2005.12.14

太政官布告の研究方法

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第1項】太政官布告の研究方法

『いま部落史がおもしろい』(解放出版社)の著者・渡辺俊雄は、このように語ります。

「近年、部落史研究で見直されていることは、実に多くあります。・・・その基本には、部落史の研究が進み、これまで知られていなかった新しい事実や部落史の新しい見方が生まれてきたことがあります。例えば、啓発の文章ではいわゆる「解放令」をまだ太政官布告「第61号」と書いてある場合がありますが、そう呼ぶのが誤りであることは、すでに鈴木二郎さんが『現代都市の社会学』という本の中で指摘し、さらに上杉聡さんがまとめた『明治維新と賤民廃止令』で広く知られるようになりました」。

渡辺によると、「明治4年太政官布告第61号」という表現は、部落史研究の進展状況を把握していない筆者の後進性に由来することになるのでしょうか。

岩波近代思想大系『差別の諸相』では、明治4年のこの布告は、「太政官第448号、布告8月28日」と「太政官第449号、布告8月28日」のふたつの法令として収録されています。『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、このふたつの法令を、「一般に「解放令」あるいは「賤民解放令」「賤称廃止令」といわれる」と解題に記していますが、「解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」という名称は、ある種の歴史解釈です。このふたつの法令を、「解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」と呼んだ瞬間に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を暗黙裡に容認したことになります。私は、それを避けるために、形式的な表現「○○年太政官布告○○号」という呼び方を採用したのです。

『差別の諸相』からこのふたつの法令を引用します。

5 賤民制廃止の布告
[太政官第488号、布告8月28日]
穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事。
[太政官第489号、布告8月28日]府県
穢多非人等ノ称被廃候条、一般民籍ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤モ地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。

第488号と第489号を比較しますと、「穢多非人等ノ称被廃候条」という表現は完全に一致します。続く、「自今身分職業共平民同様タルベキ事」(第488号)と「身分職業共都テ同一ニ相成候」(第489号)は、その内容においてほぼ一致します。第489号にのみ出てくる表現は、「一般民籍ニ編入」という言葉と、「地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事」という言葉です。

明治政府は、一般国民に対しては、第488号を布告し、明治政府の中央集権国家の地方行政を担当する「府県」に対しては、第488号の布告の意図をより明らかに定義した第489号を布告したとも考えられます。第488号は、極めて抽象的な内容ですが、第489号は、禁制幕藩体制下の「穢多非人等」の戸籍と税制上の優遇制度の廃止という極めて具体的な威容です。明治政府は、一般国民に対しては、あいまいさを留保し、「府県」に対してはあいまいさを排除しています。背後に、明治政府の隠された意図がありそうです。

ふたつの太政官布告の意味について言及する前に、明治4年の太政官布告の研究方法について、少しく検証してみましょう。

明治4年の太政官布告の研究方法について言及した論文に臼井壽光著《「解放令」反対不穏状況の分析》があります。この論文が収録されている好並隆司編『明治初年解放令反対一揆の研究』(明石書店)は、私のような学歴も資格も持ち合わせていないただの人にとっては、非常にありがたい論文集・資料集になります。

「解放令」反対一揆の研究は、当然「解放令」の研究を内包します。「解放令」の正確な分析と批判検証を経なければ、「解放令」反対一揆の正確な把握は覚束ないからです。この『明治初年解放令反対一揆の研究』は、好並隆司・石瀧豊美・三好昭一郎・宇賀平・臼井壽光・上杉聡各氏の論文と、その他に小林茂・師岡佑行・美馬敏男・谷口修太郎・山口信夫・若林義夫各氏による見解が収録されています。この論文集を読むと、多様な「研究者の視角」を自分のものにすることができます。好並は「各論者の独自な主張が開陳されて互に譲らない箇所もあり、提起された課題にたいし、早計に結論をだしえない状況が生じていることは読者も容易に察知されるところであろう」とコメントしていますが、『明治初年解放令反対一揆の研究』を通して入手することができる情報量は驚くべきものがあります。

この論文集が出されたのは、1987年です。『部落学序説』の筆者である私が、まだ、所属している宗教教団の教区の同和担当部門の委員をしていたときに、発行と同時に入手して通読しました。そのときは、『明治初年解放令反対一揆の研究』の内容を十分に把握することはできませんでした。その当時、山口県の同和教育研究協議会や山口県の同和問題宗教者連帯会議の研修会や講演会に出席したり、発題したりしていました。また、山口県の部落解放同盟のいくつかの支部に出入りして、被差別部落の人々から聞き取り調査をしていました。差別事件が発生すると、その糾弾会や交渉に陪席させてもらい見聞を深めていた時期です。どちらかいうと、教区の同和担当部門のトップの指示に従って、具体的に被差別部落と出会い、被差別部落の人々から、部落差別とは何かを学ぶ・・・、そういう姿勢で取り組みをしていた時期です。それからほとんど、この書を開くことはなかったのですが、今回あらためて目を通して見て、各氏の論旨、発言の内容が手にとるように分かるようになっていたので、筆者に『部落学序説』執筆が何を齎したかを認識することができました。

臼井壽光は《「解放令」反対不穏状況の分析》という論文の中でこのように語ります。

「近年の、「解放令」布告、施行過程に関する部分を含む、近代部落問題成立史研究は、ある意味で当然のことであるがほとんど近代史研究者に担われている。ところで70年後半以後の近世部落史研究の進展は顕著なものがあるが、残念ながら近年の近代部落史研究は近世部落史研究のそれらの新たな成果をフォローしていない、あるいは正しく接合されるに至っていないと見ざるをえない」。

