2005.10.26

岩倉と長州藩の非道

furusato 【穢多と維新前夜】 1.岩倉と長州藩の非道


『部落学序説』執筆を急いだ理由に、筆者の年齢があります。

昭和23年(1948)生まれの筆者は、現在58歳。「団塊」世代のひとりであるが、どちらかいうと精神的には「団塊」世代とその内容を共有していません。小学校・中学校・高校までは、「団塊」世代に属していましたが、岡山県立児島高校3年のとき、大学進学を前に父が脳軟化症で倒れて以来、病床に臥した父と家族を支えて、ひたすら働きに働いて10年・・・、ふと気がつくと、同じ「団塊」の世代から遅れること10年あとの時代を生きていました。

あるときふと思ったのです。病気の父と家族の生活のために費やした10年間は、なかったものと考えよう・・・、と。それからというもの、いつも、自分の年齢は、実年齢から10歳引いたもの・・・、と自分に言い聞かせてきたのですが、しかし、体力的には、そのような「錯誤」は通用しそうにないので、もういちど「団塊」世代の仲間入りをして、自分の人生を考え直そうと考えた結果、人生の節目として、山口の地で知り得た、部落差別問題に関する雑学を、『部落学序説』としてまとめようと考えたのです。

歳を重ねると共に、体力だけでなく、精神力も減退していっているようで、あるとき、突然、「あの史料はどこへいったのだろう・・・」と何時間もかけて探し回る場合があります。書籍を探すならともかく、「あの言葉はどの文献に書いていたのだろう・・・」と思って探索を始る場合には、延々と時間がかかります。そして、とうとう見付けることができずに終わってしまう場合があります。

hakutyo 今回の文章を書くのに、ある言葉を探したのですが、見付けるのに、半日以上かかってしまいました。

『足軽目付犯科帳 近世酒田湊の事件簿』の著者・高橋良夫は、「時代小説の作者にとって、タネ本を公開することは、みずから首をしめるようなものだ」といいます。時代小説の作者は、ネタ本を公開しないのが一般的であると、はじめて知りました。高橋は、「そうと知りながら、『亀ヶ崎足軽目付御用帳』という史料を、多くの人々に知ってもらいたいという要求をおさえることができなかった」といいます。

『部落学序説』の筆者にとっては、そういう史料が手元にあるというのは、うらやましいかぎりです。

『部落学序説』第1章~第3章までと同様、第4章を論述するときにも、筆者は、特別な史料や資料はもちあわせていません。依然として、この論文執筆に使用する史料や資料は、徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書と、筆者が、近くの書店で入手した誰でもその気になれば入手できる資料に限定されています。

史料や資料を分析することで、『部落学序説』を実証的に論じるために必要な資料を抽出しているのです。

今回、資料のありかを見失って、徒に時間を浪費することになった資料というのは、『会津若松史』に収録されている明治元年10月民政局発行の文書です。

その文書をみると、会津戦争終結時に、会津藩の「穢多」が200人ほどいたことがわかります。明治新政府側は、会津藩の「検断」と「穢多」に、「城中死人取片付候はゝ、郭内郭外共死人取片付候樣」命令を下すのです。
筆者は、この史料は、近世幕藩体制下の「穢多」が何であるのかを物語る貴重な史料であると思っています。
近世幕藩体制下の「穢多」の行動を律しているのは、「権力」ではなく、「法」なのです。会津藩の「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察として「法」に忠実に生きるように教育されていますので、会津落城と共に、「権力」を失った「穢多」は、明治新政府という新しい「権力」のもとで、司法・警察である「非常民」としての職務を遂行することを求められているのです。

会津藩の「穢多」の在所・役務・家職については、大内寛隆著《近世陸奥国南部における被差別身分の実態》(『東北学別冊5』)や横山陽子著《会津藩における被差別民の存在形態》(『東北学別冊6』)に詳しい説明があります。

横山の論文の中に、「「穢多」は処刑後の死骸を取り扱う者として動員されている」といいます。一般刑事事件についてそのように言及しているのですが、戦時下にあっては、戦死者の死骸片付けも、「穢多」によって行われたと思われます。

会津藩の「穢多」が、会津城内の戦死者のなきがらを葬ったとき、会津藩の「穢多」のこころにどのような思いがよぎったのか・・・、以前から、気になっていました。江戸時代300年間、会津藩主の下に仕えてきた「穢多」は、会津落城と会津藩敗戦の樣をどのように受け止めていたのか、いろいろ想像をめぐらしていました。

そして、あるとき、井口富夫著『会津と長州と』を読んだときに、その謎がとけました。

井口は、「私は会津とは縁も所縁もない、まったくの他所者である」といいます。井口は、「少年の頃から妙に反骨精神が旺盛」であったといいます。彼は、いつしか、「純粋であるがゆえに数々の悲劇を背負い込み、朝敵の汚名を着せられて、以後延々と差別に喘ぐことになる」「会津に惹かれていくことになった」といいます。

平成8年、会津若松市に萩市長が訪れたとき、会津若松市長は、「萩市側からの二度の和解申し入れにも応じなかった」といいます。会津若松市長は、「藩はむつ(青森県)に流され、遺体は放置され、そういう明治新政府のやり方が心に残る」と述べ、「百三十年を経てなお残る怨念を訴えた」といいます。

井口は、会津若松市長の言葉は、「遺体は放置され、遺族の目前で腐敗の進むままに、埋葬も許されず・・・」という意味だといいます。

井口によると、幕府「討幕の秘勅」は「偽勅」であったといいます。「旧幕臣で、維新後は言論界で活躍した東京日々新聞主筆の福地源一郎氏が、その著の中で、「(前略)幕府滅亡後数年を経て、初めてその密勅の写しを拝読して、為に愕然たり」と述べているといいます。井口は、この「陰謀の主役を演じたのは、公卿の岩倉具視と断じていい」といいます。

長州藩の残虐さを史料をあげてこのように綴ります。

「激しく抵抗してくる少年を、鉄砲で撃ち殺し、首をはね、その首を宿営に“お肴持参”と持って帰り、酒座にそえて酒盛りをした」。

「縛られたままの会津藩士の前に行き、刀を抜き、彼の耳を切り、次に鼻を切り、次に胸を割くに及んで死す」。

井口は、この史料は、「宣伝用に誇張された中傷文書ではない」といいます。「自軍のあまりの残虐行為に、堪りかねて上司に出された報告文書」であるといいます。

明治元年「9月22日、降伏文書の調印が行われたあと、政府軍は「戦死者一切に対して何等の処置も為す可からず、若し之を敢て為す者あれば厳罰す」という布告を出していたのである」といいます。

