2006.04.10

こどもの目・・・

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第1項】こどもの目・・・

高校生のとき読んだニーチェの本の中に、「人間は、15歳の少年の熱心さ(精神)を取り戻したとき本当の大人になる。」という意味の言葉がありました。

どの本のどの箇所にあった言葉なのか、忘れて久しくなりますが、ときどき、ニーチェのこの言葉を思い出しては、本当の大人になろうとしているかどうか、自問自答します。

15歳というのは、ニーチェによると、人生の大切なことがらのすべてのことを知る時代であるといいます。そのときを境にして、人間は、徐々に、人生にとって大切なことを忘れて行ってしまう・・・、というのです。

昔、15歳は元服の年で、こどもの世界に別れを告げて、大人の世界に入る年です。すべてのこどもが、元服を境に、大人に相応しい言動を要求されます。もちろん、こどもから大人へ、世代の壁を乗り越えるとき、ひとそれぞれ、さまざまな課題に挑戦しなければならなくなります。乗り越えることができる壁もあれば、乗り越えることができず、破れ傷つき、その壁の前で呻吟させられる場合もあります。しかし、遅かれ早かれ、ひとは、こども時代に別れを告げ、大人として生きる季節を迎えなければなりません。

しかし、大人の世界は、決して理想的な世界ではなくて、むしろ、理想からほど遠い現実があふれています。

大人の世界は、限りなく、悪しき病的社会を内包しています。必要以上の過当競争と弱肉強食社会の現実・・・。いつのまにか、大人の世界に、浸潤され、身も心も、こどものころの純粋さを失ってしまいます。こども時代の理想を退け、現実の中でうまく立ち回って、他者や隣人を踏みつけてでも、自己の利益追究に走りがちになります。他者から批判されないために、他者を批判し続けるひともいます。

そのような中にあって、ニーチェがいう、人間が本当の大人になるために、「15歳の少年の熱心さ(精神)」を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか・・・。

ニーチェがいうように、「人生のすべてを知ることになる」15歳は、突然とやってくるわけではありません。15歳は、徐々にやってくるのです。14歳、13歳、12歳・・・。どこまでおりると、こどもが、自分の人生を真剣に考えてはじめている年齢に到達することができるのでしょうか・・・。

「こどもは、こどもだよ。そんな、人生のことなど考えている子はいないよ。」、筆者の知っている教師はそのようにいいます。本当にそうでしょうか・・・。

最近、青少年の刑事事件が多々報道されます。そして凶悪犯罪が徐々に低年齢化していると杞憂する声があふれています。少年事件の低年齢化は、15歳、14歳、13歳、12歳・・・と、低年齢化をたどる一方です。

少年犯罪事件が発生するつど、現代青少年のこころの闇が問題にされます。現代の大人が、犯罪を犯した青少年のこころの中を覗き込むと、真っ暗な闇・・・だというのです。その闇が視野に入るとき、彼らはただ恐れおののき、問題解決に自信を喪失するのです。そして、常識的な「対象」にその原因を押しつけていきます。「その子を育てた母親が悪い・・・」、「父親が厳し過ぎた・・・」、「教育現場の腐敗・・・」、「文部行政の失策・・・」。しかし、もともと責任転嫁するだけの批判からは、問題解決にいたる生産的な知恵はでてきません。

昔、東京で牧師になるための勉強をしていたとき、ある1冊の文庫本を読んだことがあります。それは、岡真史の『ぼくは12歳』。12歳で自殺してしまったその男の子の手記を読んでいて、ちいさな胸に、大人の世界の矛盾や破れをすべて引き受けて、考えに考え、悩みになやんでいる「大人の姿」を見るような思いがしました。筆者はそのときから、精神的な大人の芽は、15歳よりもっとずっと前に育ちはじめていると認識するようになりました。そして、「こども」に接するときも「こども」としてではなく「おとな」として、敬意を持って接するようになりました。

それと同時に、こどもは、そのこどもが生きている社会の歴史や状況を色濃く反映しているとも認識するようになりました。社会が病んでいるから、こどもの世界にも病んだおとなの世界が浸潤してくる・・・。社会が、自らの病巣を取り除くすべを知っていたとしたら、こどもたちの世界にもそれはおのずと伝わっていくことになるでしょう。現代の社会は、大人の精神の破れや躓きが、そのまま、こどもの世界に波及することを許しているのです。

「こども」は、いつの時代にも存在しています。「こども」は、すべてのひとが通過することになる人生の季節です。その季節をどのように過ごすことができるか、それは、その子の人生に大きな影響を与えます。現代の東京は、百数十年前の歳月をさかのぼって、近代を超えて、近世幕藩体制下の時代に舞い戻っているようなところがあります。一部の富める特権階級と、その他の絶対的多数の貧しい階級とに、二分化される傾向にあります。小泉首相は、ひとごとのように、まるで日本の国の首相ではないかのように、「格差も必要」といいます。あえて「格差は必要」といわなくても格差は現実にあるのだから、その格差の是正の姿勢こそ、日本の首相が首相として発言しなければならないことがらなのではないでしょうか・・・。日本の政治から見落とされた「こども」は、その生涯においてさまざまな悲惨を抱え込むことになります。小泉首相の他人事、ひとごとのような政策は、確実に将来のこどもたちの悲惨、ひいては日本の社会の悲惨につながってきます。

この文章の題は、こどもの目から見た「穢多非人等ノ称廃止」・・・という題をつけました。近世幕藩体制から近代中央集権国家へ、そして、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」以前から以後へ、時代が大きく変わる中、さまざまな問題に直面したのは、大人の「穢多非人」だけではありませんでした。当時の、「旧穢多」のこどもであった人々も、「旧穢多」の大人と同じように、太政官布告第448・449号公布と、明治新政府反対一揆にともなう「旧百姓」による「旧穢多村」襲撃により、いろいろなことを経験させられているのです。中には、命すら奪われたこどもも存在しているのです。

この『部落学序説』第4章第8節は、そのような「こども」の視点・視角・視座に立って、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」と、それにともなう政治的混乱に注目してみたいと思うのです。

もちろん、筆者の手元には、幕末から明治初期の時代を生きていた「旧穢多」の末裔であった「こども」の書いた手記や資料が存在している訳ではありません。日本の歴史学会には、「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた」というのは、『エゾの歴史 北の人々と「日本」』の著者・海保嶺夫ですが、その当時の「こども」が、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」や、明治新政府反対一揆に付随して発生した「旧穢多村」襲撃殺害事件について、何の記録も残していないという理由で、その当時の「こども」とその時代との関わりを否定することは許されないのです。

「おとな」が社会から切り捨てられると、同時に、「こども」も社会から切り捨てられるのです。

小泉首相は、日本の大企業を救うために、国家財政から膨大な資金を銀行に注入し、銀行は自らを守ることに汲々として中小企業にまわるべき資金をストップし、多くの中小企業を廃業・倒産に追い込みました。そのようにして切り捨てられていった「おとな」たちの陰に、「こども」たちの陰が見え隠れしています。

明治4年の、「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「役人」(公務員)が、国内問題・外交問題の都合によってリストラという切り捨て政策を実施されたしるしでした。それが、どのような事態を引き起こしていったのか・・・、それは、近代日本が実施した巨大な実験でした。

