2005.10.25

部落学序説(別稿)

『部落学序説』第4章(旧)

部落解放同盟山口県連の某支部から、「差別的」である(被差別部落の地名・人名を隠しすぎることで運動を否定する論法に陥っている)との指摘を受け削除した旧第4章の文書群です。いろいろ検討した結果、部落解放同盟の筆者に対する批判は的をえたものではなく批判の名に値しないとの立場から再掲することにしました。インターネット上には、部落差別に関する差別表現・差別表記が渦巻いています。それに対してはほとんど放置され、部落差別完全解消を訴える、いたってまじめな筆者の論文の差別性を指摘してくること自体、問題があると思われます。すでに、新第4章を執筆していますので、旧第4章を部落学序説(別稿)として再掲することにしました。筆者・吉田向学

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近世から近代へ

【近世から近代へ】

「近代化のシステムと歴史的・伝統的システムの狭間でうまれるさまざまな問題があるが、そのなかでも最大のものが差別である」。

阿部謹也著『学問と「世間」』の「第4章日本の学問の課題」の一節です。

bandai02 この『部落学序説』の第1章~第3章において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」について論じてきました。「非常民」としての「穢多」の姿は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が描く「穢多」の姿とは、まったく異なる姿であることを、種々雑多な史料を用いて証明してきました。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、決して差別された存在ではありませんでした。むしろ、司法・警察の「本体」としての、様々な「役務」に従事していました。彼等は、社会から排除・疎外された存在ではなく、社会の内にあって、社会の法的・政治的安定を作り出す「役務」に従事していました。

「穢多」は、「権力」というより「法」に使える「役人」でした。彼等は、身分の貴賤にかかわらず、幕府や藩の定めた「法」に逸脱する人々を探索・捕亡・糾弾するのを主な職務としていました。時として、死刑にも関与しました。重罪を犯した人の死刑を執行する場合もありました。今日の死刑執行人と同じ仕事でした。司法・警察である「穢多」は、自らこころの傷を負いつつ、社会の法的安定のために死刑執行に携わりました。

中には、例外的に、「法」を守る「穢多」自らが「法」に違背するということが発生し、社会的に批判を受けたことは、今日の警察官の不祥事事件に比することができます。例外的な事例を捕らえて、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」全体が、社会からひんしゅくを買ったり、疎外・排除されていたというのは多くの歴史資料に違います。

「穢多」は、「非常の民」として、職務に対する責任と誇りをもって、江戸時代三百年間に渡って、営々とその「役務」に携わってきたのです。

ところが、明治になると、「穢多」は、明治政府が直面した国家的「屈辱」、治外法権の撤廃のために、司法・警察の近代化を迫られ、過ぎ行く時代の司法・警察である「穢多」は解体されてしまいます。阿部のいう「歴史的・伝統的システム」を生き抜いていた「穢多」は、「近代化のシステム」の中で、切り捨てられ、排除されていくのです。

『部落学序説』第4章は、「歴史的・伝統的システム」の解体と「近代化システム」の構築の間で、いったい何が起こったのか、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が、「新平民」として差別されるようになった原因と経緯の解明を目指して執筆されます。

この『部落学序説』第4章においても、第1章~3章で論じた、部落学研究法は継承されます。部落学は、「常民」の学としての民俗学になぞらえて、「非常民」の学としての部落学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学を主要科目として、また、民俗学・政治学・法学等を補助科目として、学際的研究としておこなわれます。
学際的研究が可能なのかどうか・・・。

阿部によると、「わが国の学問は大きな危機を迎えている」というのです。それは、人文社会科学の分野であっても、「学生は必ずしも自分がやりたいと思うテーマを選ぶことができない」そうです。「学生が自らテーマを設定しても教師がそれを認めないことも珍しくない」というのです。

古島敏雄著『地方史研究法』に、「昭和10年前後までに大学の史学科を卒業した人たちから、その人たちの学校では明治以降は卒業論文のテーマとすることを許されなかったという想い出がよく聞かれる。」とありましたが、戦後60年たった今も、同じようなことが行われているとしたら、驚きです。

阿部は、また、「学際的という言葉があるが、日常的にはほとんど機能していない」といいます。
阿部は、彼が出た一橋大学だけは、学生が自由にテーマを決めることができ、学際的研究をする環境もととのっているといいます。

もし、筆者が、若くして、『部落学序説』を本格的に研究しようと思ったら、一橋大学しかふさわしい大学はないということでしょうか・・・。昭和41年3月岡山県立児島高校を最下位で卒業した筆者には、まったく無縁のような感じがします。

しかし、『学問と「世間」』の著者・阿部謹也は、「生涯学習のあり方」についてこのように語ります。
「生涯学習というと、現在の形からすぐに大学における学問の余滴の公開と考える向きがある。私が考えているのは、現在の大学における学問をそのままにしておいて、その余滴としての公開講座ではない。そうではなくて、<生活世界>の中から学問を再構成していく手段の一つとしての生涯学習なのである。いわば専門家集団の組織としての大学を素人に開放し、生活者としての関心に立って問題が発見されていき、専門家と共にその解決に向かっての努力が続けられるという構図である。生活現場からの発想に立った学問の再構築なのである」。

阿部は、「そのような学問として、どのような形が考えられるのだろうか・・・」といくつか例をあげているが、「生涯学習の中での勉学は原則として現場主義となる」といいます。そして、「大学の教授たちが研究室で沈思黙考して、ある種の理論体系を考え出し、それを現実の出来事に当てはめていくというかっての学問のあり方は全く捨てられる。」といいます。

学歴も資格もなく、無学でただの人でしかない筆者にとっては、「夢なら覚めてほしくない」阿部謹也の教育理念です。

そう言えば、山口に赴任してしばらくして、山口大学で日本社会学会があったとき、同時に開催された日本解放社会学会の飲み会に参加したことがありました。テーブルの向こう側には、上野千鶴子も座っていました。そのとき、酒の席の冗談で、日本解放社会学会の「準会員」に推薦されたことがあります。そのとき確か、酒の力も手伝って、「学歴を持たないで学歴差別を研究している・・・」と豪語した記憶があります。

この文章を書きながら、つい、なつかしくなって、『解放社会学研究1』をひもといてみていたら、びっくり、そこには、学会員として野口道彦の名前がありました。

野口道彦は、『部落問題のパラダイム転換』の著者です。私は、『部落学序説』で、「最悪の差別者」・「彼の提案は、差別解消ではなく差別拡大につながる」と、名指しで総合的な批判を予定しています。筆者は、100%野口道彦の差別性を証明できると確信しています。

昨年の夏、周南市(徳山市立図書館のあるところ)で、「公開歴史講演会」がありました。講師は、阿部謹也で、演題は、「日本人の歴史意識」でした。講演の最初で、阿部は、「この講演の聴衆は、歴史の専門家だけでなく、一般の人も含んでいると聞いて、喜んででかけてきました・・・」というようなことを言っておられました。私は、その会場の末席に座って、その講演を聞いておりましたが、「一般の人」で「無学歴」で「ただの人」は、私だけのようでした。あとは、山口県立高校の社会科の教師ばかり・・・。

阿部謹也の話は、私がはじめて聴いた大学の教授の話です。

阿部は、『学問と「世間」』において、「わが国の被差別部落の成立に関しては、さまざまな見解がだされている。歴史的な経過についてはそれらの見解に譲ることにして、ここでは現在でも差別が残存し、いまだに大きな問題になっていることに注目したい・・・私は現在でも差別が残存している理由の一つに「世間」意識があると考えている。」といいます。

