2005.10.14

「部落」概念の普及は明治20年以降

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 1.「部落」概念の普及は明治20年以降

「部落」とは何か・・・。

この問いに対する正しい答えは、如何に正しく問うことができるかにかかっていると思われます。

「部落」という言葉を耳にするとき、現代人である私たちは、その言葉を耳にすると、すぐに、「被差別部落」という「部落」に「被差別」という修飾語句をともなった、複合語を思い出してしまいます。

多分、それは、筆者が、西本で生まれ、西日本で教育を受け、成人してからの人生の大半も、この西日本で過ごしているからでしょう。

筆者である私の妻は、東日本で生まれ、東日本で教育を受けましたので、「部落」という言葉を耳にしても、何のことだか、ほとんど理解できないでいました。

時々、私たちが住んでいる宗教施設に、「旅の人」がやってきます。広島からやってきて福岡にいく人や、また、逆に、福岡からきて広島にいく人がいます。着の身着のままのような出で立ちで、食べるものがない、電車賃がない・・・といって、少しのお金を無心します。

そのとき、彼等はきまって、「おれは、○○のもんじゃが・・・」という言葉ではじめます。

私は、ほとんど相手をせず、すぐ近くにある市役所の支所を尋ねて、食べ物や電車賃をもらってください・・・といいます。

○○というのは、山口県の有名な被差別部落の名前です。○○と語ることで、○○「部落」を連想させ、一種の精神的圧迫を相手に与えた上で、食べ物や電車賃の無心をはじめるのです。

あるとき、ことわったあと、その人のあとについていったことがありますが、その人は、少しく離れた民家に、「ただいま・・・」といいながら入っていきました。やはり、○○「部落」を使ったかたりなのかと思ったのですが、いつもは注意しているのですが、ときどき、騙されてしまいます。

あるとき、「沖縄から歩いて旅をしている」という人が昼時にやってきて、「お腹がすいた・・・」というので、それなら、「私たち家族と一緒に・・・」と、私と妻と小さな娘と彼の4人で昼食をとりました。彼は、温かいごはんとインスタントラーメン(有名メーカーの製品)と漬け物・・・という、わが家では、定番メニューだったのですが、彼は、ひとくち、ラーメンを口につけたまま、箸をとめてしまいました。「どうしたのですか」と尋ねましたら、「こんなまずいラーメンはじめてです。沖縄では、こんなまずいラーメンは食べません・・・」と言って、そのまま去って行かれました。

そうか、わが家は、沖縄のひとより貧しい生活をしているのか・・・、そのときそう思いました。

それ以来、○○「部落」だ、食べ物がほしい・・・というひとには、「ちょうどいい、一緒にインスタントラーメンでも召し上がりませんか」というと、「おなかの調子が悪いので、インスタントラーメンならお断りします」と、残念そうに帰っていかれることが度々ありました。そのうち、情報が行き渡ったのでしょうか、食べ物を求めるひとが誰もいなくなりました。ほとんどの人は、「200円でも300円でもください。そうすれば、自分で好きなものが食べられますから・・・」といいます。

そんなある日、「この2、3日何も食べていないんです。何でもいいですから、食べ物をください・・・」と蚊の鳴くような小さな声で話しかけてくる60歳位のおじさんがいました。

私は、「おじさん、なんで食べ物がないんです?」と尋ねかけました。次は、その会話の続きです。

「騙されたんです・・・」。
「騙されたって、誰に?」。
「広島で働いていたんですが、山口にいい仕事があるからといわれて、やってきたんですが、約束の賃金をもらえないんで、逃げだしたんです・・・」。
当分洗ったことがないように見えるおじさんの顔には、眼から流れ落ちた涙のあとが残っています。
「今、どこにおられるのですか?」
「泊まる場所がないので、廃車の中で寝ていました。2週間ほど。持っているお金が無くなったので、食べ物ものを買うことができなくて・・・」。
「おじさん、まだ貰っていない賃金が残ってるの?」
「はい・・・」。
「どこの会社?」。
「それは、ちょっと言えません。その会社に迷惑をかけるかもわかりませんから・・・」。
「迷惑をかけるって。かけられているのはおじさんでしょう! おじさんに、食べ物をあげることはできないけれど、おじさんが、自分の働いた賃金で、自分で好きなものを買って食べれるようにしてあげれそう。私がその会社に行って、おじさんの代わりに残っている賃金とってあげましょう」。
「あなたが、一緒に行ってくれるのですか?」
「そうですよ。心配しなくてもいいですよ。私は、けんか早いって、みんなに知られているんですから」。
「あなたにも迷惑をかけそうですから、結構です」。
「結構じゃないでしょう。がまんしても、空いたお腹はいっぱいになりませんよ。行きましょう、その会社へ」。
そういいながら、おじさんと一緒に、その会社のある方へ、歩き出しました。しかし、交差点で信号を待つごとに、おじさんはこのようにいうのです。
「みんなに迷惑をかけそうですから、結構です」。
「私は、迷惑じゃないですよ。ちょうど暇だったから」。
何度も、そんなやりとりを繰り返しながら、20分程歩いてその会社の前まで着きました。しかし、その建築会社の事務所には誰もいませんでした。少人数の会社のようでしたが、その会社のひとが帰ってくるまで、おじさんと一緒に待つことにしました。
おじさんの話では、出身は山口県の秋吉台の近くだそうですが、町の区画整理があって、町役場のひとがやってきて、「はんこを押せ」というので、押したら、あるとき、自分の住んでいる家から立ちのきを要求されたそうです。補償金はまたたくまに生活に消え、それ以来放浪生活を続けているというのです。
「おじさんをこんな目にあわせたのは誰?」と尋ねると、
「町役場のひと・・・」と呟きます。
「山口県の行政もひどいことするなあ。おじさんのようなひとから、先祖伝来の土地と建物をとりあげるなんて」そんな話をしていて、ふと、あたりを見回すと、おじさんの姿がありません。あたりを歩いて探しましたが、忽然とすがたを消してしまいました。
「もしかしたら、また、騙されたのかなあ・・・」と思っていたら、おじさんが帰ってきました。
「どこへ行っていたんです」。
おじさんは、このように答えたのです。
「あなたにめいわくをかけては申し訳けないので、姿を隠しました。でも、あなたはいなくならないので帰ってきました」。
そうこうしているうちに、その会社の事務のおんなのひとが帰ってきました。すると、またおじさんの姿がありません。私は、その会社のおんなのひとに、語調を強めて、
「お宅の会社で働いたのに、給料を半分しか貰えなかったというひとが、相談に見えられたのですが・・・」。
「それ、もしかしたら、60歳くらいのおじさんではありません?」
「そうですが・・・」。
「私たちも探していたんですよ。どこにいったものやらと。給料については、おじさんが勘違いしているんですよ。うちの会社は20日締めなんですよ。おじさんは、1ヶ月働いたけれども、20日締めのため、今回は半分しか給与をさしあげることができなかったんですよ」。
そのおんなのひとは、私の肩越しにおじさんに話しかけました。
「おじさん、そんな理由で突然といなくなったの?ひとこと聞いてくれたら、説明したのに。みんな、おじさんを一生懸命探したのよ。どこに行ってたの。そんな年で行くとこないでしょう。ここにいなさいよ。きちんと働けて自分で食べていけるから・・・」。
「おじさん、そうだってよ。いいとこじゃない。ここにいたら・・・」。
おじさんは、いままで、何人ものひとに騙されてきたそうです。騙されて、騙されて、騙される都度、働いた賃金を手にすることなく、放浪の旅を続けたそうです。
おじさんは、最後にこういいました。
「あの、もうひとつお願いしていいでしょうか・・・」。
「何です?」
「秋吉台の家と土地、町役場から取り戻してくれませんか?」
「家と土地? おじさんから家と土地をとりあげた町役場のひとって、人間じゃなくて鬼でしょう。そんなひとと私がはりあえるかなあ・・・」といいますと、おじさんは、
「いいです。ここで死ぬまで働かせてもらいますから・・・」。
その会社の事務のおんなのひとは、
「おじさん、それが一番いい。おじさんは、この会社では、一人前の仕事ができるんだから・・・」といっておられました。

