2005.12.30

壬申戸籍の目的

【第4章】太政官布告批判
【第5節】戸籍と国家神道
【第2項】「壬申戸籍」に関する一考察 1.壬申戸籍の目的

『部落学序説』第4章5節の表題を「戸籍と国家神道」としました。なぜ、「戸籍」「神道」を一緒に考察するのか・・・。それは、今まで、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、「戸籍」「神道」の関係は、あまり論じられてこなかったためです。

最近読んだ本に、山室信一著『日露戦争の世紀-連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書)があります。その中で、山室は、現代日本の歴史学にも存在する「制約」についてこのように語っています。

「通常の歴史叙述では、ある分野や時代を限定されることを要請されますから、時代や空間を超えた繋がりについては触れにくいという制約があります」。

無学歴・無資格の筆者は、日本の歴史学に内在する、「学」としての「自己規制」に大いに戸惑ってしまいます。戦後の日本では、「学問の自由」は保証されていたのではないでしょうか・・・。それなのに、歴史学上の発想や着想、学問的な枠組みの革新について、それを許さない世界があるということに、あらためて、驚きの思いを持たざるを得ないのです。

山室は、そのようは歴史学上の「制約」を打破すべく、『日露戦争の世紀』を書くときに、「連鎖視点」を導入します。山室は、「連鎖視点」を、「あらゆる事象を、歴史的総体との繋がりでとらえ、逆にそれによって部分的で瑣末と思われる事象が構造的全体をどのように構成し規定していったのか、を考えるための方法的な視座」と定義します。

『部落学序説』の筆者が、部落学研究法として採用している学際的研究に類似したところがあります。あえて違いをいえば、山室は、「歴史学」という枠組みの中でのみ、「視座の多様化を目指しているといえましょう。従来の学問的常識を超えて、「時代を超える」・「空間を超える」いとなみを通して歴史的事件に光をあて、その本質に迫ろうとします。

そのために、山室は、「史実と史実の間」「繋がり」(連鎖)に歴史学的な独自の意味を見いだそうとします(連鎖視点)。

日露戦争は、『部落学序説』からみると、近代部落差別の構築の大きな要因のひとつです。山室の論文は、筆者のこれからの執筆にいろいろ影響をあたえそうですが、いままで、歴史学上とりあげられてこなかった「史実と史実の間」「繋がり」の諸相は、読解するのに相当時間と努力が必要なようです。いろいろな史料・資料からの引用は、追跡・確認するだけでも相当時間・労力を要しそうです。

山室は、その「あとがき」で、「あらたな観点を出すという目標に、はるかに及ばなかった欠落感と悔い」が残った・・・といいます。歴史学者としての謙遜から出てくる言葉として斟酌しても、歴史学上の「あらたな観点」を打ち出すために、「史実と史実の間」「繋がり」を解明しきるというのは至難のわざなのかも知れません。

東京外国語大学助教授の方に、『部落学序説』の概要をみてもらったとき、「このような論文は君だから書ける・・・」とおっしゃっておられました。「君だから」というのは、無学歴・無資格でしろうとの「君」だから・・・という意味です。山室がいう、「ある分野や時代を限定される」のを常とする歴史学研究の今日の状況下では、筆者の『部落学序説』は、評価対象外の論文になります。筆者は、歴史学の限界を考慮して、歴史学のひずみを乗り越えるあらたな方法として「非常民の学として部落学」の構築を目指しているのですが・・・・。

明治政府が構築していった「戸籍」について、筆者が出会った論文の中で、最も参考になったのが、藤林晋一郎著『身元調査』(解放出版社)です。その第3章を読めば、「壬申戸籍について、押さえなければならないことはほぼ押さえることができます。出版年は1985年なので、20年前の論文ということになります。この20年の間に、「壬申戸籍」について、どのような研究が展開されていったのか、筆者は、十分、情報を持ち合わせていません。

例によって、徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書と近隣の宮脇書店で入手した若干の書籍をもとに「壬申戸籍」について言及することになります。