「近代化のシステム」と「歴史的・伝統的システム」の狭間で生まれた部落差別・・・、その学際的研究としての「部落学」の可能性は多分にありそうです。 
 

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近代歴史学の呪縛

【弾直記と明治維新】 1.近代歴史学の呪縛

『部落学序説』の方法は、繰り返し述べてきましたが、「歴史学」に還元することができる類のものではありません。

『部落学』は、「非常民」の学として、「常民」の学である「民俗学」の研究方法にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学を基礎科目とし、また、民俗学・政治学・法学・人類文化学・国際関係学等を補助科目として遂行される、学際的研究です。

それらの個別科学研究に共通している要素は、「実証」に関する学で、文献資料だけでなく、伝承資料をも研究の対象にします。

ただ、『部落学』は、歴史学を主要科目とするため、当然のことながら、歴史学の基本的な研究方法を尊重せざるをえません。

論文《中国の歴史思想》(『講座哲学大系第4巻歴史理論と歴史哲学』)の著者・宮崎市定は、「歴史を如何に理解すべきかという問題は、歴史学の専門家と非専門家とではその受け取り方がちがう。というのは一般の人にとっては歴史的事実は始めからそこにあった自明なものとしてそれをどう理解するかだけが問題なのであるが、歴史の専門家にとってはそうはいかない。歴史学者にあっては先ず自分で史料から歴史事実を汲み取り、造りあげることからとりかからねばならぬのである。」といいます。

学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者にとっては、「歴史学とは何か」という歴史哲学の根本的な問いについて、明快な説明を施すことはできません。よって、宮崎市定のような、民衆に歴史学が何であるのかを明快に説明してくれる歴史学者の方法を踏襲せざるをえません。

宮崎は、歴史学における問題として、「史料の問題」・「理解の問題」・「評価の問題」・「表現の問題」をとりあげ、歴史学の初心者が直面する問題について、単純明解に説明してくれます。ある種の歴史学者が、その研究方法を「象牙の塔」の中に閉じ込め、民衆からそれを隠してしまうのと違って、宮崎のような学者は、これから歴史を学ぼうとする、あるいは研究しようとする人々にとって偉大な教育者の感があります。

宮崎は、「尤もここにいう専門家とは何も大学の史学科の先生だけを指すのではない。常に史料まで遡る用意のある研究家は立派な専門家である。もし、その用意がなければ、たといどんなに博学の物知りであっても、それは決して歴史の専門家とはいえない。」といいます。

『部落学』においても、それが、実証の学であるかぎり、歴史資料の取扱いにおいては、歴史学の専門家と同じ程度の、それを凌駕してなくも肉薄することができる程度の「歴史学」に関する理解が必要になります。

宮崎によると、「唐の劉知幾は歴史家に必要な三つの資格を数えて、学・識・才であるとした。章学誠の解釈するところによれば、学というのは博学のことで広く史料に通じている薀蓄であり、識とは見識のことで深い理解と正確な評価を下すことのできる洞察力であり、才とは文才のことで言わんとするところを十分に叙述することのできる表現力のことだという。」といいます。

学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者にとっては、宮崎が指摘する「学」・「識」・「才」のいずれの点においても乏しく、到底、「研究者」の認識を満足させるものではないでしょう。

『部落学序説』において、歴史学を基礎科目・主要科目のひとつに数え、実証史的研究に重きを置くからといって、筆者は、皇国史観や唯物史観を否定したあとに、実証史学を「神棚」にまつりあげてそれに拝跪するわけではありません。

近代歴史学の創始者、レオポルド・フォン・ランケは、「史料をして語らしめる」と語りましたが、歴史資料のみに重点を置きすぎると、歴史の真実にたどりつくことができない場合も多々あります。

《文化人類学と歴史学》の著者・横田健一によると、ランケの実証史学は「徹底した文献史料の博捜と厳密な考証の上に立って歴史記述は構成されるようになり、それ以前の文学的史学は払拭された。しかし、その記述をみると、あくまで政治史、外交史、軍事史ないし政治的宗教史で、主役は国王、貴族、政治家、外交官、軍人、法王その他上層僧侶であり、庶民は問題とならず、いわば支配者の歴史であった」という批判を免れなかったといいます。

この『部落学序説』は、その視座・視角・視点を、支配者ではなく非支配者、武士ではなく百姓に、官ではなく民に置くということは、繰り返しのべてきましたが、先祖伝来、由緒正しき百姓の末裔でしかない筆者にとって、歴史を見る視座・視角・視点は、当然、支配者・武士・非常民の立場ではなく、まったく反対の側、非支配者・百姓・常民の立場ということになります。

鹿野政直著『日本近代化の思想』(講談社学術文庫)・『近代日本の民間学』(岩波新書)の影響も少なからぬものがあります。鹿野は、「大方の歴史書は既成の事実についてのみかたり、可能性については口をとざすをつねとする」と指摘します。

『歴史認識』(岩波・日本近代思想大系)の解説者のひとり・宮地正人は、その論文《幕末・明治前期における歴史認識の構造》の中で、「久米事件と近代日本史学の挫折」をとりあげています。

明治初期の歴史学者・実証史学者である久米邦武に対する批判は、熾烈なものがあります。「国体史観」を支持する歴史学者や教育者は、久米論文を批判・攻撃しますが、久米に対する批判を、宮地は、次のように総括します。

「その第一は、国家の大事・・・に関することは、「臣民たる者の当に之を口にし之を筆にすべからざる」ことなのであり、歴史学者もその例外ではない。」

「第二は、歴史学者の本文は、国体尊厳の要素を発揚して臣民報国の心を厚からしめ、忠臣孝子の偉業を証明して奉上事君の道を正すことである。」

「第四は、史料考証と実証においては、「化令事真なるも、苟も君国に害ありて利なきものは」講究すべきではない。」

「第五は、歴史教育の目的は、国家の欲する将来の国民を鋳造するところにあり、歴史教科書は鋳造するものの「模型」なのである。」

明治初期の、久米実証史学に投げかけられた批難・中傷は、その後、長く日本の歴史学に影響を与えたと考えています。戦前だけでなく、戦後においても・・・。

明治24年(1891)「緊急命令第46号」が公布され、「国家の大事」に抵触する歴史研究に対する「検閲」という規制・統制が加えられると同時に、法的抑圧手段としての「罰則」が設けられたのです。

明治初期の歴史学論争の中で、「旧穢多」の問題は、「緊急命令第46号」に抵触しない範囲で、研究内容が限定されてしまいます。その呪縛は、戦後60年を経過した今日にあっても、歴史学者および歴史教育者の暗黙の前提として、意識せざるもその則を越えない状況がみられると筆者は考えています。

「歴史解釈」に瑕疵があることが前提とされるからこそ、学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な人でしかない筆者も、『部落学序説』執筆に際しては、歴史資料を自分の目で確かめ自分の視座・視角・視点で解釈せざるを得ないのです。

ゲーテのいうバッタのように、天に向かって飛び立ちたいと願いながら、またぞろ、泥沼の中に鼻を突っ込んでしまうような状態はさけたいと思います。通俗的実証主義からも離脱して、非常民の学としての部落学という学際的研究を続けていきたいと思います。