そのおじさんは、被差別部落出身ではなさそうですが、「部落」という言葉を耳にすると、私は、きまってそのおじさんのことを思い出します。人間は信じなければならない・・・、信じるに足り得る存在だと教えてくれたのは、そのおじさんでした。

人間というのは、先入観や偏見を持つと、大切なことを見失ってしまいます。

マルチン・ブーバーという哲学者が、「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の関係の大切さをときました。「我とそれ」は、相手をそれ(もの)とみなして、利用することに腐心します。自分にとって役に立つか立たないか、それだけが、判断の基準になります。しかし、ブーバーは、人間の本来の有り様ではないといいます。人間のあるべき姿は、「我と汝」という、人格者としてお互いに顔を見合わせて対話できる関係であるといいます。

筆者にとって、部落解放運動が色あせて見えるときは、人間関係が、「我とそれ」の関係に堕したときです。被差別部落の側から、自分たちの役に立つか立たないかという判断基準をつきつけられると、筆者は、黙ってその関係をあとにしてきました。

「部落」という言葉に染みついた、マイナスイメージは、少なくありません。筆者も、ときどきそれを知って愕然とします。

しかし、「部落」とは何か・・・、あらためて自らに問うとき、「部落」は、今日一般的な意味合いで使用されているような響きは、明治政府によって、法制用語の翻訳語として使用されるようになった「部落」概念には含まれていなかったと断言できます。

近世幕藩体制下の「村」(むら)を指す言葉の代わりとして、明治政府によって採用された、近代的村落共同体を表現する「斬新」な意味内容を持った言葉であったのです。幕末期に、諸藩で培われてきた神道による国家建設・・・、その近代国家の地方自治制度確立のための用語として「部落」概念は登場してきたのです。「部落」は、神道を宗教的核として形成される、明治天皇制下の支配が貫徹される基本的な共同体を意味していたのです。「部落」という概念は、明治維新と近代天皇制確立の不可欠の要素として、日本の社会の中に組み込まれていったのです。

明治20年以前には、「部落」という概念は使用されていませんでした。明治30年代には、「部落」という概念は、大日本帝国憲法下で作用する地方自治制度の重要な基礎概念として一般化していきます。民俗学者の著述に見られるように、民俗学の研究対象は、単なる自然村・むらではなく、明治天皇制が予期していた、神道を中心とした村落共同体のことなのです。近世幕藩体制下の「藩」権力に組み込まれた村落共同体ではなく、明治天皇制という近代的権力に組み込まれた村落共同体のことです。

明治13年の司法省蔵版『全国民事慣例類集』の「第1篇人事、第1章 身分ノ事、第1款 農・工・商・穢多・非人ノ別」には、「村」はでてきても「部落」はでてきません。法制用語、行政用語、学術用語としての「部落」概念の登場は、明治20年以降のことです。明治4年に「部落解放令」というような概念は存在する可能性すらありません。「部落」は、明治政府によって解体されたのではなく、逆に、近代天皇制の新しい理念として、明治政府によってつくられたものなのです。

