2006.02.13

「汚れ」という言葉の意味

【「汚れ」について】1.「汚れ」という言葉の意味

『部落学序説』でとりあげた「けがれ」は、「日常」・「非・日常」に関連した「気枯れ」と、「常」・「非・常」に関連した「穢れ」の2種類です。

しかし、雅語の「けがれ」という言葉の持っている意味は、それだけにとどまりません。雅語の「けがれ」に、「汚れ」という漢字がつかわれる場合があります。

今回、この「汚れ」について考察してみます。

「気枯れ」と「穢れ」だけでも解釈が多種多様なのに、さらに「汚れ」が加わると解釈がさらに複雑になり、混乱してきます。その結果、「けがれ」解釈の恣意性が増大してきます。

「汚れ」とは何なのか。『広辞苑』をひもといてみましょう。

けがれ【穢・汚】①きたないこと。よごれ。不潔。不浄。「うぶで-けがれを知らぬ」②神前に出たり勤めにつくのをはばかる出来事。服喪・産穢・月経など。③名誉を傷つけられること。汚点。「お家の-」

『広辞苑』では、「穢れ」と「汚れ」は同義語であるということでしょうか。「穢れ」という言葉を使用しようが、「汚れ」という言葉を使用しようが、結局同じことを意味しているということは、「穢れ」と「汚れ」の違いを考察してもあまり意味をなさないということでしょうか・・・。

『漢字の用法』(武部良明著・角川小辞典)で「けがれ」を検索しますと以下の説明が出てきます。

けがれる 自動 【穢・汚】
〔穢〕きれいなものが、汚くなること。(例)身が穢れる 悪に穢れる
〔汚〕りっぱなものが、だめになること。(例)名が汚れる 家名が汚れる 貞操が汚れる

武部によると、「けがれ」(穢・汚)は、「XがYになる」ことを意味します。Xはプラスの価値で、Yはマイナスの価値としますと、「XがYになる」というのは、「プラスの価値変じてマイナスの価値になる」ということを意味しています。

この「けがれ」(穢・汚)を、部落・部落問題・部落史に適用するとどうなるのでしょうか・・・。「部落」・「部落民」は、「けがれる前」(X)は、けがれていなかったということになります。ただ単にけがれていなかったというよりは、「きれい」で「りっぱな」存在であったということになります。つまり、「部落」・「部落民」の前身は、社会的に評価された存在(X)であった、それが、ある事情で、「XがYになる」かたちで社会的に評価されない状態、「賤視」される状態(Y)に陥っていったと考えられます。「XがYになる」という武部の解釈に従いますと、「部落」・「部落民」なる存在は、昔は現代のように差別されていなかったということになります。

この『部落学序説』で「研究者」として登場してくるひとは、「部落」・「部落民」が、昔、「穢多」と呼ばれていたのは、「穢れている実態」があったからだといいます。「穢れている実態」があったから、「部落」・「部落民」に「穢多」・「穢多村」という名称がつけられたのだといいます。つまり、研究者にとっては、「けがれ」というのは実体概念・本質概念なのです。

「研究者」がよく指摘するように、日本の被差別民は、昔も今もずっと「けがれた」存在であったとしますと、武部がいう、「けがれ」とは、「XがYになる」という法則から逸脱した解釈をしていることになります。

「研究者」が指摘するように、「部落」・「部落民」は、昔、「けがれた」存在とされ、そして、それ以降も、「けがれた」存在としてあり続けていると解釈するのか、それとも、武部良明が示唆しているように、「部落」・「部落民」は、昔は、「りっぱな」存在であったけれども、あるときから、「けがれた」存在とみなされるようになったと解釈するのか・・・、部落研究・部落問題研究・部落史研究上、無視することができない問題へと発展してしまいます。

