2005.09.02

木綿着用の強制は差別にあらず

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第1項】木綿着用の強制は差別にあらず



「部落学」は、非常民に関する学です。常民の学としての「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究としてはじまったように、筆者の提唱する「部落学」は、「民俗学」にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学と民俗学の学際的な研究として遂行されます。

しかし、「民俗学」も「部落学」も人間に関する学である以上、それらの主要科学だけでなく、多くの補助科学を必要とします。政治学・法学・経済学・国際関係学・人類学等・・・。

特に、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、司法・警察であるという「部落学」の基本的な理解からしますと、「穢多・非人」の役務を理解する上で、「法学」的知識は必須のことがらになります。

しかし、高等教育を受ける機会のなかった筆者にとって、「法学」的知識を身につけることはそれほど簡単なことではありません。

青年時代に独学で、憲法学は橋本公宣、民法学は末川博、刑法学は団藤重光の著作から多くのことを学びましたが、実定法を独学でマスターするというのは非常に難しいものがあります。法を学ぶというのは、法の「体系」を学ぶことですから、なかなか、法の全体像を把握することは困難なものがあります。

橋本公宣著『憲法原論』を精読していたときのことですが、「第2章第2項法の下の平等」で、憲法14条1項「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」がとりあげられていました。そして、「国家は国民を差別してはならず、国民は差別的な取扱いを受けない」という説明がありました。

橋本によると、「平等とは、法上のひとしい取扱いのことであり、差別をうけないことをいう」とありました。しかし、橋本は、「相対的平等」という概念のもとに、法的に許容される「差別的取扱」に言及していくのです。

そして、橋本は、「教育の機会均等」に触れるとき、憲法26条1項「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」を解釈して、このように説明するのです。

「すなわち、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないのである。教育は、個人の能力に関係があるから、学力、健康によって差別することは、許される」。

橋本は、「社会的身分」の具体例として「部落出身者」を列挙していますが、上記の橋本の説では、「部落出身者」であるということで差別は許されないが、「学力、健康によって差別することは許される」との法解釈をしているのです。

そのとき、私が感じたのは、憲法学の学者であるからこそ、この条文は、「学力、健康によって差別することは許されない」と解釈されなければならないのではないかと・・・。

橋本は、その理由として、「個人の能力に関係があるから」といいますが、「個人の能力」は、常にその人の努力に制限されるとは限りません。「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、門地」のいずれによっても大きく影響をうけます。橋本の解釈は、「学力」にとどまらず「学歴」にも波及していきます。「学歴」は、国家による「学力」の証明でもあるからです。

筆者は、実体法に非合理を感じて、結局、実体法から離れ、法哲学の方に関心が移ってしまいました。

最も影響をうけたのは、ドイツの法学者、ラートブルフでした。彼は、ドイツのワイマール憲法の刑法の起草者ですが、政治犯の死刑廃止を説きました。第二次世界大戦のときは、ヒトラーによって、ナチスの政治体制になじまないとして公職を追放された人です。

私は、彼の、「法的相対主義」にこころ惹かれました。『法学入門』・『法哲学』は、理論的に明快で、橋本公宣の『憲法原論』のような理論上の薄暗さはありませんでした。

法学的なものの見方、考え方は、そのような形で身につけたのですが、独学である以上、それがどこまでリーガルマインドをみにつけることに成功したかは定かではありません。

それでは、そのような中途半端な知識で、「穢多と法的逸脱」に関して文章を書くことができるかというと、筆者は、最初から非常に困難であることに気づいていました。

なぜなら、ラートブルフはもちろん、橋本公宣・末川博・団藤重光等は、いずれも、近代・現代法の学者であって、欧米の法学から大きな影響を受けています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について論じるときに、欧米の法学から影響を受けた法概念を用いて論じることに、私は、ある種のためらいを感じたのです。そこで、近世幕藩体制下の法を理解する上での、予備知識を探し求めたのですが、それで入手したのが次のようなものです。

田中周友著『世界法史概説』、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』、佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』、石井良助著『江戸の刑罰』、笠松宏至著『法と言葉の中世史』・『法と訴訟』等です。

特に、「部落学」構築の観点からすると、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』が最適であると思われました。筆者が、「穢多と法的逸脱」を論じるときの前理解は、大木の著書によるところ大です。

筆者が大木の著書を持ち出すのは、当然、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」を撃つためです。

筆者が、差別思想であるという「賤民史観」が、「穢多と法的逸脱」について、どのように解釈してきたか、井上清著『部落の歴史と解放理論』をみてみましょう。

井上は、1778年に幕府から出された法令をこのように紹介します。

「近来えた非人の風俗が悪くなり、百姓町人に対して法外のことをしかけ、百姓のようなふりをして、旅館や飲み屋などへ立ち入り、それをみとがめるものがあると、むつかしく抗議するので、百姓町人らは、えたとけんかしては外聞がわるいと思ってそのままにしておくものだから、ますます増長する。今後はえたが、百姓町人のふりをするのは、いっさいゆるさない」。

