2005.10.26

「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬

【穢多と明治維新】 1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬


近世幕藩体制下の「穢多」と、現在の「被差別部落民」との間のギャップは、相当大きなものがあります。
それを無視して、学校同和教育や社会同和教育で指導されているような解釈、「穢多」=「被差別部落民」(同和地区住民)説は、にわかに信じることはできません。

娘が小学生のとき、保護者を対象に同和教育がありました。筆者もその話を聞きにいきましたが、そのとき、配布されたのが、山口県教育委員会発行の小学校保護者同和教育資料である『みんなで取りくむために』という小冊子です。

その小冊子には、「同和問題は・・・民主主義社会の実現をめざすすべての国民の課題」であることが力説され、学校においては、「すべての教育活動のなかで同和教育を進めています」といいます。そして、「保護者の皆さんにも・・・学校で進めている同和教育をご理解いただき、学校と家庭が一体になって同和教育の推進を図ることが必要です。」と主張します。

この冊子において、近世幕藩体制下の身分を示す言葉として、「士・農・工・商・さらに低い身分の人々」がでてきます。また「農・工・商」を別様に分類して「農民」(農)・「町人」(工・商)が出てきます。また、「農民」の別称として「百姓」という言葉があります。

文部省認定の中教出版の教科書を引用したあと、山口県教育委員会は、その小冊子の中で、このような注をふっています。「農工商よりさらに低い身分」を「部落の人々」というと。

その小冊子の記述は、近世幕藩体制下の「穢多」身分について、「部落の人々」という概念を用いて説明していきます。

明治4年の太政官布告第61号に触れて、「解放令によって、部落の人々は、いちおう制度上の身分差別から解放されました」と説明しますが、その「部落の人々」については、「以下「同和地区の人々」という」と、またまた注が付けられています。

山口県教育委員会の学校同和教育・社会同和教育では、近世幕藩体制下の「穢多」については「部落の人々」、明治4年の太政官布告以降の「旧穢多」については「同和地区の人々」という概念が採用されているのです。

つまり、明治4年の太政官布告以前は、「部落の人々」、太政官布告以後は、「同和地区の人々」という概念を用いて、学校同和教育を実践しているというのです。

この小冊子の説明は、幾重にも過ちを重ねています。

「部落」という概念は、明治期の「行政用語」として一般的に使用され、「同和地区」は、昭和期の「行政用語」として一般的に使用されるようになった言葉です。

山口県教育委員会は、「部落」・「同和地区」という概念を、アナクロニズム(時代錯誤)的に、その概念が存在しなかった過去の歴史を描写するときに用いているのです。

その結果、児童・生徒・保護者は、「部落」という近代の行政用語、「同和地区」という現代の行政用語で、近世幕藩体制下の「穢多」について、理解し、把握するようになってしまいます。

これは、近現代の発想・解釈を用いて、近世の「穢多」を再解釈、場合によっては、歴史の事実に違う解釈に陥ることがあることを示唆しているのではないでしょうか。

小冊子に書かれている内容は、長州藩の歴史的事実とも大きくことなります。

山口県教育委員会は、「郷土史」・「地方史」の研究成果を捨てて、文部省認定の教科書に記された被差別部落に関する指導を展開していたのです。

33年間・15兆円という、膨大な時間と税金を投入してなされた同和対策事業・同和教育事業が終了したあとの、山口県の学校同和教育・社会同和教育は、惨憺たる現状があります。33年間の同和教育が何もなかったかのごとくに、学校教育が運営されているからです。「人権教育」は名前ばかりで、その実質的な内容は急速に失われつつあります。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」、そのことわざを文字通り実践している教育委員会や教職員の現実は、小・中・高の生徒によい影響を与えていないことは想像に難くありません。

ある被差別部落出身教師は、現在の学校の現実は、同和教育が実践される前の状態に戻った感があると嘆いていました。人権教育の大切さを訴えても、誰も耳を貸さない時代に入ったようです。

ここ数年間、山口県立高校で仕事をする機会がありましたが、休憩時間に、かっての同和教育担当者と話をしました。いずれの高校においても、同和教育は、「強者どもが夢の跡・・・」で、荒涼とした感じがしました。同和教育の中身が急速に忘却されていく中で、あとに残ったのは、「部落とはどの地域のことか」、「その部落にはどのような姓の人が多いか」、「結婚相手として部落出身の人を避けるにはどうしたらいか」・・・、そんな知識だけではないかと、思わされるようなことが度々ありました。

