2005.10.26

父-元穢多を妻とした中江兆民

【中江兆民論】 1.父-元穢多を妻とした中江兆民

「黙スル者ハ語ル者ニ非ルナリ。語ルノ黙スルノ・・・正ニ相反スル者ナリ。・・・黙スル者ニシテ語ルニ如カズト曰ハバ、人誰カ之ヲ怪マザル者アラン」。

中江兆民の言葉です。

kawa02 中江兆民は、石田玲子(平凡社『世界大百科事典』)によると、「明治時代の思想家,評論家。本名は篤介,号は兆民以外にも青陵,秋水,南海仙漁その他がある」といいます。「土佐藩士下級武士士族の家に生まれ、漢学を身につけるとともにフランス語を学び,1871年(明治4年)フランスに留学,74年帰国後,西園寺公望の《東洋自由新聞》《政理叢談》によって、フランス民権思想の普及と専制政府攻撃に縦横の筆をふるった。」といいます。第1回国会議員に当選して政界に身を置いたり、「実業界への転向と失敗」、再び「政界復帰」をしたりします。時代の流れの中で、彼は、彼の持論である「民権」から「国権」へ思想的転向をとげていきます。

中江兆民が筆をふるった日刊紙《東洋自由新聞》も、多くの反政府・批評家と同じく、「岩倉具視らの干渉」(山住正己『教育の大系』(岩波近代思想大系))によって、わずか34号で廃刊に追い込まれていきます。

明治22年(1889)、中江兆民は、『東雲新聞』に大円居士の筆名を用いて投書の形で、『新民世界』を公表します。その論文はこのような言葉ではじまります。

「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」。

現代的な表現を使えば、中江兆民は、偽名を使って「穢多」の末裔であるとカミングアウトをした・・・ということになりますが、なぜ、兆民は、そのようなふるまいに及んだのでしょうか。兆民は、足軽の家系である父・元助と、藩士の家系である母・青木柳との間に生まれたこどもです。

近世幕藩体制下の「藩士」と「足軽」身分との間には、原則として越えることができない深い溝があります。中江兆民が、幼年時代、どちらの身分の影響をより強く受けたかはわかりませんが、かなり複雑な精神的環境に置かれたであろうことは想像に難くありません。

中江兆民は、明治12年(1879)同郷の士族の娘と結婚しますが、翌年には離婚しています。「士族」の娘との相性がよくなかったのでしょう。

明治18年(1885)中江兆民は、「長野県出身のちのと結婚」(フリー百科事典『ウィキペディア』)します。結婚後、一男一女をもうけます。兆民の葬られた青山墓地には、兆民の妻・ちのと長男・丑吉が共に葬られているといいます。

中江兆民の足跡をたどっても、兆民が「穢多」の末裔であるという事実はでてきません。それなのに、なぜ、兆民は、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」とカミングアウトをするにいたったのでしょうか・・・。兆民の土佐での在所には、4箇所の穢多村があって、若かりし日、なんらかの関係があったのではないかと推測するひとがいますが、それ以上には言及していません。

この『部落学序説』では、近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「非常民」という概念の外延として「同心・目明し・穢多・非人・村役人」をとりあげてきましたが、「同心」役は、主に「足軽」層によってになわれました。

「与力」が正式の「藩士」であるのと比べて、「同心」は、「藩士」の身分枠の外、「士雇」(さむらいやとい)の身分階層に属することになります。

犯罪者の探索・捕亡・糾弾、百姓一揆の鎮圧などに、「同心・目明し・穢多・非人・村役人」は、「非常の民」・「非常民」として動員されましたから、「同心」身分と「穢多」身分との間に、なんらかの交流があっても不思議ではありません。

現代的にいえば、ひとつの警察署管轄内で、「捜査刑事」と「駐在所の巡査」との間に交流があっても不思議ではないのと同じく、近世幕藩体制下においても、同じ「非常の民」である「同心」と「穢多」との間に交流があっても不思議ではありません。

「穢多」に対して、「百姓」(町人・農人等)と「衣食住」という日常生活のレベルにおいて交際が禁止されたのは、両者を差別するというのではなく、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務を全うするためには、日頃から、「非常の民」として「襟を正して」職務を遂行するためでありました。

「別火」は、「非常民」である「穢多」と、「常民」である「百姓」が、一緒に食事や宴を共にすることで、癒着や汚職の疑いをかけられ、「公平」を旨とすべき職務遂行に「偏向」が生じるのを防ぐためであったと考えられます。また、「別婚」は、藩や奉行が許可しない結婚によって、「極秘」にされるべき犯罪者や一揆の取締りに関する情報が外部にもれるのを防ぐためであったと思われます。

