2006.04.28

警察と遊女と部落と はじめに

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第1項】はじめに

第9節の主題を考えていましたが、結局、一番短いことばで「警察と売春」としました。

筆者が書くことができるのは、「警察と遊女」であって、「遊女と警察」ではありません。「警察」が先か、「遊女」が先か、その順序にこだわる必要がないのかもしれませんが、筆者は、『部落学序説』において、穢多と遊女について言及するときに、「穢多と遊女」としてきました。その際、「穢多と遊女」であって、「遊女と穢多」ではありませんでした。

この『部落学序説』は、「非常民の学としての部落学」ですから、とりあげる主題は、「常・民」より「非常・民」を優先させることになります。

第9節を書きはじめるにあたって、『部落学序説』の関連箇所を読み直してみましたが、「随分、大変なことをはじめてしまった・・・」という気持ちが沸いてきました。明治4年の太政官布告第448号・第449号は、多くの場合、「明治天皇による有り難いお言葉・・・」として受け止められ、「批判」の対象というより、「信奉」の対象として認識されてきたように思われます。

2つの太政官布告は、近代以降の「部落史」をひもとくときの、批判すべからざる「前提」として機能してきました。被差別部落の内外を問わず、通称「部落解放令」は、明治憲法と同じように「不磨の大典」のように扱われてきました。今日の部落史研究者や教育者は、ことばに意識するとしないとにかかわらず、「部落解放令」の意義は信じて疑うことはないのではないでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者は、通称「部落解放令」を単なる歴史学上の解釈に過ぎないとして、2つの太政官布告を、「批判の対象」として取り扱ってきました。2つの太政官布告の背景には、「天皇の聖旨」のようなものは存在せず、あるのは、明治政府の内政と外交に関する施策だけ・・・と考えてきました。

その「批判」行為は、大軍を相手にたったひとりで戦う戦い・・・のような側面があります。ほんとうに最後まで、ひとりで戦い続けるのか・・・、自問自答してみましたが、ひとりで戦い続けるしか、『部落学序説』を完成させる方法はない・・・と、あきらめの思いを持たざるを得ません。ひとりではじめた戦い・・・。最後までひとりで戦い続けよう・・・、そう決心しながら、新しい「節」に着手することにしました。

主題は、「警察と遊女」・・・。

もっとましな主題はないのか・・・。自問自答してみるのですが、なぜか、今回、頭の中が空回りします。「警察」も「遊女」も、筆者には、直接関係のない世界の話です。「警察官」に聞き取り調査をしたわけでも、「遊女」に聞き取り調査をしたわけでもありません。そのうえ、筆者の手元には、「警察」と「遊女」に関する、史料や伝承、研究論文はほとんどないのです。

ごくわずかな史料を用いて、大胆な結論を出すことに、なにとなくためらいがあります。

『部落学序説』の筆者にとって、「警察」も「遊女」も、「非日常」と「非常」の世界のことがらです。ほとんど毎日、「日常」と「常」の世界に身を置いている筆者には、どちらかいうと無縁の世界です。

しかし、「警察と遊女」という主題を取り上げることなく、『部落学序説』を先にすすめることはできそうにありませんので、微力を省みず、この主題に挑戦してみることにしました。論理のきれが悪くなる場合もあろうかと思いますが、筆者の精神世界の狭さであると、読み過ごしていただければさいわいです。

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2006.05.12

日本の通史に見られる「警察」と「遊女」

第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第2項】日本の通史に見られる「警察」と「遊女」

「警察」と「遊女」・・・

両者に関する史料は、日本の歴史全体に渡って存在します。しかし、「警察」と「遊女」の両者の関係が正当に認識されてきたとは、必ずしも断言できない側面があります。

網野善彦は、『中世の非人と遊女』(講談社学術文庫)の表題にもみられるように、「非人と遊女」というテーマで多方面に渡って考察しています。「非人と遊女」なのか、「遊女と非人」なのか、網野善彦の用法は極めてあいまいで恣意的です。

網野は、中世の人民を「平民」と「職人」に分類します(『部落学序説』第4章7節7項で既述)。網野は、「非人」と「遊女」を、「平民」ではなく、「職人」に分類します。その当時の権力によって、「平民」には付与されていない、「さまざまの」特権を与えられていたというのが、その理由のようですが、網野によると、「非人」は、「キヨメを職能とする民」であり、「遊女」は、「セックスを職能とする民」であるといいます。

網野は、近世においては、「非人」と「遊女」は、「江戸幕府の差別的な支配の下」で、「これらの被差別民を特定の場所に強制的に集住させる処置」がとられたといいます。「他の諸民族に余り例を見ない被差別部落、遊廓が形成されていった。」といいます。

つまり、網野は、「非人」と「遊女」は、当時の権力によって付与された特権を所有する「職能民」であるという共通項(内包・属性)を持っているがゆえに、「非人」と「遊女」は同等の存在とみなされるのです。網野にとって、「非人と遊女」なのか、「遊女と非人」なのか、という問いは、ほとんど意味を持たないのです。

網野は、網野が自ら創設した「平民」・「職人」という図式を、「非人」と「遊女」の問題に対しても強引に適用します。

『部落学序説』の筆者も、「常・民」・「非常・民」という図式を、「非人」と「遊女」の問題に対しても、同じく強引に適用しようとしますが、網野は、無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者が提唱する「常・民」・「非常・民」という図式ほどには成功していないと思われるのです。

網野は論理的に過ちを犯しています。

網野は、「検非違使」は「武力」を持っているがゆえに、「軍事力」であるといいます。網野は、まず、「検非違使」を、「軍事力」として誤認しています。「検非違使」は、嵯峨天皇のときに創設された制度(古代律令制度にない制度という意味で「令外の制」といわれる)ですが、この制度は、それまでの天皇制国家が軍事力のみであったのに比して、犯罪(国家転覆罪を含む)を未然に防止するために制定された「警察制度」であることはいうまでもありません。

「検非違使」は、京都にあって、そのような治安維持にあたりますが、「洛外」、つまり、地方の治安維持のために「警察制度」に組み込まれた人々は誰であったのか・・・、ということについて、網野は、「非人」を想定します。

京都にあっては、「検非違使」が、その治安維持のため、京都に通じる街道の警備と、関所を通過するひとびとの監視にあたります。「検非違使」の警察職務遂行の報酬として、網野は「公事徴収権」が確立していたといいます。「検非違使」は、「遊女・・・の洛中への定着」に起因して税を徴収したといいます。

