2006.01.13

「太政官布告と地方行政」を論じるための資料について

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第1項】「太政官布告と地方行政」を論じるための資料について

明治政府から出された、明治4年の太政官布告第488号と第489号は、極めて簡潔なものです。

[太政官第488号、布告8月28日]
穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事。

[太政官第489号、布告8月28日]府県
穢多非人等ノ称被廃候条、一般民籍ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤モ地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。

この太政官布告は、いわば「穢多非人等ノ称」廃止をめぐる一連の施策の基本方針のようなものです。明治政府は、同年7月廃藩置県によって成立したばかりの「府県」に対して、この基本方針の具体化を求めます。「藩」から「府県」への移行手続きが進められる中、「府県」は、前近代の「穢多非人等ノ称」廃止にこめられた様々な施策を基本方策の形でまとめ、「府県」民に公布します。

その基本方策は、様々な呼び方がされます。「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・。実に多様な呼び方がされていますが、呼び方だけでなく、基本方策の内容も府県によって多様な内容が織り込まれていきます。

明治政府は、明治4年7月の廃藩置県において、近世幕藩体制下の「藩」を解体し、近代中央集権国家に相応しい「府県」に組織替えをしていきますが、「藩」から「府県」への移行に際して、「藩」制度が大きく障碍になったであろうことは想像に難くありません。

近世幕藩体制下の幕府による統治形態は、特定の施策、たとえばキリシタン禁教政策等は、幕府が強権を発動して「藩政」を著しく制限しましたが、それ以外については、「藩政」に大幅な権限を与えていました。

特に、「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」等によって構成される近世幕藩体制下の司法・警察本体である「非常・民」制度については、幕府から「治外法権」を与えられ、それぞれの藩の歴史と状況を踏まえて独自に構築されていましたから、明治4年7月の廃藩置県によって、「藩」が解体された直後というのは、「非常・民」制度は実に多種多様であったと推測されます。

それぞれの「府県」が、旧藩時代の歴史や制度を斟酌しながら公布した、明治4年の「穢多非人等ノ称」廃止の基本方針に対する基本方策は、当然のことながら、旧藩時代の歴史や制度を色濃く反映したものになりました。

「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・等の名称で出された基本方策は、廃藩置県当時の「府県」の数だけ、その文面の異なるものがあったということになります。

今回、「太政官布告と地方行政」と題して論ずるとき、理想を言えば、すべての「府県」「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・等を比較・分析・集約して、全体像を明らかにしなければならないと思われます。

徳山市立図書館に行けば、そのための資料は簡単に閲覧できます。

しかし、筆者にはそのための時間を、とうとう割くことはできませんでした。手持ちの資料の中から、長野・山梨・三重・京都・大阪・堺・兵庫・徳島・高知・丸亀・山口・・・等を拾い出して論ずることになります。

それらの「府県」の基本方策を比較研究する際に、筆者が、試行錯誤のうえ、採用した比較元は、三重県の『平民籍編入についての触書』です。三重県の『平民籍編入についての触書』は、沖浦和光編『水平人の世に光あれ』(社会評論社)という、幕末から水平社宣言までの部落史関連史料集に掲載されている『平民籍編入についての触書』を使用します。

沖浦和光編『水平人の世に光あれ』は、筆者のような無学歴・無資格なものにとっては、岩波の『日本思想大系』や『日本近代思想大系』、『日本古典文学大系』のように、沖浦和光による適切な訳注と、巻末の長文の解説は非常に便利な道具になります。筆者は、この沖浦和光編『水平人の世に光あれ』を使い古しているのですが、部落差別問題を自分なりに調べなおしたいと思われる方は、入手されることをお勧めします。

そして、もう一冊、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」から見た、三重県の『平民籍編入についての触書』の研究論文として、黒川みどり著『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』(解放出版社)をとりあげ、筆者の「非常民の学としての部落学」の立場から批判検証します。

無学歴・無資格の筆者は、当然、黒川みどりに対しても一面識もありません。巻末の「著者紹介」によると、黒川は、早稲田大学で日本史学を専攻された方で、現在、静岡大学教育学部教授をされている文学博士とか・・・。学者であり教育者である黒川は、日本史学の優秀な教授であればあるほど、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に無意識のうちに囚われていると思います。学者・教育者の両側面をあわせもっておられる黒川への批判を通じて、部落研究・部落問題研究・部落史研究の限界を明らかにすることができると思います。

筆者は、黒川を批判のために批判するわけではありませんので、次回、黒川の研究姿勢を、彼の論文《近代社会と部落差別》(『脱常識の部落問題』かもがわ出版)を通して紹介します。その上で、黒川の、三重県の『平民籍編入についての触書』に関する言及をとりあげます。

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黒川の部落問題の認識

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第2項】黒川の部落問題の認識

黒川みどり著《近代社会と部落差別》(『脱常識の部落問題』かもがわ出版)をてがかりにして、近代部落史を取り扱う際の黒川の歴史認識のありようをみてみましょう。

黒川は、「部落問題は、日本の近代社会の病理の一つ」であるといいます。

黒川は、その論文の最後で、さらりと「社会の病理」という表現を用いていますが、筆者は、「部落問題」「社会の病理」としてとらえるということはどういうことを意味するのか・・・、考えこまざるを得ません。

筆者は、青年時代、大学進学の道を閉ざされたあと、独学で、ゲーテの『ファウスト』に出てくる中世の代表的な学問、医学・法学・哲学・神学を独学したことがありますが、その頃の職業は、某病院で臨床病理検査の仕事をしていました。当然、臨床病理検査をするための基礎科目として、生理学や病理学をならいました。

