2005.10.14

「村」と「部落」

rqkqn03 【第4章】太政官布告批判
【第1節】 「部落」とは何か
【第1項】「村」と「部落」

「村」も「部落」も多重定義の言葉です。

日常生活や文献の中で、その言葉に遭遇するときは、複数ある意味の中のどの意味で使用されているのか、その時々の状況に応じて適切に判断する必要があります。

『広辞苑』をひもとくと、【部落】という言葉には、二つの説明があります。

①比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。

②身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、その住民は1871年(明治4)法制上身分解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない。未解放部落。被差別部落。

日常生活や文献の中で、「部落」という言葉に接するとき、その言葉が、①の意味で使用されているのか、②の意味で使用されているのか、常に、適切に判断する必要があります。そうしないと、とんでもない誤解が生じることになります。

部落研究・部落問題研究・部落史研究において、問題が常に複雑に錯綜するのは、その研究に使用される言葉や概念の定義があいまいなまま放置され、二重定義あるいは多重定義に陥っていることに起因すると考えられます。

使用される言葉や概念の定義のあいまいさは、部落研究・部落問題研究・部落史研究において、様々な見解や学説を派生させることになります。

現在の社会の中で使用されている「部落」という言葉は、どのように受け止められているのか、具体的な事例をもとに検証していきましょう。

私は、まだ娘が幼稚園生の頃、周防大島の子供たちと1泊2日の夏期合宿をしたことがあります。そのとき、お互いの自己紹介をしてもらったのですが、参加したこども、ひとりひとりに、一般的な自己紹介の他に、それぞれのこどもたちが自慢するところを話してもらいました。

小学6年生から順番に下級生へ、そして最後に幼稚園生に話をしてもらったのですが、最初のこどもが、「自慢するところはたけさんです。」と答えたのに続いて、おとこの子もおんなの子もみんな、「たけさん」、「たけさん」、「たけさん」、「たけさん」・・・、というのです。最後に、小さなおんなの子に、「あなたは?」と尋ねると、そのおんなの子は、「わたしもたけさん」とにこやかに答えるのです。

私は、「みんな自慢は、たけさんなの?」と聞きますと、周防大島のこどもたちは、みんな、大きくうなずきながら、「うん、たけさん」といいます。

私は、周防大島のこどもたちに、こう尋ねました。「みんな、たけさんが自慢というけれど、たけさんって何な?」

夕食前に、たけさんを見るために、近くの神社の石段まで歩いて行きました。そして、周防大島のこどもたちは、遠くの方を指さしながら、「あれが、たけさん」といいます。「たけさん」は周防大島の一番高い山でした。心なごむような稜線をもった山ですが、周防大島のこどもたちは、小さなときから、この山を見上げながら育っていると、そのとき感激しました。

こどもの頃から、「見上げる」ことができるものがあるということは幸せなことです。

人間は、悩みや苦しみ、悲しみに遭遇するとき、うなじを垂れてしまいます。しかし、そのとき、見上げることができるものがあると、うなだれた頭を上に向かってあげることができます。姿勢を正して上を見上げると、いろいろな試練を乗り越える力が沸いてくるものです。

私の妻は、福島県の会津若松市の産院で生まれました。妻の実家の畑からは、北に会津磐梯山、南に会津布引山が見えます。どのような人生の試練に遭遇しても、いつも絶対に動くことのない山を見上げることによって、生きる力がわいてきます。妻は、よく、「山口には山がない・・・」とさびしがっていました。今もそうですが・・・。

こどもの頃、見上げた山は、いつのまにか、こころの中にも存在するようになります。遠く異郷の地に生きることになっても、こころの中に存在するふるさとの山を見上げながら、様々な試練を克服して生きることができるようになります。

あるとき、周防大島出身の民俗学者・宮本常一の『家郷の訓』(岩波文庫)を読んだことがありますが、その『家郷の訓』(かきょうのおしえ)の「はじめに」に、「たけさん」のことが出ていました。

「大島は西瀬戸内海の広島湾と周防灘の間に横たわる面積十方里ほどの島であって、・・・部落の西一里半ばかりの所に嵩山(たけさん)という円頂火山がある。そのやわらかな山姿は泣く子守る山という感が深い。村よりの四望は風光明媚と言っていい。そしてこの明快なる風光が、どれほど島の人の心をやわらげ明るくしたか分からない。古くは春の光なごやかな日など、人びとは多く浜に出で、そこに筵をしいて藁仕事や針仕事をしつつ談笑していた。静かな夕暮れには山から仕事を終えてかえった人たちが浜や石垣の上に集まって沖の方を見つつ小時を雑談した。そしてこの風光のゆえに勤勉でもあり得たのである」。

私は、宮本常一の『家郷の訓』を読んで、はじめて、周防大島のこどもたちが、自慢するものとしての「たてさん」が「火山」であることを知りました。周防大島は、島全体が火山で、その火山の頂きが「たてさん」だったのです。

「たてさん」は、福島県の吾妻山・安達太良山・会津磐梯山のような荘厳な美しさはありませんが、逆に、どことなく優しさが漂う山でした。

私がであった周防大島のこどもたちと同じように、家室西方村(かむろにしがたむら)出身の宮本常一も、こどもの頃、この「たてさん」を郷土の誇り・自慢として受け止めていたのでしょうか。

宮本常一は、周防大島のひとびとは、「お互いは多くの人びとと共におり、共通の感情を持っていることをたしかめ得て意を強くした・・・これあるが故にひとり異郷にあっても孤独も感じないで働き得たのである。帰れば家郷に多くの親しき人がおり、それが自分を迎えてくれることが分かっていることが自らの意を強くさせた」といいます。

周防大島のこどもたちが異郷にあって力強く生きることができたのは、共に見上げることができた「たてさん」があったからかも知れません。ひょっこりひょうたん島の火山のような「たてさん」を思い出すごとに、共にみあげた友・仲間の存在を思い出したのかも知れません。

宮本常一の『家郷の訓』の中にさりげなく出てきた、「部落の西一里半ばかりの所に嵩山(たけさん)という円頂火山がある。」という言葉の中の「部落」は、宮本常一のふるさと、家室西方村のことを指しています。『広辞苑』の【部落】の①の意味で使用されています。

民俗学の創始者・柳田国男の流れをくむ民俗学者の多くは、「むら」(自然村)のことを「部落」という言葉で表現しています。

「むら」=「部落」として実感される世界はどのようなものなのでしょう。

『失われた日本の風景 故郷回想』(写真・薗部澄、文・神崎宣武、河出書房新社)という写真集に、「むら」=「部落」の姿が描かれています。

その「はじめに」にこのような言葉がありました。全文を引用します。

「むら-という共同体があった。と、過去形でいわざるをえないのが、いかにもさみしい。「うさぎ追いしかの山」にしろ、「母さんが夜なべをして」にしろ、その情景はあきらかに過去に追いやられてしまった。まさに、「ふるさとは、遠く」なってしまった。情景だけではない。人情も変わった。現在、道を歩いている人がほとんどいない。たまに出会っても、立ち止まって親しく会話を交わすことがなくなった。小学生も中学生も、登下校の途上では、出会う人ごとにあいさつをしていたものだが、その習慣もなくなった。それを嘆いてもはじまらないが、はて、そこまでむらが変わる必要があったのだろうか。昭和30年代のころから、向都離村。町村合併、列島改造。そしてむらの崩壊、ふるさと喪失。ここに掲げる写真は、その変化しきらない時代や地方のむらの表情を伝えるものである」。