京都で「検非違使」がしたのとまったく同じふるまいを、京都を遠く離れた地方でしていたのが「非人」・「河原者」であったといいます。しかも、彼らは、その職務上、「西日本の交通路」においても、「関所料等の交通税免除、自由な通行権」が保障されていたといいます。

網野は、「検非違使」を「軍事力」と断定することで、「検非違使」の本質を見失い、それと同時に、地方にあって、「検非違使」と同じ職務に従事していた「非人」・「河原者」の本質を見失ってしまいます。

「検非違使」と「遊女」の関係が、「検非違使」の「風俗警察」として「取り締まる」側、「遊女」の「風俗警察」の対象としての「取り締まられる」側という相反する関係にあることを見逃してしまうのです。

「非人」と「遊女」の悪しき同一視は中世・近世においては網野善彦によって、近世・近代においては上杉聡によって、それぞれ主張されてきました。その影響は決して少なくありませんが、しかし、無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、その良心にかけて、網野善彦と上杉聡の見解は、事実誤認であると断定せざるを得ません。

近代における「警察」と「遊女」・・・

両者の関係については、「取り締まる」側と「取り締まられる」側に区分されることはいうまでもありませんが、両者の関係を複雑にしているのは、網野が指摘する「公事徴収権」の近代・現代版の存在です。このことについては、歴史学上通説が存在しているようです。

総合女性史研究会『日本女性の歴史』(角川選書)に次のような主張があります。

大正13年(1924)、「娼妓数は全国で約52,000人を数え(遊客数は推定31,400,000人)、これに売春をともなう芸妓・酌婦の数を加えると、合計で176,000人にのぼっている。」といわれます。

日本に近代中央政府と地方行政は、この売春について次のような行動をとったというのです。

「娼妓・・・には賦金とよばれた税金が課せられた。これは地方税として県財政をうるおした。神奈川県では1888年に県予算の20%以上を占め、しかもその一部は警察探偵費にあてられた。遊廓と警察との癒着を許す下地がここに釀成されていたのである。虐使された娼妓がようやくの思いで遊廓からのがれてきても、身を守ってもらうべき警察で逆に非をさとされ、泣く泣く戻っていく例は多かった」。

「娼妓」は、「からだを酷使して健康をそこね、結核や性病をわずらっても十分な治療は施されず、身も心もぼろぼろとなって待つのは死ぬばかりであった。公娼制度とは国家による女性の性的収奪にほかならなかったのである」。

「警察と遊女」というときの「警察」は、「国家による女性の性的収奪」の補助機関であったというのです。明治初年、地方の「警察」は、「遊女」について、どのように関わっていったのか、警察側が作成した資料『山口県警察史』から、「警察と遊女」の一側面を考察していきたいと思います。

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2006.05.20

日本の近代警察

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第3項】日本の近代警察

『部落学序説』の「非常民」は、司法・警察に従事したひとびとを指す、時代を超えて使用できる一般用語として採用したものですが、古代から中世へ、中世から近世へ、近世から近代へ、近代から現代へ、時代がどんなに変遷しようと、司法・警察である「非常民」は、その時代と共に更迭を繰り返されたのではなく、逆に、時代を越えて、その職務を継承された可能性があります。

「非常民」を「穢多」概念で包括的に把握したのは近世幕藩体制ですが、その「非常民」の多くは、「中世」の「非常民」を継承されたものです。関八州をその職域として、司法・警察に従事した団弾左衛門にしても、徳川幕府開府とともに、新たに創設されたものではなく、徳川幕府以前にすでに司法・警察を歴任してきた人々です。

「政治」と「天皇制」を区別した、日本的国家システムは、「政治」と「司法・警察」をも区別・分離したと思われます。「政治」は、その権力主体が変更されると、システムが再編成されるのが常です。しかし、どのように「政治」が変わっても、「天皇制」という国家システムがその栄枯盛衰とともに発生・消滅することがなかったのと同様、どのように「政治」が変わっても、「司法・警察」という、社会の法的治安をあずかる「非常民」は、継承されこそすれ、大きくその組織・内容が改変されるということはありませんでした。

日本に政治史の中に、「政治」に関与しながら、「政治」とは区別され、その政治システム・法システム・社会システムの大きく関与した「天皇制」や「非常民」の存在は、極めて日本的なものかもしれません。

明治新政府は、「幕府」を倒したあと、「江戸」に進軍し、そこに駐留することになりますが、そのとき、「天皇」は「江戸」に居を構え、近世の「非常民」は近代の「非常民」としてそのまま継承される・・・という一幕がありました。

「明治元年(1868)4月11日、東征官軍は江戸城に入り、前將軍徳川慶喜は水戸に退去したので、同月21日、総督府は田安中納言慶頼に命じ、旧町奉行石川利政、佐久間信義を「江戸取締」として市中の巡邏にあたらせた。」(『山口県警察史』)

また、「政府は江戸の一般市政事務を民政の方向に切り換えていくために、同年5月に「鎮台府」を設置し・・・同時に裁判事務については旧幕時代の南北町奉行所を「市政裁判所」に、勘定奉行所を「民政裁判所」に改組・・・」、8月17日の「東京府」設置とともに、「府政のうち警察事務は、かつての町奉行所同心40人ばかりをもって「捕亡方」を組織し、その担当とした」といいます(同書)。

南町奉行所にしても、北町奉行所にしても、その司法・警察機関は、徳川幕府の重要な施政機関であることを否定することはできません。明治新政府は、当初、徳川幕府の、司法・警察に携わった人々を、明治新政府の司法・警察に携わる「非常民」として継続・採用していくことになります。

このことから考えても、明治新政府は、徳川幕府を打倒したにもかかわらず、こと、「司法・警察」である「非常民」については、その組織・人員・職務内容を継承しようとしていたと思われます。つまり、明治新政府にとって(否、日本の歴史の中に登場してくるすべての新政権にとって)、「旧非常民」は、廃棄・解体されるべき「旧政権」に属さず、そのまま、新体制に「非常民」として組み込むことに何ら問題を感じられない「非政治的」な存在であったということを意味します。

「権力」の中枢は変わっても、社会の治安をあずかる司法・警察である「非常民」は、その職務の「恒常性」と「専門性」故に、時代から時代へと継承されていったものと思われます。

このことは、古き時代だけでなく、新しき時代においても確認することができます。戦前の「国家警察」は、戦後の「民主警察」に移行していきますが、変わるのは、「警察」の職務内容だけであって、その組織と人員はそのまま継承されることになります。同じ「警察官」が、古き制服を脱ぎ捨て、新しき制服を身にまとうことによって、「国家警察」から「民主警察」に移行したとみなされるのです。「警察」の職務内容は、法律によって大きく制限されますが、それ以外は継承・継続されることになるのです。

