2005.09.02

周防国・室積の遊女の碑

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第1節】周防国・室積の遊女の碑



昔、カメラのキタムラが「300円カメラ・ガラクタ市」をしていたことがあります。

娘が小学校低学年のとき、夏休みの宿題に、アサガオを観察をするというので、娘が使うカメラが必要になって、その 「300円カメラ・ガラクタ市」へ行ってみたのです。

そのとき、店に展示品で、そのまま中古になった一眼レフの「オリンパスOM1」を、消費税込み309円で入手する ことができたのです。そして、数ヶ月後、200ミリの望遠レンズも309円で・・・。

その「300円カメラ・ガラクタ市」は、定年退職した年配の方々の「カメラマニアの集い」のようなところがあって 、私も、そこでいろいろなことを教えてもらいました。

あるおじいさんとは非常に親しくなって、訪ねたり訪ねられたりする仲になりました。一眼レフのことはほとんど知ら なかった私に、彼は、懇切丁寧に、カメラの基礎知識から教えてくれました。

彼は、「滅びゆくものの姿」を写真にとるのが趣味で、単車で、いろいろなところにでかけているということでした。 彼が、いちばん気にいっている場所が、山口県光市室積の象鼻ヶ崎でした。

象鼻ヶ崎の浜辺には、潮の流れにのっていろいろなものが漂着するそうです。下関海峡から流れ込む日本海流は、北の 国の白樺の流木を運んできます。また、豊後水道を通って入ってきた黒潮は南の国の椰子の実を運んできます。いずれ も波に揉まれて、朽ち果てているそうですが、長い歳月をかけて漂流し、象鼻ヶ崎の浜辺に打ち上げられた白樺や椰子 の実の朽ちた姿は、それだけで写真になるそうです。

一度写真を撮りに行ってみたらいいと勧められて、知人と一緒に、2月の象鼻ヶ崎を訪ねたことがあります。

冬の象鼻ヶ崎は、瀬戸内ではめずらしく潮騒が聞こえます。

港の中は、ほとんど波がなく静かですが、訪ねたときは、浜辺に、真っ赤な椿の花が点々と散っていました。まっかな 椿の花を目で追っていきますと、浜辺の向こうに、瀬戸内の冬の海が見えます。殺風景な冬の海を想定してきたのに、 目にもあざやかな椿の花を見て、不思議な気持ちになりました。

象鼻ヶ崎の先端には、小さなお堂がありました。弘法大師ゆかりのお堂で、案内板には、「願いごとがある人は、お堂の前の浜辺の石をひとつ持って帰って、願いがかなったら自分の住んでいる場所の石をあわせて戻すように・・・」記されていました。

お堂の前の石は、小さな小判形の石です。財布に入れていても邪魔にならないような石ですので、ひとつ持ってかえり ました。

象鼻ヶ崎の話をするときに、「これがその石ですよ・・・」と見せるために拾って帰ったのですが、板書きの説明では 、霊験あらたかなのが、「疱瘡」。特に女性にとっては、疱瘡にかかって顔にあばたができるのは嫌われたようで、よ く女性が石を拾って帰るということでした。

その境内の一角に、遊女の碑がありました。

10センチ角の材木に白いペンキを塗った簡素なもので、その上に、「遊女の歌碑」と記されていました。また、その 側面には、次のような歌が書かれていました。

周防なる御手洗の沢辺耳風の音つれてささ羅波立・・・

私は、浜辺に所狭しと散っていた椿の赤い花と、この「遊女の歌碑」のイメージをダブらせながら、「この椿の花の赤 は、昔の遊女の悲しみを伝えているのかも・・・」と思わされました。

そして、次の日、徳山市立図書館の郷土史料室を訪ねて、この「遊女の歌碑」について調べました。

『風土注進案』に普賢寺に伝わる伝承が紹介されていました。

昔、その地方にある夫婦がいたそうです。その間にひとりの女の子が与えられたそうですが、成長して、摂津の国江口 の里に移って「宇治橋姫」という遊女になったようです。「摂津の国江口」というのは、神崎・蟹島・河尻・乳守・高 須などと同じく「遊里」があった場所です(小野武雄著『吉原と島原』)。

