2005.11.08

明治新政府に対する外圧

【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第1項】明治新政府に対する外圧

幕末期における、黒船の来襲は、日本に鎖国政策を放棄させ開国することを迫る「外圧」として知られています。

この日本政府(徳川幕府・明治師政府)に対する「外圧」は、ペリー率いるアメリカの軍艦による日本開国への圧力にとどまりません。開国後も、諸外国、特にイギリス・アメリカは、様々な形で「外圧」に「外圧」を加えています。

明治維新による、徳川幕府の解体と明治新政府の樹立についても、諸外国の「外圧」が存在したようです。

西郷隆盛が大久保利通にあてた書簡によると、「第一英国の所存は、日本国王、政柄を握らせられ、其下に諸侯を置いて、国体の立方、英国にひとしき制度に相成候儀専一に願居候」とあります(『大西郷全集』)。

「イギリスの考えは、まず日本の皇帝が政権を掌握して諸大名をその下に置き、政体(あるいは国体)を万国の制度とひとしいものに制定するにある、これが何よりも先決問題である」(『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)というのです。

これは、日本の国体に対して、イギリスの外交官が「内政干渉」をしていると受け止める向きもあったのでしょうか・・・。西郷隆盛は、その外交官の言葉に不愉快さを覚えているようです。

筆者は、このイギリスの外交官の言葉から、イギリスの明治新政府に対する期待が何であったのかを想定することができると思われるのです。

まず、イギリスは、フランスと異なる影響を日本に与えようとします。フランスは、幕府に反旗を翻す薩摩・長州を反乱軍として鎮圧して、幕府による「西洋各国のように単一な統一された政府」を作るように、幕府に働きかけていました。それに対して、イギリスは、幕府の統一国家としての統治能力に疑問を感じ、むしろ、イギリスの指導のもとに、藩の近代国家化をはかる薩摩・長州を枢軸に、日本の近代国家化を押し進めようとします。

イギリスは、まず、第一に、天皇による「王政復古」を擁護します。イギリス外交官のいう「王政復古」は、「俗界の皇帝」である徳川幕府の将軍を廃止し、「宗教上の皇帝」である天皇に「俗界の皇帝」の権能を併せ持たせる制度を復活させるという意味です。イギリスは、明治新政府樹立に際して、「政治」「宗教」の頂点としての天皇の権威を容認していたということになります。

イギリスは、明治新政府の、日本独自の宗教である「神道」の頂点たる天皇を認め、近代日本が「神道」による国家形成をすることを最初から容認していたといえます。イギリスだけでなく、他の諸外国についても同じことが言えるのではないかと思います。

第二は、「その下に諸侯を置く」というのです。イギリスが期待しているのは、幕藩旧体制から明治新体制への「ゆるやかな変革」です。それは、旧体制(藩主)を、明治新政府に組み込みつつ、徐々に、「万国」(欧米諸国)の政治体制に、日本の「国体」を近づけていくというものです。

イギリスだけでなく、諸外国は、明治新政府に対して、急激な政治改革ではなく、段階的政治改革を望んでいました。オーストリアの外交官は、明治新政府が急激に「神道国家」の建設を急ぐ樣を批判して、「政府は民衆の宗教(仏教諸派及び基督教)を破壊することにおそらく成功するかもしれない。が、それは悲しいかな、政治的成功に過ぎない。だからといって、政府が後押しをする宗教(神道)を、うまく民衆に受け入れさせることができるかどうか、そうなると難しかろう。してみると、そういう宗教政策は、破壊行為であって、それ以外の何ものでもないのだ」といいます。

欧米各国の外交官の多くは、日本の明治新政府に対して、キリスト教を強制する意図はほとんど持ち合わせていなかったのでしょう。日本には、日本古来の宗教(神道・仏教等)がある、その宗教に対する寛大さこそ、近代国家のしるしであると考えていたと思われます。

オーストリアの外交官は、「既得権利が全く尊重されていないこと、諸措置の専制的なこと、あらゆるものを攻撃する軽佻浮薄さ、天皇の御名に隠れて破壊解体が行われていること」、「天皇の威信は二千年来のものだが、大臣たちの無遠慮で不慣れな手に掛かると影が薄くなりかねないこと」に、「同意できない」といいます。

欧米の外交官の眼には、明治新政府の急激な、「ヨーロッパに範を仰いだ模倣」政策は、外見上「いかに魅惑的なものであろうと、蛮行」に過ぎないといいます。失われてゆく、日本の制度や文化、宗教や民俗を惜しんだのが、日本の武士階級をはじめとする知識人ではなく、欧米の外交官であったということは、歴史の皮肉としかいいようがありません。

彼は、「岩倉の二人の息子はいまニューヨークにいる。身分の高い人々が自分の子供たちを欧米に送り出すことが大流行しているのである。欧米帰りの人たちはヨーロッパ風の衣装を身につけているが、失礼ながら可哀そうな・・・猿まねといった感じだ。それとまったく同様に、我々が丁髷をつけたり、夏に褌一丁で扇を持って庭を散歩したりしたらたいへん滑稽に見えるだろう。・・・いまにも人心に大混乱を引き起こすのではないか、いやたぶんいつか流血を伴うような大反動を誘発するのではないか、こう私は恐れる」といいます。彼は、日本には、狂信的な、「「進歩せよ、ヨーロッパを模倣せよ、そして伝統的な事物を軽視せよ」という声がこだましている」といいます。

諸外国の外交官は、明治新政府による「近代化政策」は、「実際には、中央政府の指導者が諸藩の指導者にスローガンを与えて、自分たちが口述筆記させた請願書を、あたかも諸藩の自由な発意から出たかのように利用している・・・」に過ぎないといいます。民衆についても、「実際には民衆は革命に全く参加しなかったし、政治に関わってはいないのだ。・・・民衆は礼儀正しく愛想がよく、政治には無関心なのである」といいます。

明治新政府は、欧米諸国から、そのようにみられていることを知りつつ、なぜ、急激な日本の近代化・欧米化を進めなければならなかったのでしょうか。

明治時代に培われた悪しき習慣は、現代社会の中にも引き継がれています。

「欧米諸国は、日本をキリスト教化しようとしている。日本は、断固それを排除して、日本をキリスト教国家に対峙できる神道国家足らねばならない・・・」。

諸外国が、明治新政府に求めたのは、日本の極端な欧米化・近代化ではなく、日本が日本固有の存在として、その制度や歴史・文化を継承しつつ、その上でなおかつ欧米諸国と「外交」・「交際」していくことでした。明治新政府のいびつな保守主義と進歩主義のコンプレックス(複合体)が、日本の近代化を大きく決定づけ、間違った方向へと導いていったのではないかと思います。その影響は、今日においても、私たち日本人の精神構造に深く影響を与えています。