「研究者」のように、「部落」・「部落民」を今も昔も、これからもずっと「けがれた」存在とみなし、そうであるが故に、同和対策事業や同和教育事業継続の必要性を説き、アファーマティブ運動(公民権運動)を継続していくことになるのか、武部の論法にのっかって、『部落学序説』の筆者のように、Yの前身Xを明らかにすることによって、「部落」・「部落民」に対する部落差別の完全解消を視野に入れて研究と実践を見直していくのか・・・、大きな違いが出てきます。

もうすこし、「汚れ」について考察してみましょう。

『部落学序説』の筆者としては、近世幕藩体制下の「法的逸脱」を示す「穢れ」概念を、「汚れ」概念と同一視することで、混乱に陥れたくはありませんから、「穢れ」と「汚れ」の「種と差」についてきちんと検証しておく必要があります。

森田良行著『基礎日本語』(角川小辞典)の中に、【けがれる】ということばの見出しはでてきませんが、【うつくしい】ということばの説明の中に、「けがれる」ということばについての解釈が出てきます。

森田の辞書の説明に従って、「汚れる」の意味を検証してみましょう。

森田によると、【うつくしい】というのは、「対象に不純なところがなく、清らかな感じで、人の心を打つ状態」をさします。「うつくしい」という言葉は、具体的には、「色・絵・花・顔・女・目・字・朝・空・澄んだ水・風景・眺め・声・音色・音楽・局・行為・言葉・心・愛情・友情」に向けられます。

森田は、「「美しい」は人の心を動かし感動させる状態なので、いくら清澄でも「美しい空気」などとは言えない。「美しい水」も同様である。しかし、「美しい湖水の水」「美しい噴水の水」など視覚的に美を感じさせる状態に場合には言える。当然、水道の水や、水たまりの水にも「美しい」は使わない。この点が「きれい」と異なる。」といいます。

森田は、「うつくしい」の「関連語」として、「きれい」をとりあげます。森田は、「きれい」を次のように定義します。

「「きれい」は、不純なもの、調和を乱すもの、余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」

森田は、「うつくしい」と「きれい」の「差」となる属性として「調和」をとりあげているように思われます。「調和」とは、森田自身の言葉でいえば、「余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」のことです。「調和」は、「うつくしい」という言葉の属性としてはかならずしも必要ありません。「うつくしい」という言葉の属性として、「調和」の代わりに美意識という「主観」がはいってきます。

森田は、この「調和」をこわす状態をさすことばとして「汚い」ということばをとりあげるのです。「きれい」が「物質的な清潔さだけにではなく、観念的な汚れのなさにも使う。」というのです。しかし、森田は、「観念的な汚さ(汚職等)の場合は、主として「けがれる/けがれた」を用いる。「けがれた身」(「汚い身」とはあまり言わない)など。」というのです。

森田は、「けがれ」を解釈するとき、「汚れ」に重点を置き過ぎて、「穢れ」についてはあまり意識していません。その説明の中に混同がみられますが、森田の説明によっても、「けがれ」というのは、実体概念・本質概念ではないのです。「観念的な汚さ」、つまり、社会システムや法システムの中での逸脱行為をさすことばなのです。

「穢れ」は、法的逸脱行為を指すのと違って、「汚れ」は、「物質的な清潔さ」のない状態をより強くさす言葉として採用されているように思われます。

しかし、「穢れ」という言葉が、同和問題との関係で忌避されるようになり、今日、「穢れ」という言葉の代わりに、「汚れ」という言葉が使われるケースが増えてきました。やがて、「穢れ」は死語となり、それに代わって「汚れ」が使用されることになるのかも知れませんが、『部落学序説』の筆者は、そのことによって、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」のほんとうに歴史が葬り去られるのではないかと大いに危惧します。

関係概念の「穢れ」が後退し、実体概念の「汚れ」が前面に出てくることで、日本の社会の中から部落差別が取り除かれ部落差別解消につながるのではなく、「恒久的被差別」を「捏造」することで、部落差別が、あらたな同和対策事業・同和教育事業の要求闘争の手段・道具にされていくのではないかと危惧します。筆者は、大切なのは、部落差別をそのままに同和対策事業・同和教育事業の利権を追求していくことではなく、被差別部落のこどもたちの将来のために、部落差別を根源から解明し、部落差別完全解消につなげていくことではないかと思います。