その頃、「性空上人」という人がいて、「生身の普賢を拝せん事を」願っていました。あるとき夢をみます。「所願を 果たさんとせば摂津の国江口に至るべし」。上人は、夢でみた御告げに従って、摂津の国江口にいったところ、遊女の 姿を見つけます。近づいたところ、遊女の歌う歌が聞こえてきます。「周防なる室積の中の御手濯に風ハふかねともさ さら浪たつ・・・」。

上人は驚いて目を塞いだところ、瞼の中で、その遊女が普賢菩薩に化身したといいます。上人は、「実相無漏の大海に 五塵六欲の風はふかねとも、随縁真如の浪たたぬ時なし」と悟ったといいます。

上人が目を開けると、遊女は元の姿に・・・。上人が、舟に乗っている遊女に近づこうとすると、遊女の姿は消えてな くなったといいます。そして、上人の手には、「象尾」が残ったのです。

上人が、周防の国の室積を訪ねて、村人に、何か変わったことがなかったかと訪ねると、村人は、「近頃網して木仏を 得たり、畏憚りて近付ものなし」と聞かされます。上人は、この木仏を祀るために、普賢寺を建立したといいます。

室積村の普賢寺縁起伝説として語り伝えられたものです。

象鼻ヶ崎がある室積浦には、性空上人と遊女について別の伝承が語り伝えられています。「遊女の長者」がでてきます 。仏教の教説とは関係がなく、遊廓を経営する「遊女の長者」が、客が酒を飲み酔いがまわってきたころを見計らって 、遊女に、「周防なるみたらしの澤邊に風の音信て」(客を迎える準備ができたか)と歌えば、遊女が、「ささら浪たつ 」(準備ができました)と返す隠語として使われているようです。

室積は長州藩にとって「重要な役割をになっていた」そうですが、「宝暦」年間には衰微していたと言われます。室積 近辺の漁が思うように収穫できなかったことが原因であると言われています。しかし、室積港は、藩政改革の一貫とし て、港と港町が整備されることになり、「明和」年間には、室積の港と町の活性化が図られたといいます。室積浦庄屋 は、「湯屋の復活によって港町としての室積の繁栄を目論んでいた」といわれます。湯屋というのは、「「汚かき女」 と呼ばれる一種の遊女を抱え、廻船の船頭や船乗りに慰安の場を提供するもの」です。室積浦庄屋の目論見は成功し、 室積は、下関・中関・上関に並ぶ重要な藩の港になっていきます。室積の繁栄は、湯屋(遊廓)の経営者・「遊女の長者 」は、年間500両を越える収入があったことからも察せられます。

バブルがはじけたあと、象鼻ヶ崎を訪ねたときには、木の柱で作られた「遊女の歌碑」はすでになく、代わりに、何と かクラブという、光市室積の企業家クラブが、堂々とした石碑を建てていました。遊女の悲しみを伝えていた「遊女の 歌碑」とはまったく違う、その堂々とした石碑は、経済不況に陥った光市室積をその苦境から救ってくれる「遊女の長 者」の再来を祈るような石碑に思われました。私は、すごく、違和感を感じました。

そして、しばらくして、また象鼻ヶ崎を訪ねたときには、その堂々とした石碑は取り除かれ、木の柱で作られた「遊女 の歌碑」と同じ大きさの石碑が建てられていました。象鼻ヶ崎の冬の海に潮騒と混じって、昔の遊女のすすり泣きの声 が、再び、聞こえてくるようでした。

あるとき、室積の港町を妻と一緒に散歩しました。その辻で、3人のおばあさんが話をしていたので、訪ねてみました 。

「昔の史料を読んでいたら、室積には、遊廓があったそうですが、遊廓跡というのはあるのですか・・・」。
すると、ひとりのおばあさんが、口に指をあてて小さな声でこのようにいいます。
「あなた、いまどき、そんなことを聞いたら、大変なことになりますよ。遊廓がどこにあったかなんて・・・」。
私と妻は、てっきり、断られたのかと思ったのですが、そのおばあさんは、このように言葉を続けたのです。
「ついていらっしゃい。教えてあげますから。」