「激烈な籠城戦が繰り返された城中、城下町はもちろんのこと、奥羽地方至るところの山野で、無残な遺体が何千と知れず晒されたのである。日毎に腐乱が進み、その遺体から発する異臭はとても耐えられるものではなかった。特に、目の前に横たわっている遺体が、家族や縁者のものであることがわかり、その傍らうずくまり、棒切れを持って鳥や犬猫の近付くのを追い払うことしかできなかった遺族たちの心情は、いかばかりであったことか。とても、拙い筆力では表現し得るものではない。「せめて埋葬だけでも」と、泣きながらの嘆願も、「賊軍の死者に墓などいらん」と、冷たく突き放されるばかりであった」。

そして、会津藩藩士や百姓のなきがらに「降り積もった雪が、淡い初春の陽光を浴びてゆるんでくると、腐敗の進んだ屍体から発する異臭に、彼ら自身が耐えられなく」なって、埋葬の許可が出されたというのです。

井口は、「三千余の遺体はようやく土に還ることができたが、それには一体どれほどの日数と費用を要したのであろうか。詳しくは分からない。この頃、屍体処理に携わる人夫は限られており・・・」といいます。

会津戦争でなくなった武士や百姓のなきがらを、こころの奥底から突き上げてくる「無念の慟哭」に堪えながら、もくもくとそのなきがらを手厚く葬っていった人々の中に、前述の、会津藩の司法・警察である「非常民」としての「穢多」もいたのではないか・・・、そのように思うのです。

会津を血で染めた下参謀・世良修蔵は、仙台と米沢藩士数名によって、「狂乱の酒宴後、酌婦と枕を重ねているところを捕らえられ、近くを流れる阿武隈川河原で斬首」されたといいます。「戦死」とは言えない死にざまですが、「後年になって、破格の処遇を受け」て、靖国神社に合祀されたといいます。死者に笞をうつかのごとき処遇を受けた会津藩藩士は、「賊軍」として、靖国神社に合祀されませんでした。靖国神社は、「官軍」の記念碑でしかなかったからです。

長州藩という周防国と長門国を守るため、四境戦争に参加した「穢多」たちは、四境戦争終結後は、「士分取立て」を放棄して、司法・警察である「非常民」の役務に戻っていきます。風聞としては、「穢多」の中にも会津戦争に参戦した人がいる・・・といわれますが、私は、そのような「穢多」はひとりもいなかったのではないかと思います。長州の「穢多」は、会津藩の人々を殺害しなかった、筆者はそう確信しています。軍人としての「非常民」と司法・警察としての「非常民」の間には、大きな違いが存在します。

明治維新前夜を生き抜いた「穢多」に関する史料や資料は、決して多くはありません。ほとんど史実が歴史の忘却のかなたに追いやられてしまっていると思われます。しかし、歴史の真実は、どんなに隠しても隠しきれるものではありません。会津の人々の経験した悲惨は、いつまでも語り継がれていくのです。

妻の実家から送られてきた「会津みたらし柿」の説明書には、会津の人々は、「会津みたらし柿」を一緒に食べながら、おばあさんが孫に、会津戦争のことを語り伝えていると記されてありました。

井口富夫著『会津と長州と』を読み終わったとき、会津若松生まれの、福島県立安積女子高校出身の、私の妻は、目を真っ赤にして泣いていました。泣き終わったあと、福島の大学で勉強している娘に電話して、その話を伝えていました。「あなたは、長州(山口)ではなく、会津(福島)のために働きなさい」。

私と妻は、月に1回周防大島をドライブします。車で、周防大島を一周するのです。その途中に、海岸沿いの道の側に、会津の仇敵・世良修蔵の墓碑があります。周防大島は、いつ尋ねても、瀬戸内の美しさと優しさを湛えています。しばし、時の流れるのを忘れて、その美しさにこころを奪われるのですが、それと同時、いつも思うのです。こんな美しい自然の中に生まれて育った人間が、どうして、あんな残虐な非道を繰り返して鬼になることができたのか・・・。

筆者の師である、元山口県立文書館研究員の北川健先生は、維新における「虚構の歴史のヒトリ歩きは、絶たねばならない。」といいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」という「虚構」を突き崩す旅を続けましょう。

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育制度と新百姓制度-近世身分体制の風穴

【穢多と維新前夜】 2.育制度と新百姓制度-近世身分体制の風穴


司馬遼太郎著『甲州街道・長州路ほか』(朝日文庫「街道をゆく」シリーズ第1巻)の冒頭部分で、こんな言葉が記されています。

「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」

司馬の長州ゆきを知って、「長州奇兵隊の末裔」である「京都のフランス語の学者が大まじめで教えてくれた」そうですが、司馬は、「かといって殺される理由はおもいあらたない」といいます。

「殺す」というのは、「天誅」のことで、「天に代ッテ誅ス」のことです。長州藩の武士は、「幕末の文久2(1862)年から同3年まで」、「左幕派とみれば襲ってこれを惨殺する」「天誅」でもって「京都の市民を戦慄させた」といいます。

貧乏百姓の末裔でしかなかった「伊藤博文でさえ、江戸で文久2年12月21日、麴町三番町付近で、国学者塙次郎を待ち伏せし、これを惨殺した」といいます。司馬は、「若気のいたり」と弁護しますが、伊藤博文はそのとき22歳。その功あってか、伊藤博文は、その惨殺事件のあと3カ月後、「士分にとりたてられる」(伊藤公資料館『伊藤博文公年譜』)のです。

伊藤公資料館『伊藤博文公年譜』を見ながら、不思議な感じがします。そこには、「国学者塙次郎を惨殺する」と文字通り記録されているからです。伊藤博文を顕彰するために作られたと思うその資料館で配布されている文章にでてくる「国学者塙次郎を惨殺する」の文字を見ながら、「惨殺」もまた顕彰の対象なのかと驚きの思いを持ちました。

その年譜の最後に、伊藤博文の言葉が書き添えられていました。

「人は、誠実でなくては何事も成就しない。誠実とは、自分が従事している仕事に対して親切なことである」。

伊藤博文が国学者・塙次郎を「惨殺」したのも、伊藤博文が当時従事していた仕事に対する姿勢から出でくることなのでしょうか。その際の「親切」とは何なのでしょうか。「親切」は「深切」のことのようです。