井上は、「えたの風俗がわるくなるというのは、えたが人間なみの生活をもとめ、差別とたたかっているということにほかならない。」といいます。それを、「部落民の人間としての地位をもとめるたたかい」であると断定します。また、1856年の岡山藩の渋染一揆のように、「服装などにたいするきびしい差別」がしばしば強制されたと解釈します。

上杉聡著『これでわかった!部落の歴史』においても、井上の説明とほぼ同じ説明が展開されています。日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に共通していることがらなのでしょう。上杉は、「日常生活を規制する差別法」として認識します。そしてこのようにいうのです。

「そうした差別法を最初に確認できるのは、先にも述べましたが、1683年の長府藩(現山口県)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというものでした。」

上杉によると、「穢多・非人」に「木綿」を強制することは「差別」であるというのです。

上杉が、根拠となる史料をどのようにして手にいれたかは知りませんが、長府藩と同じ、長州藩の支藩である徳山藩の藩士を対象にした「家中諸法度定」には、このような規則があります。

「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」

『徳山市史』(旧)の「徳山藩士卒階級表」によると、「士席班」は439名、「卒席班」は628名ですが、50石以上の武士は、藩士(「士席班」)439名中の160名に過ぎません。藩士のうち、10人に7人は「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあります。士雇(「卒席班」)628名は全員がこの規制は入ります。

徳山藩では、「非常民」のうち、軍事に関与する「武士階級」(藩士・士雇)の85%の人々は、「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあることになります。

そのように史料に基づいて確認していきますと、「非常民」のうち、司法・警察に関与する「穢多・非人」に対して、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」というのは、「穢多・非人」に対する「差別」と断言していいのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常民」、司法・警察である「穢多・非人」は、同じ「非常民」、軍事・警察である下級武士と「同様」であったと判断すべきではないでしょうか。

上杉が、それらの史実を視野から遠ざけ、「穢多・非人」に対する木綿の制限を「差別」とする背景には、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が大きく影響していると思われます。「穢多・非人」に関する史料は、すべて「差別的」であると解釈しないではおられないのです。

徳山藩の規則では、「他国役にでるときは、分限相応に取り繕う必要がある」というのです。ですから、武士は、実際は、木綿だけでなく、それ以上の衣服を持ち合わせていたということになります。

それは、「穢多・非人」についても同じです。日常は、「木綿」を羽織っても、ハレのときには、それ相応の着物を身にまとっていたのではないかと思います。なぜなら、近世幕藩体制下の女性にとって、着物は、ささやかな貯蓄の意味をもっていたからです。病気や怪我で収入がないときには、それを質屋において必要経費を入手することができたからです。

柳田国男の弟子・山川菊枝は、その著『武家の女性』の中で、「三界に家なしといわれた女にとって、着物だけが唯一の財産」であったといいます。

山川は、天保元年水戸藩で、「此度御家中一統綿服着用仕るべき」とのおふれがでたといいます。

「穢多・非人」に対するおふれは、多くは、下級武士に対しても出されたおふれではないかと思います。

西島勘治著《お仕置き帳にみる足軽・中間・陪臣の実像-長州藩の場合》によると、「厳し過ぎる封建制身分社会において、最も差別の桎梏に苦しんだのは、百姓・町人といった一般庶民よりも、むしろ諸士階級と深く関わっていた、彼等下級知識階級ではなかったか・・・」とあります。「穢多・非人」も同列に考えることができます。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にとらわれると、井上清や上杉聡のように、なんでもかんでも「穢多・非人」に「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを強制したり、押しつけたりするようになります。

「穢多と法的逸脱」を考察するためには、まず、差別思想である「賤民史観」から自由にならなければなりません。

そのために、大木雅夫著『日本人の法観念-西洋的法観念との比較』に耳を傾けてみましょう。(続く)
 

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近世法と穢多

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第2項】近世法と穢多



明治以降、日本は様々な分野で「近代化」を指向してきました。その「近代化」は、往々にして、日本古来の政治・文化を棄てて、欧米諸国の政治・文化の模倣を引き起こしました。模倣を繰り返している間に、日本古来の政治・文化に関する知識は忘却のかなたに追いやられてしまいました。忘却されないまでも、「欧米化」された政治・文化の輝きの中で、昼間のたき火の炎のように、極めて存在感の薄いものにされてしまいました。

明治以降の社会の中で、忘れられていった古き時代の政治・文化の美風は、近代化・欧米化に彩られた学者の批判によって、否定されるか、歪曲・萎縮され、今日、通説という「歪んだ形」(大木雅夫)をとることを余儀なくされたものが少なくありません。