そのおばあさんの話では、室積の遊廓は悲しい場所であるといいます。「他の遊廓と違って、室積の遊廓は、遊女に子 供を産ませて、その子供にも遊女をさせていた・・・」というのです。「遊女の家は代々遊女をしていた」というので す。「家が貧しくて遊女をしなければならないというのは精神的に苦痛です。そういう苦痛を感じているといい遊女に はなりません。室積の遊女は、子供の頃から遊女であることになじませるのです。本当に悲しいところです・・・」。

「あの、その遊女の家の方は・・・」。
「ああ、今も室積に住んでいます・・・」。

おばあさんは、遊廓跡につくまで、そのような話をとぎれることなくしてくれました。遊廓跡の近くは、「穢多」の在 所であることを告げるとおばあさんはもときた道を帰って行きました。

そのときから、筆者は、「遊女とは何か」、「遊女と穢多とはどういう関係があるのか」、関心を持つようになりまし た。

訪ねた遊廓跡は、「跡」ではなく、建物全体が現存していました。私は、妻を遊廓の門の側に残して、遊廓の玄関を叩 きました。今は、篤志家によって、遊廓の建物が保存されています。その管理をされている女性の方が出て来られて対 応してくださいましたが、はじめて見た遊廓は、ある種の「牢屋」でした。人ひとりしか通ることができない程の狭い 廊下に狭い階段・・・。その奥にある客室。これを「牢屋」と言わないでなんと呼ぶのだろうと思わされました。

筆者にとって、「穢多」の世界も「遊女」の世界も、ほとんど縁のない世界です。

室積の町の辻でであったおばあさんが話していたことが真実であるのかないのか、筆者は、確認するすべはありません 。

『特殊部落一千年史』の著者・高橋貞樹の若き日の伴侶、小見山冨恵は、山口県光市の「昔の遊廓の、今は侘しい一隅 で、六畳一間の二階」を借りて晩年を過ごしていました。彼女を訪ねた沖浦和光は、彼女は、「若い時から婦人運動・ 反戦運動に参加し、高橋と同じ頃に逮捕されて獄中にあった。戦争中は、瀬戸内海のハンセン病棟で看護婦として働か れた」。彼女の住む部屋は「壁面は全部本で埋まり、80歳をこえてなお読書に励んでおられた」といいます。

光市にある、昔の遊廓を捜し当てたとき、その管理者の方に、「小宮山冨恵さんという方をご存知ではありませんか・ ・・」と訪ねたが、何も知らないということでした。

そのあとも、ときどき思い出したかのように、その遊廓跡を妻と一緒に訪ねたのですが、「忘却」の壁に阻まれて、ほ とんど情報を収集することはできませんでした。訪ねる都度、わたしの脳裏には、象鼻ヶ崎の「遊女の歌碑」と、真っ 赤な椿の花、そして、遊廓の2階に身をおいて晩年を過ごした女性解放運動家の姿が交互に思い出されます。(続く)
 

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近世幕藩体制下の遊女

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第2節】近世幕藩体制下の遊女



長州藩の史料では、「遊女」の社会的な身分は、「百姓」に帰属します。

喜田川守貞著『近世風俗志』の「巻之二十一」と「巻之二十二」に、喜田川が行った近世幕藩体制下の「娼家」に関する調査があります。

喜田川は、天保年間の遊廓と遊女に関する調査を、「知的レベル」で実施しました。その資料収集にあたっては、なかなか思うようにいかなかったようで、当時の遊女の格付けと値段表『諸国遊所見立角力并直段附』を入手するには相当時間がかかったようです。

この表を見ると、当時の日本全国の遊郭の格付けがなされています。

長州藩を例にとると、下関稲荷町の遊郭は、「前頭」に位置付けられます。遊女の「値段」は銀24匁。同じく下関の伊崎は銀12匁。上関は9匁よりとなっています。

『防長風土注進案』によると、上関には、50人を超える遊女がいたようですが、その身分は、「百姓」に帰属します。

『防長風土注進案』の記載では、「武士」と「百姓」に2分類されていて、「武士」の系列にあらざるものは、すべて「百姓」に数えられています。「遊女」は、「武士」ではなく「百姓」身分に算入されています。