司馬遼太郎は、「幕末の奔走家を評価するとき、人を斬ったかどうかで判定してもおもしろい」といいます。

司馬は、「第一級の人物にはさすがにそういう浮薄さがなく、高杉晋作も木戸孝允もそういう行跡はなかった」といいます。高杉晋作は、「剣術の自信をもっていながら、同藩のわからずやにつけねらわれると、機敏に遁走し、人を殺そうとしたことは一度もなかった」といいます。

司馬は、戦国期の毛利は、「同盟すれば裏切られることはない」というが、幕末期の長州は、「手を結べばひどい目にあう」といいます。近世以前の毛利藩と幕末・明治の長州藩とは、似ても似つかぬ存在だったのです。

司馬は、「吉田松陰、乃木希典、河上肇、末川博といった人々には濃厚に仁者のおもむきがあり、さらに仁以外にかれらに共通しているところは強い思想人的気質」があるといいます。

2年前のことであったと思いますが、筆者は、山口県立某高校で仕事をしていたことがあります。休憩時間に、若い高校教師から、「山口県出身の人物で尊敬している人物はいますか」と聞かれて、「末川博と団藤重光」と答えると、その教師、「その人って、誰ですか・・・」といいます。その話を横で聞いていた教頭は、顔を真っ赤にしながら、「そんなことも知らないのか」と怒っていました。末川博なども、もう既に過去の人物なのかも知れません。

「志操は高く、姿勢は低く」。

末川の言葉は、筆者の座右の銘でもあるのです。

司馬遼太郎が、「長州藩」の末裔から、「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」といわれたのは、司馬遼太郎が、情け容赦なく、正論でもって、長州藩を批判するからではないでしょうか。「長州の複雑さは、仁者的風格の思想人を生むくせに、仁者的風格の革命家や政治家を生まない」と批判します。長州人は、権力を持った瞬間、なぜ、怜悧になり、残忍になることができるのか・・・。

司馬遼太郎は、山口県に講演にきたとき、長州藩の「育制度」を絶賛していました。「育制度」というのは「はぐくみ制度」と読むそうですが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によると、近世幕藩体制下の身分は、「士・農・工・商」それぞれの「身分」間において結婚等の交流が一切できないといいます。武士の家に生まれた者は、武士としてその生涯をあゆまなければならない。百姓の家に生まれた者は、生涯百姓として生きなければならない。武士が百姓になったり、百姓が武士になったりすることはできない・・・、そのようにいわれてきました。

ところが、長州藩には、「百姓」(百姓・町人)が「武士」になることもできる「育制度」というのがあるというのです。それは、例外的なことかも知れませんが、近世幕藩体制下の身分制度の枠を合法的に逸脱する制度が、長州藩には、存在していたというのです。

その典型的なのが、伊藤博文です。貧乏百姓の伜が、やがて、百姓身分から士分になっていったのですから・・・。伊藤博文は、「育制度」を使って、合法的に百姓身分から離脱していったのです。

この「育制度」の具体例が、岩国藩の史料の中に散見されるのです。

岩国藩の藩士の中で、跡取りがない場合、御家断絶を免れるために、「穢多」の中から優秀なものを選んで、その養子にしたというのです。「しかたがない・・・」という諦めからではなく、堂々とそのことを誇っているのです。
「育制度」は、「百姓」が「武士」になる制度ですが、逆はどうなのかといいますと、それなりの制度があったようです。「武士」が「百姓」になる合法的制度が・・・。それを、「新百姓制度」といいます。

「浪人者御百姓ニ可相成と理候ハゝ、出所由来宗門等相窮無別条ニ候ハゝ新百姓の沙汰ニ可被仕候・・・」。
「御百姓」は、武士身分から帰農した百姓のことで、一般の「百姓」とは身分的に区別されています。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、元武士身分である「御百姓」に対しては、一般の百姓とは異なる、丁寧な対応をすることを求められたようです。

「藩府は新百姓に対しては、その生活基盤が脆弱なため一貫して保護政策をとっている。即ち三カ年間諸役御免除の上、心付米を下付する等の措置」がなされたといいます。新百姓は、裸一貫で、荒野に開拓のために放り出されたのではなく、農地・農機具・籾・食料米などの優遇措置がともなっていたのです。この新百姓制度は、やがて、飢饉に直面して他藩から流入してきた百姓に対しても適用されるようになります。

「育制度」と「新百姓制度」は、近世幕藩体制下の長州藩において、基本的には固定された封建身分、「武士」と「百姓」間の身分の合法的移動を容認した制度なのです。「明和期には新百姓は本軒は3石・・・本米支給が行われた」(広田)といわれています。

「新百姓」という言葉には、「武士」がその身分を捨てて、「百姓」になった・・・という意味が込められています。
「武士」が、刀を捨てて、その手に鍬を握った姿を見て、長州藩の「百姓」たちはどのように思ったのでしょうか・・・。

それでは、近世幕藩体制下の長州藩において、司法・警察という「非常民」であった「穢多」は、その身分を捨てて、「百姓」になることがあったのでしょうか。

長州藩の記録をみると、「穢多」もまた「穢多」の身分を捨てて「百姓」になることがあったようです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究においては、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の影響に害されて、史料や文献の中に、そのようなことが記載されてあったとしても、ほとんどの研究者・教育者は、「例外」として扱い、考察の対象外へと追いやってしまうのです。

「部落学」は、それらの例外を、ていねいに分析し、それを「部落学」の史料・資料として評価し直します。

司馬遼太郎は、長州藩のそのような制度は、近世幕藩体制下の身分制度を突き崩していく要因になったと認識しているようです。「身分」は、「役務」と「家職」によって成り立っていますが、明治維新前夜の時代は、「身分」・「役務」・「家職」も、時代の流れと共に大きく混乱・動揺するのです。

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歴史の事実を操作した明治政府

穢多と維新前夜/3.歴史の事実を操作した明治政府


『部落学序説』に、検索フレーズ「会津 穢多町」でアクセスされる方が多いので、筆者も検索してみました。

ヒット数は極めて少なく、検索された文書に目を通してみました。「呆嶷館(ほうぎょくかん)私設会津部屋分室」に掲載されている『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』と呆嶷氏の解釈。そして、「戦死者の埋葬」という、呆嶷氏による別の文章。

呆嶷氏は、最近の研究を引用しながら、明治新政府は、「会津藩士の遺体を放置させていたわけではなかった」といいます。呆嶷氏は、「少なくないトラブル」、「感情的もつれ」があったかもしれないが、会津の人々が長州の人々に対して怨念を持つような「埋葬禁止」の布告など出ていなかったというのです。そして、結論として、「多くの人に義憤を与え続けている「遺体の放置」については、少なくともその認識を改めるべき」というのです。