日本の歴史の中で、「明治維新」だけは、司法・警察制度にとって、例外的は状況が待ち受けていました。徳川幕府時代に締結した、「国家的屈辱」と認識された不平等条約(治外法権の容認と関税自主権ほ放棄)の早期撤廃のための日本国家の近代化・・・という宿命がありました。明治新政府は、司法・警察については、「西欧諸国の制度」導入による近代化になじまないものとして、近代化を擬制しつつ、日本固有に司法・警察制度を温存しようとします。司法・警察のシステムを大きく変更することで、人民の間に要らぬ混乱と政府に対する不信を与えることを危惧したからです。

しかし、「近代司法」・「近代警察」も、ひとり例外を主張し続けることはできませんでした。明治初年代の相次ぐ「政変」によって、政争の道具と化していきます。

「部落学」の創設者・川元祥一は、その著『部落差別を克服する思想』に、「【補稿】近代初期の警察と差別の構造-部落が切り捨てられた過程」という文章を収録していますが、川元は、「日本の警察制度は、明治維新以後、ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転」をしているといいます。

川元がいう、「ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転」は、司法・警察に従事していた「非常民」を指す用語の変遷をたどっていけばすぐに確認することができます。

「めまぐるしく」変遷する司法・警察官である「非常民」を指す用語は、ただ単に「名称」の変更だけが行われたのか、それとも、「名称」の変更は、「概念」の変更であって、その「外延」と「内包」の実質的変更をともなう変更であったのか・・・、もし、「概念」の変更であったとしたら、近代警察を歴史的に把握しようと思えば、「名称」の変更が行われる都度、その「外延」と「内包」を確認する必要が出てきます。それは、膨大な労力と時間を必要とします。無学歴・無資格に筆者のよしとするところではありません。

なにしろ、「被差別部落」出身で、部落史研究者である川元祥一ですら、近代警察の「名称」・「概念」を誤認するほどですから・・・。

川元は、上記文章で、「1972(明治5)年には内務省警保寮が管轄し・・・」と表現していますが、「内務省が設置」されたのは、「明治6年(1873)11月10日」(『山口県警察史』)、つまり、「司法」を「権力」によって封殺した大久保利通による「明治6年政変」の直後のことです。川元は、年代と名称を誤認しています。川元は、ただ単に、年代と名称を間違っただけでなく、「司法」と「権力」の闘争の中で、近代警察が、「司法省」から「内務省」に移管されていくことにともなう、警察の政治上の役割・機能の変更と、それにともなう、近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「非常民」(「穢多」・「非人」)の処遇をめぐる、明治政府の「司法」と「権力」の確執を見逃してしまっているのです。

その結果、川元は、近世の「非常民」切り捨ての理由を、明治新政府の「欧米模倣」にしか見いだすことができないのです。

川元は、「日本の警察制度は、明治維新以後、ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転」をしているが故に、その本質を把握することに失敗しているのです。途中で、研究を投げ出し、見切りをつけて、適当な結論をみちびきだすことに陥っているのです。

「被差別部落」出身で部落史研究者である川元ですらこのような状況にある中、無学歴・無資格の筆者の研究など、さらに、「途中で、研究を投げ出し、見切りをつけて、適当な結論をみちびきだす」ことにつながる恐れが多分にありますが、無学歴・無資格であるが故に「見える」こともあるのではないかと思います。


川元祥一氏の『東京の同和教育の課題と可能性』(本稿は、2004年6月21日に川元祥一が東京学芸大学で教員養成実地指導講師(プロジェクト学習科目「基礎Ⅰ」)として行った講演の記録である。)を読みました。『部落学序説』の筆者は、「部落学」の創始者・川元祥一に敬意を払いつつ、「常民・非常民論」、「新けがれ論」を中核にして、「非常民の学としての部落学」構築に挑戦しています。上記の川元批判にみられるように、無学歴・無資格の、しかも、由緒正しき「旧百姓」の末裔である筆者は、学歴・資格の保持者である、由緒正しき「旧穢多」の末裔である川元氏の「胸」を借りて「同じ土俵」(部落学)のもとで挑戦しています。「司法省」と「内務省」の混同など、たいしたことはないのでは・・・と思われる読者の方も多いのではないかと思いますが、筆者は、こういうところに、川元部落学の限界と本質が見え隠れしているような気がします。しかし、川元氏は、筆者の『部落学序説』などあまり関心をお持ちではないのではないかと思われます。アマチュアに批判されてまともに反応するプロフェッショナルなどほとんどいませんから・・・。筆者は、『部落差別を克服する思想』を精読しています。当然、川元氏の大学の受講生の中には、筆者と同じ間違いを指摘された学生がおられると思いますが、インターネット上の文章が即変更できるのと違って、本の活字で出版された論文の訂正が容易でないことは、十分認識した上での、筆者の指摘です。単なる用語の間違いの指摘ではなく、川元氏の「部落学」体系に対する筆者の「部落学」体系からの批判です。

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明治維新と部落差別

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第4項】明治維新と部落差別
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷その1)

『部落学序説』の第4章の執筆に入ってまもなく、部落解放同盟山口県連の方から、『部落学序説』において、「被差別部落の地名・人名の実名記載を忌避することは、かえって差別的な結果に陥っている」との指摘を受け、それまで書いてきた第4章の原稿をすべて破棄しました。

しかし、このことは、非常に難しい問題を含んでいます。

なぜなら、「被差別部落の地名・人名の実名記載を忌避すること」は、戦後の部落解放運動に際して、被差別の側からの要求として打ち出されてきたことがらであるからです。不用意に引用された「被差別部落に地名・人名の実名記載」を理由に、「差別文書」と断定され、運動団体から「糾弾」を受けることになった人々は少なくありません。

筆者の所属している日本基督教団の部落解放センターの関係者の場合もそうですが、そのトップからして、同和教育の講師の名前に実名が記載されていることについて、「差別」だと「糾弾」した例がみられますし、「糾弾」された側も、「部落差別の深刻さに思いをいたさなかった・・・」と反省の弁を述べる場合が多々ありました。

半分身をさらし、半分身を隠す・・・、そんなスタイルで、部落解放運動が展開された時代もあったように思われます。

『部落学序説』の筆者としては、そのような、「御都合主義」に巻き込まれ、徒に「差別事件」に巻き込まれることがないよう細心の注意を払い、「被差別部落の地名・人名の実名記載を忌避するようになったこと」は当然の成り行きです。