明治新政府は、欧米諸国が評価する日本の制度・文化を廃棄し、欧米諸国が撤廃を求める制度・文化を固守し継承しようとします。

明治維新に力を貸したイギリス・アメリカは、明治新政府に、密約の履行を迫ります。近世幕藩体制下の警察制度の優れたところを継承しつつ、前近代的な「拷問制度」の廃止を求めます。しかし、明治新政府は、イギリス・アメリカをはじめとする欧米諸国の要求を否定する形で施策を展開します。諸外国が優秀であると認めた近世幕藩体制下の「警察」組織を解体(廃藩置県・明治4年太政官布告61号)し、諸外国が撤廃を求めた「拷問制度」の維持・継承を画策するのです。明治新政府のこの政策は、明治新政府が、「国辱」と受け止めていた、治外法権撤廃の交渉をさらに難しいものにしてしまいます。

筆者には、明治4年の太政官布告61号による、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の解体と隠蔽化は、明治政府の外交上の失策・失敗であると思われます。この明治新政府の失敗・失策は、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一がいう「日本の官僚たちの喉に突き刺さった魚の骨」としての近代「部落差別」の直接の原因になっていくのです。

「部落差別」は、国内問題に還元できるものではありません。「部落差別」は、明治新政府と欧米諸国との外交に際して発生した様々な問題(拷問制度・キリシタン弾圧)に対する、明治政府のコンプレックス(精神的複合状態)が引き起こした反応なのです。筆者は、「部落差別」の本質は、明治新政府と欧米諸国との交渉(外交)を視野に入れて解明しなければ、その本質を把握することはできないと思っています。この『部落学序説』は、最初から、明治新政府が「外圧」として受け止めてきた欧米諸国との外交に関する文書を視野に入れて、明治4年の太政官布告61号(日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」によって「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」と呼ばれているもの)の本質を把握しようとしています。明治4年の太政官布告61号は、明治新政府の引き起こした不幸な失敗・失策以外の何ものでもないのです。明治新政府は、政府に対する批判を許しませんでした。長い、学問・研究の禁忌状態の末に、多くの部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、その事実を研究の視野の外に追いやり、忘れてしまったのです。

明治4年の太政官布告61号を、「過去を振り返る」ことで、現在の価値観を読み込むのではなく、「過去に立ち戻る」ことで、その時代の太政官布告61号が出された政治的意図を明らかにしなければなりません。

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2005.11.10

拷問

【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第2項】拷問

明治政府の悲願・「不平等条約撤廃」、特に「治外法権」撤廃の障碍となった「拷問」制度とは、どういう制度だったのでしょうか。

近世幕藩体制下の「拷問」も、多重定義の概念でした。「拷問」について体系的な説明を提示してくれるのは、何といっても日本法制史の研究者・石井良助でしょう。彼の著書・『江戸の刑罰』(中公新書)から、「拷問」とは何かを検証してみましょう。

石井によると、「拷問」は、上位概念としての「拷問」と下位概念としての「拷問」が存在していたようです。上位概念としての「拷問」の下に、下位概念の「拷問」と、「牢問」が存在していたのです。

近世幕藩体制下にあっては、「有罪の嫌疑があれば、まずこれを入牢させて、それから「吟味」にとりかかった」といいます。当時の「牢屋」「未決拘禁所」であって、犯罪の容疑者に対する取調が行われる場所でした。その取調を「吟味」といいますが、「吟味」に際して、犯行を認めようとしない重罪の容疑者に対して、証拠を前に自白を強要したのが「拷問」です。

近世幕藩体制下にあっても、「証拠」は犯罪立証の重要な根拠でした。ただ、近現代の犯罪の捜査と違って、「証拠」を集めるだけでは不十分で、「証拠」にあわせて「自白」が犯罪立証の必要条件として要求されたのです。「証拠」がそろっていても、犯罪の容疑者が「自白」しなければ、犯罪として立件できなかったのです。

石井は、「近代の未決監は、有罪の判決のないうちは無罪であるという前提に立っている」が、近世幕藩体制下においては、逆に、「有罪」「少なくともそれに近い者」という認識があったといいます。「吟味」においては、「犯罪の容疑者」=「犯罪者」という前提で、犯行を否認する者に「拷問」が課せられたのです。

石井は、「拷問は当時でも重大事と考えられていたので、これをなし得る場合は限定されており、滅多には用いられなかった」といいます。「拷問」の方法は、「釣し責め」のみでした。「釣し責めは、両手を後で縛って、牢屋内の拷問蔵で上から吊るすことである」といいます。

石井は、「拷問が滅多に行われなかったのは、被疑者をうまく誘導して自白させるのが吟味役人の手柄とされていたから、拷問をすることは自己の吟味下手を公表するようなものだと考えられたことが主な原因である」といいます。

『江戸町奉行 支配のシステム』の著者・佐藤友之は、「拷問蔵」は、「牢屋敷の一角」に建てられたもので、「拷問の悲鳴が外部に漏れないように、建物全体が分厚い壁で覆われた蔵づくりの取調室である」といいます。佐藤は、「拷問にはルールがない。何回叩くか、決まりはなかった。皮膚が破れて血が吹き出すと砂をかけ、失神すれば水をぶっかけ、息を吹き返すと再び拷問杖をふるった・・・」といいます。「中には最後まで無実を貫き通して、責め殺された者もいた・・・」といいます。その場合、無実の死をとげた人は「吟味中病死」として処理されたといいます。佐藤は、「こんにちでも、実情はあまり変わらない」といいます。取調に際して「拷問」が採用されるという点だけでなく、捜査全体、また、司法・警察のシステム全体が近世と近現代の間に大きな違いはないといいます。

佐藤の説は、筆者にとって確かめようがありませんが、時々発生する「冤罪事件」の背後に、「拷問」による「自白の強制」が指摘されますが、あながち、事実無根というわけではなさそうです。

石井によると、佐藤のいう「吟味中病死」という処理は、一般的ではなかったようです。石井は、「拷問しても白状が得られないとき、察渡詰(さっとづめ)といって、老中の許可をえて処刑したこともある」といいます。「老中の許可」なくして実施された犯罪容疑者の取調段階で変死は、当然、取調の行き過ぎとして責任問題に発展したでしょう。吟味をする、同心・穢多・非人等の判断で行われるものではありませんでした。同心・穢多・非人等は、吟味に際して、「法」に忠実に処理したと思われます。

石井は、「拷問」とは別に、「牢問」が存在していたといいます。

「牢問」には、「笞打」・「石抱」・「海老責」があったといいます。「牢問」は、どこで行われたのでしょうか。普通の「牢屋」の中なのでしょうか。それとも、「牢屋の一角」に建てられた「拷問蔵」の中だったのでしょうか。

幕末・明治初頭を生きた「古老の話を採集」した人に、篠田鉱造という人がいます。その著・『明治百話(上)』(岩波文庫)の中に、「外人の見た明治話」というのがあります。「外人」というのは、幕府に雇われた「教師」のような人です。長崎で若い武士の指導にあたっていたようですが、このような話を伝えています。

「殊にその時分の牢屋はひどいものでした、拷問の恐ろしいのが絶えずあります。長崎に居りました時夜中の十二時頃に目を覚ますと、人の恐ろしい泣き声が耳に入りました。起きて庭の方へ出てみますとそれは隣の牢屋で一人の罪人が拷問にあわされていたのでした。その泣き苦しむ声は実に悲しいものです。私は心が痛みまして寝ようとしても寝られません。私の庭は高く、仮牢屋はその下にあり・・・」。