教育委員会だけでなく、被差別部落の人々についても同じことがいえます。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」ということわざを、教育委員会や教職員同様、自分のテーゼにしてしまった運動家も多いのです。

「同和対策事業が終了し、被差別部落に一銭の補助金もでなくなったいま、名前をあげて運動するのは、ただ、差別を招くだけ・・・」と言って、部落解放運動から手を引く人々も多いのです。

ときどき、「学校の教職員も、被差別部落の人々も、いっせいに手を引いていっているのに、あなたは、なぜ取り組みを継続するのですか」と批難を受けることがありますが、『部落学序説』の筆者である私は、いわゆる宗教家に属します。

私だけでなく、宗教家の中には、その人がどの宗教・宗派に属しているかに関係なく、部落差別問題そのものに、「誠実」に取りくんでいる人が相当数います。彼等は、「同和対策事業」・「同和教育事業」という名目で、日本全国、33年間に渡って15兆円の税金がばらまかれたときに、その「恩典」にまったくあずからなかった人々です。多くの宗教家は、手弁当で、部落差別問題と取りくんできました。

差別なき社会を作る・・・。それは、宗教家としての良心に基づく本当の思いに裏打ちされていたと思われるのです。

ですから、「金の切れ目が縁の切れ目・・・」であるとは、考えなかったのです。

少しく話が脱線しましたが、山口県の学校同和教育・社会同和教育で、指導されてきた内容を図式であらわすとこのようになります。

「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」

この等式は、恐ろしい内容を秘めています。「部落の人々」というのは、近世では「穢多」といわれた人々、現代では「同和地区の人々」を指していると思われるのです。

抽象的な表現ではなく、具体的に表現すればこのようになります。

「穢多頭・弾左衞門」=「部落の人々」=「東岡山治」

しかし、この等式が成立しないことは、前節で、具体的にとりあげました。私は、実際の歴史はその等式と反対のことを示していると思うのです。

「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)

東岡の著書・『盥の水を箸で廻せ』をどんなに精読しても、「穢多頭・弾左衞門」の片鱗すら見付けることはできないのです。それどころか、東岡は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」の実像と、まったく逆の存在であることを証言している場合が多いのです。

あえて、共通しているところをあげれば、前節でとりあげた両者の文章の中には、近世幕藩体制下の「穢多」が、司法・警察である「非常民」としての職務の遂行上、キリシタン探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったということについて、何の言及もしていないという点です。

東岡は、近世幕藩体制下の「穢多」が、その職務上、当然のこととして、「天下の大罪」と信じられていたキリシタンに対する探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったという事実に、知ってか知らずしてか、何の言及もしていないということです。

彼は、近世幕藩体制下では、司法・警察である「穢多」は、キリシタンに対して、権力に基づく迫害者・弾圧者である、という事実を伏せて、近代・現代のキリスト教会が、「穢多」の末裔である「部落の人々」に対して差別していると、厳しく追求します。

筆者が、「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)を主張する理由のひとつに、このキリシタン弾圧問題があります。

このキリシタン弾圧問題こそ、近世幕藩体制下最後の弾左衞門・弾直記の明治政府の「御一新」・「維新」にかけた夢を打ち砕いたものに他ならないからです。

「穢多と明治維新」を論じる際に、学校同和教育や社会同和教育、被差別部落の人々やその運動団体の語る言葉と思想によっては、解明することはほとんど不可能です。

さすれば、どのようにしたら、「穢多と明治維新」を論じることができるのでしょうか。

筆者は、「科学」(学問)以外にないと思います。

被差別部落の人々のほとんどが忘却してしまった事実に立って、その歴史的真実を明らかにするためには、「科学」(学問)以外にはあり得ないのです。

しかも、「皇国史観」や「唯物史観」などのイデオロギー的史観の中に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が分かち難く融合されていることを考えると、「賤民史観」から自由になって、本当の歴史の事実にたどりつくためには、どうしたらいいのか、『部落学序説』は、そのような状況から自然に生み出されたいったものです。