現代社会において、もし、同じようなこと(警察の解体・リストラ・民営化)を政府が実施したら、同じような差別を再生産することができるでしょう。市民にやさしいおまわりさんならともかく、日頃から威張って市民を威圧しているおまわりさんは、「元おまわり」になり、呼び捨てにされ、やがては、社会の下積みへと追いやられてしまうでしょう。筆者は、日本の社会の安定を考えるとき、「警察機構」の解体、リストラ、民営化はあってはならないことだと思います。もし、それを実施しようとするひとがいるなら、筆者はそのひとに「売国奴」とうレッテルを貼るようになるかもしれません。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告によって、ほとんどの「旧穢多」は、「新しき綿服」を身にまとい、腰には「博多おり」の帯を締め、左腰には「黄鞘の脇差」し、右腰には、「黒緒巻柄に黒総」のついた「鉄刀」(十手のこと)を差した、「旧穢多」の晴れ姿(喜田川守貞著『近世風俗志(1)』(岩波文庫))を身にまとう機会を永遠に失うことになったのです(近代警察に吸収された「旧穢多」も少なくありませんが・・・)。旧身分あらため、「新百姓」となった「旧穢多」の「こども」たちは、リストラされ、その職を奪われた「おとな」と同じ運命を背負わされることになるのです。

降る雪や明治は遠くなりにけり・・・、という中村草田男の句ではありませんが、もう誰も、その当時の「こども」について、第一人称で語ることができるひとはいません。被差別部落出身者ですら、遠く、忘却のかなたに追いやってしまっていることでしょう。・・・それでは、その時代の「旧穢多」の「こども」たちの遭遇した時代を明らかにしようと思えば、私たちは、どうしたらいいのでしょうか。かすかに残された史料をもとに、「想像力」を働かせ、これまでの「部落学」の研究成果を踏まえて再構成する以外に他に方法はなさそうです。

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2006.04.11

小学校炎上・・・

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第2項】小学校炎上・・・

上杉聡は、その論文《新段階をむかえた「解放令」反対一揆研究》(『明治初年解放令反対一揆』明石書店)の中で、明治6年5月に、岡山(北条県)、明治6年6月に、福岡(福岡県)、香川(名東県)において、「部落解放反対」を叫ぶ「旧百姓」によって、小学校が「放火」、「焼毀」されたことを指摘しています。

小学校は、こどもにとって、欠かすことができない生活の場所ですが、なぜ、明治4~6年の、上杉が指摘する「部落解放反対」一揆において、小学校が多数、襲撃され、放火、焼毀されなければならなかったのでしょうか。

筆者は、関連文書に目を通してみて思うのですが、「部落解放反対騒擾」(上杉の言葉)と、常軌を逸した小学校の襲撃、放火、焼毀事件との直接的な連関に、かなり疑問の思いを持ちます。そもそも、上記3つの一揆を、「部落解放反対騒擾」として認識していいのかどうか疑問があります。上記3つの一揆にともなう、小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、「部落解放反対」というよりは、「明治新政府反対」の文脈の中で生じたできごとではないかと思っています。

小学校炎上・・・。

筆者はそういう場面を見たことはありませんが、それに類した経験があります。それは、筆者が、小学校に入学する前の年のことです。筆者が入学することになっていた小学校、琴浦町立琴浦西小学校が、火事で焼失するというできごとがありました。

夜、消防のサイレンがけたたましくなり、町内の消防団も出動していきました。筆者がすんでいるところから小学校まで2キロほど離れていましたが、暗い夜空の中、小学校がある北東の方角が明るくなり、そちらの方から、火の粉が飛んでくるのです。

町内のおじさんもおばさんも、みんな、通りに出て、小学校のある方の空を見上げています。近所のおばさんは、「あなたたちが入学する小学校が燃えているんよ・・・」といいます。小学生の女の子たちは、「おばさん、ほんまか? うちらの小学校燃えてなくなるんか?」といったり、「うち、そんなのいややわ」と泣きだす子も出てきます。

「いつまでたっても消えんな・・・。若いの、ちょっといって見てきてくれんか・・・」というおじいさんの声に促されて、数人の男のひとたちが駆け出しました。

「小学校が火事で燃えてしまったら、校長先生も責任とって辞めんといかんようになるな・・・」とだれかがぽつり。すると、おばさんのひとりが、「そら、気のどくやな。みんなで、署名集めて、校長先生辞めんでええようにしてあげよ・・・」といいます。「坂田校長先生、みんなのために一生懸命働いてくれてるからな・・・」ということで、飛んでくる火の粉を見ながら、小学校の校長先生が引き続き校長にとどまることができるように嘆願運動の相談がはじまってしまいました。そのせいかどうか知りませんが、筆者の小学校6年間、校長はずっと、坂田校長先生でした。小学校の入学式の坂田校長の訓示は忘れてしまいましたが、卒業式の訓示はいまだに覚えています。60歳に手がとどこうという年齢になっても、その訓示を忘れないでいます。坂田校長先生は、余程みんなに好かれていたのでしょう。筆者は、その火事で、誰よりも先に校長先生の名前を覚えました。

筆者は、他の子供たちと一緒に、焼け落ちた小学校を見に行ったことはありませんが、翌年、入学するときには、もう、琴浦西小学校は、新しい校舎になっていました。

小学校炎上・・・。

その言葉を目にするとき、筆者の脳裏を去来するのは、こどものころに体験した、小学校が焼けた事件です。上杉聡の「明治初年の部落解放反対騒擾年表」の小学校の襲撃、放火、焼毀事件を見ても、火事の発生件数までは記されていません。

その事件はどのようなものであったのか、知ろうとしても、筆者のてもとには十分なまとまった資料があるわけではありません。しかたなく、手元にある資料の中から、関連記事を抽出して総合的に判断する以外に方法はありません。

さいわい、岩波近代思想大系『民衆運動』の中に、「讃岐の徴兵反対一揆」に関する史料が集録されていました。この史料は、明治6年6月に起こった「讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で、徴兵告諭のなかに「血税」という文字があるのに疑惑をいだき、暴動状態になった」事件を書き記したものです。

この史料に記載された、小学校、襲撃、放火、焼毀事件を拾い集めてみましょう。

「明治6年・・・6月26日午後10時・・・72区73区の・・・小学校・・・を焚き・・・27日午前6時、86区小学校を放火し・・・同8時・・・和田浜・・・学校・・・を放火す。同時、85区姫浜小学校・・・を焚き、・・・午後2時、78区・・・学校・・・放火、類焼合わせて18戸に及ぶ。同2時、74区三野郡新名村・・・学校・・・を焚き、・・・箱浦へ移り・・・該所学校(香蔵寺)を焚く・・・午後4時、栗島へ渡り・・・学校(梵音寺)を焚く。・・・77区詫間村へ・・・同6時、70区・・・学校を焚き・・・夜に入て56区・・・学校一時に放火し・・・所在放火炎焔天を焦がし・・・那珂郡に於て放火す。・・・学校・・・」。

小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、翌日も続きます。記録によると、この一揆で、実に48の小学校が、襲撃、放火、焼毀されたのです。上杉聡のいう、「部落解放反対騒擾」は、想像を絶する大惨事を引き起こしていたのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」は、小学校の襲撃、放火、焼毀にとどまりません。区の事務所・邏卒屯所・戸長家宅・村吏家宅・祠官家宅・士族家宅・・・等々、計595箇所が、一揆勢の「旧百姓」によって、襲撃・放火・破毀・類焼されているのです(放火504箇所、破毀23箇所、類焼72箇所)。わずか数日の間に、香川県内に、「新政府反対一揆のすさまじい勢い」によって、明治新政府の代行機関としての地方行政関連機関が一揆打ち壊しの対象になっていったのです。

