2006.01.25

民衆の視角

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第1項】民衆の視角

1月24日(火曜日)、NHKで「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組が放送されました。今回の主題は「世界を制した路地裏のパティシエ」で、洋菓子のパティシエ・杉野英実が主人公でした。

NHKのニュースに引き続いて、偶然この番組をみはじめたのですが、この番組をみながら、昔、宗教教師となったころ(25年前)のことを思い出しました。

私の最初の任地は、神奈川県横浜市の某団地の中にある教会でした。赴任した年、神奈川教区の執行部に呼び出されて何度も、なぜ宗教教師になるのか、「質問」というより「尋問」を受けました。最後は、教区総会で、なぜ宗教教師になるのか、総会議員全員の前で、所信表明をさせられました。

そのとき筆者が語ったのは、「私は、みなさんと違って、学歴も資格も持ち合わせていません。しかし、私は、皆様のように高度な知識と技術を持ったエンジニアのような存在にはなることはできませんが、「み言葉の職人」として、生涯をかけて聖書解釈に磨きをかける努力をしていきたいと思います。」という言葉でした。

そのとき、議場からヤジが聞こえてきたのを覚えています。「学歴も資格も持っていない人は、さすが言うことが違う・・・」。ほめられているのやら、けなされているのやら、はかりかねているうちに、私に対する「口頭試問は終わってしまいました。

その後の、周囲の方々が私を見る目から判断すると、「ほめられた」のではなく「けなされた」ということを認識せざるを得ませんでした。

私は2年間で、神奈川教区をあとにしました。高学歴の牧師や信徒によって、「はじきだされた・・・」というのが大方の評価のようでした。都会の教会には、無学歴・無資格の牧師は相応しくない・・・というのが、私をとりまく精神世界のようでした。

山口の地に来てからも、私は、「み言葉の職人」になることをこころがけてきました。無学歴・無資格でも「職人になることはできるでしょうから・・・。

私は「職人」という言葉がとても好きです。

この言葉が好きになった理由は、ある出会いにあります。私が、某商社に勤めていたとき、商社の近くに、ダルマ看板店がありました。勤めていた商社は、繊維機器関連のイタリア・ドイツの機器を扱っていましたが、時々、展示会をします。そのとき、経費節減のため、展示会用のディスプレイを私が作成していたのですが、そのとき必要な材料を分けてもらいに、そのダルマ看板店に出入りしていたのです。

あるとき、「レタリングの方法を教えていただけませんか・・・」とお願いしたことがあります。すると、ダルマ看板店のおじさんは、「教えることはできないけれど、ひまがあったら見にきていいよ」というのです。私は、勤務をはやく終えた日や土曜日に、ダルマ看板店を尋ねて、おじさんが看板を作成したり文字を書いたりしているのを見せてもらいました。

あるとき、ダルマ看板店のおじさんが、「アルバイトをしてみないか?」というのです。それは、垂れ幕に水性塗料で文字を書く仕事でした。私は、何度も何度も納得がいくまで下書きをして、それを原寸大に拡大することで5、6メートルの垂れ幕を書き上げました。

そのおじさんは、ときどき、アルバイトをさせてくれるようになりました。そんなある日、今度は、プラスチックの電照看板を作ってみないかというのです。私は、2級技能士訓練課程『広告美術科』の教科書を入手して、基本を頭に入れた上で、そのアルバイトを引き受けることにしました。そして、ダルマ看板店のおじさんが紹介してくれた注文主を尋ねたのです。

そこは、「バー」でした。注文主は、けばけばしい服装と化粧の女性でした。私は、高校3年生のとき、端典組合教会の宣教師から洗礼を受けてクリスチャンになっていましたから、「バー」・「飲み屋」に行くことなど、とても考えられませんでした。その「バー」に入ったとき、私は、「自分がくるべきところではない・・・」と思って、「仕事を引き受けることができない」と言って、断って帰ってきました。

その足で、ダルマ看板店に行くと、おじさんが、顔色を変えて詰め寄ってくるのです。「せっかく、仕事を紹介してあげたのに、どうして断って帰ってくるのだ。理由はなんだ!」。あまりにも激しい口調で言われるので、私は私の本当の気持ちを話しました。

すると、おじさんは、「職業に貴賤はないよ。飲み屋のおばさんやおねえさんの仕事だって、立派な仕事だよ。君は、商社の仕事が立派で飲み屋の仕事はそうでないと考えているようだけれど、それは間違いだ。」というのです。

そして、奥から一枚に地図を持ち出してきて、それを開いて私に見せながら、「この地図は何の地図かわかるか」というのです。

それは、そのおじさんが、戦争中に徴兵されて満州に動員されていたときの「作戦地図」だというのです。そして、「この戦争で、徴兵された人の中で、一番多く戦死者を出した職業は何だったか、分かるか・・・」というのです。

私は、「軍人・・・」と答えたのですが、そのおじさんは、「君のいう軍人というのは、職業軍人のことだろう。職業軍人は、そんなにたくさん死んではいない。死ぬのは、前線に送り込まれたただの兵隊ばかりだ。その兵隊の中で、どの職業の人が一番死ぬ確率が高かったのか聞いてるんだ・・・」というのです。

ダルマ看板店のおじさんは、私と同じで、小柄な人だったのですが、私の目にはだんだん大きく映ってきます。

そのおじさんの話では、かつての戦争の中で、一番戦死者を多く出した職業は「看板屋」だったというのです。その理由を話してくれました。

日本軍が中国の町や村を襲撃して支配に置くと、その町や村の建物に、その町や村が日本の占領下に入ったことをペンキで書いていったというのです。銃を持った数人の兵隊に守られながら、建物の壁に日本の占領地であることをペンキで書いていったというのです。それは、中国の人々にとってはこの上ない屈辱であったというのです。そのため、建物の壁に占領地であることをペンキで書いている「看板屋」の背中をめがけて、中国の人々が発砲してきて、たくさんの「看板屋」がその鉄砲の玉でいのちを落としたというのです。あの戦争で一番戦死者を出したのはペンキと筆を持った「看板屋」で、勲章を胸に付けた職業軍人ではない・・・というのです。

