2005.09.02

「素人考え」による批判

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第1項】「素人考え」による批判



筆者は、学歴も資格も持ち合わせてはいません。歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学、法学、政治学 、言語学・・・等、「部落学」構築に必要なすべての個別科学について、まったくの素人です。

素人の考えを、昔から、「素人考え」といいますが、筆者の知人の中には、このブログ上で書き下ろしている『部落学 序説』が、専門家によって完膚無きまでに徹底的に批判されることを期待している人もいます。今か今かと待っておられるのですが、なぜか、どこからも批判は出てきません。

彼はいいます。「専門家は、様子を見ているに違いない。おりをみて、総反撃をしてくるに違いない・・・」。

この『部落学序説』にどのような評価が下されるのかは、筆者も予測の範囲外のことがらです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を一方的に批判しているのですから、当然、批判している研究者から、逆に批判されるということは当然なことです。

しかし、『部落学序説』の「序文」中に出てくる「研究者」のように、「学歴のない人と論争はしない」という姿勢を貫く人も多いでしょうから、筆者の予測では、このままの形で推移するのではないかと思います。

筆者は、学歴も資格も持ち合わせていませんが、学歴や資格を無視しているわけではありません。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を人一倍丁寧に読んで、そこから多くのことを学んでいるという点では、他の人々に遅れをとることはないと思っています。

優れた研究者は、研究に携わるものに対する励ましと希望をも語ります。『法と訴訟中世を考える』の著者・笠松宏至もそのひとりです。彼は、「素人考え」について、このように語ります。

「自ら使えば奥床しい謙辞になるが、ひと樣を対象にすれば、間違いなく侮辱語の一種になる。どちらにしてもその道の玄人でない者がもつ偏見もしくは皮相の見方をしている。しかし、発想の主体が単に「素人」であることのみをもって、玄人の側からそれを一概に無視したり侮ることのできないのは、文学や芸術などに限らない。学問、とくに人文科学、とくに歴史学などという、わからないのが当たり前の大昔のことをも対象とする分野では、その感がひとしお深い。そしてそれが玄人が手を染めていなかった未開の領域に対する提言であったり、疑いもせず思い込まれていた常識への疑問であったとき、そのもつ衝撃度はさらに強い」。

筆者の『部落学序説』は、笠松がいう、「疑いもせず思い込まれていた常識への疑問」でもあります。日本の歴史学に内在する「賤民史観」という「疑いもせず思い込まれていた常識」に対して、筆者は、その「賤民史観」は、歴史学上の差別思想で、そのもとになされた「部落史」研究法によっては、「部落史」の歴史的真実にたどりつくことができないのではないかという疑問を提示しているのです。

筆者が、ときどき、「素人考え」と言われて失笑を買うことがあります。それは、安芸の農民の間に伝えられてきたという「ことわざ」に関するものです。

筆者がまだ20代のとき、当時、東京都町田市の鶴川公民館の館長をされていた浪江虔というひとから聞いた話を、そのまま語り伝えているからです。

浪江虔という人は、戦前、鶴川の地で、農民運動をしていた人です。自由民権運動の研究家でもあったのですが、彼が、講演の中で、「昔、安芸の農民たちの間で、語り伝えられたことわざ」として紹介した、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉です。

浪江によると、近世幕藩体制下の安芸の農民が、「自分たちは、藩権力によって、このように管理されてきた・・・」と、反省と新たな闘いの決意を込めて、語った言葉が、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>であるというのです。

この言葉は、藩権力が、農民一揆を潰すときの手法を語り伝えているのです。

【きりうなぎ】

「きりうなぎ」というのは、こういう意味です。うなぎは、素手で取り押さえようと思っても、からだがヌルヌルしていてなかなか思うように捕まえることができません。しかし、うなぎをまな板の上で料理をするときの光景を思い起こせばわかりますが、錐で、うなぎの頭を、まな板につきさせば、うなぎはその動きをとめてしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、藩権力によって「きりうなぎ」のように潰されてしまった。農民一揆を成功させるためには、藩権力から「うなぎの頭」を守らなければならない・・・、ということを悟ったというのです。

【ざるどじょう】

「ざるどじょう」についてはこうです。どじょうというのは、水の中にいるときは自由に泳ぎ回ります。管理しようがありません。しかし、網で捕らえて、同じような大きさのどじょうをひとつのざるに入れると、どじょうは、急に動きをやめておとなしくなってしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、いろいろな考えを包みきれないで、異なる考えを排除していくときに、藩権力によって潰された。農民一揆を成功させるためには、「同志」だけでなく、幅広い民衆の支持が必要だ・・・と悟ったというのです。

【たるへび】

最後の「たるへび」というのは、農民一揆のとき、一揆の目的を忘れて、農民の間で指導者を誰にするかをめぐって、内部争いが生じるときがあります。そのとき、藩権力は、密かに介入して、農民の指導者群に、指導権争いをさせます。ちょうど、樽の中のへびの群れのように、誰かが指導者になろうとすると、他のものが足を引っ張ります。そして、また他の者が指導者になろうとすると、またまた他の者がその足を引っ張り、延々と、内部抗争に終始し、農民一揆は挫折に追いやられた。農民一揆を成功させるためには、極力内部抗争を警戒しなければならない・・・と、悟ったというのです。

浪江によると、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という安芸の農民の言葉は、近世幕藩体制下の藩権力によって、その農民がこのように支配され管理されていたという、絶望の響きを持った言葉ではなくて、百姓一揆を繰り返し経験することで、今度はもっと上手に百姓一揆を起こそうとした、農民の智恵、闘う姿勢を示したものであるというのです。

東京都町田市の鶴川公民館館長・浪江虔の、戦前戦後を通じて農民運動家として実践を積み重ねてきて、戦前においては、治安維持法違反で9カ月間も投獄を経験した人です。農民の、農民による、農民のための運動を実践した浪江の語る、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉は強烈に響きました。

それ以来、ずっと、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>を語り伝えているのですが、山口の地にきてから、ときどき、「素人はこれだから困る。安芸の農民は、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>と言ったのではなく、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>といったんだよ」と指摘されることがあります。

「きりうなぎ」が正しいのか、「きりかえる」がただしいのか、筆者は知りません。しかし、近世幕藩体制下の農民一揆、百姓一揆の記録を見ていると、「きりかえる」よりも「きりうなぎ」の方が史実に近いように思われます。藩権力は、農民一揆が起きた際には、その提唱者や首謀者となった農民の首をはねています。それは、残酷なまで徹底していました。

「きりかえる」というのは、かえるの鼻先に、錐をつきつければ、かえるは身動きができなくなるということを意味しているそうですが、近世幕藩体制下の農民は、武士から刀や槍をつきつけられたからといって、農民一揆や百姓一揆をやめるということはなかったと思われます。農民の側からの犠牲者を出しても、農民の側は、藩権力に対して、「天理人事に相背き候」と藩権力の不正を追及していったと思われるからです。