『部落学序説』の主題を、近世から近現代へ移すにあたって、筆者は、自由な発想から、「弾直記と東岡山治」の両者の比較研究をとりあげます。部落差別問題において、近世から近現代へ移行が如何にねじれに満ちたものであるかを明らかにします。

弾直記については説明の必要はないと思いますが、東岡山治は、『盥の水を箸で廻せ』(中川書店)の著者です。その著書によると、東岡山治は、「被差別部落の生まれで、幼いときからたくさんの差別をうけてきた」といいます。「日本の差別社会をこわすことが私の使命」とする東岡は、33年間15兆円の同和対策事業・同和教育事業が終了したあとも、部落解放運動から撤退することなく、「誇りと自信」を持って、その取り組みを続けているお方のようです。インターネットで見る限り、一般の学者・教育者と同列に置くことはできないかとおもわれましたので、このブログで批判することについて、電話で、東岡山治本人の了解を得ました。

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2005.10.26

弾直記と明治維新-無念の死

【弾直記と明治維新】 2.弾直記と明治維新-無念の死


『部落学序説』は、実証の学であるから、その基礎科目・補助科目に文学を含んでいません。

しかし、それは、文学を軽視するという意味ではありません。島崎藤村は、『破戒』や『夜明け前』を執筆するときに、個人を描くことで、個人が生きた歴史そのものを描く手法、自然主義文学の手法を用いています。

筆者は、「弾直記」や「東岡山治」という個人を描くことで、「弾直記」が生きた近世から近代への「回天」・「御一新」の時代、「東岡山治」が生きた現代という時代の全体像を描くことができるのではないかと淡い期待を抱いていますが、それは、島崎藤村の文学手法から受けた影響によります。

すべてのひとは、生まれそして死んでいきます。旧約聖書の『創世記』をひもとくと、そこには「・・・を生んで、生きて、死んだ」という定型化された記述があります。ひとは、すべて、生まれて死んでいきます。それぞれのひとが、死ぬとき、どのようにして死んだのか、筆者も大いに関心を持つところです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」・「穢多」の総帥として、名前を馳せたのは、歴代の弾左衞門です。幕末最後の弾左衞門を襲名した、摂津の国住吉村の寺田利左衞門の長男として生まれた寺田小太郎は、15歳のとき、浅草弾左衞門の養子となります。

第二次長州征伐のときの功績を認められ、その「家職」の制限が緩和されます。浅草弾左衞門は、「穢多」の「家職」の他に、「農・工・商」の「家職」をも営むことが認められるのです。そして、その名前も、「弾左衞門」から「弾内記」とあらためられます。最後の13代弾左衞門は、「弾内記」として、近世から近代への時代の変動期を駆け抜けていきます。

第二次長州征伐のときは、幕府側にたって奮戦し、その功績を認められた弾左衞門ですが、彼は、新しく成立した明治政府から「市制裁判所付属を命じられ、旧幕時代の権限をそのまま認められる」(沖浦和光)といわれています。「弾内記」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の総帥としての身分(役務と家職)をそのまま、明治にはいってからも継承することを許されるのです。しかし、「弾内記」は、明治4年の太政官布告によって、その身分(役務と家職)を失ってしまいます。

「弾内記」は、明治3年12月に、内記あらため直樹と改名したといわれます。その年、「弾直樹」は、「造兵司から皮革・軍靴製造等の命を受け」(同)、近世から近代への時代の変革時、その流れにうまく身を棹させたかのように見えます。

その弾直樹は、どのように、死んでいったのか・・・。

筆者は、弾左衞門については、まだ未研究のテーマなので、十分な史料や資料を収集していません。手持ちの資料に基づいて、あえて、その死について言及すると、次のような、歴史学者による、異なる見解に遭遇します。

「喜びながら逝去した・・・」(秋定嘉和『部落解放史 中巻』)
「失意のうちに死亡した・・・」(沖浦和光 『水平人の世に光あれ』)

今日の歴史学者、著名な部落史研究者は、弾直樹の死について、相反する歴史解釈をしているのです。最後の弾左衞門は、「喜びながら逝去した・・・」のか、それとも、「失意のうちに逝去した・・・」のか、筆者の手元には、それを確かめ、十分な論評をするための資料や論文がありません。

この『部落学序説』をブログ上で書きはじめるときに、執筆途中で、新たな問題に遭遇しても、それはのちの課題として、とりあえず、手持ちの史料や資料で書きあげるという方針を立てていましたので、弾直樹の死の評価については、「浅学」であるとの批判を甘受することとして、筆者なりの見解をのべたいと思います。

部落解放同盟の関係者の方から、事典には、「弾内記」と「弾直樹」は載っているが、「弾直記」は見当たらない、なにかの間違いではないか、という指摘をうけました。残念ながら、筆者の手持ちの資料では、間違いであるかどうか、確認することはできません。13代弾左衞門の幕末期の名前は「弾内記」、明治に入ってからの名前は「弾直樹」、その、近世と近代の名前の両方をとって、「弾直記」と呼んでも不思議ではありません。むしろ、この論文のイメージにぴったりします。

実は、「弾直記」という名前は、沖浦和光が編集した部落史に関する資料集『水平人の世に光あれ』(社会評論社)に出てきます。幕末最後の弾左衞門・「弾内記」が、東京府宛に提出した「賤称除去願」(沖浦和光の解釈)の表題が、「弾直記願」なのです。

「弾左衞門」(役職名)、「弾内記」(役職名)、「弾直記」(役職名の個人名化)、「弾直樹」(個人名)、1868年から1870年の2、3年の間に、目まぐるしく改名されていった13代弾左衞門の姿を想像すると、そこには、「零落」するものの姿があります。

東京府が明治政府に出した上申書に、「今皇国普天の下において、穢多非人の称号は不都合とも存ぜられ、かたがた専らご体裁に関係候筋につき・・・」、「醜名除去差し許されたき」旨記されています。

筆者は、東京府のいう、「穢多非人の称号は不都合」・「ご体裁に関係候筋」は、明治政府が直面した外交上の問題と深いつながりがあると解釈しています。「体裁」というのは、誰を慮ってのことなのかといいますと、欧米諸国のことではないかと考えます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」という役名をそのまま用いることは、欧米諸国から誤解を受け、その結果、日本国家、あるいは、明治新政府の崩壊につながる要因ともなっていたため、東京府は明治政府に速やかにその役名の改正を求めたのでしょう。

『弾直記願』を分析することで、弾直記が、近世から近代へ、どのように時代の波を乗り越えていこうとしたのか、その心中を察することができると思います。

弾直記の上申書は、「不肖賤劣の身を顧みず、尊厳を涜冒したてまつるの儀、恐懼至極に御座候」ではじまります。

弾直記がいう「不肖賤劣の身」という表現は、弾直記の謙遜からくる、単なる敬語表現であると考えられます。弾左衞門みずから、「不肖賤劣の身」と言っているのだから、弾左衞門をはじめとする穢多は、その本質において「賤・劣」であったとする部落史研究者や教育者に遭遇しますが、それは、まったくの曲解といえます。「謙譲表現」を使っているから、その人の本質は「賤・劣」であると断定するのは、少なくとも学識や良識のあるひとに相応しくありません。