「むら」=「部落」を実感することができない人は、この写真集を開いて追体験したらいいのではないかと思います。

団塊の世代を生きた筆者は、さいわいなことに、この「むら」=「部落」を身をもって生きることが許された世代のようです。

「むら」=「部落」という言葉の響きと意味を忘れて、「部落」という言葉が、『広辞苑』の【部落】の②の意味だけで使用されるようになるというのは、非常に残念なことです。このまま、時が流れると、【部落】の①の響きが忘れられ、②の響きのみが強く聞こえるようになってしまいます。「部落」という言葉を、被差別部落の人々によって「占有」されるようになってしまいます。そうなったとき、【部落】は、ふるさとを指す言葉として使用でてきなくなってしまいます。

被差別部落の人々が、この「部落」という言葉・概念を、本来の意味で使用しているかどうかはわかりませんが、文献をみる限りでは、「むら」=「部落」と解釈している被差別部落の人は決して多くはありません。

「部落」という言葉が、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の簡略形・省略形として用いられるとき、「部落」という言葉に、どうしても「賤民史観」によって植えつけられた卑賎感がともなってしまいます。

『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)の著者・中山英一は、「部落」という言葉にともなうそのような卑賎感を払拭すべく、「部落」という言葉に、「むら」というふりがなをつけています(164頁)。『被差別部落の暮らしから』を読むとき、「部落」という漢字が出てきたら、「むら」とよんでいけば、中山英一氏が伝えたかった被差別部落の本当の姿に近づきやすくなるのではないかと思います。

「部落学」は、「部落」という言葉・概念から、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって色付けされ、汚された色を洗い落とさなければなりません。

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「村」と「部落」と「古老」

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第2項】「村」と「部落」と「古老」

『家郷の訓』の中に、宮本常一がなぜ、民俗学をこころざすことになったのか、その動機についての話がでてきます。

宮本は、小学校の教師をしていたそうですが、教師としての歳月を積み重ねていくうちに、ある「苦悩」に陥ります。

その苦悩というのは、「学校の教育と家郷の躾の間にともすれば食違いを生じ、それが教育効果を著しくそいでいることを知った」ことに端を発します。

宮本の目からめると、近代的な「学校の教育」は、日本の村里社会に伝統的に受け継がれてきた、村の生活に密着した教育(躾)を破壊し、破壊することによって、こどもたちの精神に悪影響を与えていると分析されたのです。

どうしたら、「学校の教育」「家郷の躾」を調整し、共存させることができるのか、宮本は、「苦悩」しますが、その「苦悩の解決」法として、宮本が依拠したのが「民俗学」でした。宮本は、「民俗学という学問を、趣味としてではなく痛切な必要感から学びはじめた・・・」といいます。

しかし、宮本は、民俗学から学び得たことを、教育現場に還元することができなくて、「教壇をすてて学問に専心」するようになってしまいます。

その『家郷の訓』(かきょうのおしえ)の中に、「村」・「部落」に住む「古老」の話が出てきます。

「古老」というのは、『広辞苑』では、「昔からの事に通じている老人」を意味します。

筆者が『部落学序説』を執筆する動機になったのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いでしたが、その古老は、その被差別部落の歴史、近世幕藩体制下300年間の先祖の歴史を語り伝えていました。昔のことに精通している・・・、そんな「古老」が、日本全国に多々存在しているのです。

筆者が尋ねた被差別部落の古老は「県北」に住み、民俗学者・宮本常一は、「県南」に住んでいたのですが、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の配置形態からみると、「山の奥」と「海の島」との間には、類似点が存在しています。それは、いずれも、「非常民」の中の「茶筅」と言われる身分の人々が配置されているからです。山と海の違いはあっても、「村」の存在形式は非常に似通ったところがあります。

「古老」が語り伝えるもの、それを「伝承」といいますが、この「伝承」は、日本の歴史学者の間では、あまり評価されることがありませんでした。日本の歴史学は、支配者・権力者の側にたって、民衆支配の道具として構築されてきたところがありますので、被支配者・被権力者である民衆の証言や「伝承」はいつも過少評価されていたのです。

宮本は、「古老」の語る言葉に耳を傾けることで、このように考えるようになったというのです。

「その話を聞いていてつくづくと感じたことは、古老というものが単に自分の家に関することをのみ伝承しようとしているのではなくて、村全般の家々について語り伝えようとする態度であった。そして聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」。

この宮本の言葉から、筆者は、こころ開かれる思いがするのです。

『部落学序説』執筆の動機となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老とのであい、その古老が話してくれた「伝承」は、決して、その「古老」の個人的な証言ではなくて、その背後に、「古老」が生きてきた、被差別部落の歴史と伝承があると・・・。その古老の語る話の内容は、先祖たちによって、子々孫々語り伝えられてきた伝承なのです。

それと、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話では、「話を聞きたいと尋ねて下さる方はほとんどいない」ということでした。もし、私たちが聞き取り調査に立ち寄らなければ、その古老の語る「伝承」は、むらびとと家族以外には、外に漏れることなく、「聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」状態になったかも知れません。出会いの不思議さから、筆者は、その古老の語る言葉を耳にする恩恵に浴したのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老とのであいを大切にしなければ・・・、筆者は、ことあるごとにそう自分に言い聞かせてきました。

前にも述べましたが、その古老の姿は、とても印象的でした。なぜなら、おばあさんは、私たちと向かい合って話をしてくれましたが、おじいさんは、最初から最後まで、私たちに背を向けて座り、「見ず知らずの人にそのような話をすべきではない」とほとんど沈黙を守り続けておられました。おばあさんとおじいさんの姿の違いに強烈な印象を受けたのですが、それが、どこからくるのかわからないでいました。

私は、民俗学の祖・柳田国男の教えに従って、わからないことは、わかるまで、じっとこころに温め続けることにしています。

おばあさんは、私たちに、その被差別部落の歴史を語りかけ、おじいさんは、沈黙を守る・・・、その姿勢の違いがどこから出てくるのか、筆者は、宮本常一著・『家郷の訓』の中で、その理由と思われるものを見付けました。そして、疑問が氷解していきました。

宮本は、「そのつつましい記憶が、古老の死と共に近来実に夥しく亡びていった。ほろびていってもそれは今の時勢には必要の少ないことだから、それでよかったのだと言えばそれまでの話だが、そのために後来の者が困惑を覚えた・・・」といいます。

「そうした中にあって女だけは自分の守るべきことをだまって守っていた。世間が新しい方へ向かっても、家の他の者が何一つ古いことを守ろうとしなくても、自分だけは家を大切にし祖先の意志を子に伝えようとしていた」。

宮本は、それを、「実に尊いもの」と評します。

宮本は、「聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」村の古老から、失われていく「伝承」の中に、人間としてかけがえのない価値を見いだしたのでしょう。