そのおじさんは、「その時代のことを考えると、飲み屋のおばさんのために看板を作るのに何の問題があるのか・・・」と筆者に突き詰めて問うてくるのです。

そのおじさんが見せてくれた「作戦地図」には、いたるところに十字のマークがついていました。「このしるしは何ですか・・・」と尋ねると、「君が信じている教会があった場所だ」というのです。日本軍は、中国の町や村にある教会を、軍事行動をとるときのひとつの指標にしていたのです。

ダルマ看板店のおじさんは、父親が息子を叱るときのように、私を叱りつけました。そして、何度も何度も、「職業に貴賤はない・・・」と繰り返しました。

そのとき、私は、宣教師から教えられた、宗教改革者のマルチン・ルターが「職業」を「召命」と呼んだ意味を思い出していました。この世の中のどの職業も、神によって召された職業であって、職業の如何によって人を差別することはよくない・・・と、そのとき心の底から認識したのです。

人生の中で、ひとは、いろいろなひとに出会います。私も、いままでいろいろなひとに出会いましたが、私の生き方やものの見方、考えた方を根底から変えてくれた出会いというのは、それほど多くはありません。ダルマ看板店のおじさんとの出会いは、私にとってはかけがえのない出会いになったのです。上へ上へと垂直的に昇ることではなく、もっと広い視野でホリゾンタルにこの世を見ていく大切さを知らされたのです。

そのとき、「職人」という名の人々の「素晴らしさ」を発見したのです。

無学歴・無資格である私が、無学歴・無資格を棄てて、上へ上へと上昇指向でやがて学歴や資格をとって、とったあとは無学歴・無資格の人々を見下しながら傲慢な生き方をする・・・そんな、人生の選択をそのとき、私は棄ててしまったのです。無学歴・無資格のまま生きて、「職人」として生き続けよう・・・、と。

私は、結局、27歳のとき、宗教家になる道を選択しましたが、生き方の本質は、「技術者」のそれではなく「職人」のそれであると思っています。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、洋菓子のパティシエ・杉野英実の映像を見ながら、ダルマ看板店のおじさんの話を聞いたときのように、パティシエ・杉野英実の言葉に耳を傾けました。

私はビデオ装置をもっていませんから、番組をみるときは、いつも紙と鉛筆を横において、こころに残った言葉は書き残すようにしています。流れるようにあらわれては消えていく字幕の文字を正確に書きとどめることは至難のわざです。見間違い・読み間違いがあるとは思うのですが、パティシエ・杉野英実はこのように話していました。

自分の師として仰ぐことができると思われたパリの洋菓子店にやっと弟子入りすることがかなったとき、杉野英実はある意味がっかりします。そこで使用されている材料はどこでも手に入るありふれた材料であったし、料理法は、料理専門学校で教えている方法とまったく同じであったというのです。それなのに、完成された洋菓子には独特な香りと味があります。それはどこからくるのか・・・。その秘密は、「全数検査」(杉野英実の話を聞いた瞬間その内容が私の頭の中でこの言葉に置き換わってしまったので、もとの言葉が何だったのか思い出せません)して、規格外をすべてはずして商品にしないことと、基本的な料理法に徹し手抜きをしないということにあると気付いたというのです。

あたりまえを
積み重ねると
特別になる。

というパティシエ・杉野英実の言葉に深い共感を覚えました。

パティシエ・杉野英実流の「職人の発想法」は、「記憶を組み合わせて新しいものを生み出す」ところに、その特徴があります。人生の中で身につけたさまざまな「記憶」(学習内容)を思い起こしながら、それをいろいろ組み合わせることで、新しいもの作り出すことができる・・・。パティシエ・杉野英実の言葉は、「地域の歴史を知るためには、そこの歴史をすみずみまで明らかにしてくれた書物がなくても、バラバラの経験を整理する頭と、努力さへあればよいのである。その頭の根本は、大きくは物事を合理的に考えることであり、さらにその根本は素直に物事をみ、素直に整理していくことにある。・・・」という、『地方史研究法』の著者・古島敏雄の言葉と同じ響きがあります。

パティシエ・杉野英実は、「あたりまえ」を貫くことの大切さを訴えていました。杉野は、「発想が行き詰まったとき、答えは現場にある」といいます。

また、「プロフェッショナル」というのは「永遠の未完成」のことであるというのです。「今日よりも明日、明日よりも・・・自分をもっと高めていかなければならない」というのです。

『部落学序説』の筆者である私は、徳山市立図書館の郷土史料室の資料と筆者の所有している市販の若干の書籍・雑誌という、誰でも入手可能な一般書を材料に、それを組み合わせ「非常民の学」として再構築する営みを続けていますが、筆者の営みは、学者・研究者・技術者のそれではなく、「職人」のそれであると思うのです。

パティシエ・杉野英実は、「満足したら進歩はしない」といいます。パティシエ・杉野英実にとって、「職人」とは、永遠に学びつつ進歩し続けるひとのことです。

『部落学序説-非常民の学としての部落学構築を目指して』は、無学歴・無資格の筆者の手になるものですが、職人」のいとなみとして、これからも磨きをかけ続けなければ・・・と思っています。

たかが素人学、されど素人学・・・。

学者・研究者・教育者が持つことができない「民衆」の目から、また「旧百姓」の目から見た明治4年の太政官布告を検証していきたいと思います。 

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2006.01.30

「旧百姓」の視角

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第2項】「旧百姓」の視角

しばらく『部落学序説』の執筆から離れていました。といっても、5日間ですが、筆者にとっては、相当長い時間離れていたような気がします。ほんとうは、毎日、毎日、原稿を書き続けなければならないのでしょうが、何分、微才微能ゆえに、思うようにはなりません。

この文章の題に、「「旧百姓」の目から見た・・・」という表現を用いていますが、なぜ、「平民」ではなくて旧百姓」なのか・・・、どこからか、そのような質問が出てくることを期待していたのですが、どこからもそのような質問はありませんでした。

「旧百姓」「平民」・・・、両概念はどのような関係があるのでしょうか。

一般的には、「旧百姓」=「平民」という図式が成立しているようですが、「旧百姓」という概念と「平民」という概念はまったく同じ概念なのでしょうか。「同一概念」であるとしたら、両概念の「外延」(構成要素)と「内包」(共通属性)は完全に一致しなければなりません。

