2005.09.01

白山信仰と穢多

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第1項】白山信仰と穢多



中山英一著『被差別部落の暮らしから』に、長野県の被差別部落の人々と白山神社の関わりが詳しく描写されています 。

被差別部落の人々にとって、白山神社とは何であったのか、お知りになりたい方は、是非、ご一読ください。中山の名 文は、ここで、そのまま紹介したいところですが、中山の文章に流れる人間に対するあたたかさとやさしさを壊しては いけないので、私の言葉で紹介します。

中山によると、「白山神社」のことを、地元の人は、「しらやまさま」と呼んでいるそうです。

白山神社の祭りは、春と秋の年2回行われます。そのときは、村中のものがこぞって参加します。この祭りのときは、結婚して他所へ行った「女たちが、初子を誇らしげに抱き、晴れ着で里帰り」してくるといいます。

一連の宗教儀式がすんだあと、被差別部落の人々は、神社の境内にむしろを敷いて、そこに、それぞれの家で作られたご馳走を並べます。儀式に使ったお神酒もみんなに配られ、村の庄屋のおじさんの掛け声で、酒の肴の入った重箱がすべての村人のところへ廻され配られるそうです。

「「これは、おめえさんの所で作っただかい」なんていいながら、気持ちが溶け合い、和み合い、一体になるのです」。

戦後は、祭りの会食に加えて、素人演芸会が加わったようで、被差別部落の「若い衆」によって芝居や歌や踊りが披露されます。出し物は、「勘太郎月夜」や「名月赤城山」。「演ずる者と観客が溶け合う」ことによって、被差別部落の人々の中に「親しみや団結」が培われるといいます。「演芸は、人々に慰安を与え、明日の労働の活力源」になるというのです。

秋の祭りには、子ども好きな「白山さま」(しろやまさま)のために子ども相撲大会が開かれます。「負けても、勝っても、女でも男でも」(言葉の順は中山に從う)「同じ賞品がでた」そうです。

「白山神社は、部落の氏神として部落の人たちの祈りの対象として、深い信仰を集め」たそうです。

東日本の被差別部落によく見られる白山神社は、一体何を祀っているのでしょうか。

中山は、「江戸の弾左衞門の信仰にならったものではないか」と推測します。中山は、「穢多頭としては幕府から三千石取りの武士同様の処遇を受けていたが、世間では不浄な仕事とみなしていたから、職業からくる穢れを清めるために『おはらい』に強い白山神を屋敷神としてまつったのであろう」という柴田道子さんの説を紹介しています。

その言葉についで、中山は、柴田の次の言葉をとりあげます。

「権力と財力をほしいままにした弾左衞門であったが、己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放を必死に願わずにはいられなかったであろう」。「賤民史観」が突如、亡霊のように出現してくることに驚かされます。

弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を、本当に祈り求めたのでしょうか。幕末の弾左衞門は、「賤称」を変更して他の名称にすることを求めたけれども、彼は、穢多頭として穢多一門が、幕藩体制下全期間を通じて担ってきた穢多の職務を放棄しようとはしませんでした。「賤民史観」に拘束された歴史学者は、弾左衞門が、「穢多」という「賤称」だけでなく、その「身分」(役務と家職)まで放棄しようとしたと解釈しますが、それは歴史資料を完全に無視した読み方です。代々の弾左衞門は、己の職業に「精神的ないやしさ」を感じるどころか、「誇りと自負心」を持っていたのです。

弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を祈り求めたりはしなかった・・・、それが、『部落学序説』を提唱する筆者の見解です。

それでは、弾左衞門や東日本一円にある穢多村の住人たちは、白山神社の神に何を祈ったのでしょう。

『部落解放史熱と光を上巻』によると、民俗学者の折口信夫は、加賀白山神社が「ククリヒメ」(黄泉国へ行って穢れを被ったイザナギを淨化させた女神)を祀っていることから、「ケガレ淨化との関わりを指摘した」といいます。同じく民俗学者の宮田登は「これは職能祖神というべきもので、その職能の安全を保護する神霊といってもよかった」といいます。宮田登著『ケガレの民俗誌差別の文化的要因』の中で、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神と説明しています。

筆者も、民俗学者の折口や宮田の説を継承せざるを得ないのですが、ここで、ひとつの難問に遭遇します。
白山神社は、古来から、出産の神、安産の神として祀られてきたという事実がもう一方にあるからです。出産の神、安産の神である白山神社の神が、なぜ穢多の神になっていったのか、歴史学者も民俗学者も明確な説明をすることができないでいます。被差別部落の人々でさえ、そのことを説明することができないでいます。

出産の神、安産の神である白山神社の神が、なぜ穢多の神になっていったのか。

この問いに、筆者なりの答えを出してみましょう。当然、「日常」・「非・日常」を含む「常の世界」と、「常」・「非・常」を含む「非常の世界」を視野に入れて考察します。

近世幕藩体制下では、「出産」というのは、女性だけでなく男性にとっても大切な出来事でした。その出来事は、一般的には、「日常」・「非・日常」の「常の世界」のできごとです。出産は、当然、「非・日常」的な出来事に属します。それは、「ケ→ケガレ(気枯れ)→ハレ」の循環の中の「ケガレ(気枯れ)」の範疇に入ります。出産のできことは、決して「ケガレ(穢れ)」(法的逸脱)ではありません。

近世幕藩体制下にあって、百姓は、飢饉に遭遇したときは、家族全員が飢死して家を断絶するより、生まれてきた子どもを間引く風習がありました。その方法は、生まれてきたばかりのあかちゃんの顔を見ることなく、母親が自分の太股であかちゃんの口を塞いで窒息死させるという方法でした。多くの場合、それは法的に禁止された犯罪でしたが、飢饉という危機的状況の中で、「産穢」として、黙認されたそうです。幕末期以降、諸外国の人々に、日本のこの風習が知られるようになりましたが、明治政府は、「混穢の制廃止」を打ち出し、「産穢」を廃止しました(「混穢の制廃止」は他にも理由がありますが・・・)。つまり、幕藩体制下の貧しい百姓の女性は、家族が生き延びるという止むに止まれぬ目的のために、生まれてきた子どもを母親自ら「屠する」いとなみをしていたのです。

近世幕藩体制下の「非常民」は、二つに分類することができるということは以前詳述したとおりですが、「非常民」は、軍事を担う非常民である武士と、警察を担う非常民である武士・穢多・非人・村方役人に分類されます。

「屠する」という言葉の関連で言えば、戦時において敵の城を屠するは武士の役務、平時において死刑判決が出た犯罪者である人を屠するは武士・穢多・非人の役務であるということになります。

「非常民の学としての部落学」の立場からみると、白山神社によって庇護される民は、女性と穢多ということになりますが、両者は、「人を屠する」ことがあるという一点で、共通したものを持っています。

人口調節機能を一方的に女性に押しつける父権制社会の目から見ると、「女性は穢多なり」(女性は穢れ多い)と見えるのかも知れません。原因を作ったのは男性の側にあるのですが、それを棚に上げて、女性に対して侮蔑の言葉をなげかける・・・、その方が本当は非人間的です。「させられた側」が精神的に負い目と苦しみを担って生きていかなければならず、「させた側」は、みずから手を汚していないという理由で、「させられた側」をあなどるように見下すのです。検断・穢多・非人は、犯罪者を職務上「屠する」とき、自ら自分の子どもを間引くことを強要された母親と同じく、精神的に深い負い目と苦しみを負わざるを得ません。

しかし、それは、柴田がいうような、「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」へとつながっていくのかどうか・・・。