学問の専門化傾向は、歴史学の内部にまで及んでいるようです。近世部落史研究と近代部落史研究は、それぞれ別な研究者によって研究され、必ずしも、研究成果の相互交流をしていないというのです。臼井の論文を読んでいて、私は、あることに妙に納得したのです。なぜ、近代部落史は、明治4年の太政官布告から筆を起こすのか・・・。なぜ、明治4年の太政官布告を批判・検証しないのか・・・。長い間ずっと疑問に思っていました。山口県立文書館の元研究員の布引俊雄は、幕末の研究から一挙に融和事業へ飛躍してしまいます。その過程(明治元年から明治23年までの期間)を研究上の空白にします。同じ文書館の元研究員の北川健は、布引俊雄が研究上の空白にしたままにしていることがらについて研究します。布引俊雄というひとりの部落史研究者の中にあっても、近世と近代とは、必ずしも「正しく接合されるに至っていない」のです。

筆者は、布引俊雄の論文を読んでいて、布引が意図的に避けて通っている明治元年から明治23年までの期間に、部落史上大切なことが進行していたのではないか・・・、と考えるようになっていったのです。

近世部落史研究と近代部落史研究をどのように「接合」することができるのか・・・。臼井は、傾聴に値するいくつかの提言をしています。臼井は、「近世賤民制の構造的理解がなければ近代部落問題成立の正しい筋道を得ることはできない」といいます。「近世賤民制の何が解体し何が残ったのかという・・・ここのところを正確にする作業ぬきに、「解放令」反対一揆研究も新しい段階を画することはできないであろう。近世賤民制の構造をキッチリと明らかにするということそのものが十分な形あるものとして示されるかといえばもちろん否定的であるが、近代史研究の側が、なんかこうした視角をもちえない、提起さえしていないということはやはり大きな問題であり・・・誤った近世理解では新しい水準を生み出すことはむつかしかろう。」といいます。

臼井は、「近世賤民制の構造的理解」だけでなく「地域構造の分析」が必要であるといいます。「地域構造の分析を含まなければ反対一揆研究は単純な反対一揆研究に終始してしまうのではないか。」というのです。

臼井の指摘に対して、筆者は、「近世賤民制の構造的理解」としては、①「常民」・「非常民」概念の導入、②「日常・非日常」と「常・非常」の二重構造、③ケ・ケガレ(気枯れ)・ハレとケ・ケガレ(穢れ)・キヨメという社会的再生メカニズムにおけるケガレの二重性等の論述がそれを満たしているように思います。また、「地域構造の分析」については、①村のシステム、②村境における祝福と呪い等に関する論述がそれを満たしているように思います。

臼井の提言と、筆者の『部落学序説』の論述に一致したところがあるというのは、昔、臼井の《「解放令」反対不穏状況の分析》という論文を読んだときに深い影響を受けたためではないかと思います。筆者は、58歳、あと1ヶ月少々で59歳になりますが、次第に「記銘力」が減退気味になりつつあります。「記憶力」はあるのですが、「記銘力」は徐々に減退していっていることを認めざるをえません。『部落学序説』の執筆を続けるためには、一定の時期に「記憶」の入れ換えが必要になってきます。「記憶」の入れ換えのために、このブログ・・・、ときどき執筆の中断が生じてしまいます。

臼井は、「近世賤民制の構造的理解」「地域構造の分析」が欠けるとき、つまり、「一揆に至る過程や広い状況の分析を欠いている」場合、「解放令」「解放令」反対一揆について、「叙述はあっても分析はなされていない」といいます。臼井は、上杉聡の部落史研究は、「近世賤民制の構造的理解」「地域構造の分析」を欠いた、「現象説明の域を出ない」と酷評します。

臼井は、近代部落史研究に際しては、「官側史料に無批判な、これに全面依存した研究」であってはならいといいます。権力側が作成した史料のみに依拠すると、「権力側がどのようにでも操作することが可能」であるという事実を看過してしまうことにつながるといいます。臼井は、上杉聡の研究を批判して、「「進歩的」官僚と「遅れた」民衆図式の上に立つ上杉も官側史料について何らの疑いも抱いていない。」といいます。臼井はまた、「近世賤民制の構造的理解」「地域構造の分析」が徹底されないため、「地方文書利用の尤も多い」ひろたまさきですら、近代部落歴史に関する史料を、「傍証・周辺史料として地方文書が利用されているに過ぎない。」といいます。

近世部落史と近代部落史の「正しい接合」を達成するためには、「地方文書」の批判・検証に基づく、「地方文書」そのものの正当な解釈が必要となるというのです。臼井は、更に、「私達が心がけたいことは府県史料等を使わない、少なくとも一次史料としてはこれを使用することを禁欲するということである。これらの史料の批判操作、方法論が確立していない現状の下では、誘惑に満ちた大量のこれらの史料を使わないという形で一度該期の分析を試みることも一定の意味があろうと考えるのである。」といいます。

臼井壽光の論文をもっとはやく精読していれば、『部落学序説』は、もっとはやく完成させることができていたかも知れません。

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2005.12.15

太政官布告の釈義 1:太政官布告(第488号と第489号)

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】太政官布告の釈義 1:太政官布告(第488号と第489号)

岩波近代思想大系の『差別の諸相』から明治4年の太政官布告を再度引用します。

【賤民制廃止の布告】

[太政官第488号、布告8月28日]
穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事。

[太政官第489号、布告8月28日]府県
穢多非人等ノ称被廃候条、一般民籍ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤モ地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。

太政官布告第488号と489号とは、一般的には、ひとつの太政官布告として取り扱われます。しかし、明治政府があえて、「穢多非人等」について第488号と489号の二つの布告を出したのは、それなりの理由があったと想定されます。しかし、部落史研究において、その理由の解明は関心の的にならず、今日まで看過されてきました。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、明治4年の太政官布告を「部落解放令」と称して、その条文の解釈を展開しています。しかし、石尾もまた、太政官布告488号と489号を二つの布告として受け止めず、ひとつの「部落解放令」と認識します。