長州藩の記録によると、寛文3年(1663)夏、恋路村のふたりの少年が、旱魃の影響で、恋路村の稲が枯れかけていたのを見て、「宮野川の井出を切落とし、恋路村に水を引いた」といいます。そこで、恋路村と隣村との間で「水論」が激化します。自分たちのしたことで、両村が一発触発の事態におちいったとき、恋路村の2少年は、藩主に直訴して、藩主の力を借りて問題の解決を図ろうとするのです。その結果、2少年の訴えは藩によって裁可され、勝訴となるのですが、しかし2少年は「直訴の罪」により萩の大屋刑場で処刑されてしまいます。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》に、百姓一揆の事例として掲載されているところをみると、この恋路村の事件も、百姓一揆のひとつなのでしょう。藩は、「きりかえる」ではなく「きりうなぎ」の論理で、この2少年を無残にも処刑してしまうのです。

「素人考え」と言われようと、筆者は、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>ではなく、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>の方を語り伝えているのです。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》には、長州藩内で起こった百姓一揆の件数は90を越えるとあります。

『部落学序説(削除文書)』の中で触れた、そして、この『部落学序説』執筆の最大のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が住んでいた地方で起きた慶長13年(1608)の百姓一揆は、「検地実施による増加に反対」して引き起こされたものですが、防長二カ国に幽閉された毛利・長州藩は、その強訴を認めず、「指導者の庄屋10人、百姓1人を引地峠で」首をはね、処刑してしまいます。

長州藩は、その地方を、「本藩別業の地」として、近世幕藩体制下全期間に渡って、その他の地方とは異なる処遇を実施します。その地方全体が、長州藩によって、現代的な言い方をすれば、「被差別」の状況に置かれたのではないかと思われます。

『民衆運動の思想』(岩波・日本思想大系)の末尾の論文の中に、安丸良夫著《民衆運動の思想》がありますが、安丸は、元文3年(1738)の磐城国平藩の一揆をとりあげています。

安丸によると、一揆の多くは、突発的に発生したのではなく、「組織性」と「規律性」の下で実施されたといいます。

組織性については、村内に臨時の「指導部」を設置して、家1軒につき1人を限度として一揆に参加させます。徴集された百姓は、「百人を一組として・・・鉄砲になれたる者拾人宛添へ置く」ことが指示されたといいます。一揆に参加する百姓は、怪我を防ぐために、戦闘用の蓑・頭巾で身を固め、五日間の水と兵糧米を用意して餓死対策をたて、「長い伝統と経験のうえにたった民衆の叡知が発揮されており、こうした叡知に支えられて一揆は闘われたのである」といいます。

百姓は、「村八分」をたてに、「庄屋をも騒動に強制参加させた」といいます。
『民衆運動の思想』に収録されている史料の伝える百姓と、百姓一揆にまつわるその姿は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が語り伝えるところのものと大きくかけ離れているように思われます。「賤民史観」は、百姓を「愚民論」の立場から描きます。

武士の末裔でもなく、穢多・非人の末裔でもない、ただの百姓・農民の末裔でしかない筆者は、当然、近世幕藩体制下の百姓の生き方、ものの見方や考え方を踏襲しようとします。

「百姓一揆」をそのように把握しますと、備前藩の「渋染一揆」は、「百姓一揆」とは似てもにつかぬものでした。筆者は、それどころか、「渋染一揆」は、「一揆」ですらなかったのではないかと考えています。「渋染一揆」には、「天理人事に相背き候」という百姓一揆の理念は、どこにも見いだすことができないからです。

筆者は、前掲の《山口県百姓一揆総合年表》を読む都度、思うのですが、歴史の流れの中で、近世から近代へと移っていきますが、それは、日本歴史学の時代区分のように、ある日、ある時、突然と古い時代が去って新しい時代が来るというものではないと思っています。古き時代の中に、新しい時代の息吹が注がれ、新しい時代の中に古き時代の風情が残り、古い時代と新しい時代は、2色のグラデーションのように、徐々に古き時代から新しい時代へと変化していくものだと考えています。

百姓一揆の歴史を見れば、そのことがよくわかります。

筆者は、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下で起きた事件ですが、その「渋染一揆」は、古い時代の中にありながら、新しい時代の息吹が注ぎ込まれていた時代のできごとであると考えています。

「渋染一揆」を、過ぎ去り行く古き時代の「身分差別強化政策」、「無紋渋染・藍染の強制」、その強制に対する抵抗、としてのみとらえると(『部落解放史』解放出版社)、私たちは、「渋染一揆」の歴史上の本質を限りなく見失ってしまいます。明治維新ではじまる新しい時代の到来の12年前に発生した「渋染一揆」の中に、古い時代の精神と新しい時代の制度との間の葛藤が存在しているのです。その「葛藤」を正しく理解しないかぎり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」によって引き起こされた「渋染一揆」の本質は、誤解されたままになります。

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渋染一揆の指導者の実像

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第2項】渋染一揆の指導者の実像



渋染一揆に関する研究書として、まず紹介しなければならないのは、柴田一著『渋染一揆論』です。

『渋染一揆論』は、柴田の論文と巻末に収録された「渋染一揆関係史料」から構成されています。渋染一揆について研 究する際に、避けて通ることができない、大西豊五郎稿『禁服訴歎難訴記』が全文掲載されています。

柴田は、『禁服訴歎難訴記』を読んだとき、「そのころわたし達が概説書、啓蒙書から得ていた部落に対する常識では 、到底理解できない記述に直面し、びっくりしたり、また眼から鱗が落ちる思いがしたものである。」といいます。そして、「それをひとつひとつ地方史料で確かめ、裏をとることはとても困難であったし、この仕事は今日もまだ十分に果たしていない。」というのですが、十分確認がとれていないことのひとつに、次のような「謎」があります。

「一揆を指導した弥一・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか、いまもって謎である」。

柴田によると、「強訴首謀者のひとりとして投獄された福里の弥市というひとが、獄中で牢名主に「唐詩選」のさわりを講釈してやるというひと幕がある」といいます。「また稲坪の友吉というひとは、投獄されたがやがて釈放され、明治五年(1872)稲坪に「小学」が設けられるとその「教授」に任命されている。郡中きっての秀才で頭脳がよかったという伝承もある。」といいます。

柴田は、当時の「概説書」や「啓蒙書」に記された被差別部落民像と、『禁服訴歎難訴記』に記された、渋染一揆に参加して指導した、当時の知識人層との間のギャップに驚きの思いを持ったのでしょう。

当時の「通説」と異なる被差別部落民像を記した『渋染一揆論』に対する批評の中には、「肯定的、好意的なものばかりではなかった。むしろ全く非常識で、部落史というものが全くわかっていないといった酷評」も含まれていたといいます。

柴田は、当時の部落史研究家は、「部落史を「残虐物語」の標本のように理解」していたといいます。柴田は、「階級闘争史観で固まった頭脳」で、柴田の『渋染一揆論』を読んでもらっても、「とうてい理解できるはずはなかった」といいます。

