2005.10.19

「穢多非人」再考

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第1項】「穢多非人」再考

明治4年8月28日太政官布告第61号が出されました。

「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」

この布告は、「穢多非人」を対象に出されたものです。「穢多非人等」を、近世幕藩体制下の用法を使用して、「穢多の類」・「穢多」として表現することにしましょう。

この布告によって、「穢多」は「平民」になります。明治天皇制度下の「天皇・皇族・華族・士族・平民」という身分制度の中に「最下層」の「平民」に位置づけられることになります。

「士族・平民」という表現は、近世幕藩体制下の身分制度「武士(士)・百姓(農工商)」という表現と同じではありません。「武士」が「士族」、「百姓」が「平民」という概念に変更されていくことによって、その概念の外延と内包にも大幅な変更が加えられているのです。

極端にいいますと、近世幕藩体制下の身分の如何にかかわらず、明治新政府によって「士族」と認定された人々が「士族」になり、その認定にあずかることができなかった人々は、必然的に「平民」身分に組み込まれました。

『部落学序説』では、「武士・百姓」という一般的な概念に、作業仮説として、「常民・非常民」という概念を導入しました。

筆者はまず、「非常民」を「軍事・警察に従事した人々」と定義しました。日本の歴史の初期においては、この「軍事・警察」は未分化の状態で渾然と一体化されていました。しかし、嵯峨天皇のときに、この「軍事・警察」は、「軍事」と「警察」に分けられ、新たに「警察制度」が作られました。

嵯峨天皇の意図は、「警察制度」(検非違使制度)を作ることによって、犯罪(内乱罪を含む)を未然に防ぐことでした。犯罪が起きたあと、血の粛清をするよりは、犯罪を防ぐことによって、天皇制の権威を血で汚すことを避けようとしたのです。

この警察制度は、功を奏して、以後数百年に渡って、政治犯罪者を血で粛清することはなかったといいます。

このとき制定された検非違使制度は、古代律令制に新しく付加された制度であったため、「令外の制」と言われました。検非違使制度は、制度外制度であり、検非違使制度に新たにその要員として配置された人々は、「身分外身分」として位置づけられていきました。

資料からみると、現代の司法・警察を参考に考察しますと、史料には、「警察官僚」ばかりが登場してきます。当然、「警察官僚」だけでは、日本の社会の治安を維持することは不可能です。そこで、「警察官僚」のもとに、日本全国津々浦々に配置され、実際の治安維持に携わる二十数万の警察官に匹敵する存在が必要になります。

検非違使制度に関する史料や論文を見ていると、「警察官僚」の層ばかり注目されていて、実際の治安維持にあずかった現場の「警察官」についてはほとんど触れられていません。

筆者は、古代・中世の史料や論文から関連記事を収集して、当時の「警察官」がどのような存在であったのか、描き出そうとしたのです。

そこで、警察官僚「衞士」に対して、警察官「衞手」という概念を紡ぎ出したのです。

「衞手」は、江戸時代は「まもりて」と呼ばれ、いわゆる「番人」を意味していました。長州藩においては、「番人」は、「穢多・茶筅・宮番」の「役務」のひとつでした。

この「番人」である「衞手」を、和語としてではなく漢語として発音すると「エタ」になります。

筆者は、この「衞手」が、「エタ」の語源ではないかと推定したのです。この、歴史上に存在した可能性のある「衞手」概念は、短期間で他の用語に置き換えられていったため、元の「衞手」という表記が忘れ去られて、その発音「エタ」だけがあとに残ったのではないかと推測したのです。元の文字が忘却されて、その発音だけが残り、それが、やがて、別な漢字(仮字)が割り振られ、「穢多」なる語が生成されたのではないかと考えたのです。

筆者は、「穢多」は仮字であって、「穢多」(エタ)の本質は「衞手」(エタ)であると認識するようになってからというもの、近世幕藩体制下の「穢多」について、差別的な視線で見ることがなくなっていったのです。

「穢多を穢多視するは不当なり」と主張する明治の法律家もいます。

筆者は、その言葉の響きの中に、「衞手(エタ)を穢多(エタ)視するは不当なり」という意味を読み込むようになったのです。そして、江戸幕府が「穢多」呼称を強制した理由として、「穢多」を「穢多」役、「多くを穢す」役として解釈するようになったのです。

「エタ」という音声の中に、千数百年に渡って、伝えられてきた「伝承」の波を感じとるようになったのです。長州藩の「穢多」の間で伝えられた伝承の中に、「多くを穢す」(長吏の職をはじめ、いろいろな職務についている)」ことを誇りにうたう「唄」の存在することを知って、ますます、「衞手は穢多(けがれおおし)にあらず」と確信するようになったのです。

しかし、筆者の説は、学歴も資格ももちあわせていない、「無学なただのひと」の浅学を前提にした単なる推測・仮説でしかありません。そこで、「衞手」(エタ)という概念ではなく、「衞手」(エタ)の「仮字」として、一般的に使用されている「穢多」(エタ)概念をそのまま使用することにしたのです。

『部落学序説』で、従来の部落史の一般概念と異なる意味内容で使用している概念は他にもあります。「穢」の他、「賤」・「屠」があります。『部落学序説』第1章~第3章を読んでくだされば、筆者の意図するところがお分かりいただけるのではないかと思います。

あえて、付け加えれば、「屠」という言葉についてです。

「屠」とは何か・・・。部落研究・部落問題研究・部落史研究においては、「屠」は、「屠殺」の「屠」と解釈されます。「屠殺」は、「屠」(ほふる)と「殺」(ころす)という同義語を組み合わせた言葉として解釈されます。しかし、筆者は、犯罪としての殺人である「殺」と、犯罪者を処刑するときの殺人である「殺」とは異なる種類の「殺」であると解釈しました。「屠殺」というのは、後者を意味する言葉なのです。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」の一部は、後者の意味の「屠殺」をその職務の内容に数えていました。そして、それは、近世幕藩体制下の法に基づいて、藩の「司法・警察官僚」の指示・命令のもとに遂行されました。笞打ちの刑執行に際して、打つ笞の数ひとつ間違えてもお咎めを受ける時代に、「穢多・非人」が単独で死刑執行・「屠殺」を行ったとは考えられません。