上杉聡は、『これでわかった!部落の歴史(私のダイガク講座)』の中で、これまで、明治4年の太政官布告の内容を「解放令」と呼ぶことが一般的であったといいます。しかし、上杉は、一般説に追従することはできないといいます。その理由に、布告の条文の中に「解放」という言葉が見当たらないといいます。明治4年の太政官布告に「なんらかの名前を付けたり番号を付けるのはずいぶん後になってからのこと」であるといいます。「とくに「解放令」という呼び方は、後世の布告に対する過剰な評価が加わっている」といいます。上杉は、さらに、この布告を「賤称廃止令」と呼ぶのも「誤解」に基づくというのです。この布告は、単なる名称の変更ではなく、「大きな法制的な変革」であって、「穢多非人等」「職務が廃止されることを告げたもの」であるというのです。更に、「職務」だけでなく「制度」の廃止をも含むというのです。上杉は、「この布告を「解放令」と呼ぶのは過大評価になる」と指摘し、「むしろ「賤民制廃止令」ないし、略して「賤民廃止令」などと呼ぶ方が適切」であるといいます。

明治4年の太政官布告について、厳しく迫る石尾芳久や上杉聡にして、この布告を、太政官布告第488号、太政官布告第489号の二つ条文から構成され、それぞれの条文に明治政府の政治的意図が反映されていることに思いを馳せさせることはないのです。

しかも両者の説は、著しく異なります。明治4年の太政官布告の解釈について、石尾芳久・上杉聡の解釈を比較検証するだけでも、明治4年の太政官布告についての学的研究が、まだ「混乱」状態にあり、研究上の定説はいまだに形成されていないのではないか・・・、ということに思いいたります。明治4年の太政官布告について、その条文の釈義・解釈が十分なされていないにもかかわらず、近代天皇制を無意識に受容する学者・研究者・教育者・運動家や政治家によって、明治4年の太政官布告は、「天皇の聖旨」(秋定嘉和著《近代部落史研究の課題》)に基づくありがたい言葉として、不問に付されたまま、近代部落史研究の前提となってきたのです。黒川みどりの論文等は、その典型です。

黒川みどりの『地域史のなかの部落問題』(解放出版社)によると、「解放令」は、明治天皇の下ですべての国民が「平等」であるという日本の近代性(開明性)の誇示の一貫として打ち出されたといいます。そのため、この太政官布告は、「被差別部落の人々が平等を要求していく際の武器」となっていったといいます。黒川は、解放令反対一揆の中に、この「武器」を根拠に、「部落民衆」「平等」を実質化するための闘争を展開していったというのです。黒川は、「部落民衆」は、「「解放令」によって封建的身分制度が廃止されたあと」「前近代から持ち越され、民衆の生活意識のなかに浸透していた「けがれ」が・・・身分制度に代わって有効に機能」したというのです。

無学歴・無資格のただの人である筆者の目からみると、黒川の論文も、前項でとりあげた臼井壽光の指摘する、近世部落史研究と近代部落史研究の「接合」が正しくなされていない事例に数えられます。上杉が、この布告を批判検証することで、この布告には「人権への配慮など・・・みじんもありませんでした」と断定するのと対照的に、黒川は、この布告を近代部落史の前提として認識するため、明治4年の太政官布告を「批判・検証」することはありません。例えば、「自今身分職業共平民同様タルベキ事」という言葉を、無批判的に受け止める黒川は、「被差別部落は、「解放令」と同時に、それまで従事してきた斃牛馬処理などの仕事が特権ではなくなった」と、歴史上の事実誤認に陥ってしまいます(8月28日の太政官布告に先立って、近世幕藩体制下の特権は解消されている)。

石尾芳久・上杉聡に黒川みどりを加えると、「部落解放令」(石尾)・「賤民制廃止令」(上杉)・「解放令」(黒川みどり)に対する解釈は、ますます複雑な様相を呈して、混乱に拍車をかける結果に陥ります。

部落研究・部落問題研究・部落史研究において、明治4年の太政官布告第488号と489号は、近代部落差別の起源を尋ねる際に、極めて重要な意味を持っているにもかかわらず、今日の部落史の学者・研究者・教育者の世界では、諸説入り乱れて混乱した状態が醸しだされているのです(続く)。

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2005.12.16

太政官布告の釈義 2:「穢多非人等」

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】太政官布告の釈義 2.「穢多非人等」

一般的に「解放令」と呼ばれている太政官布告第488号と第489号・・・。この表現は、部落史研究上で一般的ではなさそうです。

インターネット上で、第488号・第489号を検索しても、該当する文献を見つけることはできませんでした。筆者は、「解放」・「賎民」という概念使用することで、その背後にある日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を暗黙の前提として追認することを避けるため、概念にその内容を内包しない形式的な用語「太政官布告第○○号」という形式的表現を採用することにしました。しかも、この布告が、二つの布告から構成されていることが分かった今は、「太政官布告第61号」と一括して呼ぶよりは、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の二つに分けて取り扱うことがより妥当であると判断しました。

ただ、無学歴・無資格の筆者の弱さでしょうか、「太政官布告61号」という表現と、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」という表現の関連性について、いまだに解明できないでいます。「太政官布告61号」「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」は、まったく異なるものなのか、それとも「太政官布告61号」「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号の合体したものなのか・・・、基礎的なことすら確認することができないでいるのです。

これまで、筆者は、『部落学序説』執筆に際して、歴史資料や学者・研究者の論文を批判検証の対象にして自説を説いてきましたが、それなのに、「太政官布告61号」という表現と、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」という表現の関連性についてほとんど何の情報も入手することができないということは、二つの可能性を想定することができます。ひとつは、両者の関連性について、これまで何の検証もなされてこなかった、もうひとつは、両者の関連性についてはあまりにも一般的で学者や研究者が検証の必要性を認めていない・・・。後者の場合、筆者の勉強不足・研究不足ということになり、多くの人から失笑をかうことになるでしょう。

愚をおかすことを覚悟して、岩波近代思想大系第22巻『差別の諸相』に収録されている「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」を、別々な条文として意識的に比較してみますと、両者の共通点と相違点が明らかになります。