『部落学序説』に「「非常民」の学としての部落学構築を目指して」という副題をつけた筆者は、部落差別も、日本固有の司法・警察制度が否定され、明治以降の近代司法・警察が構築される中で、否定・歪曲・萎縮され、本来の「穢多」とは似ても似つかぬものにされた結果であると考えています。

部落差別完全解消につながる希望は、明治以降の学者によって、否定・歪曲・萎縮される以前の本来の「穢多」の姿を取り戻すことによって手にいれることができると信じています。

『日本人の法観念西洋的法観念との比較』の著者・大木雅夫は、「法史学」の分野で、同じことを主張しています。

大木は、「近代化を西洋化と同義のものと心得て専心西洋に追従する路線」に沿って日本の法史学が研究されてきた結果、「われわれ自身の日本法ですら西洋法学のレンズを通して研究されなければならなかった」と指摘しています。「そしてとりわけ日本法史はその盲点をなし、少数の専門家以外の日本の法学者たちにとって、外国法継受以前の固有法は、ほとんど忘却の彼方に押しやられたといってよい。」といいます。

大木は、さらに、「文化は連続的に発展するものでありながら、日本法文化を論ずる際に日本固有法を無視してよいとする奇妙な習癖の結果として、われわれの間に行われていた「通説」は、かなり歪んだ形をとっていたといわざるをえないのではなかろうか。」といいます。

大木は、「あとがき」で、「われわれ日本人は、われわれ自身の日本法を知ることの難しさを思わせられる」といいますが、筆者は、「日本法」だけでなく、その「日本法」の法の執行者であった、「同心・目明し・穢多・非人」という、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」についても、同じことを感じざるをえないのです。

「本書の主題は、早くからわたくしの脳裏に去来していた。そしてこれほど先人に多く教えられながら、これほどわたくしを混迷の淵に押し沈めたテーマはない。通説が晦渋で曖昧だったからではない。むしろそれがあまりにも明快で、揺るぎなく確立されていたからである・・・。」

大木が、『日本人の法観念西洋的法観念との比較』執筆に際して直面した様々な事象は、『部落学序説「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の執筆を指向している筆者にとっては、かけがえのない先駆者でした。民俗学の分野では柳田国男、小説・歴史の分野では島崎藤村、法学の分野では大木雅夫・・・、学歴も資格もない、「無学なただのひと」でしかない筆者にとって、彼等は、尊敬すべき師でした。そして、今も・・・。
通説に反する研究は、「はかり難く困難なものであるだけに、今後各方面から種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明されるべきもの」なのですが、最初に通説を覆そうとするものは、ひとりで、その作業を遂行しなければなりません。

大木は、ヨンパルト教授の言葉を引用してこのようにいいます。「「学問とは、箱のようなものである。われわれは、箱の外側をよく知っているが、その中身は知らない。それを開ける試みに成功しても、内にはまだ中身のわからない箱が入っている。」・・・そして、一つの鍵で全部の箱が開けられないことも、わたしはよく知っている」。

箱の中に箱、またその箱の中に箱、またまた箱の中に箱・・・。筆者の、『部落学序説』が、章・節・項毎に、「種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明」しようとしているのは、『部落学序説』の提唱者として、できる限り多くの「箱」をあけて、部落差別完全解消への希望を提示したいと思ったからです。

大木は、「日本人の権利意識が一般的に萎縮したのは、想像以上に近い過去-恐らくは明治以降に求める方が真実に近いとすら思えるのである」と主張します。大木によると、権利意識の萎縮は、明治以降の知識人による「よらしむべし、知らしむべからず」という主張に見られるといいます。

「よらしむべし、知らしむべからず」という言葉は、孔子の「民可使由之、不可使知之」(論語)を「曲解した・・・近時の学者」に由来するというのです。明治以降の学者は、「単に民に対して法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできないという慨きを表現したにすぎない」孔子の言葉を、近世幕藩体制下の各種法の立法趣旨として解釈してきたというのです。

明治以降の法学者によって、日本固有の法は、著しく疎外され、拒否・歪曲・縮小され、その輝きを失ってしまいます。

大木は、「通説」を否定し、「通説」の彼方にある、日本固有の法の輝きを取り戻そうとするのです。
大木は、「通説」と異なって、日本人は「権利義務の用語こそ用いなかったにもせよ、実質的には訴人も論人も理非の弁別を求め、権利義務の争いをしていたに相違ないとわたくしは考える」といいます。「一般民衆の間ですら・・・強烈な、西洋人とさして異ならない、権利意識があったことは、史実に照らして明らかである。」と確言します。