呆嶷氏は、明治新政府(長州藩)による「遺体の放置」は、「会津側からのわずか二人の証言によって成り立っている」と指摘し、「「事実の裏付」は存在していないか、あるいはまだ見つかっていない」といいます。史料が存在しないことをもって、明治新政府(長州藩)による「(会津藩士の)遺体の放置」は、呆嶷氏のいう「事実」ではないというのです。

呆嶷氏の見解の背景には、それが事実なら、なんらかの史料が残ってていいはずだ・・・という予見があるような気がします。

『部落学序説』の筆者である私は、「歴史資料」は、歴史の事実に迫る一手法でしかないと思っています。日本の歴史資料の多くは、権力者の側から執筆されています。しかし、「下級武士」や「百姓」の目から見た歴史資料も少なくありません。最近、それらの史料が発掘され、相次いで論文化されているように思います。

『部落学序説』では、「部落学」の基礎科目として、歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学を列挙しています。「文献史学」だけでなく、「伝承史学」も必要であると考えているのです。

なぜ、「遺体の放置」に関する史料が残らなかったのか・・・。

そこには、いくつかの可能性があります。ひとつには、明治新政府(長州藩)が、会津藩に対してなした、残虐・非道なふるまいを隠蔽するために、「遺体の放置」に関する文書の公刊に規制をかけた可能性があります。

『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』の著者・石光真人は、このように語ります。
「明治維新は根源が深く錯綜しており、また変化の速度が激しかった。かっては「勝てば官軍」の立場から歴史が綴られ、薩長藩閥政府を正当化するために、ある部分は誇張され、ある部分は抹殺された。そして今日もまた、特殊な史観にこだわって、原則に沿わない不都合な事実は気軽に棄捨してはばからないようである」。

石光は、明治元年に13歳であった原敬についてこのように記しています。
「原敬は・・・東北討伐の惨劇を目撃した人である。後に男爵を授けられることになった時に、ずらりと並ぶ薩長土肥の元勲たちとともに爵位につくことを嫌い、これを返上するという破天荒な態度に出て、世論を湧かせたが、ついに初心を貫いた人である」。

戦死した会津藩士が、いまだ深い雪の下に、そのなきがらを横たえている、悲しみの慟哭が続く明治2年2月20日、明治新政府は、『奥羽人民告諭』を出します。

「・・・会津のごとき賊魁すら、命を助け給い・・・家も知行も結構に立て下され候は、この上なき御慈悲ならずや。しかるに百姓ども何の弁別もなく、かれこれ騒動いたし候ては、誠に相すみがたきのみならず、いよいよ領主に罪をまし・・・」。

石光は、「嘘も休み休みいえ、といいたくなるほど、ふざけた告諭である。この告諭を読んで、ありがたき幸せと両手を地について平伏したものがあったろうか。おそらく東北人士の憎悪を一層煽ったに過ぎなかったろうと思う。」といいます。

馬鹿にされているのは、会津藩士だけではありません。会津の百姓も同じです。明治新政府は、東京に幽閉された会津藩主を人質にとって、会津の百姓が「騒動」(新政府反対一揆)を起こすと、会津藩主の罪を重くすると脅迫していたのです。

石光は、このような言葉でその書を閉じるのです。
「東北に西南に、深い傷痕を残した明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体制を残して終わった。この体制は今なお続いている。柴五郎翁の遺文に接して、国家民族の行末を末永く決定するような重大な事実が、歴史の煙霧のかなたに隠蔽され、抹殺され、歪曲されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、われわれは身近に見せつけられたのである」。

『白河・会津のみち 赤坂散歩』(街道をゆく33)の著者・司馬遼太郎は、「権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい」といいます。

呆嶷とは誰なのか・・・。

「呆嶷館(ほうぎょくかん)私設会津部屋分室」のホームページを走査しながら、筆者は考えるのです。呆嶷は、会津藩の藩主や藩制度に関心を持つ、単なる会津史マニアなのか・・・。「会津藩部隊総覧」の中には、長州藩側の会津戦争に関する史料『防長回天史』に登場してくる、会津藩の「穢多」によって構成された部隊は出てこない。長州藩兵士の前に、白旗を掲げて出てきた一群の人々を見て、長州藩兵士は、その身分階級を尋問します。その答えに、長州藩兵士は、「長州藩の維新団(穢多によって構成された部隊)に相当する部隊か・・・」と呟きます。

呆嶷の視座からは、共に戦った、会津藩の「穢多」の姿が見えないのかもしれません。靖国神社同様、呆嶷は、会津藩の「穢多」を「会津藩部隊総覧」から削除するのでしょうか・・・。

『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に登場してくる「穢多」の姿は、歴史上の事実に基づくものではありません。

「非常民」は、軍事に携わる「非常民」と、司法・警察に携わる「非常民」の2種類にわけられます。そのいずれも、その組織のトップは、藩主になります。司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、藩の役人として、給与を与えられています。「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」といいはなった岡山・備前藩の「穢多」と同様、会津藩の「穢多」も、薩長軍と命をかけて戦ったのではないでしょうか。

その会津藩の「穢多」が、2000人の会津藩戦死者に対して、彼等を葬る代償として、3000両を要求したとする説など、「虚構」以外の何ものでもありません。戦争終結時においても、翌年の春、雪解けと共にあらわれた会津藩士の腐敗したなきがらを葬るに際しても、1人、1.5両を請求したというのは、ありえない話です。

なぜなら、近世幕藩体制下の司法・警察本体である「穢多」は、全国的にほとんど同じ職務を担うになっていたからです。

会津藩と長州藩の「穢多」の「身分」・「役務」・「家職」を比較すればすぐにわかります。「身分」・「役務」は、両者の間に差異はほとんどありません。

『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に記された「穢多」による死体の片付けに関連していえは、宮田伊津美著《岩国領の被差別民について》によると、「(穢多の)役目の一つに死体の埋葬があったが義務的労務には手当ての支給は原則としてなかった。」とあります。

横山陽子著《会津藩における被差別民の存在形態》によると、「「穢多」は処刑後の死骸を取り扱う者として動員されている」とあります。

会津戦争終結と同時に、会津藩の「穢多」を、明治新政府の、司法・警察である「非常民」として組み込んだ薩長が、会津藩の戦死者2000人の埋葬料として3000両を徴集することを認めるはずがありません(その背後に、長州藩の謀略があって、埋葬を見逃す代償として3000両を要求されたと推測できないことではありませんが、あくまで推測です)。『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』は、すっかり「賤民史観」に汚染されています。
そのことで、呆嶷によって、「会津藩部隊総覧」から、「穢多」によって構成されていた部隊名が削除されているのだとしたら、会津藩の「穢多」の無念さは、会津藩士にまさって倍加することでしょう。