最近の部落史研究では、これらの一揆を、「新政府反対一揆」としてではなく、「部落解放反対一揆」あるいは「部落解放反対騒擾」として認識する傾向がありますが、これら、48校の小学校襲撃事件と、「部落解放反対」とは、どのような関係があるというのでしょうか・・・。筆者は、両者を結びつけるのは非常に難しいと考えます。「部落解放反対」のために、「旧百姓」が、できたばかりの小学校48校を自らの手で襲撃、放火、焼毀したとは、とても考えることはできないのです。

岩波近代思想大系『民衆運動』の解説者のひとり、深谷克己は、その論文《世直し一揆と新政府反対一揆》の中で、近世幕藩体制下の百姓一揆と、明治に入ってからの新政府反対一揆を分析して、両者はその性質を著しく異にするといいます。深谷は、近世の百姓一揆をこのように説明します。「近世の百姓一揆にともなう打ちこわしの作法は、微塵に打ち壊すということであって、その現場に残された微塵ぶりこそが民衆の怒りの度合いの表現方法なのである。百姓一揆でも焼討ちを呼号することはあるが、それはあくまでも脅かしとしての、それだけに抜かれざる伝家の宝刀としての圧力を持ち続けてきた。」といいます。そして、深谷は、「明治にはいると、それは威嚇の手段から、実行される手段になった」というのです。

深谷がいう、「威嚇の手段」から「実行される手段」への移行は、近世幕藩体制下の「旧百姓」より、近代中央集権国家の「平民」の方が、国家権力による賦役と収奪により曝されたことを意味します。「新政府反対一揆」は、明治新政府に抱いていた夢が打ち破られ、幻想でしかなかったことを知った「旧百姓」がその存在をかけて、明治新政府に抗議したできごとだったのです。明治新政府にとっても、大きな政治的挫折であった、これらのできごとは、事実に反して、歴史上過少評価されていきます。明治4年から6年の新政府反対一揆を、「部落解放反対一揆」として矮小化してしまうことは、本当の歴史を喪失してしまうことに結果することになるでしょう。すべての原因を負うことになる「旧穢多」にとって、はなはだ迷惑であるだけでなく、「旧百姓」にっとも極めて迷惑な話になります。明治新政府の施策に否をつきつけた「旧百姓」の権力との戦い(明治新政府の末端機関としての地方行政に対する戦い)が闇から闇に葬りさられてしまうことにつながりますから・・・。

明治6年6月、讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で起こった、徴兵告諭に端を発する、小学校48校の襲撃、放火、焼毀事件の本当の意味は何だったのでしょうか。

深谷はこのように綴ります。「この一揆は、小学校48を焼討ちしている。「学校を厭ひ」と当時の記録に書かれたが、それ以前の民衆社会はすでに読み書き算盤の習得をけっして拒まない状態になっていた。しかし、新政の学校運営は住民の負担が大きく、常時子供を学校に通わせ、それも男女すべての子供を通わせるというもので、幕末の学習の仕方とはなお距離が大きく、きっかけがあれば破壊をともなう反発を引き出す」可能性があったといいます。深谷は、一揆に参加した「旧百姓」は、小学校運営に伴う「経済的負担」に大きな原因があるというのです。

しかし、深谷の説は、即、矛盾を抱え込むことになります。それほど、経済的負担が重すぎて、文字通り、「旧百姓」が心血を注いで、自分たちの手で作り上げた小学校なら、なぜ、その経済的犠牲を反古にするように、自らの手で放火し、焼毀に及んだのでしょうか。近世幕藩体制下の百姓一揆のように、「微塵に打ちこわした」のではありません。放火し、焼毀し、小学校そのものの存在を否定しようとしたのです。深谷の「学校運営費の住民の負担の重さ」が原因とする説明では、ことがらの本質を説明しきっているとは言えません。

『部落学序説』の筆者である私は、この場面においても、「常民・非常民」理論を適用します。

讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」たちは、「徴兵告諭」が公布さあれたことによって、明治の新しい時代に入って、自分たちが「平民」とされた本当の意味を知ることになったのです。近世幕藩体制下の「旧百姓」は、近世だけでなく、中世末期においても、人を殺戮する武器を返上して、軍事・警察の賦役から解放され、「農・工・商」の民事にのみ関与する存在でした。徳川300年間において、軍事・警察に関与することのない「常の民」・「常・民」・「常民」として生き続けてきたのです。ところが、明治新政府は、王政復古を約束したにもかかわらず、次から次へと、近代化政策・欧米化政策を打ち出します。日本の美風である「常民・非常民」の別を廃棄し、「国民皆兵」の制を実施し、すべての成人男性を「非常民」化しようとします。なぜ、「旧百姓」が「旧武士」(軍人)や「旧穢多」(警察)のように「非常・民」とならなければならないのか・・・、その激しい抵抗が、「讃岐の徴兵反対一揆」に発展したのではないかと思います。

その一揆の中で、「旧武士」、「旧穢多」、「旧村役人」等、「非常・民」の家宅が襲撃されているのです。どこをとっても、明治6年6月の讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」による一揆は、「新政府反対一揆」・「徴兵反対一揆」であって、明治新政府に対する「旧百姓」による激しい抵抗なのです。いたずらに、「部落解放反対一揆」として矮小化すべきではありません。明治6年6月の讃岐の一揆は、たとえ、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出されなかったとしても、必然的に一揆として発展せざるを得なかったと推測せざるを得ないからです。

明治新政府が出した「学制」反対の風潮は、なぜ短期間に醸しだされていったのでしょうか(次回、検証します)。

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2006.04.12

明治5年学制頒布当時の『被仰出書』

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第3項】明治5年学制頒布当時の『被仰出書』


『部落学序説』の重要な資料にひとつに、山川菊枝著『わが住む村』(岩波文庫)があります。

この書は、山川菊枝が、日本の民俗学の父である柳田邦男から、当時山川が住んでいた鎌倉郡村岡村のことを書いてみたらすすめられたことに端を発します。いわば、山川菊枝は、民俗学者・柳田邦男の弟子であると言ってもよいでしょう。

山川は、柳田邦男のすすめに従って、「眼前の事物つまり現象を取っ掛かりとして、だんだんにその奥にひそむ原理を解きあかしてゆくという方法」(狩野政直)を採用します。山川は、「私は知る知らぬを問わず、誰でも彼でも勝手に先生に見立てて、知りたいこと、分からないことは片はしから教わることにしました」といいますが、「聞き取り調査」を徹底して行います。

狩野政直は、『わが住む村』を評して、このようにいいます。「著者の住む村岡村、文中の表現を借りれば、「昔の東海道の南側の村で、藤沢の宿場を出はずれたところ、松並木を2里足らず東へ行けば戸塚」という場所に、カメラを据えっぱなしにして、遠い過去から現在へと歴史を、いわば接写で撮った作品となっている」。