柴田は、さらに、「しかし、著者のわたし自身も、いま反省すると・・・」、渋染一揆の研究に時代的な制約を免れなかったといいます。

柴田の、歴史学者としての真摯な態度を知ることができるのですが、柴田の被差別部落民に対する視線のどこかに、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に影響されていた側面があるのではないかと思わさせられるのです。

「一揆を指導した弥一・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか・・・」、そのような問が、柴田の脳裏に浮かんでくることそのものが、柴田の時代的制約を物語っていると思うのです。

『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一は、このように語ります。

「世間の人は「部落の人は字を知らない」とか「文化の程度が低い」といいますが、そういう現象は明治以降なのです。それ以前は、部落の人たちは、文字がなければ生活できなかったのです。なぜかというと、「長吏」という役は権力の末端を担う仕事ですから、さまざまな役があるのです。今でいう「警察」や「刑務所」の仕事です。だから、字を読め、あるいは、書き、役目を理解する必要があるのです。字を知らないと、「長吏」という役がつとまりません。たとえば、「何日から何日まで牢番をしろ」という命令が文書でくるのです。それで、たしかに命令を受け取ったという請書を書くのです。今でいう文書のやりとりです。必然的に字の読み書きが必要になってくるのです。高度な漢書を自由に読み書きできる人もいました。こういう人たちがどこの部落にも必ずいました。そして、その部落の文化を大きく支えていたと思うのです」。

被差別部落の側からの主張をそのまま受け入れるとき、『渋染一揆論』の著者・柴田一の、渋染一揆を指導した弥市や友吉に対して抱いた、「いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか・・・」という問は、柴田の偏見・予見に基づく判断であるといいうるかも知れません。柴田は、その偏見・予見が強ければ強いほど、『禁服訴歎難訴記』に記された、渋染一揆に参加して指導した当時の知識人としての弥市や友吉の姿に、柴田の思いを超えた驚きの思いを持たざるを得ないのです。

水平社宣言の執筆者のひとり、平野小剣こと栃木重吉は、福島県福島市代町の被差別部落出身です。阿武隈川畔にある彼の「生まれた村は小さな町くらいの戸数と人口を有していた」といいますが、「明治34年の冬であったか火災にあって全戸数のほとんどを焼燼して、今は(1926年当時)わずかに15、6軒しか残っていない」といいます。現在では、一般民家に吸収されて、その存在は消滅していますが、栃木重吉は、昔の記憶をたどりながら、このように語ります。

「この俺の生まれた町、昔はどんな社会的待遇をうけていたか、老翁の語り草を思い出してみる。この村の一角には獄屋があった。そこへは村人はたいがい番卒として働いていた。・・・大仏城主の板倉様からは不浄役を仰せつけられ祿米をいただいていた・・・。浪人どもは時おりこの村へ足を入れた。そのたびごとに村人に手習いや読み物などを教授してもらった・・・。(穢多村に出入りしていた浪人や武士の中には)この村に一生を過ごした者もある」。

栃木重吉は、幼き日に聞いた古老の話を、振り絞るように思い出すのですが、そのかすかな記憶の中にも、穢多村の子どもたちが読み書きを学んだ様子が語り伝えられているのです。

幕府が、「穢多」の名を持って統一した、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての穢多は、当時の社会の知識階級を形成していた下級武士と同様、高度な知識と教養を身につけていたものと思われます。

筆者が集会に参加していた被差別部落の「解放学級」の参加者は、現在50未満のメンバーの大半は、「学歴」の持ち主です。大学・短大の出身者で、公立小・中・高校の教師をされている方も少なからず存在します。

筆者は、「無学歴」・・・。父親の倒産を契機として、貧困と病気にさいなまれた私は、青春時代の貴重なときを家族を支えるためにそのほとんどを費やしてしまいました。ただの百姓の末裔であり、貧乏人でしかない親を持つ私には、「学歴」を持つ機会はあたえられませんでした。

筆者は、ときどき思っていたのですが、被差別部落の人々は、せっかく、身につけた高学歴を、なぜ、被差別部落の歴史を解明し、ほんとうの差別なき社会を作るために労しないのだろうか・・・、と。部落差別から逃亡に逃亡を重ねて、何の問題解決ができるのか・・・。

33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけて実施された同和対策事業や同和教育。それが、国家の施策で終了のときを迎えたとき、多くの部落解放運動に参加した人々が、その前線から撤退していったと風の噂で聞いています。

公共事業の見直し論議が盛んになり、その関係者が逮捕され、裁判にかけられる事例が多発する今日、かっての同和対策事業や同和教育にまつわる不正の摘発・逮捕・裁判という事例に遭遇するのを恐れて、身を引いていっている当事者も多いそうですが、今日、同和問題にかかわり、その運動に参加するというのは、廃墟と化したレジャーランドにたたずんで、在りし日の姿を想起するのと同じことなのでしょうか・・・。

筆者をして、この『部落学序説』を執筆させているのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語っていた言葉にあります。

「私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って武士でした。しかし、明治の御代になって差別されるようになりました。差別されるようになって、たかだか百年に過ぎません」。

33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけて実施された同和対策事業や同和教育の恩恵にあずかりながら、「差別」と対峙することなく、「被差別」から、ただひたすら逃亡を続ける人々と違って、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老は、未指定地区住民として、いっさいの融和事業や同和事業の恩恵に浴することなく、先祖伝来の歴史を胸に秘めて、その歴史を継承して生きていっている、古文書や古地図に「穢多」とラベリングされながられも、先祖伝来の大地に根を張り、その末裔として生き抜いているさま、筆者をして『部落学序説』執筆へと駆り立てるのは、そのたったひとつの出会いなのです。

その出会いがなければ、筆者の部落問題についての理解は、最も良心的な概説書である小森哲郎著『部落問題要論』の域を一歩もでなかったでしょう。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが、差別・被差別の壁を突破させて、穢多の末裔として、穢多の歴史の忘却の時代に身をおいた栃木重吉が、自己の存在理由を求めて苦悩した日々、歴史学者の柴田一が、歴史研究者として通説を越えて史料と格闘した日々、それらの日々を越えて、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」であった「穢多」のほんとうの姿を見せてくれたのです。

この文章の最初の方で紹介した中山英一の証言を、何のためらいもなく、真実としてうけとめることができるのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが引き起こした衝撃に由来します。

『渋染一揆論』の著者・柴田一に最大の敬意をはらいながらも、その著作の重要な史料である大西豊五郎稿『禁服訴歎難訴記』に直接目を通してみましょう。

筆者が使用するテキストは、『差別の諸相』(岩波・日本近代思想大系)に収録された『禁服訴歎難訴記』です。柴田一著『渋染一揆論』に添付された『禁服訴歎難訴記』と違って、『差別の諸相』に収録された『禁服訴歎難訴記』には、ひろたまさきによる、本文の漢字の読みと重要な語句に対する解釈上の注が施されています。また、ひろたまさきによる「本文批評」も加味されています。