第1章から第3章までと違って、第4章から第6章は、近代・現代の、明治・大正・昭和の被差別部落の問題を直接とりあげることになるのですから、たとえ、「部落学」の範疇の文章とはいえ、インターネット上で論文を公開、書き下ろしをする場合、不特定多数の読者を想定するわけですから、「被差別部落の地名・人名の実名記載」について、極度に慎重な態度をとるのは必然でした。

『部落学序説』の執筆を急いだ筆者は、破棄した第4章が、明治政府の「権力」を視野に入れての考察から、まったく別な「旧百姓」の視角・視点・視座から、新たに第4章をかきはじめました。筆者にとって、「旧第4章」と「新第4章」は、単なる書き直しではなく、相互補完的なものです。ですから、「旧第4章」でとりあげたテーマは、「新第4章」では取り上げることはありませんでした。

「旧第4章」(『部落学序説』(別稿))に文章の中には、近代警察を考察する上で、基本的な情報が多々含まれています。たとえば、次の文書群はそれに該当します。

・穢多と明治維新
   1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬
   2.部落学と歴史観
   3.明治維新-大久保独裁体制の確立
   4.近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)

一般史の最近の研究成果をもとに、明治初年の時代区分をいくつかに分け、それぞれの時代区分に対応した、「旧穢多」の動向を明らかにしようとしたのですが、部落解放同盟山口県連の関係者の方の指摘で、要するに頓挫してしまったわけです。

今回、「警察と売春」・「近代警察における「番人」概念の変遷」というテーマで文章化するとき、上記の「旧第4章」(『部落学序説』(別稿))の文書群が前提となります。この節・項を論ずるときに、重複して取り上げることはしませんので、この文章の背景として、筆者が持っている認識を御確認していただけたら幸いです。

「部落学」の創始者であり、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一は、明治維新を認識するときに、明治維新は「1回限りの政変」であるという前提に立って論述を展開しているように思われます。

しかし、『部落学序説』の筆者は、今回の節・項をとりあげるとき、明治維新は「数回の政変」によって遂行されたと認識しています。「版籍奉還」・「廃藩置県」・「明治6年の政変」の3回の「政変」によって明治維新は遂行されたと確信しているのです。最近の、一般史の研究動向を反映させると、そう認識せざるを得ないと思わされます。

しかも、「版籍奉還」・「廃藩置県」・「明治6年の政変」の3つの「政変」の相互関係は、歴史的・時間的順列ではありません。「廃藩置県」は「版籍奉還」を否定し、「明治6年の政変」は「廃藩置県」の否定に上に遂行されていったという側面を含んでいますので、当然、明治4年の太政官布告第488号・第489号(通称「解放令」)は、その布告の「法文解釈」だけでは十分ではなく、明治新政府の国政・外交のすべての動向を視野に入れて解釈する必要があります。

川元は、前項でも指摘したように、「日本の警察制度は、明治維新以後、ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転・・・」したといいますが、「警察制度」「変転」の背後には、「政治」(国政・外交)の「変転」があります。つまり、近代警察の「変転」を明らかにするということは、明治新政府の「政治」(国政・外交)の「変転」を明らかにするという作業を内包することになります。

川元は、「明治維新」を単純に考えすぎたために、中央警察機関が、「司法省」から「内務省」に移行された意味を把握することに失敗してしまいます。そして、前項で指摘したとおり、「司法省」と「内務省」を混同するという過ちをおかしてしまいます。

明治新政府は、「第1の中央警察機関」、「第2の中央警察機関」、「第3の中央警察機関」(この表現のみ『山口県警察史』に登場)を構築していく中で、やがて、「第2の中央警察機関」、「第3の中央警察機関」を「第1の中央警察機関」に統合していきます。そして、「明治6年の政変」によって、「第1の中央警察機関」を否定、新たな「第4の中央警察機関」として改変されていくのです。当然、近代「警察」概念の「外延」と「内包」が大きくことなってきます。

その中で、川元が指摘する「旧番人」「新番人」の確執と去就が問題になるのです。とりわけ、川元が年代と名称を誤認している「第1の中央警察機関」と「第4の中央警察機関」の移行(連続・非連続)に中に、「旧穢多」に対する明治政府の多様な見解が存在したことが明らかになってきます。

歴史の中に、「もしかしたら・・・」という発想を軽々しく持ち込むべきではないとは思いますが、しかし、「もしかしたら・・・」、明治政府の中にあったある方針が採用されていたら、近代・現代の「部落差別」が作りだされる可能性は極端に少なかったのではないかと推測されます。(続く)

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2006.05.22

軍事警察から民政警察へ

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第4項】軍事警察から民政警察へ
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その2)

幕末から明治初頭の時代は、「平時」ではなく「戦時」にあたります。

一般的に、「戦時」には、「平時」とは異なる政治形態が採用されます。「戦時」には「軍政」がしかれ、司法・警察においても「軍政」が濃厚に反映されます。

近世の「部落史」研究において明らかにされている、司法・警察の下級役人である「穢多・非人」の姿は、「平時」における司法・警察の姿をしめしています。この『部落学序説』では、「非常・民」を、軍事・警察の2つの「非常・民」に分けて論述を展開していますが、近世後半の「穢多・非人」は、「軍事」ではなく「警察」職務に従事した「非常民」として描いています。

明治新政府が、倒幕後採用した「警察」機構は、「戦時」下の「軍政警察」です。この時期、「警察」の主体は、旧武士である「士族」を中心に構成され、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた「非常民」である「穢多・非人」は、脇役へと追いやられていきます。

中央で、江戸幕府から明治新政府へ、政治革命・政治改革が行われていくなか、地方にあって、社会の法的安定・治安維持に携わったのは、いうまでもなく、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた「非常民」である「穢多・非人」たちでした。明治初年代、「中央」と「地方」の司法・警察のあり方は、大きく異なっていたと考えられます。

大日向純夫は、《日本近代警察の確立過程とその思想》(岩波近代思想大系)で、「警察のあり方を問うことは、国家のあり方を問うことである。」という象徴的な表現を用いています。それぞれの時代の「警察」は、それぞれの時代の「国家のあり方」が色濃く反映されているのであって、「警察」について考察するときは、必然的に「国家のあり方」について考察することになるというのです(筆者のような無学歴・無資格にものにとっては、「国家」「警察」を相互補完的に把握しなければならないということは、簡単なことがらではありませんが・・・)。

明治初年代の「警察」について言及するためには、「戦時」下の「軍政警察」が「平時」下の「民政警察」へどのように移行していったのかという視点が必要になってきます。明治新政府の、「戦時」下の「軍政警察」から「平時」下の「民政警察」への移行の様態を少しく考察してみましょう。