筆者は、山川菊枝の「民俗学研究法」から、大きな影響を受けています。山川菊枝も、柳田邦男の研究にならって、「常民」を研究します。しかし、山川自身は、『部落学序説』でいう「常・民」ではなく、「非常・民」に属します。山川は、「非常・民」でありながら、その研究方法を駆使して、「常・民」の世界を研究していきます。つまり、山川は、「常・民」・「非常・民」の両方の立場を視野にいれながら、民俗学的調査・執筆をすることができたわけで、「常・民」・「非常・民」を考察する上で、その研究は、筆者にとっては重要な資料のひとつです。

明治5年8月の学制頒布が出されたあと、各地で急速に小学校が建設されていきます。明治6年6月の「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、一揆勢によって、襲撃・放火・破毀された小学校は48に及びますが、1年もたたない間に、それらの小学校が設立されたと見ることができます。

山川菊枝が聞き取り調査をした鎌倉郡村岡村での、小学校建設はどのようにすすめられたのでしょうか。山川は、村岡村では、明治5年8月の学制頒布の布告が出されたあとも、近世幕藩体制下から継承されてきた「寺子屋」が続けられていたといいます。村岡村に、「ささやかな小学校ができる」のは「明治10年」のことです。しかも、開校時、生徒となったのは50人程度。山川は、「現在の土着戸数と就学年齢の児童との割合から当時を推定すると、就学したものは約1割」であったといいます。『被仰出書』は、「男女の別なく」就学をすすめているが、女児は、「大家の娘ばかりでごく少数」であったといいます。「旧穢多村」だけでなく、「旧百姓」の小学校就学も極めて低調であったようです。

『被仰出書』とは、何だったのでしょう。明治政府は、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために・・・公布した、学校制度に関する最初の総合的な規定」である「学制」(公布当初は全109章から構成、公布直後から改正・追加が繰り返され最終的には213章にまとめられる)の「序文」として作成されたもので、「学制序文」とも言われます。

本当なら、『学制』にすべて目を通してから言及しなければならないのでしょうが、時間的ゆとりがありませんので、筆者の手元にある資料だけで論述していきます。この『被仰出書』において、小学校建設の目的はどのように認識されているのでしょうか。『被仰出書』は、「学校ノ設アル所以」として、「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル」ために「学」が必要であることと説いています。「学問ハ身ヲ立ルノ財本共云フベキ者ニシテ、人タル者誰カ学バズシテ可ナランヤ」といい、家が破産し、飢餓に陥り、浮浪のみとなり、身を持ち崩すのは、「畢竟不学ヨリシテカカル過チヲ生ズルナリ」と断定します。

要するに、『被仰出書』のいわんとすることは、「学制」は、日本人民の自立のための国の支援である・・・、ということです。明治政府の「学制」制定の目的は、ひとえに日本人民のためにあるというのです。

『被仰出書』の中核は、次の文章です。「学制ヲ定メ、追々教則ヲモ改正シ布告ニ及ブベキニツキ、自今一般ノ人民(華士族農工商及婦女子)、必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」。明治政府は、地方行政に対して、「辺隅小民ニ至ル迄洩レザル様便宜」を図ることを命じています。

明治政府による小学校建設の目的と、小学校建設の時間的猶予を考慮するとき、「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、小学校48校が襲撃・放火・破毀した「旧百姓」の側の理由は、理解できないものになってしまいます。「血税」という文字の誤解だけでなく、小学校襲撃事件に関しても、明治政府の方針を誤解した「旧百姓」の側の落ち度によって、小学校襲撃事件が発生したことになります。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、明治政府の近代化・欧米化政策に対する「旧百姓」の反対を主な理由にするとしても、讃岐の「旧百姓」が、自分たちの費用で、一端、小学校を建設したあと、襲撃・放火・破毀した、納得できる理由とはなりません。明治政府の、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために」学制に反対したというなら、讃岐の「旧百姓」は、小学校を建設すること、それ自体に反対行動をとったのではないかと思うのです。

筆者は、明治政府の『被仰出書』の表向きの意図とは別に、明治政府の隠された意図が、讃岐の「旧百姓」にしられるところとなったことが、「旧百姓」の心血を注いで作った小学校48校の襲撃・放火・破毀に「旧百姓」を走らせたのではないかと思います。

明治政府の『被仰出書』の背後にある、隠された意図について、少しく検証を重ねてみましょう。

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2006.04.18

明治5年学制の隠された意図 その1

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その1

『部落学序説』は、「被差別部落」の人々がその運動の中で「差別者の立場」といわれる「旧百姓」と視点・視角・視座から執筆されています。

「差別者の立場」といっても、「被差別部落」の人々をいたずらに差別しておとしめる(たとえば、2ちゃんねる上で部落問題を揶揄して楽しんでいる人々の)立場という意味ではありません。「被差別部落」の部落解放運動の中で、個々の中身を問わずに「被差別者」ではないから「差別者」であると問答無用で断定されている側に身をおいてこの『部落学序説』を執筆しているという意味です。

兵庫県神戸市で部落解放運動に従事されている田所蛙治氏は、筆者の『部落学序説』の内容をほぼ「了解」してくださっておられるようですが、筆者は、田所蛙治氏のような、異なる立場の見解を包み込むことができるようなひとは、非常にめずらしいと思っています。そのひとつの理由に、田所蛙治氏の先祖が、『部落学序説』でいう、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の末裔であるという理由だけでなく、「穢多」の末裔としての自己理解・歴史理解に極めて精神的な柔軟性を持っておられることがあげられます。

筆者が所属している教団の教職・信徒の多くは、「部落史」の一般常識に深くとらわれていて、そこから1歩もでようとはしません。部落差別問題について、2、3冊の関連書籍を読んで、部落差別問題をすべて知り尽くしているかのような、錯覚に陥っておられる場合がほとんどなので、その「常識」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に汚染されていると筆者から指摘されると、それを放棄すると、彼らは、依拠するものが何もなくなるので、「一般的に認められている」、「歴史家の○○も認めている。門外漢のあなたより、有名で世の中にも認められている○○の見解の方を信じる」と、一般説や通説、場合によっては俗説にしがみつく傾向があります。

要するに、部落史に関しては、精神的自由とか、学問の自由とか・・・、そういうことがらには無関係に、主体的に、責任を持って、部落問題に関与するということを避けるために、一般説・通説に従っているに過ぎません。

これまで、『部落学序説』で検証してきた範囲では、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の「人種起源説」を証明するような史料には遭遇しませんでした。「穢多」は、「日本人」と異なる人種ではなく、まさに「日本人」的な「日本人」であると認めざるを得ない状況にあることがはっきりしてきました。

しかし、現在の部落史研究においては、もう一度、被差別部落の「人種起源説」が復活するような傾向がみられます。網野善彦の論文にもその傾向がみられます。「人種起源説」は、部落差別を、日本の歴史の中に、時代を超えて存続させるのに有力な理論的武器になります。「人種」というのは、時代と共に変わることのない不変の属性だからです。「部落差別」が「人種」による差別だとすると、「部落差別」は、その「人種」が「人種」である限り、永遠に、時代を超えて存続することになります。つまり、同和対策事業は、「人種」が存続する限り、時代を超えて継続する必要が出てきます(観念的には、「人種」差別がなくなるとき、「部落差別」もなくなりますが・・・)。