ところが、「旧百姓」という概念と「平民」という概念の「外延」と「内包」を比較検証していて気付いたのですが、両概念の間には、相当大きな隔たり、差異があります。「旧百姓」「平民」とは、必ずしも同じ人々を指しているわけではないのです。

『広辞苑』(初版)をひもといてみますと、「平民」についてこのような説明があります。「①官位のない普通の人民。庶民。②1869年(明治2)設定された族称の一。士・農・工・商の士を除くものを呼び、華族・士族の下位。1947年廃止。(以下略)」

『広辞苑』では、明治2年にすでに、「平民」という言葉が使用されていたようですが、そのあとも、明治政府の公文書には、「平民」という概念だけでなく、それ以前に使用されていた「人民」・「庶民」という言葉が多用されていますので、「平民」という概念の外延と内包が定着するのには、相当時間がかかったように思われます。

松島栄一(平凡社世界大百科事典)によると、「1871年(明治4年7月)には廃藩置県があってから、武士は士族と呼ばれることとなった。このとき、これらに対応して、一般の人民を、平民とよぶこととなったのであった。」そうです。

『広辞苑』と『平凡社世界百科事典』の用語の説明に従いすまと、「平民」という概念は、「士族」という概念が明確化されることによって、はじめて、定義付けが可能な概念ということになります。「平民」「平民」であって、決して、「士族」ではない、その両者の間には、明確な線引きがなされていたということになります。

この文章で取り上げている、「穢多非人ノ称廃止」廃止は、廃藩置県(明治4年7月)が行われた直後(明治4年8月)に布告されています。そして、旧「穢多非人」は、戸籍上、「平民」に加えられ、明治政府や地方行政によって「平民同様」の扱いがなされていきます。つまり、廃藩置県後も、「平民」概念の外延の拡大、ひいては内包の変更が行われているのです。

「平民」概念の外延が、国内政治上、実質的に確定されるのは、明治5年1月、それまで「卒族」と言われた人々のうち、「世襲の卒は士族に編入」され、それ以外の「卒族」「平民」に組み入れられます。旧「穢多非人等」「平民」に組み込まれたあとも、「平民」に組み込まれた人々がいたということです。

さらに、明治5年11月には、「平民で任官の者が、士族に編入された」(ひろたまさき『差別の視線 近代日本の意識構造』吉川弘文館)のです。その時点で、任官されているひと(官吏・公務員)は、先祖伝来百姓の末裔であるにもかかわらず「士族」に組み込まれたのです。

平民」という概念に、卒族の一部・「穢多非人等」が、その外延に加えられることになり、その外延から百姓出身の官吏・公務員が除かれていったのです。

つまり、「平民」という概念が、「皇族・華族・士族・平民」という近代身分制度の中の「平民」として位置づけられ、その概念の外延と内包が確定されたのは、明治5年11月頃になると考えられます。

確かに明治2年頃、「平民」という概念が既に使用されていたのかも知れませんが、今日の歴史の教科書に出てくるような形での「皇族・華族・士族・平民」の中の「平民」は、明治政府が「平民」という概念を採用して数年後になってはじめて確定していくのです。法制度上からみると、「平民」概念の確定は、大日本帝国憲法の成立をまたなければなりませんが、筆者は、事実上、明治5年11月頃に、「平民」という概念は、明治政府・近代中央集権国家の身分制度をあらわす言葉として日本の社会の中に定着していったと思われます。

近世幕藩体制下の「旧百姓」「平民」とされてから、近世幕藩体制下の「旧穢多」「平民」とされるまでの時間的へだたりは、わずか2年程度にすぎません。両者が、「平民」にされてから、その概念が固定されるまでにはさらに1年数ヶ月を要しています。

つまり、「旧百姓」「平民」と呼び、それを前提として、「旧穢多」「新平民」と呼ぶには、そうとう発想に無理が生じてきます。現代のような情報社会ではありません。明治政府が出した布告が、瞬時にして、日本の津々浦々に配信され、短期間に周知徹底されるというようなことはほとんど考えられません。明治4年の太政官布告第488号・第489号の「穢多非人ノ称廃止」廃止に関する布告ですら、日本全国の津々浦々に伝播するためにはそうとう時間を要しているのです。

「旧百姓」「平民」あるいは「古平民」とよび、「旧穢多」「新平民」とよぶことができるための時間的な差というのは極めて少ないのです。短時間の間に、「旧百姓」「平民」であり、「旧穢多」「新平民」であるという命題が一般化していったのでしょうか。筆者は、想像することすらできません。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者は、「平民」という概念を、「近世幕藩体制下の百姓」=「近代中央集権国家の平民」という図式のもとで解釈してきました。そのため、今日、その研究論文をひもとく人々は、「平民」という概念でもって、近世幕藩体制下の「農・工・商」と近代中央集権国家の「農・工・商」を同時に解釈することになってしまうのです。

権力の奉仕の学としての日本の歴史学のひずみのひとつがここにあります。

『部落学序説』では、長州藩の史料をもとに、近世の身分制度を「武士」・「百姓」という2大範疇で把握してきました。明治政府は、近代中央集権国家の身分制度を創設するために「士族」・「平民」という2大範疇を作り出していきました。

史料をすなおに読みますと、下記ふたつの等式は成立が困難になってきます。

近世幕藩体制下の「武士」=近代中央集権国家の「士族」
近世幕藩体制下の「百姓」=近代中央集権国家の「平民」

近世から近代へ、江戸時代から明治時代へ、その移行に際して、明治政府から、「人民」・「庶民」と呼ばれていた日本国民は、「百姓」から「平民」へ、概念の変遷と共に、その概念にともなう「外延」と「内包」を大きく変えられていったのです。

近世幕藩体制下において、「百姓」として、その自覚と責任を持って生き抜いてきた人々は、明治新政府によって打ち出される旧百姓」の解体、そのあとに続く「平民」化に、敏感に反応します。『明治初年解放令反対一揆の研究』の編集者・好並隆司は、日本の歴史学者の中には、「百姓を愚民とする見方が基本にある」と指摘しています。彼等は、「明治初年の諸一揆は農民の愚行に過ぎず」「新政府の諸政令の一貫としての解放令も農民には理解できなかった」とみるというのです。