筆者は、当然、これまでこの『部落学序説』で論じてきた「非常民」の学としての部落学を前提にして、この『禁服訴歎難訴記』を解釈していきます。
 

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渋染一揆の時代的背景

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第3項】渋染一揆の時代的背景



私は、岡山県児島市琴浦町出身です。

琴浦町というのは、昔から繊維の町として有名です。私が小学生の頃は、学生服の生産・日本一と言われたところです が、琴浦町では、男性でミシンが踏める人も少なくありません。というより、男性もミシンが踏めないと、この町では生活できない・・・、そんな雰囲気のある町でした。

私の母も、父の事業が倒産した頃から、内職でミシンを踏んでいました。その頃は、電動ミシンではなく、足踏み式のミシンでした。琴浦町で生まれた子どもは、子守歌がわりに、ミシンの音を聞いて育ったように思います。

私は学生服の町で生まれ、学生服の町で育ったわけです。

小学校3年生のときでしたか、参観日のときの授業は、家庭科の時間でした。担任の教師は、家庭科が専門の教師で、母親の前で、このような話をしました。「これから、うんしんをします。私に勝ったら、成績5をあげます」。親と子どもの間にざわざわと動揺がひろがります。

全員立って、手が疲れてうんしんができなくなったら、席に座るのですが、そのとき、最後まで、うんしんを続け、担任の教師がその手を止めたときにも、運針を続けていたのは、私ひとりでした。

担任は、「約束通り、あなたに5をあげます。」とみんなの前で約束しました。

そのとき、うしろで、授業を観察していたおかあさんたちの間から、「いいな、あの子、養子にほしい・・・」というような言葉が聞こえてきました。

その学期の終り、家庭科の成績は、やはり5でした。

しかし、それは、当然と言えば当然でした。父の事業の倒産のあと、母は内職の時間を増やし、くる日もくる日も、ミシンを踏んだり、糸つみをしたり、ボタン付けをしたりしていたからです。忙しいときは、私も、その内職を手伝わされました。毎日、毎日、針とはさみを使っていれば、運針が上手になるのは当たり前です。

学生服の町で育った私は、「制服」というものに違和感を感じません。

戦後、「制服」か「私服」か、教育上の問題になったことがありますが、私は、一度も、制服反対論に賛成したことはありません。「制服」に反対することは、私には、何か、ふるさとに反対するような響きがあります。

山口県のある宗教教団に赴任してきて、しばらくたった頃、キリスト教会の牧師が、制服反対運動を展開しているとの報道がありました。その報道の司会者は、山口県の学校教育の現場に制服を持ち込んだのは、下関にある梅光学院であることを紹介していました。昔は、制服に賛成、今は、制服に反対・・・、時代が変わると、主義・主張も変わるようです。

私の知人に、娘さんを大坂に嫁がせている人がいます。彼は、娘さんから、小学生の「制服」の話を聞かされたといって、なんとなくショックを感じているようでした。

娘さんの話では、大坂の小学校では、制服を採用しているところもあれば、私服を採用しているところもあるといいます。「制服」は高価なので、普段着の私服で通うことができれば、親は楽になると言われていたのは昔のことで、今の小学生は、小学生同志で、自分の着ている「私服」の質、ブランド名を競いあうというのです。上着・下着・靴下・靴・鞄・・・、どれだけ有名なブランドを身につけているかを競っているというのです。自分の子供を、友達の家に遊びにやるときには、その身なりに気をつけないと、相手の親から、「安物を身にまとっているところをみると、親の生活水準は・・・」と判断されて、友達つきあいを断られる場合もあるというのです。

私は、柴田一著『渋染一揆論』を読んでいると、「渋染・藍染」は「制服」のこと・・・、というふうに受け止められがちになります。

学生服は、黒か紺が一般的でしたから、「渋染・藍染」の色にこだわる人々を理解することができないのです。

江戸時代の言語学者・新井白石は、その辞書『東雅』の中で、「青」という色に「賤しい」(身分が低い)という意味があるといいます。『古事記』の中に、「民」を指して、「青人草」という字が用いられていると指摘していますが、この場合の「青」は、支配者に対する被支配者全体を指して用いられています。白石は、「青といふをもて、賤称とするの義、つまびらかならず」といいます。

白石のいう「青」は、「渋染・藍染」の色とは異なります。

古代・中世の、司法・警察である「非常民」の着ている服の色を探してみると、多くは、「藍染」のようです。「藍染」の色は、「規律と責任」を示す色なのでしょうか・・・。

この問題に果敢に取り組んだのが、住本健次著《渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か》という論文です。この論文には、「「渋染一揆」再考」という副題がつけられています。

住本は、北九州市教育委員会が作成した同和教育副読本の「渋染一揆」に関する記述をとりあげ、「これまでの教育現場における部落史学習は「権力に対する怒りをもたせる」ことを中心に構成されることが多かった。・・・しかし・・・「怒りをもたせる」ために、歴史の事実をまげて教えてはならないのである。」と問題提起しています。

副読本の内容を二次引用してみましょう。

1856年(安政3年)6月14日の朝、備前平野(岡山県)を流れる吉井川の八日市河原は、備前藩の53か村からかけつけた、およそ三千人の人びとでうずまっていました。河原のはずれには、あわてふためいた役人たちが、つめよる人びとをおしとどめようとしていますが、ばく発した怒りはおさまりません。
「無紋しぶ染や、あい染を着て生きていけん」
「これ以上、差別を許すことはできんぞ」
このさわぎにまじって、笹岡村の良平たちはたぎる胸をおさえていました。(中略)
7か月ほど前、大庄屋が良平たち村の代表を集めて、藩のお触れを伝えました。
-町人どもは、絹類を着るな。町人より身分の低い者は、ナワの帯をしめ5寸4角の革を胸につけよ。夜は、ちょうちんに目しるしをつけること-。
そのうえ、「衣類を新たにととのえる時は、紋なし、無地の一番そまつなものにせよ」
庭先にならんだ一同の顔はあおざめました。いままで、さんざん差別をしておいてこれ以上に衣類まで無紋しぶ染にされれば、農民や町人から、いっそう差別されることはわかりきっています。
わずかばかりの耕地。ぞうりやわらぐつをあんだ、わずかばかりの手まちん。飢えをしのぐために、なんども着物を質に入れたこともあります。
こんどのおふれでは、それさえできなくなったのです。(後略)

この北九州市教育委員会の渋染一揆に関する記述は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に基づいた典型的な表現です。「賤民史観」に立つ歴史学者や教育者は、「みじめで、あわれで、気の毒な」人びとの姿を、すべて、「被差別部落」の人びとに押しつけるのです。そして、歴史的な事実とは異なる像を捏造して省みないのです。

住本は、「渋染一揆」に関する教育界の「常識」、「衣服統制令は・・・「差別するために」、一目でわかるように特別の色を強制した」という解釈を否定して、「衣服統制令は「庶民と同じような染・色を要求した」ことになる」というのです。