『部落学序説』の筆者としては、「人種起源説」はもっと後の時代のことであると思っています。明治30年代後半以降、「特殊部落民」という官製用語が一般化される時代と平行して作り出された、比較的新しい理論であると思っています。「旧穢多」の末裔が、近代中央集権国家・明治天皇制国家によって「棄民」扱いされることによって、事後処理として、政府の「棄民」政策を合理化し、理論付けするために考え出されたのが「人種起源説」であると思っています。

明治新政府反対一揆は、王政復古を唱えていた明治政府が、朝令暮改よろしく、王政復古を破棄し、返って、近代日本国家の政治・社会・文化を近代化・欧米化しようとしたところに端を発します。

明治4年9月、「服制改革の詔」によって、明治天皇は、「風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキに随」うことをよしとします。それまでの皇室の伝統であった「衣冠ノ制」を「中古唐制ニ模倣」した「軟弱ノ風」と強烈に批判します。そして、明治天皇は、「朕はなはだこれを歎く」というのです。そして、明治天皇は、「祖宗以来尚武ノ国体」に相応しい、西洋風の軍服を身にまとって衆庶の前に姿をあらわすというのです。

明治天皇が、人民の前に、軍服を身にまとった「元帥」として姿をあらわしたのは、明治5年5月23日のことでした。

天皇は、もともと「日本人」でしたが、時勢にあわせて、「日本人」に相応しい様相ではなく、近代化・欧米化された装いでその姿をあらわすのです。明治新政府反対一揆は、そのうちに、天皇の著しい、人民にとっては信じがたい変節に対する抗議が含まれていたと思われます。明治新政府反対一揆の打ちこわし、攻撃対象になった、明治新政府の仮想機関となった、当時の地方行政機関に対しても同じことがいえます。「小学校襲撃、放火、棄毀事件」も、「旧穢多村襲撃事件」も、明治天皇や明治政府に抱いていたのと同じ理由で襲撃の対象にされたのです。

民衆は、「旧穢多村」と「旧穢多」が、近代化・欧米化することを阻止しようとしたのではないでしょうか。適切なことばかどうかはわかりませんが、「日本人なれば日本人たれ」と、「旧穢多」に詰め寄ったのではないでしょうか・・・。明治政府が遂行しようとしている司法・警察の近代化・欧米化された「非常民」より、日本古来の司法・警察である「非常民」、昔の村落においては「旧穢多」の方を好ましいと考えていたのではないでしょうか・・・。

明治新政府反対一揆において、通称、「部落解放令反対一揆」において、「旧穢多」に対する攻撃理由として、「旧穢多-異人種説」など、入り込む隙間などつゆもなかったのです。すでに記述してきたように、近世幕藩体制下の司法・警察は、近代初期の司法・警察ともに、「日本的法体系」と「日本的法制度」に依拠した極めて「日本的」なシステムでしかなかったのです。そのシステムの担い手であった、「非常民」のヒエラルヒーの最下層である「旧穢多・非人」層も、極めて日本的な存在だったのです。

その「旧穢多」は、やがて、「旧平民」によって、「新平民」として排除されるようになっていきます。近代日本の歴史の中で、「旧穢多」の末裔が、「旧平民」から「新平民」として区別・排除されるようになる現場は、明治初期の「教育」の現場でした。とくに、学制によって、全国津々浦々に建設されていった小学校という教育現場であったと思われます。明治初期の「小学校」という教育現場で、「新平民」の末裔を「新平民」として排除する施策が採用されていったのです。その教育に従事した小学校教師の、当時のカリキュラムに基づく偏見と予見が、近代差別思想(部落差別)の温床を形づくっていったのです。

当時のこどもが、「小学校」でどのような教育を受けることになったのか・・・。

その当時の「旧平民」は、明治新政府の学制の『被仰出書』に基づいて、自分たちの町や村に、自分たちのために、自分たちの手で、小学校を喜々として作っていったにもかかわらず、なぜ、作ってまもない小学校を、自分たちの手で、襲撃、放火、棄毀しなければならなかたのでしょうか。

小学校の中で行われている教育の実態をみた「旧平民」は、思いもよらぬ教育現場の実態に、小学校教育の隠された意図に激怒して、血税反対一揆の当然の帰結として、小学校の襲撃、放火、棄毀に走ったのではないかと思います。問題になった教科は「国語」です。

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2006.04.20

明治5年学制の隠された意図 その2

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その2

明治政府の「学制」制定の動きは、戊辰戦争終結と共にはじまっているといっても過言ではありません。

明治元年12月、長州萩藩士・木戸孝允は、近代中央集権国家の「兵制」を視野にいれつつ、近代中央集権国家に相応しい「学制」を提言していきます。

木戸は、戊辰戦争終結後の「一大急務」として、「一般人民」を近代中央集権国家の国民に相応しい存在足らしめんために、先進諸外国の教育制度を取り入れ、「全国に学校を振興」し、「一般人民」の教育の機会を提供することを建議するのです。筆者は、木戸の「兵制」・「学制」に一貫する精神は、「国の為に尽くすの心」の育成にあったのではないかと思っています。

木戸は、「一般の人民、無識・貧弱の境を離るあたわざるときは王政維新の美名もとうてい空名に属す」と言い切るのです。もし、明治政府が、人民を、近代中央集権国家の国民に育成する教育に失敗したとすると、それは明治維新そのものに失敗したことになるというのです。

「学制」を考えるに際して、「兵制」をあわせて考えるのは、木戸孝允だけでなく、明治2年1月、当時兵庫県知事であった伊藤博文についても同じでした。伊藤は、「版籍奉還後の国是(国の施政方針)として構想」した『国是綱目』において、「万民ヲ視ルニ上下ノ別ヲ以テ軽重ス可ラズ」として、近世幕藩体制下のすべての身分(役務と家職)を解放し、住居移転の自由と職業選択の自由を保障し、「全国ノ人民ヲシテ世界万国ノ学術ニ達セシメ、天然ノ智識ヲ拡充セイム可シ」というのです。人民に、「有用ノ学業」を提供すべきであると主張するのです。

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、明治5年2月から明治9年11月までに執筆された17編の小冊子の合本のことであって、その内容は、すでに、明治政府の「学制」論議の中で、趣々論議されてきた内容なのです。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」ということばは、福沢諭吉発案のことばではなく、同種のことばは、長州藩の枝藩である岩国藩の藩士の教育理念のなかにも登場してきます。福沢自身、「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず<と言えり>」と、そういう説があると言っているのですから、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を福沢諭吉のことばとして生徒に教えるのは好ましいことではありません。

筆者は、伊藤博文と福沢諭吉の「教育理論」を比較検証した結果、伊藤博文のそれに深い共感を覚えると共に、逆に、福沢諭吉のそれに限りない嫌悪感をもたざるを得ないのです。

福沢は、「無学」ということについて、著しい偏見を振りまきます。「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と断言するのです。「凡そ世のなかに無知文盲も民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず」。福沢諭吉の軽佻浮薄な論法は、明治政府の教育行政の中で迷惑がられ、時として、否定される場面もあるのです。