次回、「部落学」構築のために筆者が採用した明治維新史の枠組みを検証します。

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部落学と歴史観

【穢多と明治維新】 2.部落学と歴史観


『部落学序説』執筆に際して、筆者が採用した「歴史観」は、小島慶三の「歴史観」です。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』(中公新書)の著者紹介によると、小島は、大正6年(1917)生まれ。東京商科大学卒業後、「企画員、商工省を経て、日銀政策委員、通商産業審議官」を歴任し、退官後は、「日本精工取締役専務」等を歴任、その間、「上智・成蹊・名古屋・一橋各大学」で講師をされたといいます。

筆者が青年時代、一時期、専門商社に勤めたことがありますが、そのときの大阪支店の支店長は一橋大学出身でした。とても聡明な方で、「理論と実践」の両方の面で、優れた知識と才能をお持ちのようでした。私は、いつも尊敬のまなざしをもって、その大阪支店の支店長を見上げていました。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』を読んだとき、彼が、一橋大学の前身である東京商科大学出身と知って、妙に納得した気持ちになりました。

小島の「歴史観」には、世の中から、半ば隔離された大学という研究機関に身を置いて、文献のみを相手に「歴史観」を構築しようとする歴史学者とは、かなり異なる側面がありました。

筆者には、小島の「歴史観」は、「理論」としての「歴史観」に終わらず、激動する社会を生き抜くための「実践」の学としての「歴史観」という側面を含み持っているように思われたからです。

小島は、その書の「世界の革命と明治維新-結び」でこのように語ります。「私は歴史家ではないし、取り立ててある特定の立場に属するものではない」。

民俗学者の柳田国男は、「史心」の大切さを説きました。小島が、「私は歴史家ではない」と言い切ったとしても、小島の「史心」に触れることができた筆者は、小島を、歴史家以上の歴史家であると信じてやまないのです。
小島は、彼の「歴史観」の対極として、「特定の立場」をとりあげますが、小島にとって、「特定の立場」というのは、「マルクス史観」・「階級闘争史観」のことです。

小島は、「明治維新への評価もかっては、マルクス史観の影響を色濃くうけていた。・・・しかしいまでは「梁」はうたかたの霧のように薄れ、現実への接近を主題とする比較史的な視点が主流になっているように見える。」といいます。

小島は、歴史学上の「こうした変化は私にとっては幸いであった」といいます。

小島は、明治維新の研究に際して、「複雑な革命史観」に立って抽象的な歴史学研究に堕することを免れたといいます。小島がとったのは、「幕末維新時代に生きた」「祖父兄弟」という「ミクロ史的な存在」があり、小島の周辺に生きていた具体的人物の歴史を通して、それを突破口にして明治維新の研究に入っていったというのです。

小島の歴史研究法は、皇国史観や唯物史観というイデオロギー的な歴史観に基づくものではなく、具体的に歴史を生き抜いた個人の研究を通して、彼等が生きた歴史の総体を解明するという研究方法でした。

小島は、「長期視点による歴史解釈」を主張します。

小島は、フランスの歴史家ルフェーブルなどの議論を紹介して、「革命は突然起こるのではなくて、政策が前にあって、それが失敗することから革命が生まれてくるという連続性を持っているというものである」といいます。

筆者の理解するところでは、小島は、「革命」を、歴史的なひとつの「点」として解釈するのではなく、いくつかの「点」の集合としての「線」として把握しようとします。

小島は、「明治維新は明治維新であって・・・革命ではない」と主張しようとします。明治維新を「革命」として解釈するのは、「木によって魚を求めるの類」に陥るというのです。

そして、また、「近代化論についても、西洋史観を基にして日本の近代化を説くのも妥当ではない」といいます。それは西洋と日本の間には、決定的相違が存在しているからです。西洋で成立した近代歴史学の手法を、日本の歴史に適用しようとしても無理が生じるというのです。

小島は、相違として、「天皇制」・「日本固有の宗教」・「土地所有問題」・「労働、教育、婦人問題への対応における前近代的な負の遺産」があげられるといいます。

こられの日本固有の歴史上の制約は、単純に、西洋の近代歴史学の手法を適用するたげでは解明できないというのです。

小島にとって、明治維新は「革命」ではないが、明治維新には、「西洋人の理解しがたい革命現象」がともなっているといいます。その「革命現象」には、「王政復古」・「版籍奉還」・「地租改正」・「世俗的な宗教の温存」があげられるといいます。