といっても、筆者の手元にある資料は、極めて僅少です。

《近代警察の創設》(『山口県警察史』第4章第1節)
《司法警察の確立》(『山口県警察史』第5章第5節)
《近代初期の警察と差別の構造》(川元祥一著『部落差別を克服する思想』)
《近代官僚制の成立過程》(由井正臣著、岩波近代思想大系『官僚制 警察』)
《日本近代警察の確立過程とその思想》(大日向純夫著、岩波近代思想大系『官僚制 警察』)
《近代警察の成立過程、内部統制、規則・規則案》に関する資料群(岩波近代思想大系『官僚制 警察』)
《近代警察制度の確立》(『警察』現代行政全集)

『志士と官僚』(佐々木克著、講談社学術文庫)
《巡査の昔話》(篠田鉱造著、岩波文庫)
『明治6年政変』(毛利敏彦著、中公新書)

少ない資料で大胆な結論を出すことで、またまた、読者の方々から失笑を買うことになると思われますが、それらの資料をてがかりに、明治新政府の、「戦時」下の「軍政警察」から「平時」下の「民政警察」への移行の様態と、その中で、「受容」と「排除」を繰り返される、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の姿について言及してみましょう。

「王政復古後、明治新政府が国内治安強化のため、真っ先に手をつけたのは、軍政の改革と警察制度の確立であった。」(《近代警察制度の確立》)といわれます。

「当時の治安情勢は、江戸府中は、幕政から新政へ急激に転換した過渡期のため人心は安定せず、幕府崩壊に伴って激増した浪人らの横行は、いたずらに社会不安を増大させる結果となった。また、各地方における社会の同様も著しく、明治新政府に不満を抱く士族の乱とか農民一揆などが各地に起こり、これに対処するための近代軍政と警察制度の確立は新政府に課せられた緊急の課題となっていたのである。」(同書)

『部落学序説』で筆者がこれまでにすでに指摘してきたように、「警察制度の確立」は、「明治新政府に不満を抱く士族の乱」や「農民一揆」鎮圧などの「内政問題」・「国内問題」だけが原因ではありません。むしろ、「外交問題」からの強い要請が起因していたと思われます。「草莽の志士」による外国人暗殺事件の防止、諸外国からのキリシタン弾圧に対する激しい抗議、現代の日本の政治家と違って、外国の軍隊が日本に駐留し、警察権を行使することを容認した、「国辱」として受け止められていた不平等条約である治外法権の早期撤廃等の「外交問題」・「国際問題」も大きく起因していたのです。早急に、近代化・中央集権化を図る明治新政府は、「ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転・・・」(川元祥一著『部落差別を克服する思想』)を遂げていきます。

鳥羽伏見の戦いに勝利した明治新政府は、明治元年(1868)1月17日、「官制改革」を実施し、「三職七科」の中央官制を成立させます。このとき、「治安警察」は、「海陸軍事務科」が担当し、「監察・糾弾・捕亡・断獄・諸刑律の監督」等、つまり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」が従事した「司法警察」は、「刑法事務科」が担当することになります。

この「三職七科制の構想」は、明治維新の前年(1867)「12月15日の段階で後藤象二郎・福岡孝弟によって提出されていた」(《近代官僚制の成立過程》)といわれます。福岡孝弟は、明治新政府の中にあって最初から、「警察制度」に深く関わる立場にあったと思われます。福岡孝弟が、頭の中で考えていた明治新政府の「警察制度」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の継承・継続であったと思われます。彼の残した文書には、明治4年8月に出された「穢多非人等ノ称廃止」に関する太政官布告がだされたあとも、「旧穢多」を、近代警察制度の中に組み込もうとする姿勢を確認することができます。この件についてはあとで詳述するとして、この制度改革によって、明治新政府の中に、「徴士」という「官僚」が成立することになります。

「官僚」とは、「国家機関を構成し、それによって国民一般を統治する特殊な集団」(『官僚制 警察』)を意味します。

「刑法事務科」・・・、これが、当時の国内情勢から「治安警察」という一部の警察機能を「陸海軍事務科」に明け渡しているとはいえ、まぎれもない、「中央における警察機関の初め」であり、「警察官僚」がはじめて登場することになるのです。

この「三職七科制は制定後1か月もたたない1868(明治元)年2月3日の官制改革で三職八局の制」に改編されていきます。この改編で、「官僚」の外延と内包が大きく変えられていきます。「旧藩」に深い結びつきのある「官僚」は更迭され、「旧藩ニ全ク関係混同無之」という内包(属性)をもったものは、「朝臣」として採用されていくのです。「朝臣」は、「旧藩との関係をたち」、明治新政府の「中央官僚の立場を明確にするよう求められた」のです。

「三職八局制」のもとで、海陸軍事務科は軍防事務局、刑法事務科は刑法事務局に改編されていきます。(続)

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2006.05.23

警察の近代化と旧穢多

第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第4項】警察の近代化と旧穢多
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その3)

明治新政府によって、「徳川追討」をすすめる中、明治元年(1868)3月14日、「挙国一致」・「諸政一致」(『山口県警察史』)を図るために、「国是確立の綱領」(由井正臣)である『五カ条の御誓文』が宣布されます。

閏4月21日には、「五カ条の御誓文を制度的に具体化した」(由井)『政体書』が公布されます。この『政体書』は、明治新政府の「政治の組織および形態の原則」(『警察史』)を明らかにしたもので、「従来の官制を大幅に改革するものであった」(由井)といわれます。

『政体書』は、明治政府による「中央集権権力創出」(由井)を目的に公布されたもので、その特徴として次の点があげられます。

1.明治新政府の「最高機関」として「太政官」を設置し、「国家権力を太政官に集中すること」(由井)。
2.その権力を、「立法・行政・司法」「3権に分立すること」(由井)。「立法」機関としては「議政官」「行政」機関としては、「行政・神祇官・会計・軍務・外国の5官」(『警察史』)、「司法」機関としては、「刑法官」が設置されたこと。
3.「官等を定め、官吏公選制を採用」したこと。
4.「各藩の領主権に制限を加え、中央政府の統制下」においたこと(由井)。

この改革で特筆すべきことは、「人事面」において、その上級官僚に、「薩長土肥の実力者」である「藩士層が大幅に登用」されたことです。「木戸孝允・小松帯刀・大久保利通・広沢真臣・後藤象二郎・福岡孝弟・副島種臣・横井小楠・由利公正・西郷隆盛・神山郡廉・板垣退助・大隈重信・岩下方平・大木喬任」(由井)等です。彼らは、「朝臣としてその身分的地位を保障され、新政府の実権を握りつつあった・・・」(由井)のです。この改革は、「士族」中心の国家体制であり、「庶人」「徴士」として官職につくことは「貴賢」のみ可能なことであって、ほとんどの「庶人」は最初から排除されていて、極めて「強い身分制原理が貫徹」されたものでした。