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※「解放同盟の方」は、『部落学序説』は「きれいごと」であると批判されます。森田の解釈では、「きれい」は、「余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」のことですから、「解放同盟の方」の批判は、筆者が「余計なもの」を避けて通っているとの批判があるのかもしれません。もちろん、筆者には、『部落学序説』の執筆に際して、「避けて通っている」問題はありません。『部落学序説』で今後取り上げる予定で留保している問題はありますが・・・。筆者は、「きれいごと」という批判に、「きれいごと」ではない問題、「糞尿」の問題をとりあげることにしたのです。1週間、読者の方々にも、この問題を考えてみてくださいと書いたのですが、その後、ブログ「意見交換」を削除しました。しかし、約束は約束ですから、「糞尿」の問題、卑近な言葉でいえば、「くそと汚れ」について文章を書くことにしました。今回は、その前提で、「くそと汚れ」の「汚れ」について、その語源を尋ねてみました。「汚れ」という言葉には、「汚い」という言葉からくる「物理的に清潔でない状態」と「穢れ」に由来すると思われる「観念的なけがれ」のふたつの意味が含まれていることがわかりました。次回、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と「汚れ」(し尿処理)について言及します。「解放同盟の方」に満足していただけるかどうかわかりませんが、もしかしたら、またまた、大いに失望させる結果に終わることになるかもしれません。「解放同盟の方」も、このブログはもう読むのをやめておられるでしょうから、筆者の一人相撲になるかもしれません。

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「穢多」と「汚れ」

【「汚れ」について】 2.「穢多」と「汚れ」


今回の文章執筆のための参考資料は、楠本正康著『こやしと便所の生活史 自然とのかからりで生きてきた日本民族』1冊です。

楠本正康は、新潟医科大学(現新潟大学医学部)出身の医学博士で厚生省の役人をされた方です。筆者は、この楠本正康の書『こやしと便所の生活史』を読んで、学者・研究者と名の付くひとに、あらためて、尊敬の念を持ちました。

日本語の中に、昔から、「こやし」ということばがあったそうですが、中世になると、この「こやし」ということばに、糞、糞培、糞草、糞苴という漢字があてられるようになったそうです。楠本は、「その頃は、すでに人糞尿や厠肥が肥料として広く使われていて、農業に関する技術指導も積極的に行われ始めていたからである」といいます。

楠木は、「幕藩体制が安定し、太平の世が続く元禄年間には江戸は人口百万の大都市として繁栄していただけに、毎日排出される人糞尿は膨大な量に達した。・・・しかし、何の不自由もなく処理されていた」といいます。

江戸で「毎日排出される」「膨大な量」の「人糞尿」は誰によって処理されていたのでしょうか。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、人の嫌がる「賤業」をすべて、「賤民史観」が考える、当時の社会の「最下層の身分」であった「穢多・非人」に振ってしまいます。当時の人々が「汚れ」として受け止めていた人糞尿の取り扱いは、「穢多・非人」の「賤業」であったと、推測する傾向があります。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」(「穢多の類」)の職務のひとつに、「街道の警備」がありました。すべての旅人が快適に街道を旅することができるように、街道の清掃・鳥や獣の死骸の除去作業も「穢多」の職務の内容のひとつでした。「きよめ」といわれる職務の中に、死骸や糞の除去を数える学者・研究者もいます。

しかし、近世幕藩体制下の「人糞尿」の処理について、「汚れ」に満ちた「賤業」とみなすものの見方や考え方というのは、昭和以降、全国的には、高度経済成長以降の下水道整備事業によって、日本の家庭に水洗トイレが普及する、人糞尿が瞬間的に生活の視界から除去される仕組みができた以降のことです。