しかも近世幕藩体制下においては、「穢多・非人」が、食肉のために、牛馬を「屠殺」することもほとんど考えることができません。なぜなら、長州藩では、「穢多」が牛馬を屠殺したことが発覚すると、長州藩は容赦なく「穢多」の首をはねているのです。被差別部落の人々は、このことから、「自分たちは牛馬以下だった・・・」と、如何に彼等が被差別の状況に置かれていたのかの説明に使用します。しかし、牛馬を屠殺することでその首が飛んだのは「穢多」だけではありません。百姓が「屠殺」しても、その首が飛んだでありましょう。

近世幕藩体制下の「穢多」が職務としてなした「屠殺」は、凶悪犯罪者に対する、裁判で判決が確定したあとの「死刑執行」のことで、牛馬の「屠殺」のことではありません。被差別部落出身者や、部落研究・部落問題研究・部落史研究で、「屠殺」(死刑執行)と「屠殺」(牛馬の屠殺)とが混同されて、恣意的に解釈される傾向がありますが、筆者は、明確に区別すべきであると思います。両者を混同すると、部落差別の淵源が、ほんとうにつかめなくなってしまいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、部落問題について描くときに使用する概念を限りなく、曖昧模糊とした状態においやります。元の概念に、あれもこれも、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを付加して、まったく別の概念にしたてあげていきます。

年のはじめに、無病息災を祈って家族みんなで飲むものに「おとそ」があります。「おとそ」は「屠蘇」のことですが、めでたい席で、どうして、「屠殺」の「屠」という言葉が使用されるのでしょうか。文字にこだわり、縁起にこだわる日本人が、なぜ、めでたい席に「屠殺」の「屠」の入った日本酒を飲むのでしょうか。

この「屠蘇」は、唐の博士・蘇明によって我国にもたらされたといわれます。そのときは、嵯峨天皇の治世のときです。筆者はこのように推測します。嵯峨天皇は、内乱によって、深い精神的な傷を負います。嵯峨天皇は、ふたたびこのような悲惨を経験しないようにと、それまでの渾然と一体化した「軍事・警察」を、「軍事」と「警察」に分離します。そして、再び悲劇が繰り返されないように、犯罪防止・内乱防止につとめます。中国からの使者・蘇明は、そんな、嵯峨天皇のこころの傷を知って、その傷を癒す、新しい世の中を作り出すためにその身に傷を負われた嵯峨天皇のこころを癒すために、「屠」(女性が出産のときに産道に受ける傷)を癒す、「蘇」らせる妙薬・「屠蘇」を献上したのではないかと思います。

「屠蘇」は、あたらしい年の無病息災を祈るために用いられたのではなく、古き年に受けたこころとからだの傷を癒す妙薬として使用されたのではないかと思います。それは、やがて、宮中からあふれて、民衆の間にもひろがっていき、民俗のひとつに数えられるようになっていくのです。

近世幕藩体制下の「穢多」の関係した「屠」には、「殺」の意味は含まれていないのです。

しかし、「五箇条の御誓文」で、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スへシ」で宣言され、それが実体化された「公議所」において、「穢多」の関係者がいないところで、「穢多」について、恐るべきことが議論されていくのです。部落史の専門家の間では、「移行期研究」(森田康夫)と呼ぶようですが、『部落学序説』の立場から、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠する従来の「移行期研究」の抱えている問題点を批判・検証していきたいと思います。

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2005.10.20

明治2年広議所と「国辱」談議

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第2項】明治2年公議所と「国辱」談議

「穢多」談議・・・一風変わった主題に戸惑われるひともおられるかもしれません。

これは、明治2年2月に明治政府によって開設された「公議所」においてなされた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」に関する「談義」(話し合い)を批判的に検証する・・・という意味です。

最初、「論議」という言葉を使っていたのですが、「論議」より、「談議」の方が相応しいのではないかと思って、上記の主題になったわけです。

「公議所」は、「公議人」によって構成されていました。「公議人」は、各藩から1名ずつ選出されました。明治維新の際の官軍・賊軍に関係なく、すべての藩から、「公議所」に「公議人」が送られたのです。当然、幕末期の支配階級の中から人選されました。「封建郡県」論では、「郡県」よりも「封建」の方が有力であったし、廃刀案が提出されたときは、提案者を除く全公議人が反対を唱える場面もありました。要するに、五箇条の御誓文に、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の言葉に沿って実施された会議は、旧支配階級の発言の場所を提供するに留まったのです。

「公議所」において、被支配階級である民衆の意見が反映されるというようなことはほとんどあり得ませんでした。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「坂本竜馬の死-言論と暴力-」の中で、坂本竜馬は、「武闘を克服して・・・言論を尽くしての国家形成の方法が最良である」と考えていたといいます。坂本竜馬が抱いていた理想は、「議会中心主義」でした。

石尾は、坂本竜馬は、「討幕を推進する根拠となる世論を形成しようとした」といいます。坂本竜馬は、その世論の担い手として、「賤民」層を想定していたといいます。坂本竜馬は、その「賤民」層に属する人々として、「穢多・非人」ではなく、「耶蘇教徒」、つまり、「キリシタン」を想定していたといいます。近世幕藩体制下において、「非人身分、賤民身分に身分貶下された」人々として、「キリシタン」を想定していた・・・というのです。

日本の近代国家は、近世幕藩体制下で、身分外身分、社会外社会として、「賤民」として、排除・抑圧・弾圧されてきた「キリシタン」に対しても発言の自由を与えるものでなければならないというのです。

もちろん、坂本竜馬は、討幕後、近代国家を建設するときには、「国体」を、「神道ヲ基礎トシ、儒道ヲ輔翼トセン」といいます。

慶応3年(1867)、「浦上四番崩れ」と言われる、長崎浦上の隠れキリシタン達が、その信仰を告白するという事件が起きた直後のことです。

もし、坂本竜馬の説く「議会中心主義」が主流を占めていたら、近代日本国家は、諸外国との間の不平等条約(治外法権と関税自主権)の撤廃に、すみやかに漕ぎ着けることができたのではないかと思います。

しかし、キリシタンをも含む、徹底した「議会中心主義」の思想は、幕府側・反幕府側の両方から批判の対象にされてしまいます。そして、坂本竜馬は、「民衆の平等、賤民身分を克服する平等の実現」を主張したために、暗殺という「暴力」によって、この世から取り去られてしまいます。