筆者は、小島は、これらの、「点」の集合である「線」としての、「革命現象」には、「連続」と「非連続」という二つの異なる「点」で構成されていると主張しているように思われるのです。

小島は、最後に、「維新の見方に必要なのは、長期史観に基づく連続=非連続史観だと思う」といいます。

明治維新は、江戸時代の諸制度・思想の「連続の上に立ってはじめて、非連続的な編成を可能にした」というのです。

『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』を執筆することを計画していたときに、そのために一番相応しい「歴史観」は何なのか・・・、さまざまな歴史書を読みながら試行錯誤をしているうちに、私は、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』に遭遇したのです。今から、約10年前のことです。

明治維新を「点」ではなく、「点」の集合としての「線」として理解する(「点」・「線」は筆者の言葉)ということは、筆者にとっては大きな衝撃でした。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』を読めばすぐにわかるのですが、小島が、部落問題に関する言及をしているのは、166頁一箇所のみです。

「明治4年・・・8月に、「穢多」や「非人」の名称も廃止する」

小島が、部落問題についてほとんど言及していないということは、「部落学」にとってマイナスの要因にはなりません。小島は、「特定の立場」(「マルクス史観」・「階級闘争史観」)を否定することで、それらが持っている、歴史学上の差別思想である「賤民史観」に毒されないですんでいるからです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究には、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」に色濃く影響を受けたものが多く、「賤民史観」から離脱した歴史研究に遭遇することは非常に難しい状況がありました。歴史学者・教育者は、「部落史」研究にのめりこめばのめりこむほど、差別思想である「賤民史観」の虜になってしまったのです。

『部落学序説』の筆者である私は、以下の理由で、小島慶三の「歴史観」を「部落学」構築に援用するのです。
(1)実証史的研究であること
(2)研究の前提として、イデオロギー的歴史観を排除していること
(3)歴史を生き抜いた具体的な人物像を通して歴史を観察していていること
(4)明治維新を点ではなく、点の集合である線として把握していること
(5)連続と非連続の視角
(6)賤民史観からフリーであること
(7)「穢多」・「非人」等、歴史用語の扱いが適切であること
(8)民衆史を尊重していること・・・等。

従来の部落解放史研究において、明治4年の太政官布告は、「点」として理解されてきました。しかし、筆者は、小島慶三の上記「歴史観」を援用して、部落史上の「点」を明治維新史の多角的な「線」の中に位置づけて解釈します。(続く) 

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明治維新-大久保独裁体制の確立

【穢多と明治維新】 3.明治維新-大久保独裁体制の確立


小島慶三は、明治維新の「起点」と「終結点」について、次のように記します。

明治維新の「起点」については、「ペリーの来航を契機に外圧が日本の内発的な変革を呼び起こしたというので、維新の起点をそこに置くという考え方がある」といいます。

また明治維新の「終結点」については、「王政復古から天皇制」確立までを視野に入れて、3種類の見解があるといいます。ひとつは、「王政復古から戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県、徴兵制度、学校制度、地租改正という維新の大改革」が、「内乱的な情勢の中」で遂行される「王政復古と近代化」に一応の決着がつく「大久保政権(絶対政権)の確立期」に「終結点」を設定する見方。ふたつめは、太政官制度の廃止と内閣制度の開始を持って明治維新の「終結点」とする見方。最後は、明治23年に、欽定憲法が発布され、第一回の国会が開催されるときを明治維新の「終結点」とする見方。

小島は、明治維新を、「点」の集合としての「線」として、「一番長く見れば、嘉永7年から国会のスタートまでの約40年くらいが維新のスパンになる」といいます。

小島は、近世幕藩体制下の政治システムから明治新政府による近代国家の政治システムへの変遷という観点からは、「慶応4年(明治元年=1868)から明治10年という時期をとることもできる」といいます。この説では、明治維新は、10年の歳月をかけて遂行されたということになります。