共通点というのは、「太政官布告第488号」「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」「太政官布告第489号」「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という冒頭部分が完全に一致するということです。「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」が同一の条文であるなら、「太政官布告第489号」の冒頭部分で、あらてめて「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という表現を採用する必要性はなかったと思われます。「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」という表現を冒頭で繰り返しているところをみると、やはり、『差別の諸相』に収録されている「太政官布告第488号」と「太政官布告第489号」は、別な、それぞれから独立した布告が他にあったのではないかという思いを強くさせられます。

さらに、「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」を、筆者が読むと、「穢多非人等の称が廃されたゆえに・・・」という意味になります。『岩波国語辞典』によると、「条」というのは、「候文に用いる接続の語。よって。ゆえに。とはいえ。「・・・に候条」」とあります。

「ゆえに」というのは「理由」を示す接続語ですから、「太政官布告第488号」「自今身分職業共平民同様タルベキ事。」という条文、「太政官布告第489号」「一般民籍ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤モ地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハバ引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。」「理由」・「根拠」にもなります。

筆者はそこで推測するのですが、「太政官布告第488号」、「太政官布告第489号」は、それぞれ共通の、別の布告「穢多非人等ノ称ヲ廃ス」という包括的な布告をより具体化するために二次的に出された布告ではないかと。

「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」以外に第3の布告の存在を想定することができるのですが、第3の布告に該当するものとして想定することができるのは、「太政官布告第61号」です。「第61号」というのは、その番号の若さからみて、明治4年の1月から2月の間に出された布告ということになります。それから半年後、明治新政府が、旧幕藩体制を総合的に廃棄し、諸制度を近代国家に相応しい中央集権国家を建設するために実施された廃藩置県のあと、より具体的に、「太政官布告第488号」、「太政官布告第489号」として公布されたのではないかと想定されるのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、この「明治4年の太政官布告」が持っている「あいまいさ」を明らかにしようとしてこなかった・・・と断言することができるのではないでしょうか。明治政府は、一般的に、外交が絡む問題については、国内に対する発言と国外に対する発言を、「国民支配」・「国民統治」を理由に微妙に言い換えるか、隠蔽する傾向があります。しかも、学者・研究者・教育者がそのことについて触れることに罰則を科してきたので、学者・研究者・教育者は、今も、その枠組みの中に置かれている可能性が多分にあります。

「明治は遠くなりにけり」と歌われるようになって時が久しく経過しましたが、明治という時代は今日から遠く隔たったとしても、明治政府がかけた日本の歴史学に対する規制は、戦後60年、「象徴」天皇制の時代になったといっても、「天皇制」が継続された今日においても、その規制が有効に機能しているのではないかと思います。

「明治4年の太政官布告」は、「本原性の批判」(今井登志喜著『歴史学研究法』東京大学出版会)に曝されなければならないと思わされますが、無学歴・無資格の筆者のよくするところではありません。

とりあえず、「明治4年の太政官布告」の持っている問題性を指摘した上で、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の共通部分・「穢多非人等ノ称被廃候条」という条文に注目してみましょう。

【穢多非人】

まず、「穢多非人」についてですが、「穢多非人」は、『部落学序説』がこれまで明らかにしてきたことを前提にしますと、「賎民」ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」になります。「穢多非人」は、地方の小藩においては、「穢多の類」・「穢多」として多種多様なことばでよばれていますが、その「役務」の内容において大差ありません。「穢多」「穢多役」「非人」「非人役」という、司法警察上の「役務」の内容を表現するものであって、「穢多」・「非人」の人間性の本質を定義することばではありません。

【穢多非人等】

しかし、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の両布告は、「穢多非人」のことばの後に「等」を付加しています。穢多非人」の範疇に入らない人々が想定されています。「穢多非人」以外の「穢多非人」に類する人々とはどのような人々のことなのでしょうか。この「穢多非人等」という概念の、構成要素である「外延」をどのように捉えるかによって、「太政官布告第488号」・「太政官布告第489号」の意味するところが大幅に変わってきます。これまでの、部落研究・部落問題研究・部落史研究は、その研究対象が誰であるのか、それをあいまいにする傾向がありました。学者・研究者・教育者の良心にかけて、その研究対象を解明するというのではなくて、明治政府・学者・教育者・運動家によってむしろ、「穢多非人等」概念、「部落」概念が拡大されてきた可能性があります。明治初期に始まる概念の外延拡大傾向は、「水平社宣言」・「同対審答申」の時代はもちろん、33年間15兆円という膨大な時間と費用をかけた同和対策事業・同和教育事業が終了した今日にあっても、事業継続を説く人々によって、「部落」概念はさらに拡大され、あいまいさの世界に追いやられているのです。「部落差別」は、被差別者の拡大とあいまいさによってのみ達成できるという悪しき「妄想」に立って・・・。それを指向する人々と違って、被差別の対象を限定し、その本質を明らかにすることによって差別の完全解消を訴えようとする『部落学序説』の基本的立場からは、この「穢多非人等」「等」について、あいまいに、適当に処理することは許されません。

この太政官布告はどのような意味を持っていたのか・・・。明治政府の太政官の側の説明に耳を傾けてみましょう。

岩波文庫の中に木下真弘著『維新旧幕比較論』があります。文庫本の表紙に、次のような紹介文があります。「明治維新によって、日本の社会はどのようにかわったのか。当時、太政官官吏として政治の中枢に身をおいていた木下真弘(1824-97)が、明治新政の具体的諸成果を、旧幕府の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした試論。岩倉具視の命を受けて執筆されたもので、維新当時の民衆の実態に接近できる一級資料である。原題「新旧比較表」。

「穢多非人等」の意味を解明するために、著名な学者の研究成果の紹介からはじめるのもいいのですが、ここは、「明治4年の太政官布告」を出した官僚側のことばに耳を傾けてみましょう。