近世幕藩体制下で「武士」出身者で「遊女」になった人は、なんらかの事情で「武士」格を剥奪されたあと、「遊女」になったと思われますので、「遊女」は、すべて「百姓」に帰属するようになるのです。

喜田川の調査から推測しますと、「遊女」になった人は、2様に分類されます。まず、自分の意志で遊女になったひと。遊女もひとつの「家職」として、その道に入り、たくさんの遊女を抱えて大儲けを企む人々です。また、それに、ある意味賛同して、遊女になっていく人々です。

近世幕藩体制下の遊郭に関する史料を見ていて思うのですが、女性を「遊女」に仕立てる最も大きな力は同じ女性自身ではなかったのかと思うのです。

喜田川は、その他に、自分の意志ではなく、他から強制されて遊女になった人々が存在することを書きとどめています。

まず、まったく見ず知らずの人に誘拐・拉致されて、他国に遊女として売られる場合です。藩を超えて暗躍する人身売買組織がある場合、遊女として売られた娘を取り戻すことはほとんど不可能であったと思われます。

次は、子供のいない家庭に請われて養女に出している場合、「養父の貧戻より私かに養女を娼家に売る。実父あるひは死亡、あるいは遠国、遂にこれを訴ふことを得ず・・・」という悲惨な状態に陥ったようです。

喜田川は「江戸の地獄」と言う表現を用いていますが、この言葉が何を意味するのか定かではありませんが、自分の意志に反して、非人間的な状況に陥れられた女性の境遇を指して「江戸の地獄」と呼んでいるのかもしれません。江戸には、自分の意志に反して、遊女とされた多くの女性が存在していたのでしょう。彼女たちにとって、江戸は「穢土」そのもの、地獄以外の何ものでもなかったと思われます(「江戸の地獄」は、幕府が無許可の違法風俗業のことだそうです)。

『吉原と島原』の著者・小野武雄は、「遊女が町医者の許へ運ばれてゆく場合は、ほとんど瀕死の重病人で、治って帰れる場合がなかった・・・」といいます。名もなき女性たちが、遊郭という「地獄」で、死ぬまで、「商売道具」としてこきつかわれ、大病を患うと、ごみくずを捨てるかのごとく捨てられた様をみると、本当に胸つぶれる思いがします。

数年前、山口県立某高校に、ある仕事で勤務していたとき、お昼の休憩時間に、職員室で、ある女性教師と話をしたことがあります。それは、現代の高校生の性風俗についてです。その女性教師は、現代の高校生は乱れに乱れていることを強調して、その原因は、親にあるといいます。親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がないというのです。

その話をききながら、筆者の娘が小学校のとき、親を対象にして開かれた同和教育の席上で、講師の教師が、「小学校では、同和教育を正しく実践しています。しかし、せっかく、人権感覚に富んだ教育をしても、生徒が家に帰って、おじいさん、おばあさん、おとうさんやおかあさんから、差別的な話をきかされると台無しになってしまいます。くれぐれもそういうことがないように・・・」と、部落差別がなくならい理由として、家庭と親に原因があるような説明をされていましたが、山口県立某高校の女性教師が「親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がない」と嘆いていたのも、同じ発想ではないかと思って話を聞いていました。

すると、何を思ったのか、その女性教師はこのような話をしました。「考え方によっては、風俗は必要なのですよね。うちの娘のように、育ちのいい娘を変な男の毒牙から守るためには、風俗の女がきちんと相手をしてくれないとね。そうしたら防げるのよね・・・」。