藤林晋一郎著『身元調査』(解放出版社)を通読していて、この書も、山室がいう日本歴史学の制約、「ある分野や時代を限定」された、未完成の中途半端な研究である・・・と感じさせられます。

パズル絵に例えると、ほぼ完成に近づいているのに、重要な部分で、いくつかのパーツが欠落している状況に例えることができます。

『部落学序説』を企画・設計・構築している全過程で思っていたことですが、どの部落研究・部落問題研究・部落史研究においても、完成予想図と比較するとき、完成された部分といまだ完成されていない部分があるということです。藤林は、「壬申戸籍」の本質に迫りながら、「戸籍」「宗教」の関連性についてはほとんど言及していないのです。「壬申戸籍」の本質を解明するには、「戸籍」「宗教」「戸籍」「寺社」の関係を明らかにする作業を省略することはできません。省略するか、研究しても言及しないでおくと、パズル絵に大きな欠損が生じ、結局論文そのものを完成させることができずに未完に終わってしまいます。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の論文を読むときは、その論文の筆者が語っているところよりも、語っていないところに注目する必要があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究における学者・研究者・教育者の自己規制は、彼等が語ったところより、語らなかったところに如実に現れるからです。

藤林は、「壬申戸籍」の前身である「京都府戸籍仕法書」に関する記述の中で、「実際の目的は、「流浪胡乱の者の探索と、困窮の救恤と、家族関係の確立」という石井良助説を紹介しています。藤林は、「京都府戸籍仕法書」のあとを受けて登場してくる「壬申戸籍の目的も同様に認識していたのでしょう。①流浪胡乱の者の探索、②困窮の救恤と、③家族関係の確立を強調するあまり、その他の要因が研究の枠外に追いやられてしまっているように思われます。

藤林は、明治4年の太政官布告第488号と第489号について、「壬申戸籍」の研究成果を踏まえて、「穢多非人解放令」は戸籍行政における「合理化」を推進するうえで大きな役割を果たしていた・・・単に戸籍事務上の便宜をはかったにすぎないとみることもできよう。そのほうが「人民の把握」に都合がよく、民衆の監視機構としての戸籍の役割がより鮮明になってくる」といいます。

しかし、「壬申戸籍」が作られた目的については、いろいろな説があります。たとえば、①治安対策、②租税賦課の徹底、③近世のキリスト教禁圧政策の継承。筆者の『部落学序説』は、「壬申戸籍」施行の目的は、①流浪胡乱の者の探索、②困窮の救恤と、③家族関係の確立にではなく、①治安対策、②租税賦課の徹底、③近世のキリスト教禁圧政策の継承にあったと認識しています。

『地方史研究法』(東京大学出版会)の著者・古島敏雄は、「江戸時代の村方史料は明治3年までであり、戸籍関係史料としての宗門人別帳も同年までであるが、それと近代的戸籍との結びつきをしめすものとして、明治5年の壬申戸籍は、身分関係の基礎史料をなし・・・・・・」といいます。

古島によると、「壬申戸籍」は、近世から近代への過渡期に作られた戸籍であるということになります。「壬申戸籍」は、明治5年に作成されたものですが、「壬申戸籍」は、近世と近代の両時代の政治意図が反映されていると想定されます。それを最も反映するのが、①治安対策、②租税賦課の徹底、③近世のキリスト教禁圧政策の継承の中の、「③近世のキリスト教禁圧政策の継承」ではないかと思います。

藤林晋一郎著『身元調査』の「壬申戸籍」に関する論述は、「③近世のキリスト教禁圧政策の継承」に関する論述をはずすことによって、残念ながら、重要なパーツの欠けたパズル絵のような未完成の論文になっているのです。藤林が、語っているところより、語っていないところに、「壬申戸籍」の本質を把握する上で重要な鍵が存在しているように思われます。