小島は、嘉永7年から慶応4年までの期間に、二つ、明治元年から明治6年までの間に、三つ、政変(クーデター)があったといいます。

最初の二つは、文久3年(1863)8月18日の、幕府側(会津・薩摩・土佐・因幡・阿波・備前・米沢藩等)主導による、「攘夷派」に対する「公武合体派」の「巻き返し」(小西四郎『開国と攘夷』)。小島は、「8・18政変」といいます。もうひとつは、幕府打倒を叫ぶ「討幕派」(薩摩、長州、越前、肥前、芸州藩等)主導による、「8・18政変」とは逆の慶応3年(1867)の政変。

明治元年から明治6年までの「政変」は、慶応3年12月の「王政復古」に続く、「版籍奉還」を含む明治新政府樹立という「政変」、二番目の「政変」は、明治4年7月の「廃藩置県」という「政変」、三番目の「政変」は、明治6年の「政変」、このときは、共和制の確立を主張する江藤新平派の敗北と立憲君主制を主張する大久保派の勝利に終わります。明治新政府の基本方針の確定と具体的な施策の方向性はこのとき確定します。

この三つの「政変」に共通しているのは、明治天皇制確立のために、国内において多数の犠牲者を出したということです。「権力」に反対するものに対して、容赦のない弾圧と殺害が実施されたということです。

戊辰戦争に際しては、「官軍」と「佐幕軍」をあわせて16、7万が出兵されたそうですが、その中から両軍あわせて7000人の犠牲者を出したといわれます。「東軍」(小島は「賊軍」とは言わない)の慰霊祭が寛永寺で行われたとき、「東軍だけで7400人」の死者を出していることが報告されたといいます。明治政府は、「官軍」によって不必要に殺害され悲惨な死を遂げた「東軍」の戦死者の数をかなり低く見積もったのでしょう。小島は、戊辰戦争によって、日清戦争の戦死者よりも多い戦死者を出したというのです。「つまり日本は流血の惨なくして革命を行ったという見方は誤りで、むしろ大変な犠牲を払ったことになる」といいます。

「王政復古」を否定し、明治新政府の近代国家樹立を目論んで実施された「廃藩置県」という明治4年の「政変」に際しても、たくさんの国民の血が流されたといいます。明治初年代の不作により、「会津若松、堺、甲府、山形、福島、飛騨、倉敷・・・」といった全国各地で百姓一揆・農民一揆が起こりますが、明治政府は、「穏健な措置をとった」藩知事を、強引な手法で更迭。「新政府は謹慎を命じたり、首にしたりした」といいます。明治新政府の方針に逆らうようなものを重職においていては、政治的変革を「維持できないということで処分した」といわれます。明治政府は、「一揆では1000人までは殺してもいい」と、穏健な知事に代えて、「中央政府」から刺客を送り込んだといわれます。廃藩置県に先立って、明治政府は、、政府の方針に反対する者に対して「大弾圧」を実施、「百数十人が投獄され処断された」といいます。

明治6年の大久保の「政変」についても、流血が繰り返されます。共和制確立を主張する、大久保利通の政敵である江藤新平に対して、大久保は「権力」をむき出しにします。議論を重んじ民意を集約しようとする江藤に対して、大久保は、秘密裏に政敵の追い落としをはかります。大久保は、「広く会議を興し、万機公論に・・・」という五カ条の御誓文の精神を踏みにじり、「暴力」でもって政敵を排除します。「江藤新平は裁判らしい裁判も受けずに、大久保憎しという怨念を残したまま首を斬られた」といいます。江藤は、捕縛後「半月」にもならないうちに処刑されたといいます。「江藤は裁判を承服せず、供述書にも爪印を押さなかった」といいます。大久保は、「自分の朋友、内閣を一緒に作っていた連中を斬罪、しかも士族としては最大の恥辱である除籍をし、その上さらし首」にしたというのです。萩の乱のときには、「前原一誠が天をあおいで」木戸孝允を「呪って死んだ」といいます。明治10年には、西南戦争において、明治新政府は、薩摩人8000人を含む20000人を「逆賊」として殺害したといいます。

大久保の非常なまでの政敵に対する、あるいは自説に従わない官僚、政府の施策に反対する民衆に対する徹底的な排除と抑圧・弾圧は、すさまじいものがあります。大久保の中央集権国家樹立に関する執着は、血塗られた言葉と行為で、多くの民衆を震え上がらせていきます。学者や教育者も、「明日は我が身・・・」と心配して、明治政権に、絶対服従あるいは屈従の姿勢をとっていきます。