『白河・会津のみち 赤坂散歩』の著者・司馬遼太郎は、「会津は、一人の山川浩を持ったことがせめてもの幸いだった。」といいます。なぜなら、山川浩(東京帝国大学総長・山川健次郎の兄)は、「旧藩のことを雪辱すべく右の史録(『京都守護職始末』)を書いた」からです。司馬は、「激動期の当事者のひとりが、後年、冷静な態度で史録を書いたという例は、さほど多くない。」といいます。その原稿は、明治35年に既にできあがっていたといいますが、長州藩閥に反対されて、公刊は許されなかったといいます。9年後の明治44年、「旧藩の者にだけくばる」という「非売品」として限定出版されたのです。山川家は、会津藩の歴史を残すために、その家を傾けたといわれます。

会津藩の悲惨な歴史は、「伝承」の形でしか後世に伝えられなかった事情がこのあたりにあるように思われます。

史料が存在しないことをもって、長州藩による会津藩士の遺体の放置は事実ではないという、呆嶷氏は、どこに立って、何を主張しようとしているのでしょうか・・・。本当の「和解」は、罪の忘却ではなく、(長州藩の)罪の告白と(会津藩の)許しによって成立するものです。

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穢多の「普遍性」と「地域性」

【穢多と維新前夜】 4.穢多の「普遍性」と「地域性」


この『部落学序説』は、書き下ろしです。

執筆の方向性は決まっているのですが、それを具体化するときに使用する史料や資料は、そのときどきに影響される場合があります。

筆者は、会津藩の「穢多」について触れるつもりはなかったのですが、ことの成り行きです。会津藩の「穢多」についても視野に納めながら、この論述を展開していきます。

筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究を困難足らしめているのは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」にあると思っています。「賤民史観」を信奉する歴史学者や教育者の手にかかりますと、歴史の中に記録されている「民衆」の姿は、限りなく賤しい存在として描かれます。「民衆」の中でも、それぞれの時代の社会的底辺に位置づけられた人々には、特に、「賤民」というラベリングがされ、その姿は、「みじめで、あわれで、気の毒な存在」として、必要以上に貶められて描写されます。

ギリシャ神話の中に、手に触れるものすべてが金に換わってしまう王の話がありますが、「賤民史観」を信奉する歴史学者や教育者は、関連する歴史資料や伝承を手にした瞬間、彼等がいう「賤民」の被差別性を証明する言葉に換えてしまうのです。「史料」と「史料」の間を、差別思想である「賤民史観」で充当して、歴史の事実に違う解釈をするのです。

今回の市町村合併で、徳山市と新南陽市は、周南市に組み込まれてしまいましたが、それぞれの市史に記載されている「天保一揆」に関する既述を比較してみますと、新南陽市の市史に記載された、その被差別部落に関する描写と、その隣の市である徳山市の市史に記載された、新南陽市の被差別部落に関する描写との間には無視することができない「相違」があるのに気づきます。

徳山市の市史では、天保一揆(天保2年)のとき、百姓たちによって打ち壊しの対象になった、徳山藩の北穢多村に対してこのような表現をしているのです。

「徳山藩北穢多村では屠殺業者の部落をも襲い、青田の時節に牛の皮を取り扱ったといって諸道具を焼き捨て、徳山藩南穢多村では居宅にまでも放火して壊滅的な打撃を与えた」。

徳山市の市史を書いた歴史学者は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」の在所・「穢多村」を表現するのに、「屠殺業者の部落」という表現を用いているのです。この解釈では、「穢多」=「屠殺業者」になってしまいます。

その歴史学者は、史料解釈上のいくつかの過ちをおかしています。そのひとつに、史料から、歴史の事実を抽出・読み出すのではなく、彼の「予見」を読み込んでいることです。長州藩本藩においても、その枝藩である徳山藩や岩国藩においても、「穢多」が牛馬の「屠殺」を実行した場合、どうなるのか・・・。関連史料によると、牛馬を「屠殺」した「穢多」の首が飛んでいるのです。牛馬の「屠殺」は、長州藩においては、「天下の大罪」のひとつだったのです。

徳山市の市史の既述では、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が、こともあろうにその職分を忘れて、「金銭」に目がくらんで、牛馬の屠殺という「天下の大罪」を犯した極悪人になってしまいます。

歴史解釈に名を借りた、「歴史の事実」のあらたな捏造と断じてもいいでしょう。

『部落学序説』の筆者である私は、歴史学者や教育者をして、歴史解釈のもとに「歴史の事実」を捏造させる「指導原理」となっているものが「賤民史観」ではないかと思っています。筆者は、歴史学者や教育者が無自覚的に依拠する、この「賤民史観」を破壊し無化することで、歴史資料が語り伝えている歴史の真実・ほんとうの事実を「読み出そう」としているのです。

そのためには、文献史学の手法だけでは、会津の呆嶷さんが直面している陥穽、「史料に記載されていないものは事実と認定できない」という悪しき文献主義に陥るので、筆者は、歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学、政治学、国際関係学、文化人類学等を駆使して、学際的研究を指向しているのです。

会津藩の「穢多」と岩国藩の「穢多」を比較することで、両者の間の「普遍性」と「地域性」を明らかにすることができます。

『会津藩における被差別民の存在形態』の著者・横山陽子はこのように語ります。少しく長い引用になりますが・・・。

「1980年代以降の近世身分制研究では、政治権力側の視点のみで近世の身分および身分制度を捉えることへの批判から、近世の身分及び身分制度の捉え直し、そして新しい近世身分制度を提示することが課題となっている。また諸藩、諸地域における身分及び身分制度についての研究が蓄積されてきており、それらの研究成果からは各地における近世の身分及び身分制度の地域性が明らかにされてきている」。

「近世の身分や身分制度に地域差があったことは、政治権力による身分支配が全国一元的に展開したわけではなかったこと、すなわち、近世の身分制度とは政治権力側と濃厚な地域性をもった地域社会との間で展開したことを意味しよう。したがって、近世身分制度の普遍性を導きだすにあたっては、諸藩、諸地域の身分及び身分制度における歴史的展開や地域性を明らかにする必要がある」。