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2005.10.17

部落史研究上の禁忌

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 2.部落史研究上の禁忌

(執筆時)この1カ月間・・・いたずらに無為な時を費やしました。あとに残ったのは、ただ無力感と疲労感のみ・・・。『部落学序説』執筆を開始してから、ただひたすらディスプレイに向かつて頭の中にある原稿をタイピングしてきたのですが、つい、タイピングにともなう誤字・脱字・余字の処理を後回しにしてしまいました。そのうち、『部落学序説』の読者の方(部落解放同盟の関係者の方)が、誤字・脱字・余字の訂正をしてくださるようになりましたが、筆者は、ありがたく感謝してそのご好意にあまんじていました。しかし、そのうち、単なる誤字・脱字・余字の訂正だけでなく、筆者の書く、文章の内容にまでコメントを入れられるようになりました。彼等が営みをしてきた部落解放運動の方向性に沿うように、筆者の『部落学序説』を誘導するねらいがあったようですが、筆者が、宮武外骨について触れ出した頃から、論文の方向性と内容について、明確な介入をはじめられました。そして、その結果として、執筆途上の(旧)第4章以下の文書群を削除することになりました。解放同盟の関係者の方からいただいた「抗議文」には、筆者の文章「被差別部落と姓」について、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調で批判が羅列されてありました。『部落学序説』の執筆を開始したとき、近寄ってこられ、そして、ある段階に達したとき、筆者の執筆する『部落学序説』の内容と方向性に違和感を感じられて、去っていくときの「決別状」がこの「抗議文」であったのであろうと思います。この1か月間の、彼等との精神的やりとりには疲れはて、(旧)第4章以下の文書群を削除したあとは、(新)第4章以下の執筆になかなか取りくむことができませんでした。なんとか自分を奮い立たせようと努力してみたのですが、部落解放同盟の関係者に対して抱き出した失望感と嫌悪感はいかんともしがたいものがあります。その原因は、とりもなおさず、筆者が、部落解放同盟の関係者の方が自主的に、『部落学序説』の誤字・脱字・余字の校正をしてくださることに、あまんじてきたことにあると思います。今後は、『部落学序説』の執筆計画、論文校正の内容、使用する史料や資料について、あらかじめ、他者に披露することはやめることにしましょう。不用意に楽屋裏を覗かせてしまったことが、今回のトラブルに発生したものであると反省することしきりです。本来、『部落学序説』は、「常民」である「百姓」の末裔としての立場から、「非常民」である「穢多」の末裔の「歴史」(物語)を書くことではじめたわけですから、筆者のものの見方・考え方と、部落解放同盟の関係者の方のそれとの間には、越えることができない「淵」があることは予測されていました。しかし、そういう「淵」が何もないかのごとくに、『部落学序説』を執筆開始後、しばらくしてから、校正をめぐって交流が生じた・・・ということは、結果として、良かったのか悪かったのか・・・。筆者の『部落学序説』の執筆を大きく頓挫させたという点では、部落解放同盟の関係者の方は、一定の仕事をされたと思います。「賤民史観」に依拠し、「賤民史観」にのっかつて部落解放運動を展開され、今後も「部落民の自主運動」として、「賤民史観」の線に沿って運動されようとしておられるのですから、今回何も起こらなくても、「水」と「油」のごとき関係が続いていたと予想されますので、今回、「抗議文」によって関係が破綻したことは、筆者と部落解放同盟の関係者の方の両者にとって、将来的には、すっきりした関係になってよかったのではないかと思います。「常民」の立場から書かれた論文と、「非常民」の立場から書かれた論文との間に齟齬があるのは当然です(「切支丹」の末裔と宗教警察である「穢多」の末裔との間には、当然齟齬が存在します)。近世幕藩体制下の、司法・警察である「非常民」としての「穢多」について言及しているうちならともかく、明治維新以降、近代国家建設途上における「元穢多」・「新平民」が、外交・国策の都合で、「特殊部落民」として切り捨てられていく・・・その過程について言及するときは、近世の「穢多」についての言及以上に大きなギャップが出てくることになるでしょう。部落解放同盟の関係者の方が、筆者の書斎・楽屋裏に入ってこられて、『部落学序説』の内容や方向性をあれこれ発言されるのは、両者の関係にとって、軋轢だけを積み重ねることになるでしょう。部落解放同盟の関係者の方に限らず、筆者の書斎、『部落学序説』執筆の楽屋裏は、二度と公開しないようにしたいと思います。

筆者は、近世幕藩体制下においては幕府や諸藩において、また、明治初年代において明治天皇制国家・政府によって、宗教弾圧を受けた「切支丹」(基督者)の「末裔」として、宗教警察という権力存置の主要な担い手として、「切支丹」弾圧(探索・捕亡・糾弾)に従事してきた「穢多」の「末裔」との間に、被差別(切支丹)・差別(穢多)の緊張関係が生じることは必定です。差別された側(切支丹)には、差別する側(穢多)に対して、当然、もの申す権利が発生します。

近世幕藩体制下で、「身分外身分」・「人間外人間」にされたのは、近世幕藩体制下で宗教弾圧を受けた人々なのです。代表的なものは「切支丹」や日蓮宗の「不受不施派」です。筆者が、「切支丹」(基督者)だけでなく仏教等他の宗教に関心を寄せるのも、この「宗教弾圧」という主題によります。

かつて、「朝鮮人」と「被差別部落」の関係が、「差別」・「被差別」の関係ではなく「被差別」・「差別」の関係であると指摘されたように、近世幕藩体制下及び明治初期においては、「切支丹」(基督者)と「穢多」(被差別部落)の関係は、「差別」・「被差別」の関係ではなく、「被差別」・「差別」の関係なのです。

部落解放運動に従事してきた人々は、日本の歴史学に内蔵されている「賤民史観」にのっかつて、自分たちを「みじめで、あわれで、気の毒」な「いわれなき差別をてきた人」として描きがちになりますが、本当にそうなのでしょうか。「切支丹」(基督者)の「末裔」の立場から見ますと、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、「切支丹」(基督者)に対して、苛酷な取調べ(「糾弾」といいます)を実施し、その存在を密告しては、「切支丹訴人」として、宣教師1人銀300枚、修道士1人銀100枚、信者1人銀50枚を受け取ってきました。差別された、「みじめで、あわれで、気の毒な」人どころか、むしろ、「切支丹」(基督者)を「みじめで、あわれで、気の毒な」境遇へと追いやってきた側に身を置いてきたのではありませんか。

もちろん、大半の「穢多」は、そのような残虐非道な職務に従事することなく、近世幕藩体制下の司法・警察として、当時の法に従って、黙々とその職務を忠実にこなした人々であることは想像に堅くありません。「切支丹」(基督者)弾圧という、権力のしかけた「特別事業」に眼の色を変えて群がっていった人々は、「穢多」の中でも少数派であったと思われます。しかし、「穢多」の中に、このような人材を少なからず抱えていたことも事実です。

近世幕藩体制下の「穢多」が、やがて、「特殊部落民」として、差別され排除されるようになっていくのは、日本国家の「国辱」である不平等条約(治外法権と関税自主権)の撤廃を急ぐ、明治政府による国策・失策が大きな原因をなしています。明治政府は、近代国家建設時に想定していなかった選択を余儀なくされます。日本の政府は、その国策・失策をいつも念頭においていて、戦前は、融和事業、戦後は、同和事業を展開してきたのです。融和事業・同和事業の本質は、一般説・通説と違って、政府による、過去の国の国策・失策に対する「賠償金」に相当するのです。

同和地区の人々に対してだけ、特別事業が実施されるのは、そのような背景があるからです。

その証拠に、近世幕藩体制下、司法・警察である「非常民」としての同心・目明し・穢多・村方役人から、「切支丹」(基督者)故に迫害と弾圧を受け、「人間外人間」の苛酷な状況の中で尊い命を失っていった彼等に、近代以降の政府は、少しでも賠償をしたのでしょうか。近世幕藩体制下においても、明治以降においても、「宗教弾圧」を受けた側は、政府からいかなる賠償も受けていないのです。受けているのは、「宗教弾圧」に従事してきた「穢多」の側です。日本の政府は、それだけ、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」を切り捨てざるを得なかったことに、「痛み」を持ち続けていたのです。

政府は、歴史の事実をあきらかにしないまま、対症療法的施策のみを実施しましたので、「同和地区」という政策用語を創出して、「同和地区」として指定を受けた地区とその住民に対して、同和対策事業を展開したのです。当然、その中には、明治政府によって切り捨てられた、司法・警察官である「穢多」身分だけでなく、そのあとの社会変動で「特殊部落」に流れ込んできた、「武士」や「百姓」の末裔を含んでいました。対症療法的な施策に終始した政府は、「似非同和行為」を最初から想定し、黙認してきたのです。