坂本竜馬は、司馬遼太郎のいう、「第1級の人物」に該当するといっても過言ではありません。

明治政府は、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と唱えても、そこには、民衆の声まで反映させる意図は持ち合わせていなかったのです。百姓・町民の民意を聞き、それを含みながら、国政を行うという発想は皆無ではなかったかと思われます。

官軍・賊軍と別れて戦った藩が、刀の血のりが乾かぬ間に、「公議所」というひとつのテーブルについて、国政について議論をする・・・、というのですから、その内容は容易に推測できます。彼等に斬新さを求めるのは、木に登って魚を求めるに過ぎなかったのではないかと思われます。

筆者は、『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久の説に、深い関心を持ちます。

なぜなら、土佐藩士・坂本龍馬は、近世幕藩体制下の「賤民」として、「穢多・非人」ではなく、「キリシタン」をあげているからです。

このことは、幕末期において、「穢多・非人」は、「賤民」の部類に数えられていなかった・・・ということを物語っているのではないでしょうか。「穢多・非人」が、今日の「賤民史観」に立脚した部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者や教育者が言うように、「身分外身分」・「社会外社会」であるなら、当時数十万人いた「穢多・非人」に発言の自由を与える方がより大きな意味を持ったのではないかと思います。

しかし、坂本竜馬は、一度も「穢多・非人」について言及していないということは、坂本竜馬の目から見ると、「穢多・非人」は、賤民ではなかったということなります。

事実、「公議所」での談議中、「穢多・非人」を論じるときも、「穢多・非人」を指して、「賤民」と呼ぶ事例はありません。「穢多・非人」は、「穢多非人」あるいは「穢多非人ノ類」等として、ストレートに表現されています。

明治新政府は、諸藩からの声に耳を貸しているように見える「公議所」ですが、「実際には、中央政府の指導者が諸藩の指導者にスローガンを与えて・・・、あたかも諸藩の自由な発意からでたかのように利用している」(『オーストリア外交官の明治維新』)に過ぎません。

明治2年2月から8月までの「公議所」での談議の内容は、新聞『公議所日誌』によると、「日本の国辱をどのようにしたら、すみやかに取り除くことができるか」という一点に集約されると思います。

「公議所」のオピニオン・リーダーは、岩倉具視です。

岩倉は、「目今ノ如ク外国ノ兵隊ヲ我ガ港内ニ上陸セシメ、又居留洋人ノ我ガ国法ヲ犯スモノアルモ彼ガ国ノ官人ヲシテ之ヲ処置セシムル等ハ、尤我ガ皇国ノ恥辱甚キモノ」といいます。

岩倉は、諸外国の人が来日する件数が増加しているが、それに連れて、日本人と外国人の間の殺傷事件が発生している、日本人によって外国人が危害を受けた場合、その国の政府によって抗議を受け、毎回多額な賠償金を要求される、しかし、外国人によって日本人が殺傷事件の被害者にされるとき、その国の政府は一銭の賠償金も出さない。日本人被害者は泣き寝入りを余儀なくされている。憤懣やるかたない・・・、とその真情を露にします。

岩倉は、「皇国ノ大恥辱」を取り除くことを、 最優先課題にします。明治2年2月28日の岩倉具視の言葉です。

岩倉具視は、全国から「公議所」に招集された「公議人」をして、この「皇国ノ大恥辱」を取り除くべく、「対外関係について我が国の恥辱を拭い去る方法に関する17項目」を、日本国民の民意として提言させたのではないかと思います(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』)。

その13項目にこのような提言があります。

「外国人追々兵員を居住せしむるは、我政府内外人民を保護する能わざるを察し、その殺生与奪の権、政府に帰着するまでは兵隊を本国へ帰還することなりがたきを陳言す。それ殺生与奪の権政府に在り、内外人民を保護し、以て信義を貫くに在り。今や外国より我が国内の可否を制するに至る。此の汚辱を洗浄するの実計、果して如何」。

「公議所」で談議された、「穢多」に関する議題は、すべて、この「国辱」と深く結びついています。明治政府は、「あらゆる手段を尽くして」(『英国外交のみた幕末維新』)、この「国辱」を早急に晴らそうとします。

明治4年8月の太政官布告第61号は、この文脈の中で解釈されるときにのみ、その本当の姿を現すことになります。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、明治4年8月の太政官布告第61号の本質を著しくゆがめ、それを、「解放令」・「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・等と曲解します。

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2005.10.21

現代人が失った明治の「国辱」感覚

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第3項】現代人が失った明治の「国辱」感覚

国辱・・・。

この言葉を、幕末・明治期の政治家・官僚が受け止めていたのと同じ感覚で受け止めることができる人がどれくらいいるのでしょうか。

岩倉具視は、神国日本に、天皇の軍隊ではなく、アメリカ・イギリス等の諸外国の軍隊が駐留し、外国人の犯罪について日本側に裁判権がないこと等に対して、「凌辱侵犯」とみなし、それ故に、日本を代表する政治家として「国辱」を感じるというのです。

戦後、日本にアメリカの軍隊が常駐するようになり、戦後60年間、米軍基地周辺では、米軍兵士・軍属による、基地周辺の住民に対する「凌辱」事件があとをたちません。マスコミで報道されるごとに、筆者は、胸つぶれる思いがします。

しかし、日本の現代の政治家の多くは、岩倉具視や明治の政治的指導者たちが抱いていた「国辱」という受け止め方をほとんどしないようです。戦後60年間、そういう感性をどこかに忘れてきてしまったようです。

古書店でたまたま見付けた、中村菊雄編『日米安保肯定論』(有信堂)には、当時の慶応大学教授陣によって、70年安保改正を前に、彼等が研究した「日米安保条約の損益勘定」をもとに、日米安保継続を訴えた論文が収録されています。

中村菊雄は、「国家が独占している物理的強制力・・・を構成するのは警察力であり、軍事力である」といいます。

中村は、日米安保条約は、日本国憲法に基づくものではなく、「国連憲章に示された集団的自衛権」(国際連合憲章第51条)に依拠するものであるといいます。日米安保条約は、超憲法的判断のもとに成立しているというのです。

この「国連憲章に示された集団的自衛権」に基づく日米安保条約に対して、次のような反対論があるというのです。

「(1)憲法の文理解釈からくるもの、(2)マルクス主義の影響からくるもの、(3)軍国主義に対する反省からくるもの、(4)不安定なアジア情勢についての判断からくるもの、の四つになる」。