明治以降の学者によって、「鎌倉時代における恩顧と奉公の道徳が過度に強調され、江戸時代における義理人情の美風があまりにも宣伝される場合に、日本文化は、いかにも義務中心の法文化であるかのように見えるのである」。「・・・通説は、この誇張や宣伝による脆弱な基礎の上に立てられているのではなかろうか。わが国の実証主義的史家は、むしろそれぞれの時代における強烈な権利意識の存在を指摘している」というのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、同心・目明し・穢多・非人に関する考察は、彼らの法意識や法観念が正当に評価されるときにのみ、法の執行者としての彼らの歴史的存在の意味が明らかにされ、明治以降の近代化・西洋化の流れの中で輝きを失ったその輝きを取り戻すことができるのです。近世における「法意識」・「法観念」が大木の指摘する通りなら、それに基づいてなされる司法・警察としての「非常民」である、同心・目明し・穢多・非人も本来の輝きを取り戻すことができるのではないかと思うのです。その結果として、部落史の「通説」の背後に押しやられ隠されてしまった歴史の真実を取り戻し、私たちの社会から、私たちの子孫の生きる社会から、部落差別を完全に取り除くことができるのではないかと、私は思うのです。

『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築を目指して)を、ブログ上で書き下ろしをはじめて、3カ月が既に経過し、書き下ろした文章も30万字を既に越えました。

しかし、なぜか、この『部落学序説』に対して、ほとんどコメントらしいコメントは寄せられていません。不思議と言えば不思議です。なぜなのでしょう・・・。

筆者にとって、こころの中の師である大木雅夫は、その「はしがき」でこのように語っています。

「久しく西洋を学んできた者にとって、西洋のレンズを通さずに、自己の立場から世界を観察することは、容易ならざることである。したがってわたしくは、差し当たり西洋の学問の方法に従い、「極東」のような、西洋における既成概念を利用しながらも、せめて自分自身を見失うことなく、わたくし自身の立場から日本法を見直してみようと思いたったのである。

このことは、しかし、わたくしに途方もない課題を課するものであった。西洋における学問的方法の基礎には批判精神があり、祖述よりも独創を尚ぶ気風があるかぎり、それは、わたくしを駆り立てて、通説批判への道を歩ませることとなったからである。しかもその通説たるや、これまでのわたくしの学問的生活をはぐくみ育ててきたものである。それはあたかも、新しい生命を産みだすために母鶏が胎内でつくり、自らの温もりを与えて温めた堅い殼のようなものである。しかし、雛は、そのなかで力の限りもがき闘ってその殼を打ち破るのでなければ、新しい生命を得ることはできない。

非力の雛は、間もなくもがき始るであろう。突破口を模索して無駄な努力を繰り返すであろう。もちろん今は忙しい時代であるから、要するに生まれたのか生まれなかったのかを早く知りたいと思われる向きがあっても不思議ではない。本書を読む場合にも似たところがあって、もし読者がわたくしの主張をしりたければ、最後の章の「総括的考察」を一読してから最初に立ち戻るのも一案であろう。しかし、比較法学を愚者の学とするツヴァイゲルト教授のことばの意味を正しく理解される方々に対しては、願わくば冒頭からわたくしの模索の跡を心静かに読んでいただきたいと思う」。

大木雅夫は、1931年福島県生まれ、東京大学法学部卒業、上智大学法学部教授のときこの書を出版、現在、聖学院大学・大学院、政治政策学研究科教授。無学歴の筆者は、当然、一面識もありません。高等教育を受けることが可能であったなら、筆者は、必ず受講して、質問ぜめにしたことでしょう。
 

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穢多と法的逸脱

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第3項】穢多と法的逸脱



宝永・正徳・享保年間において、近世幕藩体制下の司法・警察制度は、完成の域に達します。

幕府は、江戸幕府開闢以来、「法度の名を冠する幕府の制定法」を頻発します。『世界法史概説』の著者・田中周友は 、江戸時代を、法制史上の「後期武家法時代」とします。さらに、その時代を前期と後期に分けて、「江戸時代前期」 「江戸時代後期」に分類し、「江戸時代前期」を「法度時代」と呼びます。

「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」・「寺院法度」が制定され、近世幕藩体制の枠組みが確定されていきます。

幕府の指示で、諸藩も、それに対応した法令を作成していきます。長州藩を例にとっても、膨大な法の累積がなされます。万治3年(1660)には、領主法である『万治制法』が制定されます。この『万治制法』は、「藩主の命令という形式の禁令」であるが、内容は、詳細な法の体系ではなく、「政治上の大綱的規律や禁令」であったといいます。

全国の諸藩は、それぞれの地域性や歴史を考慮して、藩独自の「家中諸法度定」や百姓町人統制令を頻発します。多くの場合は、箇条書きで、より具体的に法の内容が記載されます。