弾直記は、弾左衞門としてのルーツを尋ねて、「鎌倉右大将」(源頼朝)による、司法・警察である「非常民」としての「御取建(おとりたて)」を取り上げ、父祖から受け継いだ伝承を披露します。「関八州長吏・・・支配」の委任を受け、「諸皮革」(家職)と「刑獄取扱御用」(役務)に従事してきたといいます。幕末期にあっては、弾左衞門支配下にあるのは、「長吏・非人・猿引・乞胸・ササラ」の「五職」のみで、「五職」でもって、司法・警察である「非常民」としての職務に従事してきたといいます。

しかし、「御大政復古」に際しては、「鄙賤るぎ」(身分がいやしくて虫けらのようなものという意味)でしかない弾左衞門に対しても、「至仁の聖恩」を示され、「前職旧の如く取締向御委任仰せ付けられ候」といいます。

近世幕藩体制下の司法・警察として「非常民」の職務を担ってきた「穢多」に対しては、「天皇」は、その功績を評価して、王政復古後の新政府においても、同じ「非常民」としての職務を与えられたということに対して、弾左衞門は、「厚生の天恩と偏に有り難く」感じて、どのようにしたら、この「天恩」に報いることができるのか、「日夜痛心」したというのです。

弾左衞門は、司法・警察である「非常民」としての「五職の道を購究し、一廉の御奉公」に励みたいというのです。

そして、幕藩体制から明治新体制に移行した今、「諸国に散在」する「穢多」を、新政府が指向している中央集権国家の司法・警察に相応しく、全国組織として改変し、その「規則」も全国共通のものにしたいと、弾左衞門の描く「青写真」を述べるのです。

弾左衞門は、「長吏・非人」は、近世幕藩体制下においては、「獄屋番御用」・「刑者取扱」・「諸獣物皮革類」に従事してきたといいます。しかし、弾左衞門は、「その根底を研究つかまつり候えば、刑法囚獄に携わり候御用向は軽からざる事」であるといいます。弾左衞門の言葉には、「穢多」にとって、司法・警察としての「役務」は、その「家職」である皮革と比べて、より重要なことがらであるという響きがあります。

しかし、弾左衞門は、皮革は、軍需品としての「国家の器用」に資するものであり、また、同時に、司法・警察である「非常民」が、その職務を遂行するための経済的基盤を構成するものであり、明治新政府においても、「穢多」の「家職」として、皮革に関する「職業」を認めてほしいと訴えるのです。

弾左衞門は、「さすれば右長吏どもの内にて篤実勉励の者、人撰し除名相願い、右を目的に責励致させ、自然遜謙・自責相互に誡め合い、諸御用向大切に相勤めさせ・・・」るというのです。

そのために、弾左衞門は、「御国内一般に右醜名御除去成し下し置かせられ候よう、地に伏して懇願たてまつり候」と綴り、明治政府に金五百両の税金を自主的に納付するむね約束して、「誠恐誠惶、頓首百拝」で「賤称除去願」を結びます。

この13代弾左衞門・弾直記の文章から、何を知ることができるのでしょう。

『部落学序説』において、これまで究明してきたことをあわせ考えると、次のように言えるのではないかと思います。

①明治政府は、初期の段階で、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」を、明治新政府下の司法・警察として採用する意志を持っていた。
②弾左衞門は、中世・近世という時代の波を越えて、司法・警察である「非常民」として、自信と誇りを持って生きてきた。近世から近代への移行期においても、「非常民」として、その職務に仕える意志を持っていた。
③弾左衞門は、「家職」(皮革)よりも、「役務」(司法・警察としての非常民の職務)に、「穢多」の本分があると思っていた。
④弾左衞門は、「穢多」の「役務」・「家職」は、「常民」の目かみれば「賤業」と映るかもしれないが、「穢多」は、そのことを誇りに思いこそすれ、手放す意志は持っていない。
⑤弾左衞門は、明治新政府の下での、新しい時代の、司法・警察である「非常民」であるために、「穢多」という「醜名」が除去され、別な名前が付与されることを望んでいた。
⑥弾左衞門は、「昨日、非常民であった」、「今日も非常民である」、「明日も非常民であり続けたい」・・・、という、明確なアイデンティティを持っていた。

『部落学序説』第1章~3章で論じてきた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の姿と、弾直記の「賤称除去願」に示される「穢多」の姿は、ほとんど一致していると思われます。

しかし、時代の潮流の中で、あがらうすべもなく、弾直記の描いた、近代の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の末裔としての姿は、単なる青写真で終ってしまいます。明治政府が直面した外交上の深刻な問題の故に、弾直記の夢は露と消えてしまったのです。

弾直記は、「喜びながら逝去した・・・」のか、「失意のうちに死亡した・・・」のか、筆者は、沖浦和光の説がより真実に近いのではないかと思います。沖浦はこのようにいいます。「1871年(明治4)8月、賤民制度の廃止によってこれまでの関八州の穢多頭としての支配権をすべて解除された。軍靴を中心に皮革加工等の事業を経営していたが、大資本の進出によって大きな打撃を受けて倒産、失意のうちに死亡した」。過ぎし歴史のかなたから、弾左衞門・弾直記の無念さが聞こえてくるようです。
 

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忘れられた弾直記

【弾直記と明治維新】 3.忘れられた弾直記


明治初期に書かれた『賤称除去願』の著者・弾直記は、関八州の「穢多」頭という「賤称」こそ嫌いましたが、「穢多」身分として、「穢多」の「役務」と「家職」を忌避したわけではありませんでした。

むしろ、「穢多」の「役務」と「家職」により徹底して奉職することで、明治新政府に対しても忠節を全うしようとします。

そういう意味では、弾直記は、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティの持ち主でした。この『部落学序説』で、「穢多」を「衛手」(エタと読む・司法・警察官のこと)、そして、より一般的概念として「非常民」として把握してきたところに従いますと、弾直記は、「昨日、衛手であった」、「今日、衛手である」、「明日も衛手であり続ける」・・・、言葉を変えれば、時代を越えて、司法・警察の職務に従事してきた弾直記の属する「穢多」は、「昨日、非常民であった」、「今日、非常民である」、「明日も非常民であり続ける」という、強烈な、過去・現在・未来に渡って、自己とその背後にある父祖たちの「同一性」の主張の持ち主であると言えます。

今日の被差別部落の人々は、弾直記と同じようなアイデンティティを所有することができるのでしょうか。「昨日、部落民であった」、「今日、部落民である」、「明日も部落民であり続ける」・・・、過去・現在・未来に渡って、「部落民」であり続けるというようなことが可能なのでしょうか・・・。

『部落の過去・現在・そして・・・』の座談会で発言している中島久恵は、歴史的に追求すると、被差別部落出身であると言えるが、その父親は、既に、被差別部落から離れて久しく、被差別部落出身であるという意識を持っていないといいます。そして、中島自身も、父親と同じく、「自分をどう考えていいのかわからない・・・」といいます。

一端、失ってしまったアイデンティティを取り戻すことは難しいようで、中島は、「部落民としてのアイデンティティーという問題はすでに私にとっては、もはやある意味ではどうでもいい問題で。他の人のこととしては差別を受けて苦しむ人がいて大変なことなんだからやらないといけないと思うんだけど、自分のこととしてはどうでもいいことで。・・・」といいます。

同じ座談会で発言している灘本昌久は、「執筆者紹介」によると、「京都大学文学部史学科卒業。大阪教育大学大学院教育学研究科終了。・・・近畿大学、京都外国語大学などで非常勤講師をつとめる。」とあります。