石井がいう「拷問」ではなく「牢問」のようです。

しかし、「外人」にとっては、「拷問」と「牢問」の区別はできません。彼は、「牢問」「拷問」として受け止めています。「外国人教師」である彼は、準犯罪者として、犯罪者と同じ、日本の役人に監視される場所に住居を構えさせられていたのでしょう。取調を受けている犯罪の容疑者のうめき苦しむ声を耳にして、堪えられない思いを持つのです。彼が来日したのは1859年のことでした。明治維新の8年前のことです。

長崎だけでなく、幕府の定めた居留地に住む外国人は、多かれ少なかれ、この「拷問」によって泣き叫ぶ日本の民衆の声に心を痛めたのではないでしょうか。それと同時に、何かの事情で、日本の役人にとらえられたとき、取調段階からこの「拷問」に晒される可能性があるという事実は、外国人をして大いに驚愕せしめたのではないかと思います。当然、彼らは、それぞれの本国に要請して、そのような「拷問」から自分たちの身を守る保証をとりつけようとしたのではないかと思います。

「治外法権」(領事裁判権)の維持の訴えは、避けて通ることができないことがらでした。

しかも、その「拷問」が、日本の法に照らして「重罪」とされる犯罪に対して適用されるところから考えると、日本にやってくる多くの「外人」というのは、キリスト教徒であるため、いつ日本の法に抵触しないとも限りません。

『一外交官の見た明治維新(上)』(岩波文庫)の著者・アーネスト・サトウは、1862年、このように語っています。

「いわゆる「治外法権」の制度には十分な経験をもっていた。この法律により、ヨーロッパ人は東洋の非キリスト教国のほとんどどこにあっても、その国の法律の適用を免れるのである」。

欧米の諸外国との間で結ばれた、日本側にとっては、不平等条約である「治外法権」は、欧米の諸外国の国民を、日本の「拷問制度」からその身を守るための、必要かくべからざる条約だったのでしょう。前近代的な「拷問制度」が破棄され、近代的な警察・司法制度が確立されない限り、欧米の諸外国が日本側の「治外法権撤廃」の要求をのむことはなかったことでしょう。

明治新政府は、「拷問制度」は、国家の安定と民衆支配のために廃止することはできないとして、「拷問制度」を存続させたまま、明治5年の最初の条約改正(明治政府が「国恥」とみなす治外法権の撤廃)に取りくみます。そして、挫折し、失敗に帰するのです。

「治外法権」・「国辱」・「拷問制度」・「キリシタン弾圧」・「条約改正」・・・、これらは、明治4年の太政官布告61号の政治的決断の背景を示す重要なキーワードです。しかし、部落解放研究所編『部落解放史 熱と光』(全3巻、解放出版社)の大作において、ほとんど言及されていないのです。原田伴彦著『被差別部落の歴史』や、井上清著『部落の歴史と解放理論』においても、不問に付されているのです。『脱常識の部落問題』においてすら取り上げられることはないのです。

『未完の明治維新』(新版、三省堂)の著者・田中彰(山口県立徳山高校が生んだ偉大な歴史学者)は、その「はじめに」でこのように語ります。「歴史研究者や歴史教育者が歴史の科学性や歴史の真実を叫んだところで、権力側はみずからの権力を保持するためには、遠慮会釈なくそれを踏みにじって容赦するところはない。・・・私はそこで考える。なぜ権力ないし体制側が必死の執念といってよいほどに、科学としての歴史を拒否し、真実の歴史が民衆に浸透するのを恐れるのか、と。権力を握っている体制側は、虚偽の上に虚偽を積み重ね、支配のカラクリの中で民衆を戦争や困窮に追い込んできた。この支配の歴史の虚偽性が暴露されることがもっとも恐ろしいのだ。一見、権力に無力な民衆の歴史が、実は一挙にその体制をくつがえす力を秘めていることを民衆が自覚することがこわいのだ。だから、あらゆる手をつかって歴史の真実を隠そうとしているのである」。真っ赤に燃えるような激しい歴史学者の怒りの言葉は、1968年の時代の言葉です。

田中彰は、「権力を握っている体制側は、虚偽の上に虚偽を積み重ね、支配のカラクリの中で民衆を戦争や困窮に追い込んできた。」といいますが、権力は、民衆を、「戦争」や「困窮」だけでなく、「虚偽(日本歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」)の上に虚偽を積み重ね」「差別」へとも「追い込んできた」のです。

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2005.11.11

草莽と穢多

【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第3項】草莽と穢多

「拷問」は、近世幕藩体制下においては、日本の固有の「法」に基づく適正な処置でした。支配者の側も被支配者の側も、「法」に抵触する行為をしたときには、「拷問」に晒されることは十分認識していました。

しかし、欧米諸国と外交するに至って、その「拷問」は、日本以外のアジア諸国と同様、前近代的な刑法上の制度として忌避されるようになりました。欧米諸国は、日本に治外法権(領事裁判権)を認めることで、一応、自国の民が、日本の「拷問制度」にさらされないよう守ることができたわけですが、明治新政府のキリシタン弾圧政策をめぐって、欧米諸国は、人道的見地から、拷問・極刑を含む、前近代的な方法で日本人キリスト教徒(キリシタン)が迫害・弾圧されていくことに明治新政府に抗議するようになりました。欧米諸国は、明治新政府のキリシタン弾圧は、欧米諸国に対する「侮辱」であり、場合によっては、日本と戦争を交えて、その障碍を取り除かなければならない由々しき事態であると受け止めるに至ったのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、イギリス政府から、二つの使命を帯びていたといいます。「一つは外国人への襲撃についての新しい法律の公布を要求すること」であり、「もう一つは浦上のキリシタン事件を注意して見守ること」でした。「草莽」による外国人暗殺問題とキリシタン弾圧問題、それは、明治新政府に対する英米をはじめとする諸外国からの圧力(外圧)として機能していました。

「草莽」による外国人暗殺は、日本の固有の「法」に基づく処置ではなく、「法」を逸脱した犯罪の様相を呈していました。

「草莽」は、幕末期に登場してきた、「武士道の精神を放棄した武士」のことです。その典型的な存在は、長州藩の吉田松陰でした。吉田松陰は、1830年、萩藩の「無給通の下士」(23石)の身分であった杉百合之助の次男・大次郎として生まれてきました。杉一族は、「ほとんど百姓と変わらない生活」をしていたようで、「農作業では女手で馬を使うほどの労働にたずさわらなくてはならなかった」(古川薫著『吉田松陰・留魂録』講談社学術文庫)といいます。

松陰の父・百合之助は、「彼が盗賊改方の役に就く前年」の日記にこのように記しています。

「3月朔日晴天○肥固屋内ケ輪壁塗皆済○麦荒付○苗代荒起し○厩揚げ、はかかへ○麦畑草取○夜中糠取に行。
2日晴天○麦精げ○牛蒡畑三番打返し○麦草取○厩揚げ○小水かへ○風呂焚」。

