ、40戸ばかりの一族の「お頭」といはれる家柄であった。獄卒(ろうもり)と捕吏(とりて)とは、維新前まで、先祖代々の職務(つとめ)であって、父はその監督の報酬(むくい)として、租税を免ぜられた上、別に俸米(ふち)をあてがわれた」。

そして藤村は、『現代長編小説全集』第6巻(昭和4年新潮社発行)の巻頭の「序にかえて」でこう書くのである。

「新しいということは、現代では恥づべき何ものをも意味しない。さういう中にあって、独り新しい平民のみが特別の眼をもって見られて来たのは何故であるか。私が『破戒』を書いた頃の部落民は、その実決して新しくはなかったのである。古い、古い部落の民であった」。

古い古い部落の民が江戸時代の仕事を忘れ、アイデンティティを無くし、先祖を恥じ、隠すようになったのは何故か。穢多頭は何故、部落を捨てたのか。丑松の父のモデルとなった元穢多頭はどう答えただろう。私の知っている範囲での被差別部落の穢多頭は皆、部落を出ている。この奇妙な一致はどう考えればいいのだろう。

『破戒』巻末に集録されている語彙の解説「穢多」の項にあったのだが、封建的身分のひとつとして穢多の人口は明治4年(1871)太政官布告いわゆる解放令が発布された時点では約28万人だそうである。それが、水平社の時代1920年代には300万人と言われるようになる。いくら子だくさんでも被差別部落の人口が旧穢多だけではないのは、はっきりしている。この数のトリックはどう考えればいいのだろうか。様々な疑問がわいてくる。

吉田牧師に触発されて読み直した『破戒』は、色々な意味でおもしろい小説であった。

同時に『GO』という小説を読んでみて私はこう思うのです。「今も昔も、差別のキーワードは「隠せ」であり、それと格闘して生きるつらさと、その辛さがあるから大きな喜びがあるという矛盾、まことに人生は残酷で奥深いものだ」。

『GO』の主人公・杉原は言う、「俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対分かりやすくなるじゃないですか」。

日本人ではあるけれど部落出身の私も20年前までそう思っていた。今でもたまに、初めて人と出会う場面ではチラッとそんな思いが頭のよぎるので、身につまされて涙が出てしまった。泣かないと決意しても涙腺は正直なのです。

そして、マイノリティ当事者が、こんなに素直に差別を語り、おもしろい青春恋愛小説を書き、それが、多くの人々によって受け入れられる状況をみて時代の変化を感じるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

その他のカテゴリー

INDEX(目次) | INDEX(節別) | MEMO | まえがき | 序文 | 未整理 | 第1章 部落学固有の研究対象(全文) | 第1章1節 部落学固有の研究対象 | 第1章2節 穢多村の原風景 | 第1章3節 穢多の実像 | 第1章4節 穢多の在所 | 第1章5節 非常の民としての穢多 | 第1章6節 賎民概念の破棄 | 第1章7節 士農工商穢多非人図式の破棄 | 第2章 部落学固有の研究方法(全文) | 第2章1節 部落学固有の研究方法 | 第2章2節 村のシステム | 第2章3節 新けがれ論 | 第2章4節 長州藩青田伝説批判 | 第3章 「穢多」の定義(全文) | 第3章1節 穢多の定義 | 第3章1節1項 本当の挨拶 | 第3章1節2項 身分とは何か | 第3章1節3項 穢多という身分 | 第3章1節4項 伝承に見る穢多身分 | 第3章1節5項 垣の内 | 第3章2節 穢多の役務 | 第3章2節1項 白山信仰と穢多 | 第3章2節2項 死刑執行人の今と昔 | 第3章2節3項 幕末・穢多の群像 | 第3章2節4項 穢多の役務と家職 | 第3章3節 穢多の外延 | 第3章3節1項 第2八鹿高校事件 | 第3章3節2項 穢多とは誰か | 第3章4節 穢多と宗教 | 第3章5節 穢多と習俗 | 第3章6節 穢多とキリシタン | 第3章7節 穢多と遊女 | 第3章8節 穢多と法的逸脱 | 第3章9節 誤解された渋染一揆 | 第4章 太政官布告批判(全文) | 第4章1節 「部落」とは何か | 第4章1節3項 「村」、近世から近代へ | 第4章1節4項 翻訳語「部落」-法制用語 | 第4章2節 「穢多」談議 | 第4章3節 拷問制度とキリシタン弾圧 | 第4章4節 太政官布告 | 第4章4節2項 太政官布告の釈義 | 第4章5節 戸籍と国家神道 | 第4章5節2項 「壬申戸籍」に関する一考察 | 第4章5節3項 『部落学序説』今後の展望 | 第4章6節 太政官布告と地方行政 | 第4章7節 「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」 | 第4章8節 こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」 | 第4章9節 警察と遊女と部落と | 第4章A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤 | 第4章B節 「旧穢多」の精神史的考察 | 第5章 水平社宣言批判(全文) | 第5章1節 史料としての「水平社宣言」 | 第5章2節 「水平社宣言」の背景 | 部落学序説 読書案内 | 部落学序説付論 | 部落学序説付論 「汚れ」について | 部落学序説付論 好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・ | 部落学序説付論 学問論 | 部落学序説付論 寝た子を起こすな | 部落学序説付論 山口県で部落民宣言をした人々 | 部落学序説付論 島崎藤村論 | 部落学序説付論 市民的権利について | 部落学序説付論 特殊部落・差別概念の定義法について | 部落学序説付論 田所蛙治に関する1考察 | 部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染 | 部落学序説付論 被差別部落の食卓 | 部落学序説付論 連休のコーヒータイム | 部落学序説付論 部落と暴力団 | 部落学序説付論 8月15日終戦記念日 | 部落学序説(全文) | 部落学序説(別稿) | 部落学序説(別稿) 中江兆民論 | 部落学序説(別稿) 1.近世から近代へ | 部落学序説(別稿) 2.弾直記と明治維新 | 部落学序説(別稿) 3.穢多と明治維新 | 部落学序説(別稿) 4.穢多と維新前夜 | 部落学序説(別稿) 5.明治維新の死角 | 部落学序説(筆者) | 部落学序説(読書感想文)