そして明治14年の政変。国会開設時期を示す勅令がだされます。

私は、小島慶三の「歴史観」を受容して、「穢多と明治維新」を論じるときの歴史区分を以下のように設定します。

1863年~1867年 明治維新前夜
1868年~1871年 王政復古の時代
1871年~1873年 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択された時代
1873年~1881年 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

それぞれの時代において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」はどのように生きていったのか・・・。史料と伝承、そして、こころある歴史学者・教育者によって累積されてきた民衆史観に立つ論文を用いて、「旧穢多」の足跡を尋ねます。

明治4年の太政官布告は、明治維新の流れの中では、「失意」から「希望」への歩みではなく(部落史の通説はこの立場で主張される)、「希望」から「失意」への歩みであったことを証明していきます。明治14年は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の最後のリストラが実施された年でもあります。

明治15年以降は、『部落学序説』第5章「水平社宣言」批判でとりあげます。   

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近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)

【穢多と明治維新】 4.近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)


前回、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』を参考にして、「穢多」がどのように幕末から明治初期の時代を生き抜いていったのか、歴史的に考察するために、時代区分を設定しました。

文久3年(1863)~慶応4年(1868) 明治維新前夜
明治元年(1868)~明治4年(1871) 王政復古の時代
明治4年(1871)~明治6年(1873) 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択された時代
明治6年(1873)~明治14年(1881) 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

この時代区分は、従来の部落史研究とは直接関係のない一般史の時代区分から抽出したものですが、この時代区分が、「部落学」構築に際して、有意味な時代区分であるかどうか、「部落学」と比較的関連性の深い特別史から検証してみましょう。

その特別史というのは、『山口県警史』です。

この『部落学序説』では、「部落学」を「非常民の学」として設定しました。その際の「非常民」という概念は、「軍事」に関する「非常民」と「司法・警察」に関する「非常民」から構成されています。

「軍事」に関する非常民は、主に「武士」によって構成されていますが、「司法・警察」に関する「非常民」は、「武士」(与力を含む)だけでなく、「同心・目明し・穢多・非人」と「村方役人」によって構成されています。

「非常民」は、軍事・警察から構成されるのですが、この「非常民」は、武器の携帯と使用が認められ、時には、ひとを殺害する権能を与えられていたという点では、「非常民」の対極にある「百姓」とは大きくことなります。「百姓」は、武器の携帯と使用、如何なる意味でもひとを殺害する権能は付与されていませんでした。

筆者は、「穢多」(大域概念)を、「警察」、近世幕藩体制下の「司法」と「警察」の渾然とした状態を指して「司法・警察」である「非常民」として把握してきました。その際、「警察」という概念を用いましたが、実は「警察」という概念は、「明治以前には存在しなかった」(『山口県警史』)といいます。

『山口県警史』は、近世幕藩体制下の司法・警察について記述する際に、この「警察」という言葉を使用しますが、「警察的なもの」として使用するといいます。

近世幕藩体制下においては、「司法と行政の未分化」のため、近代的な意味の「司法」・「警察」という概念は明確ではなく、一般的には、「司法・警察」と表現されます。岩国藩の歴史記述においても、「司法・警察」という表現は、文字通り使用されています。筆者も、「司法」・「警察」ではなく、「司法・警察」として表現してきました。

清浦奎吾著『徳川時代警察沿革誌』(昭和2年内務省発行)によると、近世幕藩体制下の「警察は誠によく行き届いて、その布置・按配の宜しきを得ていることは、ほとんど意外と思われるようなことも往々にある」といいます。
清浦によると、近世幕藩体制下の「司法・警察」は、「行政警察」・「司法警察」・「国事警察」・「安寧警察」を網羅したものであり、その歴史的淵源は、中世に由来するといいます。日本固有の「司法・警察」は、近世幕藩体制下においてほぼ完成の域に達し、「今日の警察事項と名称こそ異なっているが、その実際に至ってはほとんど同じもの」であると評価します。

「風儀・宗教・祭儀・出版・衣服の制度・貧民救助の警察・賭博・売淫・火災・古物商・質屋・贓物取締・遺失物埋蔵物・旅人、奉公人ならびに請人・浮浪の徒・変死の事・芝居・棄児・牛馬車・駕輿・鳥獣狩猟・度量衡・道路・関所・水路・橋梁・堤防・井戸に関した取締り・乞食無宿罪人悪漢の逮捕・・・ほとんど一も備わらぬものはない位」、「警察」機能が整備されていたといいます。