しかし、法は制定するだけでは、実効あるものにはなりません。幕府や藩は、「御触書」という名の啓蒙書を発行して、「常民」・「非常民」に、諸法度の遵守を訴えます。

『百姓の江戸時代』(ちくま新書)の著者・田中圭一は、「御触書」が法であるという一般説を否定します。その理由として、「御触書」に違反しても、それを根拠に「罰せられたあとはない」というのです。田中によると、「御触書」は、「日常生活についての道徳」、「凶作・不作に対処するための方策」でしかなかっと主張します。「支配者の教条的な正論だけを並べ立てた「道徳の教科書に過ぎない」。歴史学者の「御触書」に関する見解は、「歴史学者の作文」に過ぎないと手厳しく批判します。

田中は、「本書では、これまでの権力の側からの史観を覆し、当時の庶民である百姓の視点から江戸時代の歴史をよみなおす。」といいますが、筆者は、そこまで言い切ることはできません。

「御触書」に違反すると、「御触書」を根拠に処罰されることはないとしても、「御触書」が遵守を求めている「法度」を根拠に処罰されることは多分にあります。「御触書」の背後に、実体法としての「法度」が存在する限り、田中の説のように、百姓にとっての「御触書」を無効化することは無理があるように思われます。

幕府や藩によって累積されていったのは、「法度」だけでなく、その「法度」を法の淵源として適用された判例集もありました。近世幕藩体制下の訴訟法である「公事方御定書」と、判例集である「御仕置例書」、「御仕置例類集」も作成されていきました。「それらは、すべて奉行諸役人のための心得ないし準則だった」(大木雅夫著『日本人の法観念』)といいます。

この訴訟法や判例集が、「他見あるべからざる」として極秘扱いされたことで、近世幕藩体制下の絶対専制主義を示す「よらしむべし、知らしむべからず」というようなことが主張されるようになりました。

大木は、「御定書等は裁判役人のための準則なのであるから、それらを名宛人以外の民衆に公布しなかったとしても、それをもって直ちに幕藩体制下の法の基調を東洋的専制主義とみることは、はなはだしくイデオロギー過剰な解釈というべきであり、日本法の性格を著しく歪めて描き出すことになろう。」と指摘します。

法制史上の「江戸時代前期」で集積された法は、「江戸時代後期」に成文法として編纂されていきます。法の淵源の確定と整備だけでなく、司法・警察制度も、より確固たるものに改革されていきます。

「江戸時代前期」「江戸時代後期」は、『世界法史概説』の田中周友によると、「公事方御定書」が制定された寛保2年(1742)によって時代区分されます。

しかし、時代というのは、「江戸時代後期」は、1742年をもって突然とやってくるのではなく、「江戸時代前期」「江戸時代後期」の間には、過渡的な時代が存在します。ひとつの時代の終りは、もうひとつの時代のはじまりとオーバーラップしているのが普通です。私は、「江戸時代前期」「江戸時代後期」が重複した時代は、正徳・享保年間ではないかと思っています。

正徳・享保年間には、幕府の重要な禁令である「キリシタン禁教」にとって、深刻な事態が発生します。「穢多とキリシタン」のところですでにとりあげたように、日本へのキリスト教再布教を目的として、イタリアの宣教師、ヨハン・シロウテが日本に潜入してくるのです。従来の宣教師と違って、日本人の姿で、武士の装いで潜入してくるのです。

幕府は、新井白石による取調べを通じて、日本が欧米諸国からどのように認識されているかを知らされ、再度、キリシタン禁教と鎖国の意志を確認していきます。そして、近世幕藩体制下の司法・警察制度の整備・拡充と、キリシタンに対する「宗教警察」、浪人に対する「公安警察」機能を強化していきます。宗門人別帳の整備や宗門改め制度の強化をはかります。

徳川8代将軍・吉宗は、「をしへざるを罪するこそなげかしけれ」と言って、「法令の周知徹底をはかった」といいます。大木は、吉宗の法政策は、「罪刑法定主義」を背景にしているといいます。

大木は、「それどころか吉宗は、百姓どもに法度を守るよう申し聞かせるだけでは足りないとして、手習いの師匠に命じ、法度書や五人組帳などを教材にさせている。それが、どれだけ効果を挙げたかは分からないが、ここまでして、かれは法令を知らしめようとしたのである。」といいます。

「法に定めなき罪は裁かれない」という吉宗の政策は、「江戸時代後期」の法システムに大きな影響を与えたのではないかと思います。

筆者は、正徳・享保年間は、法制史上の「江戸時代後期」に加えてもいいのではないと思っています。「江戸時代前期」の法システムの改革こそ、「江戸時代後期」のはじまりのしるしであるからです。

正徳・享保年間においては、法の整備だけでなく、司法・警察制度も改革されていきます。司法・警察制度は、近世幕藩体制下の「専門職」として、「名誉職」的存在が排除されていきます。そして、「専門職」たる、司法・警察に携わる役職については、「職権の乱用」や「賄賂」が司法・警察の「信用を失墜させるもの」として厳しく糾弾されていきます。