部落差別の原因が「国」や「政治」にあることを究明しないという「密約」のもとに・・・。

「密約」を文書で確認しているわけではありませんが、部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事してこられた歴史学者や教育者の研究動向を分析すればよくわかります。彼等は、常に、明治4年の太政官布告、通称「解放令」から筆を起こします。日本歴史学の差別思想である「賤民史観」にのっかつて、「近世幕藩体制下で差別されていた穢多は、明治になって天皇の聖意によって、被差別身分から解放されました・・・」と説いてきました。

究明しなければならないのは、明治4年の太政官布告までの間に、いったい何が起こったのか・・・という、その経過の解明であるはずなのに、その問題の中心に近付こうとする研究者や教育者は、常に、遠心力によって、明治4年の太政官布告の真意に達する前に、周辺的領域へとはじきだされてしまいます。部落史研究において、明治4年の太政官布告は、触れることに対して「禁忌」の状態に置かれているのです。明治4年の太政官布告の研究をした上杉聡にしても、彼の論文をてがかりに、明治4年の太政官布告の本当の意味を調べようとする読者を、その中心から限りなく遠くへ、遠心力ではねとばしてしまいます。見せるのは「賤民史観」的像だけであって、明治政府による政治的意図は伏せたまにしていると思われます。

筆者は、学歴も資格もなく、現在までの生涯において、高等教育を受ける機会は一度も与えられませんでした。今後もないでしょうから、学問とはまったく無縁の存在です。無縁の存在であるということは、学会の常識や通説・一般説に影響されないということでもあります。阿部謹也がいう、学問の世界における「世間」の影響を受けることはないということです。今後も、『部落学序説』執筆のさまたげになるような「世間」を持つことも、その中に入っていくこともないでしょう。

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「部落」概念の賎民史観的用法

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 3.「部落」概念の賎民史観的用法

「部落」という言葉・概念の起源はどこにあるのか・・・。

まず、部落史における研究成果の状況を確認するために、著名な部落史研究家、井上清・上杉聡・川元祥一各氏の研究成果たどってみましょう。

【井上 清】

まず、井上清ですが、戦後の部落史研究に多大な貢献をなした井上清の代表作は、『部落の歴史と解放理論』でしょう。

筆者がこの書を読んだのは、それほど昔のことではありません。山口大学周辺の図書館や古書店を散策して、被差別部落の歴史に関する資料を収集していたとき、ある古書店でみつけたものです。古書店で並ぶくらいですから、各頁はきれいなままです。しかし、一端、筆者の手に渡ると、色とりどりのマーカーとインデックスで、単なる資料に変えられてしまいます。

この『部落の歴史と解放』は、3部構成で、最初が「部落の歴史」と題されています。

この「部落の歴史」の中に、「部落」という言葉・概念がどのような形で登場してくるのか、そのあとをたどってみましょう。

井上清の歴史観は非常に楽観的な歴史観のようです。井上は、日本の歴史の「何千年何万年」という非常に長い歳月には「社会にはどんな差別もなかった」と断定します。

井上には、古代社会を理想化する傾向があります。

しかし、日本列島の社会は、そんな、ユートピアみたいな、「何千年何万年」にも渡って、理想的な歴史を持っていたのでしょうか。

『古代集オリエント集』(筑摩世界文学大系)を見ますと、今から4000年から5000年前に、すでに存在していた社会には、「差別」があり、「差別」を受ける者の痛みや苦しみが綴られています。何を持って「差別」とするかは議論の余地があるのでしょうが、筆者には、太古の「差別」と現代の「差別」の間には違いがないと思われます。

人間の歴史においては、太古の昔から「差別」があったからこそ、仏教をはじめ、ユダヤ教やキリスト教などの人種や民族を超えた宗教が発生したのではないでしょうか。

それなのに、日本の社会においては、全世界の動向と関係なく、差別のない社会が延々と継続されていたという解釈は、どれほどの信憑性があるのでしょうか。

井上清はこのように綴ります。「そのころには、王や天皇、それをたすける役人や貴族などというものもなく、したがって王や貴族におさめられる平民というものものなかった。ましてや平民以下の「いやしい人間「などがあろうはずもない。金持ちも貧乏人もなかった。男がいばって、女は男に差別されるということもなかった。まったくの無差別・平等の社会であった」。

井上清によると、そのような「無差別・平等の社会」に、「差別」が日本の社会に持ち込まれたのは、今から2100年程前であるといいます。日本列島に稲作が持ち込まれることによって、社会の構造に変化がおきます。農業と手工業の分離、精神労働と肉体労働の分離・・・、その中で、富の偏在と集中が促進され、「有力な氏族」「弱い氏族」に二分化していきます。「有力な氏族」「弱い氏族」に戦争をしかけて、戦争に勝利すると、戦争に破れた氏族の労働者を自分の「部落」に連れてきて「奴隷」として働かせたというのです。

この時期、「部落と部落の間に、戦争がたえず」おこり、原始共産制の社会は崩壊し、「人が人を支配する」「階級の差別と対立が生まれた・・・」というのです。

井上清の『部落の歴史と解放理論』によると、「部落」の発生は、今から2100年前ということになります。日本に稲作が持ち込まれると同時に、「差別」もまた持ち込まれたというのです。米文化は差別文化なのでしょうか・・・。

井上清によると、日本に米が伝播してから500年から600年後には、大和国家が成立し、「男女の差別」「階級の差別」「身分の差別」が確立されたといいます。天皇制国家は、最初から差別国家として存在しているのでしょうか・・・。

井上清によると、「部落」は、戦国時代から江戸時代前期に、政治的に、意図的に作られたといいます。井上は、「部落」の起源をこの時代に求めます。しかし、井上は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の在所を表現するのに、「えた村」・「役人村」という表現を用います。つまり、近世幕藩体制下の「穢多」の在所を指して、「部落」ではなく「村」と呼ぶのです。

筆者は、日本の歴史を描くときには、一般的には「村」という言葉を、村落共同体の意味で使用して、「被差別部落」について言及するときだけ「部落」という言葉を例外として使用すると思っていたのですが、井上は、地図と海図を取り違えて描いて見せるように、村落共同体を表現するのに、一般的に「部落」を使用して、被差別を表わす村落共同体を表現するのに「村」を使用しているのです。