福沢諭吉は、やがて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」、人間みな同じである、富める者も貧しき者もみな同じ人間である、そうなら、富める者の子弟を集めて教育してどこが悪い・・・、と居直って、エリート教育を開始するのです。福沢は、教育も一種の「事業」とみなして、「元来学問教育も一種の商売品」であるというのです。「商売品」だから、「其品格に上下の等差ある可きは誠に当然」として、教育に、「上等・中等・下等」という値段付けをするのです。福沢は、「慶応義塾」という「上等の教育」を購入するものには、「学歴」を保障し、それを購入することができないものに対しては、「愚民」というレッテルを貼って省みないのです。福沢は、明治20年頃には、当時の国立大学の民営化を主張し、「高等教育を私学の手に委ねる」ことを主張するようになっていったのです。福沢は、高等教育の機会を、「上等の教育」を相応の値段で購入することができる「社会の「富裕層」に限定的に与えよう」(天野郁夫著『学歴の社会史 教育の日本の近代』平凡社ライブラリー)と画策するのです。

一部の富裕層に対する「エリート教育」ではなく、日本のすべての人民に対する「一般教育」こそ、近代中央集権国家建設の最優先課題であると主張した木戸孝允や伊藤博文の見解・施策とは似ても似つかぬ、下劣・通俗極まりないものだったのです。明治25年の慶応義塾の授業料は、「年額30円」、「東京で下宿生活をする費用」を加算すると、最低でも、年間130~140円が必要であったといいます。月額10円以上必要になります。明治24年の警察官の初任給は8円。明治19年の小学校教員の初任給は5円。消防士は臨時職員で出場一回につき10銭。地方の公務員(教育職・警察職)の収入では、子弟に「上等の教育」を買ってやることなど不可能だったでしょう。福沢は、「上等の教育」を「銭」で購入することのできない人々に、「憐れむべくまた悪むべきもの」・「愚民」として蔑視のまなざしを向けていきます。「無学なる者(愚民)は貧人となり下人となるなり」という見解を強固にしていきます。

明治新政府の打ち出した「学制」を、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で評価することは、歴史の事実をまったく無視した虚妄であるとしか思えません。

高校の参考書に、福沢諭吉の思想を、「天賦人権思想に基づいたもの」という説明がなされたり、「1872(明治5)年の学制の「被仰出書」がどのような理念を打ち出しているかを読み取ってもらいたい。そして、その立身出世主義・実力主義・平等主義の基礎になったのが福沢諭吉の思想であることに注目したい。」(『詳説日本史史料集』山川出版社)という説明がなされたりしているのは、歴史の事実に著しく反するように思われます。「被仰出書」は、「教育は銭なり」という、教育者としてあるまじき妄語に帰結する福沢諭吉ではなく、真剣に、日本の近代中央集権国家に相応しい教育・学制を提唱した、木戸孝允・福沢諭吉・箕作麟祥・西潟訥・内田正雄・瓜生寅・辻新次・河津祐之等によって形つくられていったのです。

「兵制」確立のために「学制」の確立は避けて通ることはできませんでした。近世幕藩体制下の諸藩の軍事力のように、諸藩で通用するくにのことばだけでは不十分でした。3府41県に渡って、それぞれのくにの言葉が共存している状態では、近代中央集権国家にふさわしい行政組織や軍事・警察組織をつくりあげることは不可能でした。3府41県すべてに渡って通用する「通語」(西潟訥著「巡視功程説諭」岩波日本近代思想大系)の導入が必要でした。「学制」は、その背後に、小学校教育によって日本全国に「通語」を普遍化させ、「通語」をもって、統一的人民支配の装置にしようとしたのです。小学校の教育でなされる「通語」の教育は、「国民皆兵」による軍人養成の重要な機関でもあったのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、48にのぼる建設されたばかりの小学校を襲撃、放火、棄毀に及んだのは、讃岐の「旧百姓」が、「学制」の背後に、「国民皆兵」のための教育装置としての小学校の存在に気づいたからに他なりません。「讃岐の徴兵反対一揆」は、讃岐の懸命な「旧百姓」の懸命な判断、抗議行動だったのです。

日本の全国津々浦々の小学校で展開された「通語」の教育・・・、それは、やがて、「旧百姓」の上だけでなく、「新百姓」・「新平民」になった「旧穢多」の上にも、深刻な影響をもたらすことになるのです。(続)

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明治5年学制の隠された意図 その3

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その3

明治新政府は、維新後の日本に、近代中央集権国家を確立するために、短期間の間にさまざまな施策を打ちだします。

その施策は、岩波の日本近代思想体系の各巻の表題にもあらわれていますように、「天皇制、官僚制、警察、軍隊、宗教、教育、法制度、経済、憲法制定、学問、言論、新聞、出版、歴史学、科学、翻訳、芸術、都市計画、村制度、民衆支配、風俗、性の管理」等、多分野に及びます。明治新政府の官僚・役人総動員したとしても、複雑多岐に渡る国政の多分野に、日本の近代中央集権国家に相応しい施策を計画し実施していくことは、多くの困難に直面したであろうことは想像に難くありません。

それぞれの分野、単独で、立案すればこと足りるわけではありません。統一された近代中央集権国家に適う施策にするためには、そのほかの関連する施策との綿密な摺り合わせが必要になります。明治新政府がそのためにとった政治的手法は、PLAN・DO・SEEではないかと思います。

PLAN・DO・SEE というのは、情報処理の世界では、情報処理システム構築の技法として採用されているもので、その作業の効率化を図るため、PLAN・DO・SEE、つまり、計画・実行・評価が実施されます。

明治新政府の個々の施策を批判・検証するとき、日本の歴史学者の多くは、「DO」のみに関心を集中させる傾向があります。しかし、『部落学序説』の、無学歴・無資格の筆者は、明治政府がどのような施策を実施したかという「DO」だけでなく、「DO」がどのような意図のもとにどのような設計・「PLAN」をもって実施され、実施されたあとは、どのように批判検証・「SEE」がなされたか・・・、という一連の流れの中に明治政府の「DO」を捉えようとします。

明治5年の「学制」実施に際して、明治政府が具体的に遂行した「学制」の「DO」を見るだけでなく、「DO」の背後にある「PLAN」を明らかにしようとして、木戸孝允の《普通教育の振興につき建言書案》や、伊藤博文の《国是綱目》をとりあげました(岩波日本近代思想大系『教育の体系』に集録されているのでだれでも読むことができます)。

「DO」の背後にある「PLAN」を見たからには、「DO」の後に続く「SEE」を見ないほうはありません。明治政府が、明治5年に「学制」頒布を実施したあと、その「DO」をどのように「SEE」したのか、明治政府中央からは、文部省の要職にあった西潟訥が、東北・北陸諸県の巡回視察をもとに、教育のあり方についての考え方を述べた文書」《巡視巧程説諭》と、地方からは、明治5年から13年まで、愛媛県の学事(学区取締)に従事していた内藤素行の文章をとりあげてみましょう。

『教育の体系』の解説者・山住正己によると、《巡視巧程説諭》の著者・西潟訥は、「新潟出身の官僚。1838~1915。明治4年文部省に出仕、学制制定準備にも加わる。5年文部省少丞、6年文部中督学。4年に大隈重信に宛てて、「天下ノ大計ハ先ズ学校ヲ設ルニアルノ説」を建白、「富国開明其施多端ナリト雖モ、遂ニ一学ニ帰ス」と述べるなど、一貫して普通教育の重要性を説いた」人物だそうです。西潟訥は、「欧米の教育論・教育事情を紹介、啓蒙的役割」を果たしたといいます。

「巡視巧程」というのは、山住によると、「学制試行後、各地の学事の進渉状況を巡視し、その結果をまとめた報告書」のことで、文部省要職である西潟訥がこの報告書を読んで批評した記録が、《巡視巧程説諭》なのです。