『維新旧幕比較論』の校注者である宮地正人は、『維新旧幕比較論』を、木下真弘が「熊本県士族で儒学者出身の太政官官吏」として、「明治9年末から10年後半にかけ、明治新政の具体的諸成果を、旧幕時の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした史論」であるといいます。また、この書は、単なる太政官官吏である「木下真弘の純個人的な著作ではない」といいます。「三条・岩倉の命をうけてなかば公務として執筆された」ものであるといいます。宮地は、三条・岩倉が、「明治9年後半という物情騒然たる全国的情況のもとで、もう一度政府のやってきた諸政策の意味と意義を回顧し確認する」ために、太政官官吏・木下真弘をして執筆せしめたものであるというのです。

宮地は、『維新旧幕比較論』の特徴として、「政治・行政のすべてが集約される場であった太政官正院(明治10年1月の改革において正院の名称そのものは消滅する)という政治の中枢部に身をおき、政策担当者の思考法に通暁していた明治官僚の木下が、どこに明治新政の成果を見ようとしていたか、そしてどこにその制約と課題があると考えていたかが、きわめて明瞭に判明する」といいます。

宮地は、さらに続けて、このように言います。「明治維新は、ややともすると現在の諸現象の直接的な起源として安易に解釈されがちであるが、我々は、木下の同時代的な考察を媒介することによって、よりその真実と民衆の実態に接近することが可能となるであろう。」といいます。

宮地は、「所謂「解放令」は「穢多非人」の身分的な解放というよりは、・・・排他的な利益集団を打破し解体したのだという強烈な意識のされ方」がなされていたといいます。

「明治4年の太政官布告」は、「部落解放令」・「賎民解放令」等の「解放令」でもなければ、「賎称廃止令」・「賎民廃止令」等の廃止令」でもない、あらたな解釈の可能性もあるのです。

明治以降の日本の歴史学の「禁忌」を受容しそれを踏襲している限り、「明治4年の太政官布告」は、「賎民解放令」・「賎民廃止令」という解釈からのがれることはできません。しかし、明治政府の官僚の残した記録が、日本歴史学の通説・一般説を覆す可能性もなくはないのです(続く)。

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2005.12.17

太政官布告の釈義 3:「等」の意味

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】太政官布告の釈義 3.「等」の意味

石尾芳久著『明治維新と部落解放令』には、明治4年の太政官布告に関する様々な史料が引用されています。その中に、明治4年の太政官布告の原案ともいうべき、民部省案・大蔵省案が紹介されています。明治4年7月27日民部省は廃止されますので、明治4年8月28日の太政官布告第448号と第449号は、廃止された民部省案より大蔵省案の方がより強く反映されたと推定されます。

『明治前期財政経済史料集成』(第3巻編外大蔵省沿革志・戸籍寮)にこのように記されています。

「二十八日穢多・非人ノ称ヲ廃シ共ニ民籍ニ編入スルノ方策ヲ太政官ニ稟議シ、裁可布告ス。太政官布告ニ曰ク、自今穢多・非人ノ称を廃止ス。其ノ身位・職業共ニ平民ト同等タル可シ」。

沖浦和光は、この文章に「民籍編入布告に関する通達」(沖浦和光編『水平人の世に光あれ』社会評論社)という表題を付けています。この「通達」は、太政官布告第448号と第449号とは別に府藩県に配布されたようです。沖浦は、「この通達を受け取った各府県では、近世各藩の賤民対策の歴史的な相違もあって、おそらくかなりの戸惑いがあったと思われる。その年の7月に廃藩治権が決定されたばかりで各府県の統合成立が進行中であったから、この布告をどのように通達するかをめぐってさまざまな意見が出されたであろう。なんらかの社会的な啓発もなされぬまま突如上から指示されたのであるから、それに即応する体勢ができていなかったのである。そういう事情もあって、民衆に布告を通達する形式も内容も日時も各府県で統一されず、独自の趣意を盛り込んでバラバラの形で出されたのであった。」といいます。

太政官布告第448号・第449号に次いで、この「通達」を受け取った各府県がとまどったことがらのひとつに、太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等」という言葉は、「通達」では「等」が削除されて、「穢多非人」という言葉に置き換えられていたことがあげられます。「通達」「穢多非人」という言葉は、太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等」という言葉の訂正ないし修正として受け止めることができます。その場合、「穢多非人等」は、あくまで「穢多非人」(明治4年3月の民部省案では「穢多の類」と表現される)のことであって、いたずらに拡大解釈されるのは相応しくないということになります。大蔵省原案は、最初から、「穢多非人ノ名称ヲ廃シ、都テ平民同様可為取扱・・・」とうたっていますから、明治4年の太政官布告は、「穢多非人」に限定されたものと推定することは不可能ではありません。

大蔵省案や「通達」を見る限りでは、明治4年8月28日をもって穢多非人の称が廃止されたということになり、太政官布告第448号、第449号に先立って穢多非人の称廃止の布告を想定することは難しくなります。

民部省が廃止され大蔵省の発言力が強まる中にあって、太政官は、なぜ、大蔵省原案を採用せず、太政官布告第448号・第449号の条文を採用することになったのでしょうか。太政官によって、大蔵省原案は、二つの布告に分けられ、「民」に対しては第448号が、「官」(府県)に対しては第449号が公布されることになったのでしょうか。背景に何かありそうです。

もう一度、太政官布告第448号と第449号の共通部分、「穢多非人等ノ称被廃候条」という言葉に戻りますが、太政官は、明治4年8月28日の布告に先立って、それ以前に出した布告との整合性をとったのではないかと思います。他の布告との整合性からの要請として、「穢多非人等ノ称被廃候条」が付加されたのではないかと思われるのです。

『部落学序説』の筆者である私は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」は、明治4年3月の布達によって既に、その近世幕藩体制下の身分から「解放」されていたと思うのです。