宮本は、このようにいいます。彼等は、「土地にこもる先祖の魂に殉じようとしている」。そしてこう続けるのです。「全国の農村を歩いて・・・同様な女たちの姿を見た。無学であるとか、社会の表面にたち得ないからと言って、これを無知に帰してはならない」と。

宮本は、時の流れを越えて受け継がれてきた「家郷の訓」を、過少評価し、あるいは、否定してきたのは、明治以降の近代・現代の「学校の教育」であるといいます。「師範学校出身の先生」は、師範学校でならなった、新しい教育理念をふりかざし、村の伝統的な生活・教育に批判を加えたといいます。そして、思い上がった教師によって、「家庭教育者としての母親の権威」は、「一概に旧弊としてつきくずさ」れたといいます。

宮本は、自分のこどもの頃の体験を思い出して、「今思っても誠に申し訳ないのであるが、私もある時期に母の言を斥け、母の言に軽蔑に近い気持ちをもったことさえあった」と後悔の思いを綴っています。宮本は、「これではならぬのである」といいます。

日本の近代教育は、戦前・戦後を通じて、「家郷の躾」を民衆の手から、村人の手から、母親の手から限りなく奪いとっていったのです。

最近、日本の社会では、青少年による犯罪が相次いでいます。そのとき、いつも問題になるのが、「母親によって子育てがきちんとされたかどうか・・・」ということです。マスコミもこぞってそこに焦点をあてます。「学校の教育」は問題がないけれど、「家郷の躾」に問題があったのではないのか・・・。現代の教育界に身を置いているものの弁としては、「何をかいわんや」です。「家郷の訓」を破壊し尽くしたのは、「学校の教育」ではなかったのか。それなのに、その失敗が、今日著しく噴出してくると、「学校の教育」に携わるものは、問題は「学校の教育」ではなく「家郷の躾」にあると強弁するのです。

民俗学の偉大さは、民衆の智恵や伝承に着目するところにあると、筆者は思うのです。

それにひきかえ、日本の歴史学は、「村」と「部落」と「古老」について、どのように評価するのでしょうか。

戦後の「部落史研究」の第一期に、北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄と共に、「部落史研究」の基礎を築いた井上清は、どのように受け止めていたのでしょう(沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く 戦後思想の流れの中で』)。

井上清はこのようにいいます。「今の部落の起源についての伝説に、平家の落人が住みついたとか、戦国時代や徳川初期につぶれた大名の家来たちが住みついたとかいうものが、各地にある。これは、部落差別がはげしくなった徳川中期以後に、部落の人たちが、自分の先祖はりっぱな武士であったということで、卑屈になるまいとしてつくられた話であろうが、浪人が流れ込んで、その部落の頭になったという場合もじっさいにあったろう」。

歴史学者・井上清の学問的前提として、「賤民史観」と「愚民論」があって、このような誤謬に満ちた結論に至っているのでしょう。

井上によると、民衆というのは、実におろかで、権力から差別・抑圧・排除を受けると、それに屈従して、ありもしない「幻想」(作り話)をつくりあげて、その中に埋没し、自分で自分をなぐさめるしか脳のない、あわれな存在・・・、でしかないのかも知れません。

『部落学序説』の筆者である私は、歴史学者・井上清の民衆(「百姓」・「穢多」の末裔)に向ける視線は、非常に、差別的な視線・まなざしであると思うのです。

歴史伝承には、どの伝承にも歴史的な「核」があります。その「核」に目を向けるのが、歴史学者の歴史的伝承に対して当然もつべき姿勢でしょう。それなのに、井上は、「部落の人たちが、自分の先祖はりっぱな武士であったということで、卑屈になるまいとしてつくられた話であろう」と、根拠を提示することなく、「推測」を読者に押しつけます。

歴史的叙述をする場合、すべてのことが史料で確認できるわけではありません。存在している史料と史料の間を「推測」という「解釈」で埋めなければならない場合も存在します。そのとき、「推測」は、歴史学者の恣意にゆだねるのではなく、「推測」に際しても、学問的手続きの徹底が要求されると、歴史学のしろうとである筆者はそう思うのです。

民俗学者・宮本常一が描き出す「古老」の姿と、歴史学者、しかも被差別部落の歴史学者である井上清が描き出す「古老」の姿との間には、恐るべき断絶があります。一方は、「古老」の語る伝承に耳を傾け、一方は、「古老」の語る伝承を「作り話」(虚構)として切り捨ててしまいます。そして切り捨てたあとに、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を注入するのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の聞き取り調査にでかけたのは、私と「研究者」(高校の社会の教師)でした。その被差別部落の古老との出会い、そしてその証言をどのように受け止めたか、その違いは、民俗学者・宮本常一と歴史学者・井上清の間にある違いに相当します。十数年に渡って、その解釈をめぐって情報交換してきましたが、両者の間にある溝は克服することができませんでした。

筆者は、「穢多」という概念は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を指す「穢多」として、アドホック(間に合わせの言葉)、中国起源の漢字の意味にはその存在を規定されないと認識します。しかし、「研究者」は、「穢多」が、「穢れ多い」と表現されるのは、そう表現される必然的な現実があったからだと漢字の意味にこだわり「賤民史観」を固持します。

民俗学の祖・柳田国男は、「史心」の大切さをときます。「史心」は、歴史学の専門家(歴史学者や教育者)でなくても、身につけることができます。なぜなら、人間は歴史的存在であり、人生は歴史そのものだからです。生きるということは歴史を刻み続けるということですから、「史心」は、民衆の天性のようなものです。柳田国男がいう「史心」を、同じ民俗学者である、『家郷の訓』の著者・宮本常一は「史眼」といいます。宮本は、「古老」の中に、民衆の中に、「史眼」を見いだし、「愉快であった」と感激しています。

『部落学序説』筆者である私は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から被差別部落の歴史を解放するためには、民衆が、柳田国男のいう「史心」、宮本常一のいう「史眼」を、民衆の手に取り戻さなければならないと思います。

この『部落学序説』を読んでくださる読者の方々も、その気になれば、今日からでも、この「史心」・「史眼」を持つことができるのです。

被差別部落出身の方々にとっても、宮本常一著『家郷の訓』(かきょうのおしえ 岩波文庫)は、「史心」・「史眼」の教科書になりうると思われます。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業によって、被差別部落の中からも、「村」=「部落」が消滅していったのではないでしょうか。被差別部落の人々が住む「部落」は、もはや「村」=「部落」ではなくなってしまっている・・・、日本全国の被差別部落の中でそのようなうめきがあると、筆者は耳にしています。

『部落学序説』の筆者である私は、「差別」の側にあるひとも、「被差別」の側にある人も、共に、「村」=「部落」の意味を考え直すべきであると思っています。日本人は、「部落」否定の論理の中で、「村」=「部落」の持っている大切なものを失ってきたのではないかと思います。

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「村境」の変貌

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第3項】「村」、近世から近代へ 1.「村境」の変貌



近世幕藩体制下の「村」は、明治4年頃までは、そのまま継承されていきます。明治4年8月、「太政官布告第61号」が出されることによって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての最後の身分が廃止されました。