そのとき、医者がよく筆者に話していたことは、「病理学」をマスターするためには、まず「生理学」をマスターしなければならない。「生理」を正しく認識することで、それと比較することで「病理」を認識することができる・・・というのです。医学の経験則からでてくる「正常値」を基準にして「異常値」が検出されるのですから、「病理」を認識するためには、「生理」の状態を正しく認識する必要があります。

黒川が「社会の病理」という表現を使うとき、「社会病理学」が背景にあるのだろうと思いますが、人間の体ではなく、社会に対して「病理」という概念を使用するとき、当然、社会的「生理」の認識が前提となります。

黒川は、「社会の病理」の前提となる「社会の生理」についてどのように考えているのでしょうか・・・。

黒川の論文から推測すると、黒川は、「社会の生理」状態は「差別のない社会」を指しているように思われます。そのような社会に、何らかの形で「差別」が生じて、「差別のある社会」が成立すると、それは、差別のない」「社会の生理」状態からの逸脱、つまり、「社会の病理」状態に陥ったことになります。黒川は、「社会の病理」を取り除き「社会の生理」状態に回復することを、「解放の展望を切り開いていくことと解釈します。

黒川の論文は、「社会の病理」を取り除き「社会の生理」状態に回復するための「診断学」として執筆されているように思われますが、「診断学」によって明らかになった「病巣」(黒川は「部落問題をとりまく状況」と表現)をとりのぞくために「処方箋」を発行します。

「部落問題をとりまく状況を打破すべく努める・・・それを行うのは近代社会の構成員一人一人であり、その「不断の精神革命」の可能性に期待を賭けたいと私は考えている」。

『脱常識の部落問題』が出版されたのは、1998年ですから、そのときから、ほぼ8年の歳月が経過したことになります。その間に、黒川が抱いた「期待」は、どのようになったのでしょうか。「期待」は、「精神革命」として現実化したのでしょうか。それとも、「期待」は、黒川の祈りとして、いまだに「期待」のままなのでしょうか。

筆者の目からみると、黒川の論文の結論は、非常に楽観的は結論であると思います。

「社会現象に医学上の範疇を適用するのは本当に理にかなっているだろうか・・・」(『バーガー社会学』学習研究社)。

ライト・ミルズという社会学者によって、《社会病理学者の専門的理念》と題した論文の中で、「社会病理は、社会学者の帰属する社会層(中流階級・知識階級)の反映でしかないということが証明されて久しい(『権力・政治・人民』みすず書房)。

つまり、黒川のいう、「社会の病理」は、黒川の所属する社会層(中産階級・知識階級)の目からみた、またその価値観を反映した「社会の生理」・「社会の病理」でしかないということを意味します。

黒川の発想に基本的な問題が内在していることを留保しながら、黒川が主張する「部落問題は、日本の近代社会の病理の一つ」という命題の内容をみてみましょう。

黒川は、社会病理現象としての部落差別の症例として、被差別部落を差別する側の、差別する根拠に「合理性がないことをあげています。

黒川がいう「合理」性というのは、黒川が帰属する社会層(中産階級・知識階級)からみた「合理」性のことで、黒川は、「合理的な理由を見だしえずに差別を行う」下層階級・労働者階級の非合理性を指摘します。

「部落を忌避した側も、そのほとんどが理由を突き詰めて問われると、明確に説明できずに答えに窮してしまう・・・」。「部落出身者との結婚は「一族の血が汚れる」、親戚や生まれてくる子供に累が及ぶ、「家柄」に差がありすぎる、部落住民は「怖い」「きたない」・・・」。

黒川は、このような「差別の不当性を説くもっともらしい説明」は、「合理的根拠をもたないもの」であると断定します。

黒川は、「合理的な理由を見だしえずに差別を行う」下層階級・労働者階級の非合理性の背景に「ケガレ意識」にあるといいます。黒川は、「ケガレ」を解釈するに際して、民俗学のいう「ハレ・ケ・ケガレ」ケガレ」でも、歴史学のいう「穢れ」でもなく、独自の解釈をします。黒川によると、「ケガレ意識」とは、「本音とたてまえの使い分けが行われ、本音が執拗に維持されるという性格を持っている。こうした意識のことであるといいます。

黒川は、医者が生理学と病理学を前提に診断するのと同じように、部落差別という病理をとりのぞくために、この「ケガレ意識」「内実を具体的に明らかにする」診断が大切であるといいます。「ケガレ意識」を明らかにすることなくして、「差別構造の解明に向けて何も前進したことにはならない」(診断は完了したことにはならない)というのです。

黒川は、「ケガレ意識」「支えている要因」として、①家意識、②「怖い」という意識、③経済的貧困から派生する不潔・病気・異種による排除をあげています。3つの要因の詳述は避けますが、黒川は、この3つの要因は、「民衆」(下層階級・労働者階級)の意識に内在するといいます。黒川は、「民衆は・・・不潔であり風俗がちがうといった現象面や異種であるといった先入観にとらわれた忌避の感情によって排除してきたのであり、民衆がかたくなに守ろうとする「血筋」や「家柄」も、実態のない非合理的な感情にささえられたものでしかない。」と断定します。

黒川の「民衆」をみる目は、「愚民論」です。

黒川は、「民衆」の、「民衆」による、「民衆」のための反差別理論を説いているのではなくて、「権力」の、「権力」による、「権力」のための差別理論を説いているのです。

そのような黒川にとって、非合理な感情に身をゆだねて差別にはしる「民衆」との「同和」ということは、身の毛のよだつことがらになってしまいます。そして、このようにいいます。「「同化」を求める運動は、諸権利の獲得と引き換えに包摂の契機をもはらんでおり、それによる弊害が今日表面化してきていることも誰の目にも明らかな事実である。」