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2005.12.31

壬申戸籍の記載事項

【第4章】太政官布告批判
【第5節】戸籍と国家神道
【第2項】「壬申戸籍」に関する一考察 2.壬申戸籍の記載事項

「壬申戸籍」の現物は筆者の手元にありません。

しかし、「壬申戸籍」と思われるものに2回接しています。ひとつは、高校2年生のとき、父の書類を納めるタンスの中をみていたときに、鍵のかかる引き出しの中に、曾祖父や祖父、父の戸籍の写しや、曾祖父や祖父が公務員をしていたときの辞令があるのを見つけました。幕末・明治を生きた曾祖父に関する書類の中に、「壬申戸籍」がありました。「族称欄」には、「平民」と記載されていました。

その頃、公民館の図書室のいろいろな書籍を通じて、「壬申戸籍」について知っていましたから、「族称欄」「平民」記載をみて、筆者の先祖は代々、「百姓」であったのだ・・・と、初めて自分の歴史的ルーツを確認しました。

その「壬申戸籍」の写しは、今も岡山の実家にあります。

2度目、「壬申戸籍」を見たのは、徳山藩の北穢多村の系譜を引く被差別部落の住人の戸籍でした。その被差別部落に事務所を構えている部落解放同盟の書記の方が入手したもので、戸籍の写しではなく、「原戸籍」(?)とよばれているもので、本格的な「壬申戸籍でした。

そのとき、「研究用にコピーしてもいい・・・」と言われましたが、「個人情報は必要なし」として辞退した記憶があります。

その被差別部落の住民というのは、その地区の名家で土地も屋敷も持っている家であるということでした。「族称欄」は、3文字で記載され、その1字は消されていました。「族称欄」の枠と、その中に記載された文字の配置の不自然さから、もともと、「新平民」と記載されていたところを修正して「 平民」とされていることが分かりました。

藤林晋一郎著『身元調査』には、「壬申戸籍」のひな型も、実物の写真も添付されていないので、その本から、「壬申戸籍」の現物を想定することはできません。藤林は、「壬申戸籍」をとりあげる際、「族称欄」に関心を集中します。「壬申戸籍」には、「身分、職業を記載するものとされていた」そうですが、当然、「族称欄」の身分記載は、近世幕藩体制下の身分ではなくて、明治以降の近代身分制度の身分です。明治4年4月の戸籍法では、「臣民一般」の身分体系を「華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民」に区分されました。「壬申戸籍」編纂終了後の統計調査は、「華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民」で集計されています。

しかし、この時期、近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であった、「非常民」の処遇の方針は、明治政府内でいまだ固まっていませんでした。明治政府は、治安維持のために、明治以降も近世幕藩体制下の司法・警察制度(拷問・宗教弾圧)をそのまま温存しようとしましたが、欧米諸国からの厳しい批判・攻撃で、そのような政策を全面に打ち出すことができなくなりました。そこで、明治政府は、「国内政治」「国際外交」を分離して、二重構造で様々な政策を打ち出すようになります。近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であった、「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」等の処遇は、明治4年の戸籍法以後も変遷していきます。

「目明し・穢多・非人」は、明治4年8月にその「身分・職業」「平民同様」とされ、「同心」については、明治5年1月に、「世襲の卒は士族身分に編入され、一代限りの卒は平民身分におとされることになり、卒なる身分が消滅」(岩波近代思想体系『法と秩序』)していきます。そして、「村方役人」は、最終的には、明治5年4月に、近世幕藩体制下の司法・警察機構からはずされます。つまり、近世幕藩体制下の司法・警察「本体」は、名目上解体され、明治の戸籍法成立以降に、近世幕藩体制下の身分から、明治天皇制国家の身分へ組み換えられていくのです。

明治政府の「国内政治」「国際外交」のあいまいさと、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の処遇・対策のおくれが、「壬申戸籍」「族称欄」の身分記載に大きな影響をもたらすことになるのです。

しかし、なぜ、明治政府は、「壬申戸籍」「身分」を記載したのでしょうか。明治初年の「刑法典」である「新律綱領」「改定律令」は、犯罪者の所属する身分によって、その刑罰に違いを設けたことと無縁ではなさそうです。