この改革において、「警察」機構は、「軍防事務局」から「軍務官」に、「刑法事務局」「刑法官」に改組されていきます。

明治2年7月8日、「大宝令の制にならった第三次の官制大改革が行われて2官6省となり」、さきの7官制における「刑法官」「刑部省」に、「軍務官」「兵部省」に改組されます。「兵部省」は、「東京府下をはじめ、地方の警備や凶徒の鎮圧など治安警察を担当」します。また、「刑部省」は、「犯罪の捜査、犯人の検察」等の「司法警察」を担当します。この時期の「近代警察」は、「軍隊と警察は密接不可分の関係にあった」といわれます。

明治2年5月22日、「治安警察」・「司法警察」の他に、「法ヲ執リ、律ヲ守リ、天下ノ非違ヲ糾弾」するための機関として、「弾正台」が設置されます。この弾正台の任務は、「維新後の混沌として時代にあって、新政府に不満を抱く不平士族による全国的な政治的陰謀が跡を絶たなかったため、これらの摘発を主な任務とする、いわゆる政治警察」でした。

『山口県警察史』は、この「弾正台」をさして、「第3の中央警察機関」と称しています。

筆者は、近世幕藩体制かの司法・警察の継承として、「刑部省」を「第1の中央警察機関」と呼び、明治維新前後の特殊な状況から生じる「治安警察」としての「兵部省」を「第2の中央警察機関」と呼ぶことにしました。

つまり、明治新政府の「警察機関」は、近世幕藩体制下の司法・警察の継承者としての「司法警察」に、明治の中央集権国家建設のために必要とされた、「治安警察」・「政治警察」が付加されたものです。

明治新政府の「第3の中央警察機関」である「弾正台」は、明治新政府に対して、「反政府活動」をするものに対して「糾弾」を行う機関でした。この「糾弾」・・・、という言葉は、水平社運動の中で、「特殊部落民」の「運動の方法」として採用された「糾弾」とまったく同じ意味の言葉です。

「弾正台」は、全国の府藩県の「警察掛」に命じて、「末端の探索」を実施させます。「弾正台」は、約2年間、「政治警察」として、明治新政府に対して、「反政府活動」をするものを探索・糾弾・監察していくのです。

この時期の地方の「警察」は、まったく、近世幕藩体制下の司法・警察機関がそのまま任務にあたっていましたから、全国の「穢多非人等」は、従来の「司法警察」の職務の他に、この「政治警察」の職務を押しつけられたものと思われます。「反政府活動」をするものを探索・糾弾することは、「軍事」に携わる「非常民」(藩士)のよくするところではなく、司法・警察に従事していた「非常民」(同心・目明し・穢多・非人等)の、専門的知識と技術をもった集団の独断場であったからです。

「穢多」と「糾弾」の結びつきは、中世の時代に遡って確認することができるほど、両概念は密接な関係があります。「穢多」あっての「糾弾」であり、「糾弾」あっての「穢多」であるといっていいほど、両者の間には密接な関係がありました。明治新政府下の「警察」は、「政治警察」だけでなく、「宗教警察」(キリシタン弾圧機関)の機能ももっていましたが、当然、「穢多非人等」は、「キリシタン狩」に「宗教警察」として動員され、その探索・糾弾にあたっていたと思われます。

徳川幕府初期の「キリシタン弾圧」・・・、幕府は、その弾圧にともなう、残虐・悲惨・恐怖を伴う暗いイメージを、払拭し、近世幕藩体制下の人民に受け入れられる司法・警察のあり方を模索し続けましたが、明治新政府は、かつての、残虐・悲惨・恐怖を人民に想起させるような形で、キリシタン弾圧政策をとり、かってと同じように、地方の司法・警察であった「穢多非人等」に対しても、「キリシタン狩」、つまり、キリシタンの探索・探偵・糾弾を職務して強要したのです。

明治初期の警察システムにおいても、「穢多非人等」は、「みじめで、あわれで、気の毒な」、「差別され抑圧された」民などではなく、自他ともに認める「司法警察」官であったのです。明治初期の民衆は、「穢多非人等」に付与された「宗教警察」としての職務、「探索」・「探偵」・「密偵」・「糾弾」を、極度に警戒せざるを得ない状況に置かれていたと思われます。明治新政府に対するちょっとした失言で、捕縛され糾弾される可能性を否定できなかったからです。

明治4年、一般的に「解放令」といわれる太政官布告第488号・489号が出されて、突如、「穢多非人等」の身分・職業が平民と同様にされますが、当時の多くの民衆は、その太政官布告を文字通りに信じることはできなかったのではないかと思います。彼らの大半は、近世から近代への過渡期に、新しき時代になじまないものとして、旧司法・警察身分から解放されたのではなく、「政治警察」・「宗教警察」という、民衆にとっては、残虐・悲惨・恐怖を伴う暗いイメージのつきまとう、末端の警察機関の担い手として「放逐」されたのですから・・・。

民衆は、明治4年の太政官布告によって、風呂屋・散髪屋で、世間話で話したことが、いつ、彼らの耳に入って、摘発され、糾弾を受けないとも限らない状況に置かれます。なぜなら、民衆を探索・探偵・糾弾する末端警察機関としての「旧穢多非人等」は、近世幕藩体制下のように、民衆の「外」側に「非常民」として存在していたのではなく、民衆の「内」側に「元非常民」として存在するようになるのですから、民衆の生活は、著しく阻害されることになります。

民衆は、「穢多非人等」をその社会から排除しようとしたのは、彼らが、「みじめで、あわれで、気の毒な」、「差別され抑圧された」民・「賤民」であったからではなく、自他ともに認める「司法警察」・「政治警察」(「宗教警察」を含む)であったからです。

明治4年7月9日、明治新政府は、「第1の中央警察機関」の継承者として、「司法省」を設置するとともに、「第2の中央警察機関」・「第3の中央警察機関」を廃止します。

そのとき、「第2の中央警察機関」・「第3の中央警察機関」の「治安警察」・「政治警察」の機能は廃止されたのではなく、「第1の中央警察機関」の継承者である「司法省」に統一され、「司法省」は、司法警察・治安警察・政治警察(宗教警察)の「すべての警察機能」を具備するに至るのです。