西潟訥の《巡視巧程説諭》は、まさに明治政府の、明治5年の「学制」頒布のPLAN・DO・SEE(計画・実行・評価)のSEE(評価)にあたるもので、西潟訥の「評価」の仕方から逆に辿っていきますと、明治5年「学制」の PLAN(計画)・DO(実行)がより明確になってくると思われます。DO(実行)段階で伏されていたことがらが、PLAN(計画)とSEE(評価)をあわせ検討することで、その姿が明らかになる可能性を秘めています。

西潟は、「人皆小学ノ教育ヲ受クベキ事」という文章の中で、国語教育の重要性を説いています。中央から地方へ、地方から中央への情報伝達は、「言語」を伝達手段として行われます。文書においては、文字を通して、口頭においては、音声を通して伝達されます。

しかし、日本で使用されている言語は、「風土ニヨリテ基調ヲ異ニシ、習俗ニヨリテ其辞ヲ別ニス」というのです。「風土」(地理的・自然的環境)と「習俗」(文化的・歴史的環境)によって違いがあり、「一国ノ中猶且ツ東西ノ言語通ゼザルモノアリ」というのです。西潟はい一例として、「陸羽ノ民ニ於ケル薩隈ノ民ニ於ケル、其言語全ク相通ゼザル例を取り上げています。

東北の陸奥・出羽の人々と、九州の薩摩・大隅の人々の使う言葉は、同じ日本語とはいえ、「全く相通ぜざる」異国のことばのようであるというのです。「言語通ゼザレバ情実審カニシ難ク、猶外国ニ至ルガ如シ。其不便モ亦以テ知ルベキノミ」。西潟は、明治5年の「学制」頒布以降、小学校でなされる国語の授業は、「其不便」をとりのぞくために実施されているというのです。

西潟のこの言葉は、重要な意味を持っていると解釈されます。「風土」・「習俗」による「言語」の違いは、同じ日本の中にあっても、「外国に至るが如し」と受け止められるというのです。幕末・明治初頭にかけて、日本が諸外国に対して開国し、日本に外国人を受け入れるに及んで、まさに、外国人を外国人として認識する最も大きな要素は「言語」だったのです。居住の自由によって、自分の郷(くに)を離れて、異郷の地を旅することができるようになったことで、日本人は、「内なる外国」を認識するようになったのです。

西潟は、各地からの巡回視察の報告に目を通しながら、とくに、「辺陬僻遠ノ小学ニ在リテハ、必十分会話ノ課ヲ授クルヲ要スベシ」といいます。小学校生徒に、「正韻通語」(日本の東西で通用する、現代でいう標準語)を習得させることが極めて重要であるといいます。

筆者は、「正韻通語」の学習によって、日本の近代中央集権国家における徴兵制によって召集された「兵士」は、日本全国一律の命令、軍事情報の一元的管理が可能になると、明治政府が考えたのでではないか想定するのです。

西潟は、「土音土語ヲ脱セザル」「土人」の小学校教師を排除して、「通語ヲ能クスル他国ノ教員」を雇用することをすすめるのです。「此、日進開化ノ大関係ニシテ、忽カセニスベカラザル所ナリ」という言葉に出てくる「日進開化ノ大関係」の中に、明治政府の「学制」と「軍制」の密接な関係の認識が含まれていたと推定するのです。

四国・讃岐の徴兵反対一揆の際、讃岐の「旧平民」(旧百姓)が、「血税反対闘争」の枠組みの中で、新設されたばかりの小学校48校を襲撃、放火、棄毀の暴挙に出たのは、小学校教育が「学制」と「軍制」の密接に結びついていることを見抜いた、賢明なる「旧平民」(旧百姓)の明治新政府に対する批判・抗議があると思われます。

一方、四国・松山(愛媛県)で、「学区取締」に従事していた内藤素行は、明治5年の「学制頒布」当時の「穢多」と「小学校」について、速記録の形で、その記憶を残しています。

内藤は、「松山藩に於ける穢多の制度並に明治以後に於ける取扱の実歴」という「口伝」を残しています。その内容は、『部落学序説』がこれまで説いてきたところを援用すれば、これまでの誤解が氷解することになります。

内藤は、松山藩9郡における「村々には大概穢多が住んで居った」といいます。「穢多」と「穢多以外の者」の関係は、「親しみ深い」ものがあったというのです。日頃、穢多と顔を見合せながら生活している「武士」・「百姓」は、「穢多」に親近感を抱いていたというのです。しかし、長州藩もそうですが、すべての村に「穢多」が在住するわけではありません。ある場合には、事件や取締があるときにだけ、「穢多」が姿をみせる村もあるのです。そのような村は、「穢多」に親近感を持つことなく、権力の末端機関に対する恐れをもって「嫌う傾き」があるというのです。

つまり、四国・松山藩の「百姓」にとって、顔見知りの「穢多」には親近感を抱くが、見知らぬ「穢多」に対しては嫌悪感が先立つというのです。この「百姓」と「穢多」の関係は、現在の「市民」と「警察」に関係とたやすく類比して考察することができます。

内藤は、松山藩の「穢多頭」は、「大きな屋敷を構へまして、塀を以て廻らして一寸望んでも大きな住居に驚きます。」と証言していますが、当時の「藩の役所」の一般的な建物であった瓦葺き屋根を持つ「穢多屋敷」であったと思われます。現代の「警察署」を想定すれば、よろしいかと思います。「穢多頭」は、「半右衛門」と呼ばれ、大小の両刀差しを許されていたといいます。両刀差しは、「藩士」にのみ許されたもので、松山藩の「穢多頭」は与力以上の藩士階級であったと思われます。その「役務」は司法・警察に関することで、司法・検察・法務・警察・刑務など多岐に渡ったと思われます。その「役務」に対する藩からの報酬・「家職」は、死牛馬処理に伴う皮革に関する利権で、「穢多頭の年中の収入は巨額なもの」といいます。内藤は、処刑についても詳述しています。近世幕藩体制下の死刑執行人・刑務官として、プロとしての知識と技術を持っていたといいます。

内藤は、明治5年の「学制」頒布についてこのようにのべています。

「私共の県に於きましても小学校設置といふことが起こりましたが・・・、小学校を設けるには中々苦情があった、・・・私も学区取締を命ぜられ・・・松山城下の近傍を受持って皆廻りました。所が小区内の町村吏員に於きましては此学校を設けることついてはあまり奮発をしない。」

「平民」も経済的理由で消極的であり、その他に、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもを一緒に教えることに問題とみなす「旧平民」が増えていったといいます。

「旧平民」の親にとっては、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもが共に同じ小学校で学ぶことによって、旧「常・民」である「旧平民」の様々な情報が、旧「非常・民」である「新平民」に流れ、将来不都合なことになるのではないかという不安や警戒心が広がっていったためではないかと思います。中には、「穢多の席」を別にする小学校も出てきます。内藤は、問題解決のために東奔西走したといいます。「穢多の席」を嫌がる「新平民」の親と子は、「穢多のみの小さい学校を造って教育する」場合もあったということです。