灘本は、「血統的には・・賤民の後裔」であるといいます。「母方の祖父は、大阪の豊中水平社の創立者」であるそうで、「灘本という名字をもっているかぎり、いずれ部落であることがわかる」と思った母親から、被差別部落出身であることを知らされるのです。

そのとき灘本は、「私のアイデンティティーにそれほど大きい影響を与えませんでした。」といいます。そして、京都大学に入って、部落史ゼミに参加するようになっても、「学生の時は、まわりの期待にそむかないように部落民として行動」したといいますが、「本当は部落民であることを知る前と後ではアイデンティティーに何の断絶もない」と断言します。

灘本は、「いま、ものすごい難しい時代に突入している」といいます。そして、部落解放運動についても、「だいたい、アイデンティティーのはっきりしない集団の運動なんての本来はありえない」といいます。

『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社・1991年)の座談会に参加した、被差別部落出身の知識階級に属する人々には、部落民としてアイデンティティをほとんど意識することなく生きていっているという現実があります。
灘本は、同書で、《「差別語」といかに向きあうか》を掲載していますが、「新平民」・「特殊部落」・「被圧迫部落」・「未解放部落」・「被差別部落」という呼称の研究成果を披露しますが、「おわりに」でこのように語ります。
「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。したがって、部落を部落として取り出されること自体を不快に感じる。どんな部落の呼称を生み出しても不快であることに変わりはない。それを突破して、一人の人間として誇りをもって生きていくには、穢多の末裔であることを公言してはばからない(誇るわけでもなく、卑下するでもなく)強い主体を作ることが不可欠である」。

灘本昌久は、被差別部落出身として、京都大学文学部史学科で、部落史のゼミに参加していながら、その歴史研究から、「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。」という帰結に達するのは、なぜなのでしょうか。

灘本の言葉や思考の中には、最後の弾左衞門である弾直記のような、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティ、「穢多」であることに自信と誇りをもっている姿の片鱗すら確認することはできないのです。

先祖の歴史を「恥ずかしい」という言葉で認識せざるを得ないところに、灘本昌久の思想的限界があるように思います。

灘本に、その限界を余儀なくさせているもの、私は、それこそ、日本の歴史学に内在する、差別思想である「賤民史観」ではないかと思います。日本の歴史学の精神と研究方法に忠実であればあるほど、この「賤民史観」は、灘本の精神構造深く組み込まれ、そこから容易に脱出することはできなくなるのです。

「穢多」につながる歴史から、切り離されて生きてきた「部落民」にとって、そのアイデンティティ、「昨日、穢多であった」、「今日、穢多である」、「明日も穢多であり続ける」という、明確なアイデンティティを取り戻すことが難しいのと同様、「部落民」でないものが、その意図が何であれ、自分のものにすることはさらに難しいと思われます。

『部落民とは誰か』(現代思想)で、渡辺俊雄は、被差別「部落出身ではない」といいます。しかし、周囲からは、「学生時代から部落問題研究会とかの活動をしていたし、就職したのは部落解放研究所というところですから、そんなところで仕事をする人間に、部落民でない人間がいるはずはない」と見られ、結婚するときにも、そのことで反対されたといいます。

「披露宴の時には両親もでてくれなかった」といいます。

そのとき、渡辺は決心するのです。「自分は部落民だとは思わないけれども、世間はそう見ているんだな。それなら僕は部落民になろうと思った・・・」といいます。しかし、渡辺は、「部落民」として行動しようとすればするほど、「部落民」として発言しようとすればするほど、「部落民ではないという気持ちが抜けきれなかった」といいます。

渡辺は、どんなに被差別部落の人々と深くかかわろうと、彼らの持っている「感覚」や「思い方」を自分のものにすることはできなかったといいます。

そして、あるとき、発想の転換を要求されるのです。

「部落問題にかかわるのならば、部落民になることが必要だと思っていた。でも部落民にならなくてはいけないと思うのはものすごくしんどかった。だけど、そういう違いは元々あるんだし、その違いは違いとして認めたらいいんだし、部落民ではないからといって部落問題に真剣に関われないということではないんだ。部落だから見れる、感じられることもあるけれども、部落だから分からない、あるいは部落外だから見えてくる問題もあるのではないか・・・。違いを認めあえばいいんじゃないかというのが、今のところ僕の結論です。アイデンティティというような言い方で議論するのがいいのかどうか、僕にはわからない・・・」。

私は、渡辺俊雄の、生きることへの、あるいは学問することへの真摯さから出てくる言葉であると思われます。

差別とは何か。

それは、その人から、本当の歴史をとりあげて、その代わりに、「みじめで、あわれで、気の毒な」「賤民史観」を強制することであると。そのひとの歴史は、そのひとの人生についての「物語」です。その歴史・物語は、いつも真実に裏打ちされる必要があります。真実な「物語」は、その人固有のものです。

この『部落学序説』の執筆の動機・起因となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語った話は、近世幕藩体制下の「穢多」の末裔であると、今日の歴史学者・教育者によってラベリングされ、「被差別」の状況に置かれながらも、差別の風雪に耐えて、父祖の歴史・物語を忘れることなく、子々孫々語り伝えている、そのような歴史・物語のことです。

その歴史・物語は、被差別部落出身であろうとなかろうと、「行きずり」の研究や教育によって「私物化」することができる類のものではありません。

「穢多」の末裔ではないのに、「穢多」の歴史を「私物化」して、自分のものとすることができたと思った瞬間、その歴史は、真実な歴史ではなく、いつのまにか、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に拘束され変質してしまっているのではないでしょうか。

「穢多」の本当の歴史を忘却した、あるいは看過した、研究者や教育者は、「賤民史観」しか身につけることができず、より強固に、「賤民史観」の主張を繰り返すようになるのではないでしょうか。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が、近世から近代へ、どのように歴史の旅をしていったのか、その真実な姿を追求する歴史学的研究を妨げるのは、歴史学的研究そのものなのです。「賤民史観」という差別思想は、「穢多」と「旧穢多」の歴史にフィルターをかけ、歴史の真実から遠ざけてしまいます。

『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治は、「穢多」の末裔として、「日本の差別社会をこわすことが私の使命」といいます。『学問と「世間」の著者・阿部謹也は、「差別が残存している理由の一つに「世間」意識がある」と指摘し、「被差別民に対する差別意識はこのように「世間」と不可分のものであり、「世間」を抜きにしては考えられない。」といいます。阿部謹也は、「日本の「世間」をこわすことが私の使命」と主張していると考えてよいでしょう。そして、前2者と違って、学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な存在でしかない、『部落学序説』の筆者である私は、由緒正しき貧乏百姓の末裔として、「賤民史観」をこわすことに執念を燃やしているのです。

近世から近代への時代の変革が何をもたらしたのか、その真実は、「差別」・「被差別」の立場を問わず、「常識」や「通説」のかなたにあるのです。

『部落学序説』の第4章~6章は、「読者」に、「常識」や「通説」のかなたに忘却されている歴史的真実探求の旅へいざなうことを目的として執筆されます。

次回は、『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治について、その人と言葉を検証します。  

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現代の部落解放運動家に継承されざる弾直樹

【弾直記と明治維新】 4.現代の部落解放運動家に継承されざる弾直樹


『盥の水を箸で廻せ』(中川書店)の著者・東岡山治は、1930年11月23日、広島県福山市の被差別部落に生まれたといいます。

「幼いときからたくさんの差別を受けてきた」そうですが、あるとき、「部落民宣言」をして、「全国六千部落、三百万人への差別に対する怒りに燃えて立ち上がり、解放運動をはじめた」といいます。