「こうして、わが国の警察制度は、明治初期の時代から脱皮して、司法警察の時代へと転換していくのである」(『山口県警察史』)といわれますが、筆者は、幕末期の司法・警察である「非常民」とは異なり、「司法警察」にとどまらず、「治安警察」・「政治警察」をも併せ持つ、民衆の反政府活動を探索・糾弾する機関・民衆弾圧の機関として、「脱皮」してく過程であったとも思わされます。

明治4年7月の「中央警察機関」としての「司法省」は、「近代警察」概念の「外延」と「内包」を確定する作業をしていきます。「近代警察」の「警察官」とは誰なのか・・・。「近代警察」の「外延」について、激しい論争があったように思われます。ひとつは、「旧穢多非人等」を「近代警察」機関の要員として組み込むという主張です。もうひとつは、「旧穢多非人等」を「近代警察」から排除するという主張です。

明治4年の廃藩置県から、「明治6年の政変」までの間、このふたつの考え方は紆余曲折を経ながら、「明治6年の政変」によって、「政治的決着」がはかられます。しかし、この「政治的決着」は、明治新政府内部の権力闘争的面がつよく、「旧穢多非人等」をめぐる問題は、この決着によってさらに混迷を深めていったように思われます。(続)

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2006.05.26

警察の近代化の闇・・・

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第4項】警察の近代化の闇・・・
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その4)

歴史は常に勝者の立場から書かれている。だがそれは、後になってからでも正しく検証されねばならない(井口富夫著『会津と長州と 企業人の見た権力者の横顔』)。

廃藩置県直前の明治4年7月9日、明治新政府は、第2、第3の中央警察機関の「兵部省」・「弾正台」の治安警察・政治警察機能を、第1の中央警察機関たる司法警察である「刑部省」に集中させて「司法省」を設置します。

この「司法省」は、司法警察・治安警察・政治警察を統合し、「全国警察権を掌握することになった」(『警察』)のです。近代中央集権国家創立にふさわしい警察制度を具備するにいたったと考えられます。

そして、明治4年7月14日、廃藩置県が断行されます。それまでは、「旧来の藩はほぼそのまま県となり、3府302県が成立したが、その年11月には大統合が行われて3府72県となり、その後、数度の統廃合が行われ、3府43県に確定したのは1888(明治21)年になってからである。」といわれます(由井正臣)。

司法省設立後も、地方行政の「統廃合」と「再編成」が繰り返されるのです。その都度、地方警察もまた、地方行政の「統廃合」と「再編成」に相前後して「統廃合」と「再編成」を余儀なくされたと想定されるのですが、それらをここに追跡・確認することは、時間・財力・能力ともに、無学歴・無資格の筆者のよしとするところではありません。

明治新政府は、廃藩置県後の8月10日、「官制等級を改定」します。「その例言において、太政官と諸省との関係について、「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス、寮司ハ官省ノ支官タリ」とし・・・上下関係を明確にした」(由井)といわれます。問題は、大蔵省の権限に、「地方ノ警邏」が含まれていたことです。

明治新政府の中央においては、「司法警察」・「治安警察」・「政治警察」「統廃合」と「再編成」がなされたとはいえ、地方においては、その司法・警察制度は、司法省の手になく、大蔵省の管轄下にありました。

当時の司法省の権限は、「権限は弱小」であり、司法省の司法・警察の及ぶ範囲は、「東京府下のみであり、それ以外の地では、従来どおり大蔵省監督下の地方官(府県)」(毛利敏彦)が司法・警察権を掌握していたといわれます。つまり、「行政庁である府県が、同時に司法権行使の主体でもあった」(毛利)のです。これは、明治新政府が、その地方行政において、近世幕藩体制下の司法・警察機構をそのまま踏襲していたことに他なりません。『明治六年政変』の著者・毛利敏彦は、当時の地方の司法・警察は「錯雑混乱」した状態であったといいます。

明治5年4月25日、江藤新平が初代司法卿に就任することによって、江藤新平は、「近代国家にふさわしい司法権を確立すること」(毛利)に集中します。江藤は、「それまで不振で影の薄い存在だった司法省の様相」(同)を一変させたといいます。

江藤は、「司法省の方針を示すの書」を発表します。

「「訟を断ずる、敏捷、便利、公直。獄を断ずる、明白、至当にて冤枉(無実の罪)なく、且つ姦悪をなす者は、必ず捕らえて折断、敢て逃るるを得ざらしむ。是を本省の職掌とす」と延べ、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現とが司法省の使命であると明快に宣言した。」(毛利)といいます。

8月3日には、「22章108条からなる大部の「司法職務定制」が制定」され、「警察制度」についても「詳細に規定」されます。

「江藤が何よりも排除しようとしたのは、方法の誤用による人権の侵害(冤枉、枉屈)であった。」といわれます。

明治5年8月28日、「司法省警保寮」が設置され、10月には、「職制及び章程」が制定されます。警保寮章程2条において、「警保寮ヲ置クノ趣旨ハ国中ヲ安静ナラシメ人民ノ健康ヲ保護スル為ニシテ安静健康ヲ妨グル者ヲ予防スルニアリ」と規定します。

司法省に警保寮が出されて以降、「警察制度も全国的統一の方向に向かい・・・急速に体制の整備がなされるようになった。」といわれます(『警察』)。しかし、警察史通説の見解と違って、「警察権」をめぐる、地方の「地方官」(大蔵省管轄下)と「裁判所」(司法省管轄下)との対立、中央における「大蔵省と司法省の対立」が存在し続けたといわれます。

「明治6年政変」の背景には、この「誰が警察権を掌握するか」、「近代警察の質をどのようなものにするか」・・・という、明治新政府内部での権力抗争があったようです。「政局は思わぬ方向に複雑化」していきます。

「明治6年政変」で、「明治政府首脳は大分裂し、閣僚の半数は野に下った。」(毛利)のです。初代司法卿・江藤新平は、「警察権」をめぐる抗争の相手であった大蔵省関係の官僚によって捕縛・糾弾(拷問)され、「除族」(身分剥奪)の上、「斬首梟首という極刑」に処せられたといいます。

打倒江藤新平に執念を燃やしていた大久保利通は、政敵に勝利したという「勝者の優越感を露骨に」、その日記に、「江藤醜躰笑止なり」と記したといいます(毛利)。

大久保利通は、政変後の明治6年11月10日内務省が設置され、その29日大久保利通は内務卿に就任します。そして翌年の1月9日「内務省警保寮」を設置、「司法省警保寮」を廃止、その警察権を「内務省警保寮」に移管させます。大久保利通は、「警察組織の統括者」として先鞭をつけるのです。