「華士族」には、「平民」と違って「閏刑」が科せられます。「閏刑」というのは、ひとくちでいうと、「士族および華族の身分的名誉を重んじて設けられた刑罰体系」です。近世幕藩体制下の武士身分に対する「閏刑」である「切腹・敵討・改易」は廃止され、身分的名誉を重んじた労役刑としての「辺戍」があらたに設けられたりしますが、「教育する必要」がない、当時の知識階級である「華士族」に対しては、「強盗・賭博・犯姦など」「廉恥ヲ破ルコト甚シキ」場合を除き、「禁固一つに簡略化されていく」ことになります。

また、「官吏」も刑法上の特権を受けることになります。

「平民」に対しては、近世幕藩体制化のキリシタン禁教令違反などの「天下の大罪」を犯した人々に適用された「引廻しの上鋸引きという極刑」が、キリスト教国である諸外国との交際を考慮して、いちはやく刑罰の目録から排除されていきます。しかし、明治政府は、犯罪予防効果を狙って、近世幕藩体制下の「拷問刑」である「梟首」を容認しました。明治政府のとった司法政策は、身分に応じた刑罰を課すことでした。

「壬申戸籍」は、司法行政上の重要な典拠だったのです。

身分に基づく刑罰の違いは、「農・工・商」と「穢多・非人」の間にもみられます。『仮刑律』によると、「穢多」「百姓」に対して暴行を働いた場合、通常の刑罰より「一等重い刑罰が加えられます。学者・研究者の中には、「穢多」に対する差別・・・と判断するひともいるようですが、「穢多」は、司法・警察に従事し、日頃から、武術の鍛練をしています。それは、職務遂行上の範囲でのみ容認されていることであって、それを私闘に用いて「農・工・商」に障害をあたえたものは、職権の乱用として厳しく罰する・・・という意味合いのも、のではないかと思います。

『身元調査』の著者・藤林晋一郎は、「族称欄」において、明治天皇制国家の身分制度の身分は、形式上「皇族、華族、士族、平民」「4階級の段階に分けられ」「分断支配の形で再編されたといいます。戸籍における「属人主義」から「属地主義」への転換が図られたとはいえ、「壬申戸籍」は全近代的要素の強い戸籍であったのです。

この「壬申戸籍」が、興信所・探偵社の「身元調査」の淵源になり、被差別部落出身者の結婚・就職に際して、人権侵害の起因になっていることから、部落解放同盟等運動団体の抗議を踏まえて、政府は、1968年、「壬申戸籍」の閲覧を禁止しました。この年から、「壬申戸籍」「行政文書」としては「廃棄」され、住民に対するサービスとしてそのコピーが提供されることはなくなりました。しかし、「壬申戸籍」は、「焼却処分」されたのではなく、法務局によって、「史料」として保管されることになったのです。

『部落学序説』の筆者である私は、「壬申戸籍」が、「焼却処分」にされ完全に廃棄されたのではなく、「歴史資料」として保存されていることは、良き処置であったと思います。

筆者は、日本の歴史学が、内在する差別思想である賎民史観を破棄し、明治政府の極秘扱されている「外交文書」が完全公開され、自由に史料の閲覧と研究が可能になる時代がいずれ到来すると思います。その際、「壬申戸籍」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の実態をあきらかにし、「賎民」という、いわれなき蔑称から「名誉回復」するための重要な典拠になるからです。

運動団体は「壬申戸籍」「廃棄」を要求しましたが、もしその要求に沿って「壬申戸籍」が文字通り、完全に「廃棄」されていたとしたら・・・、筆者は、それを考えるとひとごとながらぞっとします。「壬申戸籍」「廃棄」して、歴史資料から抹殺することで、日本の社会から差別をなくすための重要なてがかり、被差別部落の人々が部落差別の鉄鎖から自らを解放する重要なてがかりを永遠に喪失してしまうからです。

「コンピュータを駆使してこれまで打ち捨てられてきた「宗門改帳」などの人口史料を分析し、人口の観点から歴史を見直」そうとする『歴史人口学で見た日本』の著者・速水融は、「壬申戸籍」についてこのように語ります。