「日本の差別社会をこわすことが私の使命」として、「誇りと自信」を持って生きてきたといいます。

その東岡山治は、どのような歴史観を持っていたのでしょうか。

東岡は、「私なりの解放史」を述べて、「賤民」の歴史と認識しているようです。「賤民」概念は、引用文の中にではなく、東岡の地の文に出てきます。

古代・中世のそれぞれの時代の「賤民」は、その時代の衰退と共に消滅してしまったといいます。「賤民制は、二度の変動期によって消滅したのである。すなわち、賤民は昔からそうであったのではない」といいます。

東岡は、「賤民」と「賤民制」は消滅したけれども、「人間を差別するという考え」は、近世にまで引き継がれ、17世紀、徳川幕府によって、「士・農・工・商・えた・非人」という「差別階級に人民は分断された」といいます。

東岡の理解では、「士・農・工・商」の間だけでなく、近世の「賤民」である「えた・非人」の間にも差別は存在していたことになります。差別されていた「賤民」の中に、さらに、「えた」・「非人」という差別が存在していたというのです。

近世の「賤民」である「えた・非人」も、「・・・同志の全国的連帯もなく、ただ上に対して服従のみで、批判は許されず、下に強く優勢的姿勢でいきざるをえなかった」といいます。「穢多」は、その上にいる「武士」に対して絶対的服従を余儀なくされた分、「えた」より下の身分である「非人」に対して、「優越的姿勢」で生きてきたのでしょうか・・・。

東岡は、このような幕藩体制を、「人間同志の人格的破壊体制」と呼びます。

東岡は、「幕府の搾取に苦しむ農民」の「唯一の慰め」は、「どんなに苦しくとも「えた・非人」よりはましだと思わされて耐えてきたこと」であるといいます。

東岡の理論によると、同じ「賤民」の中にあっては、「えた」の「唯一の慰め」は、「どんなに苦しくとも「非人」よりはまだましだと思わされて耐えてきたこと」なのでしょうか・・・。

東岡は、自分とその先祖は、「えた」に属していて「非人」ではないと考えているようです。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の研究者や教育者によって、「穢多」は「穢れ多し」、「非人」は「人に非ず」と解釈されてきました。「穢多」も「非人」も等しく差別語ないし差別表現であるはずなのですが、東岡は、「穢多」については、「穢れ多し」のイメージを退けるために、音によって、「えた」と表現します。そして、「穢多」より下の身分である「非人」については、音によって、「ひにん」と表現するのではなく、文字通り「非人」と表現するのです。

近世幕藩体制下の「身分差別」は、現在の東岡の意識の中にも大きな影を落としているようです。

この『部落学序説』では、「士農工商穢多非人」という図式を廃棄しました。近世幕藩体制下の歴史資料を分析すると、そのような図式は存在していなかったということが明らかになったからです。「士農工商穢多非人」という発想は、近代において、歴史学者によって提唱され、教育者によって、日本の津々浦々の国民に流布されたことがらなのです。

『紀州 木の国・根の国物語』の著者・中上健次は、その旅のおわりに、「私は、自分が被差別部落とは何なのか、差別、被差別とは何なのか、何ひとつわからないのに思い至る・・・」と語りますが、中上は、「この部落差別なるものが封建遺制であるとは、私は思わない。」といいます。そして、「差別は現にある」というのです。

中上は、「たとえばこうである」と実例をあげて言及していますが、中上は、「差別とは構造の事を指す」といいます。「その構造的差別は、ひとの眼につきにくい。構造的差別が露呈する事はほとんどない」といいます。

東岡は、「穢多・非人」という身分構造を、「えた・非人」と表現することで、「穢多」を「穢多」と表現することは許さないが、「非人」は「非人」として表現することは何ら問題ではないと、無意識のうちに判断しているようです。

東岡は、「賤民史観」だけでなく「愚民論」の上にも立脚します。

東岡は、近世幕藩体制下の「虐げられた」民としての「農民」の「唯一の慰め」は、「自分より下におかれた者に対する憎しみを持って生きるということ」であるといいます。「貧乏と差別の苦しみにつきおとされた農民の心の安らぎは、「えた、非人」を下におくということ」だというのです。東岡は、さらに言葉を重ねます。「武士」だけでなく、「町人や商人」までもが、「寄ってたかって農民を差別する」というのです。彼等によって差別された「農民はその近くにいる「えた、非人」をさげすんで、それを徹底的に憎むことによって心の安らぎを覚えたのです。」というのです・・・。

東岡は、「えた・非人」を「差別する仕組みに非常な憤りを感じる」といいます。しかし、東岡は、「えた・非人」の構造の中の「非人」を無意識的に視野の外に追いやるのと同じく、東岡がいう「虐げられた農民」を「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」に満ちあふれた存在として視野の外に追いやるのです。

私は、東岡に尋ねてみたいと思います。

近世幕藩体制下の「農民」は、そんなどうしようもない、みじめであわれな精神の持ち主だったのかと・・・。

この『部落学序説』でとりあげた、由緒正しき百姓の末裔である筆者の先祖たち、つまり、近世幕藩体制下の「百姓」は、決してそのような存在ではありませんでした。なにしろ、自分の土地を耕し、自分で作ったもので生きていたのですから。

藩主や藩士が不正を働き、「百姓」をあざむき、私服を肥やし、その反動として、「百姓」を困窮に追いやったときは、何らためらうことなく、「天理人事に相背き候」と主張して、「百姓一揆」に訴えたのです。

その訴えが通ると、百姓一揆の首謀者たちは、子々孫々の繁栄を祈りながら、当時の法に従って粛々と刑場の露と消えていったのです。その、正義を貫き通すという、「百姓道」の凛々しさは「武士道」のはるかに及ばないところのものです。

天明六年(1786年)、備後国福山藩で、百姓一揆があった際、鉄砲を構えて、一揆の鎮圧を図ろうとする武士や穢多に対して、福山藩の百姓はこのように語りかけるのです。「汝等に打たるヽ物は鳩や雉計りなり。御百姓をば何とて打取る事成べきぞ」(「阿部野童子問」)と叫んだといわれます。また、「士農工商天下の遊民・・・天下諸民皆百姓なり。其命を養ふ故に農民ばかりを百姓と云ふなり。汝等も百姓に養るなり。此道理を知らずして百姓杯と罵るは不届者なり。其処をのけて通せ。」(「遠野唐丹寝物語」)といったといいます。

近世幕藩体制下の百姓一揆の件数は、青木虹二著『百姓一揆の年次的研究』によれば、「2967件にたっし、1年間の平均は10.6件になる。これに、都市騒擾380件と村方騒動990件を加えれば4000件を越え、今後の研究によってなお総件数は増大するであろう」と言われます(岩波日本思想大系『民衆運動の思想』)。

東岡の「百姓」理解、「農民」理解は、極めて、屈折したもので、差別的なものです。

「祈りと愛をもって差別させない、差別を見抜く人を育てるために私は生まれてきた」、「差別する人を変えていく闘いを続けている・・・」と語る東岡の、「百姓」理解、「農民」理解は、その差別性の故に、唖然とさせられるものがあります。