中村は、「・・・の4つになる」と断定して、その他の反対論の可能性を否定しているのです。

中村にとって、幕末・明治期の岩倉具視をはじめとする政治家たちが、その臓腑が煮えくり返るような思いをもって受けとめていた、外国の軍隊の駐留と裁判権に対する、「屈辱」感や「国辱」感からくる反対論の存在は考慮する必要は一切なかったのでしょうか・・・。

中村が、不問に付する、5番目の反対論は、現代の政治家や学者・教育者にとって、死物・化石と化しているのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、部落差別を完全解消に導くためには、この、岩倉具視をはじめとする明治の政治家の「凌辱侵犯」・「国辱」という、ものの見方や感性を視野に入れて考察する必要があると思うのです。そのことは、当然、現在の日米安保条約における、日本における米軍への基地・軍事費供与や、日米地位協定による犯罪者(米兵)の捜査権・裁判権に関する問題・・・等、現実に起きている問題について、直接的・間接的に触れることになります。筆者の目からすると、日本は、戦後60年間に渡って、岩倉具視をはじめとする明治の政治家が「凌辱侵犯」・「国辱」と表現したものに呪われ続けているのです。

慶応大学学者グループの『日米安保肯定論』は、「日米安保条約の損益勘定」に基づいて、「日米安保条約という国の防衛のための施策のもとで、不断の騒音や被害に苦しむ周辺国民の受忍のうえに、日米安保体制は円滑に運営されているのであり、この人々の犠牲に支えられて、大多数の国民は太平無事と繁栄を謳歌さえしているというのが実情なのである。」といいます。

そして、このように結論付けるのです。

「たしかに、基地周辺の人びとの苦悩は深く、かつ大きい。・・・日本の平和と安全は、この人びとの犠牲の上に支えられているのである。しかし、だからといって、この人びとの苦悩をやわらげるために、大多数の国民の平和な生活の支柱である日米安保条約を廃棄するわけにはいかない・・・」。

『日米安保肯定論』は、「大多数の国民の平和な生活」を守るために、少数の「基地周辺の人びと」の犠牲(大局的見地からすると、本土の平和を守るために沖縄を犠牲にする発想)を主張しているのです。

岩倉具視をはじめとする明治政府の閣僚たちと、日米安保条約継続を訴える慶応大学教授グループとの間に、「凌辱侵犯」・「国賊」をめぐる感性について、大きな隔たりがあるにも関わらず、両者は、ある人々の利権を擁護するために、ある人々の利権を剥奪する・・・、そういう発想を持っている点で、恐ろしく共通した側面を持っているのです。

『部落学序説』の筆者である私は、極めて、非政治的な人間です。

私は、政治・思想・運動については、これまで、ほとんど関心を持ってきませんでした。筆者が所属している宗教教団の中においても、いろいろな社会問題について発言するとき、よく、「あなたの発言は、どちらの立場なのかわからない」と指摘されます。

団塊の世代が経験した、「大学闘争」や「万博問題」・・・。筆者は、同世代が、そのような問題に直面していた頃、病気で倒れた父親に代わって、高校卒業と同時に一家の「大黒柱」にされ、貧困と病気の中で、家族を支えるべく悪戦苦闘していたのです。

同世代とは10年遅れて、学歴や人脈とまったく無関係ないかたちで、勉学をはじめ、宗教教団の教師になったとき、よく、万博問題について質問されました。「あなたは、どちらの立場なのか。反対か賛成か」。その二者択一を迫る発想には、いつも言葉を失いました。「問う」側は、絶対的正義の側に身を置いて、自信タップリに、容赦なく問いかけ批判してきますが、「問われる」側に立っていなかったにもかかわらず、「問われる」側にいつも立たされ、精神的拷問と思われる糾弾にさらされ、迷いつつ、ためらいつつ、その問いに答えるのが筆者の常でした。そして、その結果、いつも言われるのは、「あなたは、どちらの立場に立っているのかわからない・・・」という疎外と排除の言葉でした。結局、筆者は、「問う側」・「問われる側」両方から疎外・排除されることになりました。私は、「私は、問う側でも、問われる側でもなく、問われていた内容(高度経済成長の枠組みからはずされ取り残された存在)だ・・・」と、叫びたい思いでした。

共産主義を信奉し、共産党と行動を共にしている先輩の教師からは、露骨で、徹底的な排除と疎外にさらされました。「おまえの発想は解同と同じだ。人が避けて通る問題に、あえてかかわろうとするのは、おまえの人格に欠陥がある証拠だ」と、教師会で罵声を浴びせられたこともあります(その部落解放同盟からも最終的には切り捨てられているのですから、笑うに笑えず泣くに泣けません・・・)。「学者でもないのに学者ぶった話をするな」と批判されたこともしばしばあります。共産主義や共産党に、また左翼の発想や思想に、心理的に違和感と拒否感を抱くようになったのは、この山口の地にきてからのことです。

このようなことを書けば、少なくなった『部落学序説』の読者が更に少なくなって、山口県内の読者はほとんど皆無になってしまうかも知れません。しかし、このことは、いつかはっきりさせなくてはいけないことであると思います。

私は、政治・思想・運動に、ほとんど何の関心も持っていないということです。

この『部落学序説』を執筆しているのは、何度も書きますが、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老から聞いた話が真実であると証明しようと思ったことに起因します。歴史の「史料」や「伝承」、個別科学研究の論文を使って、実証主義的に解明することを目的にはじめたのです。そして、その範囲で、政治・思想・運動に触れることになっているだけです。政治・思想・運動の専門家から見れば、政治の理念、思想のテーゼ、運動の基本方針等と違う発想や文章があるかも知れません。私は、政治の理念、思想のテーゼ、運動の基本方針に依拠して、自らの言葉と文章の整合性をとって自己保身をはかる要領のよさも精神的枠組みもありません。長い人生の試行錯誤の経験から私が学んだものは、いつかメッキがはげるような言葉で思索したり文章を綴ったりすることではなく、最初から最後まで、自分の言葉と信仰と哲学で綴ることです。

またまた脱線してしまいましたが、幕末・明治期において、「国辱」というのは、不平等条約(関税自主権と治外法権)のことです。岩倉具視の各種文書を見ていて思うのですが、治外法権は、岩倉具視と明治政府にとって最大の「国辱」であったと思うのです。