その布告は、「えた非人等の称廃され候条、自今、身分職業とも平民同様たるべきこと」として出されました。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「身分と職業とがなぜ併記されているのか」、問題があるといいます。「身分を解放すればいかなる職業を選ぼうと自由なわけなので、平民同様の身分と職業を持つというように限定した理由は何か、ということが問題になる」といいます。

近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」(職業)から成り立っていることは既に説明してきたとおりですが、太政官布告が、「身分」と「職業」を併記するとき、それは、「身分」からの解放が、「役務」と「家職」(職業)のうち、「家職」(職業)のみに限定されたと解釈されます。つまり、太政官布告によって、「家職」(職業)は明確に自由になったことが宣言されたけれども、「穢多」の「役務」については、ひとことも言及されず、あいまいな状態に置かれた・・・と解釈されます。

私は、明治4年の太政官布告の特質は、「半解半縛」であったと思います。

「半解」というのは、「役務」と「家職」(職業)のうち、「家職」(職業)のみが解放されたこと。「半縛」というのは、旧穢多の「役務」について一切の言及がなされず、あいまいな状態に置かれたこと。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が、近代明治政府によってどのように位置づけられたのか、きわめてあいまいであっことが、明治以降の、旧穢多・新平民に対する差別の温床につながっていったのではないかと思います。

このことは、後日あらためて論ずるとして、明治4年の太政官布告によって、同心・目明し・村方役人についで、近世幕藩体制下の「穢多」身分の称が廃止されたことによって、近世幕藩体制下の「村」はその性格を大きく変えていきます。

近世の「村」が、近代の「村」へ、そして、大日本帝国憲法下の地方自治制度の基本的な共同体としての「部落」へと変遷していきます。その尤も大きな変化は何であったのか、「村境」を中心に考察してみましょう。

近世幕藩体制下の「村」と「村」の境を「村境」といいます。

筆者は、「村境」も二重定義の概念であったように思います。ひとつは、「点」としての「村境」と、もうひとつは、「閉じられた線分」としての「村境」です。

「村境」は、「点」であったのか、「線」であったのか、歴史学者や民俗学者の間でその是非をめぐって論じられてきました。しかし、その議論は、平行線のまま、未解決の状態で今日に至っていると思われます。

学歴も資格もない筆者は、そのような学問的葛藤から自由になって、二重定義された「村境」の意味を大胆に整理してみたいと思います。

「村境」について、優れた著書である、赤坂憲雄著『境界の発生』があります。赤坂は、近世幕藩体制下の「村境」は、「点」として存在していた・・・と、考えているようです。

赤坂は、民俗学者・折口信夫の『民族史観における他界観念』(全集第16巻)の一節を引用します。

「一体地境は相接した地の何れに属するかと言ふことになると、議論が出るが、此は境の観念が変わった為に起こったことで、両方のいづれにも属せぬ地境の様なものを想像して居たのである。だが、本来は、ここから向こうまで、又向こうからあれまでといふ風に見とほしの地物を連ねて考へていたのでは、実はなかった。中間にどちらから来ても、ふみ越えねばならぬ地帯があり、此が空虚-想像の上にばかりあったことも多い-な所である。坂といふ後は、此に関連している。坂を間において二つの土地の関係を考へる時に、さかふという語を思ふようになった。其観念的な語から具体的な地域に表して考へた時、さかひと言ふ語が使われるようになった。其境は横に山の尾や、地点を通し連ねて物を観察する語ではない。その道の堺になった地点だけを言ふのである。道の通過する地点以外に神の固めている所はないが、-人はさう言ふ地点と地点とを横に連ねて、境界線といふやうな脊梁地帯を考へる様になったに過ぎない。だから境は線ではなく点であったと言へば、少し比喩に近い言ひ方になるが、大体間違ってはいない」。

折口は、「村境」は、「線」ではなく「点」であったといいます。

しかし、筆者は、近世幕藩体制下の史料を検証していくうちに、「村境」は、折口や赤坂が指摘するように、「線」ではなく「点」であったと、あれかこれかを突き詰めて、一方を受け入れ、もう一方を斥ける論理というのは、一面的ではないかと思われるのです。

近世幕藩体制下の「村境」は、二重定義の概念で、「点」でもあるし、「線」でもあるのです。少しく史料を集めれば、近世幕藩体制下の「村境」を「点」として描くことも、「線」として描くことも可能なのです。

まず、「点」としての「村境」を論じて、のちに、「線」としての「村境」を論じてみましょう。

【点としての村境】

長州藩の『地下上申絵図』では、「村境」「線」として、地図上に図示されています。一方、『御国廻御行程記』では、「村境」「点」として表現されています。

山口県立文書館発行の『絵図でみる防長の町と村』には、この『地下上申絵図』や『御国廻御行程記』から、長州藩の主要な村の地図が収録されています。この、『絵図でみる防長の町と村』は、山口県の公立図書館にもれなく配布されていますから、誰でも閲覧することができます。

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「凡例」には、このような記述があります。

「原本はいずれも近世封建期のものであるので、その記載内容と表現には当時の身分制度にもとづく差別的な事象と表記が含まれています。このため本書では、これらの差別の撤廃に沿うよう、特定の身分・集落・職業にかかわる差別的な表記としての文字・図象については、一定の配慮と措置を講じました」。

つまり、山口県立文書館発行の『絵図でみる防長の町と村』は、原本が改竄されているので、一般の人は、その地図を見ても、どこに被差別部落が存在しているのか認識できない・・・ということを意味しています。

「特定の身分・集落・職業にかかわる差別的な表記」というのは、地図上で表記された「穢多」を含む記載のことであると思われます。山口県立図書館に行けば、原本を自由に閲覧できるわけですから、長州藩の「穢多」の在所を知ろうと思えば、簡単に知ることができるのです。

しかし、筆者は、山口県立図書館に通う時間的ゆとりをほとんど持ち合わせていなかったので、公開された資料を検証して、「穢多」の在所を推定することになります。『絵図でみる防長の町と村』を手がかりに、「穢多」の在所を知るてがかりのひとつに、「村境」があります。

『御国廻御行程記』では、「穢多」の在所は、「村境」を示す表記と記号で記されています。表記というのは、岩国藩を例にとると、「岩国村・関戸村村境」、「関戸村・錦見村村境」・・・と、記され、家一軒分と同じ大きさの赤く塗りつぶされた●で表現されているのです。「村境」は、まさに、「-」(線)ではなく、「●」(点)でしるされているのです。

「●」(点)としての「村境」とは何なのでしょう・・・。

《岩国領の被差別民について》の著者・宮田井津美は、「村境」には、「番固屋」が配置され、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(この場合は、「集団を離れて各地に散在する」道の者・茶筅)が勤務していたといいます。「●」(点)としての「村境」は、近代以降の表現を使用すれば、「駐在所」が配置された場所であったのです。

多くの場合、「●」(点)としての「村境」は、「穢多」の役務遂行の勤務先になります。「穢多」は、近くにある彼らの在所から、その番固屋に毎日勤務していたと思われます。「穢多」に対しては、その「役務」の代償として「日別米一升」の給与が支払われています。