横山がいう近世身分制度に関する「普遍性」と「地域性」を明らかにするためには、気の遠くなるような、「諸藩、諸地域の身分及び身分制度」の比較研究が必要になります。

長州藩は、長門国と周防国の2カ国から成り立っていますが、それぞれ「身分及び身分制度」には違いがあります。長門国には「宮番」が配置され、周防国には「茶筅」が配置されます。周防国は、長州藩本藩領と、長州藩枝藩である徳山藩と岩国藩が存在します。それぞれに、「身分及び身分制度」が異なります。長州藩では、「穢多・茶筅・宮番」、徳山藩では、「穢多」のみ、岩国藩では、「久保の者と道の者」というふうに、身分呼称も役務の内容も異なります。岩国藩の「道の者」を例にとっても、山間部・平野部・海岸部では、「道の者」の生活が大きく異なります。「地域性」を明らかにするといっても、その作業は、大変な作業になります。

筆者は、昔の部落史研究者は、その挫折から、「賤民史観」という歴史研究の枠組みをつくったのではないかと思います。「賤民史観」は、「諸藩、諸地域の身分及び身分制度」に関する研究を、体系化するための、非常に便利な歴史学研究上のツールであったわけです。しかし、「賤民史観」が、部落研究・部落問題研究・部落史研究の通説・一般説になるにおよんで、全国的に奇妙な現象が生じたのです。

それは、「諸藩、諸地域」の「穢多」の末裔たちの歴史理解が、金太郎飴のように、一色に塗りつぶされてしまったことです。

日本全国どの被差別部落を尋ねても、その住民から聞く被差別部落の歴史は、ほとんど同じで、極めて単調なものでした。「いわれなき差別を受けてきた」、「みじめで、あわれで、気の毒な人」・・・。被差別部落の側からのステレオタイプな問いかけに、「差別者」は、同じく、ステレオタイプな解答をしました。「はじめて、部落差別を知りました。これからはもっと勉強して差別しない人になっていきたいと思います・・・」。

山口県の被差別部落の人々の中にも、その被差別部落の前身である、近世幕藩体制下の「穢多村」の頭(穢多頭・長吏頭)の名前を忘れてしまっている人々も少なくありません。被差別部落の人々の中には、自分たちの先祖の歴史を捨て、歴史学者や教育者が唱える「賤民史観」を自分たちのほんとうの歴史として受け入れた人々が少なくありません。同和事業や同和教育が強力に推進された地域ほど、その可能性があります。

しかし、同和地区指定を受けることなく、「部落解放運動家」の観点からみると、「運動の遅れた地域」とされる「未指定地区」の人々の中には、今でも、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての先祖の歴史を捨てずに、その歴史を次の世代にも継承しようとしている人々が多々いるのです。歴史学者や教育者によって、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の影響をあまり受けていない地域の人々に見られる傾向です。

『部落学序説』の筆者である私は、「穢多村」の比較研究、「被差別部落」の比較研究という、単純作業を延々と繰り返していく過程の中で、横山がいう、近世身分制度に関する「普遍性」と「地域性」を明らかにしてきたのです。

「会津藩」と「長州藩」。維新戦争の際には、「東軍」と「西軍」に別れて戦った間柄ですが、近世幕藩体制下の「会津藩」の「穢多」と「長州藩」の「穢多」との間には、その属性において共通している部分が多々あるのです。
近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」から成り立っていたと言われますが、「役務」は、「会津藩」においても、「長州藩」においても、それほど大きな「差異」(地域性)はなかったように思われます。

「役務」は、近世幕藩体制下の司法・警察であり、「穢多」の職務内容を規定していたのは、幕府や藩から出された「法度」です。諸藩の「法度」は、多くの場合、幕府から命令された「法度」を基本的に遵守しなければなりませんでした。もし、諸藩が、幕府の「法度」を無視して独自の「法度」に基づいて藩政を行えば、おそらく、幕府による改易を免れることはできなかったでしょう。

諸藩は、幕府の「法度」を遵守しているかぎり、その法の執行について、諸藩の独自性(近世幕藩体制下の「治外法権」)を主張することができたのです。法の執行権、たとえば、犯罪者の逮捕に関する権利は、他の藩の同じ権利を侵害することはできませんでした。諸藩の犯人逮捕権は、それぞれの藩領内に限定されていました。犯罪者の探索・捕亡・糾弾・処罰(キヨメ)をどのように制度化して、司法・警察に携わるものをどのような名前で呼ぶかということは、諸藩の裁量に任されていました。

「司法」・「警察」に関する呼称は、長州藩においても、中世からの継承である場合が少なくありません。村方役人によって、「司法」・「警察」だけでなく、「法務」という、一種の警察機能もになわれました。周防国では、近世幕藩体制下においても、「刀禰」が存在していました。しかし、多くの場合は、長州藩では「畔頭」と呼ばれていたようです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に対する呼称を、漢字の語源でその内容を規定するような愚をおかさないで、近世の政治システム、法システムの中に正しく位置づけて考察すれば、東日本の会津藩の「穢多」と、西日本の岩国藩の「穢多」との違いはほとんどないといっても過言ではないということに気づかされます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」は、日本全国均一で、「普遍性」を持っていました。

ですから、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯 江戸時代庶民生活の実像』にでてくる奥州・守山藩の目明し・吉田金十郎のように、犯人探索のために帯刀して、守山藩領30か村を離れて、他藩に出張することができたのです。犯人を見付けた場合は、逮捕できるかどうかは、該当する藩の承諾如何にかかっていました。

奈良本辰也著《吉田松陰と「討賊始末」》によると、宮番の妻・登波(長州藩では「穢多」身分)は、殺された夫の犯人探索のため、中国・四国路を旅し、さらに、「美濃より木曽路を東へ下り、信濃に入り飯田の城下に過り、今町を通り新潟に至り、陸奥に入り、会津の城下を通り・・・」旅をしたといいます。

女穢多「登波は・・・あるときは病気に倒れて、常陸国の百姓家に寝込んでしまう」といいます。異国の「穢多」に宿を貸し、看病までしてくれ、そして、回復後、あらたな旅へ送り出してくれた「常陸国の百姓」がいたことを読むと、近世幕藩体制下の「穢多」や「百姓」のほんとうの姿は何だったのか、考え込まざるをえないのです。

「常陸国の百姓」は、「常陸国の穢多」に対しては差別的であったが、異国の、「長州藩の穢多」については親切を尽くした、ということにはならないでしょう。「常陸国の百姓」の「常陸国の穢多」に対する日常的なかかわりがあって、はじめて、「長州藩の穢多」に対する、そのような親切が発露したのではないかと思わされるのです。

私は、近世幕藩体制下の「穢多」は、日本全国同じ「役務」に従事していたと確信しています。諸藩の「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「普遍性」を持った存在であったのです。