しかし、「公議所」に提出された議案(加藤弘蔵「非人穢多御廃止之議」)の中に、「此上モ無」「国辱」が登場してくるのです。治外法権よりも更に大きな「国辱」・・・、それは、いったい何なのでしょう。加藤弘蔵は、それを「非人穢多」であるといいます。

「穢多非人」ではなく、「非人穢多」であるといいます。

「非人穢多」の制度の存在は、諸外国の軍隊が日本に駐留し、外国人が罪を犯した場合日本側に裁判権がないという不平等条約以上に「国辱」であるというのですが、そのような「非人穢多」とは、「公議所」の「公議人」にとっていったい何を意味したのでしょうか・・・。浅学にもかかわらず真相に迫ります(続く)。

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2005.10.22

加藤弘蔵「非人穢多御廃止ノ議」

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第4項】加藤弘蔵「非人穢多御廃止ノ議」

明治2年、公議所において、加藤弘蔵は、「非人穢多御廃止ノ議」を議案として提出します。

この議案について、『被差別部落の歴史』(朝日選書)の著者・原田伴彦は、「万民はすべて同一の権利があるという万民平等の理念のもとに賤民の解放を論じており、明治はじめの解放論としてとくに優れたものでした」と極めて高い評価を下しています。

原田伴彦は、加藤弘蔵の提出した議案を、「賤民解放論」として位置づけているのですが、まず、この「非人穢多御廃止ノ議」の内容を確認してみましょう。全文を岩波近代思想大系『差別の諸相』からの引用させていただきます。

「非人穢多之儀、其縁由確説分リ兼候得共、到底人類二相違無之者ヲ、人外ノ御取扱ニ相成候ハ、甚以天理ニ背き候儀、且ハ方今外国交際ノ時ニ方リテ、右様ノ事其儘ニ被成置候テハ、第一御国辱此上モ無之儀ト奉存候。何卒此御一新ニ方リ、右非人穢多ノ称被廃止、庶人ニ御加ヘ相成候様仕度、已に旧幕府ニテ、昨春弾内記支配下ノ者穢多ノ称被廃儀有之候処、御一新ニ方リ、猶右樣ノ儀ニ御心付無之候ハ、乍恐王政ノ大御欠典ト奉存候間、右此度改テ庶民エ御加ヘ有之度奉存候」

『差別の諸相』に収録された文書に注を振ったのは、ひろたまさき氏です。彼は、加藤弘蔵について次のように紹介しています。

「加藤弘蔵 1836-1916。のち弘之と改名。旧但馬藩士。のち幕臣となり幕府開成所教授に任ぜられたが、維新後明治政府に出仕。啓蒙思想家として「真政大意」などで天賦人権論を説いたが、明治15年「人権新説」を刊行し優勝劣敗の社会ダーヴィニズムを展開。東京大学初代總理、貴族院議員などを歴任」。

加藤弘蔵は、実に多分野に渡って活躍された人のようです。教育者・学者・政治家・閣僚・思想家・運動家・・・等として活躍し、様々な功績を残されたようです。明治10年(1877)「東京大学総理、さらに総長をつとめ日本の大学教育の基礎をつくった」(以下平凡社『世界百科大事典』からの引用)人物として知られています。「貴族院の開設(1890)にあたり勅選議員となり、以来同院で学制改革・教科書問題等に尽力し、その他各種の学会を指導した」そうです。

加藤弘蔵は、明治17年(1884)東京大学内に「日本人類学会」が成立された際にも深く関わったと言われます。

加藤弘蔵は、知的好奇心旺盛で、「哲学、法律学、生物学・・・」等多岐に渡り博識である反面、その思想内容に節操がない面もみられます。加藤弘蔵は、「はじめは天賦人権論をとっていた」と言われますが、自由民権運動が反政府運動的色彩を強く帯びるに至って、彼は、自由民権運動に反対して、進化論を唱え、「国家有機体説」を主張したといわれます。

そして、加藤弘蔵は、「また道徳を生存競争の産物として利己心を基本と考え、宗教を認めず、キリスト教を激しく攻撃した・・・」といいます。

加藤弘蔵のキリスト教攻撃は、幕末・明治初頭にかけて、明治政府の指導的役割を担った知識階級にほぼ共通したことがらでしたから不思議ではありません。近代中央集権国家・明治天皇制国家の建設は、神道を中心に据えたもので、それは欧米のキリスト教国家に対抗するためのものでした。

加藤弘蔵は、学者・教育者の立場から、日本国家建設のために全力を注ぎました。そういう意味では、加藤弘蔵のものの見方や考え方を探っていくと、明治政府の基本的な政治意図に触れることになりそうです。加藤弘蔵は、大久保利通に並ぶ、明治政府の立役者であったのではないかと思われます。

加藤弘蔵は、穂積八束・井上哲次郎らと共に、「国体論の西欧的粉飾に向かっていった」(松岡正剛)と言われます。

大日本帝国憲法下の地方自治制度における審議過程で登場してきた「ゲマインデ」の翻訳語「部落」という概念も、いわば「国体論の西欧的粉飾」に該当するものです。「部落」という概念の導入で、明治天皇制国家の中核になる神道共同体建設の道筋をつくったのですから・・・。明治政府は、地方自治制度の近代化の名目の下で、神道共同体あるいは神道国家の建設を進めていきました。

筆者は、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を精読していて思うのですが、かなり違和感を覚えてしまいます。原田伴彦が指摘するように、「賤民解放論」として認識することは困難であると思われるのです。

「賤民」という概念は、明治以降に学術用語として登場してきます。しかし、公議所で、公議人によって、「穢多」に関するいくつかの議案が審議されていたとき、この「賤民」概念は使用されていなかったと思われるのです。「賤民」概念の成立は、もっとのちのことだからです。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」の文章中の字句にも、「賤民」ないし「賤民」を想定させる表現は出てきません。加藤弘蔵は、「賤民制度」の解体を論じてはいません。あくまで、「非人穢多ノ称被廃止」のみを強調しているのです。この時期は、外交上、非常に微妙な時期ですから、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」の議案提出には複雑な背景がありそうです。しかし、部落史研究者の多くは今日まで、その背景を明らかにしようとはしませんでした。

明治期の「賤民」という概念には、「人種」・「民族」という概念がつきまといます。この項を書くときに、あらためて、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を精読していましたら、この文章から、二つのイメージをチラつくようになりました。