要するに、「●」(点)としての「村境」は、犯罪を未然に防止したり、犯罪が発生した場合の取締りをしたりする拠点になった場所なのです。この「●」(点)としての「村境」は、近世幕藩体制下の支配者の側から見て、非常に重要な「役所」のひとつであったのです。「村境」に勤務する「穢多」は、さまざまな検問・探索・捕亡の近世警察の職務に従事していたのです。「穢多」は、凶悪犯逮捕の際には帯刀することもめずらしくありませんでした。「●」(点)としての「村境」は、長州藩の主要街道の重要な拠点にくまなく配置されていたのです。

『瀬戸内の被差別部落(その歴史・文化・民俗)』(解放出版社)の著者・沖浦和光は、「大三島などの比較的大きな島には、村から村への街道筋、特に村の入口には必ずと言ってよいほど部落があったが、これらの地区もやはり警固役が主たる役務であった」といいます。

沖浦は、またこのように語ります。「広島藩では・・・街道筋や川筋に一定の距離をおいて点々とある。あるというよりも、配置されていると言った方が適切であろう」といいます。「藩の命令によって、もともと住んでいた所から、街道筋や村境、河原や山裾などに強制的に移住させられた「かわた」集落もあったのではないか・・・」といいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」のひとりであったことを、限りなく否定します。そして、「穢多」は、読んで字のごとく、「穢れ多い」存在として、差別され排除されていた身分外身分・社会外社会とするのです。筆者は、「賤民史観」の解釈は、「穢多」の歴史の真実を覆い隠すものであると考えています。

明治4年に至るまで、近世幕藩体制下の村に存在していた「村境」は、歴然と存在していと思われます。しかし、明治4年の太政官布告によって、「村境」を守る「穢多」は、排除されていきます。「穢多」のいなくなった「村境」・・・、それは、もはや「村境」ではありませんでした。明治4年以降、「●」(点)としての「村境」は廃止されていくのです。すべての国民は、この「村境」を自由に越えることができるようになるのです。「村境」を警固していた「穢多」についても同じことが言えます。

この「村境」は、明治政府によって、政治的に廃止されていきますが、中世・近世の時代を「村」の中で生き続けてきた「百姓」にとっては、その生活と内面世界に、「村境」は生き続けることになります。権力装置としての「村境」は消滅し、近世・中世と悠久の時間の流れの中でつちかわれ、「百姓」・「村人」にとって、習俗・慣習となった「村境」は、「村人」の心の中に生き続けることになるのです。

明治4年の太政官布告以降、「村境」にまつわる「穢れ」(法的逸脱)は廃棄され、近世幕藩体制下の「特別な場所」(波平恵美子著『ハレ・ケ・ケガレ』)「村境」は、単なる習俗・慣習に変質し、「心意的な村境」(『民俗学探訪事典』)にその内容を大きく変えていくのです。

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近世の「村」から近代の「部落」へ

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第3項】「村」、近世から近代へ 2.近世の「村」から近代の「部落」へ

近世から近代へ、近世幕藩体制から近代天皇制へ、社会と政治が大きく変動していく中で、日本全国津々浦々に存在していた「村」もまた大きくその様相を変えていきます。

その最たるものが、「村境」の廃止でしょう。

ここで、「廃止」という意味は、近世幕藩体制下で実施されていた「村境」の廃止という意味です。近世幕藩体制下の「村境」は、「点」としての「村境」と、「線」としての「村境」がありました。近世幕藩体制下を通じて、「点」としての「村境」も「線」としての「村境」も共存していましたが、幕末に近付くにつれて、「点」としての「村境」が強化されます。

村落共同体としての「村」は、「家が群がってできたもの」(『民俗探訪事典』)なので、最初から、空間的・地域的ひろがりをもったものです。通常、その「村」には、一本以上の「道」が走っています。その「道」が、その「村」の空間的・地域的ひろがりの先端と接するとき、それが「村」の入口・出口になります。

その入口は、旅の役人・商人・巡礼者が「村」に入ってくる場所であり、その出口は、彼等が再び旅を続けるために「村」を出ていく場所です。

近世幕藩体制下の「村人」たちは、日常の世界においては、その「村」の外へと行動を広げることは「穢れ」(法的犯罪)として処罰されました。その「村境」には、藩(代官所)の役人が配置され、「村」と「村」に出入りする村人や旅人を監視していました。もし、なんらかの疑わしき点があれば、村人も旅人も、即刻捉えられ、取調を受けたことでしょう。その手荷物の中に、盗品や禁制品が見つかれば、「拷問」にさらされることも決して少なくなかったでしょう。

その「村人」は、代官所や庄屋から、正式に許可がおりたとき、多くの場合は「ハレ」のときですが、隣村の祭りにでかけるとか、巡礼の旅に出るとかする場合には、その「村境」を「通行手形」(村人の身元を明らかにしたもので、所属する旦那寺が記載されている)を提示して、堂々とその「村境」を越えることができました。

《共同体と豪農》(岩波日本近代思想大系『家と村』)の著者・海野福寿は、近世幕藩体制下においては、「領主は家あるいは個人を人心的に直接支配したのではない」といいます。

日本の全国津々浦々の藩主は、その百姓を「直接支配」していたのではなく、「間接支配」していたというのです。当然と言えば当然ですが、「武士」が百姓を「直接支配」する場合は、たとえ武器を持っているとはいえ、少数の「藩士」・「士雇」・「穢多」だけでは、「百姓」を、江戸時代300年間に渡って支配し続けるということはできなかったでしょう。それができたというのは、近世幕藩体制というものが、百姓を「直接支配」するのではなく、「村」制度を使って、「間接支配」を貫いたためであったと言われます。

海野はこのようにいいます。幕府と諸藩は、「村を単位とする支配を行った。領主は検地によって村の境界を定める(村切り)とともに、農業経営体としての家と土地を分離せず、家の連合体である村を形成している百姓と土地を一体としてとらえ、検地帳によって算出された石高をもとに村ごとに租税を課した・・・」というのです。

近世幕藩体制下の「村境」は、この場合、「点」ではなく「線」であると考えられます。村と村の境界は、検地によって、村全体が把握され、検地から漏れる山野は一片の土地もなかったと思われます。つまり、ある「村」とそれに隣接する他の「村」とは、その間に、所属の不明な中間的な場所の存在を許さず、排他的にいずれかの「村」に帰属させられ、その「村」の課税の対象とされたのです。

長州藩の本藩と、その枝藩である徳山藩との間で、山に生えている木を村の境界を越えて伐採するという事件があり、双方がゆずらなかったため、「徳山藩廃藩」という信じられない結論を迎えてしまいます。

「境界」の侵害問題は、小藩にとっては死活問題になる場合もあるのです。

海野は、近世幕藩体制下の「村」は、2つの機能を持っていたといいます。

「ひとつは共同体としての自治的機能である。林野・用水に全面的に依拠せざるをえない農業経営のための山や水の共同管理、道路・橋梁・水防・消火・用排水路普請などの共同労働。あるいはそれらに必要な村財政の管理。さらには共同体秩序維持のための治安から倫理・道徳にいたる行動規範である村法の設定と村民に対する強制等々。村は家と個人の生産・生活を強く強制し、統合する共同体なのである」。