もう少し理解を深めるために、「屠」という言葉の語源をたどって検証してみましょう。

語源論に立脚して、部落差別を見直す辻本正教は、その著『ケガレ意識と部落差別を考える』の中で、彼独自の解釈を展開します。そして、「屠」(「ホフル」)から「穂振る」を抽出し、「屠」は、「五穀豊穣、稲・麦の実りを得よう」とする儀式であるといいます。

辻本は、「語源論」的研究を標榜しているのですから、「屠」についても、もっと深く語源を尋ねるべきでした。しかし、彼は、「屠」の本来の語源は完全に無視してしまいます。彼が無視した「屠」の語源とは、『漢字の起源』(加藤常賢著・二松学舎大学東洋学研究所)に収録されている「屠」の解釈です。

加藤は、「屠」という言葉には「殺」の意味はないといいます。

「屠」は、「尸」(尻)から「者」(人)が出てくる様、「子供が母の胎内から生まれる時」の様を指す言葉であるといいます。難産の場合、あかちゃんは生まれても母親が死ぬケースもありますが、その場合は、「子、母を屠す」と表現されます。>

加藤は、「屠」の字義として、「子を生む場合の生子門の裂傷というのが本義である」といいます。「屠」は、母親が、自ら傷を負いながら、新しい命を生み出す様を伝えている言葉なのです。

白山神社が長い間、出産の神・安産の神であったのは、「母子共に健康で出産を迎えることができるように」という母親の願いと祈りの対象であったためでしょう。もし、産道に傷を負った場合には、それが一日も早く癒されるように・・・というのが、白山神社に参って願をかける本当の理由でなかったのかと思うのです。

検断・穢多・非人が、犯罪者を「屠する」場合も同じことが言えるのではないかと思います。

検断・穢多・非人にとって、犯罪者に対しては、直接うらみ・つらみは持っていなかったでしょう。しかし、役務上、犯罪者を処刑する命令が上から出されたとき、社会の安定のために、涙を飲んで、犯罪者を処刑し、世の中から矯正不可能な犯罪者を取り除き、世の中の安定を維持せざるを得ないのです。そのようなとき、刑を直接執行する検断・穢多・非人は、精神的に大きな苦痛と葛藤を被ることになります。処刑される人がどんなに重罪を犯した犯人であったとしても、人ひとりを殺さなければならないという心の傷を深く負うことになります。

白山神社の神は、そのこころの傷を癒す神でもあるのです。

ここに、白山神社の神が、「女性のための神」であるのと同様に「穢多のための神」でもある理由があるのではないかと思います。女性は、新しい命を生み出すために自ら傷を負う、穢多・非人は、新しい世の中を生み出すために、自ら傷を負いつつ役務を全うする・・・のです。

西日本で、白山信仰が普及しなかったのは、西日本の穢多村では、穢多・非人の職務について、規律と責任、近世警察官としての自負心を与える別の教説、浄土真宗の合理的な世俗化倫理が存在していたためでした。

次回(次項)は、徳山藩の「屠者」・「屠人」に関する資料を検証して、近世幕藩体制下の穢多・非人の役務の様相を具体的に考察します。次々回(次々項)に、穢多・非人に影響を及ぼした、浄土真宗の合理的な世俗化倫理を取り上げます。

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死刑執行人の今と昔

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第2項】死刑執行人の今と昔



死刑執行人・・・。

近世幕藩体制下において、死刑執行人をさせられた人々は、「非常・民」でした。司法警察に関連した「非常・民」の中でも、検断・穢多・非人といわれた人々でした。

「被差別部落の先祖は、人の嫌がる仕事を強制された」と「賤民史観」に立つ歴史学者や教育者、被差別部落の人々が いう「仕事」の中の最たるものは、この「死刑執行人」の仕事でした。

いろいろな史料をひもといてみていると、死刑執行に携わることを命じられた下級武士、中間や足軽の中には、こんなことをするために中間や足軽になったのではないと言って、身分(役務と家職)を投げ捨てて職場放棄と逃亡をした人も少なくありません。

しかし、穢多・非人の中で、職場放棄と逃亡をして、死刑執行人の務めから逃れようとしたという記録は一度も確認されていません。

「死刑執行人」の仕事は、極度に専門家された仕事です。

嵯峨天皇の時代に設定された古代律令制度下の「制度外制度」・「身分外身分」としての司法・警察は、時代を越えて継承されていくことになります。古代から中世へ、中世から近世へ、近世から近代へと時代が移ろい行く中、司法・警察の組織と機能は、時の権力支配(キャリア)と切り離された警察(ノンキャリア)として継承されていきます。

彼らは、近世幕藩体制下においては、基本的には、「藩」に属するより、それを構成する「國」に属していたと思われます。軍事をその役務とする武士によって構成された「非常民」は、藩主の権力による支配下に置かれています。藩主の命令、あるいは、上司の命令には絶対的な服従を要求されます。

しかし、近世の司法警察である「非常民」は、「権力」ではなく「法」に仕える人々です。与力・同心・検断・穢多・非人(与力以下の身分は現在の司法警察におけるノンキャリア)は、奉行の「家来」(藩士)ではなくて、幕府の「役人」でした(佐藤知之著『江戸町奉行支配のシステム』)。

その職務上、彼らの職務の内容は、公開されることはありませんでした。

しかし、最近は、焼却処分や廃棄処分を免れたいろいろな史料が公開されつつあります。そのひとつに、『守山藩御用留帳』を解説した阿部善雄著『目明し金十郎の生涯江戸時代庶民生活の実像』があります。

その著者・阿部は、「font-size: 0.8em;私がふるさとの安積野に帰っていくとき、私を迎えてくれたのは、安達太良山や阿武隈川だけではなかった。この『御用留帳』も、そのすぐれた内容を広げてくれた」と言いますが、彼は、46年間目明しの職務にあった吉田金十郎の研究を通して、近世幕藩体制下の法システムとその下に生きる人々の生活を描き出したのです。

「賤民史観」の枠組みの中では理解し難いことが、次から次へと出てきます。

特に、死刑執行・・・というような出来事は、極めて例外的な出来事であるということです。穢多・非人が、「役人」として、死刑執行を命じられるのは、一生に一回あるかないかでしょう。大半の穢多や非人は、一度も死刑執行人になることなく、その生涯を閉じていきます。

それなのに、「賤民史観」に立脚する歴史学者や教育者は、極めて例外的な専門的な職務の内容を普遍化して、被差別部落の人全てが「人の嫌がる仕事を強制された・・・」というイメージを振りまいてきました。

私が「部落学」構築に際して、「常・民」・「非常・民」という概念を持ち出すのは、「常民」・「非常民」という概念を用いることによって、古代・中世・近世・近代・現代へと、歴史のすべての時代において存在し、継承されてきた司法・警察の歴史の脈絡に、近世の穢多・非人を位置づけて考察することができるからです。

近世警察である穢多・非人の「前史」に中世警察があり、「後史」に近代警察があります。

「部落学」の「常・民」・「非常・民」概念は、「33年間15兆円」という巨額な財政を投じて実施された同和対策事業の中で展開されてきた「部落史」研究の成果を検証し見直す機因になります。