デンマークの学者ルビンが実験現象学の立場からした実験に、「図-地反転図形」というのがあります。黒字に白い花瓶が描かれているのか、二人に人間の横顔のシルエットなのか、白の図に着目するか、黒の地に着目するかによって、同じ絵が、まったく違った絵に見えてくる・・・という、よく心理学の教科書に出てくるものです。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を久しぶりに読みなおしてみたとき、「図」に力点をおくか、「地」に力点をおくかによって、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」がまったく別様に見えてきたのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に力点をおいて読むか、「賤民史観」廃棄を主張するこの『部落学序説』に力点をおいて読むかによって、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」は、まったく異なった意味内容を帯びてくるのです。

ふと心の中を過っていった懸念・・・、ふと脳裏の片隅をかすめていった疑念・・・、それを懸念・疑念のまま放置しておくと、あとあと、それが増幅して、『部落学序説』全体に大きな影響を及ぼしてしまいます。この十数年、その連続でしたから、今回、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を再読したとき、その懸念や疑念に襲われたのです。納得いくまで解明しなければ・・・、そう思いながら、誰から求められたり要求されたりしている訳ではないのですが、「時間内にブログに次の文章を掲上しなければ・・・」という思いにせき立てられて、文章作成が、打っては消す、打っては消すという膠着状態に陥ってしまったのです。

朝、気分転換に、近くの園芸店に行きましたら、タマネギの苗を売っていたので、200本買ってきてミニ菜園に植えました。そして、ついでに買ってきた、レタス・チシャ・パセリの苗を植えながら、考えていたのです。どうして、ひとつの文章から二つの異なる解釈が出てくるのか・・・。そしてふと気がついたのです。それは、たったひとつの言葉が原因している。それは、「人類」! 加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」は、その中に出てくる「人類」をどのように解釈するかによって、まったく別様に見えてくるということを発見したのです。

読者の皆様と一緒にそのことを確認してみましょう。まず、「賤民史観」の立場から、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を見てみましょう。

原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、このように解釈します。

「その主旨は、「えた」・非人のゆらいは明らかではないにしても、人類である彼らを人外の取り扱いをするのは、はなはだ天理にそむくというものでした。加藤は天賦人権説をとなえる学者で、「国体新論」という本をかいて、「君主も人であり、人民も人であるのに、その権利が天地ほどのちがいをたてるのは何事であるか、このような野鄙陋劣な国体の国に生まれた人民は実に不幸の最上である」とのべたほどの人物でした。加藤は、万民はすべて同一の権利があるという万民平等の理念のもとに賤民の解放を論じており、明治はじめの解放論としてとくに優れたものでした」。

原田は、「到底人類二相違無之者ヲ、人外ノ御取扱ニ相成候ハ、甚以天理ニ背き候」を、「人類である彼らを人外の取り扱いをするのは、はなはだ天理にそむく」ものであると解釈します。原田の解釈では、「人外」「人類ではない存在」のことを指してしまいます。原田の解釈では、加藤弘蔵がこのような表現をした背景には、「非人穢多」が、近世幕藩体制下においては、人類ではない存在として「賤民」として差別されていた・・・という認識があります。加藤弘蔵は、「人(人類)にあらず」という近世的理解を否定し、「非人穢多」も同じ「人(人類)」であると、「非人穢多」の「非人類」から「人類」への解放を説いた・・・という解釈になります。

原田だけではありません。原田に先立って、『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清も同様のことを述べているのです。

「人類に違いないものを人間外のあつかいにするのは、はなはだ天理にそむき、外国に対しても聞こえのわるい「国辱」である、すでに旧幕府が弾左衞門支配下のものを平人にしているのに、旧来のわるい習慣を一新するはずの政府が非人えたを廃止しないのはいけない、というのである」。

井上も、「人類」と解釈します。「人類にちがいないものを人間外のあついかにする」とより直接的に言及しています。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「人類」という言葉を「人類(じんるい)」とすることで、明治以前の「非人穢多」に対して、「人間外人間」・・・というイメージを強烈に植えつけてしまいます。

筆者は、原田伴彦も井上清も、学者や教育者が、明治30年代後に、「人類学的解釈」「特殊部落民」「劣等人種」・「劣等民族」視する時代の発想や思想を、明治初年代に、時代錯誤的にあてはめて解釈した結果、このような、「賤民史観」的解釈が出てきたのであろうと思います。原田伴彦も井上清も、この「賤民史観」に色濃く、その言葉と思想をひたしているのです。

現代の同和教育・解放教育は、この「賤民史観」に支配されている故に、「穢多」の歴史、「部落」の歴史は、部落差別からの解消にはつながらないのです。むしろ、同和教育や解放教育をすればするほど、こどもたちを「賤民史観」の虜にしていっているのです。

常識的に考えても、どの世界に「人間外人間」のような存在がいるのでしょう。

原田伴彦も井上清も、加藤弘蔵は、「非人穢多御廃止ノ議」において、「非人穢多」をそのように認識していると解釈するのですが、『部落学序説』の筆者である私は、加藤弘蔵は、被差別部落の人種起源説を示唆するような主張は一切していないと思うのです。

それでは、「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「人類」はどう読むのか・・・。

筆者は、「人ノ類」と読みます。長州藩では、近世幕藩体制下で司法・警察として「非常民」の職務に従事していた「穢多・茶筅・宮番・・・」等を「穢多の類」と呼びます。加藤弘蔵は、「穢多の類」という表現と同じ表現で、「人の類」・「人類」と表記したのではないかと思います。筆者は、「到底人類二相違無之者ヲ・・・」を、「到底、人の類に相違これなき者を・・・」と読むことになります。「人の類」は、『広辞苑』によると、「人」そのものを指します。加藤弘蔵の説は、「穢多・非人」も同じ人であって、特別な存在ではないという主張になります。(続)

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2005.10.23

雑想

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第5項】雑想

「部落学」の課題のひとつに、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究のように、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠しないで、部落差別完全解消のために、新しい、部落研究・部落問題研究・部落史研究の作業環境を構築する・・・というのがあります。

今年5月14日に『部落学序説』の執筆を開始して10月22日の今日まで、書き上げた原稿量は、400字詰め原稿用紙に換算して、1364枚分(約54万字)にのぼります。