近世幕藩体制下全期間を通じて、また、明治維新以降も、「人糞尿」が「汚れ」たもので、その除去作業をするものを「賤業」とみなす考え方や見方は存在しなかったように思われます。

なぜなら、江戸の町から毎日排出される膨大な「人糞尿」は、関東一円の百姓(農民)にとって、貴重な「こやし」であったからです。江戸の100万の住人の米や野菜を栽培するための必要欠くべからざる「こやし」であったからです。江戸の町の人々は、自家の「人糞尿」を「こやし」として売却するか、米や野菜と物々交換していたのです。

近世幕藩体制下の「人糞尿」の売却額は、「金額にして年間4万9千両」だったといいます。「今の物価からみると莫大な金額」になります。

幕末の弾左衛門こと、「弾直樹」は、明治3年に東京府に対して、「賤称除去願」を出しますが、そのとき、弾直樹は、斃牛馬処理の権利を保障してくれるよう嘆願するとともに、「税金500両」を「上納」することを申し出ているのです。弾左衛門の石高は3000石であったといわれますが、金額にして、2500両から3000両であったと思われます。人糞尿の取り扱い金額、「4万9千両」に遠く及びません。つまり、取り扱い金額から考えても、近世幕藩体制下の江戸の糞尿を処理していたのは、「穢多・非人」ではないということが推定されます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」と「汚れ」(人糞尿)とは、ほとんど何の関係もなかったということです。むしろ、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」は、この「人糞尿」処理に関与することが禁止されていたと考えられます。「皮革」よりもはるかに多い「人糞尿」をめぐる収入を、近世幕藩体制下300年間に渡って触れずに済ませた・・・ということはとても考えられません。

それでは、誰が、「汚れ」(人糞尿)の処理をしていたのかといいますと、楠本によれば、「周辺農民」ということになります。近世幕藩体制下の後半期にいたっては、人糞尿に処理の「専門業者」が登場したといいます。

「当初のうちはもっぱら農民があたったが、やがて汲取りや運搬を業とするものも現れた。これらの専門業者は地主や家主と契約し、汲取りの代価を決めていた。汲取ったものの輸送には、下町方面は船舶を利用し、山手方面は牛馬車が用いられた。そして船舶によるものは千葉葛西、埼玉方面へ、牛馬車の分は多摩川、神奈川方面へ送られていた。また、人糞尿が経済的価値があるため、一種の商品のように扱われ、その仲買人まで現れ、江戸市内から汲取った人糞尿を買い取り、船舶輸送によって農耕地へ売り渡して利益をあげていた。」

前回、角川小辞典『基礎日本語』の著者・森田良行の解釈をとりあげましたが、「汚れ」というのは、「物質的な清潔さのない状態」をもさすことばです。「汚れ」の代表的な存在である「人糞尿」は、近世幕藩体制下の「穢多」とは、ほとんど何の関係もなかったと断言できそうです。

近世幕藩体制下の「司法・警察」である「穢多・非人」の関与したのは、当時の法的逸脱としての「穢れ」であって、日常生活における「汚れ」には関与しなかった・・・と考えるのが妥当ではないかと思われます。

楠本は、「維新政府は明治2(1869)年に「肥小便汲取ノ儀是迄ノ仕来披廃止以来町人共勝手次第百姓共へ為渡候様可致候」(※)という布告を発した。」といいます。明治11年1月に、「肥小便」という言葉は、「し尿」という言葉に置き換えられていきます。

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2006.02.14

身分と糞尿

【「汚れ」について】 3.身分と糞尿

P2160106 すべての人にとって、最も身近な「汚れ」というのは、毎日体内から排出される「糞尿」ではないでしょうか。

近世幕藩体制下の身分制度のすべての階層で、この「糞尿」という「汚れ」を避けて通ることはできません。身分の上下を貴賤といいますが、貴い身分の人もそうでない人も、生きている限り、この「糞尿」という「汚れ」がつきまといます。