「明治5年に編成された「壬申戸籍」があるが、これには身分が書いてあり、利用が法的には禁止されている。現在の社会状況では、この禁止はやむを得ない」。

「現在の社会情勢では・・・」という表現は、時代が代わり、日本の歴史学が後生大事に抱えている、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を払拭し、「穢多非人等の「非常民」にたいする見方が変わり、一般的・通俗的を超えたものの見方や考え方が世の中に浸透していく・・・そのような時代があることを予感させます。「現在の社会情勢」は、永遠に変わらざるのものではなく、私たちが意識するとしないとに関わらず、多くのこころある学者・研究者によって積み重ねられてきた史料発掘や実証主義的研究が、徐々に、部落差別の歴史認識を徐々に変化させつつあると思うのです。
 

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壬申戸籍による「穢多非人」の識別

【第4章】太政官布告批判
【第5節】戸籍と国家神道
【第2項】「壬申戸籍」に関する一考察 3.壬申戸籍による「穢多非人」の識別

「壬申戸籍」「族称欄」の統計から、身分別人口比率をみますと以下のようになります。

皇族   0.0000009%
華族   0.0081%
士族      5.91%
平民   93.00%

higasi この「平民」の中には、「穢多非人等」がふくまれていますが、「明治初年調 府藩県人員表」(山川出版社『人権の歴史 同和教育指導の手引き』)を参考に、「元穢多非人」の人口比率を、1.73%であると仮定します。

圧倒的多数は、「平民」身分です。「壬申戸籍」の論述を分かりやすくするため、「平民」から「旧穢多非人」を独立させると、身分別人口比率は以下のようになります。

(非常民)
皇族   0.0000009%
華族   0.0081%
士族      5.91%
元穢多    1.73%


(常民)
平民   91.27%

圧倒的大多数は「平民」ということになります。「壬申戸籍」100軒分を閲覧すると、91~92軒は、「平民」ということになります。「皇族」・「華族」記載の「壬申戸籍は、ほとんど皆無に等しく、「士族」は100軒中6軒、「元穢多非人」は、100軒中1~2軒ということになります。

「壬申戸籍」は、当時の行政の戸籍係・担当者によって、「司法・警察関連の施策」、「刑法上の特例」がある場合の検索を容易にするために、「平民」と「平民以外」を識別するための「指標」を設定する場合がありました。

一般的な方法は、「族称欄」の身分を「朱筆」することです。『部落学序説』のこれまでの論述を踏まえると、近世幕藩体制下の「非常民」に属する人は「族称欄」の身分が朱筆される場合が多々見受けられるといいます。「士族」の場合、「士族」と朱筆されるのです。しかし、「常民」の場合は、朱筆されることはありません(「壬申戸籍」を全部みたわけではありませんが・・・)。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多非人」は、「非常民」ですので、「壬申戸籍」において、「士族」がそうであったように、「常民」である「平民」から区別するために「朱筆」された可能性があります。「朱筆」されない場合、「朱筆」で記号がつけられたり、「新平民」と記載されたり、「元穢多非人」だけ、戸籍の末尾に一括して編纂されたりしました。

明治政府は、司法・警察行政上、「壬申戸籍」「非常民」「朱筆」で印をつけ、急な識別・検索に供する必要があったのでしょう。

しかし、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠する学者・研究者・教育者は、この「壬申戸籍」の、「旧穢多非人」につけられた印を、「差別のためにつけられた・・・」と解釈します。被差別部落の側も、「社会的地位も名誉も信頼もある学者・研究者・教育者がいうならば、この印は被差別部落の人を差別するためにつけられたに違いない・・・」と信じるようになって、今日の「壬申戸籍」に対する偏った見方が成立していったのではないかと思います。

筆者は、「旧穢多非人」につけられた印は、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、一般的にいわれる、「差別のためにだけ」つけられたものではないのではないか・・・、もっと別な意味が含まれているのではないかと思っています。「壬申戸籍」は、「士族」「元穢多非人」を、近世幕藩体制下の「非常民」として、同様に取り扱っていたのではないか・・・、という疑念を抱いているのです。