その間、筆者は、『部落学序説』の文章から、意図的に、「賤民史観」を排除してきました。

「賤民史観」は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる、大学教授・高校教師・地方史研究家、そして、同和対策事業の被差別部落の側の受益者として存在してきた各種運動団体に所属する人々の生活や思想の中に、無意識に注入されてきたものです。

教える側も、「賤民史観」が差別思想であることを自覚することなく、そして、教えられる側も、同和教育や解放教育という名目のもとで、本当は、差別思想を植えつけられているということを自覚させられることなく、教える側も教えられる側も、その「差別思想」に対して、いつか部落差別の完全解消につながると、幻想を抱き続けてきたのです。

2003年3月31日、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了しました。

それと歩調をあわせるかのように、大学教授の指導科目とその内容から、部落問題・部落差別問題の科目が姿を消していきました。「差別問題」から、「人権問題」・「平和問題」への転向が広範に認められます。高校で実施されていた「同和教育」も同様に、「人権問題」に切り換えられ、切り換えられた「人権問題」も著しく形骸化されています。学者・教育者だけでなく、各種運動団体も、運動の最前線から撤退するところが目立ちはじめました。

日本共産党系の運動団体は、「21世紀までに差別をなくしましょう」と宣伝活動をしていましたが、21世紀に入って、相応の時が経過したいま、その願いは、実現した・・・と、言えるのでしょうか。

筆者は、この『部落学序説』を読んでくださる読書の方にお尋ねしたいと思うのです。

(問1)「あなたは、部落差別が完全に撤廃された状態をどのように想像しますか」。
(問2)「あなたは、部落差別が完全に完成された状態をどのように想像しますか」。

この二つの問いは、筆者が、何回となく自問自答してきたものです。

筆者の答えを先にお話しすると、「部落差別が完全に撤廃された状態」と「部落差別が完全に完成された状態」とは極めて酷似しているということです。

「部落差別が完全に撤廃された状態」というのは、常識的に考えれば、被差別部落出身であるという理由で、誰も差別しない、されない状態のことを指していると思われます。

「部落差別が完全に完成された状態」というのは、被差別部落出身であるという理由で、誰も差別しているとも、されているとも、自覚することはないけれども、しかし、現実には、部落差別が遂行されている状態のことを指していると思われます。

いずれの状態も、現象的には、ほとんどその差異はないということです。

そこで、あらためて質問します。

2003年3月31日、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了し今日、部落差別は、どのような現状に置かれているのでしょうか。「部落差別が完全に撤廃された状態」でしょうか、それとも、「部落差別が完全に完成された状態」でしょうか・・・。

筆者は、部落差別は解消していない・・・と、考えています。

なぜなら、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了した今も、日本の近代以降の社会にあって、部落差別再生産の観念的な装置である、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、学者や教育者、同和会・解放同盟・全解連とその後継団体によって、ほとんど批判検証にさらされることなく、温存されてしまったからです。

戦前の融和事業、戦後の同和事業がそうであったように、これからの時代の中にあって、悪夢の再来のように、あらたな「同和対策事業」が展開されていくことになるのではないでしょうか。「賤民史観」により強固に裏打ちされて、「江戸時代・・・先祖が・・・牛馬以下に扱われていた」と先祖を貶めて、それと引き換えに新たな事業を求める日が・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、今こそ、日本の部落差別の拡大再生産の大きな要因になってきた日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に批判・破壊しなければならないのではないかと思います。

そのためには、「賤民史観」の担い手である、行政や学者・教育者に、「私たちの被差別部落の歴史について関係ある史料はないのですか・・・」と尋ねるような当事者性のなさでは問題解決にはほど遠いといわざるを得ないでしょう。被差別部落の側が、自らの手で「賤民史観」を打破していかない限り、「賤民史観」の担い手から、「調べてみましたが、そういう史料は見当たりませんでした・・・」という答えが返ってくるのがおちです。「行政や学者・教育者が本当のことを教えてくれない、彼らは嘘つきだ・・・」と呟いても何の問題の解決にもなりません。

すでに、原稿用紙1000枚を優に突破した『部落学序説』ですが、これまで、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を常に意識し、「賤民史観」の問題点を明らかにし、「賤民史観」を乗り越える批判検証を実践してきました。

その結果、筆者は、ますます確信を強めているのです。

「賤民史観」を破棄し、「賤民史観」に依拠しなくても、部落研究・部落問題研究・部落史研究は、誰でも語り得るテーマであると。

「被差別部落出身者にしか部落差別問題はわからない・・・」というのは、被差別部落の側の抱く、単なる幻想に過ぎません。被差別部落出身者だからこそ、見えなくなっている、理解することができなくなっている現実も存在するのです。人は、人生の悲哀や苦悩を経験すると、はやくそこから脱出したいと願います。しかし、その祈りの声が届かず、人生の悲哀や苦悩が長く続きますと、その悲しみや苦しさが、自分の人生の「生きがい」になってしまう場合があります。自分に背負わされた人生の悲哀や苦悩を、自分に与えられた試練・十字架として担って生きていくようになると、その悲哀や苦悩を手放せなくなってしまいます。人生の屈折現象が生じます。しかし、そのような生き方は、人間を根本的には幸せにすることはありません。人生の悲哀や苦悩の原因を追究し、それを取り除き、生きる喜びと生きがいを取り戻したときにのみ、人間は、自分の幸福を自分の手にすることができるのです。「賤民史観」は、被差別部落の人々に、人生の悲哀と苦悩を、それなりに説明してくれます。そして、そのことによって、人生の不条理に対して、怒りと抗議の思いを持つこともあるでしょう。しかし、それは、ただそれだけに過ぎません。人生の本当の幸せは、人生の悲哀と苦悩をもたらす、悪しき力と闘って、それを私たちの人生から取り除く営みの中で実現します。私は、昔から、人間は信頼すべきであると信じています。人間には、潜在的に、そうする力が与えられているからです。

『部落学序説』の批判対象は、ただひとつ、「賤民史観」のみです。

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2005.10.24

明治2年公議所の体質

【第4章】太政官布告批判
【第2節】穢多談義
【第6項】明治2年公議所の体質

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止之議」は、原田伴彦のいう「解放論」なのでしょうか。

明治2年2月、明治政府によって開設された公議所は、3月7日に第1回の会議が開かれ、明治2年7月8日の完成改革で集議院に受け継がれるまで、4か月間、多方面に渡って「議事」が行われました。