なぜなのでしょう・・・。

筆者は、井上清が、「部落」という概念を、意図的にあいまいに用いているとしか考えられません。井上は、「部落」という言葉・概念が、明治天皇制下の地方自治制度確立が審議されたときに、新たに、近代西欧の法制用語の訳語として登場してきたことを知りながら、「部落」という言葉・概念を、日本の歴史記述全体に普遍化、拡大しているのです。その結果、明治20年に端を発する「部落」概念の本当の意味が忘却されて、「部落」という概念は、日本の歴史の古くから存在していた概念として通用するようになってしまいます。「部落」は、古代・中世・近世・近代・現代へと、歴史上一貫して存在した村落共同体になってしまいます。

この通史的な「部落」という概念装置を使って、「部落」に関係すると思われる史料が、無差別にアトランダムに集積されていきます。その結果、「部落」概念には、想像を超えた、「外延」と「内包」が集積され、その集積にもとづいて、歴史上の事実に反する「部落」像、「部落民」像が形成され、否捏造されて行くのです。

筆者は、これを、「賤民史観」と呼んでいます。

「賤民史観」は、歴史学者や研究者、教育者が「賤民」に関する記述と思われる史料や資料を保存する貯蔵庫のようなものです。その貯蔵庫には、何でも保存することができます。その貯蔵庫に保管された瞬間に、どのような史料も、「部落」あるいは「部落民」に関する史料に変質してしまいます。元の史料が、根源的にどのような史料であったかは関係がありません。歴史学者や教育者によって、「賤民史観」の史料にされた瞬間に、それらの史料は、「部落」と「部落民」に関する史料に変質してしまうのです。「賤民史観」は、部落史の研究者や教育者にとっては、非常に便利な道具なのです。

井上清は、戦後の部落史研究に際して、このような「賤民史観」を提供したのです。

もちろん、井上清だけではありません。戦後の部落史研究を担った大半の唯物史観の歴史家や教育者についても同じことが言えます。

【上杉 聡】

次に、上杉聡著『部落史がわかる』をとりあげてみましょう。上杉はこのように語ります。

「もともと「部落」とは、文明未発展な集落を意味する漢語でした。文明開会政策をとなえた明治政府は、1888(明治21)年から町村合併を進めるにあたり、江戸時代の村々を幾つかまとめて大きな一つの村にしたとき、旧来の小さな村を「部落」と呼んだのです。「特殊部落」という後には、そうした古い未開発の村であるという意味に加えて、「特殊」な村という意味が込められています。つまり「普通の古い未開発の村と異なる」という意味です」。

上杉の場合、はっきり、明治20年の、大日本帝国憲法下で施行される地方自治制度に関する知識と情報を前提にしています。当然、政府で審議された史料には目を通された上での発言であると思われます。筆者は、無学歴のただのひとですが、上杉は、学歴のある学者なのですから、当然と言えば当然すぎるほど、「部落」概念が、明治政府によって新しく導入された法制用語であることは知っているはずです。

しかし、上杉は、明治20年以降の「部落」概念が持っていた意味を不問に付して、「部落」という概念を、井上清と同じように、はるか昔に、しかも遠い中国の地へ追いやります。上杉は、「もともと「部落」とは、文明未発展な集落を意味する漢語でした。」と断定して、以降、漢語が持っているという「文明未発展な集落」という意味を前面に出して、「部落」という言葉・概念を解釈していきます。

上杉は、「特殊部落」は、「差別を近代的な表現に翻訳した言葉」であるといいます。「部落」概念も「漢語」からの翻訳なのでしょうか・・・。

井上清にしても、上杉聡にしても、その論説から、一般の読者は、明治20年に明治政府によって法制用語として採用された「ゲマインデ」の翻訳語「部落」にたどりつくことはできません。なぜなのでしょうか。筆者は、彼等が、そのことを一般の読者に意図的に隠しているとしか思えないのです。そし、部落差別問題の解決から遠い世界へと、民衆の認識を追いやってしまっているような気がします。

上杉は、「部落は明治以降にはじまった」という命題を、明治20年以降の、地方自治制度確立期の「ゲマインデ」=「部落」論争を一考だにすることなく、「(部落民の)血の連続性短くしようというもの」として、「歴史家自身がまず差別的偏見にとらわれた結果、歴史をも歪曲した」と指摘します。論点が著しくずれているとしか言いようがありません。

【川元祥一】

最後に、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一をとりあげてみましょう。「部落学」を標榜する川元は、さすがに、前二者とはことなります。歴史学にだけ拘泥することなく、さまざまな個別科学を駆使して、「部落差別を克服するために新しい概念が必要になっているっている」とときます。

しかし、なぜか、「部落」という概念については、前二者と異なるところがありません。「江戸時代を通して、部落民が警察機構の一端を担っていたことは明らか・・・」と表現します。

それでは、川元は、前二者とどこがちがうのかといいますと、「部落」という概念を反省的に使用しているという点にあります。川元は、このように語ります。

「被差別部落、「同和」地区と呼ばれる共同体をここでは単に部落と呼び、農村や漁村、都市を示す場合はそれぞれの呼称とする。これらすべての上位概念としてそれぞれの共同体を一般的に呼ぶ時は村・町・都市と標示する。差別や関係性を表わすため部落の周辺を示す時は周辺社会とする」。

川元の言葉は、「部落学」の研究主体を「部落民」に設定するところから、「学」としての資質を最初から欠いています。「皇族」・「華族」・「士族」でないとなし得ない「学問」がないのと同じく、「部落民」でないと遂行できない「学問」というものは存在しません。「部落」に関する「学」は、すべてのひとに開かれるとき、本当の「部落学」足り得るのです。

井上清が、地図と海図を差し替えて説明するように「部落」を記述するのと同じく、川元は、「中心社会」「周辺社会」を逆転させて、「部落」を説明しようとします。

上位概念の「村・町・都市」の下位概念として、「部落」・「農村」・「漁村」・「都市」を列挙します。

明治20年の、明治政府の法律顧問・モッセが書いた『自治部落制草案』では、上位概念の「町村市区」の下位概念として、「町」・「村」・「市」が列挙されますが、その際、「部落」という概念は、「町村・市区」の共通属性を意味します。「町」・「村」・「市区」に共通する属性としての「ゲマインデ」というドイツ語が試行錯誤の上、まったく新しい、近代的法制用語「部落」として誕生するのです。

川元は、上杉のように、「部落」概念を漢語の意味に限定することはありませんが、極めて、恣意的に解釈します。

明治政府が、行政用語・法制用語として採用した「部落」概念は、市・町・村の共通属性として、日本の近代中央集権国家・天皇制国家の、地方自治における基本的でかつ重要な概念である共同体を指す概念でもあるのです。