吉宗は、「公事上聴」として、「江戸場内における三奉行の裁判に臨席した」といいます。「久しく惰眠を貪っていた評定衆に強烈な刺激をあたえた」といいます。

法制史上の「江戸時代前期」から「江戸時代後期」への過渡期において、実施された、法の整備と法制度の整備、改革は、幕府においてだけでなく、諸藩においても実施されます。

唯一、将軍に直結する宗教奉行の管理強化によって、全国津々浦々に配置されていた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人」に対する規制強化も現実のものになっていきます。

この時期、「穢多・非人」に対しても、司法・警察としての、「非常民」としての規制が強化されていくのです。

『新修広島市史』によると、「藩内全般にわたる倹約令が出され、身分規制を細かく厳しくし・・・支配体制を強化する体制が固められていった」(橋本敬一著《芸備の被差別部落》)のですが、「藩権力は、革田身分の人々に対しても風俗規制を行ない、差別政策を顕在化する政策を法的にも明確にしたのである」(橋本)という指摘は、幕府がすすめてきた、正徳・享保年間における法整備や法制度の改革の流れをまったく無視した、「賤民史観」に立つ偏見でしかないと思われます。

身分規制は、差別規制なのか、それとも職務規制なのか、倹約令の条文をみればわかります。

「革田共近年風俗分過ニ相成、在家ニマキレ候様成ル体仕、衣類等不相応ニ有之、甚不届之儀ニ候、依之自今之義相定候」

広島藩は、ここで、「常民」と「非常民」の区別を明確にすることを命じているように思われます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」が「非常民」として存在するのではなく、「常民」と同様の体をするときは、社会の治安に重大な影響をもたらすので、「非常民」は「非常民」身分に相応しい「風俗」(衣食住)につとめ、「常民」から批難を買うようなことをしてはならないという法令ではないかと思います。

次の条文、「向後ちゃセン髪ニ可仕事」という言葉は、男性の「穢多」に対する、近世・幕藩体制下の司法・警察に相応しい髪型の強制であると思われます。非常時に際して、凶悪や強盗団逮捕に対して、夜目にも識別可能な髪型ではなかったかと思われます。「取り締まる側」と「取り締まられる側」の明確な区別の必要性から、そのような規制がなされたと思います。

幕末の「非常時」に際しては、武士も、「茶筅髪」にしたと言われています。軽快に身を処することができるようにするためでしょう。

しかし、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、この条文を「差別法令」として解釈します。
「刑罪者有之節、其外科人之儀ニ付罷出ル格式之義者格別、常々者刀指候義無用ニ可仕事」という条文は、広島藩内で起こった「享保の一揆」(1718年)の事後対策としてだけではなく、幕府によって指示された、近世幕藩体制下の司法・警察機能の強化とも連動していたと思われます。

広島藩の「穢多」(革田)は、「非常時」には、帯刀を許可されていたのです。しかし、広島藩は、「非常時」ではないときは、「穢多」に帯刀を禁止しています。その際の「穢多」の主な捕亡具は、「鉄刀」である十手や六尺棒ということになります。

そのあとに続く条文も、ほとんどが、近世幕藩体制下の司法・警察である、「穢多」に対する職務遂行上の規制であると言えます。

近世幕藩体制下の司法・警察に関する制度の改革の流れを把握しようとしない、「賤民史観」に立つ部落史研究者は、歴史の流れの中から、この条文のみを観念的に抽出して、「差別法令」・「差別政策」とするのです。

「穢多」(革田)の職務に対する規制強化は、「穢多」だけでなく、同じ、近世幕藩体制下の司法・警察という「非常民」であった、下級武士や村役人に対してもそれ相応に適用されているのです。

「賤民」に関する統制(『部落解放史』解放出版社)ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」に関する規制なのです。

穢多に関する「御仕置帳」は、司法・警察である「穢多・非人」の職務遂行上の規律違反と、百姓等と共通して守るべき一般法に対する違反を記したものです。それは、決して、「穢多・非人」に対する差別事例として記録されたものではありません。

元山口県立文書館の布引俊雄は、「穢多・非人」に関する「御仕置」を、「穢多・非人」に対する差別文書として把握しますが、大いなる誤解、否、悪しき改竄であるといえましょう。

『警察学入門』(アスペクト)は、「警察官平成不祥事年表」の中で、現職警察官の法的逸脱例を列挙しています。
「巡査部長・・・盗む」。「巡査・・・万引き」。「警察官酒酔い運転」。「(公道でOLにだきついた)ハレンチ警部」。「殺人警官」。「女子高生襲撃警官」。「下着泥棒警部捕」。「県警買春警官」。「ひったくり機動隊員」。「巡査部長売春接待」。「乗り逃げ巡査部長」。「調書捏造」。「スリ警部」。「銀行恐喝警官」。「犯歴データ遺漏」。「収賄刑事」。「いたずら爆弾警官」。「拳銃行方不明」。「マンション侵入警官」。「暴力警官」。「裏取引」。「飲酒運転人身事故」。「留置人の現金着服」。「ひき逃げ警官」。「賭博警官」。「巡査部長婦女暴行」。「わいせつ警官」。「反則切符偽造」。「詐欺恐喝警官」。「夫婦喧嘩暴れ警官」。「わいせつパトカー」・・・。まだまだ、延々と続きます。