この『部落学序説』は、政治起源説に立っています。

「被差別部落」の起源は、古代の嵯峨天皇にまで遡及します。古代警察は中世警察へと引き継がれ、それらを前提に、江戸幕府は、近世警察組織を全国に作っていきます。よく、幕藩体制下の藩は、江戸幕府に対して治外法権であったと言われますが、それは違います。なぜなら、幕府は、度々お触れを出して、藩の法令そのものを規制しているわけです。幕府は、直接軍事力で諸藩を支配しようとはしませんでした。幕府は、法と法制度を利用して、諸藩を間接的に支配しようとしたのです。幕府の法システムの中に、不可欠の要素として組み込まれたのが、全国津々浦々に散在する、近世司法警察の末端機関(警察本体)である穢多・非人制度でした。

幕府が諸藩から取り上げた警察権力のひとつに、「キリシタン弾圧」があります。

キリシタンが摘発された場合、諸藩は、幕府にそれを報告する義務が課せられました。諸藩が勝手に処罰することは許されませんでした。もし、幕府に報告することなく、諸藩が独断でキリシタンの処罰を行うと、おそらく、幕府の命に背いたということで廃藩や改易の問題に発展したでありましょう。

幕府は、諸藩に、諸藩独自の権力支配を認めましたが、それは、幕府の定める「法」の範囲において認められたに過ぎません。幕藩体制下の諸藩を包み込む法システムこそ、江戸幕府300年間の政治的安定を保証した淵源なのです。

日本の法システムの中で、古代・中世・近世の警察機構において、死刑執行人は「屠者」と呼ばれました。

長州藩の枝藩である徳山藩には、この「屠者」がどのような職務を担っていたのか、それを克明に示す史料が存在しています。『徳山市史料』には収録されず、別刷にして公開された文書の中に収録されています。これを読むと、近世警察である穢多・非人がどのような役を担っていたのかを如実に知ることができます。

ところが、山口県の部落史の研究者や教育者、地方史研究家・被差別部落の末裔の人々も、この史料の存在は知っていながら「黙殺」します。私の推測では、部落史の常識とも化した「賤民史観」の内容と著しく抵触するからであると思っています。

この「屠者」に関する史料を持ち出すと、ほとんどの人は、「それは、長州藩の例外」と片づけてしまいます。「例外」という言葉は、本当に便利な道具で、一度も検証をすることなく、歴史史料としての価値を封殺してしまう装置になります。歴史学者が歴史学者たる所以は、「例外」史料をどのように評価し位置づけることができるかどうかという一点にあります。

山口県立文書館の元研究員の布引敏雄のように、法曹世界でいう「三百代言」的な歴史学者というのは、部落差別の解消どころか、被差別部落の人々をますます差別の鉄鎖につなぎとめる役目を担っているのではないかと思います。「賤民史観」に副う史料のみをとりあげ、それに違う史料は例外として一蹴してしまう彼の歴史学者としての姿勢を見ていると、歴史学者としての資質を疑わざるを得ません。

布引は、新発見として、長州藩の穢多・非人に関する「御仕置」を、幕藩体制下で穢多・非人が差別されていた証拠として紹介しました。多くの部落史研究家は、彼の論文を検証することなく、そのまま受け入れ、御仕置帳の内容を、「長州藩では、穢多・非人はそのように差別されていたんだ・・・」と解釈します。

「部落学」の立場から御仕置帳を見ると、それは、近世警察官である穢多・非人が、その服務規定に違反、警察職務に違背した「犯罪」であることは明白です。しかし、布引は、それを「犯罪」ではなく「差別」だと強弁します。

日本の部落史研究が、布引のような「賤民史観」を解釈原理とする歴史学者の手によって構築されているのだとしたら、部落史は、根底から研究し直す必要があります。日本歴史学の面目にかけて、実証的研究をやりなおさなければなりません。

布引は、彼以前の歴史学者が、穢多・非人に関する御仕置帳に記載されたことを、近世被差別民の差別の史料としては受け止めることができなかったと言いますが、それは、彼以前の歴史学者が極めて常識的で、学者としての良識を持っていたからに他なりません。みんな、穢多・非人に関する御仕置帳は、穢多・非人の職務違反、法的逸脱として受け止めていたからです。

法的逸脱に対する違背処理は、「差別」の範疇で考察することになじまないと、布引と違って、無学でただの人でしかない私は思うのですが・・・。

「被差別部落の先祖は、人の嫌がる仕事を強制された・・・」、その命題が間違いであることを、現代の死刑執行人の証言を通じて検証していきましょう。

現代においては、「死刑執行人」という職業はありません。

それは、「刑務官」という職業に収斂されています。「刑務官」は、「矯正職員と看守、死刑執行人という三役をこなしている」と言われます。

坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を手がかりに、「死刑執行人」についてのイメージ作りをしてみましょう。現代の「死刑執行人」と近世の「死刑執行人」の間に、否定し難い共通性を認識することができるでしょう。そして、現代の「死刑執行人」の職務の厳しさと、それに耐えて受刑者とかかわる人々の苦悩や悲しみを知ることができます。

私たちは、「死刑執行人」とは何の関係もないと考えているかも知れません。

しかし、このブログを読んでいるあなたが、明日、近世・近代・現代の「死刑執行人」が経験した苦悩と葛藤を、自分自身で経験させられる、そんな日がくるかも知れないのです。

日本の陪審員制度は、その陪審員を「くじ」で無作為に抽出することで選任されます。

このブログを読んでいるあなたのところに、いつ、その陪審員に選任したとの「赤紙」が届くかまったく知る由もありませんが、その可能性は多分にあります。

あなたは、陪審員を拒絶することはできないのです。
そして、裁判に関与します。

そして、やがて、重罪を犯した被告に、死刑を宣告することに一票を投じなければならなくなります。その被告が自分の罪を認めていた場合でも、あなたの一票で、人ひとりの命が奪われてしまうわけですから、あなたは、きっと、悩み苦しむことになるでしょう。

死刑が執行されたあと、その受刑者が、冤罪であったということがわかったとき、あなたは、どう判断するのでしょう。「あのとき、疑問に思ったことをはっきり言葉に出していれば・・・。もしかしたら、彼は死刑にならなくてすんだのかも知れない」、そう思わざるを得ない状況に追い込まれます。

あなたは、小さい時から、父親や母親に、あるいは、学校の教師から、「人の命を大切にするように」と聞かされて育ってきたはずです。「決して人をあやめてはいけない」と。

しかし、あなたは、陪審員を強制されることで、無理やり裁判に関与させられ、ある場合には、死刑執行の判断に加担させられることになります。

日本の歴史においては、古代・中世・近世を通じて、「常民」と「非常民」の区別は、いつも明確でした。戦国時代においても、一部を除いて、この区別は守られていました。あいまいになった一部は、「刀狩り」によって、もう一度、「常民」は「常民」の世界に戻されました。

そして、江戸時代三百年間に渡って、百姓は、「常民」であり続けたのです。

司法警察の職務は、「常民」ではなく「非常民」の専門的な仕事、「役人」としての仕事でした。「非常民」の存在のおかげで、「常民」は、「非常」にかかわらないですんだのです。

明治四年に太政官布告が出されたあと、百姓は、明治政府の施策に反対を表明しました。

「賤民史観」の歴史学者は、「解放令反対一揆」と呼びますが、史実は違います。当時の百姓は、「常民」と「非常民」の区別が不明確になり、百姓が「非常民」と同じ存在にされる、鉄砲を担いで軍人として人の命を奪う、そういう存在に変えられていくことへの、明治政府に対する「常民」として生き続けてきた民衆の烈しい抵抗の現れでした。しかし、「賤民史観」に立脚する歴史学者は、明治政府の統治理念を解釈原理として、事実とは異なる歴史像を捏造していきました。