それでは、「会津藩の穢多」と「長州藩の穢多」、ひいては、「東日本の穢多」と「西日本の穢多」の差異・「地域性」はどこに由来するのかといいますと、筆者は、「家職」にあると考えています。

諸藩が、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の「役務」に対する反対給付として、「穢多」に許可した「家職」は、自然・社会・習俗・慣習・経済等に大きく影響を受けます。雪国の「会津藩の穢多」と南の国の「岩国藩の穢多」の「家職」について、差異と「地域性」があっても不思議ではありません。

筆者は、「皮革」に関する仕事は、「役務」ではなく「家職」と考えています。長州藩において「皮革」は、幕末に近付けば近付くほど、「穢多」の「家職」から離れて、藩の御用商人や町人、百姓の手に移っていきます。「皮革」だけでなく「骨粉」すら、「穢多」の収入源から切り離されていきます。《岩国領の被差別民について》の著者・宮田伊津美は、「エタの職業の代表は皮革関係であるが、全体的にみれば生活基盤は皮革ではなく農業活動にあったと考えるべきであろう。」といいます。海岸沿いの穢多には、漁業を「家職」とすることが許されたといいます。
明治維新前夜の「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」そのものです。

『会津藩における被差別民の存在形態』の著者・横山陽子は、「南奥羽を特色づける被差別部落民イタカ」について言及しますが、「イタカ」の「役務」を考慮すると、それは、アドホック(間に合わせの言葉)であって、長州藩にも該当する存在がいます。「呼称」は「地域性」を持っていても、その「役務」に「地域性」を認めることはできないと思います。

「会津藩の穢多」と「長州藩の穢多」の「地域性」は、「皮革」を含む「家職」においてのみ、その姿を表わしてきます。

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近世幕藩体制下の「穢多」

【穢多と維新前夜】 5.近世幕藩体制下の「穢多」


日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に汚染されていない、近世幕藩体制下の「穢多」について、ここでまとめてみましょう。

●「穢多」とは誰か

近世幕藩体制下の「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」のひとつです。司法・警察に携わる「非常民」には、「武士」側の「与力・同心・目明し・穢多・非人」と、「百姓」側の村方役人がいましたが、「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」の中でも、尤も中核的存在でした。近世幕藩体制下の警察本体であるといっても過言ではないでしょう。
「賤民史観」は、全国の「穢多」が、司法・警察機構に組み込まれた存在であることを十分認識しつつ、できる限り、それを否定しようとします。そして、「穢多」を、近世幕藩体制下の「下級」警察、あるいは警察の「手下」として認識します。

●「身分」とは何か

近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」から構成されています。「藩主」から、「家職」を与えられているときにのみ、「役務」に従事する必要があります。「穢多」身分に対しても、様々な「家職」が与えられました。その「家職」が「家職」として「藩主」によって認証されているときにのみ、「役務」に従事する義務がありました。
「賤民史観」は、「穢多」身分について言及するとき、「役務」と「家職」を混同する傾向があります。最たる例は、「穢多」身分を論じるときに、「家職」のひとつである「皮革」業のみを強調する傾向にあります。そのような説は、近代における「屠殺業」の伏線となります。

●「穢多」の「役務」とは何か

近世幕藩体制下の「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」として、幕府や藩から出された「法度」に基づいて、法度に違反する犯罪者の探索・捕亡・糾弾と、有罪が確定した場合の犯罪者に対する刑の執行等に従事していましたが、その対象は、「百姓」だけでなく「武士」にまで及びました。「穢多」は、その職務を遂行するために必要な「武道」も身につけなければなりませんでした。場合によっては、帯刀して職務遂行にあたりました。
「賤民史観」は、「穢多」と「百姓」を同列において、相互に牽制しあう存在として把握します。いわゆる「分裂支配」説です。幕藩体制下の権力は、「百姓」の権力自身に対する批判をかわすため、「穢多」という被差別身分を設置したと考えます。

●「穢多」と「武士」

「非常民」は、軍事に携わる「非常民」と、司法・警察に携わる「非常民」にわけられます。軍事に携わる「非常民」は、「武士」階級によって構成されますが、「藩士」階級の他に、中間・足軽等の「士雇」階級も含まれていました。軍事に携わる「非常民」の主要な職務は、「城を屠す」(敵軍の虐殺)ことですが、司法・警察に携わる「非常民」は、「法度」を犯した犯罪者を、生きたまま捕亡し、裁判にかけることを主な内容にしていました。判決如何によっては、犯罪者を処刑することもありました(人を屠す)。軍事に携わる「非常民」と、司法・警察に携わる「非常民」との間には、「百姓」の生命の重さについての認識に大きな差がありました。
「賤民史観」は、「士・農・工・商・穢多・非人」という身分制度の図式に基づいて、「武士」と「穢多」(穢多・非人)の類似性を否定する傾向があります。「賤民史観」では、「穢多」は、「武士」の系列ではなく、「百姓」以下の、被差別民として認識する傾向があります。

●「穢多」と「百姓」

司法・警察である「穢多」は、多くの場合は、取り締まる側に立っています。「穢多」にとって「百姓」は取締りの対象になります。「穢多」と「百姓」との関係は、現在の「警察官」と「住民」との関係に酷似しています。犯罪の捜査に公正を期するためには、「警察官」は、「住民」との馴れ合いを厳しくとがめられます。「警察官」が「住民」と飲食を共にすることで、賂等による不正を未然に防止するためです。同様の理由で、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」も、「百姓」・「町人」宅に気ままに出入りして、あらぬ疑いを招くことを禁止されていました。
「賤民史観」は、「穢多」と「百姓」とのそのような関係を「差別」として認識します。

●「穢多」と「制服」

司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、それに相応しい服装を要求されました。今日の警察官の制服と同様、責任と規律をイメージすることができる青・紺系統の制服をみにまとうことを要求されました。真夜中、押込強盗等犯人逮捕に際して、夜の月明かりでも識別できるように、「同心・目明し・穢多・非人」の髪型も規制されていました。「密偵」の仕事に従事するときには、「穢多」は様々な服装をしました。
「賤民史観」は、特定の色を差別的な色として認識します。その結果、「渋染」についても、差別的な色として認識し、「渋染一揆」の本質(「穢多」の職務改善要求)を誤解してしまいます。