近世幕藩体制下の「穢多」に対して出されたお触れは、現代において、警察職に殉じている人々にとっては、過去のことではなく、現在のことがらであると言われています。警察官は、制服を着たまま市民から飲食をご馳走になってはいけないでしょうし、結婚するに際しても、暴力団や風俗関係者と結婚することについては上司から指導が入ると言われています。それは、「差別」でなはなく、襲名している「警察官」という社会的に重要な職務に対する当然の規制であると言われます。

中江兆民は、孝明4年(1847)生まれですから、明治維新以前、同じ「非常の民」であった「穢多」と友好を分かち合っていたとしても不思議ではありません。

しかし、それなのに、なぜ、中江兆民は、なぜ、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」とカミングアウトのまねをするようなふるまいをしたのでしょうか・・・。

『部落学序説』の中ですでに取り上げた「差別」と「被差別」の関係のパターンからしますと、中江兆民の立場は、「被差別(偽)」にあたります。ほんとうは、被差別部落出身ではないのに、被差別部落出身者であるかのように、言動を繰り返している人々の範疇に入ります。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業のはなやかなりし頃は、知識階級・中産階級の中に、中江兆民と同じような言動をとる人々が少なくありませんでした。

筆者の属する宗教教団においても、「被差別(偽)」の立場で、「部落解放運動」に参加していった人も少なくありません(現在では、逆で、ほんとうは被差別部落出身ではなかったと逆カミングアウトをする人もいます)。

中江兆民が、『新民世界』を執筆したのは、明治22年のことです。

兆民は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」は、「・・・士族のために打たれ、踏まれ、軽蔑されて、憤発することを知らざりし」(百姓に打たれたのではない)といいます。

その「穢多」は、明治以降「旧穢多」として、「平民」(下級武士・百姓・・・)から、「新平民」として差別されるようになります。

近世幕藩体制下の長州藩においては、「新百姓制度」がありました。「武士」身分が「百姓」として帰農することができる制度がありました。「武士身分」を棄てて、新しく百姓になった、という意味で「新百姓」と呼ばれる場合がありました。この「新百姓」という言葉には、「昨日まで武士であったものが、なんで百姓などできるものか・・・」という、ある種の軽蔑の思いが含まれていたことは否定できませんが、「新平民」という言葉には、それ以上の差別的な響きが伴うようになっていったと思われます。

明治政府は、近世幕藩体制下の「常民」を、国家存続のために銃を持つ「非常民」に変える方針を打ち出しますが、「常民」の中から、激しい抵抗がおきます。全国至るところで、「非常民」化反対運動、反対一揆がおきます(歴史家は、歴史の記述の中からこの「非常民」化反対の動きを、あいまいにして隠蔽してしまいます)。

中江兆民が、『新民世界』を執筆した明治22年当時、「部落」という概念は、明治政府の議題として、行政用語・学術用語として、明治17年頃から使用されていましたが、まだ、一般の市民には普及していなかったのでしょう。中江兆民の『新民世界』には、「部落」・「部落民」という概念は一度も登場してこないのです。

中江兆民のいう「旧穢多」・「新平民」と、今日の時代の部落研究・部落問題研究・部落史研究家が使用する「部落」・「部落民」という概念の間には、無視することができない違いがあります。

中江兆民は、明治24年秋、北海道西海岸を旅行しその紀行文を記します。『西海岸にての感覚』の中で、「留萌」滞在に触れ、このように記します。「粉面紅頬媚を売り客を招ぐ牝馬牛有り。我れ是に於て北海道の一大淫国たるを知る」。中江兆民は、「遊女」を「牝馬牛」と呼びます。「遊女」は、「人間以下の人間」、「人にあらず」、「牛馬に等しい存在」とでも思っていたのでしょうか・・・。

中江兆民の、「遊女」に向けた差別的なまなざしと、「旧穢多」に向けたまなざしとの間に、無視できない温度差があるのに気づかされます。

中江兆民の生きていた時代には、「旧穢多」と「遊女」を同じ「被差別民」という概念でひとくくりする発想はなかったのでしょう。中江兆民は、むしろ、「旧穢多」と「遊女」との間に、異なる価値判断を抱いていたように思われます。中江兆民は、「旧穢多」に関心を寄せても、「遊女」については非常に冷たい視線を浴びせます。

中江兆民の、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」という告白・宣言の背景を理解することができず、あれやこれや模索していたある日、唯物史観に立って被差別部落の歴史を研究してきた井上清の文章の中に、ある言葉が私の目に飛び込んできたのです。