「朱筆」「点」がつけられる場合、「壬申戸籍」において、近世幕藩体制下の司法・警察であった「元穢多非人」が誰であったのか、不用意にあきらかにすることで、司法・警察行政に支障をきたす恐れがあると判断された場合、司法・警察業に関係のある人々(元同心・目明し・穢多・非人)に、必要に応じて、それとなく、印がつけられた可能性もあります。

この仮説を論証するためには、「壬申戸籍」「本文批評」にさらす必要があります。新平民」という文字だけでなく、文字の色、大きさ、記号の種類・・・等、詳細に検証する必要があります。

さらにいえば、『身元調査』の著者・藤林晋一郎は、「壬申戸籍」「族称欄」にのみ注目しますが、壬申戸籍」から、「旧穢多非人」を識別するのは、「族称欄」だけとは限りません。なぜなら、「壬申戸籍」は、近世幕藩体制下の「宗門改帳」の近代における継承でもあったからです。「宗門改帳」の記載事項に、それぞれの家が所属していた「寺と神社」の名前を書く欄があります。

「壬申戸籍」において、「旧穢多非人」身分の多くは、「平民」として登録されていたといわれます。「新平民」記載や記号による識別は、極めて例外的なことがらであるというのです。

それでは、「壬申戸籍」「旧穢多非人」「平民」として記載されている場合、「旧穢多非人」の身分が判別できないのかというと、そうではありません。「宗門改帳」の記載事項が転記された箇所を見れば分かります。「族称欄」ではなく、先祖が所属していた寺院名・神社名をみれば分かる仕組みになっています。

「壬申戸籍」の寺社の名前を記した欄をみると、近世幕藩体制下でどの寺に所属していたかが分かります。ご存知のように、近世幕藩体制下の「穢多」は、多くの場合、浄土真宗の「穢寺」・「穢多寺」に所属しています。つまり、「族称欄」「平民」記載されている場合でも、所属している寺院の名称を見て、その「寺」が浄土真宗の「穢寺」の名簿に記載されていれば、その家は、近世幕藩体制下の「穢多非人」の末裔であるということになります。

被差別部落の人々にとって、「壬申戸籍」「差別文書」と思われたのは、「族称欄」「新平民」記載だけでなく、たとへ「平民」記載であっても、「穢寺」の門徒であるかいなかによって、「旧穢多」身分であることが分かったからです。近世幕藩体制下の「宗門改帳」の寺院名がそのまま記載されている場合はより深刻です。

被差別部落の人々にとって、「壬申戸籍」は、両刀の刃になります。他者によって、先祖の身分を暴かれる道具にもなれば、自己のルーツを確認するための有力な史料ともなります。「壬申戸籍」を差別戸籍として閲覧禁止に追いやった結果、「壬申戸籍」を根拠に結婚差別・就職差別を受けることがなくなった反面、被差別部落の人々も、自己のルーツを確認する術を失ったのです。

宗教者である筆者の職業柄、時々、「被差別部落出身かどうか」悩む人に接します。数年、数十年、そのことで悩む人もいます。「壬申戸籍」「族称欄」と寺社籍簿の欄をみれば、たちどころに氷解するにも関わらず・・・。その最大の障碍になっているのが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」なのです。「賎民史観」に裏打ちされた、「寝た子を起こすな・・・」という、被差別部落の人々を、絶望とあきらめに閉じ込める差別的な論理なのです。

浄土真宗の寺の中でどの寺が「穢寺」なのか・・・。

公立図書館に行けば、比較的簡単にその一覧表を入手することができます。近世幕藩体制下の「穢寺」の名称と、明治天皇制下の名称が異なっている場合がありますが、各種寺院名鑑をみれば容易に確認することができます。近世の「庵」が近代の「寺」に格上げされている場合もありますが、その確認もそれほど難しいことではありません。「被差別部落出身かどうか」、「先祖が何をしていたのか」、ひとり、密かに、延々と悶え苦しみ悩むより、「壬申戸籍」を調べて確認する方がより合理的に問題を解決します。「穢寺」の住職の方も、あなたの問題解決のために協力してくださるでしょう。

インターネットで流されている被差別部落の「地名」・「姓名」は、あまり意味をもちません。それらの情報から、被差別部落の人々が自分のルーツにたどり着くことはほとんどできないでしょう。少なくとも、山口県に関する情報は、いいかげんで無責任な戯言でしかありません。