人は産まれるとすぐに襁褓をつけられます。あかちゃんが、襁褓の中にうんちやおしっこをし、その肌に接触しているからといって、あかちゃんが「汚れている」と考える人はほとんどいないでしょう。

むしろ、母親をみつめながら微笑むあかちゃんの姿を見ると、「けがれなき」姿に感動するのではないでしょうか。

「糞尿」については、近世・近代と現代では、ひとびとの「糞尿」についての受け止め方に大きな違いがあるような気がします。近世から現代に近づけば近づくほど、「糞尿」は人間の生活から限りなく遠くへ追いやってしまいます。

米・野菜は、消化されて、体内に排出されますが、排出された「糞尿」は、「こやし」として再利用されます。その「こやし」によって、美味しい米や野菜が生産されます。「糞尿」を「きたない」「汚れている」と考えている分には、近世・近代においては、食料供給にたちどころに支障をきたしてしまいます。

現代社会では、人の「糞尿」が「こやし」として使われることは少ないと思いますが、家畜の「糞尿」は、野菜や花の栽培に使用している人も少なくないのではないでしょうか。

筆者も、園芸店や農協で、「牛糞」や「鶏糞」の堆肥をかってきて、ミニ菜園や花壇に施しています。ほとんど、素手で作業していますが、「汚れ」を意識することはほとんどありません。むしろ、買ってきた「牛糞」・「堆肥」の品評をしたりします。「これはいい牛糞だ」と、「牛糞」を手にとって喜ぶ場合もあります。

楠本正康著『こやしと便所の生活史 自然とのかかわりで生きてきた日本民族』に、おもしろい話がでてきます。

江戸においては、江戸の住民・100万人の「糞尿」に値段が付けられていたというのです。「士農工商穢多非人」という身分制度は、近代以降の歴史学の解釈でしかありませんから、近世において、「士」・「農」・「工」・「商」・「穢多」・「非人」の社会階層毎に、「糞尿」の金額が定められていたということはありません。

近世においては、楠本によると、「肥料価値」を基準にして、「勤番」・「辻肥」・「町肥」・「タレコミ」に区別され、「糞尿」の金額に差がつけられていたのです。

楠本は、「最上等品」は「勤番(大名屋敷勤番者のもの)」、「上等品」は「辻肥(市中公衆便所のもの)」、「中等品」は「町肥(普通の町家のもの)」、「下等品」は、「タレコミ(尿の多いもの)」であるといいます。そして、「最下等品」は「(囚獄・留置場のもの)」であるといいます。それぞれ、有料でもって、周辺農民や業者によってひきとられていったのです。

人の「糞尿」が「汚れ」意識をもってみられるようになる時代は、有料でもって引き取られていった「糞尿」が、逆に、手数料を払って引き取ってもらうことになった以降ではないかと推測されます。

学者・研究者というのは、本当に尊敬に値します。このようなことまで、詳細に渡って調べるのですから・・・。

楠本は、明治20年に、東京農林学校(後の東京大学農学部)の教授をしていたケルネルによって、「人糞尿に関する大がかりな調査研究」が実施されたそうです。彼は、調査対象を「軍人」・「中等官吏」・「東京市民」・「農家」に4分類し、「糞尿中の各種成分のこまかい分析調査が行われた」といいます。

楠本は、その調査結果をこのようにまとめます。「明治政府のもとにあっては、軍人の糞尿がもっとも肥効に富み、ついで官吏のそれが肥効分の高いところからみて、軍人や官吏の待遇が、庶民に比し優遇されていたことが立証される。」といいます。

最後に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がいう、近世身分制度・近代身分制度の「貴賤」の「糞尿」についてとりあげてみましょう。「貴」は近代の「皇居」、「賤」は近世の「牢屋」。