好並は、「明治初年解放令反対一揆」の史料・伝承と、「歴史学研究における定説」との間に「背理した実態」があるといいます。「このようなズレを正しく埋める理論的・実習的作業が今日とりわけ重要であり・・・明確な解答をださなければならない義務が研究者には求められている。」といいます。

筆者は無学歴・無資格・・・、「研究者」に列するものではありませんが、近世幕藩体制下の「百姓」≠近代中央集権国家の「平民」という命題のもとに、一般的に言われる「部落解放令反対一揆」の本質を、「平民」ではなく、「旧百姓」の立場から迫っていきたいと思います。
 

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2006.01.31

「旧百姓」概念と「平民」概念

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第3項】「旧百姓」概念と「平民」概念

『部落学序説』の基本的な命題として、近世幕藩体制下の人民は、「常民と非常民から構成される」と説いてきました。

「常民」と「非常民」が区別されるようになったのは、中世末期の「刀狩令」に由来します。

「諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てつぽう、其外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候・・・」として、全国の百姓から、軍事・警察に関係する諸道具が取り上げられます。

「刀狩令」の是非はともかく、「刀狩令」が徹底的に施行されることによって、軍事・警察に関与するひとと、そのいとなみから免除されるひととがでてきます。軍事・警察に関与するひとは、自分たちに与えられた権力を駆使して、社会の治安維持を実現しなければならなくなります。そして、その保障の中で、百姓たちは、自分たちに与えられた「農・工・商」という職務に忠実に精を出すことができるようになります。

江戸幕府は、その政策を継承することになります。

筆者は、「軍事・警察」に関与する人々のことを、当時の史料・伝承から、「非常」に関わる民、つまり、「非常・民」として認識したわけです。そして、「非常・民」以外のすべての人々を「常・民」として概念化しました。

近世幕藩体制下の民衆を「非常・民」・「常・民」として理解することは、長州藩の史料からも、その認識の正当性を確認することができました。『防長風土注進案』によると、近世幕藩体制下の民衆は、「非常・民」である、「藩士」・「士雇」・「穢多」・「非人」・「手子」・「村方役人」と、「非常民」以外の「常・民」である「百姓」に分類されます。この「百姓」の中には、「農・工・商」だけでなく、「海の民」・「山の民」・「神主・僧侶」・「医者」・「座頭・瞽女」等も含まれてきます。

「非常・民」を明らかにすることで、それ以外の「常・民」もその姿が明らかになってきます。

近世幕藩体制下の「常・民」である「百姓」は、「刀、脇指、弓、やり、てつぽう、其外武具のたぐひ所持して、他者に傷害を負わせたり、殺害に至ったりすることはなくなったのです。治安維持は、帰属する藩の才判や郡の代官所によって維持されることになったのです。「むら」の近くには、「村内捕亡吏」としての「宮番」(長州藩では穢多身分)・「茶筅」が配置されていたのです。

「非常・民」と「常・民」を区別する社会システム・法システムは、戦後の日本社会に酷似しています。一般の国民は、「非常時」に際しても、「軍事」・「警察」のいずれの場合にも、実働部隊として組み込まれることはありません。「非常時」に、その手に戦闘用の機関銃を手渡されることもないし、また犯人逮捕用の銃を渡されることもないのです。近世幕藩体制下の「非常・民」と「常・民」を区別するシステムは、戦後の日本の社会システム・法システムにきわめて酷似しているのです。

近世幕藩体制下の「百姓」は、徳川幕府300年間に渡って、「常・民」として生き続けることが許されていたのです。「武士」によって武力で支配されるというマイナスの面だけでなく、「非常」(軍事・警察)に関わることがなくなったことで、「常」(日常の経済生活・社会生活)に勤しむことができるというプラスの面も享受していたのです。

それが、明治の時代にはいると、近世幕藩体制下の「百姓」は解体され、「平民」として、再構築されていきます。

明治の時代にはいってから、しばらくは、近世幕藩体制下の「百姓」はそのまま「百姓」として生き続けることになりました。明治政府の王政復古の方針は、まさに、「百姓」「百姓」として生き続けることができる保障でもあったのです。ですから、明治2年に、「旧百姓」「平民」にされたとき、「旧百姓」は、「旧百姓」「平民」として受け止め、明治新政府に何ら疑念を抱くことはありませんでした。

軍事に関与した「非常・民」である「旧武士」「士族」として「平民」から区別されていましたし、「穢多非人等」は、いまだ、「非常・民」として「平民」の外に位置づけられていました。しかし、明治4年7月に太政官布告第488号と第489号が布告されることで、「旧百姓」の置かれた状況が一転してしまいます。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」は、その「身分」・「職業」(家職)が「平民同様」とされます。そして、司法・警察としての「役務」は、「半解半縛」のかたちで中途半端な処遇にとどまります。「平民」は、どの「旧穢多」が、現在、司法・警察の職務に従事している「旧穢多」なのか、またどの「旧穢多」が司法・警察の職務から解放された「旧穢多」なのか、適宜判断せざるを得ない状況においやられます。

近世幕藩体制下では、ある程度、目に見える形で存在していた司法・警察である「非常・民」としての「穢多」は、明治4年の太政官布告第488号・第489号が公布された以降は、きわめて不明瞭な存在になり、司法・警察である「旧穢多」は、「平民」の外にではなく、「平民」の間に存在するようになります。

近世幕藩体制下では、「百姓」身分がこころおきなく発言することができた「料理屋、風呂屋、髪結所」において、自由に政治談義をすることができなくなります。お酒を飲みながら、銭湯に入りながら、髪を結ってもらいながら、何気なくうわさ話をしたことが、司法・警察であるかないか特定できない「旧穢多」身分の耳にでも入ろうものなら、いつ密告され摘発の対象とされるか知れません。

備前岡山では、司法・警察である「旧穢多」を排除し、これまでどおりの「旧百姓」の平和を確保するため、「風呂屋」を会員制の「町風呂」にしてしまいます。「町風呂」は、従来の利用客に「木札ヲ与ヘ置キ是ヲ証トシテ浴セシム」(明治4年11月の民部省地方巡察使の報告)対応策をとるのです。