黒川が、部落差別という「社会の病理」に対して、上記のような診断結果をもとに、被差別部落の側に出す「処方箋」は次のようなものです。「「部落民アイデンティティ」崩壊の危機を見てとり、それの再生をめざしつつ、「部落民」という「差違」の承認を行いうる文化的多元主義の方向を提唱する・・・」。黒川は、差別的な「愚民」である「民衆」に同化することなく、「部落民」「部落民」として生きていくことができる「多元」的社会の創設を訴えるのです。「愚民である「民衆」(下層階級・労働者階級)に絶望し、それと決別することによって、「部落民」が<賎民>ならぬ<選民>として生きていくことを主張します。

黒川は、<選民>と代表的な人物として、松本治一郎をとりあげます。「人間天皇を人間以上のものにデッチあげ、これを神格化して拝むような形で崇拝するということは人間に対する尊敬ではなくて、むしろ侮辱である。・・・人より上に人はなく、人より下に人はないのだ」。

黒川の論法は、「天皇」「民衆」は、「非合理性という点できわめて親近性をもっている」といいます。

黒川は、「部落民」を、「天皇」「民衆」から切り離し、「異化」することで、「部落民」をどこに追いやろうとしているのでしょうか。「部落民」を<異>化し<選民>化することで、本当に「部落民をとりまく状況を打破」することができるのでしょうか。「解放の展望を切り開いていくことができうる」のでしょうか。

学歴もなく資格も持たない、下層階級である労働者階級である「民衆」のひとりに過ぎない筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を無意識に生きている中産階級・知識階級こそ、その差別性が明らかにされなければならないと考えています。

静岡大学教育学部・黒川みどり教授をはじめとする中産階級・知識階級に属する人々は、民衆に対する「同和教育・・・は何の威力も発揮することができない」と嘆くまえに、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に自覚することなく囚われの身になっている学者・研究者・教育者としての差別性を自ら問い直し、「近代社会の構成員」として「不断の精神革命」を実践しなければならないのではないでしょうか。

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2006.01.14

黒川の「触書」理解

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第3項】黒川の「触書」理解

明治4年の太政官布告第489号の基本方針を受けて、廃藩置県後の「府県」(地方行政)は、それぞれの地域的状況と歴史的状況を踏まえて独自の「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・という表題のつけられた基本方策を打ち出していきます。

三重県においても「辛未九月」(明治4年)、「平民籍編入についての触書」を公布します。

この「平民籍編入についての触書」を、『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』の著者・黒川みどりの論文をてがかりに考察してみましょう。

三重県の近代部落史を考察する際、「穢多非人ノ称廃止」の明治政府の基本方針である太政官布告第489号と、その具体的実施のために三重県から出された「平民籍編入についての触書」という基本方策は、避けて通ることができないものです。極めて重要な資料といえます。

しかし、なぜか、黒川は、明治4年の太政官布告と「平民籍編入についての触書」について、本文を掲示することはありません。黒川の『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』の読者なら、その程度の文献は手元においてあるはず・・・という前提があるためでしょうか。

もし、筆者の手元に、「平民籍編入についての触書」がなかったとしたら、「平民籍編入についての触書本文を見ないで、黒川の主張をそのまま受け入れざるを得なくなります。

黒川の文章は、『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』(解放出版社)を購入して呼んでいただくとして、『部落学序説』の筆者がみた黒川の教説を整理してみましょう。

まず、「明治4年の太政官布告第489号」(基本方針)と三重県「平民籍編入についての触書」(基本方策)との関係ですが、黒川は「明治4年の太政官布告第489号」「解放令」と認識し、「平民籍編入についての触書」「「解放令」に付された“条件”」と解釈します。

黒川は、その「条件」を、「被差別部落の人々」にとって「屈辱的」なものであると解釈します。

黒川は、「明治4年の太政官布告第489号」は、「被差別部落の人々が平等を要求していく際の武器」として評価しますが、その布告に伴う三重県の「平民籍編入についての触書」は、「被差別部落の人々」にとって、きわめて差別的であったというのです。

黒川は、明治中央政府の出した布告と違って、三重県という地方行政が出した布告は問題があると指摘しているのです。

筆者は、明治4年の時点で、明治中央政府と地方行政の間に、そんなに大きな隔たりはなかったのではないかと推測しています。三重県の「平民籍編入についての触書」は、「明治4年の太政官布告第489号」の立法趣旨を十分に反映していると思うのです。

黒川は、三重県の「平民籍編入についての触書」は、「穢多」「平民同様」となるための「条件」を次のように布告しているといいます。

「家を清掃して「不浄之品」を捨て、従来の火を消し、川筋で垢離(こり)を取って身を清めたうえで神社に参詣して篝(かがり)を焚いてその火を持ち帰るようにとの指示を出している。それに続けて、第一に、これまでの風体を改めて「平民同様」にすること、第二に、「革商売」は「銘々都合次第」にすること、第三に、かねてからの「御法度」を守り、被差別部落内外で「無礼無作法」等の振る舞いをしないようにすること、の三点をあげている」といいます。

黒川は、三重県の「平民籍編入についての触書」の前文と「一、・・・」という箇条書きの法令本文について、黒川独自の視点から解説していきます。

黒川は、前文の文言についてはほとんど説明することなく、当時の新聞記事を紹介しながら、「被差別部落民衆」「実際に“身を清める”という行為に至った例」を紹介しています。黒川は、なぜ、「平民籍編入についての触書」について言及をさけるのでしょうか・・・。黒川にとって、その前文の内容は、「被差別部落の人々」にとって「屈辱的」と判断されるためでしょうか・・・。

黒川は、三重県の「平民籍編入についての触書」の前書き部分は、「被差別部落の人々」にとって差別的であると判断したことで、それ以上の探求を中止してしまったようです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者の多くは、彼らなり判断(中産階級・知識階級の社会層の価値観を反映した判断)に基づいて、「屈辱的」・「差別的」と判断されたことがらについては、研究上、封印して沈黙を守るのを常とします。