近世幕藩体制下の身分は、将軍や藩主に対する忠誠の反対給付として所定の石高を保証されていました。何万石、何十万石という給付を受けることで、藩主に忠誠を誓い、その日常の業務に従事していました。しかし、藩士も時として、藩主から主従の関係を解約される場合がありました。つまり、無給になって、浪人生活を余儀なくされる場合もあったのです。そのとき、浪人となった元藩士は、元藩主に対して、無給のまま、藩主から課せられる「役務」に従事しなければならなかったかというと、決してそうではありません。近世幕藩体制下においても、「給付なければ服従なし」ということが、判例として認められていました。史料の中には、その判例は、「穢多」に対しても適用されています。「穢多・非人」の場合も、「役務」に従事する見返りとしての反対給付(多くの場合、免税による給付)がなくなれば、その「役務」に服従する義務はなくなります。

「穢多・非人」にとって、斃牛馬処理の権は、その反対給付のうちでも最も象徴的なものでした。明治政府は、明治4年の太政官布告代448号・第449号に先立って、「穢多・非人」から斃牛馬処理の権を剥奪しているのです。近世幕藩体制下、司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた「穢多・非人」に容認されていた斃牛馬処理の権は、明治政府によって、一片の「布達」によって否定されていたのです。

その「布達」というのは、明治4年3月に出された「斃牛馬等勝手処置の布達」(岩波近代思想大系『差別の諸相』)のことです。明治政府は、斃牛馬処理にかかる平民に対する経済的負荷の軽減のため、「従前ノ旧弊」を一新し、「向後牛馬其外畜養ノ生類相斃候節ハ、持主ノ随意ニ致サセ可申・・・」というのです。このことは、「穢多」の「重要な生業を奪う結果になる」(ひろたまさき)だけでなく、実質上の「穢多・非人」の身分制度廃止であったと思われるのです。

明治新政府は、朝令暮改と思われるほど、次から次へと法を発行していきます。発行したあと、修正・追加をくりかえすことはよく見られます。

太政官にとって、明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」こそ、「穢多・非人」身分廃止の布告であったのではないでしょうか。太政官は、この明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」を、「穢多非人等ノ称被廃候条」と表現したのではないかと推測されるのです。

つまり、明治4年3月の「斃牛馬等勝手処置の布達」こそ、実質上の「身分解放令」であって、明治4年8月の太政官布告第448号・第449号は、その確認のための二次的法令でしかない・・・、ということになります。

黒川みどりをはじめ、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の多くは、明治4年8月28日の太政官布告(彼らのいう「解放令」・「賤民解放令」・「賤民廃止令」)によって、「もはや独占的に皮革の売買をすることができなくなった」(『地域史のなかの部落問題』解放出版社)といいます。しかし、実際は、8月28日の太政官布告によってそうなったのではなく、その布告の半年前に、既に、皮革は、「穢多」の手から離れていたのです(続く)。

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太政官布告の釈義 4:「穢多非人等ノ称被廃候条」

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】4.「穢多非人等ノ称被廃候条」

【穢多非人等ノ称被廃候条】

大蔵省原案では、明治4年の太政官布告第448号・第449号の「穢多非人等ノ称被廃候条」という表現は、「穢多非人ノ名称ヲ廃シという表現になっています。

明治政府は、近代天皇制国家の理念・「一君万民」のもと、近世幕藩体制下のすべての身分をその桎梏から「解放」します。

長州藩は、藩主以外の人民を「武士」と「百姓(町人を含む)」に分けました。長州藩の「穢多村」の在所や産業が克明に記されている『防長風土注進案』によると、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」の「穢多・非人」は、「百姓」の末尾ではなく、「武士」の末尾に記述されている事例が多く見られます。

『部落学序説』は、柳田国男民俗学の用語、「常民」・「非常民」という概念を流用し、再定義して、『部落学序説』の固有の概念として使用してきました。「非常民」に属する人々は、近世幕藩体制下の軍事・警察に携わった人々のことで、特に、「穢多・非人」は、司法・警察の本体として「特化」された存在です。司法・警察に関与した身分には、奉行・与力等(現代的な意味のキャリア)だけでなく同心・目明し・穢多・非人・村方役人等(ノンキャリア)がいました。

明治新政府は、ただひとり、「穢多・非人」を、近世幕藩体制下の身分から「解放」したのではなく、すべての「非常民」を近世幕藩体制下の身分から「解放」したのです。

「穢多非人ノ名称ヲ廃ス」という布告がいつ出されたのかは、今のところ定かではありません。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「明治3年迄は殆ど旧幕時代と同様な地方政治体制をとっていたのが、4年4月に旧来の名主・庄屋等の称が廃止され、戸長・副戸長に改められ・・・」たといいます。庄屋の名称廃止は、ただ単なる名称廃止にとどまらず、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の身分・村方役人という身分の剥奪・・・という意味が含まれています。しかし、「平民」の間で、明治政府の意図が伝わっていないことを知った政府は、さらに布告を出して、庄屋の名称廃止は、旧幕時代の「権力行使」の廃止であることを周知徹底させようとします。

近世幕藩体制下の「非常民」の中で、最初に、その身分から「解放」されたのが、どの身分なのか、今のところ確言できません。一般説・通説に従うと、「解放」が最終的に確定された順序は、「村方役人」、「穢多非人」(「隠亡」・「目明し」を含む)、「同心」の順になります。「同心」の場合、明治2年6月、旧幕時代の「士雇」(中間足軽以下の身分)の各称は廃止され、あらたに「卒」身分に組み込まれますが、明治5年1月、「世襲の卒は士族身分に編入され、一代限りの卒は平民身分におとされることになり、卒なる身分が消滅する」(水林彪著《新律綱領と改定律令の世界》)のです。