戦後、日本は、軍隊を解体し、徴兵制(国民皆兵制)を廃止しました。

戦後日本人は、古代・中世・近世の「常民」の世界に立ち戻ったのです。民衆の手から武器がとりあげられ、武器で持って人を殺傷することはなくなりました。戦後の民衆の歴史は、明治以降の「帝国軍人」という「非常民」の縄目から解放されたのです。

しかし、今、日本は、小泉首相の指導の下、国家機関の様々な分野で、民営化が推進されています。司法・警察システムについても同じです。刑務所の一部は民営化されることがすでに決定されています。「常民」が「非常民」の役に携わることになります。そして、今度は、司法の世界において、「常民」が「非常民」に組み込まれていこうとしているのです。

「常民」である民衆が、徐々に「非常民」になることを麻痺させられていく先にまっているのは、明治政府がとったのと同じ政策、「常民」を完全に「非常民化」する、徴兵制度の復活でしょう。

民俗学者の柳田国男は、昭和32年、「畏れ多い話ですが」と前置きして、「皇室の方々」も民俗学の研究対象である「常民」の範疇に入っていると発言して、柳田の非常民概念は抽象概念にすぎないと同じ民俗学者から批判を受けます。「常民」を「常の民」としてではなく、「普通の人」と解した学者たちは、「皇室の方々」を「非常民」(軍事・警察に直接関与する人々)ではなく「常民」(軍事・警察に直接関与しない人々)の範疇でとらえようとした柳田を曲解して烈しく批判します。「皇室の方々」は普通の人ではないと・・・。

歴代の天皇の中で、最もすぐれた天皇は、嵯峨天皇であるとかっての帝国軍人であった角田三郎はいいます。しかし歴史の事実は、「常民」と「非常民」の区別は、天皇制社会にも平和と安定の秩序をもたらしたことを証明しています。

私たちは、「常民」から「非常民」へ、なし崩しに変えられていかないために、「非常民」に対する正確な知識と認識が必要です。

「非常民」の学としての部落学は、日本の国民が、民衆が、戦後の平和憲法下で保証された「常民」としての生き方を継承していくか、それとも今小泉首相と政府がすすめている「常民」の「非常民」化の波に身を棹させて生きていくのか、という問題提起でもあるのです。日本の民衆が、その手に武器を持たない平和の民として、世界の中で生きていくためには、「非常民」についてのよりよき知識と理解を持つ必要があります。

司法制度の改革に必要なのは、「常民」を「非常民」に変質させていくことではなく、司法制度の中にある、「封建遺制」の払拭、採用試験や人事の民主化と近代化、シビリアンコントロールの導入等があげられると思います。「陪審員制度」を導入しなくても、できるはずの司法改革をまず断行すべきではないでしょうか。

明治以降の司法制度の闇の部分を、国民に知らせないまま、国民を「非常民化」していく現在の姿勢に、私は、むしろを旗に、鍬と鋤とを持って一揆を起こした百姓よろしく抗議したい気持ちでいっぱいです。私は、由緒正しき貧百姓の末裔ですから、現代の「常民」の「非常民」化政策にも烈しい抵抗を感じてしまいます。

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『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 1. 『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像



他任妖気起満空
誠心一片不忘公
丈夫志決何関係
身落屠人桎梏中

徳山藩士・河田佳蔵が、徳山藩の浜崎の牢屋に繋がれたときに歌った詩です。

河田佳蔵が牢屋に繋がれたのは、元治元年(1864年)8月19日のことです。

佳蔵は、8月9日、児玉次郎彦・江村彦之進・井上唯一・浅見安之丞・本城清・信田作太夫の6名の藩士と共に、幕府 による第一次長州征伐を前に、幕府に恭順を誓い、哀願した当時の徳山藩の要職である富山源次郎宅を襲撃、源次郎を 刺殺しようとしましたが、源次郎の右肩に傷を負わせただけでその命を奪うにいたらず、その暗殺計画は失敗に帰して しまいます。

河田佳蔵は、徳山藩の追捕を畏れて逃亡します。

その逃亡の様子は、『河田佳蔵獄中日記』に克明に記されています。彼は、徳山藩領の来巻村の林杏庵を訪ね、そこで一夜を過ごします。その間に、刀・袴を捨て、「百姓ノ風」になって、翌日、山越えをして、本藩領・室積の港にたどりつきます。佳蔵は、船を雇って、上関・室津の小方謙吉を訪ねます。次の日、謙吉の船で、本藩領・伊保庄の知人を訪ね、長州征伐に関する情報を収集します。

翌12日、その情報を携え、徳山藩に戻るのですが、城下の至るところで厳しい「固メ」が行われていることを知って、再び徳山領を離れて、上関に向かいます。しかし、船は既に手配されていて、海路で上関に行くことを断念、陸路、岩国へ行こうとするのですが、追手の厳しい捜査に、佳蔵は山中に身を隠して夜、徳山藩領の来巻村を訪ね、夕食を馳走になったあと、夜を徹して、岩国城下を目指します。

欽明峠に夜明け頃ついた佳蔵は、知人から身を匿うことを拒絶され、行くあてを無くした佳蔵は再び、徳山藩を目指します。しかし、欽明寺峠手前で、岩国藩士十人の検問にあって、逮捕されてしまいます。二十三歳の佳蔵は、暗殺失敗後、パニックになったのか、迷走の旅を続けたのです。

18日、佳蔵は、徳山藩に引き渡されます。佳蔵を引き取りにきたのは、奉行処1人・下目付1人・検断1人・目明1人・平警固足軽4人の計9人でした。19日、徳山藩領内に入ると、その一行に穢多5人が加わります。そして、佳蔵は両手両足を縛られたまま籠に乗せられ浜崎の牢屋、源次郎刺殺未遂事件を起こした他の藩士と共に浜崎の牢屋に繋がれる身となったのですが、その時詠んだのが上の詩です。

河田佳蔵は、10月24日処刑されてしまいます。

8月19日から10月24日までの、約2カ月間、河田佳蔵は、浜崎の牢屋で牢暮らしを強いられることになったのですが、その間、佳蔵は、紙片に日記を記します。普通ですと、犯罪者の日記は、獄中の外へ持ち出されることはあり得ないのですが、それを看視する獄吏が見て見ぬ振りをしたのでしょう。今日、徳山市立図書館の郷土史料室で『河田佳蔵獄中日記』として読むことができるのです。

この『河田佳蔵獄中日記』を取り上げた歴史研究家は多いのですが、どの歴史研究家にも共通しているところが一点あります。それは、どの歴史研究家も『河田佳蔵獄中日記』の中に記されている徳山藩の穢多に関する記述には触れないという点です。

長州藩や4支藩において、穢多がどういう存在であったのか、「受刑者」の目から見た穢多の姿を認識することができるのですが、ほとんどの歴史研究家は、「穢多」に関する記述を黙殺してしまうのです。

河田佳蔵は、上司刺殺未遂事件後の逃亡生活中においても、徳山藩の「穢多」と出会います。

百姓に変装して逃亡している佳蔵のあと追ってきた「町人体之者」。「~体」というのは、「~」のように見えるが「~」ではないということを意味しています。それから、徳山藩から佳蔵の身柄を引き取りにきた「目明三郎」。彼は、佳蔵に縄を打つときに登場してきます。それから、佳蔵の護送に加わった「穢多」たち。浜崎の牢屋に身を置くことになった佳蔵は、その獄屋にいる「穢多」のことを、その詩の中では、「屠人」と呼んでいます。
徳山藩士は、浜崎の牢屋にいる「穢多」のことをどのように受け止めていたのでしょうか。