住本は、「当時の被差別部落の人々の中に・・・目立つ程度に高価な染や色の衣服を着ている人がいたからこそ、倹約令として出された」という解釈が成り立つのではないか」といいます。

住本は、そしてこのように結論付けるのです。
「今までの解釈とは別の視点で「渋染一揆」を再考する必要がある・・・」。

インターネットで「荊冠旗」を検索していたら、このような説明に遭遇しまた。

「全国水平社の旗に由来する、部落解放運動の象徴にして部落解放同盟の旗。1923年、全国水平社の結成メンバーの一人、西光万吉が考案。赤い荊冠は、水平社宣言にある「殉教者がその荊冠を祝福されるときがきた」という言葉に象徴されているように、被差別の苦闘の歴史の中で生き抜いてきた彼らの誇りを意味し、黒い背景は差別のある厳しい世の中を意味する。全体として、差別を跳ね返し、被差別者として誇りを持って生きていくという理想を表現している。」

「赤」は「(部落民であること)の誇り」を意味し、「黒」「差別のある厳しい世の中」を意味しているというのです。

西洋では、「赤」は、十字架の受難とイエスの血の色、「黒」は、絶望・死の色です。

私は、「荊冠旗」をみるとき、このように考えるのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、その役務の中に、アジアで一般的に存在していた「宗教警察」の職務遂行が含まれていました。特に、最後の宣教師が日本に潜入したあと、正徳・享保年間に、幕府から、キリシタン取締りの命令が出されます。忘れかけられていたキリシタン禁教政策が、またぞろ、宗教警察である「穢多」に大きな影響をあたえます。「穢多」は、近世幕藩体制下全期間において、幕府のキリシタン弾圧について、多大な貢献をしてきました。しかし、幕末期、幕府は、諸外国から開国を求められ、不平等条約を締結させられます。日本が「国辱」として受け止めたのは、「治外法権」でした。日本国内で、外国人が犯罪を犯した場合、日本の国内法で裁くことができないのは、著しい日本の主権侵害であると受け止めていたのです。治外法権撤廃のために、明治政府は、考えられるかぎりの対策をとります。そのひとつに、諸外国から求められていた司法・警察の「近代化」があります。明治政府は、対外的なしるしとして、宗教警察解体を宣言します。近代以前の封建的な制度である宗教警察を解体するのです。それが、明治4年太政官布告でした。宗教警察は、幕府や藩の寺社奉行をトップに当時の「非常民」全体によって担われていました。しかし、明治政府は、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「穢多・非人」を人身御供に捧げるのです。しかし、それは対外的なポーズで、国内的には、「穢多・非人」は、明治警察の「手下」として、実質上のキリシタン弾圧の先鋒を担ぎつづけるのです。明治初期には、「旧穢多」によるキリスト教会襲撃事件も多発しました。彼らの心の中には、「日本をキリスト教の汚染から守ることで、御国のためになる」と信じて疑わなかったことでしょう。しかし、明治中期に、日本はイギリスと軍事同盟を結びます。その結果、両国は、相互の国教を容認しなければならなくなります。日本は、キリスト教徒をはじめて、皇居に入れ、天皇と会見させます。キリスト教弾圧のために、陰の宗教警察として活動していた「旧穢多」は、その場所を失ってしまいます。そして、当時の内務省(警察)と浄土真宗やキリスト教の指導者とが協力して、「旧穢多」を、「特殊部落民」として「棄民」扱いすることを決定します。近世幕藩体制下で宗教警察であった「穢多」が、ふと気がつくと、明治政府から、そして、浄土真宗からも見捨てられ、「棄民」として、かってのキリシタンと同じ、身分外身分、社会外社会に落とされていることに気づくのです。「荊冠旗」の黒は、明治政府によって「棄民」扱いされた人々の「絶望と失望の色」。赤といばらは、浄土真宗門徒として、キリシタン弾圧に関与してきた「穢多」が、明治になって、いつのまにか、かっての「キリシタン」と同じような境遇、身分外身分、社会外社会に落とされたことへの怒りと抗議の色ではないかと思います。

私は、「渋染・藍染」は、「色」の問題ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の「制服」、あるいは「制服の色」として理解します。岡山藩の穢多たちは、「渋染・藍染め」の「色」に反応したのではなく、「渋染・藍染」の「制服」に問題を感じたのではないかと思います。
 

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渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第4項】渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)



柴田一著『渋染一揆論』は、何回となく精読しました。この書から、「部落学」に関する多くのことを学ばせていただきました。これからも、なお、多くの示唆を受けることになると思います。

柴田は、「幕藩制確立期の岡山藩主池田光政」の「穢多」についての施策を、かなり評価しています。しかし、残念ながら、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」を不問に付し、それを自説の前提としている関係で、彼の研究は、「通説」とあまり違いのない結論に達しています。

柴田は、岡山藩の「穢多」に関する施策について、「正徳3年(1713)のころを境に、手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。正徳3年以前は、「穢多」の一部に「御徒格に準ずる厚遇」を与えたといいます。徳山藩で、「徒士」は、20石取りの藩士になります。それと同格というのですから、岡山藩は、さらに俸祿が上だったのではないかと思います。

ところが、柴田は、正徳3年以降は、「幕府・諸藩ともに部落差別を強化する方向に転じた時期」に、岡山藩も、それまでの善政と違って、「手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。

部落史の研究者は、正徳年間の幕府の宗教政策について、あまり重きを置いていません。しかし、正徳年間は、新井白石が幕府の政務に関わっていた時代で、最後の宣教師、ヨハン・シロウテが日本に対するキリスト教布教のため、その偵察を兼ねて潜入するというショッキングな出来事がありました。その時代は、衝撃を受けた幕府が、キリシタン禁教の政策を確認し、もう一度、日本全体をキリシタン禁令下に置くために、宗教警察を強化した時代でもあります。

宗教警察は、穢多・非人だけでなく、それぞれの藩の宗教奉行以下、それ相当の人員が配置されていました。徳山藩の「家中諸法度定」によると、第一条に、「幕府の法令を堅く守り、吉利支丹宗は手がたくとりしまり、五人組として互いにせんさくすべきである」とありますが、この法度は、正徳年間で再び強化策が展開されました。

ただ、かっての島原の乱のように、血なまぐさい弾圧を「効果なし」として、直接的なキリシタン弾圧を避けようとした幕府と、近世幕藩体制下の中で、戦争のない安定した生活を営み、それなりの社会的実力を身につけてきた百姓は、「道理にはずれた無理非道な政治をおこなえば、黙って忍従するような農民では決してない。」という状況にありましたから、幕府は、正徳年間に再度、キリシタン禁令を強化するために、直接、百姓を取り締まるのではなく、キリシタンを「取り締まる側」、つまり、近世幕藩体制下の「非常民」の宗教警察としての機能を強化しようとします。