学問のしろうとでしかない、無学歴・無資格の筆者は、三重県の「平民籍編入についての触書」の前書きの「屈辱的」・「差別的」と判断される部分についても、様々な知識と方法を駆使して解明しようとします。

プロが手を触れない箇所にも触れようとします。素人学の素人学たるゆえんです。

黒川は、「平民籍編入についての触書」の前書きから、「部落民衆が“けがれた”存在として見なされていることがあきらか」であるという解釈を抽出します。続く法令本文にあたる箇条書き部分から、「部落民衆は生活習慣や日常の行動様式それ自体が部落外民衆と異なっており、平等になるためには、それらの点においても“同じ”にならねばならないと考えられていたことが見て取れる。斃牛馬処理とそれに伴う「革商売」も、部落が差別される標識となっているにはちがいなかったが、それらは、部落民衆の重要な生業である場合が少なくなかったため、「銘々都合次第」に任されたのであろう。」という解釈をつむぎだします。

『部落学序説』の筆者にとって、三重県の「平民籍編入についての触書」は、三重県の近代部落問題を解明する上で、最も重要な基本的な文献であると思っていますが、歴史学・部落史の専門家である黒川は、この、三重県の「平民籍編入についての触書」をきわめて粗雑に適当にあしらっているように思われます。

黒川の文章を精読しながら、「部落史の研究家というのは、ずいぶん気楽な商売なのだなあ。基本的な史料に対するこんな適当な取り扱いなど、素人学の世界では絶対に許されない・・・」と思ったりします。

「目黒のさんま」という落語ではないけれど、食器(『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』)に出された秋刀魚(三重県の「平民籍編入についての触書」の解釈)を見て、このように問いかけたくなります。

「ちょっと、ちょっと、おねえちゃん。この秋刀魚の半分はどこさいったの。片方食べたらおしまいかい? こんなのさんまじゃねえ! どんなに無学の八さん熊さんだって、馬鹿とのさまほどバカじゃないんだよ、半身がないさんまなんて。だまされねえぞ」。

『部落学序説』の筆者は、思うのです。

三重県の「平民籍編入についての触書」の意味は、早稲田大学で日本史学を専攻し、静岡大学教育学部の教授をしている黒川みどりさんが取り上げたところにではなく、とりあげなかったところにあると。おとぎばなしにでてくる「隠れ蓑」をかけておられるようすが、なにごとにつけても「洗脳」されることの少ない筆者にとっては、「隠れ蓑」の下にあるものがすべて見えてしまいます。

次回、黒川の解釈と三重県の「平民籍編入についての触書」を比較検証します。

元部落解放同盟山口県連某支部の部落史研究会の方々いわく、「(負け犬の遠吠えみたいに離れたところから批判しないで)学者に直接あって批判したら・・・」。

筆者からみると、黒川みどりの出版物・『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』に対する批判として、WEB上の出版物・『部落学序説』でとりあげることになにの問題もないと思われるのですが・・・。

筆者は、高級料亭で高級魚を前に批判するより、めしやでさんまの表と裏を論じるのがあっています。

「なんせ、無学歴で無資格ですから・・・」。

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2006.01.16

黒川の「触書」の解釈方法

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第4項】黒川の「触書」の解釈方法(旧:黒川の「触書」解釈批判1)

まず、三重県「平民籍編入についての触書」の全文を紹介しましょう。

「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと
1.これまで風体改革平民同様心掛くべき事
2. 革商売の義は銘々都合次第たるべきこと
3. かねて仰せ出候御法度向いよいよ堅く相守り他所はもちろん郷市において無礼不作法致さぬよう、なお店先等にて不行跡の振る舞いこれ無きよう万端相慎み候よう心得申すべき事。
右の通り来月三日村役人ども立会い前条取扱い申すべく候事
但し氏神に相成るべき神職どもへもこの旨相達し申すべき事
辛未九月」

この三重県「平民籍編入についての触書」が、黒川みどり著『地域史の中の部落問題 近代三重の場合』においてどのように取りあげられているか、比較してみましょう。

文字通りの引用・・・・・朱色
要約して引用・・・・・緑色
引用されなかった箇所・・・・・青色

「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り銘々火を改め申すべきこと
1.これまで風体改平民同様心掛くべき事
2. 革商売の儀は銘々都合次第たるべきこと
3. かねて仰せ出候御法度いよいよ堅く相守り他所はもちろん郷市において無礼不作法致さぬよう、なお店先等にて不行跡の振る舞いこれ無きよう万端相慎み候よう心得申すべき事
右の通り来月三日村役人ども立会い前条取扱い申すべく候事
但し氏神に相成るべき神職どもへもこの旨相達し申すべき事
辛未九月


黒川は、『地域史の中の部落問題 近代三重の場合』の中で、三重県「平民籍編入についての触書」を取りあげる際、赤色の部分緑色の部分のみをとりあげ、青色の部分は、『地域史の中の部落問題』全編を通じてほとんどとりあげません。

黒川にとって、青色の部分はどのような意味合いがあるのでしょうか。

歴史学論文の作法を知らない無学歴・無資格の筆者が推測するに、青色の部分は(1)資料として価値がない場合と、(2)資料として価値がある場合が考えられます。

資料としての価値がない場合もある場合も、黒川が青色の部分を意図的に排除する、その理由は何なのでしょうか。その理由を明らかにするのは、歴史学者としての当然の責務であると思うのですが、黒川は青色の部分をすっかり削ぎ落としてしまいます。

黒川の、『地域史の中の部落問題』を通して青色の部分の意味を把握できそうにありませんので、『部落学序説』第4章及び部落学序説(別稿)であきらきにしてきたことをてがかりに、黒川がとりあげなかった、三重県「平民籍編入についての触書」の青色の部分を考察するとともに、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を無比判的に受け入れている研究者・教育者の学的限界を明らかにしていきましょう。 