楠本は、「第2部 便所百態」の冒頭でこのように記しています。

「昔からどこでも上流社会と庶民の生活様式には大きな格差があった。とりわけ便所の差は非常に目立つ。庶民は各戸に便所がなく共同便所を使っている例も珍しくはない」。

そして、「戦国武士」・「藩主」・「神主」・「僧侶」・「茶人」・・・等、そして、「天皇」の使用していた「便所」について言及していきます。

本当のことをいいますと、筆者は、楠本のこの文章が目に入ったとき、「皇居」の便所・糞尿について言及することは、ひいては天皇の、便所・糞尿について言及することになるのだから、「不敬事件」にならないのかな・・・と思ったのです。しかし、それは、どうも筆者の勘違いのようです。

「皇居」にあっても、「天皇」においても、「糞尿」は「汚れ」とは無縁のようです(明治新政府は太政官布告を出してすべての「けがれ」を廃止しています)。

楠本は、「上流社会の高級な便所として記録に残っているもっとも古いものは、武田信玄が愛用した便所である。御閑所と呼び広さはおよそ6畳で、絶えず香をたき、このために当番2人が朝昼香炉に火を点じていた。信玄はここでおもむろに戦略をねり、必要があれば部下の将まで呼んだといわれる。」といいます。

楠本は、このようにも記しています。「会津若松の大名屋敷は汲取り式ではなく、便器の下に鉄製の箱が備えてあり、この箱には車がついていて、レールで容易に外に引き出せる構造である。毎日この箱を引き出し、内容物を肥桶に移し、きれいに洗ってからもとに戻していたという。なるほど、これなら臭気のおそれはなく、蠅のでる心配もない・・・」。

さて、皇居の便所についてですが、楠本の文章をそのまま転記します。

「かっては、皇居の便所も汲取り式であったという。密閉の汲取り口をあけて中をのぞいても、まっ暗で何も見えない。金隠シの位置は、傾斜の地形を利用してかなり高いところにあったようだ。汲取った糞尿は肥桶で200メートルほど離れた小屋がけをした立派な貯留槽に投入した。ここまで来るには山の中を歩くようで、いつもきれいな取りがいたり、ときには大きな蛇に驚かされたこともあるという。おそらく、貯留槽に貯えた糞尿は腐熟し液肥となってから、皇居内の水田にも施肥されたのであろう・・・」。

天皇や皇室の「糞尿」は、皇居の外部に持ち出されることもなかったし、「百姓」に売却されることもなかったようです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が、身分制度の最下層と位置づける「穢多・非人」の糞尿はどのように取り扱われていたのでしょうか。江戸の弾左衛門の「糞尿」は、「藩主」ないし「勤番(大名屋敷勤番者のもの)」クラスの扱いをされていたようですが、それでは、その配下の一般の「穢多・非人」の「糞尿」はどのように取り扱われていたのでしょうか・・・。

「穢多」と「糞尿」、「部落」・「部落民」と「糞尿」・・・について言及することは、筆者にはためらいが生じてきます。「部落解放同盟の方」から、「被差別部落」を差別していると激怒されるかもしれませんから、読者のかたの想像にゆだねてこの文章を終えます。

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※ほんとうの歴史学者は、「けがれ」をとりあげ、研究調査の結果、その「けがれ」を解明・解体します。日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に立つ、「似非学者」・「似非研究者」・「似非教育者」・「似非運動家」は、「被差別民衆」を執拗に「けがれ」につなぎ止めようとします。「けがれ」を、「部落」・「部落民」の「実態」であると主張します。「混穢の制廃止」の太政官布告にみられる、「すべてのけがれを廃止する」という「天皇の聖旨」を無視・否定して、今日の時代にあっても、「部落」・「部落民」にまつわる「けがれ」が実体として存在しているかのように論評するのです。日本の近代化・民主主義化の時代の流れにさからって、「けがれ」論を振りかざし、被差別民衆をいろいろな差別に拘束してきた学者・研究者・教育者・運動家こそ、最大かつ最悪の差別者であった・・・、と『部落学序説』の筆者は考えざるを得ません。 

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