当然、「穢多・非人」は、キリシタンの探索・捕亡・糾弾等の第一線で活躍することを求められます。

年に1回実施される「宗門改め」だけでは、キリシタン禁教令を徹底することができないと悟った幕府・諸藩は、宗教警察としての「穢多」に対して、二人一組で、「戸別調査」を実施させたと思われるのです。彼は、宗門改め人別帳の写しを手に、「戸別調査」の対象に質問をしたと思われます。そして、記録と口頭による応答との間に相違があれば、また、疑わしい点があれば、一定の手続きに従って、キリシタンの探索・捕亡・糾弾を実施したと思われます。

キリシタンが見つかったときは、「穢多」はもちろん、「藩」にも、自由に処罰する権限はありませんでした。いつも、幕府に届け出て、その裁可に従わなければなりませんでした。

幕府は、その寺社奉行のもとで、すべての諸藩の宗教警察としての「穢多」を把握・管理していたと思われます。キリシタン禁教令をより徹底して実施するため、「穢多」組織の管理・強化を図るのですが、日本宗教史・キリシタン史に関心を持たない、部落史研究家によって、正徳・享保年間に実施された、宗教警察としての「非常民」の管理・強化、その一端としての「穢多」組織の管理・強化が見落とされてしまいます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の存在が不問に付された結果、「穢多」に対する「差別強化」のみがクローズアップされるようになってしまいます。

正徳3年(1713)から、渋染一揆の原因となった安政2年(1855)の「御触書」が出されるまでの142年間、長期間に渡って、幕府のキリシタン禁教政策は功を奏し、取り締まられる「常民」だけでなく、取り締まる「非常民」の意識の中から、キリシタン弾圧の記憶が薄らいでいきます。

明治24年頃、旧幕代官手代八州取締・宮内公美は、「・・・考察などに切支丹宗門云々と書いてありましたが、切支丹というのは何の訳だか分からずに、まあ訳の分からぬ方が多いのでしたから、関東ではただ、切支丹・バテレンは恐ろしいものだという考えでいた位のことです。」といいます(『旧事諮問録-江戸幕府役人の証言-(下)』岩波文庫)。

安政2年(1855)年の「御触書」がだされる2年半前の嘉永6年(1853)、キリシタンが大挙して日本にやってきます。それが、「黒船」来航です。イタリアの宣教師が日本再布教のため単身日本にやってきたのとくらべて、「黒船」来航の際には、巨大な大砲を搭載した巨大な軍艦と共に日本にやってきたのです。

1854年、再度日本にやってきたペリーと幕府との間で、「日米和親条約」が締結されます。幕府は、アメリカ同様、イギリス・ロシアに対しても、「和親条約」を締結します。アメリカ・イギリス・ロシアの国は、いずれもキリスト教を国教にしている国々です。

幕府は、キリスト教の日本上陸を阻止しようとします。

岡山藩は、「幕府の命令で房総半島、ついでに摂津の沿岸の警備のために家老以下千数百人もの番兵・人足を動員した。」といいます。「巨額の費用をついやしたうえ、天災地変による莫大な災害復旧費がうわずみされた」といいます。岡山藩の借銀高は、年間支出総額の3倍を越える額に達していました。「破産寸前」の岡山藩は、領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備や、「非常民」の近代化を図らなければなりませんでした。

特に、「異国人徘徊」は、藩主のみならず、藩全体にとって、避けて通ることができない重大問題であったと思われます。

欧米の外交官の記録をみると、「異国人徘徊」は、幕府役人だけでなく日本の民衆、「常民」・「非常民」に大きな影響を与えたようです。日本人なら、当時の司法・警察が誰であるか、その身なりが少々違っていても、敏感に認識することが可能であったでしょう。

ところが、外国人には、「常民」と「非常民」の区別ができません。そのため、外交官の中には、「非常民」に対して、傍若無人的な態度をとる人がいましたし、また、「非常民」も、「切支丹・バテレンは恐ろしいものだ」という先入観から、キリシタンの前から、職務を忘れて逃亡する場合があったようです。

当然、岡山藩主は、「領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備」の他に、「領内への「黒船」侵入に備えて」、「警察」機能の改革と充実とをはかります。

そのひとつに、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」を、司法・警察官として、顕在化させることでした。領内の司法・警察の顕在化によって、侵入・上陸してくる欧米人(キリシタン)に対する司法・警察官である「穢多」の存在を鮮明にするために、「非常民」としての「制服」、渋染・藍染の木綿でつくられた「制服」で統一しようと計画されたのです。

「渋染」・「藍染」が、差別の色であるという説は、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が作りだした、幻想・錯誤・誤認であったと思われます。

安政2年の「御触書」は、「全文29カ条からなり、そのうち前24カ条は、郡内の農・工・商・医者など、いわゆる「平人」を対象とするもの・・・」です。しかし、その「御触書」には、さらに5カ条が付加されていました。いわゆる、「別段御触書」と言われている部分です。

「賤民史観」に立つ部落史研究者は、「別段御触書」の5カ条を、「常民」を対象にした「倹約御触書」である、前24カ条から区別して、「差別法令」と解釈します。

『渋染一揆論』の著者・柴田一も、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」といいます。

柴田は、その背景に、岡山藩の「部落差別のしかたが内面的差別から外観的差別へ、その重点のおきかた」が変わったことがあるといいます。柴田は、「外観的差別」が導入されることで、「百姓・町人と部落民衆とを意識的に引き裂き、逆に憎しみあう条件を作り出そうとしたのである」といいます。柴田は、「差別法令」の背後に、百姓と穢多の分断支配が存在していると主張しているのです。

『部落学序説』でこれまで確認してきた命題に従いますと、岡山藩の安政2年の「御触書」の前24カ条は、「穢多」の「家職」(農人)に対する規制、後5カ条・「別段御触書」は、「穢多」の「役務」(司法・警察官である「非常民」としての穢多の職務)に対する規制であると理解できます。

「村役人」から「穢多」に対して、この「御触書」が読み上げられ、「請取書」にサインを求められたとき、「穢多判頭」が答えた言葉の中にその裏付けが含まれています。

「此度御倹約之義に付、御百姓一同之御請は仕候得共、私等衣類格別の御請ハ御断申上べき」。

「穢多」の「家職」に対する「御百姓一同之御請」は承諾するけれども、「穢多」の「役務」に対する「衣類格別の御請」は承諾することができないというのです。

岡山藩が、別段御触書で、「穢多」の衣類を「無紋渋染・藍染」に限定する理由として、「平日の風体」「御百姓」と区別するためのものであることが、第26条に明確化されています。

岡山藩の穢多たちは、「別段御触書」の撤回を求めて、藩に「嘆願書」を提出します。『渋染一揆論』の著者・柴田一は、その「嘆願書」の第5条をこのように要約します。

「すなわち、第5条では、部落住民は盗賊の追捕・治安維持のために身命を堵して働いているが、その部落住民を差別すれば、忠勤の意欲も仕事への情熱もたちまちうすれ、やがては、治安が乱れ盗賊が横行するべき結果をまねくであろうと述べている」。