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2006.01.17

部落解放運動への奉仕の学としての黒川学

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第4項】部落解放運動への奉仕の学としての黒川学(旧:黒川の「触書」解釈批判2)

まず、三重県「平民籍編入についての触書」の前文をとりあげてみましょう。

「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」

戦前・戦後を通じて、部落研究・部落問題研究・部落史研究に共通している傾向は、それらの研究が、純粋に学問的(科学的)研究に徹底することができなかったということです。

「歴史学」というのは、一般的に客観的な歴史の事実を研究する学問(科学)のように思われていますが、いかなる予見や偏見をも打破した客観的な歴史の記述・・・というようなものはほとんど存在しないように思われます。

多くの場合は、その研究者・教育者の帰属する社会層の価値概念・価値判断が色濃く反映されます。

筆者は、高校生のときに、「思想」ではなく「哲学」に関心を持ちました。この世の中の多くの人々が賛同している思想を受け入れその信奉者になり活動家になる・・・ということに、何か、疑問を持っていました。大切なことがらについての判断を棚上げにして、偉大な思想家や政治家の思想の追従者になることには、内心穏やかならざるものがあったのです。彼らの思想は本当に追従する価値があるのかどうか・・・。

戦前には、「皇国史観」が歴史解釈の主要な潮流でした。ほとんどの国民はその「皇国史観」を受け入れ、それを信じて戦前・戦中の時代を生き抜いてきました。「三つ子の魂百まで・・・」ということわざではありませんが、子供の頃、学校の教師から植えつけられた価値概念は、終生消えることがないように思われます。

戦後は、「皇国史観」に代えて、民主化と学問の自由・・・の名のもとに「唯物史観」・「マルクス史観」が歴史学の重要な精神的な背景になっていきましたが、筆者は、高校生のときすでに、戦後の「唯物史観」・「マルクス史観」も、戦前の「皇国史観」と同じ「史観」でしかない・・・と考えていました。

「歴史」は、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等から自由になって、純粋に学問的(科学的)動機に基づいて研究されなければならない、と。だから、「思想」ではなく「哲学」を学ぶことによって、何が真実であるのか、自分で納得のいく真実に依拠して、ものごとを見たり考えたりしていこいうとしたのです。

その傾向はいまだに続いています。

二十数年前、山口の地に赴任してきて以来、所属する教団の教区に設置された同和問題担当部門の委員にさせられたことをきっかけに、部落差別問題に関与するようになりましたが、「部落問題」「同和問題」の一般的な理念や思想・運動に自らを同調させることができなかったのは、筆者固有の上述のような精神的な背景があるからです。

部落問題に少しく深くかかわるようになって、戦前の「皇国史観」と戦後の「唯物史観」の両者に共通している史観」の存在に気付くようになりました。そして、その「史観」からも自由になろうとしました。その「史観」は、著しく人間性を疎外する差別思想であると思われたからです。戦前の「皇国史観」と戦後の「唯物史観」の両者に共通している「史観」というのが、この『部落学序説』で繰り返し登場してくる「賤民史観」のことです。

戦前の「皇国史観」に依拠しようと、戦後の「唯物史観」に依拠しようと、両者に共通して存在している「賤民史観」は、「皇国史観」のみならず、「唯物史観」にとっても致命的な欠陥になると判断するようになったのです。

筆者が、多くを学んだ歴史学というのは、それらの「史観」に依拠しない、依拠したとしても依拠する度合いを常に自覚して遂行される実証主義的な歴史学でした。できるかぎり、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等の要請を排して、歴史の事実を史料・資料をもとに実証しようとする研究者の言葉には、すなおに耳を傾けてきました。

『部落学序説』の筆者には、バランス感覚というものはありません。ある立場ではないということを明らかにするためにその反対の立場を鮮明にするということもありませんし、ある立場を評価するために、その反対の立場をただそれだけの理由で否定するということもありません。筆者は、その歴史学者がどのように史料・資料を解釈し結論を出しているのか、個々の論文において、その批判の過程と結論の出し方、そしてその研究を研究足らしめている歴史学者の前理解に強い関心を持っているのです。

この節でとりあげている静岡大学教育学部の教授・黒川みどりについても同じことがいえます。筆者は、特定の、学説・学閥・政党・政治・思想・運動等から見て、彼の論文を批判しているわけではありません。あくまで、彼の書いた論文において、彼が、史料・資料をどのように整理・批判・解釈していっているか、解釈学的観点から論じているのです。

黒川みどりは、高学歴・高地位で学者・研究者・教育者としての論述を展開しているのに反して、筆者は、無学歴・無資格で、歴史学・社会学・民俗学等においてはただの素人でしかありません。巨大な「象」に戦争をしかける一匹の「アリ」のような存在でしかありませんから、「見物人」は、その勝負は最初から目に見えている・・・と考えられるのではないかと思います。最初から勝負にならない勝負をしかけているのですから、黒川みどりの三重県「平民籍編入についての触書」についての解釈についても、筆者は、持っている知識と技術を総動員して批判することになります。

筆者は、黒川みどりの部落史に関する研究は、部落解放運動からの要請と影響を受けていると思っています。そのため、黒川は、部落解放運動からの要請と影響を大前提とし、歴史学研究に関する知識・技術を小前提として、そこから、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈を紡ぎだしているのです。

そのため、黒川は、他の多くの「賤民史観」を無批判的に受容する学者・研究者・教育者同様、史料・資料を恣意的・主観的に取扱い、そこから、今日の部落解放運動からの要請と影響に応える結論を抽出し、主張することになるのです。

「強弁」という言葉があるそうですが、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、「部落解放運動」という大儀名分のために、この「強弁」をくりかえしてきました。新進の部落史研究者である黒川みどりにしてもしかりです。