東岡は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、「藩士」や「士雇」同様、「非常民」として、百姓一揆に際しては、権力側にたち、それを鎮圧する側であっことについては、常に、沈黙します。「同心・目明し・穢多・非人」によって、打ち下ろされる十手や六尺棒によって、どれだけたくさんの百姓が涙を流したことか・・・。東岡は、一片の考察すらしないのです。

しかも、東岡がいう、同じ「賤民」に属する「非人」について、「穢多のさらにその下位にとじこめられた人々である」といいます。

「非人たちは、そして被差別部落の人々は、牛や馬を殺すことはあっても、人の生命を殺す刃をもっていなかった。生命の尊さを誰よりも身にしみて感じていた人々が、どうして人を殺すことができようということである。どんなに貧しくとも差別に耐え、人の生命をいとおしむ心を失わなかったのである。・・・人間として尊い生命を守ることを欠落させた武士階級は、不浄を不浄と感じなくなった人々であるともいえるのではないか」。

東岡の中には、現在の被差別部落の人々は、純粋無垢に、「いわれなき差別」を受けてきた人々であるという認識があるのかもしれません。

しかし、私は、この世の中に、「いわれなき差別」などありはしないと考えています。差別を本当に取り除きたいと思うなら、その差別の背景にある「いわれ」を「いわれ」としてきちんと受け止めてこそ、本当の差別なき社会をもたらすことができるのではないかと思います。

東岡の「部落民」理解は、東岡の「人間としての優しさ」(筆者の言葉)が作り出した「虚構」・「幻想」ではないかと思います。

東岡の語る言葉を信じた、被差別部落の青年が、ある日、ある時、歴史資料をひもとき、東岡の語る言葉がすべて歴史の事実とことなることを確信したとき、その青年はどのような状態に陥ることになるのでしょうか。

何度も同じことを語りますが、私は、人間としての偉大さは、現実から目を背けて、「虚構」・「幻想」の中に逃げ込むことではなくて、また、そうすることで、「差別」の現実から逃亡することではなくて、歴史の事実は事実として、「所与の人生」を受け止めて生きていくことにあると思います。

筆者は、『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治を、個人的に批判・中傷しているのではありません。

部落解放運動に、「誇りと自信」を持ってきた東岡にして、なお、無意識に身にまとっている差別性は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」や「愚民論」に起因するものであると思っています。

差別・被差別を問わず、私たちの中から、「賤民史観」や「愚民論」を取り除かなければ、既存の差別社会を根底から覆すことはできないのです。

私は、『盥の水を箸で廻せ』を繰り返し読みながら、ふと、思うのです。この書の著者・東岡山治は、「不幸にして、被差別部落に生まれてきた、単なる差別者でしかないのではないか・・・」と。近世幕藩体制下の関八州の穢多頭・弾左衞門の「思想」と『盥の水を箸で廻せ』の著者の「思想」との間に共通性が乏しい事実は、「東岡山治は、もしかしたら、穢多の末裔ではなく、私と同じ、由緒正しき貧乏百姓の末裔ではないか・・・。近代に入って、明治政府の民衆切り捨て政策によって、なんからの事情で、被差別部落に移りすんだ、ただの百姓の末裔ではないか・・・。」と思わさせられるのです。

その場合の被差別のしるしとしてあるのは、『部落学序説』第1章~3章で見てきた「穢多」の「役務」と「家職」に対する本当の歴史ではなく、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のみになります。「賤民史観」をどんなに取り繕っても、部落解放の真の姿を描くことはできません。

「弾直記と東岡山治」との間、近世の「穢多」と現代の被差別部落の人々との間には、越えることのできない、暗くて深い断絶があることを示しています。

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「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬

【穢多と明治維新】 1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬


近世幕藩体制下の「穢多」と、現在の「被差別部落民」との間のギャップは、相当大きなものがあります。
それを無視して、学校同和教育や社会同和教育で指導されているような解釈、「穢多」=「被差別部落民」(同和地区住民)説は、にわかに信じることはできません。

娘が小学生のとき、保護者を対象に同和教育がありました。筆者もその話を聞きにいきましたが、そのとき、配布されたのが、山口県教育委員会発行の小学校保護者同和教育資料である『みんなで取りくむために』という小冊子です。

その小冊子には、「同和問題は・・・民主主義社会の実現をめざすすべての国民の課題」であることが力説され、学校においては、「すべての教育活動のなかで同和教育を進めています」といいます。そして、「保護者の皆さんにも・・・学校で進めている同和教育をご理解いただき、学校と家庭が一体になって同和教育の推進を図ることが必要です。」と主張します。

この冊子において、近世幕藩体制下の身分を示す言葉として、「士・農・工・商・さらに低い身分の人々」がでてきます。また「農・工・商」を別様に分類して「農民」(農)・「町人」(工・商)が出てきます。また、「農民」の別称として「百姓」という言葉があります。

文部省認定の中教出版の教科書を引用したあと、山口県教育委員会は、その小冊子の中で、このような注をふっています。「農工商よりさらに低い身分」を「部落の人々」というと。

その小冊子の記述は、近世幕藩体制下の「穢多」身分について、「部落の人々」という概念を用いて説明していきます。

明治4年の太政官布告第61号に触れて、「解放令によって、部落の人々は、いちおう制度上の身分差別から解放されました」と説明しますが、その「部落の人々」については、「以下「同和地区の人々」という」と、またまた注が付けられています。

山口県教育委員会の学校同和教育・社会同和教育では、近世幕藩体制下の「穢多」については「部落の人々」、明治4年の太政官布告以降の「旧穢多」については「同和地区の人々」という概念が採用されているのです。

つまり、明治4年の太政官布告以前は、「部落の人々」、太政官布告以後は、「同和地区の人々」という概念を用いて、学校同和教育を実践しているというのです。

この小冊子の説明は、幾重にも過ちを重ねています。

「部落」という概念は、明治期の「行政用語」として一般的に使用され、「同和地区」は、昭和期の「行政用語」として一般的に使用されるようになった言葉です。

山口県教育委員会は、「部落」・「同和地区」という概念を、アナクロニズム(時代錯誤)的に、その概念が存在しなかった過去の歴史を描写するときに用いているのです。

その結果、児童・生徒・保護者は、「部落」という近代の行政用語、「同和地区」という現代の行政用語で、近世幕藩体制下の「穢多」について、理解し、把握するようになってしまいます。

これは、近現代の発想・解釈を用いて、近世の「穢多」を再解釈、場合によっては、歴史の事実に違う解釈に陥ることがあることを示唆しているのではないでしょうか。

小冊子に書かれている内容は、長州藩の歴史的事実とも大きくことなります。

山口県教育委員会は、「郷土史」・「地方史」の研究成果を捨てて、文部省認定の教科書に記された被差別部落に関する指導を展開していたのです。

33年間・15兆円という、膨大な時間と税金を投入してなされた同和対策事業・同和教育事業が終了したあとの、山口県の学校同和教育・社会同和教育は、惨憺たる現状があります。33年間の同和教育が何もなかったかのごとくに、学校教育が運営されているからです。「人権教育」は名前ばかりで、その実質的な内容は急速に失われつつあります。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」、そのことわざを文字通り実践している教育委員会や教職員の現実は、小・中・高の生徒によい影響を与えていないことは想像に難くありません。

ある被差別部落出身教師は、現在の学校の現実は、同和教育が実践される前の状態に戻った感があると嘆いていました。人権教育の大切さを訴えても、誰も耳を貸さない時代に入ったようです。