特に、キリシタンの摘発に関しては、あらぬ疑いを「宗教警察」でもあった「旧穢多」からかけられ当局から摘発の対象にされると、その風評被害は深刻なものがあります。明治新政府の施策で、「身分職業」平民同様」になった「旧穢多」ですが、あいまいなまま放置された司法・警察である「非常・民」としての「役務」が、「旧百姓」「旧穢多」との間に近代的な齟齬を生み出すのです。

実際、明治新政府のもとでも「冤罪事件」はあとを絶たなかったといいます。

「旧百姓」は、「旧百姓」(常・民)と「旧穢多」(非常・民)が同じ「平民」にされたことで、明治新政府が「平民」という概念にこめた意味を如実に察知するのです。明治新政府は、近世幕藩体制下300年間守り通してきた「常・民」・「非常・民」の区別をあいまいにし、「非常・民」(旧穢多)を「常民」(旧百姓)化し、「常・民」(旧百姓)を「非常・民」(旧穢多)化しようとしていると。

明治4年11月高知県で起こった「明治政府反対一揆」(膏取一揆)の際、名野川・大崎の両村が出した嘆願書には、このようなことばがでてきます。「穢多新在家ニ相成リ、穢多ガ百姓ましわり仕候時、何忠勤に相成候。百姓穢多なされて何之用通か・・・」。この嘆願書は、「穢多(非常・民)を百姓(常・民)にして何の役にたつか」「百姓(常・民)を穢多(非常・民)にして何の役に立つか」という、明治新政府の身分政策を根底から批判したものです。

「むら」によっては、「穢多(非常・民)平民(常・民)ニ相成不帰服之事」という要求を掲げる場合もあったといいます。

一般的にいわれる「解放令反対一揆」は、「穢多(非常・民)」が「平民(常・民)」になることへの反対・反発にとどまらず、「平民(常・民)」が「穢多(非常・民)」にされていくことへの激しい反発でもあったのです。

明治天皇制イデオロギー用語である「平民」概念は、近世幕藩体制下の「百姓」概念と違って、「常・民」ではなく「非常・民」としての属性を持っていたのです。「平民」は、近世幕藩体制下の「百姓」と違ってその手に銃を持たされ、戦場に駆り出され、「常・民」が最も忌み嫌っていた、人間の血を流す行為にさらされる可能性があることを直感していたのです。

《四国における解放令反対騒擾研究序説》の著者・三好昭一郎は、「穢多新在家ニ相成リ、穢多ガ百姓ましわり仕候時、何忠勤に相成候。百姓穢多なされて何之用通か・・・」という言葉を、「民衆の誤った解放令の理解」と一蹴してしまいますが、誤っているのは、「解放令反対一揆」を起こした民衆ではなく、今日の時代にあって、それを研究する学者・研究者・教育者の方ではないでしょうか。 

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2006.02.01

「旧百姓」の一揆要求

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】「旧百姓」の一揆要求

上杉聡著《新段階をむかえた「解放令」反対一揆研究》(『明治初年解放令反対一揆の研究』明石書店)の中に、「明治初年の部落解放反対騒擾年表」があります。

「年月日」「現在府県名」「当時府県名」「当時郡名」「概要」「参加人員」「部落の直接的被害」の7項目の一覧表形式になっているのですが、その表をみると、最初の「解放令反対一揆」は、明治4年10月13日の兵庫県で起きた一揆、最後の一揆は明治10年2月25日に熊本県で起きた一揆であることがわかります。

しかし、連番の1~20番までは、明治4年の10月~明治6年8月に集中していますので、明治4年の8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告第488号・第489号をきっかけに発生したと言われる「解放令反対一揆」は、2年間に渡って断続的に発生したと考えられます。

明治4年には8件、明治5年には5件、明治6年には7件の計20件発生したことになります。北は京都、南は宮崎で、「解放令反対一揆」の大半が西日本で発生したことになります。

この数字は、部落史研究の現時点での発掘件数のことで、今後、「解放令反対一揆」の研究の進みぐあいによっては、あらたな「解放令反対一揆」が発掘される可能性もあります。

黒川みどりは、その著『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』において、「「解放令」後から1877年までの間に少なくとも全国21ヶ所で発生したことが明らかとなっているが、それが現三重県域で起こった形跡は見当たらない。しかしながら、田村の場合に見たような対立は、表面化しないまでも各地で存在していたに違いない。」といいます。

好並隆司は、その論文《明治6年美作一揆とその影響》の中で、「一揆要求書・要求表」を掲載しています。

当時の「旧百姓」が、明治4年の太政官布告第488号・第489号に反対して一揆を起こした際、明治政府と地方行政(府県)に対して突きつけた要求は、「貢米免除・断髪・屠牛廃止・桑木植付廃止・地券費(貢金)・耕地図面(貢金)・徴兵廃止・穢多従前通・運上従前通・政事旧幕府立戻・藩主立戻・異人御払・戸長廃止・戸籍廃止・山札取止・旧藩知行・課銭廃止・旧暦使用・当県官吏・電信機廃止・士族卒立置・学校廃止・牛価安定・米穀値下・布告板廃止・藩札交換・神木不伐・神仏維持・物価値下・裸体見許」と実に多様で、その他に「教会放火」という要求もみられます。

『部落学序説』の筆者である私は、明治4年の太政官布告第488号・第489号を契機に発生したといわれるこれらの一揆は、その際に明治中央政府や地方行政に対して出された「要求」の多様さから判断して、「解放令反対一揆」というよりは、「新政府反対一揆」と呼んだ方がより的確ではないかと思います。

「新政府反対」のスローガンの下で、明治維新後も司法・警察である「非常民」として従事してきた「穢多非人等」は、権力の末端機関として、「旧百姓」の仮想「明治新政府」として、抗議行動の対象になっていったのではないかと思います。

岡山県で発生した、明治5年の「備中新古平民騒動」では、「旧穢多」4人が殺害され、明治6年の「美作血税一揆」では、「旧穢多」18人が殺害され、その他にも多数の負傷者を出すという悲惨な結果をもたらしましたが、その一揆ですら、どちらかいいますと、「解放令反対一揆」というよりは「新政府反対一揆」と呼んだほうが歴史の事実により近いと考えられます。

好並の「一揆要求書・要求表」を見ますと、「旧百姓」「権力」に突きつけた要求の中で、もっとも突出しているものは、「徴兵廃止」「穢多従前通」のふたつです。しかも、「徴兵廃止」「穢多従前通」とは、同時に要求される場合が多いのです。