『詭弁論理学』(中公新書)の著者・野崎昭弘は、「なかなか絶滅はむずかしかろうと思う」という「強弁」についてその特徴をこのように述べています。

(1)相手のいうことを聞くな。
(2)自分の主張に確信を持て。
(3)逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。
(4)自分のいいたいことを繰り返せ。
(5)おどし、泣き、またはしゃべりまくること。

昔、「八鹿高事件」に関する文献を読んだときに、筆者は、「部落解放同盟」「日本共産党」の両者に、この「強弁」の特徴を確認せざるを得ませんでした。「部落解放同盟」というよりは、「日本共産党」の方に、その著しい傾向がみられました。

「日本共産党」系である、山口県の高教組に所属する、日本史の教師、同和担当の教師の中にも同様の傾向がみられます。まるで、中世の異端審問にみられる「魔女狩り」の狂気が、教職員の間にもみられる場合が少なくありませんでした。

『部落学序説』の論述を分かりにくくしているのは、筆者の視点・視角・視座が、「賤民史観」という、「部落解放同盟」「日本共産党」の両者に共通する属性に立脚し、「部落解放同盟」「日本共産党」の両者を同時に批判しているところにあるのではないかとおもいますが、「実証主義」に徹底しようと思うと、両者から距離をとろうとするのはやむを得ないことがらであると思います。

黒川みどりの論文の中には、「日本共産党」「赤旗」のような「狂気」染みた「強弁」はありませんが、しかし、部落解放運動側からの要請と影響のあとを否定することはできません。黒川の、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈にみられる「強弁」をとりあげてみましょう。

黒川は、三重県「平民籍編入についての触書」の前文を「家を清掃して「不浄之品」を捨て、従来の火を消し、川筋で垢離(こり)を取って身を清めたうえで神社に参詣して篝(かがり)を焚いてその火を持ち帰るようにとの指示を出している。」と解釈します。そして、「部落民衆が“けがれた”存在とみなされていることが明らか」であると結論づけるのです。「近代においては支配者の側が、意図的に差別を作り出してきたとは考えにくい」(黒川みどり《近代社会と部落差別》)する黒川は、三重県「平民籍編入についての触書」の前文の解釈に際して、①部落差別は政治ではなく文化に起因する、②部落差別は政策ではなく文化に内在する「けがれ意識」にもとづく。③部落差別の原因と拡大再生産に対する責任は権力の側ではなく民衆の側にある。④近世幕藩体制下の「穢多非人」は警察機構に属してはいたが下級警察業務ではなく、そのこと自体が差別事象なので評価するにたらない・・・という、昨今の部落研究・部落問題研究・部落史研究の「通説」・「一般説」に無批判的によりかかって自説を展開しているのです。

筆者は、黒川が、三重県「平民籍編入についての触書」の前文を、「部落民衆」「“けがれた”存在」であることの証拠とみなすことは、「触書」に対する著しい逸脱的解釈であると思うのです。

筆者は、黒川が触れることなく避けて通る「触書」の文言こそ、「触書」の重要な本質を語り伝えていると思うのです。

三重県「平民籍編入についての触書」の前文、「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」を、黒川がどのように解釈しているのか、その足跡をたどってみましょう。

まず、「氏神へ参詣」という言葉ですが、黒川は、それを「神社に参詣」と言い換えます。「氏神」は、明治4年の太政官布告第489号やそれに基づく各府県の布告の主旨にそった用語です。明治政府は、明治4年7月の廃藩置県、8月の「穢多非人等ノ称」廃止の布告の前、明治4年5月に「国家が祭祀すべき神々の体系を定めた布告」を出します。官・国幣社、府藩県社、郷社、産土社などの階級をさだめて、旧来の神職を解任、新しい神職を任用します。

民衆は、自分たちの信仰している神社崇拝を否定され、国家が指定した神社の「氏子」になることを強制されます。

明治政府の方針は、「一村一社」制を原則としました。つまり、近世幕藩体制下にあったひとつの「村」の中にある複数の神社は統廃合され、国が定めたひとつの「村社」(神社の末端の機関)として再編成されるのです。そして民衆は、近世幕藩体制下の「宗門改め制」に代えて、キリスト教徒でないことを証し国家に忠誠を誓うために「氏子」として「村社」に強制的に登録させられるのです。

明治4年の三重県「平民籍編入についての触書」は、神道の国教化と「宗門改め制」 に代わる近代的キリシタン禁圧のための装置としてつくられた「氏子調」の登録機関としての特別な神社・「村社」のことであったと思われるのです。「触書」末尾の「氏神に相成るべき神職どもへもこの旨相達し申すべき事」という文言をみてもこのことを確認することができます。

「触書」の対象である「穢多」もまた、近世幕藩体制下の「宗門改め」制度から、近代中央集権国家の新しい「宗門改め」制度としての「氏子調べ」の対象にされていったのです。

つまり、近世幕藩体制下で浄土真宗門徒として、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての職務を遂行していた「穢多・非人等」は、明治中央集権国家の新しい制度のもとで、神道の信者になることを強制されるようになったのです。

浄土真宗門徒は、それまでの宗教教理・宗教生活の基本理念を棄てて、浄土真宗に加えて、明治政府が要求する神道に帰依することをすんなりと認めたのでしょうか。日本の諸宗教の中で、もっともキリスト教に近い一神教的側面を持っているといわれていた浄土真宗の熱心な門徒は、その基本的な教理に抵触する神道の信者(氏子)になることに激しい抵抗を示したのではなないでしょうか。