当時の「部落」概念の用法に従いますと、市・町・村は、それぞれ一つ以上の「部落」によって構成されることになります。「部落」を、国家の意志が直接反映する基本行政単位として、複数の「部落」によって、市・町・村が構成されます。構成要素となる「部落」には、農村・漁村・山村・・・等があります。

『部落学序説』の筆者である私は思うのですが、なぜ、部落史の専門家や、部落学の提唱者が、「部落」という概念の、明治以降における歴史的な変遷を避けて通ろうとするのか・・・。「ゲマインデ」=「部落」という定式に触れようとしないのか・・・。しかも、歴史学者や教育者が、恣意的に解釈して、「部落」概念に対して限りなく拡大解釈をして、焦点をぼかしていくのか・・・。本当に不思議になります。

筆者は、多くの部落史研究者や教育者が避けて通る「部落」概念の発生と歴史的変遷について、関心を持たざるを得ないのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の語る「部落」概念に、危うさとあいまいさを確認せざるを得ないのです。

なぜなのでしょうか・・・。

井上清・上杉聡・川元祥一各氏は、明治・大正・昭和・平成における、国家権力の差別政策の代弁者でしかないということのあらわれなのでしょうか・・・。

本当の問題の原因を避けて通っている限り、部落差別は永遠に解消することはありません。

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独語「ゲマインデ」の訳語としての「部落」概念

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 4.独語「ゲマインデ」の訳語としての「部落」概念

明治政府は、日本の国にとって「国辱」として受け止められていた不平等条約(治外法権と関税自主権)解消のため、日本国内の諸制度の急激な西洋化をはかります。諸制度を西洋化・近代化することで、不平等条約改正の日を一日でもはやく、手元に手繰り寄せることができると信じていたからです。

その中でも、憲法・刑法・民法制定と、その施行は、避けて通ることができない課題でした。明治政府は、「憲法」発布を前に、近代中央集権国家及び近代天皇制国家に相応しい、政治体制を構築しようとします。「憲法」に先立って、「憲法」に相応しい諸制度を整備する方向で、さまざまな対策を講じていきました。

地方自治制度の確立もその課題のひとつでした。

日本の地方自治制度の確立のために力を発揮した山県有朋は、「後年、地方制度編纂をふりかえって」このように述べたと言われます。

「我邦従来ノ五人組、庄屋、名主、総代、年寄ヲ設ケタル制度ナ中ニ於テモ自治制度ノ精神個ヨリ存スト雖トモ、明治二十年トモナリテ欧米列國トノ間ヘ処スベキ当時ナレバ、他ノ制限トノ調和ヲ図ル為メ勢ヒ法案ノ形式ニ於テ欧州ノ制度ヲ参照スルノ必要殊ニ切ナルモノアリ」。

山県有朋は、日本の伝統的な政治的諸制度の中にも、近代においてなお存続させる価値のある制度の存在を認めていながら、日本国家の近代化によって、国辱である不平等条約改正のため、日本の政治上の諸制度を近代化・欧米化して欧米列國に比するものにならなければならないという、悲痛な決意をもって、大日本帝国憲法下で機能する、地方自治制度の改革に取りくんだというのです。地方自治制度だけでなく、警察制度をはじめ国政のすべての制度に、同じような方策が適用されたように思われます。

地方自治制度の確立のため、法律顧問として明治政府に仕えたモッセは、ドイツ(プロイセン)の地方自治制度を基礎として、ほとんど同じ制度を日本に移植しようとします。日本政府は、法律顧問を依頼するに先立って、日本の地方自治制度確立に一番参考になるのは、ドイツの地方自治制度であるとあらかじめ調査していたのでしょう。

明治19年来日したモッセは、明治20年(1887)、『自治部落制草案』を明治政府に提出します。そのあと、地方制度編纂委員が審議し、「市制」「町村制」の二法律に分けられて審議が重ねられます。委員会として「決定案」を閣議に提出します。閣議は、その案に、少なからぬ修正を加え、地方自治制度をより強固に近代中央集権国家の下に置く措置を盛り込みます。ついで、法制局は法文の技術的調整を行った上「市制」「町村制」の政府原案として元老院に提出されます(亀卦川浩著『明治地方制度成立史』)。

その過程の中で、「ゲマインデ」=「部落」という定義が登場してくるのですが、そのときに採用された「ゲマインデ」の翻訳語・「部落」という概念は、近代日本の地方自治制度における重要な基礎的概念として使用されるようになるのです。

当然、その審議の中で、「部落」がどのように定義されていったのか、その過程が記録されたと思うのですが、「修正は、その回数においても、その量においても、往々またその質においても、相当のものがあった」(亀卦川浩)といわれます。「地方制度編纂委員が審議に費やした時日は二ヶ月内外・・・その中間の段階においていかなる修正が行われたか不明である」(亀卦川浩)と言われます。

しかし、この法は、全国に適用されたのではなく、北海道・沖縄・勅令をもって指定された島嶼には適用されませんでした。

モッセは、明治21年(1888)11月、『自治制講義』を出しますが、第3回『市町村論』に、「各種ノ「ゲマインデ」ヲ総括スベキ適当ノ語ナキハ世ノ甚ハダ遺憾トスル所ナリ。」と述べています。

日本語には、和語・漢語を含めて、ドイツ語の地方自治制度に関する重要な用語・「ゲマインデ」に該当する言葉がないというモッセの指摘は、国家の命令の伝わる、国政上の「最下層」の基本的な機関を示す「部落」という概念を、和語・漢語で解釈してはならないということを示しています。

明治政府によって、近代地方自治制度の基本概念として導入された「部落」は、ドイツ語の「ゲマインデ」の持っている意味内容から再定義されなければならないということを示しています。「部落」の意味は、漢字の「部」でも「落」でもなく、また、「部落学」という言葉でもなく、ドイツ語の「ゲマインデ」なる語から汲み取らなければならないということを示唆しています。

この場合、「部落」と言う概念は、アドホック(間に合わせの言葉)になります。方程式のXにあたります。

モッセは、「ゲマインデ」を説明して、人間に例えます。人間の中には、具体的に、Aさん・Bさん・Cさんがいたとして、彼等にはそれぞれ個性というものがあります。しかし、Aさん・Bさん・Cさんも全体像をみれば、みんな「ひと」であるといいます。「ゲマインデ」はこの、共通属性としての「ひと」に似ているというのです。

A村・B村・C村があったとして、それらは、それぞれの置かれた地理的環境によって、農村・山村・漁村ということなった属性をもっています。しかし、A村・B村・C村には、村落共同体として、共通属性が存在しているのです。その共通属性を、「ゲマインデ」また「部落」と呼んでいるのです。「ゲマインデ」は、多重定義の用語として、A村・B村・C村の「外延」である村落共同体としての「部落」をも含んでいるのです。