「もうひとつは行政的・徴税請負人的機能である。領主は個々の家々と農民を直接支配したのではなく、村を支配の単位とした。村を媒介とし、石高を基準として農民を間接支配したのである。村と農民を支配する名主(庄屋)を筆頭とする村方三役(村政執行機関)を領主が支配するという、重層的な支配構造である。租税にしても、領主は個別の家に対して賦課するのではなく、村単位に割付け徴集した(年貢の村普請)。村ではこれを各家の持高に応じた負担配分を行うが、領主に対する責任主体はあくまで村にある。・・・(村方三役は)年貢末進や百姓逃亡の全責任を負うことになる。このため村民の貧窮をまるごと背負うことになった・・・」。

海野によると、近世幕藩体制下の「村方三役」に課せられた、藩の政治の代行機関・・・、というより藩政そのものは、複雑多岐にわたる総合的なものであることがわかります。その職務遂行のため、村方役人には、他の百姓と違って、警察権力が付与されます。

民俗学の祖・柳田国男が「常民」という範疇から「庄屋」等をはずす理由はここにあるのではないかと思われます。「常民」は、「非常」に直接かかわることはないが、「庄屋」等、村方役人は、「治安」の維持によって、村の政治・経済・文化・暮らしを守るため、犯罪の予防と摘発・排除を実施する必要がありました。

近世幕藩体制下の庄屋の「くら」は、「村」の2つの機能を実施するために不可欠の装置でした。不幸にして犯罪者が出た場合、あるいは、「村」の外からやってきた犯罪者が逮捕された場合、庄屋の屋敷の「くら」が取調のための揚屋・牢屋として用いられました。庄屋の屋敷の「くら」の中に座敷牢が設置されていた村も少なくありません。

それともうひとつ、「くら」の重要な機能のひとつとして、藩に納める年貢米の一時的保管や、飢饉を想定した村民救済のための貯蔵米の保管場所として機能がありました。庄屋をはじめとする村方役人の、政治設計と実行力の違いによって、村民の浮き沈みが起こりました。実質の統治者に相応しい能力を持っていない、あるいは、村方役人の権威に溺れた庄屋等は、その村人によって、「打ち壊し」の対象にされました。

村の「境界」の中には、村人の所有する畑の「境界」があります。

その「境界」設定は、実務上は、村方役人によって実施されました。

『日本中世の村落』(岩波文庫)の著者・清水三男は、「法を行う警察力が武士側に吸収されて行った」といいます。「法を行う警察力」としては、現代の特別公務員(警察署・税務署・法務局等に従事する人々)が該当するのではないかと思います。彼等は、いわゆる、その職務に関係した専門的な知識と技術をもった人々です。その習得には、相当数時間がかかります。そのため、政治的変動を越えて、それぞれ支配権を握った権力によって、「旧制温存」という形がとられます。

清水は、「周防国の如くは江戸時代に至るまで・・・郷司・郡司・図師・刀禰など律令農村の村役人が長く後まで遺存した」といいます。

近世幕藩体制下、岩国藩の「村」の「庄屋」の下に「刀禰」役が置かれています。清水は、刀禰は、「図師として、検地に関係する技術者としての面が伴う場合があった」といいます。検地実施に際しては、「測量製図の技術者を必要とするため」「刀禰はその監督指導に当たり、また自らもその知識を有していた」といいます。検地に伴う知識と技術を前提に、刀禰には、「土地売買の保証署判」という「保証行為」を実施する「警察権」が付与されました。

清水は、村方役人の「刀禰」には、「その権力の盛衰には左右されない地位の安定があった」といいます。「村役人の中、刀禰は検地技術並びに警察力を有したために後まで生き長らえる」のです。古代・中世・近世という歴史の区画を乗り越えて、その職務に従事していったと考えられます。

これは筆者の推測ですが、古代・中世・近世へと時代の変節を乗り越えて継承されていった刀禰役は、ただひとり刀禰役だけでなく、「警察力」を持っていた他の社会層についても同じことが言えるのではないかと思います。

そう、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(筆者は、衛手(えた)という)についても、「警察」という専門知識と技術を要する職務として、「刀禰」役と同じく、「穢多」役も、古代・中世・近世へと、時代の変遷、権力の盛衰を越えて継承されていったのではないかと思います。徳川幕府が江戸を近世幕藩体制下の政治の要所とするとき、関東にはいってきた徳川家康の前に馳せ參じて、関東一円を支配する「警察力」の担い手として承認を求め、幕藩体制下での継承を認められたのが、団弾左衞門です。「法を行う警察力が武士側に吸収されて行った・・・」という清水の説明は部落史を見直すときの重要な指標になります。

嵯峨天皇のときに設置された「令外の制」(制度外制度)に勤務した役人は、「身分外身分」とされましたが、それは、古代律令制度が想定していなかった制度・身分という意味で、制度外制度・社会外社会であるからといって差別・疎外・排除されていたわけではありません。日本の歴史の中に挿入された警察制度は、古代・中世・近世を通じて、時代の波を越えて継承されていきます。

古代・中世・近世を通じて、「警察力」をになった人々に対して、基本的には、支配・被支配の側を問わず、敬意を持って接していたのではないかと思います。

明治政府から、「警察官」(番人)の派遣を要求されたとき、長州藩の藩主は、明治政府のその申し出を断ります。理由は、毛利藩主によると、「番人というものは、その土地の情報を保有しているからこそできるのであって、長州藩の番人を、東京という見ず知らずの場所に派遣したからといって、どうして番人の職務を成功させることができようか・・・」(筆者の言葉)といって、堅く辞退したといいます。長州藩の「番人」の何たるかを熟知していた「藩主」は、明治4年の太政官布告以降、長州藩の番人(同心・目明し・穢多)を、山口県の「警察力」の中にそれを吸収していきます。長州藩に限りません。日本全国、同様のことが生じたのです。

法と職務に忠実な「警察官」(番人)は、一朝一夕には養成できないからです。

『部落学序説』の筆者である私は、明治政府によって実施された、近世幕藩体制下の旧制度に対する暴挙・暴圧とも言える「リストラ」によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の多くは、明治4年をもって、突如、その職務を解かれます。明治政府の「半解藩縛」政策は、「非常民」としての「穢多」を社会的に窮地に追いやってしまいます。やがて、それが、現代の部落差別につながる温床になっていきます。しかし、相当数の長州藩の「穢多・非人」が、近代山口県警察に吸収されることによって、かろうじて、古代・中世・近世・近代・現代へと、由緒正しき「警察官」の歴史は継承されているのではないかと思います。

近代の「村」から、「●」(点)としての「村境」が消えてしまったように、「-」(線)としての「村境」も消えてしまいました。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての同心・目明し・穢多と言われた人々は、明治になって、「平民」とされ、「武士」の世界と完全に切り離されてしまいます。そして、幕末から明治初期にかけて、日本と日本にやってくる諸外国の人々を恐怖に陥れた「草莽」の、いわれなき汚名を着せられて、日本の幕末・明治の「罪」を背負わされて、「スケープゴート」(身代わりのための犠牲のひつじ)のように野に放たれます。古代・中世・近世へと受け継がれてきた由緒正しき警察官の明治政府によるリストラによって、「穢多」の多くは、武士身分を追われ、百姓と同じ平民にされたものとして、「新平民」として民衆から侮蔑を受けるようになります。