私は、柴田の要約は、本文を無視しているように思われるのです。

まず、「穢多」を安易に「部落住民」(同和地区住民を想起させる)と言い換え、「無紋渋染・藍染」の木綿の強制を、「部落住民を差別」という言葉に置き換えています。柴田の中にある、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が災いして、柴田は、「嘆願書」第5条から、「差別法令」を読み込んでいくのです。

柴田の要約は、故意に、読者から、渋染一揆の本質を遠ざける側面をもっています。「嘆願書」に目を通してみましょう。筆者の意訳です。

「御国中、穢多共の内、御城下近在の5か村の穢多どものうち、番役など仕えているというものがいます。藩の牢屋や刑場で死罪判決がでた者の処刑が実施された場合は、その際、刑の執行に携わったものもあまたいます。そのため、5か村の穢多はもとより、その他の穢多村も同様、御用を仰せつかった穢多は、役人に対する報酬として、御米4俵宛受け取ってきました。それは、諏訪御用の節、御忠勤をつくしたてまつる身分であるがゆえに、御百姓も御承知されていることがらです。(穢多の在所は)役人村と呼ばれることもあります。盗賊または強盗・荒破者が出たときには、穢多村にひきとり、・・・番にある役人はいうに及ばず、無役の穢多に至るまで、一命にかかわることも厭わず、御用に励み、御忠勤を尽くしてきました。別段御触書に記された渋染・藍染の衣服を身にまとっていては、御城下はもちろん、村々、浦々に至るまで、盗賊や疑わしい人々は、遠く離れたところからも、渋染・藍染の制服をきた、司法・警察である穢多に気づいて身を隠してしまいます。これでは、巡邏の際に不審人物に職務質問することはさらに難しく、犯人の逮捕は難しくなります。詮なきことを続けていては、御用に携わる意気も低下してきます」。

岡山藩の穢多が、「渋染・藍染」を拒否したのは、それが、「差別」であるからではなく、「穢多」の役務である、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の役務の妨げになるからであるということがよく分かります。渋染一揆の原因は、岡山藩の「穢多」の「穢多」であることの熱心さに由来するものです。

「藩主」と「穢多」との間に立っていた「村役人」の誤解が、「穢多」をさらに危険な方向へと追いやっていきます。「村役人」が正しく「穢多」の真意を藩に伝えれば、「渋染一揆」に発展することはなかったでしょう。

岡山藩の「穢多」は、百姓一揆や農民一揆のような「一揆」ではなく、「穢多」が「穢多」として役務に携わるための嘆願でした。しかし、一見、百姓一揆や農民一揆に見える行動をとるため、「穢多」たちは、「穢多」の「嘆願」に相応しい行動をとります。

それが「竹槍1本たずさえない強訴」になったのではないでしょうか。

柴田はいいます。「村役人たちは6尺棒を揮って戦ったが、屈強の強訴勢は村役人どもを素手で掴み左右に投げ・・・」たのです。その両手に一切の武器を持たず「丸腰」であったことは、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」である「穢多」の「穢多」であり続けようとする強い意志を感じます。

柴田は、「この一揆こそ、近世における部落住民の解放運動の最高水準・到達点を示すものだと思う。」といいます。

筆者は、柴田と違って、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が「穢多」であり続けるための、その「役務」に対する熱心さから出たものであると思っています。「渋染一揆」は、決して、「部落住民の解放運動」ではありません。柴田がいう、「部落差別に対する抵抗運動」でもありません。岡山藩の「穢多」は、「穢多」であることを誇りと自信を持っていたのです。「穢多」が「穢多」の職務、犯人の探索・捕亡・糾弾に際して、「渋染・藍染」は、職務遂行の妨げになるので、撤回してほしいと訴えたに過ぎないのです。

徳山藩の「家中書法度定」の最後の条文は次のようなものです。「先例をひいて、とかくの愁訴嘆願を禁ずる。これに一味加担するものは、大小身によらず罪料に処する」。岡山藩に同種の法度の条文があるかどうかは知りませんが、恐らく、岡山藩の「穢多」も、「愁訴嘆願」の内容によってではなく、「愁訴嘆願」の行為そのものによって裁かれたのであろうと思います。
 

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真の人生、真の学問を求めて

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第5項】真の人生、真の学問を求めて



2005年5月14日、初めてブログ上で、『部落学序説』を書き始めました。約3ヶ月半に渡って、102個の文章を書き続けました。すべて書き下ろしの文章です。

短期間でこんなに長い文章を書くのは、筆者にとって、初めての経験です。

筆者が所属している宗教教団の教区の中では、ここ数年、年度報告の中に、『部落学序説』執筆の予告をしてきました。同和対策事業終了後、「ほとんどの人が部落問題あるいは同和問題から手を引いていく段階で、いまさら何の論文を書くのか・・・」、疑問の声を聞きましたし、私がこの『部落学序説』を書くことを期待しておられた方から、「早く書き上げたら、部落問題から手を引いてほかの研究をした方がいい・・・」と忠告の声も耳にしました。

1冊の本にすべく、何度も試作を繰り返していたのですが、今年に入り、ブログの存在を知り、ブログ上で『部落学序説』で書き下ろすことにしました。

筆者は、本来、文章を書くのが苦手で、原稿用紙10枚程度の文章を書くにも「七転八倒」していました。しかし、文章の長短はありますが、ふと気がつくと、作成した文書数は100を超えていました。もとより文芸作品を書く積もりはありませんでしたので、淡々と事実を伝えればそれでいいと、キーボードをたたき続けました。下手な文章ほど長くなる・・・という人もいますが、まさにそのとおりです。

新書版3冊分をはるかに超える文書量となりますと、個人出版は絶望的です。それなら、全部、ブログで読んでいただこうと思ったのが間違いのもとだったのかも知れませんが、文書量はさらに増えていきました。

しかし、文書量が増えれば増えるほど、伝えたいことの数パーセントもお伝えできていないもどかしさに、途中、気が焦って文章が乱れることがしばしばありました。

山口の地に赴任して二十数年間、同和問題や部落問題にかかわって、具体的に知った同和地区やその運動団体から、「わたしたちのことは一切触れないで欲しい・・・」といわれた時には、この『部落学序説』は流産の危機に直面しました。

しかし、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話から受けた衝撃が、歴史の真実に根ざすものなら、長州藩領の中から傍証を求めずとも、日本全国に散在する資料や伝承から証明すればいい・・・と思うようになりました。ある種の居直りの思いを持つことができるようになると、精神的にはかなり楽になります。歴史の真実は、民俗学者の柳田国男がいうように、決して隠されたままではいないのですから、どこかに、その真実のかけらが、文書や伝承の言葉の陰に隠れているはずだと、時間をかけて資料を漁ることにしました。

休日には、妻と二人でドライブして、山口県の被差別部落を訪ねました。といっても、個人的に誰かを訪ねて話をお聞きするというわけではありません。

同和地区の方から、「有名な学者の人が書いてくれるならともかく、無名のただの人に書いてもらっても何の役にも立たない」といわれたことが、学歴も資格も持ち合わせていない筆者の脳裏にはそのことばがいつのまにか刻み込まれていたからです。