「壬申戸籍」「寺院」の関連性は了承してくださったと思われますが、「壬申戸籍」「神社」の関連性はどこに由来するのでしょうか・・・。次回、取り上げます。

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2006.01.03

壬申戸籍と神社

【第4章】太政官布告批判
【第5節】戸籍と国家神道
【第2項】「壬申戸籍」に関する一考察 4.壬申戸籍と神社

「壬申戸籍」には、「族称欄」だけでなく、「寺院」「神社」の名前を記す欄があります。

宗教記載欄を見ると、近世幕藩体制下の身分を示唆する「寺」と、明治になってから新たに組み込まれた「神社」の両方を確認することができます。

西日本の「旧穢多」は、幕藩体制下においては、熱心な浄土真宗も門徒でした。長州藩の場合、「穢多」「穢多寺」に所属し、「茶筅」「茶筅寺」に所属していました。それらの代表的なものは、長州藩の税金台帳である『防長風土注進案』を見れば、その由来・教勢・産業・文化等を詳細に知ることができます。『防長風土注進案』は、山口県の公立図書館に行けば必ず常備されていますので、誰でもその気になれば、「穢多寺」の在所を確認することができます。

20数年前、山口の地に住み着くようになった「よそ者」の筆者が、防長2ケ国の「穢多寺」の名前とその在所を知ることができるのは、公立図書館の郷土史料室で、『防長風土注進案』・『地下上申』という、近世の「穢多非人」に関する記述を含む史料を簡単に閲覧することができるからです。

前ページに添付した写真は、周防国にある西本願寺系列の「穢多寺」2ケ寺のうちのひとつです。筆者は、「相対座標」を用いて、「周防国東穢多寺」・「周防国西穢多寺」と読んでいます。これは筆者の『部落学序説』執筆上の呼称なので、『防長風土注進案』・『地下上申』にはこの名前では登場してきません。『防長風土注進案』・『地下上申』「穢多寺」は明治以降、統廃合されたり、名称変更されたりしていますので、『防長風土注進案』・『地下上申』「穢多寺」をみつけても、それで、直接、その歴史を引く現在の寺に直結するわけではありません。

筆者は、あえて、「周防国東穢多寺」の写真を掲げたわけですが、最初、「周防国東穢多寺」の前に立ったとき、一瞬とまどいを覚えました。「一見、武家屋敷の風格のある真宗寺院が、なぜ差別されてきた寺なのか・・・」。筆者の常識から判断すると、もっともっと鄙びた小さな寺院を想像していたのですが、目の前にある「周防国東穢多寺」は、萩城下の武家屋敷に勝るとも劣らない風格を持っていました。寺をとりまく白壁の美しさは、寺に明るさを添えていました。

住職に、屋根の「鯱」について尋ねたら、「屋根瓦の職人が勝手に付けていった・・・」ということでしたが、筆者は、近世幕藩体制下の長州藩の瓦葺き「穢多屋敷」を受け継いでいるのではないかと思いました。屋根の「鯱」は、被差別部落の家によく見受けられますが、あるとき、広島の県北をドライブしていたら、国道沿いの両側の家すべての家に鯱」が飾られてあったのには驚きました。流行とか職人の趣味とかの要素が加わっているので、屋根の「鯱」は何の目安にもなりませんが、「周防国東穢多寺」の屋根の「鯱」は大きな「鯱」です。

「周防国東穢多寺」だけでなく、「周防国西穢多寺」・「周防国北茶筅寺」・「周防国中茶筅寺」・「周防国南茶筅寺」も、それぞれ、その地域に相応しい風格をもった寺です。

「茶筅寺」は、「旧茶筅」身分の末裔を門徒として抱えている浄土真宗の寺の住職の聞き取り調査から割り出したものです。

「周防国東穢多寺」の住職は、被差別部落の人々は、「差別されて、どの寺も受け入れてもらえないので、かわいそうだから、浄土真宗の当寺が引き受けています・・・」と話していましたが・・・。