「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への警察権の移管・・・。それは、単なる名称変更や明治新政府の内部の権力抗争にともなう警察権の移管にとどまるものではなく、近代中央集権国家の「近代警察」の質を決める「闘争」でもあったのです。

内務省警保寮についてこのような定義がなされます。「人民ノ凶害ヲ予防シ其権利ヲ保守シ其健康ヲ看護シテ営業ニ安ンジ生命ヲ保全セシムル等行政警察ニ属スル一切ノ事務ヲ管理スル所」。上記の司法省警保寮の定義と比較するとすぐにわかるのですが、内務省警保寮の定義は、司法省警保寮の定義を一見継承しているように見えながら、実は、それを大きく制限するものになっています。「行政警察」という言葉はそのことを示します。

「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への移管、それは、「近代警察」が、「司法警察」から「行政警察」への移行を鮮明にした瞬間でもあったのです。「近代警察」は、行政から独立した司法に属する機関としてではなく、行政と密接に結びついた権力機関として出発することになったのです。「内務省警保寮」は、それ以降、薩摩・長州の門閥・派閥の直属の警察機関として、「行政警察を一手に掌握して国内治安対策を講じていく」(由井)のです。

明治6年政変後の明治政府は、薩摩・長州の旧藩閥による権利の拡大と利権の拡張を求めて、その政敵の排除を「内務省警保寮」という警察機関を通じて実現していくのです。法的逸脱をしたり、明治最初の疑獄事件を起こした長州藩閥を超法規的に免罪したりしていくのです。

毛利敏彦は、「山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山形有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直・・・と、汚職・不祥事を続出させていた長州藩は、政変のおかげで罪跡をうやむやにできて、没落寸前の淵から這い上がることに成功した・・・」といいます。「法治主義の番人をもって任じていた司法省」の卓越した人材を犠牲にして、否、近代日本の「法治主義」を犠牲にして・・・。

中央での「警察権」をめぐる政争は、地方の「警察」機関にも大きな影響を残します。「近代警察」概念の外延と内包は、「警察権」の「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への移管にともなって大きく変容させられます。

「部落学」の創始者である、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一は、その「近代初期の警察と差別の構造」において、「1872(明治5)年には内務省警保寮が管轄し・・・」と、「司法省警保寮」「内務省警保寮」に置き換え、川元の歴史観から、「司法省警保寮」を視野の外に追いやっています。

その結果、川元は、「被差別者の切り捨て」の背後にあった政治的葛藤を見失ってしまうのです。無学歴・無資格の筆者と違って、学歴も資格も持っている川元は、当然そのことを認識しつつ、意図的に「司法省警保寮」とその施策を削除したとも考えられます。(続)

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2006.05.27

江藤新平と大久保利通の政治的対立

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第4項】江藤新平と大久保利通の政治的対立
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その5)

Keisatu 「部落学」の創始者・川元祥一は、その著書『部落差別を克服する思想』の中で、「日本の警察制度は、明治維新以後、ひじょうにめまぐるしく、理解に苦しむほど複雑な変転・・・」したといいますが、「近代警察」に関する若干の資料をひもといていますと、文字通りそのことを実感します。

しかも、その際に使用されている概念が極めてあいまいで、時として、二重定義・多重定義に陥っていますので、安直に既成概念を使用していると、思わぬ「陥穽」に陥ってそこから抜け出せなくなってしまいます。

「明治6年政変」により、「司法省警保寮」が「内務省警保寮」に移管されたできごとは、後の近代日本の司法・警察を論じるときの重要な分岐点になっています。いま、それを簡単に図式で表現しますと右図のようになります。

「司法省」は、「立法・行政・司法」3権の「司法」を担当しますが、「司法省警保寮」は、その下部機関の「警察」機構として設置されます。初期の司法省は、「行政」権から独立した、「司法・警察」制度を構築しようとします。聡明な頭脳と決断をもって、近代日本の中央集権国家にふさわしい「司法権の確立に挺身」(毛利敏彦)したのは、江藤新平でした。最初の司法卿・江藤新平は、明治新政府の「官僚」に対しても、「法」のもとで公明正大な職務の遂行をもとめます。もし、「法」に違反する者があれば、たとえ、明治新政府の「官僚」(朝臣)であろうと厳罰をもって処する旨、宣言するのです。この江藤ひきいる司法省のもとで、明治維新に際して多大な貢献をしたはずの、「長州派閥」の中から、法的逸脱をして、利権をあさり、私腹をこやす「官僚」(朝臣)の「公僕」にふさわしからざる、「疑獄事件」などの所業が明らかにされるのですが、それを遂行したのが、右図の上の「司法警察」です。

「司法権」と「行政権」の「分裂」により、「長州汚職閥」が明るみに出され、明治新政府の内部対立が白日のもとにさらされ、明治新政府の「権力」の弱体化を懸念した、大久保利通は、政治的策略を弄して、政敵・江藤新平を失墜させ、その傘下に集中されていた「警察権」を、「司法省」から「内務省」に移し、その権力をすべて大久保利通の手に集中します。「行政権」と対立する「警察権」ではなく、「行政権」に追従する「警察権」の確立を図るのです。その警察機構が、右図の下の「行政警察」です。

「明治6年政変」によって、江藤新平の「法治主義」による「司法警察」システムは崩壊させられ、大久保利通による「権力主義」による「行政警察」システムが構築されるのです。下向きの矢印は、日本の近代警察の質と方向性が、この「明治6年政変」によって、大きく変容させられたことを示しています。

それぞれの図の中に、「司法警察」と「行政警察」を表記していますが、これは、「明治6年政変」の「司法警察」の中の、警察機能の分類項目です。近代中央集権国家にふさわしい「警察」機構を確立するためには、「司法警察」機能だけでなく、「行政警察」機能をもあわせもつ必要がありました。

ですから、「司法省」から「内務省」へ、「司法」から「行政」へ警察権を移管したあとも、「警察」の機能として、「司法警察」・「行政警察」の両面が必要だったのです。

近代日本の司法・警察に関する若干の資料をひもといて、無学歴・無資格の筆者が感じるのは、「司法警察」・「行政警察」概念の二重定義・多重定義に端を発する「誤認識」の多さです。「警察史」の専門家ですら、ときとして、両者を混同、分析と判断にミスを犯すことにつながっています。専門家ですらそうなのですから、無学歴・無資格の筆者が、どれだけ、客観的・論理的な分析を遂行することができるかこころもとないものがあります。

「明治6年政変」により、江藤新平と共に葬りさられた、司法省の描いた近代中央集権国家の「警察」にありかたについて考察してみましょう。次回、司法省下の「司法警察」と「行政