近世幕藩体制下の「警察」は、実際は誰によって運営されていたのでしょう。

それは、当時の「警察」官僚(現在のキャリア)によって運営されていたのではなく、種々雑多な取締りは、「警察」本体、「同心・目明し・穢多・非人」と「村方役人」によって運営されていたのではないかと思います。

長州藩では、「穢多」役(穢多・茶筅・宮番)と「非人」役は、「穢多」役に収斂されていきますが、武士が配置されていない村や浦には、ほとんどの場合、穢多・茶筅・宮番が配置されていました。「司法・警察」機能をもった「藩士」の姿がみえない場合でも、そこには、「司法・警察」という権力の象徴である「十手」を持った穢多・茶筅・宮番が存在していました。多くの百姓にとっては、穢多・茶筅・宮番は、「権力」そのものでなかったのではないでしょうか。

『山口県警史』では、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・茶筅・宮番」のうち、「宮番」だけはその歴史の中に組み込んでいますが、「穢多」と「茶筅」については、言及をさけています。

長州藩においては、本藩領・熊毛宰判の浅江穢多村においては、穢多を対象にした「宮番」養成機関があった可能性があるということについて言及しましたが、長州藩においては、「宮番」=「穢多」でもあるのです。

これも既述のことですが、長州藩においては、「宮番」=「茶筅」でもあるのです。「村内捕亡使」として、司法・警察業務を担当していたのですから、『山口県警史』が、そのうち「宮番」だけをとりあげるのは、不徹底との感を否めません。

『山口県警史』が、「宮番」を近世幕藩体制下の司法・警察としてその歴史に組み込んでも、「宮番」の上司とも言える「穢多」・「茶筅」についてほとんど、その歴史の中に位置付けすることができないのは、「穢多」・「茶筅」が、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって、歴史の事実からほど遠いイメージ、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民の印象を強く持たされたためではないかと思います。『山口県警史』は、「穢多」・「茶筅」という概念が「被差別民」という外郭で覆われてしまったため、歴史上の正しい位置に位置づけることができないでいるのだろうと推測されます。

『山口県警史』によって、日本の中世・近世・近代、とくに、幕末から明治初期までの、司法・警察である「非常民」の時代的発展・変節を考察するとき、その時代区分は、小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』で提示される時代区分と一致していることを確認することができます。

文久3年(1863)~慶応4年(1868) 明治維新前夜

この時代の司法・警察である「非常民」は、その職務を忠実に果たしていたと思われます。司法・警察のキャリアではなく、警察本体である「穢多」も、司法・警察の重要な担い手として、その職務に従事していたと思われます。ただ、黒船以後、この「穢多」の上にも、新しい時代の波が押し寄せてきます。しかし、多くの「穢多」は、保守的な体質から、その時代の波に乗ることが難しかったようです。岡山藩の渋染一揆は時代のひとつの亀裂の中で生じた、不幸なできごとでした。また、長州征伐・四境戦争の際、幕府側においても、長州藩の側においても、司法・警察である「穢多」(穢多・茶筅・宮番)の担った役割は大きなものがありました。「穢多」や「茶筅」の一部が、長州藩の正規軍として参戦したことのみ強調されて、それぞれの「軍隊」が出兵したあとの藩の治安維持にあったのが、幕府側・長州藩側を問わず、「穢多」であったということは、ほとんど不問に付されています。この時期の「穢多」について、その実態を解明することが、明治4年の太政官布告の真意を理解するのに役立ちます。

明治元年(1868)~明治4年(1871) 王政復古の時代

明治維新によって、「王政復古」が図られますが、そのとき、司法・警察の分野においても、王政復古の影響がでてきます。天皇制側は、日本全国のすべての村落に「番人」(大域概念としての「穢多」)を置いたのは天皇であると宣言します。その司法・警察によって、日本の社会の安定が守られてきたのであると。この時代、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」は、明治新政府の司法・警察である「非常民」としてそのまま新体制の中に組み込まれていきます。この時期、明治政府は、四民平等の理念のもと、国民皆兵制を導入して、近世幕藩体制下「常民」であり続けた「百姓」を、軍事的な「非常民」として再編成しようとします。