『河田佳蔵獄中日記』を通して、私たちは、近世幕藩体制下の「穢多」の本当の姿を見ることができるのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を訪ねたあと、私は、徳山市立図書館郷土史料室を訪ねて、長州藩や徳山藩の「穢多」について調査をはじめました。今から十四、五年前のことです。私は、初期の段階で、この『河田佳蔵獄中日記』に遭遇しました。

そして、徳山藩北穢多村があった、現在のある被差別部落の集会で、『河田佳蔵獄中日記』の中に出てくる徳山藩の「穢多」について話をさせていただいたことがありますが、徳山藩北穢多村の末裔は、幕末期を生きた先祖が、どのような生き方をしていたのか、ほとんど知りませんでした。被差別部落の人々にとっても、徳山藩の「穢多」の具体的な姿を記した史料があったことは驚きでした。なぜ、それまでの歴史学者は、この史料に出てくる「穢多」について触れないのだろうか、どうして、「賤民史観」がいうところの「人の嫌がる仕事を強制された穢多」についてのみとりあげ、「穢多」の先祖が「みじめで、あわれで、気の毒な」存在であったことのみ強調して、「穢多」の職務に忠実に生きた、その役務に責任と自負心を持って生きてきた「穢多」について言及しないのか、私も、被差別部落の人々も同じ感想を持ちました。

『河田佳蔵獄中日記』と、あとで紹介する『浅見安之丞獄中日記』、関連史料『有志詰問録』、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が与えたインパクトは大きなものがありました。近世幕藩体制下の徳山藩の穢多の「役務」について、これほど如実に物語ってくれる史料は他にありません。

しかも、「穢多」自らが語った文章ではなくて、「穢多」によって看視され、やがて、処刑されることになる「犯罪者」の立場から、しかも武士の身分から書かれた文章であるということは、この史料の「穢多」に関する記述は、信憑性が非常に高いということになります。

これらの史料を読むと、当時の軍人である「武士」の冷たさ・残忍さに驚かされると同時に、当時の司法・警察である「穢多」のやさしさやあたたかさを認めざるを得なくなります。徳山藩の穢多の中にみる「やさしさやあたたかさ」というのは、どこから出てくるのか。私は、徳山藩の「穢多」の役務に対する責任と自負心、「穢多」の職務をまっとうしようとする姿勢から滲み出てくるのではないかと思います。

今回、前回に引き続いて、「死刑執行人の今と昔」(その2)を書く予定でしたが、坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み返してみて、これは、『部落学序説』の史料・資料にはならないと気づきました。

坂元の文章は、どちらかいうと、「暴露本」的なところがあるからです。

彼の文章には、何か、欠けているものがあります。それは、人としての「やさしさやあたたかさ」です。死刑執行に携わった刑務官の職務の厳しさがそうさせたのかも知れないのですが、彼の文章を読んで思うことは、近世幕藩体制下の「看守」(穢多・非人)と、現代の「看守(刑務官)」の置かれた状況は、ほとんど何も変わらないということです。坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み終わって思ったのは、この本に書かれていることは、本当のことなのだろうか、ということです。

それは、近世の「看守」と現代の「看守」は、大きく異なったものであってほしいという、私の内側にある潜在的な願望がわざわいをしているのかもしれません。現代の「看守」よりも、近世の「看守」の方が、より人間的なのを見て、また、受刑者に対して、「やさしさやあたたかさ」を持っていることを目の前にして、大いなる戸惑いを覚えるからです。

現代の「看視」・「死刑執行人」はともかく、徳山藩の『河田佳蔵獄中日記』・『浅見安之丞獄中日記』・『有志詰問録』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に記録された徳山藩の「穢多」の姿、「穢多」の役務について考察してみましょう。

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徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 2.徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)



私には人間が、
足の長いバッタのように思えるんです。
年じゅう飛んだり跳ねたりして、
すぐ草の中にもぐって昔変わらぬ小歌を歌うバッタのようにね。
草の中に年じゅうねていればまだしもですが!
どんなごみの中にも鼻をつっこむんですからね。

ゲーテの『ファウスト』(高橋健二・手塚富雄訳 河出書房)の「天上の序曲」に出てくる、悪魔・メフィストーフェレ スの言葉です。

悪魔は、人間が「理性」の使い方を知らないと指摘して、上記のような言葉を神に返すのです。

私は、「賤民史観」に囚われて、歴史資料のここかしこに出てくる「穢多・非人」に関する資料を駆使して、「あわれで、みじめで、気の毒な」・「賤民」として描こうとする歴史学者や研究者、教育者の姿を、『ファウスト』に出てくる「足の長いバッタ」に例えることができると思うのです。

日本の歴史資料の中にある、支配者の目から見た被支配者の姿を、身分制度の「貴」の立場から見た「賤」の姿を描くために、歴史学者・歴史研究者・教育者は、こともあろうに被差別部落の人自身も、「どんなごみの中にも鼻をつっこむ」ような形で、「穢多・非人」を「あわれで、みじめで、気の毒な」存在として描きます。「ごみの中」(資料価値の少ない史料)から負のイメージを伝える言説を抽出し、「人に非ず」「穢れ多し」という烙印を押し続け、彼らの歴史を「まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である」と断定するのです。

『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る-』の著者・沖浦和光は、さらにこのように続けます。

「しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民俗と文化の一端を担ってきたのだ。様々の苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・この世を生き抜くためには、自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」。

しかし、沖浦は、次の瞬間、その「民俗と文化」を「賤民文化」と呼ぶのです。

歴史学者・社会学者を自負する沖浦は、身も心も「賤民史観」の中にどっぷりと浸かっているのでしょう。「自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」と、「穢多・非人」の生きざまを取り上げた、すぐそのあとで、彼らがつくりあげてきたのは所詮「賤民文化」であると、足の長いバッタが、天に向かって飛び立つことをすすめながら、またぞろ、泥沼の中にその鼻っ柱を突っ込んでしまわせるようなところがあります。

『賤民史観』という歴史学上の差別思想に身をゆだねる限り、「穢多・非人」と言われた人々の末裔は、永遠に差別の泥沼から飛び立つことはできないでしょう。差別から自由になりたいと思うなら、被差別部落の人々は、政治家・歴史学者・教育者が、明治以降よってたかって構築してきた「共同幻想」としての「賤民史観」を放棄しなければなりません。

「賤民史観」を放棄して、部落差別を語ることができるのか・・・とお考えになるかもしれませんが、この『部落学序説』は、これまで、「賤民史観」とは、別の視点、「実証史学」の立場から批判・検証を繰り返してきました。「賤民史観」を離れても、「穢多・非人」の論述は可能ですし、また、33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけたにもかかわらず、いまだに解消していない差別の撤廃のために、闘う側の主体を構築することは可能なのです。

現在の部落解放運動の理念は、「賤民史観」を前提とする限り、部落差別完全解消にはつながりません。できることとしたら、「被差別」概念の外延を拡大し、これまで部落差別とは関係のなかった一般民衆まで巻き込んで被差別の悲しみや苦しみを他のひとに味わわせるような、絶望的な提案しかありません。野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』に目を通せばすぐに分かります。

「穢多・非人」という言葉は、近世幕藩体制下の史料に即して受け止めるときは、沖浦をはじめとする「賤民史観」に乗っかって歴史研究をしている多くの研究者や教育者が指摘するような「人に非ず」「穢れ多し」というような意味合いを持った言葉とはなりません。「穢多・非人」という言葉は、彼らの役務、近世幕藩体制下の役人の職務をさす言葉です。「穢多・非人」という言葉は、「穢多役・非人役」と理解されるときに、歴史上の本当の姿と輝きを取り戻すことができるのです。