吉田松陰も、兄弟と一緒に父の農作業を手伝っていたといいます。

その松陰は、萩藩の山鹿流兵学の指南の家柄である吉田家に養子にいき、杉大次郎から吉田松陰へと名前を変えていたのです。吉田家は57石6斗を藩から支給されていましたが、藩財政の窮迫のため実際の支給は半額に減額されていました。松陰の実収入は、28石8斗のうち、6石7斗のみでした(長州藩の穢多頭の収入にはるかに及ばない)。あとは、義母の生活費と借金返済に充当されていったといいます。

実家においても、養子先においても、松陰が直面していた経済的貧しさは、吉田松陰から、徐々に、「武士道の精神」を蝕んでいったと思われます。

下田密航事件の取調の際に、吉田松陰は、幕府の評定所の役人、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付等の取調を受けるのですが、松陰は、なぜ、密航を企て渡米しようとしたのか、松陰の思想的背景を告白します。しかし、幕府の役人は、松陰の語る言葉を黙って聞いていたといいます。松陰の言葉に反応を示さない役人に対して、松陰は、「失望」させられたといいます。

松陰を取り調べた役人は、このようにいいます。「汝の陳述するところは、ことごとく的を射ているとは思えない。また卑賎の身で国家の大事を議するとは不届きであろう」。

幕府の役人から、「卑賎の身」と蔑視された松陰ですが、「「国を憂うる気持ちに身分の上下など関係ないではないか」と思ったが、深く抗弁せず・・・口をつぐんだ」といいます。

「貴賤」の「賤」、「尊卑」の「卑」と断じられたとき、松陰は、なぜ、沈黙をしたのでしょうか。松陰は、おのれが「賤」であり「卑」であることを認めたのでしょうか。そもそも、「卑賎」という言葉の意味を、現代の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の使用する「卑賎」観で受け止めていいのでしょうか。吉田松陰は、我々とは別な受け止めた方をしたのでしょうか・・・。

吉田松陰は、「死を尽くして以て天子に仕へ、貴賤尊卑を以て之が垣根(「差別」の意味:筆者注)を為さず。是れ則ち神州の道なり」と書き記したといいます(市井三郎著『思想からみた明治維新』講談社学術文庫)。

市井三郎は、近世幕藩体制下の武士道を説いた山鹿素行(会津藩)に由来する「山鹿流兵学師範の家職を継いでいた」(古川薫著『吉田松陰留魂録』講談社学術文庫)吉田松陰は、兵学に加えて、聾唖の僧・黙霖から、百姓一揆の指導者・山形大弐の影響を受けていたといいます。

下田密航事件の取調の際に、幕府の役人から、「卑賎の身」となじられた松陰は、獄中にあって、このようにその門人に語るのです。「是の後は決して政府の俗吏へは謀らず、又官録に縛さるる類の人へはそしらぬ貌して居る。・・・義卿(松陰のこと)義を知る、時を待つの人に非ず。草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや。恐れながら、天朝も幕府・吾が藩も要らぬ、只だ六尺の微躯が入用」。

吉田松陰のこの「激語」は、「既製の権力形態(藩も幕府も含めて)に依拠することをやめ、「草莽崛起」つまり野にあって志を同じゅうする人々の決起によって、「尊攘」の新しい権力形態を創り出してみせる、という決意」として受け止められ、「久坂玄端が首唱して松門は血盟をかわし、同志糾合(「草莽の志士糾合」)を求めて各地に散るのです」(市井前掲書)。

「尊皇攘夷」をとなえる「草莽の志士」の存在は、最初から、「恐れながら、天朝も幕府・吾が藩も要らぬ、只だ六尺の微躯が入用」というところに立っているので、朝廷や幕府・藩の管理統制の枠外の存在として行動することになりました。筆者の目からみると、吉田松陰は、正規軍を離れて、ゲリラとしての行動を以て、「卑賎の身」の苦しみをあじわわなければならない万民のための改革を指向し、その門下生を指揮していったのではなかいと思われます。

吉田松陰の改革の主体を「草莽」においた戦略は、やがて、長州藩を揺るがし、幕藩体制をゆるがし、それを瓦解させるにいたるのです。幕府や諸藩の支配下に身を置かず、「草莽」の論理で動く彼らの画策で、欧米諸国の幕府に対する、日本の政権としての信頼を著しくそこなう結果になるのです。

明治新政府は、欧米諸国から、この「草莽」による外国人暗殺問題を早急に解決するよう「圧力」をかけられるのです。

「草莽」による外国人及び日本人要職に対する暗殺は、その精神的支柱として、近世幕藩体制下の「武士道」を想定することが非常に難しい類のものでした。イギリスの外交官アーネスト・サトウは、「長崎でイギリス軍艦イカラス号の水平2名が、泥酔して下町の道路に寝こんでいるところを殺された・・・」といいます。「草莽」は、ためらわず暗殺すら実行しました。アーネスト・サトウは、「新政府に提出すべき最初の要求の一つは殺害者処罰の件」と「なによりもまずこの種の事件の発生を防止」することにあると記しています(『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、当時の法制度の中の「拷問」には関与していましたが、幕末・明治初頭を疾風怒濤のように駆け抜けていった「草莽の志士」とは行動を共にしていませんでした。彼らは、司法・警察として、それぞれの場所で、「法」に基づいて、治安維持にあたっていました。いわば、「草莽の志士」を取り締まる側に身を置いていたといえるでしょう。「穢多」が在所を離れて行動していて発覚した場合、それぞれの在所へと送り返され、本来の職務を強制されたと思われます。

しかし、明治政府は、「拷問」「草莽」に対する、欧米諸国からの要請に答え、日本が国際社会の中でその位置を占めるべく、早急な形で、治安維持の改革に走ります。そして、「拷問」・「草莽」に対して、明治政府がそれ相応の努力をしていることを欧米諸国に見せるために、旧警察制度の解体とその責任の追究・処罰・対策をはじめるのです。明治4年の太政官布告第61号が出される2年前のことです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として機能してきた「穢多」組織は、明治新政府による、思いもよらぬ処遇を受けることになるのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」の見方では、明治4年の太政官布告第61号は、「身分解放令」・「賎民解放令」・「部落解放令」・「賎称廃止令」・・・と呼びますが、それは、明治政府の「人権尊重」の思想からでてきたものではなく、明治新政府の「外国交際」上の非常に混迷を極めた外交問題の解決策の一環として登場してくるのです。

日本の近代の部落差別は、「日本固有の差別・・・」というようなものではありません。日本の近代の部落差別成立に際して、明治新政府とイギリス・アメリカをはじめとする欧米各国は、それ相応に関与しているのです。日本の近代部落差別は、「外国交際」が産み落とした「鬼子」だったのです。

明治4年の太政官布告第61号を解釈するには、それまでの歴史経過を明らかにしなければなりません。明治4年の太政官布告第61号の歴史的背景を不問に付して、そこから、日本の近代部落差別を論じることは、その歴史的本質を見失うことになるでしょう。現在の価値判断をもって「過去を振り返る」歴史観ではなく、史料や伝承を再構成して「過去に立ち戻る」歴史観が必要なのです。筆者のこのような解釈に対して、「素人解釈」という批判があることは十分承知していますが、日本の部落差別の真の淵源を明らかにするには、この「素人解釈」が必要欠くべからざる営みのひとつであると思います。(続)