明治4年(1871)~明治6年(1873) 王政復古を廃止、政治システムの近代化が選択され時代

明治政府は、諸外国と締結していた日本の国辱である「不平等条約」改定の最初の時期を迎えて、諸外国との交渉を急ぎます。特に、「治外法権」撤廃は、明治政府の悲願でした。一日も早く、この国辱をそそぎたいと思った明治政府は、諸外国と交渉に入りますが、日本の司法・警察が抱えていた体質と問題の故に諸外国が納得しません。むしろ、日本に、外交的圧力をかけて、日本の警察の近代化を要求されます。問題とは、拷問制度とキリシタン弾圧をめぐる宗教警察制度のことです。明治政府は、最初の「治外法権」撤廃交渉時期に焦って、日本の政治システムの急激な変革を実施します。それが、廃藩置県の形になってあらわれます。そのとき、日本の旧司法・警察システムも解体を余儀なくされるのです。それが、明治4年の太政官布告になってあらわれるのです。民衆は、「穢多」が「非常民」であることを更迭されたことに対して反対一揆を起こします。「穢多」身分の廃止は、宗教警察の解体でもあったのです。この時期、日本は、警察の近代化を図って、それまでの「軍政警察」から「司法警察」へ転換をはかります。それを強力に遂行したのが、司法省の重職にあった江藤新平でした。江藤は、長州派閥が引き起こした政治的スキャンダルに対して法治主義を徹底しようとします。

明治6年(1873)~明治14年(1881) 政敵・民衆の惨殺による中央集権国家樹立の時代

しかし、明治6年の政変によって、長州派閥が引き起こした政治的スキャンダルは、大久保の専制的権力行使によって闇から闇へ葬られていきます。江藤新平自身も、大久保の権力の毒牙にかかって、裁判らしい裁判をかけられることもなく暗殺にひとしい状態で抹殺されていきます。江藤新平が構築してきた、法治主義を要とする「司法警察」は否定され、近代警察は、「国家警察」(時の権力に服従する)として、権力の「走狗」に変質していきます。明治14年の政変まで、近代警察は、権力の直接の執行機関として、民衆の前に、その威力を行使するのです。初代警視総監になった川路利良は、警察の「近代化」を図っただけでなく、フランスから「密偵組織」を導入しました。その当時の公安警察といってもよいでしょう。その「密偵組織」を使って、さまざまな情報を収集、それを基にして、政府反対一揆や内乱を鎮圧していったのです。

明治4年8月太政官布告によって、「穢多」の身分と職業から自由になった「旧穢多」は、明治4年(1871)~明治6年(1873)と明治6年(1873)~明治14年(1881)の二つの時代をどのように生き抜いていったのでしょうか。キリシタン弾圧にかかわる「宗教警察解体」として社会的に排除されていった、スケープゴートとされた「旧穢多」と、近世幕藩体制の司法・警察である「非常民」として、近代警察に組みこまれていった「旧穢多」とが存在するのです。そして、明治13年に発行された、司法省蔵版『全国民事慣例類集』に見られるような、「官の警察の手先」となった「旧穢多」、「警察探偵」となった「旧穢多」も存在するのです。明治4年の太政官布告後の「旧穢多」と明治新政府の「警察」機関との間には、複雑な関係が構築されていくのです。筆者は、それが、近世司法・警察である「非常民」としての「旧穢多」の「常民」化を大きくさまだげ、そのことが今日的な部落差別に発展していったと考えています。

この時代まで、「部落」という言葉は使用されていませんでした。「部落」という概念が行政用語・学術用語として使用されるようになったのは、明治20年以降のことです。それは、明治14年の政変が大きく関係を持っていると筆者は考えます。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』の一般史から見た時代区分、『山口県警史』という特別史から見た時代区分、その両者とも、同じ構造を持っていると言えます。

筆者は、「明治4年の太政官布告」が持っている意味を、次の4つの時代区分に基づいて解明していきたいと思います。

文久3年(1863)~慶応4年(1868)
明治元年(1868)~明治4年(1871)
明治4年(1871)~明治6年(1873)
明治6年(1873)~明治14年(1881)  

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