『部落学序説』の「非常民」理解に立って、「徴兵廃止」(軍事)と「穢多従前通」(警察)という要求項目を見ますと、それらは、「旧百姓」が、明治新政府の方針によって、「常民」(手に武器を持たない人々)から「非常民」(手に武器を持つ人々)へと、その属性を大きく変えられていくことへの抗議であったと考えられます。

「旧百姓」は、そのいのちを賭して、近代中央集権国家の軍国主義化(国民皆兵)に否を突きつけていったのではないかと考えられます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠する部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、「百姓を愚民とする見方」(愚民論)に立って、「一揆は明治新政府の文明開化を理解しなかったため起こした」と考える傾向があります。「明治初年の諸一揆は農民の愚行に過ぎず」と断定し、「旧百姓」「旧穢多」に対する襲撃事件は、「民衆間の内部対立」に過ぎないと判断します。

「備中新古平民騒動」「美作血税一揆」は、その本質において「新政府反対一揆」であったにもかかわらず、その一揆の原因と結果を考察する際に、明治新政府の関与と責任を免罪してしまう傾向があります。「旧穢多」に対する襲撃事件の責任は、「国家」ではなく「民衆」にあると・・・。

明治新政府は、「旧百姓」による「新政府反対一揆」を徹底的に弾圧します。明治新政府は、地方行政(府県)に対して、「一揆では1000人までは殺してもいい」と強攻策を指示します。「新政府反対一揆」は、権力によってことごとく頓挫させられていきます。

明治4年~6年の「新政府反対一揆」の間、「旧穢多」は、日本全国津々浦々において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務になんらかの形で関わっていたことを忘れてはなりません。「旧穢多非人等」は、民衆の側ではなく、権力の側に身を置いていたのです。

「旧平民」の「常民」であり続けたいという要求の正しさは、やがて歴史が証明します。

熊本県士族で儒学者であった太政官官吏・木下真弘は、明治9年~10年にかけて、「明治新政の具体的諸成果を、旧幕時の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした史論三部作」を執筆します(岩波文庫『維新旧幕比較論』)。その中に、「兵制」「警察」に関する文章があります。

太政官官吏・木下真弘がとらえた、「旧百姓」(民衆・平民)の姿を見てみましょう。

木下は、「兵制の改定、日尚お浅きや。農商より出る者、戦に臨み逡巡するの憂あり」といいます。「旧百姓」は、平時にあっては官費を費やすことがないにもかかわらず、一端、徴兵された場合は、昔時の武士も及ばないほど、「皆弾丸を冒し、白刃を踏み、血闘奮撃、死して顧みず」、「戦地に在ては奮前決死する」というのです。「常民」である「旧百姓」を「非常民」である「平民」に組みかえ徴兵制を敷いたことを評価して、「断然古制の非にして今制の是なるを知る」というのです。

しかし、木下のレポートは、明治新政府の方針の自画自賛にとどまりません。

木下は、「しかりといえども」と次のように切り出すのです。「各地に就いて徴兵の情を察するに、父母に別れ家郷を離れ、遠く戦地に苦役せらるるを悲しみ、規避(徴兵拒否)百端、終に泣決して伍に入る者すくなからず。己に戦地にありては、将校の節制を受け、奮前決闘能く死を致すといえども、死報家に至れば、親戚哀痛限りなく、老者あるいはこれがために命脈を縮むるに至る。新たに徴発(徴兵)せらるる者は、これを見て規避(徴兵拒否)をなす、また前日の比にあらず。且曰く、租己に軽からず、又戦に没せられる。曰く、死傷すれば一家餓死を免れずと・・・」。

幕末期まで、「常民」として、人を殺害するための武器を持つことがなかった「旧百姓」は、明治になって、「旧百姓」から「平民」に身分替えされて、「非常民」として、人を殺害するための武器を持って戦場へと駆り出されていくのですが、徴兵拒否をするも、そのあとには糾弾と拷問がまっていることを考えると、多くの「旧百姓」は天皇の名をかりた明治新政府の命令に従わざるを得なかったのでしょう。

「某地出兵の子、戦死して鬢髪家に至る、老父悲嘆終に臥して起たず・・・」。

「旧穢多」であったもののうち、「巡査」として採用されていた者は、本来捕亡に長けて、「拿捕を能くするの性質」を持っていたため、幕末の「穢多」と同様、戦場における「斥候」として徴兵されていったのです。脱走する「旧百姓」出身の兵の探索・逮捕にも従事していたのです。「穢多非人ノ称廃止」がなされ、「旧百姓」と「旧穢多」が同じ「平民」にされたとはいえ、戦闘地域にあっても非戦闘地域にあっても、「旧百姓」と「旧穢多」との間の隔絶は、「権力」というメルクマールによって判然と区別されていたのです。

木下は、太政官官吏として、次のような報告を三条実朝・岩倉具視にしています。

「凡そ徴発に当たる富者は規避の計を為し易し。貧者は免るること能わず」。ひとたび徴兵されると、「生計たちまち障害を生じ、不幸にして重傷および死亡すれば、扶助料下賜ありといえども、一家これがために倒哀す・・・」。

明治6年の「美作血税一揆」は、「明治新政府の文明開化を理解しなかったため」「愚民」によって起こされたものではなく、時代の流れを読むことができた聰明な「旧百姓」によって、軍事に携わる「非常民」として徴兵されることがもたらす「旧百姓」の悲惨を先取りして抗議したものといえるでしょう。明治新政府に賛成するも反対するも、明治天皇制イデオロギー用語としての「平民」は、「吐痰の苦しみ」を味わうことになるのです。

明治維新の「勝ち組」となった「富者」は、詭計をろうして徴兵からのがれ、「負け組」となった「貧者」は、徴兵されて戦場の露と消え、遺族の上に降りかかる経済的困窮と愛するものを失った悲しみ・・・。「告諭」のいう、「下民ノ苦シミ見ルニ不忍」とて「王政復古」を決心された「天皇の聖旨」とは一体何だったのか・・・。「旧百姓」の素朴な問いと歎きも、近代中央集権国家の「権力」によって握り潰され踏みつぶされていきます。