明治4年の太政官布告を「解放令」と呼ぶならば、近世幕藩体制下の「穢多非人」に対する身分「解放」は、明治政府の「一君万民」政策による、近世幕藩体制下のすべての身分の「解放」、特に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」身分の「解放」・・・という文脈の中で、「穢多非人」身分の「解放」が論じられなければなりません。ことさら、明治4年8月28日の太政官布告のみを「解放令」とするのは問題があります。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」身分の中で、司法・警察の最大組織(警察の本体)であった「穢多非人」は、『明治天皇紀』によると、「穢多・非人等の称を廃して之を民籍に編入し・・・」云々の記載のあと、「当時全国に於ける穢多二十八万三百十一人・非人二万三千四百八十人・皮作等の雑種七千九百九十七人にして、総計三十八万二千八百八十八人なり」と記されています。もちろんこの数字には、子供や老人も含まれていますから、直接司法・警察に従事した人の数はこれより少なくなります。しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としては大人数で目立ったため、解体され、リストラされた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に、「新平民」(平民身分に落とされた人々)という蔑称が投げかけられたと想定することができます。

しかし、近世幕藩体制下の身分制度からの「解放」は、司法・警察である「非常民」だけでなく、すべての「非常民」に及びます。

明治2年、明治政府は、「公卿の称を廃し」します。「華族」に組み替えられた「元公卿」には、「平民」同様の「職業」の自由が保障されます。同じく明治2年、明治政府は、「諸侯の称を廃し・・・華族」に組み替えます。そして明治4年、元藩主に対しても、「平民同様の職業の自由を保障するのです。明治3年には、「元公卿」・「元藩主」に使えていた「官人」・「藩士」「名称」・「等級」が廃され、士族・卒族に組み替えられ、これまた、「平民」同様の「農工商業を営する」を許可されます。旧武士階級は、「従前の束縛を解放し自由自在の身となる」といいます(木下真弘著『維新旧幕比較論』)。

神主と僧侶は、華族・士族・卒族に振り分けられます。明治5年・6年の布告で、「僧尼、従前の束縛を解放し、自今、破戒の罰を受るの憂いなく一身を処する、甚だ自由にして、天理人道に戻るの苛法を脱することを得たり。」といいます。

木下真弘は、「穢多非人の称を廃・・・」され、「職業」が、「平民」同様に自由がゆるされたことによって、「穢多非人」「解放」につながったという記述は一切していません。武士や僧侶が、「従前の束縛」から解放されたと了解している時代に、「穢多非人」については、「従前の束縛」から解放されたという記述は一切なされていないのです。「僕婢娼妓」「解放」がうたわれているのに、「穢多非人」「解放」については一切評価・言及されることはないのです。

筆者は、「穢多非人等ノ称被廃候条・・・」ではじまる、明治4年8月28日の太政官布告は、「半解半縛」の布告であったと認識していますが、「半解」とは、近世幕藩体制下の身分(役務+家業)のうち「家業」(職業)のみ自由が保障されて、「役務」からの解放は「留保」された(「半縛」)ことを意味します。

近世の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」は、政治・行政の表舞台から裏舞台へ追いやられ、影の警察権力としてその存在を余儀なくされていきます。その過程の中で、「穢多」「娼妓」の関係が緊密化させられていきます。しかし、「穢多」「穢多」であって、決して「娼妓」ではありません。「娼妓」「娼妓」であって、決して、「穢多」ではないのです。部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の中には、両者を混同する向きもみられますが、近世幕藩体制下、「娼妓」は、決して「穢多の類」ではありませんでした。一部の芸能人を除いて(「穢多」の探索活動としての芸能を除いて)、殆どの芸能人も「穢多の類」ではなかったのです。(続)

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2005.12.19

太政官布告の釈義 5:「身分職業共平民同様」

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】太政官布告の釈義 
5.「身分職業共平民同様」

【身分職業共平民同様】

『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)に、小松克己という人の論文が掲載されています。「執筆者紹介」によると、埼玉県の高校教員ということです。彼の見解は、今日の教育者の歴史感覚がどういうものであるのかを示しています。

小松は、「従来の部落問題・部落史の基本的な「枠組み」すらも論議の対象となり深められている」という現状を踏まえて、教育者の立場から、「次のようなことを課題」とすることを宣言します。①同和対策審議会答申の見直し、②近世政治起源説の見直し、③教材内容の見直し。

筆者が問題に感じるのは、②と③です。なぜなら、小松は、間違った歴史認識のもとに、部落史教育の見直しを図ろうとしているからです。間違った歴史認識というのは、「前近代社会」「近現代社会」「差」(「種差」の「差」)を、「身分差別を前提とする」かしないかに置いていることです。小松は、「前近代社会」「身分差別を前提とする社会」と認識し、近現代社会」「身分差別を前提としない社会」であると認識します。小松は、身分差別を前提としないのが近代社会の通例である」といいますが、このようなとぼけた歴史認識はどこから生まれてくるのでしょうか。無学歴・無資格の筆者ですら、首をひねりたくなります。

小松は、従来の「貧困と差別の歴史」という視点に加えて、「労働と生産の歴史」・「交友と連帯の歴史」を明らかにする必要があるといいます。小松は、「前近代の部落史を学ぶ場合には、こうした複眼的な学習が欠けがちなので、このことに留意する必要がある。そして、前近代の被差別民が差別の中で、①農業に励み田畑を拡大してきたこと、②社会になくてならない多くの品々を生産・販売してきたこと、③日本の伝統文化とされる数々の芸能のにない手であったこと、④多様な生業を行うことで、江戸期の人口停滞期にも着実に人口を増大させてきたこと、など被差別民本来の姿を把握させることが重要視されなければならない・・・」といいます。

小松にとって、「身分」を考察する上で大切なのは、「役務」より「家業」なのでしょう。役務」の問題を傍らに押しやった上で、今後の部落史教育の内容として「家業」の方に重点を置こうとします。

小松にとって、「「歴史を学ぶ」ということは現在の視点に立って、望ましい未来を築く展望をもつための学習である。」といいます。その際の重要な教材のひとつとして、「穢多」身分の中にも「医者」がいたことをとりあげます。「武蔵国のある村では、「医道巧者」の「穢多」身分の者が近隣の村人の治療にあたり「重宝」がられていた・・・」という史実をとりあげています。「穢多」の中にも優れた人物がいたということを認識しなければならないということなのでしょうか・・・。小松にとって、近世幕藩体制下の「穢多」は、「賎業」だけでなく、「農・工・商」・「芸能」等に従事していた・・・ということを強調するのです。