浄土真宗の指導者の側は、教団の存続をかけて、明治中央集権国家と歩調をあわせ、「聖俗二元論」に立って、従来の浄土真宗の門徒であることと国家神道の「氏子」であることとは、浄土真宗の宗旨に違反しない・・・として、明治政府(「権力」)と妥協を図っていくのですが、浄土真宗の指導者層の「聖俗二元論」が全国津々浦々にまで影響していくには時間がかかり、それまでの間、さまざまな誤解とトラブルが発生するのです。

近世幕藩体制下の宗教警察として、「天下の大罪」であると信じられていた「キリシタン」取締りに関与していた「穢多・非人等」は、大幅な環境の変化に直面させられます。名目上は、明治4年の太政官布告第488号によって、「非常・民」としての職務から解放されます。そして、明治4年以降は、「キリシタン」を取り締まる側ではなく取り締まられる側に立たされることになります。

明治政府によって、近世幕藩体制下の「村」は解体され、近代中央集権国家にふさわしい「村」へと変貌させられていきます。

近世幕藩体制下の「穢多」は、それぞれの「穢多」寺に帰属して、「百姓」とは別に、他の役人から「宗門改め」を受けていましたが、明治4年の太政官布告第489号以降は、彼等が帰属する「穢多」寺ではなく、彼等が居住する「村」「村社」・「氏神」で、「平民」同様の「宗門改め」を受けることになります。神道の強制に加えて、氏子調べの強制・・・、そのことは浄土真宗の熱心な門徒であった「穢多・非人等」に大きな衝撃を与えたのではないかと思います。

《浄土真宗と民俗》(歴史公論52『日本の民俗と仏教』)の著者・児玉識は、「浄土真宗の篤信地帯では民俗学の通用しないばあいが多い。すなわち、神棚や石碑墓を設けず、門松、シメ飾りをせず、また死者追善儀礼も極めて簡単なばあいが多く、ここから「門徒もの知らず」とよばれている・・・」といいます。

児玉は、山口県大島郡大島町笠佐島の真宗信仰をとりあげてこのように記しています。「一向専修の立場から神祗不拝を真宗は強調するが、この島でも神道はひじょうに弱く、神棚を祀っている家は一軒もない。また神社は・・・八幡宮はあるが、その神体は一尺三寸あまりの阿弥陀像(木仏)である」。明治初年の浦上キリシタン迫害の理由とそれほど大きな違いはない。

児玉は、「真宗のさかんなこの島では、たとえ明治政府の命令であろうと、阿弥陀仏以外を祀る気になれなかった」といいます。

児玉は、「この島には他の一般村落でみられる地蔵そのその他の路傍の石仏や小祠、霊験を伝える奇厳などもまったく存在していないし、山の神の信仰もない。」といいます。「最近まで」、墓も位牌も持っていなかったといいます。

明治4年の太政官布告第488号・第489号、そして、その基本方針をもとに各府県で、「告諭」・「諭告」・「条令」・「触書」・「布告」・「公布」・「廻達」・・・という表題のつけられた基本方策を、浄土真宗門徒である「穢多・非人等」は喜んで受け入れていったという説が一般的であるが、歴史の一側面しか見ていない可能性が多分にあります。

明治4年の太政官布告を、明治天皇の「聖旨」にもとづく「解放令」と解釈する黒川みどりは、明治4年の三重県「平民籍編入についての触書」「氏神へ参詣」という言葉を「神社へ参詣」という言葉に「拡大解釈」することで、歴史の事実・真実をあいまいにしてしまっている可能性があります。「氏神」から「神社」へ拡大解釈された「触書」前文からは、近代部落差別成立の明治政府による権力側の関与の側面が著しく削ぎ落とされてしまいます。そのあとに出てくる結論は、「部落民衆が“けがれた”存在とみなされていることが明らか・・・」な、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的見解以外の何ものでもなくなってしまいます。

部落差別の本当の原因を追究せず、そこから逃亡する学究から、部落差別完全解消につながる新しい理論がどのようにして生まれるのでしょうか。

最近の黒川みどりの言説を追跡していて思うのですが、黒川は、理論的にはおそろしく後退し、部落差別の原因を人種起源説に求めていっているように思われます。「同和対策審議会答申」で採用された「叡知」(人種起源説否定)をなぜ簡単に葬り去ろうとするのでしょうか。

人種起源説を前提とすると、一般の人々と被差別部落の人々との「差異」・「異種性」は限りなく固定され、同和対策事業継続の有力な理論になってしまいます。黒川が、運動団体の要求実現の理論武装として、部落史研究をしているのだとしたら、黒川の学問(科学)は、著しく「似非学」・「曲学」、「三百代言」的学問になり、「学問」(科学)の名に相応しくないものになってしまいます。

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2006.01.19

別火・別婚論と宗門改め

【第4章】太政官布告批判
【第6節】太政官布告と地方行政
【第4項】別火・別婚論と宗門改め(黒川の「触書」解釈批判3・1)

「今般穢多平民同様に仰せ出でられ候につきては、家内煤払いいたし、糞灰不浄の品取り捨て、これまでの火を打ち消し、川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め、氏神へ参詣、神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」

三重県「平民籍編入についての触書」の前文を解釈する際、黒川みどりは、昨今の部落研究・部落問題研究・部落史研究の一般説・通説になっている民衆の差別意識(けがれ意識)から解釈しようとします。水で身をきよめ、火を改める・・・、それを、単なる神道の宗教儀式として理解し、それ以上に、その本質を追究しようとはしません。政治学・宗教学・民俗学的背景についての追究は一切しないのです。