●無役の「穢多」

司法・警察である「穢多」は、藩の指示に従って、様々な役務に従事しました。しかし、「穢多村」に住むすべての人が「役」をもらったわけではありません。殺人を犯した浪人逮捕に向かうのは、逮捕術を身につけた、武術の心得のある穢多のみです。近世幕藩体制下の身分は「世襲制」を建前にしていますので、中には、捕亡・糾弾に向いていない人もでてきます。その場合は、探索の役に従事したり、家職の様々な職に従事して、「穢多」村全体を支えたと思われます。
「賤民史観」は、「穢多」は、一律に、人の嫌がる仕事を押しつけられたと解釈します。

●「穢多」と「春駒」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、「百姓」・「町人」の生活ぶりの調査もしていました。正月にはすべての人が祝いの席を設けて楽しみますが、どのように正月を迎えているのか、「春駒」をしながら情報収集します。「穢多」は、年に数回、決められた日数だけ、その仕事につくのであって、「芸能」を職業としている人々のように年中「芸能」に携わっているわけではありません。長州藩では、飢饉のあった次の年の正月、百姓たちの飢えていく悲惨な姿を見て、自分の食べ物を譲って「穢多」みずから餓死していった・・・そんな悲しい話があったことを想定させる史料もあります。
賤民史観は、「穢多」は、生活苦から芸能の仕事に従事したと解釈します。

●「穢多」と「在所」

「穢多」の「在所」は、自然発生的に生じたものではなく、藩が、その司法・警察に関する施策の方針に従って、意図的に配置されたものです。街道警備が主な任務の場合、「穢多」の「在所」は、街道から見えないところに設定されました。しかし、「番所」・「関所」・「牢屋」に勤める場合は、それらがある場所へ通勤しなければなりませんでした。近世幕藩体制下で、藩政の都合上新たに作られた「穢多」の「在所」と「勤務地」は少なくありません。
「賤民史観」は、「穢多」の「在所」が、町や村の境界に置かれていることから、「穢多」は住むところを制限され、町や村の周辺部に差別的に追いやられたと解釈します。極端な例では、「穢多」の「在所」は、すべて、環境が悪く住みにくい場所として認識します。

●「穢多」の勤務範囲

「穢多」の勤務範囲は、それぞれに割り当てられた職務の内容によって異なります。「藩内捕亡役」の場合、藩全体が「穢多」の行動範囲となります。「郡内捕亡役」は、代官所管轄地が「穢多」の行動範囲となります。また、「村内捕亡役」の場合、担当にされた「村」の中だけが行動範囲となります。「穢多」は、自分に課せられた範囲(「芝」という)を越えて、その職務を遂行することはできませんでした。逆に、藩の許可さえあれば、藩を越えて、全国を探索することができました。
「賤民史観」は、「穢多」は、一定の地域に強制的に居住させられ、移動の自由がなかったと解釈します。「垣の内」・「土居の内」等の劣悪な環境にとじこめられていたと解釈します。

●「穢多」と「通婚圏」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、結婚に際して、藩全体の「穢多村」の「穢多」と結婚することができました。場合によっては、地理的にかなり離れた藩の「穢多」と結婚する場合もありました。また、「穢多」と「武士」・「百姓」との間の結婚も認められる場合がありました。
「賤民史観」では、「穢多」は、狭い範囲の人々としか結婚できず、近親結婚が多かったと主張します(史料・伝承とは異なります。)。

●「穢多」の基本業務

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の2大取締り対象は、「キリシタン」と「浪人」です。「穢多」は、幕府の寺社奉行支配下の警察組織として、いつでもより上位の警察権力に服従することを要求されました。「穢多」は、「宗教警察」・「公安警察」でもありました。多くの場合、2人1組になってその職務にあたりました。この場合、「穢多」は支配者側で、「キリシタン」・「浪人」は被支配者側になります。特に、「キリシタン」は、近世幕藩体制下の「社会外社会」・「身分外身分」・「人間にあらず」として取り扱われました。
「賤民史観」は、キリシタン弾圧については極力言及を避けます。そして、「穢多」について言及する際、キリシタンの属性である「社会外社会」・「身分外身分」等の表現を用いて説明します。

●「穢多」と「教養」

「穢多」は、藩からの命令に対して、藩が用意した「請書」に同意してサインをしなければなりませんでした。当然、藩の命令書が読めるということであり、またその返事を書くことができたということを意味します。
「賤民史観」は、被差別の状況にあった「穢多」は、読み書きができなかったと認識します。

●「穢多」と「糾弾」・「拷問」

「糾弾」という言葉は、近世・中世・近代初期を通じて、司法・警察である「非常民」の捜査形態でした。中世・近世・近代初期を通じて、犯罪者の「糾弾」には、自白が必要でした。犯罪を立証するには、証拠と犯人の自白が必要でした。証拠があっても、自白がない場合は、有罪が成立しませんでした。十分な証拠があるのに、自白しない場合、自白を促す目的で、「拷問」が用いられました。
「賤民史観」は、「糾弾」・「拷問」にめを閉ざす傾向があります。

●「穢多」と「死刑」

「近世幕藩体制下」で、死刑を決定することができるのは、当時の奉行等の藩士のみであって、「穢多」には、その権利はありませんでした。「穢多」は、命令のまま、死刑に関することがありました。しかし、その件数は、全体としては極めて少なく、ほとんどの「穢多」は、死刑執行人の経験を経ることなく生涯を終えたと思われます。
「賤民史観」は、「穢多」はすべて「死刑」に関与したかのように吹聴します。

●「穢多」と「医者」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、捜査段階において、死因の確認をする必要がありました。死因の確認をする「穢多」は、「穢多医」と呼ばれていたと思われます。また、入牢中に、病気になったり、急死したりする場合がありますが、その場合は、藩の指定した「牢番医」が死因の確認を行いました。
「賤民史観」は、「穢多」の役務と「穢多医」の関係を無視します。

●「穢多」と「遊女」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、司法・警察として相応しい振舞いが求められました。「穢多」は「遊女」を監視する立場で、「遊女」は「穢多」によって監視される立場でした。
「賤民史観」は、「穢多」と「遊女」を同じ「賎民」として同格に扱います。

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この、日本の歴史学に内在する「差別思想」である「賤民史観」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」のほんとうの姿を隠してしまいます。そして、「みじめで、あわれで、気の毒な」人々の姿を「穢多」に投影して、まったく別な姿に解釈してしまいます。この『部落学序説』は、「賤民史観」批判の書でもあります。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が、なぜ、明治政府によって退けられ、「棄民」扱いされ、社会の最下層の民に貶められていったのか、「賤民史観」がどのように形成されていったのか、学歴も資格も持ち合わせていない筆者にとっては、無力さを感じざるを得ない課題ですが、解明の努力を続けていきたいと思います。

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