「穢多・非人」に対する「御仕置」というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の職務違反、服務規定違反、一般犯罪違反を集めて記録したものです。元山口県立文書館の布引俊雄は、これらの「御仕置」を、「賤民」身分が受けた「差別」として解釈(曲解)するのです。

「穢多・非人」に対する御仕置きは、彼等が、司法・警察官としての職務に違反したが故に課せられた「刑罰」であって、決して「差別」ではないのです。

元山口県立文書館の布引俊雄によって、山口県の領域の外へと発信された「穢多・非人」に関する情報は、彼独特の「フィルター」にかけられたあとの、史実とはほど遠い、改竄された情報でしかないのです。

長州藩に記録された、近世司法・警察の「不祥事」は、現代ほど多くはありません。恐らく、近世幕藩体制下の社会的治安は、現代以上に安定していたのでしょう。近世幕藩体制下の司法・警察官が、「非常民」と「常民」の区別を忘れてしまうほどに・・・。幕府も藩も、おりにふれて、同心・目明し・穢多・非人に対して、その区別を厳守して、「非常民」としての職務に徹底するようにお触れをださなければならなかったようです。

現代の司法・警察とくらべて、近世の司法・警察の「御仕置き」事例が少ないのは、彼等が犯罪を犯したあとの処遇の違いによります。

石井良助著『江戸の刑罰』に、司法・警察である「穢多」が犯罪を犯して入牢された場合、牢名主(犯罪者)による残酷な処遇が待っていることを伝えています。その残酷さは、言葉として紹介することはできません。関心がある方は、『江戸の刑罰』(中公新書・126頁)をご覧ください。

近世・近代・現代に関わらず、司法・警察に関与するもののうち、犯罪にはしるものは、極めて例外的な存在です。それをとらえて、「差別」と強弁するのは、歴史学者としての、実証史研究者としての良心を棄てて、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に身をゆだねたときのみです。

多くの「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、自覚と責任を持って職務にあたっていた人々です。今日の日本人の多くが、その言葉すら記憶にない、キリシタン弾圧のための「宗教警察」という役務を含んでいましたが、その当時にあっては、当然のこととしてその職務を遂行していました。

以前紹介した、元山口県立文書館研究員の北川健が発掘した、長州藩の「穢多村」に伝わる伝承を再掲しましょう。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

「非常民」であることを高らかに歌う高佐郷の「穢多」たちの姿に、「被差別」の翳りはありません。
 

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法の番人としての穢多

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第4項】法の番人としての穢多



『部落学序説』の書き下ろしをはじめた日、筆者のこころの中にあったのは、『部落学序説』を新書版1冊程度にまとめることでした。

しかし、十分な説明をするためには、その枠を固守することはできず、次第に文書量が増えてしまいました。すでに、新書版3冊程度の長さです。そして、やっと3章の終りに近づきつつあります。

当初、1章から3章までを、近世幕藩体制下の「穢多」の解明にあて、それを前提にして、4章から6章まで、明治以降の「旧穢多」のたどった歴史を明らかにするつもりでいました。その論文の章立てを変更する予定はなかったのですが、結果からみると、かなり章・節・項の配置を変更したようです。

第1章 部落学の研究対象
第2章 部落学の研究方法
第3章 穢多の定義

第3章においては、「穢多」の属性を明らかにするために、多方面に渡って、話題を展開してきました。筆者の得意とする分野もあれば、逆に苦手とする分野もありましたが、できる限り、多角的な視点から、穢多の属性を検証してきました。

そして、この『部落学序説』が提唱する、「非常民」の学としての部落学を構築する過程において、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究の、未解決の問題にかなり光をあて、その問題の解明に貢献してきたのではないかと思います。

「穢多・非人」に関する考察は、従来の部落史研究者が、暗黙の前提として受け入れ、継承してきた「賤民史観」を放棄しても、部落史研究そのものに大きな影響はないことも明らかになったと思われます。

むしろ、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に固守すればするほど、部落史研究は、部落差別完全解消という科学の社会的課題から遠ざかってしまいます。それどころか、差別の拡大再生産という「差別行為」に連座するようになってしまいます。

第3章を閉じるにあたって、書き残してきたことについて2、3触れておかなければなりません。「穢多」概念の定義は、「外延」と「内包」を明らかにすることによって達成されます。「穢多」が身分概念であるため、その「内包」は、必然的に「役務」と「家職」の両属性をともないます。