この『部落学序説』を書きはじめてから何度も再読した書であるのに、いままで気づくことなく素通りしてきた言葉です。

「すべての人は生まれながらに自主自由の権利をもち、政府は人民の自由をまもるためにあるもので、人民が政府のためにあるのではない、人民は専制政府に反抗し、これを倒して、民主的政府をつくる権利がある、と主張した自由民権運動も、1880年前後の10年間、はげしくたたかわれた。その文書の中にも、とくに部落解放を説いたものはないが、高知県の自由党の活動家たちは、県下の部落民の人権をまもるために、かなり熱心に働いている。また先にあげた柏原の部落からは、自由党に参加した闘士もあった。ほかの部落も同様だったにちがいない。自由民権運動の中から、部落民の人間的誇りを説く人も出た。高知県出身の中江兆民がそれである。・・・兆民の妻は長野県の部落出身であると推定される・・・」。

井上清の部落史研究家としての眼識が正しければ,中江兆民の妻は、長野県出身の「穢多」(長吏)の末裔ということになります。兆民が、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」と言い放つことになった背景が彷彿としてきます。

中江兆民の『新民世界』には、「語られた言葉」と「語られなかった言葉」があることになります。中江兆民という近代の思想家の中にある、「黙スル者ニシテ語ル」複雑な精神構造が垣間、見え隠れしているように思われます。

中江兆民は、「被差別(偽)」(兆民自身)と「被差別(真)」(兆民の妻)との関係の中を生きたことになります。(続く)

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子-元穢多を母とした中江丑吉

【中江兆民論】 2.子-元穢多を母とした中江丑吉


中江兆民は、論文『新民世界』を公表したその年(明治22年)、長男が与えられます。

兆民は、その子に「丑吉」という名前をつけます。近世幕藩体制下の足軽身分であった兆民が自分の子供につける名前としては、かなり庶民的な名前です。

兆民は、その妻の側(長野県の長吏の家系)を考慮して、それに相応しい名前を選んだのでしょうか。

兆民は、その前の年、「士族の名義を返還し、「新民界に入籍」」(『部落解放史 中巻』)する旨宣言しています。長男誕生に際して、兆民は、意図的に、「士族」の名前ではなく、「穢多」(長吏)の名前つけた可能性があります。

兆民は、自らを「穢多」・「新平民」として宣言します。

しかし、彼の妻・ちのについては、その生涯の間、一度も、その出自については言及することはなかったのではないでしょうか。少なくとも、筆者が現在までに出会った兆民に関する資料からは、そのように推測することができます。

井上清著『部落の歴史と解放理論』の中で、「兆民の妻は長野県の部落出身であると推定される」と記されているところを見ると、兆民は、何らかの事情で、その妻の出自については触れることを避けていたように思われます。

兆民は、「語ル」ことと「黙ス」ことを、意図的に区別していたようです。

長男・丑吉は、兆民とちのによって、育てられます。兆民は、明治34年癌を患って逝去します。長男・丑吉、13歳のときです。丑吉は、「兆民の死に当たって・・・無感動に不思議そうに眺めていた」といいます(《中江丑吉のこと》)。

長男・丑吉は、母の手によって教育され、やがて、東京帝国大学法科大学(政治学科)に学び卒業します。卒業後は、母・ちのの、必死の思いが成就して、大正3年、丑吉26歳のときに、満州鉄道に就職します。

しかし、丑吉は、すぐに満州鉄道を辞職します。丑吉は、その後も日本に戻ることなく、満州で生涯の大半を過ごします。丑吉は、青年時代の自由奔放な生き方から、「外面的には退屈で律儀な隠者風の生活」に変わっていったといいます。丑吉は、異郷の地・満州で「孤独な学究生活にいそしむ」のです。

丑吉は、英語・ドイツ語・フランス語・中国語に堪能であったといいます。父親・兆民を越えて、語学の才能にめぐまれていたのでしょう。丑吉は、いくつもの外国語を修得していったのです。彼は、「日本語の書物は原則として読まず・・・」、中国や欧米の文献を読破していきます。

そのような丑吉は、「何故か両親の話をせず、そういう話が出ると直ぐに打ち切ろうとした」(《中江丑吉をめぐって》)といいます。

丑吉は、父・兆民についても、母・ちのについても、ほとんど何も語ろうとしなかったと言われます。「新平民宣言」をした父・兆民についても、「長野県の穢多(長吏)」の出である母・ちのについても、丑吉は、沈黙を守って生きたのでしょう。

スイスの哲学者・アミエルは、このように語りました。

「草の葉一片にも語るべき物語があり、一つの心にもその小説があり、一つの生涯にも針なりとげなり秘密が隠されている。・・・痛めつけられた愛は人に様々な国語を覚えさせ、悲哀は人を預言者や魔法使いにする」。