幕藩体制下の彼らの支配の範囲は「芝」(しば)と呼ばれていました。「穢多」の支配は、藩の定めた「芝」を越えることはできませんでした。その「芝」は、その周辺の「芝」と「線」で接していました。大熊哲雄は『部落史における東西』(解放出版社)の中で、「芝」と「芝」は、「間隙なく他の場との境ができていた」と指摘しています。その著書の中で、図示された「芝」は、閉じられた線分で囲まれた、ひとつ以上の「村」の境界をなぞった「芝」の境界でした。

明治政府による司法・警察に関する旧制度が解体されていくなか、近代の「村」から、「●」(点)としての「村境」も、「-」(線)としての「村境」も消されていってしまうのです。

それは、近世幕藩体制下の藩政によって培われ、藩主の下にある村落共同体・「村」として生き抜いてきた、その「村」を、明治政府は、各藩政から切り離し、明治政府が指向する近代中央集権国家・明治天皇制国家を構成する基礎的単位としての村落共同体として位置づけ、再構成を図るためでした。中央集権を実効たらしめるため、その阻害要因となるとみなされた、「●」(点)としての「村境」も、「-」(線)としての「村境」も、政治・行政の世界からその姿を消すことになるのです。

そして、明治以降、この「●」(点)としての「村境」、「-」(線)としての「村境」は、民俗として、習俗・慣習として、民衆の中に生き続けることになるのです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の職務遂行の場所としてではなく、民衆の中の「心意的な村境」として、民衆の生活や暮らしを規定していくものになるのです。それだけ、日本全国どこにでもある「村境」、西日本だけでなく、東日本にある「村境」は、民衆の生活や暮らしと深く密着したものであったのです。

明治政府が、諸外国の法律顧問の指導のもと、大日本帝国憲法下で、有機的に機能する地方自治制度模索していた時代に、その根幹となる、近代中央集権国家の支配が貫徹する基礎的な共同体の呼称として、近世幕藩体制下で親しみなじんできた「村」概念(「むら」という自然村)が破棄されて、その代わりに、「部落」という概念が採用されます。

「部落」という概念は、天皇制用語のひとつです。

柳田国男等民俗学者の多くは、「村」(むら)という言葉に置き換えて「部落」という言葉を使用します。「部落」は、民俗学の基本的な研究対象ですが、「部落」という言葉には、「宗教共同体」という意味が内蔵されています。明治政府は、ドイツ人法学者・モッセを通じて、ドイツの地方自治が、宗教共同体としてのゲマインデに基礎をおいているのと同じく、日本の地方自治も宗教共同体としての「部落」に基礎を置こうとします。その際、明治政府が意図している「宗教」とは、「神道」であることはいうまでもありません。

「部落」概念は、明治天皇制下の地方自治において、中央の意志を伝達することができる基本的な村落共同体として、神道という宗教装置を配置して構築されていきます。

柳田国男等の民俗学は、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的研究としてはじめられましたが、その際の宗教学は、神道中心でした。民俗学は、日本古来の民俗を構築する方法論を持ち合わせてはいません。日本民俗学は、明治天皇制下で構築された、基礎的な概念としての村落共同体を意味する「部落」(神道を中心とする理想社会)がどれだけ、日本の社会の中に浸透していっているか、それを検証し確かめるためにつくられた学問の側面を持っています。そのため、民俗学は、沖縄の伝承や風俗・習慣の中に、日本古来の民俗、神道を中心とした村の「理想形」を抽出して、錯倒した研究成果を公表したりします。

「部落」は、日本古来の「むら」の姿ではなく、近代にはいって、明治政府によって、近代中央集権国家に相応しい村落共同体として作り替えられた、神道中心の「むら」だったのです。

「部落」とは何か、中国起源の漢字をいくらつついてみても、その本質を理解することはできません。「部落」という概念は、明治20年代に、不承不承、ドイツ語のゲマインデの翻訳語として登場してくるのです。「自由」・「社会」・「権利」・「国家」・・・、近代の政治・思想を表現するときに使用する多くの言葉と同じく、「部落」という言葉も、欧米語の翻訳語として登場してくるのです。

近代日本は、古い「むら」を破壊しつつ、明治政府のいう新しい「むら」を構築していったのです。明治30年代にはいると、その「部落」という概念は、普及して、多くの人々によって使用されるようになります。しかし、外交上の問題で、明治政府は、「部落」という概念が、神道共同体を意味するという事実を隠蔽していくことになります。

「部落」という、近代天皇制のイデオロギッシュな概念は、近世の「村」(むら)が天皇制の意図する「村」になっていているかどうかの判断基準ともなります。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、東日本においては、その宗教は、白山神社に対する白山信仰であったと言われます。明治政府によって、古来の神社が、国家宗教として統廃合されていく中で、長吏とその宗教をめぐってまったく軋轢がなかったということではありませんが、東日本では、「部落」(神道共同体としてのむら)を受け入れるのに、西日本とくらべて、さほど、大きな抵抗はなかったと思われます(筆者のこの問題に関する研究は進んでいません。現時点でいい得ることを言っているに過ぎません。)。

西日本の「穢多」の宗教は、大きくは、「浄土真宗」でした。浄土真宗の熱心な門徒は、一神教のようなものの見方・考え方をしていました。ですから、明治政府が、神道中心の村落共同体としての「部落」概念を押しつけたとき、それにはげしく抵抗しました。山口県の村で、浄土真宗の強い地域では、いまでも、神道儀式を実施しない集落が存在していると言われます。柳田国男等の「神道民俗学」に、「仏教民俗学」を対峙する民俗学者によって明らかにされています。

一般の「部落」が、神道中心の「部落」であるとすると、仏教中心、とりわけ、浄土真宗中心の「部落」は、一般の「部落」から逸脱した「部落」・・・、すなわち、特殊な、例外的な一面をもった「部落」とみなされるようになっていったと推測されます。この筆者の、「特殊部落」という概念についての、まったくあたらしい見方は、まだ証明しきったわけではありませんが、「特殊部落」が東日本からは消え、西日本に重点的に残ったとする通説の背景に、このような事態もあったのではないかと推測されます。

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「部落」概念の普及は明治20年以降

【第4章】太政官布告批判
【第1節】「部落」とは何か
【第4項】翻訳語「部落」-法制用語 1.「部落」概念の普及は明治20年以降

「部落」とは何か・・・。

この問いに対する正しい答えは、如何に正しく問うことができるかにかかっていると思われます。

「部落」という言葉を耳にするとき、現代人である私たちは、その言葉を耳にすると、すぐに、「被差別部落」という「部落」に「被差別」という修飾語句をともなった、複合語を思い出してしまいます。