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2005.11.29

明治新政府による穢多排除の背景

【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第5項】明治新政府による穢多排除の背景

『部落学序説』の後半・近世に入って以来、多くの言葉を費やしてきました。「明治4年太政官布告第61号」に直接言及すればよさそうでなものですが、「明治4年太政官布告第61号」の本質を把握するためには、この作業は避けて通ることができませんでした。

明治新政府によって出された「明治4年太政官布告第61号」は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に立脚した学者・教育者が説く「身分解放令」・「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・等の名称が意味するところのものとは異なり、逆に、明治新政府による穢多排除の布告、しかも、「半解半縛」(筆者の造語)という中途半端な排除の布告であったということを証明するために、必要不可欠な検証の過程でした。

王政復古の名の下に、その存在を評価され、明治新政府の体制に組み込まれたと思ったのも束の間、明治新政府による、諸外国との「交際」上の懸案であり、明治新政府にとって「国辱」とみなされる不平等条約の早期改正に向けての動きの中で、近世幕藩体制下の司法・警察である「同心・目明し・穢多・非人・村役人・・・」の非常民制度は解体を余儀なくされるのです。

「明治4年太政官布告第61号」を含む、明治新政府による諸改革は、その主旨が明快なものばかりではありません。むしろ、国民の目から見れば、近世幕藩体制下の「百姓」の目から見れば、その内容の不明確・不透明に思われるものが少なくありません。まして、諸外国の外交官からみると、明治新政府の矢継ぎ早に出される諸改革は、理解しがたいものを相当数含んでいました。

『戊辰戦争から西南戦争へ』(中公新書)の著者・小島慶三は、「版籍奉還や廃藩治権は、西洋の学者に言わせると、明治の改革の中で一番理解しにくいという。なぜ権力者が自分の権力を放り出して、あるいは権力の基盤まで解体してしまったかということである。西洋の改革には、権力者が自分からそういうことをするということはなかった。」といいます。今もなお、「西洋人には明治維新の改革は理解しにくい」といいます。

西洋人だけではないでしょう。明治初期の史料を自分で紐解き、検証作業をするものは、誰でも同じ印象を持たざるを得ないでしょう。歴史は、「国家権力が定めた歴史だけが本当の歴史である」と、文部省や文科省の定めた指導要領に乗っかって、歴史研究や歴史教育に従事するなら別ですが・・・。明治新政府の諸政策は、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針で実施されているため、明治初期の国民は、半知半解のまま、国家の指導による教育内容をそのまま盲信してきたのです。

イギリスの外交官は、「外国公使団」として、明治新政府との間で、「毎日のように、そして毎週のように、我々はうんざりするほど議論を繰り返した」といいます。「万機公論に決すべし」との御誓文に従って、明治2年2月、旧藩から選出された公議人によって構成された「公議所」は、明治2年7月、成立後半年も立たないうちに、明治新政府の重鎮・大久保利通によって、「無用の論」と批判され、「廃止」されてしまいます。形式的には「集議院」として継承されますが、その権限は大幅に縮小されてしまいます。

しかし、筆者は、とりとめもない「無用な議論」に終始し、明治新政府にとって利益なしとして廃絶された「広議所」で交わされた議論の中に、近代の部落差別の謎を解明する大きな手がかりが存在しているように思われるのです。しかし、代々の歴史学者・歴史教育者、政治家や運動家によって、その謎が十分に解明されてきたとは思われないのです。むしろ、彼らは、それらの「無用な議論」「無用な議論」として、過少評価してきたのではないかと思われます。

『部落学序説』において、繰り返しとりあげてきた主題に、近世幕藩体制下の「村のシステム」があります。この「村」と、明治新政府によって、近代中央集権国家の基本的共同体として位置づけられた「部落」との間には、そのシステムの性質において大きな違いがあります。

徳川幕府が採用した、近世幕藩体制下の「法システム」は、キリシタン弾圧に関する法令による処罰以外は、各藩に法的処罰の権限を認めていました。キリシタン禁制という「天下の大罪」については、幕府は、各藩に対して、直接指揮権を発動してその解決に対処していました。しかし、それ以外の犯罪、殺人・強盗・一揆等の違法行為については、幕府は、ほとんどの場合、各藩の処遇を問題にせず、各藩の意志にゆだねていました。つまり、近世幕藩体制下の「法システム」というのは、幕府によって、各藩に「治外法権」が容認された制度だったのです。

幕府は、開国に際して、諸外国と条約を締結する際、この「治外法権」という概念が持っている意味を「錯誤」していたと思われます。当時の国際外交上の常識として通用していた「治外法権」ではなく、幕府が、近世幕藩体制下で容認していた「治外法権」の意味で、この言葉を理解していた可能性があります。幕府は、諸外国の居留地に諸藩に付与したのと同じ「治外法権」を認めるのです。幕府は、諸外国に国際外交上の「治外法権」を容認することの重大性を認識していなかったと思われるのです。

昨今の日米軍事同盟化の動きを見ていると、現代の日本の政治家も、外国の軍隊の日本駐留を継続し、外国の軍隊の司令部と日本の軍隊(自衛隊)の司令部を密接に連関させる動きが、日本の将来に何をもたらすか、ほとんど何も考察していないのではないかと思わされますが、幕府は、諸外国が、幕府が使用する「治外法権」という法概念がどのように受け止めることになるのか、ほとんど考慮することなく、自分の理解の範囲内でその概念を使用したように思われます。

国際外交上「治外法権」容認が何を意味するか、その本質を知った「草莽」たちは、激しく幕府に抗議・批判していったのです。

近世幕藩体制下の「治外法権」について少しく検証してみましょう。幕末期において、「草莽」によって、外国人要人や兵士が襲撃され、惨殺される事件が置きます。それに対して、諸外国は、幕府に、犯人逮捕と処罰を要求します。そして、同種の事件を未然に防ぐ対策の実施を要求します。

しかし、問題解決に当たって、幕府が各藩に認めていた「治外法権」がその障碍になるのです。幕府が命令を出しても、各藩は、この幕府によって長年認められてきた「治外法権」を楯に、幕府の命に従わないで、幕府とは異なる施策・決断を実行するのです。近世幕藩体制下の日本は、幕府によって、「藩」という単位で「分断統治」されていました。各藩は、更に「村」という単位で「分断統治」を実施していました。「村のシステム」レベルで考察するとき、「村」という単位でなされる「分断統治」の末端の権力装置は、「穢多・村方役人」という制度でした。幕府は、日本全国の「村」に対してお触れを出すとき、幕府が認めた「治外法権」の担い手である諸藩を経由する以外に方法はありませんでした。つまり、幕末期の幕府の国家としての命令も、各藩と、その藩士・藩民に徹底されるという保証はどこにもなかったのです。