小松は、「今もこうした例を地域の史料のなかにうずもれたままにしているのではないか」といいます。確かに、小松が指摘する事例は、日本全国に存在している可能性があります。長州藩の本藩・枝藩とも、同種の事例を確認することができます。

しかし、今日の社会のなかでエリートの職業のひとつである「医者」と、近世幕藩体制下の医道」に関与した「穢多」とを同一視するというのは、どのような意味をもっているのでしょうか。そのことで、「部落の子どもたち」が、そうだ、自分たちの先祖の中には医者をしていた立派な人もいるのだ・・・ということで、「差別に負けず自信をもった生き方ができる」ようになるのでしょうか。「穢多医者」の末裔の子どもならともかく、そのような先祖を待たない多くの被差別部落の子どもにとって、差別に負けない生き方をする起因になると考えることは難しいのではないかと思います。

ゲーテの『ファウスト』のなかで、ファウストはこのように語ります。「千巻の書物をひもといて、いたるところで人間は苦しんでいる、まれに幸福な人がいた、ということを読めというのか・・・」。千巻・万巻の被差別部落に関する史料を紐解いて、そこに、「まれに幸せな人がいた」という事実を確認しても、そこから、部落差別の完全解消につながる展望は出てこないのではないでしょうか・・・。

小松克己の高校教師としての論法は、知識階級の部落差別問題にかかわるときの、ひとごと・他人事の典型的なものです。教育者にとっての緊急の課題は、「無名の末裔」として生きる多くの被差別部落出身のこどもたちに、彼らの認識を変えるような論法を提供することにあるのではないでしょうか。

ちなみに、長州藩の枝藩である徳山藩においても、「穢多」「医者」をしていたという事例もあります。その際の「穢多医者」は、今日でいう、「警察医」に該当します。凶悪犯の捕亡に際しては、同心・目明し・穢多・非人が動員されますが、その際、凶刃によって負傷する者がでてきます。その「非常時」に、現場に動向して、負傷者の手当てをしていたのが、「穢多医者」(近世幕藩体制下の警察医)であったのです。緊急事態の場合、武士・百姓・町人も穢多医者」の世話になったし、「穢多医者」の方も、その職務に対する責任感から、惜しみなく武士・百姓・町民に医術を施したことでしょう。「穢多医者」が緊急医療だけでなく、風邪や腹痛など一般的病気まで診るようになると、当時の医者の組合から、藩に対して、「穢多医者」の医療行為を制限してほしいとの訴えがだされたと思われます。徳山藩の場合、「牢番医「穢多医」にはいりますが、徳山藩の場合、身分は「穢多身分」ではなく、「百姓(町人)身分」が兼務していました。

筆者は、重要な問題(「役務」に関する問題)をそのままにして、周辺的な問題(「家業」に関する問題)に膠着する方法では、本当の問題解決にはいたらないと思います。

小松の、近世幕藩体制下の「穢多」の職業(家業)を、限りなく、「農・工・商」の職業に近づけて解釈する論法から、明治4年の太政官布告の「身分職業共平民同様」にするとの布告はどのような意味を持つことになるのでしょうか・・・。小松の『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)に収録された論文は、中途半端に歴史を研究している高校教師の「遊び」・「思いつき」以外のなにものでもありません。部落差別の解消どころか、部落差別の本当の淵源(政治起源)を否定し、近現代国家権力を部落差別に対する責任から無条件に免罪する営みに堕することになります。差別問題に取り組むものが「権力の走狗」のような発言をすることは好ましくありません。

小松は「被差別部落の起源がきちんと把握できないと、部落問題は解決できない」といった一面的な思い込みこそ問われなければならない」といいますが、筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」という枠組みを温存しているかぎり、小松の論法は、歴史学者・研究者としても、歴史教育者としても、被差別部落の子どもたちに、部落差別からの本当の自由・解放を教えることはできないと思われます。

小松克己のような発想を持つ高校教師は、埼玉県だけでなく、山口県においても多数みられます。

『部落学序説』の立場から、明治4年の太政官布告の「身分」・「職業」という表現について、より詳細な検証が必要なようです。

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太政官布告の釈義 6:「身分・・・平民同様」

【第4章】太政官布告批判
【第4節】明治4年太政官布告第61号
【第2項】太政官布告の釈義 6.「身分・・・平民同様」

【身分・・・平民同様タルベキ事】

明治4年8月28日の太政官布告第488号の1節「身分・・・平民同様タルベキ事」という言葉は何を意味しているのでしょうか。

一般説・通説・俗説によると、この言葉から、明治4年の太政官布告は、「身分解放令」であるとの解釈がなされてきました。この布告によって、近世幕、藩体制下の「穢多非人等」は、「明治天皇の聖旨」によって、その身分から解放されて、その桎梏から自由になったというのです。

しかし、この布告は、本当に「身分解放令」だったのでしょうか。

『天皇制国家の支配原理』の著者・藤田省三は、明治元年正月、岩倉具視は、「君臣ノ道上下ノ分ヲ明カニシテ富強ノ基本ヲ鞏固ニシ国家ノ運勢ヲ興隆スル」(『岩倉公実記』)と「建国の目的を語っていた」といいます。

岩倉具視の「君臣ノ道上下ノ分ヲ明カニシテ」という言葉は、近世幕藩体制下の身分制度の必要性を説いた、徳川幕府の御用学者・林羅山の「君は尊く臣はいやしきほどに、その差別なくば、国は治まるまい。」という言葉に酷似しています。

岩倉は、近代天皇制国家樹立のためには、富国・強兵は必須の施策であると考えていました。岩倉は、国家の経済・軍事の近代化を強く指向していました。岩倉は、富国・強兵のために「君臣ノ道上下ノ分」を明ら