「いっきょに多数の戦没者を出した西南戦争は、東京招魂社(靖国神社の前身)の性格を大きく変える契機」(村上重良著『慰霊と招魂 靖国の思想』岩波新書)となっていきます。東京招魂社は、戦没者とその遺族を慰撫し、再び戦場へと送り出す国家的な装置と化していったのです。西南戦争終結から2年後、東京招魂社は「靖国神社」と改称されていきます。

昭和20年(1945)太平洋戦争終結によって日本の軍隊が解体されるまで、日本の民衆は、「平民」という名の「非常民」として生きることを余儀なくされたのです。

「解放令反対一揆」は、「愚民」のなせるわざではなく「賢民」のなせるわざであったのです。

《「膏取一揆」『大変記』に関する若干の考察」》の著者・宇賀平は、「民衆自身がその負の遺産を直視すること抜きには、虚飾の歴史から我々は解放され得ない」といいますが、宇賀平の意図を越えて、その言葉のとおりであると筆者は思います。 

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2006.02.02

部落史研究者のみた「解放令反対一揆」

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第5項】部落史研究者のみた「解放令反対一揆」

『部落学序説』の筆者である私は、一般的にいわれる「解放令反対一揆」は、「旧百姓」の「非常民」化政策に対する「新政府反対一揆」として認識してきました。

明治新政府は、近世幕藩体制下の施策を限りなく悪しき圧政として描き、近代中央集権国家のそれを、人民をその圧政から解放する「解放者」の役を演じてきました。明治新政府だけでなく、当時の士族を中心とする知識階級は、近世を民衆にとって「夜」と位置づけ、近代を「朝と位置づけたのです。「夜」「朝」の間の時代を「夜明け前」と解釈したのです。

明治新政府は、「夜」から「朝」へ、「闇」から「光」へ、「古き時代」から「新しき時代」」へ・・・、それ以外の方法で歴史を解釈することを禁じました。そして、それに違背する民衆の側の動きをことごとく弾圧・排除していきました。

明治新政府は、「今ノ一揆ハ昔日ノ一揆ニ非シテ所謂流賊ナリ」と解釈しました。まるで、「新政府反対一揆」を疫病が伝染するかのごとくに忌み嫌ったのです。明治新政府は疫病を根絶するために容赦のない糾弾・弾圧を繰り返したのです。

明治4年の太政官布告第488号と第489号を、近世の「被差別民」(穢多・非人等)を、「賎民」の桎梏から解放し「平民同様」の取扱いをする恩恵を与えられた・・・、と解釈する歴史家は、この明治新政府の方針を忠実に追従しているといえます。その傾向は、戦後にいたるも部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の間で継承されて今日に至っているのです。

戦前の歴史学者として、『国史上の社会問題』の著者・三浦周行をとりあげてみましょう。

その解説を書いた朝尾直弘は、三浦の研究によって、「民衆の歴史解明への幕が開かれ」たといいます。それまでの、「政治的に縦断」する歴史研究から、「社会的に横断」する歴史研究の移行、「社会史と看做す」ことができる研究段階に入ったといいます。そして、三浦の『国史上の社会問題』を「日本社会史として構成された最初の書物」であると評価します。

その『国史上の社会問題』で、一般的に「解放令反対一揆」がどのように認識されているか確認してみましょう。

【社会上の大改革】

「明治の維新は政治上の改革であったと同時に、また社会上の改革であった。明治の初めに徴兵令が発布されて全国皆兵の制度が布かれたが、明治3年には平民にも名字を許され、4年には穢多・非人の称を廃して平民の籍に編入することとなった。何んたる大改革であったであろう。明治4年には穢多の称の廃止に不平を抱いて起った播州の百姓一揆があり、同じく6年から7年にかけては徴兵令の血税なる文字の誤解から惹起された讃岐および東北地方の一揆が起こった。これらはいずれも今日から見れば滑稽に聞こえるけれども、当時の民衆としては無理もない事であって・・・以上を以て国史の各時代にわたったおもなる社会問題を説き終わった」。

『国史上の社会問題』の著者・三浦周行は、大正9年(1920)の時代から、「解放令反対一揆」の時代をふりかって考察するとき、「これらはいずれも今日から見れば滑稽に聞こえるけれども・・・」と評します。「滑稽」という言葉は、日本の社会史の祖としては、ふさわしからぬ言葉です。「滑稽」という言葉で聴衆の耳目を集めるのは、三浦が置かれていた当時に時代状況からやむを得ぬ表現であったのかも知れません。

「社会問題」についての論考にいて、「解放令反対一揆」で筆をおろす三浦は、歴史学者の良心をその行間に託しているように思われます。

「解放令反対一揆」の本質を理解しょうと思えば)「いたずらに事情を異にした西洋の直訳や純理に走るよりも、これらの歴史的事実を顧慮し、参酌して、機宜に適する処置を取った方が、その実効を挙ぐる上に一層望ましいことであろうと思われる。」

しかし、戦後の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者には、三浦が示すような含みはみられません。戦後の学者・研究者・教育者は、何の迷いもなく、日本の歴史学が時をかけて培養してきた差別思想である「賎民史観」に乗っかって、「解放令反対一揆」を、明治天皇の「聖旨」や明治新政府の政治理念を理解できない「愚民」の所業とみなします。

戦後のふたりの歴史学者を比較検証してみましょう。

『部落の歴史と解放理論』(1869年)の著者・井上清と、『いま、部落史がおもしろい』(1996)の著者・渡辺俊雄のふたりです。

井上清は、近世の「被差別部落民」と近代の「被差別部落民」の間に歴史的・時間的「連続」を認識しますが、渡辺俊雄は両者の間に「連続」を認めず「不連続」を認識します。

井上は、「解放令反対一揆」について、「もし本当に農民が解放され部落民が解放され、土地が農民に与えられ、天皇制国家自身がではなくて民主国家がつくられたら、けっしてこんなことはおこりえなかったであろう。えたを差別する、それは自分自身が差別されていることの悲劇でもあった。」といいます。

井上によると、明治天皇や明治新政府の語る言葉と違って、「解放令反対一揆」の当事者である「農民」「部落民」は、ともに、明治天皇や明治新政府によって、差別され抑圧された存在として認識されているということです。井上は、明治新政府は、「農民を本当に理解しなかったので、差別が残された」といいます。井上は、「解放令反対一揆」は、「人民が長い間の差別政策にどんなに深刻にわざわいされていたかを物語る。」といいます。