この明治政府の公議所は、どういう性格のものだったのでしょうか。

明治政府、「最初の議会」としての公議所は、開会に際して、天皇の詔書の朗読によってはじめられたといいます。

「朕将に東臨、公卿群牧を会合し、博く衆議を諮詢し、国家治安の大基を建てんとす。そもそも制度律令は政治の本、億兆の頼るところ、以って軽々しく定むべからず。今や公議所法則、略既に定ると奏す。宜しく速かに開局し、局中礼法を貴び、協和を旨とし、心を公平にし、議を精確に期し、専ら皇祖の遺典に基き、人情時勢の宜に適し、先後緩急の分を審かにし、順次を細議し、以て聞せよ。朕親しくこれを裁決せん」。

天皇の詔書に出てくる「博く衆議を諮詢し・・・」「衆」というのは、各藩から推挙された「公議人」のことです。この公議人に与えられた権限は、議案を提出し、その議論に加わるということのみで、それを明治政府の政策決定に直接つながるというようなものではありませんでした。公議所で議論は、「礼法を貴び、協和を旨とし、心を公平にし、議を精確に期」することが求められました。「礼」と「和」をもって議論するというのは、王政復古に相応しいよびかけのように思われます。公議所での議論の拠り所は、「皇祖の遺典」であり、「皇祖の遺典」を明治天皇制国家建設のために生かすために、「人情時勢の宜に適し、先後緩急の分を審かにし、順次を細議」して、その結果を天皇に上奏せよというのです。「朕親しくこれを裁決せん」というのです。

公議所は、議論する場所であって、裁決する場所ではないというのです。裁決は、明治天皇制国家の頂点たる天皇が裁決するというのです。

公議所での議論は、『公議所日誌』という新聞で公表されました。その議案の中には、「未熟で幼稚なもの」まで種々雑多な議論があったようですが、欧米の外交官は、公議所を、明治政府の正式の議会とは認めず、明治政府の「政治的教育」の場として受け止めていたようです。

ある英国外交官は、次のように語ります。

「英国の下院が議会制度の生みの親であるというのが通説である。江戸に設けられた公議所は、その一番年下の子供であった。世間の赤ん坊と同様、その最初の足どりはよちよちと危なげであった。駆ける前にまず歩くことから習わなければならない。公議所の最初の議論には弁説の力がたいして感じられず、今後、発展する見込みすら見えなかった。・・・弁説力は日本人の天性に欠けているものであった。しかし、議論の主題は興味深いもので、発言者の意見は、日本の特質を学ぼうとする者にとって、非常に示唆に富んだものである」(岩波文庫『英国外交官の見た幕末維新』)。

明治政府の公議所開設にともなう意気込みと、それを評する欧米の外交官の見方との間には、無視することができないギャップがあります。このギャップが、日本の「国辱」であると受け止められていた不平等条約、治外法権撤廃と関税自主権回復をますます遅らせることになります。

「箕作麟祥が明治3年に・・・を「民権」と訳して、政府の民法編纂委員会に示したとき、「民に権があると云ふのは何の事だ」という委員がいて激論になったという話」(岩波日本近代思想大系『翻訳の思想』)があるそうですが、明治2年の公議所の議論の中で、「平民に権利を認める」という近代的な人権感覚が存在していたとは、とても認めがたいものがあります。

加藤弘蔵は、その著『国法汎論』でこのように訳しています。

「元来天賦ノ人性ニ出ル法論ハ、基イヲ天理ニ資ルガ故ニ、都テ今日ニ施シテ大ニ宜シキ所以ヲ説ク者アレドモ、未ダ此理ヲ以テ実ニ法タルニ足ルト為スベカラズ。都テ論及ノミニ由テ法ノ生ズル者ニアラザルナリ」。

加藤弘蔵は、フランス法を学びはじめたときから、「天賦人権論」が、自然法を根拠にした単なる法理論に過ぎず、実定法の内容ではないということを最初から知っていたのではないでしょうか。加藤弘蔵は、それを紹介したに過ぎず、彼自身の政治家・閣僚としての取るべき立場とはまったく逆なものであったような気がします。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「外国交際ノ時・・・国辱」という表現は、「非人穢多」が、社会的に低位に置かれていることを漠然と国の恥と思った・・・というような意味合いではないと思います。

明治政府は、「穢多」を、直接的に「国辱」と断じたことは一度もなかったのではないかと思われます。明治政府が「国辱」と感じていたのは、治外法権撤廃と関税自主権回復のみです。「穢多」制度は、治外法権撤廃のための障碍とされたが故に、「穢多」は、間接的に「国辱」と受け止められるようになったのです。治外法権撤廃の障碍というのは、「拷問制度」と「宗教弾圧」のことです。幕末・明治初期において、「穢多・非人」はこの、「拷問制度」と「宗教弾圧」に深く関わっていたのです。近世幕藩体制下では当然の如く実施されていた「拷問制度」と「宗教弾圧」、それが、明治になって、諸外国から、そのふたつの制度を撤廃するよう、激しい要求をつきつけらるようになります。

加藤弘蔵が、「穢多非人」という表現とは異なる「非人穢多」という表現を使用するのは、単なる言葉の順序の錯誤ではないと思われます。加藤弘蔵のいう「非人穢多」は、「非人役穢多」のことではないかと思います。「穢多」は、その職務の内容によって、「非人役穢多」・「長吏役穢多」・「皮多役穢多」に別れますが、「拷問制度」と「宗教弾圧」に直接かかわりがあるのは、「非人役穢多」のみでした。

加藤弘蔵が、「非人穢多御廃止之議」で主張したのは、すべての「穢多」ではなく、「非人役穢多」のことではないかと思います。

長州藩の枝藩である徳山藩の記録の中には、明治4年の太政官布告第61号に先立って、「非人役穢多」の罷免が行われたことを想定させる史料があります。「拷問制度」と「宗教弾圧」に直接、かかわりのあった「非人役穢多」(徳山藩では穢多の区別なし)は、極秘裏に「転身」をさせられていったようです。明治4年の太政官布告61号は、「非人役穢多」(司法関係)・「皮多役穢多」(軍需産業関係)が、「穢多」身分から離れていったあとの、「長吏役穢多」(警察関係)を対象に出されたものではないかと思います。

「公議所」が明治2年7月に閉鎖された以降に、諸外国からの「拷問制度」と「宗教弾圧」撤廃の要求が一段と高まってきます。

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