「多くを穢す」役、「人を非す」役・・・。

どちらの言葉も、近世幕藩体制下において、全国津々浦々に配置された近世の司法・警察の本体以外の何ものでもないのです。すべての藩には、この司法・警察機構が設置されました。藩によっては、穢多・非人の役を、「士雇」(藩士ではなく、中間・足軽等)身分にその処務を割り振っているため、穢多・非人が存在していないように見える場合もありますが、本質的に、穢多・非人が近世司法警察の「本体」であったことは否定できません。明治以降、ささやかれたような「警察の手下」ではなく、当時の警察の「本体」であったのです。

穢多・非人の歴史上の実像は、私たちが、自らのうちにある「賤民史観」を放棄すれば、すぐに見えてきます。

ゲーテがその『ファウスト』の中でいうように、「原本をひらいて、すなおな心でひとつ・・・」被差別部落の歴史を見直せば、「賤民史観」を脱却する道はおのづと開かれてくると思います。

『河田佳蔵獄中日記』や『浅見安之丞獄中日記』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が、部落史を研究するときの史料として用いられてこなかったのは、そこに書かれている「穢多」の実像が、「賤民史観」に著しく抵触する内容が含まれていたからであると思います。

元治元年8月19日幕府に恭順の意を示す徳山藩の要職を襲撃して逮捕され、徳山藩の浜崎の牢屋に幽閉の身となった河田佳蔵は、同士の児玉次郎彦・江村彦之進が、幕府に恭順の意を示す「俗論派」の藩士によって襲撃され殺害されたことを知らされます。

河田佳蔵は、浜崎の牢屋に入牢して3日目、このように記します。

「夜冷番屠一倍九人牢屋外四五度回番也」。牢屋に入ってから三日目の夜は、冷えたのでしょう。河田佳蔵は、浜崎牢の牢屋の板場に座りながら、同じく牢屋に入れられている他の藩士と話をしたのでありましょう。しかし、四六時中話をしているわけではありません。夜が更けてくると、誰からともなく、会話をやめて、牢屋の板場に横になり、うつらうつらとします。そんな中、牢番の見回る足音がします。河田佳蔵にとって、牢番は、「番屠」でもあります。いつか、裁判が下って、その「番屠」たちによって自分が処刑される日がくるかもしれない・・・、そんな思いが、河田佳蔵をして、「番屠」という言葉を使わしめたのではないかと思います。彼は、牢屋を見回る穢多に対して思いをはせ、「牢の中にいる自分も冷えが堪えているが、牢屋を見回る牢番(徳山藩では穢多のこと)はもっと夜冷に耐えているのかもしれない」と、こころのゆとりをみせます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を叫ぶ「正義派」の政治的弾圧に走ります。

そのとき、徳山藩の穢多たちは、「固メ」と称する「警固」役として、「士分足軽」と共に、1箇所に4~6人ずつ配置されます。

河田佳蔵の耳に、巷の噂が、同じく浜崎牢に入牢している本城清からつげられます。

「此度ノ暴挙ノ発端ハ、奸物共我同士中徒党ヲ結ヒ廃立ヲ企、遂ニ老臣ニ迫リ爆発致し、遂ニハ御城山へ火ヲ放御城ヲ攻落抔ト申虚喝ヲ以国中布告・・・」。河田佳蔵は、これを聞いて、「俗論派」の虚言に、「可憎々々」と激怒します。虚言を流したのは、実秋堂と春瀬の策であろうといいます。その理由は「穢多を呼ヒ警固」させているのが証拠といいます。「己か黒み有之故尻明ケ候、可笑可、憎々々・・・」と悔しさをにじませます。この虚言によって、「割腹」(切腹)させられたという噂も伝わってきます。

河田佳蔵は入牢して十日目、白州に引き出されます。

白州(「客屋」)に関わるものは、「穢多控之場」に待機します。白州の警固のために、穢多四人も動員されています。裁判に当たる奉行・御目付・徒目付・筆者・調下役・御番屋は座敷に、検断と穢多は縁下床几へ控えます。河田佳蔵は「穢多拙者綱ヲ後ヨリ取居候」といいます。不当な取調が続けられ、河田佳蔵は、9月6日に至って、9月2日に河田家の「家柄断絶」が言い渡され、「家内両親ハ富山門東ノ東へ偶居」となったと知らされます。

彼は、妻やその両親を御家断絶の悲しみに追い込んだことに衝撃を受けたのでしょう。彼が日記を再開したのは、9月14日になってからのことでした。

河田佳蔵は、穢多の上番・泉助、増番・鶴二郎から、「此度之騒動ニ付而之皆様御罪状、大殿様ヨリ之御思召ニ而一歩ツツ軽く御宥免相成候様被仰進候之由噂承候ニ付、御安心之為真御内々申上候」と聞きます。近世の司法警察である穢多のことばとふるまいは、極めて真摯なものがあります。

9月22日、山口より「奇兵隊体之者百五十人」が徳山藩領にやってきたことを知らされます。あわせて、幕府による第一次長州征伐が差し迫っていることの緊迫感が伝えられます。

10月7日、河田佳蔵は、晴天の日が続き、秋の豊作が見込めるとあって、「毎夜春挽之声聞へ夥敷候得共、我心中之憂止時無之悲哉」と記します。

10月11日、一度御役御免になった、宿敵・富山源次郎が「復役」したことを知らされます。河田佳蔵は、自分の置かれた立場が急激に悪くなっていくことを実感させられます。

10月14日、河田佳蔵は、穢多・泉助より、彼の兄から依頼された伝言を聞かされます。次第に気を弱くしていった河田佳蔵は、「有り難きかな、有り難きかな」と涙にむせびます。

宿敵・富山源次郎が「復役」した頃から、河田佳蔵の日記には、穢多に関する記録が増えていきます。穢多の添番・藤二郎から茹で芋を馳走されたこと。穢多・滝二郎より、こうせんを馳走されたこと。穢多・久二郎から新酒を馳走されたこと。穢多・泉助より汁一杯馳走になったこと。穢多・兵吉より芋粥馳走。河田佳蔵の身の振り方についての情報も、穢多を通じてしか入らなくなってしまいます。穢多・小吉、弥四郎、兵吉、彼らが語るひとことひとことに祈りに満ちた思いを持ちます。

10月22日、牢番から筆と紙を手渡されます。

10月23日、穢多の庄左衞門から柿三つ、穢多・利吉から餅ひとつを馳走されたといいます。
河田佳蔵は、そのときの心中をこのように綴ります。「可漸斯落泊スレハ所詮心鄙劣飲食へ案思外無之、可嘆々々」。この文章の主語は、河田佳蔵自身ともとれるし、河田佳蔵が獄中で知り合った数多くの穢多であるともとれます。河田佳蔵は、穢多・庄左衛門より、酒と豆腐の馳走に預かります。

10月24日河田佳蔵は、井上唯一と共に浜崎の刑場で検断によって処刑されます。

明治になって、元毛利藩主のたっての願いとあってか、河田佳蔵を含む、尊皇倒幕をかかげて生きた徳山藩の七人のさむらいは、天皇の命によって、例外的に、靖国神社に合祀されます。