しかし、三重県「平民籍編入についての触書」は、「けがれ意識」の表出として一蹴に付してしまうには、その背景に多くのことがらを包含しているように思われます。

この「触書」が実施される場合、「旧穢多」は、どこに出かけていったのでしょうか。「川筋等へ男女人別子共に至るまで罷り越し垢離を取り身を清め・・・」という言葉の通りに実行したのであれば、「身を清める」ために出かけたのは「川筋等」ということになります。「川筋等」というのは、「川」に限定されず、「川」以外の場所をも含む表現ではないかと思います。海でも湖でも泉でも、身体を洗うことができる場所であればどこでもよかったということになります。しかも、この「身体を清める」という所作は、「旧穢多」が自ら行ない、そこには神社の神主等は関与していません。つまり、「川筋等」「身を清める」というのは、「みそぎ」という神道の宗教儀式とは異なるものであった可能性があります。

三重県「平民籍編入についての触書」前文において、神主が関与するのは、「神主相頼み神楽を上げ氏子に相成り、神前にて篝火を焚き右火を火縄に付け帰り、銘々火を改め申すべきこと」という言葉にみられるように、近世幕藩体制下の「宗門改め」制度に代わる「氏子調べ」制度の手続きを済ませたあと、旧「火」に代えて新「火」を受け取る「火を改める」所作においてです。

「火を改める・・・」、それはどのような意味があったのでしょうか。

この『部落学序説』は、近代に入ってから、「歴史学」からの文献の引用が増えてきました。「史料」を中心に説明してきましたが、明治4年の太政官布告第488号と第489号は、明治政府による重要な政策として実施されましたので、その背景と影響を考察するに際しては、「史料」の分析は欠かすことができないものでした。しかし、学際的研究である『部落学序説』は、「史料」だけでなく「伝承」も考察の対象にしなければなりません。

今、「火」について考察してみましょう。

人間の歴史は火の使い方を覚えたときにはじまる・・・、と昔、なにかの本で読んだことがありますが、「火」は人間が生活をする上で避けて通ることができないものです。

今では、ほとんど見かけなくなりましたが、昔は、地方の農村にいくと、必ずといってもいいほど、「いろり」がありました。「いろり」は、家族が揃って話をしたり、食事をしたりするときの極めて重要な場所です。家族は、その「いろり」の火をみながら、話をしたり食事をしたりするのです。つまり、「家」の中心には、家族が共に見つめることができる「火」が存在していたのです。その神秘的な「火」は、いわば、家族の絆を強める働きをしていたのです。

民俗学の書をひもとけば、民俗学でいう「むら」には、北海道(アイヌの村)に至るまで、この「いろり」があったことを確認できます。日本だけでなく、欧米諸国においても、「いろり」に代わる「暖炉」があって、その「暖炉」「火」は家族が共に見つめることができる「火」であったのです。北の国々だけとは限りません。南の国においても、祭りの際の「火」は村民全体が、また部族全体が見つめることができる共通の「火」であったのです。

昔、日本の家庭には、家族みんなが、父母を中心に、祖父母・子供・孫などが一同に介して話をしたり食事をしたりするときの「いろり」があったのです。その「いろり」を取り囲みながら、どの席からも平等に見える「火」を見つめて話をしたり食事をしたりしていたのです。「火」は、家族を家族としてたばねる象徴だったのです。

ところが、高度経済成長で、「電化製品」が各家庭に入ってくることで、徐々にこの「いろり」は姿を消してしまいました。そして、「いろり」と共に、家族を家族として束ねる象徴としての「火」も姿を消してしまったのです。「火」の喪失と共に、日本の高度経済成長の社会には、「核家族化」と「家族離散」、「世代間の断絶」、「親殺し」、「子殺し」、「家庭内暴力」、「離婚」、「家庭崩壊」、「青少年犯罪の激増」、「テレビによる教育環境の変化」、「校内暴力」、「学級崩壊」・・・等のさまざまな現象が生じるようになりました。

筆者は、現在社会の青少年問題の背景に、家族が共に見つめることができる「火」が失われてしまったことが大きく原因しているのではないかと思っています。家族が共に見つめることができる「火」を取り戻すことで、高度経済成長以降に顕著になったさまざまな社会問題を縮小・解消へと導くことができるのではないかと思っています。

「火」は、ひとが生きていく上でかけがえのないものです。

三重県「平民籍編入についての触書」の前文にでてくる「火を改める」という所作は、「旧穢多」にとって、非常に大きなできごとであったと思うのです。明治の近代中央集権国家が、国家に組み込まれた「神社」という機関を通じて、各家庭の「火を改める」施策をとったのですから・・・。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、明治政府とその地方行政が、「旧穢多」に対して「火を改める」ことを法律で定め、それを遵守させた・・・ということについて、あまり関心を持ちません。なにか、同然のごとく受け止めているふしがあります。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に身をゆだねていると、こういうことが視野に入ってこなくなります。近世幕藩体制下の「賤民」であった「穢多」平民」になるための当然の所作・・・として認識するようになります。

水で身をきよめ、火を改める・・・、それは、三重県「平民籍編入についての触書」前文によると、「男女人別子共に至るまで」適用されることになります。

『部落学序説』では、「けがれ」について、その多重定義に注目してきました。近世幕藩体制下を生きる人々は、「常」と「非・常」という生活の二極面をもっており、「常」の世界においては、「ケ・ケガレ・ハレ」の循環を、「非・常」の世界においては、「ケ・ケガレ・キヨメ」の循環を説いてきました。「常」の世界の「ケガレ」「気枯れ」「非・常」の世界の「ケガレ」「穢れ」と定義して、『部落学序説』全般に渡って解釈してきました。「穢れ」は、「御法度」に対する法的逸脱のことで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多」は、その職務上、その「穢れ」に関与・対処していたのであって、「穢多」そのものが「穢れた」存在ではないことを力説してきました。その観点からしますと、三重県「平民籍編入についての触書」前文が、水で身をきよめ、火を改める所作を「男女人別子共に至るまで」適用しているのは、近世の「気枯れ」・「穢れ」と異質なものであることに気付かされます。

司法・警察の職務を担っていた「成人」だけでなく、「女・子供」