筆者が所属している宗教教団の同和問題担当部門のトップ、被差別部落出身の彼は、「あなたが、部落の人から信頼されていない証拠だ」と強調します。

しかし、長州藩の「穢多村」の探索方法が自然に身についてくるようになると、歴史にその名を残す被差別部落の人々が生きた自然や村の姿をイメージすることができるようになってきます。

「この街道沿いに往還松があったはずですが、ご存知ないでしょうか」とたずねると、切り株のあったところに案内してくれます。草むらに隠れて、通りすがりには発見できません。しかし、往還松があることがわかると、この松の高さを○○メートルと推定して、それが二階の部屋から見える家は・・・、「ああ、あの家がそうだ」とその家の庭から南の方を見ると、文献に記載された通りの山が見える。近くを通りかかった人に、「あの山、何ていう山ですか」と尋ねると山の名前を教えてくれます。こんな方法で、歴史上の有名な被差別部落出身の実家を探し当てました。最後は、お墓の所在を確認すれば、この調査は終わりです。そして、春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、その家の周辺を訪ねて、小さな種から結晶をつくるようにイメージを構成していきます。

筆者のなかにある潜在的な差別意識は消え去り、被差別部落の昔の記憶に1歩近づいたような気になります。

穢多の末裔たちは、直接、彼らの生きていた被差別部落の名前に触れなくても、さまざまな情報を発信し続けていたのです。「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」(新約聖書)のです。石だけではありません。空も、雲も、山も、木々や草花も、そして、古い街道の町並みや辻も、いろいろなものが、「穢多村」の在所であることを、筆者に語りかけてくるのです。

川を挟んだふたつの被差別部落。ひとつは、同和対策事業がなされて立派な家が立ち並ぶ。川を挟んだ反対側の被差別部落は未指定地区で事業がほとんどなされなかったようで、昔ながらの家並みが立ち並ぶ・・・。なぜ、地区指定を受けて同和対策事業の恩恵に与らなかったのか・・・。一度、話を聞きたいと思いながら、そのときが訪れるのをじっと待ち続けます。

『部落学序説』を書くのに、長い時間がかかったのは、そのような時間の積み重ねをしていたからです。

長州藩の「穢寺」のひとつを尋ねたとき、その寺の住職は、「私たちのことを話す前に、あなたのことを知りたい」といわれました。その住職の寺のことについて話をお聞きするわけですから、私が所属する教会のことについても、ありのまま話をしました。

前任者が自害したと噂される教会で、信徒も、そんな教会に明日はないといって、教会を捨てて去っていってしまったこと、近所に人は気味悪がって教会に近寄らないこと、今は、それでも教会を離れず、教会を支えているごくわずかな人と礼拝を守っていること・・・、そんな話をしたとき、その浄土真宗の僧侶は、「そうですか、それで、あなたは被差別部落の人の気持ちがわかるようになったのですか・・・。浄土真宗の寺でも、僧侶が自害したと噂されたら、なりたちません。この寺は、近世に穢寺といわれていた寺が廃寺になり、その寺の歴史を引き継ぎました。それは、昔の話になりますが、あなたは今現在重荷を負わされているのですか。分かりました。あなたが聞きたいということは、全部お話ししましょう・・・」といって、話をしてくださいました。その浄土真宗の寺を訪ねてお話をお聞きしたのは数回ですが、その前に、1年間、春夏秋冬、その寺の立っている村や自然を訪ねました。お話を聞くことができたあとも何度となくその村と浄土真宗の寺を尋ねました。寺の境内から見る秋の夕日、初雪が舞う冬の境内・・・、村はずれで聞いたその寺の鐘の音・・・、筆者の「穢多村」や「穢多寺」のイメージは、頭で獲得したものではなく、足で獲得したものです。それらの風景は、「差別意識」をはねつける生きる力に漲っています。

フランスの小説家アンドレ・ジイドの『田園交響楽』の中で、幼いとき失明した女の子が青年になって手術を受け視力を回復する場面があります。その女の子は、記憶に間違いがなければ、このようなことを語っていました。「目が見えるようになったとき、ありとあらゆる光が目に飛び込んできました。自然は美しい・・・。しかし、同時に、人間の表情が湛えている悲しさも見えてきました・・・」。

ドイツの小説家ゲーテは、その著『ファウスト』の中で、「人生は彩られた影の上にある」と語りました。どのような人の上にも、七色の光が注がれているのです。それぞれの人生の季節にふさわしい光を浴びて生きているのです。

ニーチェは、無神論の代表的な哲学者のように言われます。しかし、筆者が高校生のとき呼んだ感想では、ニーチェは決してそのような言葉だけで表現できるような人物ではないと感じていました。彼はこのような言葉を残しています。これも私の記憶の中の言葉です。長い間に多分に変形されてしまっているかも知れません。

「この美しい夕暮れ時には、この世で最も貧しい漁師ですら黄金の櫂で舟を漕ぐことになる・・・。神の恵みを思ってさめざめと泣けてきた・・・」。

被差別部落の人々の差別の原因は、自然や村や、目に見える環境にあるのではない。差別は、人の表情の中にある・・・。人の表情は、その人の知・情・意識の凝縮したものがにじみ出てきたものだから、目は口ほどにものをいうのかも知れません。「視線」・「まなざし」から差別的なものがなくなると、被差別部落に伝えられた「伝承」がいろいろと昔の記憶を語り始めます。

最近読んだ文庫本の中に、このような言葉がありました。「ニーチェはわたしにとって一つの啓示でした。わたしがそれまでに教えられてきたのとはまったく異なる人がいるとわたしは感じたのです」。そう語ったのは、『自己のテクノロジー』(岩波文庫)の著者ミシェル・フーコーです。

彼は、《心理・権力・自己》という論文の中でこのように語ります。

「真の学問と偽りの学問との相違を、あなたはご存知でしょうか? 真の学問は自らの歴史を認めて受け入いれる・・・」のです。

「学問」をアドホック(間に合わせの言葉)として、ほかの言葉に置き換えてみると、いろいろな視座が見えてきます。

「学問」の代わりに、「部落史」・「部落民」等と置き換えてみてはどうでしょうか。

試行錯誤したら、「学問」の代わりに、あなたの名前を代入して読んで見られたらどうでしょうか。筆者が、このブログを読んで下さった皆様に一番訴えたいことが見えてくると思います。そうです。自分自身の「所与の人生」から逃亡してはいけないのです。「所与の人生」がどんなに暗い闇に閉ざされているように見えようとも、悲しみや苦しみに浸潤しているように見えようとも、生きる価値のない人生に見えようとも、決してそうではない、私たちが生きている人生は、誰でも、「色どられた影の上にある」のです。自分自身さえ気がついていない、「色どられた影の上にある」のです。その光を見つけるには、「所与の人生」から逃亡しないこと、「所与の人生」に立脚し、それを引き受けて生きていくことです。

次回から、第4章に入ります。 

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