諸外国は、明治新政府に、近世幕藩体制下の「法システム」を改善して、中央集権国家の体裁に相応しい警察制度の実施を要求してきました。明治新政府によって、中央から発せられた命令が、日本全国津々浦々に行き届くような、日本全体に治安を徹底させる制度を・・・。しかし、諸外国が明治新政府に要求したのは、近世幕藩体制下の司法・警察制度のハード的な廃止・解体ではなく、その制度はそのままにして、「機能」のソフト的な改革を図ることで、警察機能の中央集権化を図ることでした。

諸外国にとっては、日本国内における統一した法の施行が実施されることで、外交上・貿易上の障碍が取り除かれ、明治新政府の中央集権によって治安が維持され安定した関係が構築されることが悲願だったのです。ある藩では、許可されても、ある藩では許可されない。ある藩では、犯罪とされてもある藩では犯罪とされない・・・。近世幕藩体制下の「法システム」になじまない諸外国の外交官は、明治新政府に、早急な、「法システム」の近代化、旧藩の枠組みに制限されない統一化と均一化を求めたのです。

諸外国は、明治新政府に対して、「法システム」の、近代中央集権国家に相応しい整備を求めたに過ぎないのですが、明治新政府は、近世幕藩体制下の旧「法システム」解体に向けて動きはじめます。その議論が、大久保利通の云う「無用な議論」の中で行われるのです。

『部落学序説』で既述してきたように、近世幕藩体制下の「治外法権」の末端の機関は、「穢多」と「村方役人」でした。彼らは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての権能を持っていました。彼らによって、それぞれの村は、管理され、治安維持が実施されていたのです。村の入口と出口には、番所が設置され、彼らは、それぞれの在所からその番所に勤務して、不信人物や犯罪者の検問に当たっていたのです。この番所は、「非常時」だけでなく「常時」においてもその機能を発揮していました。その村を通る旅人・通行人は、村に入る都度、穢多・村方役人等の番人による検問に直面しなければなりませんでした。

明治4年に日本を旅した外交官も、村に入るごとに「役人」の出迎えを受け、村去るごとに「役人」の見送りを繰り返し受けたといいます。明治4年にしてこのような状況でしたから、幕末期において、幕府によって許可された居留地を離れて日本を旅する外国人にとっては、この近世幕藩体制下の「治外法権」による、村単位の分断支配に基づく、近世幕藩体制下の司法・警察である「番人」(穢多・村方役人)の存在は、好ましいものとは思われなかったのでしょう。

諸外国の外交官は、「番人」によってしばしばその行く手を阻まれ、街道の通行を拒否されます。「番人」は、不親切で、外国人と見るなり夷狄扱いをして、冷遇します。「番人」による取締りは、村ごとに単独で行われるので、その旅は、目的地に着くまで、検問のため延々と無駄な時間を費やすことを余儀なくされます。諸外国は、明治新政府に対して、「近代中央集権国家」に相応しく、日本のすべての街道で、「番人」による検閲無くして、安全に旅をすることができるように、早急に対策をとることを要求してきたのです。

筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」という「法システム」を解体しなくても、諸外国の外交官及び外国人に対して、明治新政府による「通行許可書」を配布し、それが有効になるように通達を徹底するだけでよかったのではないかと思うのです。

しかし、明治新政府は、近世幕藩体制下の司法・警察制度を運用でもって改定する、解釈でもって立法に変えるのではなく、近世幕藩体制下の司法・警察制度そのものをハード的に解体・破棄してしまうのです。小島慶三に「西洋人には明治維新の改革は理解しにくい」と云しめる明治新政府の施策がここにあります。

なぜ、明治新政府は、世界の歴史上前例のない、権力自ら、そのよって立つ権力の基盤、司法・警察制度を廃棄しようとするのか・・・。小島慶三はこのように、その理由を述べます。「条約改正の必要が急を要する問題であり、そのため欧米並の近代化が急がれたということがある。要するに、欧米なみにならなければ対等のつきあいにはならない。不平等条約も改正できないということで、とにかく先進国に指摘される以前に、旧弊をなおそうという」姿勢があった・・・といいます。この小島の言葉は明治4年以降の明治新政府の施策に対する言及ですが、明治新政府の当初からの一貫した姿勢であったと思われます。

国際外交上の日本の置かれた状況に対して正確な分析をなし得ず、日本の政治家・外交官固有の独善的・閉鎖的な見解の下に狂信的に実施される諸政策が、明治という新しい時代に暗い影を落とすことになっていったのではないかと思われます。

「公議所」の議論でとりあげられた「里数改正」問題も、村単位の「分断支配」と同じ文脈の中で見直す必要があります。

過去の部落研究・部落問題研究・部落史研究において、この「里数改正」問題は、十分な研究がなされてきたとは言えない状況にあります。

『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、この「里数改正」問題について次のように記述しています。「「里数改正」の意見が丹波福知山藩の中野斉から出された。江戸時代には、えた村は、道路の里数の中には計算しないので、10里といっても、その中にえた村が1里あれば実際は11里である、というありさまであったが、それは日本全国の統一的な交通路をととのえてゆくことと矛盾する。そこでえた村も里数に入れるべきである、との意見である。これがきっかけで、公議所で、えたの名そのものを廃止して平人なみにあつかえという議論がまきおこった」。井上清は、唯物史観の歴史学者であるにもかかわらず、明治初年代の「里数改正」問題について、それ以上の掘り下げはしないのです。「里数改正」問題の背後にある形而下的要因、経済的要因については、何ら言及しないのです。

近世幕藩体制下の支配の基礎単位は「村」です。街道に沿って存在する村々は、「助郷」という「重税」を課せられていました。筆者は、「助郷」についての史料をまだ収集していませんので、平凡社の『世界大百科事典』を引用します。「助郷」は、「江戸時代、宿駅の人馬の不足を補うために定められた村、またはその制度」をいいます。「公用旅行者の増加につれて、宿人馬の不足は恒常的となり、それを補う制度」として「助郷」が制定されたといいます。その「賦役」は苛酷なものがあったようで、「助郷村」の中には、「疲弊などの理由で休役を願いでる」ものも出てきます。その場合、その村の分まで他の「助郷村」が肩代わりしなければならなくなります。「余荷勤め」(よないつとめ)といって、例えば、公称1里で住むところが、実際は2里の賦課となる場合も少なくなかったのです。その「賦役」は、「加助郷」・「増助郷」・「当分助郷」と次第に、その「賦役」の範囲が拡大されていったのです。「特別の大通行」のときに「賦役」された「当分助郷」は、村高の10分の1に達する経済的損失につながることもまれでなかったというのです。その距離は宿と宿との間で、「十数里からそれ以上にも及んだ」といいます。「助郷村の負担ははなはだしく、疲弊のあまり休役や免除を願い出ることもあり、ときには一揆を起して反対することもあった」といいます。

百姓の「賦役」は、本来の「村」の入口から「村」の出口、「番所」から「番所」までの距離・「里数」そのままに、「余荷勤め」による距離・「里数」の実質的な延長が極普通に行われていたのです。