多分、それは、筆者が、西本で生まれ、西日本で教育を受け、成人してからの人生の大半も、この西日本で過ごしているからでしょう。

筆者である私の妻は、東日本で生まれ、東日本で教育を受けましたので、「部落」という言葉を耳にしても、何のことだか、ほとんど理解できないでいました。

時々、私たちが住んでいる宗教施設に、「旅の人」がやってきます。広島からやってきて福岡にいく人や、また、逆に、福岡からきて広島にいく人がいます。着の身着のままのような出で立ちで、食べるものがない、電車賃がない・・・といって、少しのお金を無心します。

そのとき、彼等はきまって、「おれは、○○のもんじゃが・・・」という言葉ではじめます。

私は、ほとんど相手をせず、すぐ近くにある市役所の支所を尋ねて、食べ物や電車賃をもらってください・・・といいます。

○○というのは、山口県の有名な被差別部落の名前です。○○と語ることで、○○「部落」を連想させ、一種の精神的圧迫を相手に与えた上で、食べ物や電車賃の無心をはじめるのです。

あるとき、ことわったあと、その人のあとについていったことがありますが、その人は、少しく離れた民家に、「ただいま・・・」といいながら入っていきました。やはり、○○「部落」を使ったかたりなのかと思ったのですが、いつもは注意しているのですが、ときどき、騙されてしまいます。

あるとき、「沖縄から歩いて旅をしている」という人が昼時にやってきて、「お腹がすいた・・・」というので、それなら、「私たち家族と一緒に・・・」と、私と妻と小さな娘と彼の4人で昼食をとりました。彼は、温かいごはんとインスタントラーメン(有名メーカーの製品)と漬け物・・・という、わが家では、定番メニューだったのですが、彼は、ひとくち、ラーメンを口につけたまま、箸をとめてしまいました。「どうしたのですか」と尋ねましたら、「こんなまずいラーメンはじめてです。沖縄では、こんなまずいラーメンは食べません・・・」と言って、そのまま去って行かれました。

そうか、わが家は、沖縄のひとより貧しい生活をしているのか・・・、そのときそう思いました。

それ以来、○○「部落」だ、食べ物がほしい・・・というひとには、「ちょうどいい、一緒にインスタントラーメンでも召し上がりませんか」というと、「おなかの調子が悪いので、インスタントラーメンならお断りします」と、残念そうに帰っていかれることが度々ありました。そのうち、情報が行き渡ったのでしょうか、食べ物を求めるひとが誰もいなくなりました。ほとんどの人は、「200円でも300円でもください。そうすれば、自分で好きなものが食べられますから・・・」といいます。

そんなある日、「この2、3日何も食べていないんです。何でもいいですから、食べ物をください・・・」と蚊の鳴くような小さな声で話しかけてくる60歳位のおじさんがいました。

私は、「おじさん、なんで食べ物がないんです?」と尋ねかけました。次は、その会話の続きです。

「騙されたんです・・・」。
「騙されたって、誰に?」。
「広島で働いていたんですが、山口にいい仕事があるからといわれて、やってきたんですが、約束の賃金をもらえないんで、逃げだしたんです・・・」。
当分洗ったことがないように見えるおじさんの顔には、眼から流れ落ちた涙のあとが残っています。
「今、どこにおられるのですか?」
「泊まる場所がないので、廃車の中で寝ていました。2週間ほど。持っているお金が無くなったので、食べ物ものを買うことができなくて・・・」。
「おじさん、まだ貰っていない賃金が残ってるの?」
「はい・・・」。
「どこの会社?」。
「それは、ちょっと言えません。その会社に迷惑をかけるかもわかりませんから・・・」。
「迷惑をかけるって。かけられているのはおじさんでしょう! おじさんに、食べ物をあげることはできないけれど、おじさんが、自分の働いた賃金で、自分で好きなものを買って食べれるようにしてあげれそう。私がその会社に行って、おじさんの代わりに残っている賃金とってあげましょう」。
「あなたが、一緒に行ってくれるのですか?」
「そうですよ。心配しなくてもいいですよ。私は、けんか早いって、みんなに知られているんですから」。
「あなたにも迷惑をかけそうですから、結構です」。
「結構じゃないでしょう。がまんしても、空いたお腹はいっぱいになりませんよ。行きましょう、その会社へ」。
そういいながら、おじさんと一緒に、その会社のある方へ、歩き出しました。しかし、交差点で信号を待つごとに、おじさんはこのようにいうのです。
「みんなに迷惑をかけそうですから、結構です」。
「私は、迷惑じゃないですよ。ちょうど暇だったから」。
何度も、そんなやりとりを繰り返しながら、20分程歩いてその会社の前まで着きました。しかし、その建築会社の事務所には誰もいませんでした。少人数の会社のようでしたが、その会社のひとが帰ってくるまで、おじさんと一緒に待つことにしました。
おじさんの話では、出身は山口県の秋吉台の近くだそうですが、町の区画整理があって、町役場のひとがやってきて、「はんこを押せ」というので、押したら、あるとき、自分の住んでいる家から立ちのきを要求されたそうです。補償金はまたたくまに生活に消え、それ以来放浪生活を続けているというのです。
「おじさんをこんな目にあわせたのは誰?」と尋ねると、
「町役場のひと・・・」と呟きます。
「山口県の行政もひどいことするなあ。おじさんのようなひとから、先祖伝来の土地と建物をとりあげるなんて」そんな話をしていて、ふと、あたりを見回すと、おじさんの姿がありません。あたりを歩いて探しましたが、忽然とすがたを消してしまいました。
「もしかしたら、また、騙されたのかなあ・・・」と思っていたら、おじさんが帰ってきました。
「どこへ行っていたんです」。
おじさんは、このように答えたのです。
「あなたにめいわくをかけては申し訳けないので、姿を隠しました。でも、あなたはいなくならないので帰ってきました」。
そうこうしているうちに、その会社の事務のおんなのひとが帰ってきました。すると、またおじさんの姿がありません。私は、その会社のおんなのひとに、語調を強めて、
「お宅の会社で働いたのに、給料を半分しか貰えなかったというひとが、相談に見えられたのですが・・・」。
「それ、もしかしたら、60歳くらいのおじさんではありません?」
「そうですが・・・」。
「私たちも探していたんですよ。どこにいったものやらと。給料については、おじさんが勘違いしているんですよ。うちの会社は20日締めなんですよ。おじさんは、1ヶ月働いたけれども、20日締めのため、今回は半分しか給与をさしあげることができなかったんですよ」。
そのおんなのひとは、私の肩越しにおじさんに話しかけました。
「おじさん、そんな理由で突然といなくなったの?ひとこと聞いてくれたら、説明したのに。みんな、おじさんを一生懸命探したのよ。どこに行ってたの。そんな年で行くとこないでしょう。ここにいなさいよ。きちんと働けて自分で食べていけるから・・・」。
「おじさん、そうだってよ。いいとこじゃない。ここにいたら・・・」。
おじさんは、いままで、何人ものひとに騙されてきたそうです。騙されて、騙されて、騙される都度、働いた賃金を手にすることなく、放浪の旅を続けたそうです。
おじさんは、最後にこういいました。
「あの、もうひとつお願いしていいでしょうか・・・」。
「何です?」
「秋吉台の家と土地、町役場から取り戻してくれませんか?」
「家と土地? おじさんから家と土地をとりあげた町役場のひ