注目すべきは、内藤素行の、この速記録は、大正2年に、「穢多」と「穢多村」を懐古するという形で、口述筆記されたものです。「旧穢多」に対して「特殊部落民」という、官製の差別用語が投げかけられていた時代に、内藤は、「特殊部落民」という概念を一度も使用しないで、「新平民」として呼び続けていることです。「特殊部落民」という視角・視点・視座に毒されていない人々は、「旧穢多」(新平民)のほんとうの姿を、どこかで、評価しているようです。

明治31(1867)年2月27日、「海南新聞」に掲載された「愛媛県の被差別部落の美風」を伝える記事は、浄土真宗門徒の倫理観を身につけ、日々、農作業に勤しみ、農産物の加工品を商い、財をなして、教育費の支出をおしまず、正式の校舎を「旧穢多村」に建築して、資格をもった小学校の教師に「旧穢多村」の児童の教育にあたらせたという話が紹介されています。その記事は、「普通人民の設立せる学校に比して就学数決して遜色なきなり。」と伝えています。「旧穢多」の親たちは教育熱心で、その子どもも、「皆熱心に愉快に学校に従事せり。」というのです。筆者は、その「旧穢多村」は、よき小学校教師にめぐまれたからであると思います。

讃岐と伊予、四国の隣接する2つの県は、「旧穢多」の末裔に対して、異なる環境を提供していたのかもしれません。

次回、「教育・言語・差別」をテーマにして論述を続けます。

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2006.04.21

教育・言語・差別 その1

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第5項】教育・言語・差別 その1

筆者は、明治新政府の教育行政に関して、ほとんど資料らしい資料を持ち合わせていません。

既に入手しているごくわずかな史料や研究論文の精読・解析によって、この論文を執筆していますが、なかなか困難がともないます。

筆者は、無学歴・無資格であるがゆえに、自己の能力については十分認識しています。無学歴・無資格に相応した学力しか持ち合わせていないことは、他者からの指摘をまたず、認めざるを得ません。しかし、筆者は、従来の部落史研究者の研究事例を前に、「ほんとうにそうなのだろうか・・・」、といつも疑問の思いを持ってしまいます。

前項で紹介した内藤素行は、伊予・松山藩の「穢多」について、近世幕藩体制下において「穢多と平民を区別する事はこれ我国一般の風習であります。」といいますが、「朝廷に於いて同等に取扱へといふ御沙汰」が出た以上は、「穢多と平民を区別する」ことなく、同じ「平民」として教育を受けさせようとするのです。

しかし、なかなか両者がお互いを受け入れる状態には達しません。その理由として、筆者は、近世幕藩体制下の数百年間に渡る両者の関係の葛藤があるように思います。すでに、繰り返し述べてきた通りですが、「旧穢多」は「非常・民」であり、「旧百姓」は、庄屋等の村方役人をのぞいてそのほとんどは「常・民」でしかありません。明治になってからも、「旧穢多」と「旧百姓」との間の関係は継続していたのですから、一片の布告(「穢多非人等ノ称廃止」の布告)が出されたとしても、両者の関係はおいそれとは改定することはできませんでした。

その理由は、明治政府が、近世幕藩体制下の司法・警察機構の解体に際してとった、政策のあいまいさに原因があります。明治4年の布告によって、近世幕藩体制下の「旧穢多」身分が完全に、近代中央集権国家の「新平民」に移行することができていたとしたら、「旧穢多」は「非常・民」から解放され、「新平民」・「平民」としての天下の道をまっすぐに歩むことができたことでしょう。しかし、明治政府は、「試験」を実施し、優秀な者には、近代中央集権国家の「非常・民」として、その職務を継続する余地を残していたのです。正規の「警察官」になることができなかった「旧穢多」は、「警察の手下」として「探偵」に従事することになったのです。当時の「探偵」は、現代警察の「私服刑事」のようなものですが、彼らの職務は、「密偵」として、人の秘密をあきらかにすることによって、その報酬を得るというところが、人民の間で問題視されていきます。当時の「警察権」を背景に「悪辣」な「犬」として社会的批判をあびることも度々ありました。

明治13年発行の『司法省蔵版・全国民事慣例類集』は、あまり史料として採用されているのをみかけません。筆者の推測では、『全国民事慣例類集』は、近世と近代とが意図的に併存させられているからです。どの箇所が近世で、どの部分が近代なのか容易に判定し難いからです。

しかし、『部落学序説』の命題を踏まえると、渾然とした状態から、近代の「穢多村」の近代的情報を入手することが可能になります。

「専ラ官ノ警察ノ手先ヲ為ス」
「専ラ警察探偵ノ事ヲ任ス」
「番非人ハ村々ニ居住セシメ捕盗警察ヲ業トシ・・・」
「番非人ハ民間捕盗警察ヲ為シ・・・」
「穢多ノ宗門改ニハ村役場ニ呼ビ爪印セシム」
「穢多・非人ノ戸籍ハ・・・役場ニ於テ関係スル事ナシ。」
「非人ハ専ラ官ノ警察ノ手先ヲ職トスル・・・\
「穢多ハ別ニ宗門改ヲ為シ近傍村役場ノ管轄ニ属ス。」
「穢多ハ長吏ト唱ヘ・・・警察ノ手先ヲ為ス」
警察ノ手先ヲ為シ些少ノ給料ヲ受ケ・・・」

『全国民事慣例類集』のこれらの表現は、従来の部落史研究においてはあまり重要視されてこなかったものです。「警察」という概念は、明治以降において使用されるようになった言葉ですが、調査にあたった明治政府の「司法省」及び「地方官」の間では、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、近代「警察」と同等の存在として認識されていたように思われます。と、同時に、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告のあとも、近代警察の「探偵」・「手先」として、近代警察システムの中に組み込まれていたことを示しています。

「旧平民」(旧百姓)の目からみると、確かに、「穢多・非人」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告によって、近世的身分から、他の「士・農・工・商」身分と同じように解放されているけれども、その一部は、近世に引き続き「非常・民」として、従前の警察業務に関与しているので、「旧平民」の間からは、「旧穢多」を「非常・民」として、引き続き警戒する雰囲気があったように思われます。

近世幕藩体制下の「穢多」は、明治4年以降、「旧平民」の「外」にではなくて、「旧平民」の「内」に存在するようになったのです。「旧平民」は、近世幕藩体制下において「安寧警察」・「宗教警察」であった「旧穢多」に対して、警戒の思いをもち続けたのではないかと思います。

筆者は、「旧穢多」・「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が芽生えだすのは、明治30年代に入ってからのことであると考えています。明治20年代までは、「穢多・非人」に対して、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として見方が後退し、「人種起源説」的見解がかもしだされていきます。「人種起源説」の発生場所になったのが、当時の小学校に於ける教育現場であったと考えます。なぜ、近代教育の現場から、「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が生み出されていったのでしょうか・・・。

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教育・言語・差別 その2

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第5項】教育・言語・差別 その2

「余は・・・旧穢多の塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり。」

明治22(1889)年2月14日、「大円居士」の筆名で『東雲新聞』に「新民世界」と題する文章を投書したのは、土佐藩の「下級武士」(足軽身分)であった中江兆民でした。「士族のために打たれ、踏まれ、軽蔑されて、憤発することを知らざりし旧時の民(新平民)」の境涯を我が身に引き受けて、「新平民」「異類視」(「新平民」を異民族の末裔とみなす説)することに敢然と反論していく様は、中江兆民の言動に批判的な論敵さへ、「然りといえども、余は大いに居士の人となりを愛す。」