ここ数年間、山口県立高校で仕事をする機会がありましたが、休憩時間に、かっての同和教育担当者と話をしました。いずれの高校においても、同和教育は、「強者どもが夢の跡・・・」で、荒涼とした感じがしました。同和教育の中身が急速に忘却されていく中で、あとに残ったのは、「部落とはどの地域のことか」、「その部落にはどのような姓の人が多いか」、「結婚相手として部落出身の人を避けるにはどうしたらいか」・・・、そんな知識だけではないかと、思わされるようなことが度々ありました。

教育委員会だけでなく、被差別部落の人々についても同じことがいえます。

「金の切れ目が縁の切れ目・・・」ということわざを、教育委員会や教職員同様、自分のテーゼにしてしまった運動家も多いのです。

「同和対策事業が終了し、被差別部落に一銭の補助金もでなくなったいま、名前をあげて運動するのは、ただ、差別を招くだけ・・・」と言って、部落解放運動から手を引く人々も多いのです。

ときどき、「学校の教職員も、被差別部落の人々も、いっせいに手を引いていっているのに、あなたは、なぜ取り組みを継続するのですか」と批難を受けることがありますが、『部落学序説』の筆者である私は、いわゆる宗教家に属します。

私だけでなく、宗教家の中には、その人がどの宗教・宗派に属しているかに関係なく、部落差別問題そのものに、「誠実」に取りくんでいる人が相当数います。彼等は、「同和対策事業」・「同和教育事業」という名目で、日本全国、33年間に渡って15兆円の税金がばらまかれたときに、その「恩典」にまったくあずからなかった人々です。多くの宗教家は、手弁当で、部落差別問題と取りくんできました。

差別なき社会を作る・・・。それは、宗教家としての良心に基づく本当の思いに裏打ちされていたと思われるのです。

ですから、「金の切れ目が縁の切れ目・・・」であるとは、考えなかったのです。

少しく話が脱線しましたが、山口県の学校同和教育・社会同和教育で、指導されてきた内容を図式であらわすとこのようになります。

「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」

この等式は、恐ろしい内容を秘めています。「部落の人々」というのは、近世では「穢多」といわれた人々、現代では「同和地区の人々」を指していると思われるのです。

抽象的な表現ではなく、具体的に表現すればこのようになります。

「穢多頭・弾左衞門」=「部落の人々」=「東岡山治」

しかし、この等式が成立しないことは、前節で、具体的にとりあげました。私は、実際の歴史はその等式と反対のことを示していると思うのです。

「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)

東岡の著書・『盥の水を箸で廻せ』をどんなに精読しても、「穢多頭・弾左衞門」の片鱗すら見付けることはできないのです。それどころか、東岡は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」の実像と、まったく逆の存在であることを証言している場合が多いのです。

あえて、共通しているところをあげれば、前節でとりあげた両者の文章の中には、近世幕藩体制下の「穢多」が、司法・警察である「非常民」としての職務の遂行上、キリシタン探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったということについて、何の言及もしていないという点です。

東岡は、近世幕藩体制下の「穢多」が、その職務上、当然のこととして、「天下の大罪」と信じられていたキリシタンに対する探索・捕亡・糾弾にかかわった「宗教警察」であったという事実に、知ってか知らずしてか、何の言及もしていないということです。

彼は、近世幕藩体制下では、司法・警察である「穢多」は、キリシタンに対して、権力に基づく迫害者・弾圧者である、という事実を伏せて、近代・現代のキリスト教会が、「穢多」の末裔である「部落の人々」に対して差別していると、厳しく追求します。

筆者が、「穢多頭・弾左衞門」≠(「部落の人々」=「東岡山治」)を主張する理由のひとつに、このキリシタン弾圧問題があります。

このキリシタン弾圧問題こそ、近世幕藩体制下最後の弾左衞門・弾直記の明治政府の「御一新」・「維新」にかけた夢を打ち砕いたものに他ならないからです。

「穢多と明治維新」を論じる際に、学校同和教育や社会同和教育、被差別部落の人々やその運動団体の語る言葉と思想によっては、解明することはほとんど不可能です。

さすれば、どのようにしたら、「穢多と明治維新」を論じることができるのでしょうか。

筆者は、「科学」(学問)以外にないと思います。

被差別部落の人々のほとんどが忘却してしまった事実に立って、その歴史的真実を明らかにするためには、「科学」(学問)以外にはあり得ないのです。

しかも、「皇国史観」や「唯物史観」などのイデオロギー的史観の中に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が分かち難く融合されていることを考えると、「賤民史観」から自由になって、本当の歴史の事実にたどりつくためには、どうしたらいいのか、『部落学序説』は、そのような状況から自然に生み出されたいったものです。

次回、「部落学」構築のために筆者が採用した明治維新史の枠組みを検証します。

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部落学と歴史観

【穢多と明治維新】 2.部落学と歴史観


『部落学序説』執筆に際して、筆者が採用した「歴史観」は、小島慶三の「歴史観」です。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』(中公新書)の著者紹介によると、小島は、大正6年(1917)生まれ。東京商科大学卒業後、「企画員、商工省を経て、日銀政策委員、通商産業審議官」を歴任し、退官後は、「日本精工取締役専務」等を歴任、その間、「上智・成蹊・名古屋・一橋各大学」で講師をされたといいます。

筆者が青年時代、一時期、専門商社に勤めたことがありますが、そのときの大阪支店の支店長は一橋大学出身でした。とても聡明な方で、「理論と実践」の両方の面で、優れた知識と才能をお持ちのようでした。私は、いつも尊敬のまなざしをもって、その大阪支店の支店長を見上げていました。

小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』を読んだとき、彼が、一橋大学の前身である東京商科大学出身と知って、妙に納得した気持ちになりました。

小島の「歴史観」には、世の中から、半ば隔離された大学という研究機関に身を置いて、文献のみを相手に「歴史観」を構築しようとする歴史学者とは、かなり異なる側面がありました。

筆者には、小島の「歴史観」は、「理論」としての「歴史観」に終わらず、激動する社会を生き抜くための「実践」の学としての「歴史観」という側面を含み持っているように思われたからです。

小島は、その書の「世界の革命と明治維新-結び」でこのように語ります。「私は歴史家ではないし、取り立ててある特定の立場に属するものではない」。

民俗学者の柳田国男は、「史心」の大切さを説きました。小島が、「私は歴史家ではない」と言い切ったとしても、小島の「史心」に触れることができた筆者は、小島を、歴史家以上の歴史家であると信じてやまないのです。
小島は、彼の「歴史観」の対極として、「特定の立場」をとりあげますが、小島にとって、「特定の立場」というのは、「マルクス史観」・「階級闘争史観」のことです。

小島は、「明治維新への評価もかっては、マルクス史観の影響を色濃くうけていた。・・・しかしいまでは「梁」はうたかたの霧のように薄れ、現実への接近を主題とする比較史的な視点が主流になっているように見える。」といいます。

小島は、歴史学上の「こうした変化は私にとっては幸いであった」といいます。

小島は、明治維新の研究に際して、「複雑な革命史観」に立って抽象的な歴史学研究に堕することを免れたといいます。小島がとったのは、「幕末維新時代に生きた」「祖父兄弟」という「ミクロ史的な存在」があり、小島の周辺に生きていた具体的人物の歴史を通して、それを突破口にして明治維新の研究に入っていったというのです。