百姓に対する「賦役」は、それだけに留まりません。街道沿いには、一般の「村」だけでなく、「距離の算定に当たって、社寺の所有地、穢多地は、従来政府から諸役免除されていたので、算定に入っていなかった」(『英国外交官の見た明治維新』講談社学術文庫)のです。百姓にとって、街道に「社寺の所有地、穢多地」があるときは、「余荷勤め」の対象になります。公称された「距離」に、「社寺の所有地、穢多地」「距離」が公称の「里数」に加算されずに追加されるのです。

これは、「公用」の場合に適用される「里数」で、「公用」でない「私用」の場合には、当然、適用されません。例えば、ある「村」に公称1里の「賦役」があった場合、その隣村が疲弊のためその「賦役」を果たすことができないことが認められた場合、その村が更に1里「余荷勤め」として「賦役」されます。そして、その村と隣村の間に、「社寺の所有地、穢多地」が含まれていたとしたら、それも「余荷勤め」の類として「賦役」されます。つまり、公称4キロが実質10キロあった・・・ということが存在するわけです。

ところが、同じ距離を「私用」で、「人夫」「馬」を雇う場合は、公称4キロではなく、実質10キロでその労賃が算定されるのです。

つまり、「里数問題」というのは、街道を使った運送において、二重料金が設定されていたということです。「官」が使用する場合の料金と「民間」が使用する場合の料金に大幅な差があったということです。

徳川幕府の治世、日本が開国して以来、幕府は、諸外国の外交官をはじめとする要人に対して「官」待遇をしていました。彼らが旅をするときの宿場から宿場までの距離を「公称」「里数」で算定していたのです。しかし、外国人による国内の旅が緩和されることによって、外国人が「官」待遇から離れて「民間」人として旅をする場合がでてきます。そのとき、彼らは、はじめて、「公称」「里数」とは違う「里数」に接するのです。人夫や百姓にとっても、幕府や藩の「お上」に対しては「賦役」はやむを得ないとしても、縁もゆかりもない外国人に対して、「公称」「里数」で奉仕する所以はつゆも存在しません。当然、「公称」の「里数」ではなく、実際の「里数」を算定基準にしてその賃金を要求します。日本人にとっては、当たり前の制度であったとしても、外国人にとっては非常に分かりやすい制度、しかも、「掠め取られた」というイメージを受けたのではないかと思います。諸外国は、日本との貿易が拡大し、経済交流が増加していく中、運送に関する距離・費用について、明治政府に統一化を要求するのです。

明治政府によって、明治元年、「諸道駅逓助役地の制を改む。宮堂上官人等駅逓人馬を私用するを禁ず。」という布告がされます。明治3年には、「駅逓を改正し、官吏用役の制を定め、華士族、私役は和雇せしむ。諸道駅夫、賃銭十二倍を増加す。」と布告されます。「和雇(あいたいやとい)」の法というのは、明治3年2月に出された太政官布告で、「向後私用旅行、定賃銭を以て人足遣の儀、都て廃止候事」という布告のことです。近世幕藩体制下の特権的身分を根拠に、低い「公用」料金での使用ができなくなります。ついで、同年11月の太政官布告で、「官」は、「公用」料金である「御定賃銭」を一挙に「12倍」に設定します。明治4年には、明治新政府によって「富国」政策の一貫として、明治4年7月27日に「陸運会社の開業を許す」という大蔵省布達が出されます(木下真弘著『維新旧幕比較論』岩波文庫)。

近世幕藩体制下の遺制である「助郷」制度が、明治新政府によって完全に廃止されるのは、明治5年1月に出された太政官布告によります。

つまり、「里数の算定」問題は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」とは、直接的にはほとんど何の関係もない問題です。百姓が「助郷」の「賦役」に従事しているとき、「穢多」は、街道の警備を担当していたのですから・・・。

民・百姓の「助郷」制度の仕組みを知らない、士族階級の「公議所」の会議で出てくる、大久保利通いうところの「無用の論」の中には、「穢多モ同シク人類ナリ」とか、「穢多ヲ平民ニ復シテ・・・」とか、「穢多ノ称ヲ廃シ、凡民ニ列スヘシ」という言葉が散乱します。しかし、それらの言葉の中に、明治新政府の「穢多」に対する差別政策を読み込むのは難があります。これらの議論を精読すれば分ります。

近世幕藩体制下の「村」は、徳川幕府の「分断政策」、藩で分断し、藩を更に郡や宰判で分断し、郡や宰判を更に村で分断する「分断政策」の落とし子です。徳川幕府は、街道を徹底的に管理することで、近世幕藩体制を維持しようとしました。そして、特に、日本の国家を亡ぼしかねないと禁教に走ったキリシタンの蔓延を防ぐ方策として、その経路になった街道を徹底的に管理下に置いたのです。幾重にも張りめぐらされた監視の網は、開国と共に、諸外国から改善を求められるようになったのです。諸外国は、明治新政府によって、治安(警察)と経済(運輸)が安定し、諸外国が日本と平和裡のうちに外交・貿易を推進できるように求めたのです。

明治政府は、近世幕藩体制下の行政の要である「村システム」に対して解体の道を選択していくのです。それは、近世幕藩体制下の「分断支配」の象徴である「村」「村」の境、つまり、「村境」を取り除くことを決定するのです。それはとりもなおさず、「村境」「村境」足らしめる「番所」を取り除くことでした。その結果、「番所」に勤めている「役人」である「穢多・非人」は、その職を失う可能性が出てきたのです。

「公議所」の「無用の論」の中にあって、明治政府の要職は、この「公議所」の議論の流れを、意図的にコントロールしていきます。そして、「公議所」書記・大岡玄蔵によって、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」制度の解体に向けた議案が提出されるのです。大岡は、このように提案します。「抑、殺生ハ、国家ノ大権ニテ、公卿諸侯ト雖モ、敢テ専ニスルヲ得サル者ハ、人命ノ尊キヲ以テナリ。然ルニ、謂ユル穢多団頭ハ、賤辱ノ身トシテ、却テ独リコノ大権ヲ握リ、団衆数千ノ人命、公裁ヲ経スシテ殺戮ヲ専ニスルヲ得タリ。是、朝廷自ラ大権ヲ軽視スルノミナラス、并テ人命ヲ軽視スルナリ、甚タ此理ナシ」。

筆者は、この「公議所」書記・大岡玄蔵の言葉は、近世幕藩体制化の藩士身分であった「草莽」を限りなく救済し、「草莽」が幕末期になした、諸外国あるいは国内の要人に対する、襲撃、暗殺・殺戮の罪を、「草莽」の所業とはまったく縁もゆかりもない、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた「非常民」のひとつである「穢多」にその責任を転嫁する、明治新政府の政策の走りだったのではないかと思います。「草莽」「国辱」につながる所業は、すべて「穢多」に転嫁されていきます。明治政府は、「穢多」制度の解体によって、「草莽」問題に決着を謀ろうとするのです。差し迫る条約改正を前に、命じ新政府は、信じられない早さで、強引に改革を断行していくのです。そして、日本の歴史上、前代未聞であった、「司法・警察」本体が明治新政府によって解体されていくのです。この『部落学序説』の視点からみると、明治4年の太政官布告は、「旧警察」のリストラ以外のなにものでもないのです。