しかし、この第3章では、外延と内包の一部「役務」のみを取り上げ、「家職」の方は直接とりあげることはしませんでした。

最近の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、どちらかいうと、政治起源説から文化起源説に移行していくような傾向があります。

『身分差別社会の真実』(斉藤洋一・大石慎三郎著、講談社現代新書)にこのような言葉があります。

「これまでは、部落差別は政治権力がつくったものとする見方が有力だったが、そのように考えているかぎり差別をなくすことはできないのではないか。差別は、私たちみんなでつくり、維持してきた、いいかえれば私たち一人ひとりの問題としてとらえ、なくしていこうとしないかぎり、差別をなくすことはできないのではないか・・・」。

筆者は、斉藤・大石両者に、異を唱えざるを得ません。「部落差別は政治権力がつくったもの」という歴史的な事実は、今日に至るも、歴然とわれわれの前に存在しているからです。「部落差別は政治権力がつくったもの」という政治起源説的な考え方が、部落差別完全解消につながらなかったというのは、ひとえに部落史研究者の歴史学的方法論が間違っていたためではないかと筆者は考えています。

筆者は、文化起源説に逃げることなく、政治起源説に踏みとどまって、この『部落学序説』を執筆しているのです。しかし、筆者は、文化起源説に立っている学者や研究者が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の「家職」に関する研究分野で多大な貢献をしてきたことを知らないわけではありません。「穢多・非人」の「家職」は、同じ下級武士の「家職」とくらべて、その職分の範囲は広く専門的で、決して、下級武士の太刀打ちできる類のものではありません。「非常民」としての「御役」を割り当てられなかった「穢多・非人」は、家の経済的安定のため様々な「家職」に従事したものと思われます。それはそれで解明する必要があります。

しかし、「穢多・非人」が「穢多・非人」であるのは、その「家職」というより、その「役務」にあります。この『部落学序説』では、「家職」ではなく、「役務」に集中して、「穢多」とは何であったかを解明してきました。

明治政府は、明治4年の太政官布告で、穢多等の「身分・職業」の封建的拘束を解きます。この表現は非常に微妙なニュアンスをうちに秘めています。「身分・職業」は自由、しかし、「身分・役務」はどうなったのでしょうか。「穢多」の「家職」から自由になっても、「穢多」の「役務」からの自由は保証されなかったのではないか・・・、筆者にはそのように思われるのです。「穢多」の「家職」については、『部落学序説』後半(第4章)で、要点のみとりあげることにします。

そして、言い残していることに、「渋染一揆」と「百姓一揆」の問題があります。どちらも「一揆」という表現が用いられていますが、筆者は、「渋染一揆」は、一揆ではないと考えています。なぜなら、「百姓一揆」が、鍬や鋤を持って示威行動・破壊活動に走るのにくらべて、通称「渋染一揆」は、一揆に必然的にともなう示威行動・破壊活動はともないませんでした。その違いは、どこから出てきたのか・・・。

筆者は、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であったためであると考えています。「常民」である百姓の一揆の矛先が藩権力である、藩の軍事・警察である「非常民」であるのに比して、「渋染一揆」のそれは、「非常民」による「非常民」に対する嘆願という形式を貫いています。

筆者は、そのことが、「渋染一揆」の問題を誤認させる大きな原因になっていると考えています。

「渋染一揆」とは何だったのか。

歴史学者のその問いに対して提示する答えは、実に、漠然としたものです。『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、「渋染一揆」の背景について、「部落民の生活が農民化しつつあること」を強調します。しかし、「渋染一揆」の中に、「非常民」の「常民」化の傾向はないように思われます。むしろ、「渋染一揆」は、井上の期待するところと大きく違って、「非常民」が「非常民」であるための、「穢多」が「穢多」でありつづけるためのたたかいではなかったかと考えています。「渋染一揆」は、「穢多」の例外的な法的逸脱であると思われます。

『部落史の見方考え方』の著者・寺木伸明は、「渋染一揆-差別に対する怒りと闘い」と表現しますが、寺木だけでなく、「渋染一揆」を「身分差別強化政策」の抵抗としてとらえる研究者や教育者は多いのです。その理由に、「部落民の衣服を特定のものに固定することによって、一見すれば被差別身分であることを判然とさせ」ることをとりあげます(『部落解放史』解放出版社)。

被差別身分であることを判然とさせる・・・。

何故に・・・。

多くの部落史研究者や教育者は、この問いに対して何の答えも発していないのです。

『部落学序説』第3章の最後、9節で、「渋染一揆と百姓一揆」を取り上げたいと思います。『部落学序説』前半の近世から、『部落学序説』後半の近代・現代に入っていきたいと思います。「渋染一揆」は、近世と近代・現代のはざ間で起きた、いわば時代の流れの分水嶺にあたります。

『部落学序説』後半は以下のように展開されます。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判

今後とも、ブログ『部落学序説』、ご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。筆者・吉田向学。
 

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