井上清が「未解放部落」という言葉を使用するときは、「旧穢多」の在所だけでなく、「旧百姓」の在所をも含んでいたのです。井上にとって、「未解放部落」という概念は、決して、旧穢多」の在所だけではなく、一般の農民をも含んでいたのです。

井上清の《「未解放」部落と「被差別」部落》という「随筆」によると、井上清は、戦後まもない1949年にこの「未解放部落」という表現を作り出したそうですが、1年後には、この「未解放部落」という言葉は「適当ではないと思うようになった」といいます。井上は、「日本のすべての労働者・農民も未解放である。それだのに、「未解放部落」の解放運動といえば、封建制からの解放運動になってしまう。これはいけないではないか・・・ 」と考えるようになったといいます。そして、「未解放部落」という表現を追いかけるように表出されていった概念が「被差別部落」であるというのです。井上清の否定にもかかわらず、「未解放」・「未解放」部落という言葉は、井上清の手をはなれて一人歩きしてしまいます。

筆者のところにときどき尋ねてこられる某新聞記者は、最初から最後まで、この「未解放」・「未解放部落」をいう言葉を連発します。「未解放」という言葉には、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」的ニュアンスが漂っています。

現在においても、ある運動団体・研究機関においては、この「未解放」・「未解放部落」という概念の中には、「旧穢多」の末裔だけでなく、「旧百姓」の末裔も含まれているのでしょうか・・・。もしそうだとしたら、その運動団体・研究機関において、「同和対策事業」は、旧穢多」の末裔だけでなく、「旧百姓」の末裔をも包含せざるを得なくなるでしょう。「同和対策事業」「一般事業」化の流れは、このあたりに端を発しているのでしょうか・・・。

一方、『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄は、井上が主張するような近世と近代の「連続性」を真っ向から否定します。

渡辺は、明治4年の「解放令」は、「明らかに歴史の前進」であると高く評価します。そして、「同じ差別であっても、同じ物差しでは測れない」といいます。

渡辺は、近世は「封建的な身分差別」の社会、「解放令」以降の近代は、「差別はない社会」であるといいます。「「臣民」として差別なく生きていく可能性が生まれたことは、大きな前進」であったと評価します。渡辺は、「にもかかわらず、現実には社会的差別がある・・・今日、私たちが問題にしているのは、そうした部落差別であり、部落問題なのです。そうしたあり方は近世からではなく、近代から、「解放令」をきっかけに始まった新しい差別」であるというのです。

まるで、「解放令」は、明治天皇の「聖断」であって、そのこと自体は歴史の前進として評価しなければならない、今日まで存在している部落差別は、その問題から切り離して考えなければならない・・・とでもいいたそうです。

『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄にとっては、『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清と違って、近世の「部落差別」と近代の「部落差別」は、「連続」ではなく「不連続」であるというのです。そして、近代の「被差別部落」が経済的に低位におかれるようになったのは、「解放令」ではなく、「1880年代の松方デフレによってそれまでの伝統的な産業が崩壊」に起因するというのです。

渡辺の理論は、国家権力や天皇制の問題に距離を置きはじめた部落解放運動、部落史研究の時代的な思潮を反映しているのかもしれません。

「たいへんお世話になった」と、渡辺俊雄に謝辞を贈る『地域史のなかの部落 近代三重の場合』の著者・黒川みどりが、近代部落史を、近世幕藩体制下の諸問題を切り捨てて、明治4年の太政官布告第488号、通称「解放令」からはじめるのも、渡辺俊雄等の強い影響があるのかもしれません。

しかし、『部落の歴史と解放理論』・『いま、部落史がおもしろい』の両書において取り上げられていないテーマがあります。それが、近世から近代へ、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として時代の激流を生き抜いていった「旧穢多」の姿です。「夜」から「朝」にむけての「夜明け前」の時代、明治政府の外交問題を絡めた「行政改革」で、「官」から「民へ、「非常民」から「常民」へと、リストラされ、旧体制を象徴するスケープゴートとして在野に追いやられ、辛酸をなめさせられた、伝統的な日本社会の治安のため全国津々浦々に配置されていた「司法・警察」官の姿です。

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2006.03.06

深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件 1.序

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第6項】深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件 1.序

筆者の棲息する建物(礼拝堂+牧師館)は、かなり老朽化しています。どちらかいうと、田舎の古い公民館のような感じがします。

この地に赴任してから20数年、毎年5月の連休の時には、この建物から大量のはねありが旅立っていきました。しかし、ここ数年、駆除が効果を発揮しはじめたのか、それとも、はねありが食べることができる部分は食べ尽くして不要になったために住処を移動したのか、定かではありませんが、飛び立つはねありの数が激減しています。

教会の役員会に何とか対策をとるように何度も訴えたのですが、唯一とった対策が、はねありがでてくる隙間に1メートルくらいのガムテープを貼ることでした。出口をふさがれたはねありは、いろいろな隙間から出るようになり、はねありによる建物被害は、一挙に建物全体に及んでしまいました。

そのとき、押し入れにしまってあった、深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件に関する資料、みかん箱2箱分が、はねありの幼虫に食いつぶされてしまいました。

深津県も北条県も、現在は、岡山県に含まれていますが、廃藩置県直後は、深津県・北条県は、岡山県とは別の県を構成していました。

深津県における穢多襲撃・殺害事件というのは、明治5年に、深津県内で起こった「新古平民騒動」(明山修著・「「新古平民騒動」の研究」)のことです。北条県における穢多襲撃・殺害事件というのは、明治6年に、北条県内で起こった「明治6年美作一揆」(好並隆司著「明治6年美作一揆とその影響」)のことです。

なぜ、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」という部落史上の既成概念を使用しないのかといいますと、それらの名称は、部落史上の定説ではなく、その事件の呼称としていろいろな呼び方が存在するからです。筆者は、手元にある資料の中から、とりあえず、深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件を表す言葉として、暫定的に、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」という言葉を採用しているに過ぎません。

せっかく集めた、この2つの「解放令反対一揆」に関する資料を、筆者は、はねあり被害で失ってしまったのです。

明山修著・「「新古平民騒