牢番の穢多たちの配慮によって、『河田佳蔵獄中日記』は後世に伝えられていくことになります。河田佳蔵は、その漢詩の中で、穢多たちを「屠人」と呼びます。徳山藩の穢多は、「穢多役」だけでなく「非人役」をも兼ねていたからでありましょう。「屠人」の差し出すものを、感謝して受け取った河田佳蔵の中に、穢多に対する差別意識というものはあったのでしょうか。河田佳蔵は、獄吏を表現するのに、「穢多」という抽象概念を用いたのではありません。獄吏が所属していた穢多村と彼らの役職名とその名前まできちんと記しています。河田佳蔵の言葉を通して、徳山藩の「穢多」が何であったのかということを推測することができます。徳山藩の浜崎牢屋で、河田佳蔵が出会った「穢多」たちは、今日の「刑務所」の中で犯罪者が出会うことになる刑務官とまったく同じ存在です。

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徳山藩穢多による死刑執行

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 3.徳山藩穢多による死刑執行



幕府の第一次長州征伐を前に、徳山藩は、藩の進路をめぐって大きく揺り動きます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を唱える「正義派」の若い藩士の暴発を機会に、倒幕を唱える藩士たちに対 して、徹底的な排除を目論みます。

七人の藩士のうち、児玉次郎彦と江村彦之進は、元治元年8月12日に、「俗論派」の藩士によって惨殺されます。

同年10月24日は、井上唯一と河田佳蔵は、取調を受けたのち浜崎の牢屋にある刑場で処刑されます。

そして、残る3人の藩士、浅見安之丞・本城清・信田作太夫は、翌年の慶応元年1月14日に海の上で処刑されます。このとき、処刑された徳山藩士・浅見安之丞は、『浅見安之丞獄中日記』を遺しています。また、浅見安之丞他2名の処刑については、4つの支藩を含む長州藩全体が、幕府に恭順を誓う「俗論派」を排除、倒幕を唱える「正義派」によって藩の対幕府の方針が集約されていく中で、「暗殺事件」として慶応元年の夏に、裁判が行われ、「暗殺事件」の真相が明らかになっていきます。

「暗殺事件」に触れる前に、『浅見安之丞獄中日記』に出てくる、徳山藩の「穢多」の姿を追ってみましょう。

徳山藩の穢多は、①犯罪者の探索(その対象は身分を選ばない)、②犯罪者の捕縛、③犯罪者の護送、④白州での犯罪者の確保(捕縛の縄をもって犯罪者の傍らに立つ)、⑤被害者の警固、⑥牢番、⑦入牢者の身体検査、⑧牢屋の外の見回り、⑨死刑執行・・・、近世司法警察の多様な職務に従事しています。

徳山藩は、「非人」役を置きませんでしたので、「穢多」が非人の役も兼務していました。

浅見安之丞は、穢多の名前を列挙しています。「上番」役は、滝蔵・兼五郎・兵吉・泉助・弥四郎・修次郎の6名。「添番」役は、徳山藩東穢多村から「交代出勤」(徳山藩の御法制では4名)。「小番」は、徳山藩の穢多村3箇所と本藩領穢多村3箇所より10日毎の替り出勤。近世の牢屋は、現代の刑務所と違って、「穢多」も「犯罪者」も顏と名前が明らかにされています。現代の刑務所では、「穢多」も「犯罪者」も、匿名という仮面で隠されていると思われます(刑務所に入ったことがないので推測に過ぎませんが・・・)。

浅見安之丞・本城清・信田作太夫の3名に対する処刑の子細は、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に、克明に描かれています。

当時43歳であった徳山検断・国光利兵衞は、「獄中暗殺之始末」についてこのように証言しています。

国光利兵衞は、事件のあった次の年の正月7日、8日頃、御役頭・中川修人宅に呼び出され、本城清・信田作太夫・浅見安之丞3名を「毒殺」せよとの命令を受けます。

国光は、上司の指示に従って、町医者をしている牢医(徳山藩の代々の牢医=穢多医)のところに行って、「毒味調合」を求めるのですが、牢医は、「医業ニ於て制禁之儀、医法ニ無之ニ付御断申上候」といって、毒殺のための毒薬を提供しようとはしませんでした。

検断の報告を聞いた「御役頭」は、「○○儀牢医の業家として奉行の差図不相用段不届之儀」と烈しく立腹したといいます。

9日、再度、牢医に、「薬味2品」の提出を求めます。

牢医は、不承不承、検断に、藩士毒殺用の薬品を差し出すことになります。検断が、その毒殺用の薬品を「御役頭」に届けると、このような指示を受けます。「この薬を牢屋番へ渡し、酒に入れて3名の者に飲ませるように」、命令を受けます。

検断は、「これまで、このようなことはありませんでした。番人共に命令しても、藩士3人を毒殺するようなことを引き受ける番人は誰もいないでしょう。この度の件は、幾重にもお断りいたします。」と、「御役頭」に3人の藩士毒殺を辞退するのですが、「御役頭」から、「検断の職分」であることを攻められ、その毒薬を牢屋に持って帰り、牢番である穢多の手に渡します。検断が、番人をしている穢多に、ことの子細を告げますと、穢多たちは、「どうしたらいいものか」と大いに戸惑ったといいます。

検断から押しつけられた、藩士3人の毒殺がどのように実施されたのか・・・。

あとで検断が穢多に報告を求めたところ、穢多はこのようにいうのです。「穢多の間で検討しましたが、与えられた毒薬の内、極少量だけを酒に混ぜて3人の藩士に飲ませました。残りは捨ててしまいました・・・」。徳山藩の「穢多」は、自分たちの職務については、徳山藩の「御法」に忠実で、それに違う藩の上司からの命令には容易に服従しようとはしませんでした。

しかし、「俗論派」の「正義派」を排除しようとする姿勢は強く、「穢多」はとうとう押し切られてしまいます。藩の命令に背く穢多は、厳しい処罰がまっていますので、「穢多」は止むなく、3人の藩士を処刑してしまいます。

3人の藩士に対する処刑は、「毒を用いて苦しませて殺す」という、徳山藩の「御役頭」の要求とはまったく違った、できる限り苦しませないで一瞬にして殺害する方法が採用されました。8人の穢多によって、3人の藩士が、その方法で処刑されたのです。処刑方法は、詳しく説明することは避けますが、本城清・信田作太夫・浅見安之丞の3人の藩士の死は、牢屋に於ける病死として藩主や本藩に報告されます。

19日には、「御役頭」より、処刑の特別手当として金4両1歩が支給されます。

毒殺用の薬を提供した藩の牢医(穢多医=警察医)は薬代として3歩2朱、実際に死刑執行にあたった8人の穢多に対しては、3両1歩2朱、その他棺桶代として3歩2朱が支給されます。当時、穢多ひとりにつき年間3両(2.4石相当)の役務の手当てが出ていましたから、ひとりあたり1.5カ月分の特別手当が出たことになります。

死刑執行は、近世幕藩体制下にあっても、常に「御法」に忠実に執行されるべきものでした。お仕置きの法を破ったものは、あとでそのことが発覚したときは、それ相応の処罰をうけなければなりませんでした。

徳山藩においても、検断・穢多は、奉行の家臣ではなく、藩の役人でした。

藩の役人は、藩の「御法」に仕えるのが本旨でした。幕府の第一次長州征伐を前にして、長州藩本藩や枝藩において、幕府に恭順を示すか、幕府を倒すことを目指すか、藩論が2分する中生じた悲しい出来事でした。幕府に恭順を示そうとする「俗論派」は、若き7人の藩士の惨殺を持って、その証しのひとつとしたのでした。

7人のさむらいの暗殺に関わった徳山藩の藩士たちは、身分の上下を問わず、やがて、倒幕を唱える「正義派」によって、犯罪として糾弾を受けます。そして、それぞれ重い刑を課せられるのですが、この事件に関わった穢多については、言及がありません。おそらく不問に付されたのであろうと思われます。