「部落」という概念は、基本的な地方自治制度における、国家権力が支配的に及ぶ基本的でかつ最小の共同体を意味しています。

「部落」という概念には、「特殊」部落、「未解放」部落、「被差別」部落という言葉のニュアンスは一切含まれていないのです。

近世幕藩体制下の「村」は、藩に直属していました。諸藩の村は、それぞれが帰属している藩によって支配されています。近世幕藩体制下の「村」に対しては、中央政府とみなされる幕府も介入することはできませんでした。明治政府は、それをあらため、「村」を、より強固に、近代の中央集権国家の政治システムの中に組み込んでしまうのです。近世幕藩体制下の「●」(点)としての村境も、「-」(線)としての村境も、すべて破棄されていきます。明治の地方自治制度においては、モッセの強い指導で、「村境」が法定されていきます。近代中央集権国家・明治天皇制国家の「村」は、強大な力をもった国家権力の前に完全に支配下に置かれ、実質上は、特に治安維持という観点からは、村境そのものが無意味化していきます。なぜなら、近世の「村境」の機能は、「移転の禁止」にありました。しかし、明治政府の近代化政策によって、「移転の自由の制限」は明治4年に事実上解除されていました。

「部落」という概念は、近代中央集権国家・明治天皇制国家の新しい村落共同体を表わす概念であったのです。

学歴を持たない筆者にとっては、明治期の地方自治に関する資料を読破するには荷が重すぎます。この場合も、史料・文献との遭遇は「出会い」によって拘束されていると認めざるを得ません。筆者の所有している、徳山市立図書館郷土史料室の資料の複写分と、近隣の書店で買い求めた若干の雑誌・書籍に依存しています。

筆者は、新たな史料や資料に遭遇すれば、筆者がそれまでに立てた仮説や理論を見直すことについては決してやぶさかではありません。学歴を持たず、独学をしているものの常として、史料や資料の出会い如何によって、自らを常に変革していく、改革していく精神を所有しているからです。そのような精神を持ち合わせないと、10年、20年という長きに渡って、ひとつの主題を追いかけることは不可能であると思います。

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2005.10.18

明治天皇制下の基本的共同体としての「部落」

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 5.明治天皇制下の基本的共同体としての「部落」



日本語の場合、言葉の意味を探るのに、一般的には『広辞苑』を使用します。

「部落」という言葉の語源を尋ねる場合、漢語の意味を尋ねただけでは不十分であることを前項で証明しました。

「部落」という言葉は、明治政府の近代地方自治制度確立の動きの中で、ドイツの法制用語「ゲマインデ」の訳語として登場してきました。この「部落」という言葉の意味を尋ねるには、やはり、ドイツ語の辞書を引く必要があるでしょう。

筆者が日頃使用しているドイツ語の辞書は、佐藤通次編『NEUER SEUTSCH-JAPANISGER WORTSCHATZ(独和言林)』です。

筆者は、学歴や資格をもちあわせていません。英語もドイツ語も、すべて独学です。苦手なのは、英語もドイツ語も、会話になります。筆談はできても会話はできません。文献を読んでいると、どうしても、英語やドイツ語の原文をあたらなければならない場合も生じてきますので、若いときに、NHK教育ラジオの語学講座で英語とドイツ語を習いました。

あるとき、京都大学文学部哲学科をでられた教師の方から、「君は、その辞書を使っているのかね・・・」と言われたことがあります。ちょうど、『独語言林』を開いて、辞書を引いているときでした。

その教師は、続けて、『独語言林』を書いた佐藤通次というのは、全体主義者で問題があるというのです。彼の話では、佐藤は、第二次世界大戦中に、ドイツのヒトラーを賛美していた学者であったというのです。

そして、彼は、「もっと他の辞書にした方がいいよ」と進めるのです。

筆者は、58歳の年まで独学を通しましたから、自分にとって何が適切な資料であるかは、いつも手にとって見ることにしています。

私が生まれた岡山県は、昔から書店が充実している地域です。

岡山市にある「丸善」に行ったのは、高校1年生のときでした。ずらりと並ぶ、学術書や洋書に、岡山城や後楽園以上に感動したものです。新しい本の香りを、新しい学問の香りと受け止めました。いつか自分にも、こんな学術書や洋書が読める時代がくるかも知れない・・・、そう思うと胸踊りました。

しかし、残念なことに、私の成績は、岡山県立児島高校で最下位の成績。学力不足で、大学に進学することはできませんでした。私は、人一倍、「complex」の持ち主だったのでしょう。大学のカリキュラムを手に入れて、自分で自分の教育をすることにしました。

「丸善」で、読めそうな洋書見付けては、自分で読んでいました。そのうち洋書を読むのは決して難しくはないことが分かつてきました。最初の40~50頁をていねいに読めば、あとは楽に読めます。しかも、洋書の場合、論文の構造がはっきりしていて、まず、結論部分を読んで、内容の概略を確認した上で、最初から読んでいきます。

手にとって試読したあと、読めそうだとわかれば入手したものに、岩波書店の学術書があります。当時、岩波書店の書籍は、岡山市の「丸善」にいかなければ入手することができませんでした。他の書店では、注文になりますので、内容を確認しないで購入することになります。しかし、「丸善」に行くと、誰でも、岩波書店の学術書を手にとって見ることができましたから、私は、自分で作成した大学のカリキュラムに対応する教科書を、岩波書店の学術書から入手しました。

しかし、独学は、それほど簡単ではありません。

最も大切な資料は、辞書類でした。日本語も英語もドイツ語も中事典以上を集めました。よく使う辞書は、新村出編『広辞苑』(初版)、中島文雄編『岩波英和大事典』(初版)。『岩波英和大事典』は、いまでもほとんど毎日使用しています。この辞書のいいところは、英単語の語源が明記されていることです。ラテン語の語源を調べるために、田中秀英編『研究者羅和辞典』も入手しました。ドイツ語は、上記の『独和言林』。短文を訳してみて、辞書を引くだけで独文の意味を理解できる明快さが筆者の心をひきました。ドイツ語は、もう一冊、小学館編『独話大辞典』を使用しています。辞書選択には、筆者は、相当思い入れがあります。

それなのに、京都大学文学部哲学科を出た教師に、佐藤通次の『独話言林』を使用していることで、「馬鹿」にされたときは、少々頭にきました。それと同時に、学者や教育者の世界は、「無学でただの人」である」常人には理解することが難しい世界なのだなあ・・・、と驚きの思いを持ちました。確かに、言語というのは大切です。言語を使って考え、哲学したり思想したりするのですから。無意識に使っている言語が、その人の哲学や思想に大きな影響を残すことも十分間考えられます。