明治4年の太政官布告を「身分解放令」・「穢多解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」と解釈するのは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のなせるわざです。明治の「旧穢多」は、リストラされた近世幕藩体制下の警察官のことです。リストラされた警察官がどのような運命をたどるのか・・・、日本の近代は、大きな実験をしたのです。同心・目明し・穢多・非人・・・、彼らは、江戸時代300年間その職務の象徴である十手をとりあげられて、身分を剥奪され、「平民」に数えられるようになったのです。「非常民」が「常民」になる、それは簡単なことではありませんでした。明治期の「元穢多」の生きざまの中に、その苦しみや痛みが刻印されていきます。

この『部落学序説』の読者の中に、先祖の歴史が「穢多」につながる人がおられるなら、その人は、もう一度自分の歴史、ルーツをたどってみるべきです。そこには、「みじめで、あわれで、気の毒な」差別された「賤民」としての姿はありません。そこにあるのは、近世幕藩体制下の司法・警察官として、その職務に自覚と責任を持って生き抜いた先祖の姿です。筆者のいうことがうそか本当か、一度試してみるべきです。筆者のいうことが「虚偽」であったとしたら、あなたは、自分の歴史を尋ねることで何も失うことはないでしょう。しかし、「真実」であったとしたら、あなたは、自分の歴史についてとても大切なことを見失ってしまうことになります。「穢多」につながる可能性がない場合もありますが、その場合は、あなたの先祖は、「穢多」ではなく、「武士」や「百姓」である可能性があります。その場合、あなたは、あなたの先祖の歴史を調べることで「旧穢多」ではないということを証明し、「部落民」ではないことを確認することができるでしょう。歴史の真実は、時として残酷な事実を伝えますが、歴史の真実は、それ以上に、人間としての真実を取り戻させてくれます。

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2005.12.03

殺生与奪の権

【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第6項】殺生与奪の権

明治政府が設置した「公議所」の書記・大岡玄蔵によって、「穢多頭から裁判権を奪うべきとする議案」(三一書房『近代部落史資料集成』)が提出されます。

大岡の置かれた立場から判断すると、この議案は、大岡個人によって提出されたものではなく、その背後には、明治政府の「決断」が横たわっているように思われます。

大岡は、「殺生ハ、国家ノ大権」であると主張します。大岡の主張は、近世幕藩体制下では見られなかった主張です。近世幕藩体制下においては、「殺生与奪の権」は、当時の国家「徳川幕府」占有の権利ではなく、徳川幕府が、諸藩に「治外法権」を容認するということで、諸藩に「殺生与奪の権」を認めていた権利です。

藩士・藩民に対する「殺生与奪の権」は、幕府の手にではなく、藩主の手にあったのです。藩主は、藩士・藩民に対して「殺生与奪の権」を持っていることは、諸外国の外交官にも知れ渡っていました。幕末期においては、徳川幕府は、諸藩の「殺生与奪の権」を管理に置くことはできませんでした。諸藩の置かれた、それぞれの状況の中で、時として、この「殺生与奪の権」は行使されたのです。

幕末期の徳山藩で生じた、徳山藩の7人の侍によって、藩の要職の暗殺未遂事件がありました。その裁判の過程は、『河田佳蔵獄中日記』・『浅見安之丞獄中日記』・『有志詰問録』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺取調調書』に詳細に記されています。幕府による長州征伐を前に、幕府に恭順の意を示す徳山藩の要職と、討幕を叫ぶ徳山藩の7人の武士との間に繰り広げられた事件とその裁判の過程の中で、徳山藩の家老以下藩士階級(両刀階級)と「検断・穢多頭・穢多」(一刀階級)が登場してきます。

そのとき、誰の手に「殺生与奪の権」があったのかといいますと、当然、家老以下藩士階級にありました。討幕を叫ぶ7人の武士に死刑を宣告し執行させたのは、徳山藩の要職たちでした。徳山藩の「検断・穢多頭・穢多」は、その命令に従っただけで、大岡玄蔵が議案として提出したような「検断・穢多頭・穢多」に「殺生与奪の権」があったわけではありません。

「検断・穢多頭・穢多」は、藩の要職から、獄中にいた藩士を処刑するよう命令(毒殺)を受けたとき、その命令(毒殺)は「法に抵触する」ので、その命令には服従できないと上申しているのです。筆者は、「藩士」(与力身分以上)は、その上司(権力)の命令に忠実に動くけれども、「士雇(さむらいやとい)」(同心以下)は、「権力」ではなく「法」に忠実に職務を遂行していたと考えています。徳山藩の「検断・穢多頭・穢多」は、「法」の番人なのです。徳山藩は「穢多」に対して、「万一異変の節は、きっと御用に相立ち候様心掛け肝要たるべく候」
という覚書を布達していますが、「盗賊・忍者」の召し捕りに際しても、「穢多」は「法」に忠実に職務を遂行することを求められていました。「穢多頭」「殺生与奪の権」があったという大岡玄蔵の説は、歴史上の事実からはほど遠い言説です。

幕府に恭順を示す藩に対して、高杉晋作は、その当時の機甲化部隊を背景にクーデターを図ります。そのとき、藩の要職達は、高杉晋作以下を「国賊」呼ばわりし、周防・長門両国の「穢多」に対して、「国賊」追討命令を出しているのです。山口県光市の教育委員会関連の論文『茶筅に関する一考察』の中で、このような解釈がなされています。

「保守派では、高杉らの挙兵を国賊と呼び、藩内全般の被差別地区住民に対し、この国賊を討果たすように代官を通じて命じている。国賊とはいえ、高度に訓練され、しかも鉄砲や大砲を持つ重装備の奇兵隊に立ち向かうなど、どれほど危険なものであったか想像できよう。これは利用できるものは、何でも利用しようとする権力者の姿勢をみることができるのである」。

光市教育委員会の解釈は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が色濃く出ているのです。「穢多」に対して、なぜ、このような命令が出されたのか、その歴史的事実を追究するために一考だにしないのです。

徳山藩の上記の文章群には、その内容を示す記事があります。「代官」は、「穢多」に対して、「鉄砲や大砲を持つ重装備の奇兵隊」に対して、6尺某や十手を持って「立ち向かう」ことを要求しているのではないのです。奇兵隊「襲来之節ハ奇隊ヲ防クニ不及、入牢之者ヲ突殺セトノ由」であるといいます。「奇兵隊が、浅見安之丞をはじめとする同志を救出するために、徳山藩の浜崎牢屋を襲撃してくるかもしれない。そのときは、牢内の同志を殺害しその場を離れよ。奇兵隊に立ち向かう必要はない・・・。」と言っているのです。徳山藩の浜崎牢屋を警護していたのは「穢多」身分でした。徳山藩は、「被差別地区住民」を鉄砲や大砲の弾除けにしたのではなく、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務の遂行を布達していただけなのです。「賤民史観」に立脚する歴史学者や教育者の