徳山藩の穢多の職務は、この点においても、現代の刑務官と酷似しています。

現代の刑務所において、検察庁長官から死刑の命令が下ると、ある日、ある時、突然、刑務官に、死刑執行人の仕事が課せられます。精神的なゆとりもなく、心の備えもなく、突然と、死刑執行人になることが要求されます。死刑執行人になるほとんどの人は、学歴を持たない「高卒」の刑務官であると言われます。明治初期に導入された絞首刑の方法が、何ら見直されることなく、今日まで延々と続けられているのです。

近世幕藩体制下の穢多は、明治に入って、司法・検察・警察へと受け継がれていきます。

現代の被差別部落の人々へと繋がっていくわけではありません。

先祖代々「百姓」の末裔でしかない、単なる「常・民」でしかない私にとって、「非常・民」の世界を描写することは、本当に、精神的な負担になります。しかし、このことを直視しないと、「穢多」の役務を理解することはできないと思って考察を続けているのです。

最後に第6の命題を加えましょう。

命題6:穢多の役務の目的は、法の執行である。

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2005.09.02

「穢多」に関する6つの命題

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 4.穢多に関する6つの命題



「穢多」概念を定義するには、その内包と外延を明らかにする必要があります。

最初、仮説として、内包を明確にします。次に、明らかになった内包を基準にして、それに相応しい外延を確定してい きます。しかし、現実に存在する政治や社会は、複雑な要素が絡み合って動いています。単純に定義できる事象はほとんど皆無であると思われます。そこで、複雑さを縮減しながら、内包と外延を交互に確定していきます。内包を決めたら外延の確定を、外延を確定したら内包を再度検証します。内包に問題や矛盾が発生したら、再度、仮説を立てて内包を決め、また同じような手続きを繰り返していきます。多くの時間と労力を費やして、「穢多」概念定義するときに、筆者が仮説としてたてた命題が、「穢多は非常民である」という命題でした。

この『部落学序説』は、その命題から出発しているといってもいいのですが、その命題が真実らしいというのは、これまで筆者が出会った歴史資料や論文の分析の結果です。それらの史料や資料は、多くの情報を提供してくれました。その情報がなければ、私は、この『部落学序説』を書くことはできなかったでしょう。どの史料や資料も、何らかの価値があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究に関与している研究者や教育者、理論家や運動家の説く様々な論説を集め、比較検証し、その論説の淵源と理念を明らかにして、研究対象に対する視角や視座を増やしていくことは、『部落学序説』を執筆するときの筆者の視野を広げてくれます。

これまで文章化してきた『部落学序説』のどの内容についても、その背後には、これまでの部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事してきた研究者や教育者、理論家や運動家の見解の比較検証という作業があります。私は、学歴も資格も持ち合わせていませんので、どの学閥や学派にも所属していません。また、国家による高等教育の枠組みという足枷もありません。皇国史観や唯物史観に拘束されることもありません。

当初この論文を書くときに想定していたのは、おそらく、すぐに批判や中傷の嵐にまきこまれるのではないかという危惧でした。しかし、実際は、筆者の想定と違って、ほとんど、『部落学序説』に対して、批判・中傷の類はありませんでした。ときどき、何故なのかと考えさせられましたが、結論は、批判や中傷があろうとなかろうと、部落差別の完全解消を願って、この『部落学序説』を完成させようとした初心を全うするということでした。

最近、この『部落学序説』を読まれた方のために、この論文で、すでに取り上げた命題について要約しておきます。

【命題2】は、「部落学」についての定義です。

部落学は、<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究であり、そのことによって部落学固有の研究対象である「部落」の歴史と本質を明らかにし、差別・被差別の立場を問わず、すべての人を<賤民史観>から解放し、日本社会の病巣である部落差別の完全解消に資することを学的課題とする。

【命題1】穢多は非常民である。

『部落学序説』は、近世の人々を「常・民」と「非常・民」の二つに分類します。近世の人々を「常」と「非常」を識別子として使用します。「非常」は「軍事・警察」に関係した世界ととらえ、「非常・民」を、軍事に従事した非常民と、司法・警察に従事した非常民に分類します。後者の司法・警察に従事した非常民の本体として、古代・中世・近世に存在していた司法・警察たる「衛手」(衛り手=エタ)を想定します。

【命題3】「けがれ」は、二重定義された概念である。

「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。
「非常民」である「穢多」が、その職務上関与するのは、「気枯れ」ではなく「穢れ」であると考えられます。この場合の「穢れ」は、法的逸脱を意味します。歴史資料の中には、この「気枯れ」と「穢れ」が恣意的に使用されているので、歴史資料を分析する際には随時検証が必要になります。

【命題4】穢多の身分は、役務と家職によって構成される。

『部落学序説』は、幕藩体制下の武士身分が「役務と家職」によって構成されていたのと同じく、武士身分と同じ「非常民」に属する穢多・非人の身分も「役務と家職」によってのみ構成されていたと推定します。「穢多」が何であるのかは、穢多の「役務と家職」を解明することで知りうることができます。

【命題5】穢多の在所によって、穢多を規定することはできない。

「非常民」である「穢多」の在所は、近世幕藩体制下の権力によって配置されたもので、どのような場所に配置されたのかは、幕府や藩の司法・警察行政上の合理的な判断に基づいています。「穢多」の在所は、「穢多」の派遣先のことで、そのことは「穢多」の身分を規定するものではありません。

【命題6】穢多の役務の目的は、法の執行である。

「非常民」である「穢多」は、幕藩体制下の司法・警察の直接機関であって、当時の「御法」・「御法度」に従って、その職務内容が規定されています。「穢多」は、当時の法の執行官であって、法的逸脱である犯罪者を違背処理(キヨメ)によって、社会復帰させることを目的とします。

長州藩の歴史資料によると、幕末期の「穢多」は、「非常民」としての職務、近世幕藩体制下の近世司法・警察としての職務の遂行を専らとしています。「穢多」(穢多・茶筅・宮番・非人)は、幕府開府から幕末に至るまでの全期間、古代・中世の司法警察制度の継承者として、その職務に責任と自覚とを以て従事していったと思われます。

「穢多・非人」は、その職務上、「人を屠す」役を課せられましたが、「穢多・非人」全体から考えますと、そのような職務に従事した「穢多・非人」は、極少数であったと思われます。ほとんどの「穢多・非人」は、「人を屠す」職務からはほど遠く、多くの場合は、犯罪者を生きたまま捕亡し、藩の司法機関での裁判を経たのち、法的違背処理である「キヨメ」によって、犯罪者を社会復帰させるべく行為していたのが、近世の「非常民」であり、近世の司法警察である「穢多・非人」の本当の姿であったと確信しています。

それは、幕末期、「穢多」の軍事的部隊として、四境戦争に参加した「維新団」についても同じことが言えます。「維新団」は、穢多によって単独で構成された部隊ではなく、穢多・茶筅・宮番・非人・村方役人・・・等の司法・警察官によって組織化された混成部隊で、彼らは、「維新団」として活躍するときも、彼らの本来の職務を決して忘れることはありませんでした。

幕末期の残虐非道な行為は、藩士によって構成された部隊や、百姓によって構成された「屠勇隊」にあてはまることであって、近世司法・警察である「穢多」の部隊の関与するところではありませんでした。彼らは、四境戦争のあと、「士分取立」の機会を惜しむことなく放棄して省みないことがそのことを示しています。幕末期の長州藩の「穢多」は、毛利藩主が誇る優秀な司法・警察官でした。

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