そのとき、筆者は思ったのです。「佐藤通次の辞書を使い続けたらどうなるのだろうか・・・」。そこで、筆者は身を挺して実験をすることにしました。ドイツ語の辞書は、『独話言林』を使い続けようと、決心しました。

その『独話言林』で、「Gemeinde」をひくと次のように記されています。

①共同、②共同体・地方自治団体・市町村・市町村民、③聖堂区・聖堂区の人々・教会、④公衆、⑤協会

明治政府の地方自治制度確立の動きの中で注目すべきは、②と③の意味です。②と③の意味から、次のような等式を想定することができます。

市町村=教会

ドイツ語の「ゲマインデ」という言葉は、ただ単に、地方公共団体としての「市」・「町」・「村」を指すだけでなく、宗教団体である「教会」をも指す言葉だったのです。西欧において、キリスト教は国教になります。国によって、手厚い保護を受ける反面、国の事務手続の機関としての機能を担わされる場合があるそうです。

ドイツにおいて、「ゲマインデ」というのは、村落共同体を意味すると同時に、その文化と歴史の中核となる信仰共同体(キリスト教会)をも意味していたのです。

明治政府が、日本の地方自治制度を確立するときに、そのプロトタイプをドイツ(プロイセン)に求めたのは、近代日本を、欧米の「キリスト教国家」に対峙すべく「神道国家」にしたてあげる政治的・外交的意図に合致するところがあったからであろうと思います。

ドイツ語の「ゲマインデ」=市町村+キリスト教会

日本語の「部落」=市町村+神社

明治政府は、ドイツの地方自治制度に擬することで、とかく、諸外国から批判されがちな、神道国教化の方針を徹底的に貫こうとしたのではないかと思います。

日本の近代中央集権国家・明治天皇制国家の地方自治制度における、最も基本的な村落共同体をあらわす概念としての「部落」は、「ゲマインデ」の翻訳語として、日本の法制用語として誕生したときから、「市町村+神社」(神社を中心とした信仰共同体)として存在していたと考えられるのです。

近世幕藩体制下の村落共同体である「村」は、神社だけでなく寺院も、それぞれの「村」の重要な歴史的文化的要因でした。自然村としての「むら」は、神道と仏教が、神社と寺院が融合した風景・生活環境を作り出していたのです。

幕末期、諸藩の中には、廃仏毀釈を打ち出し、日本を神道国家として宣言する藩も出てきました。長州藩もそのひとつですが、長州藩は、幕末期にすでに、近代国家として「長州藩」の構築をはじめています。欧米のキリスト教国家に日本の神道国家を対峙させる・・・、その遠大な思想は、長州藩が薩摩・土佐・肥前と共に明治維新によって新政府を手にいれたとき、新政府の強力な方針になっていきました。日本の津々浦々まで、近代中央集権国家・明治天皇制国家の下部機関としての村落共同体・「部落」を、「市町村+神社」(神社を中心とした信仰共同体)として構築しようとしました。

その政策は、日本の周辺部分から実施されていきました。沖縄・北海道・島嶼・・・。日本の村落共同体の、近代中央集権国家・明治天皇制国家への抱え込みは、日本の周辺部分から日本の中心部分へと実施されたのです。

その結果、日本の周辺社会に行けば行くほど、「村+神社」の習俗(ならわしやしきたり)が濃厚に温存されることになります。民俗学者は、沖縄に、古き良き時代の日本の村(「村+神社」)が残っていることを指摘しますが、筆者は、明治政府によって、日本の「部落」(「村+神社」)であることを強制された結果であると思っています。

もちろん、全国の農村・漁村・山村に、仏教伝来以前の日本の古きよき時代の「村」とその歴史と文化が残存していることを否定するものではありません。「民俗」というのは、「政治」と違って、時の流れは、百年、二百年と、大きなうねりとなって、場合によっては、千年、二千年の大きな波となって後世に伝えられていくものです。現代社会の農村・漁村・山村にも、そのうねりが、今も、到達していることを否定するわけではありません。

しかし、より身近な、「部落」(「村+神社」)のうねりは、百数十年前の波なのです。明治政府が、意図的に作り出した村落共同体が「部落」(「村+神社」)なのです。

明治政府がつくりあげた「部落」(「村+神社」)が、その本当の姿を明らかにするのは、かつての太平洋戦争中でした。「部落」(「村+神社」)は、日本の戦争遂行の重要な機関として機能していったのです。

この「部落」(「村+神社」)は、「戦後のポツダム政令によって消滅」(『民俗探訪事典』)していきます。そして「部落」(「村+神社」)は、国策遂行の下部組織としての「部落」(「村+神社」)ではなく、「自然村」・「むら」としての「部落」に変貌していくのです。民俗学は、神道民俗学から脱皮して、仏教民俗学をも抱え込んでいくことなになります。

話をもとに戻しましょう。

「部落」とは、明治政府が、近世幕藩体制下の村を解体・再構築して作った、明治天皇制下の、新しい村落共同体のことだったのです。「部落」は、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の共通語としての「部落」という概念に還元できるものではありません。「部落」が、「部落」は、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」のみを意味するとき、「部落」差別の本質と根源は、永遠に闇の中に葬り去ってしまうでしょう。

「部落」とは何か。その問いに十分に、答えることができるとき、はじめて、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」が何であったのかが解明されることになります。「部落」が何であるのか、把握することに失敗しますと、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の本当の姿を見失ってしまいます。

部落差別は、「政治」に起因します。歴史・文化・民俗は、その反映に過ぎません。「政治」に起因する部落差別問題は、「政治」的に解決することが可能です。部落差別の淵源を尋ね、その原因を追求することなく、またぞろ、33年間15兆円に匹敵する同和対策事業・同和教育事業を展開したところで、部落差別問題を解消することは不可能であると思われます。大切なのは、部落解放運動の継続・存続、そのための被差別部落・同和地区の継続・存続ではなく、部落差別そのものの解消にあります。

日本の歴史学に内在する「賤民史観」を除去するように、文部科学省が命令をだせば、日本全国の学者・教育者などの研究者が、わずかな期間とわずかな費用で、またたくまに、「部落史」の全貌を書き直すことができるでしょう。抑圧された、歴史学者を、部落解放運動の途上において見られた、間違った解釈から、まず、解放する必要があります。「部落史」研究を、具体的に考察する道を保証することなく、どうして、部落差別解消に至ることができるでしょう。「運動」の追究ではなく、「真実」の追究こそ、日本の社会に、差別なき明日をもたらします。

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