丑吉の生涯を展望するとき、私は、やがて、「部落差別」として結実してくる、日本近代国家建設に伴う陰の部分が、丑吉に大きな影響を与えたのではないかと思います。

私の推測では、丑吉は、父・兆民が丑吉誕生の年になした「新平民宣言」の意味を、母親・ちのから聞かされたのではないかと思います。父・兆民は、「穢多」身分ではなく、「足軽」身分で、下級武士であったこと、そんな兆民が、ちのを愛するようになったこと、ちのが、長野県の長吏の出であることを告白したとき、兆民は、ありのままのちのを受け入れ、愛してくれたこと・・・。

次第に、新平民に対する世間のまなざしが、差別的なものになっていく時代の流れの中で、丑吉は、自分が、「穢多」の末裔であることに、深く傷ついていったのではないかと思います。天性、明るく快活であった丑吉は、突然、人が変わったように、修業僧のような生き方をはじめます。日本を遠く離れた異郷の地で、異郷の言葉を使って生活していくのです。

「足軽」身分の父と「穢多」身分の母の両方の血を受け継いだ丑吉は、どちらかというと、「穢多」の末裔としての生き方を選択していったと思われます。

中江兆民の『新民世界』を読むと、人種起源説的発想は、ある種のジョークとして記されています。「公らはたして吾らの家系のゆえを以て、吾らを異類視し、吾らを下等視するという乎。吾らの先祖はインド人なる乎・・・」。中江兆民が生きていた時代、「穢多」の人種起源説は、いまだ生成過程の途上にあったと思われます。

丑吉は、父・兆民が母・ちのの出自の秘密を守ったように、丑吉自身も母・ちのの出自、長野県の「穢多(長吏)」の末裔であることを、こころの深くに納め、生涯、沈黙を守り通したのではないかと推測されます。

丑吉は、一度は結婚しますが、離婚後、再婚することなく「独身を通したため、そこで中江家の血筋も断たれた」(《中江丑吉のこと》)といわれます。

「新平民宣言」をした父・兆民と、生涯沈黙を守り通した息子・丑吉は、正反対のふるまい、「語ル」ことと「黙スル」こととの大きな違いがありながら、父・兆民の妻ちのに対する愛と、息子・丑吉の母に対する愛とは、深く一致するところがあったに違いないと、私はそのように推測します。

穢多の末裔であることを継承して生きるか否か・・・。

今日の被差別部落の人々が、被差別部落の歴史を担って生きていくべきか否か、被差別部落民として実名を名のって生きていくべきか否か・・・。大切なのは、いずれを選択しても、そこに、「愛」があるか否かではないかと思わされます。

部落解放という「運動」や「運動方針」からみて、被差別部落の人々が実名を名のる、名のらないの意味を論ずるのは、あまりにも表面的で、貧困な発想に堕しがちになります。実名を名のるも名のらぬも、大切なのは、そこで、人間としての価値を示す「愛」がどのように生き抜かれたかにあるのではないかと思います。

『部落学序説』の筆者は、「穢多」の末裔でもなく、被差別部落出身者でもないが故に、今日の時代の被差別部落の人々のこころを理解することができるとは思いません。

しかし、中江兆民とその妻・ちの、その子・丑吉の生きざまを、わずかな資料を拾い集めて展望するとき、実名を名のるも名のらぬも、また部落民宣言するもせざるもまたよし・・・と考えざるを得ないのです。部落民宣言をしたからいいとも、わるいとも筆者は考えることはできません。大切なのは、いずれを選択しても、「穢多」の末裔であること、「部落民」の末裔であること、その「所与の人生」から逃亡せず、自ら引き受けて生きていっているかどうかにあるのではないかと思います。父・母・子、それぞれの生き方の中に、「賤民史観」をはねのけて、お互いをかばい愛ながら生きていく姿勢の中に、差別なき社会の到来を予感せざるを得ないのです。

被差別部落の人々を差別の鉄鎖に繋ぐもの、それは、明治以降の権力者(政治家・学者・教育者・宗教者等)によって仕組まれてきた「賤民史観」そのものです。日本の歴史学や教育から「賤民史観」を破棄し除去すれば、「穢多」の末裔の歴史、被差別部落の人々の歴史は、まったくことなる姿を現してくることでしょう。「穢多」の歴史が復権されるとき、それは、「民衆」の歴史が復権されるときでもあります。「賤民史観」の枠組みの中では、「穢多」の末裔も、「百姓」の末裔も、おのれのほんとうの姿を忘れさせられてしまっていると思われます。古来から営々と続けられてきた「日本人」の本当の姿を取り戻すためには、明治・大正・昭和・平成に作られ受け継がれてきた、近代的差別思想の典型である「賤民史観」を徹底的に破壊する必要があります。

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