筆者は、浄土真宗の「穢多寺」は、近世幕藩体制下における、当時の「宗教警察」機構のひとつであったと思っています。

『神々の明治維新』の著者・安丸良夫は、「国家権力の憎悪と恐怖」の代表的なものとして、キリシタンに対する「憎悪と恐怖」をとりあげています。その結果、「わが国の歴史においてもっとも残酷な刑罰がおこなわれた」のです。歴史上、まれに見る、差別と疎外、弾圧と糾弾・・・が展開されていったのです。近世における日本の「ホロコースト」と言ってもいいかもしれません。

安丸によると、純粋に宗教的な行為である「告解」についても、「父母殺しなどの五逆罪や国家への謀反反逆の罪」と同等とされ、子女を含むおびただしいキリシタンがその弾圧・糾弾の被害者になっていきました。

日本の権力者は、一度たりとも、キリシタン弾圧と糾弾、差別と抑圧に対して、罪責告白をしたことはありません。日本の歴史上の最大の人権侵害に対して、一度も、その事実を認め、その罪責を告白したことはないのです。浄土真宗も、「穢多寺」を介して、キリシタン弾圧と直接関与したことについて、一片の謝罪を告白したこともありません。

日本においては、基本的には、「罪」は、取り除かれることによってではなく、忘れ去られることによって、「許される」と受け止められています。大和の国の地の深きところにある、「地の国・根の国」に忘れられることによって、「天津罪」・「国津罪」のすべてが許されると信じているのです。そういう意味では、日本の国は、忘れられてはいるが、決して取り除かれていないもろもろの罪の上に浮かんでいるのです。

もちろん、キリシタン弾圧の責任を浄土真宗のみに押しつける意図は筆者にはありませんが、「周防国東穢多寺」を前にして、武家屋敷に似た風格に感激しつつ、「この寺もまた、キリシタン弾圧・糾弾の拠点になった寺・・・」という思いを禁じ得ません。

幕末・明治にかけて、キリシタン弾圧問題が再燃したとき、そして、日毎に、キリシタン弾圧問題をめぐる欧米各国の外交上の抗議が激しくなるなか、明治新政府は、近世幕藩体制下の「宗教警察」を見かけ上、分離・解体しようとします。「分離」・「解体」をもって「近代化」のこころみ・・・という詭弁を弄します。「神仏分離と廃仏毀釈」の背景にも、このキリシタン弾圧・糾弾問題は大きく影を落としているのです。

明治政府は、キリシタン弾圧・糾弾機構を、浄土真宗から国家神道に移そうとします。明治新政府は、近世幕藩体制下の「宗門改め」に代えて、「一村一鎮守制」(水戸藩)、一村一社制」(長州藩)を普遍化して、全国津々浦々を「国家的祭祀の体系」に組み込み、「氏子改め」を強制しよとします。

「壬申戸籍」の宗教欄の「寺院」「神社」の名称の背後には、「神道国教体制」(安丸)化への様々な要因が錯綜しているのです。

明治4年の太政官布告第488号・第489号をもって、「旧穢多非人」の称が廃止されるとともに、近世幕藩体制下の「穢多寺」もまた、その称号を廃されたと思うのです。 

「宗門改め」に代えて、「氏子改め」を採用することで、仏教寺院(特に、浄土真宗)に代えて、明治維新にともなって、「神道モ御一新」の名のもとに、「一村一社制」として近代化された国家神道が採用されていくのです。

「穢多寺」は廃止され、「穢多社」(穢多神社)が日本全国に成立していくことになります。しかし、「穢多社」(穢多神社)という言葉を耳にすることはありません。近世幕藩体制下の幕府と違って明治近代天皇制国家は、そのような表現を採用することがなかったためです。

明治新政府は、欧米諸外国から「氏子改め」も批判され、あまり時を経ないで撤回していきます。

欧米諸国とは、十分な外交的対話をしつつ、国内政治においては、基本的に、前近代的な「よらしむべくしてしらしむべからず」という、民衆支配の形態を踏襲していった、明治政府のコンプレックスに満ちた姿がここにあります。

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