私は、「何を言い出したの?」と思いながら、その女性の顔をじっと見続けました。どう答えたらいいのか、言葉を捜しあぐねたからです。

すると、その女性教師は、「あら、わたし、何か変なことをいいましたか?」と、私に問い掛けるのです。

私は、ますます言葉を失って、ただ、その女性教師の目をじっと見続けました。

すると、彼女は、「あら、わたしとしたことが、とんでもないことを言ったみたいで。あの、この発言、なかったことにしてください。」というのです。

最近、山口県でもいろいろな事件が発生します。教育現場を舞台にした事件も多発しています。その都度、思うのですが、小学生・中学生・高校生などの生徒がさまざまな事件を起こす背景に教育現場の荒廃があるのではないかと思うのです。それも、教えられる側ではなく、教える側の方に・・・。

私は、彼女にひとこと、このように言いました。
「先生、先生はどのような姿勢で高校生を指導されているのですか。親の立場から気になります・・・」。

そして、福沢諭吉の売娼制度の話をしました。「売娼制度」が如何に残酷なものか、非人間的なものか・・・。その教師のこころにどこまで届いたのかこころもとないのですが・・・。

ある被差別部落でこのような話を聞いたことがあります。
「被差別部落の女性は、遊女の世界でも差別されていたんです。男たちは、部落の女性は穢れているといって抱きませんでした・・・。」

遊女について話をしているときに、男性だけでなく、時として、女性自身から、残酷な言葉が飛び出してきます。私は、その都度、語るべき言葉を失ってしまうのですが、多くの人は、「遊女」の問題を話すときに「的を外す」のです。「遊女」だけではありません。「穢多」について論じるときにも「的を外す」のです。

「的を外す」というのは、聖書では、「罪を犯す」という意味なのですが・・・。

旧約聖書の中に、『レビ記』というのがあります。その19章29節に「あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである」とあります。

旧約聖書の言葉によると、「売春制度」と政治の頽廃、社会の紊乱とは、大きな関係があるというのです。

逆からみると、日本の政治の汚職や不正などの腐敗体質(おとなの側の悪)が取り除かれると、教育上のいじめや万引きなどの様々な問題(こどもの側の悪)も取り除かれるのではないかと思います。こどもの荒んだ現状は、おとなの荒んだ現状の反映でしかないのです。

自分のこどもさえ守られたら、人さまのこどもが風俗にはしろうと何しようと関係がない・・・というような教師の姿勢が、今日の教育の混乱を引き起こしているのではないでしょうか。学校の教師が「本音」としてそのような思いを持っているとき、どうしてまともな教育が実践されるのでしょうか。教育することに失敗した教師ほど、社会的に害になる存在はありません。なぜなら、何十人というたくさんのクラスのこどもに間違った観念、倫理・道徳を教えるからです。

教師の語るひとことが、どれだけ、多くのこどもたちに消すことのできない影響を与えているか反省すべきです。

中学校の校長が同僚の若い教師を天井から盗視する事件がありましたが、教育界の不祥事は、いつも、「とかげのシッポ切り」で終わってしまっているようなところがあります。「犯罪を犯したのは例外的存在・・・」と片づけることで、真に解決されていない問題が累積し、腐敗臭を放って教育界を蝕んでいくのです。

郵政事業民営化に反対した自民党員に対して、小泉首相は、徹底した「懲罰」で出ているようです。

「発言の自由」が憲法で保証される日本で、しかも、国会の審議過程で、政策論議を踏まえて、郵政事業民営化反対を唱えた議員を、再選させないように「刺客」を送り込んで徹底的に潰してしまおうとする姿勢、そのためには、なりふりかまわず、「くのいち」と称して女性候補者を大量投入する姿勢、党の方針に従わないことを理由に、反対議員を「自民党から限りなく野党の側に追放する」やり方、「権力」を駆使して発言を封じる姿勢は、今後、日本社会に大きな、深刻な影響を与えること必定であると思われます。

力を持って発言を封じる・・・、そんな風潮が強まるのではないかと思います。

小泉は、参議院の議決を完全に無視しています。参議院も、憲法上定められた「国会」です。これほどまでに徹底的に無視するとは、小泉は、日本国憲法を土足で踏みにじっているとしかいいようがありません。一国の首相が、日本国憲法を恣意的に解釈して、事実上の改憲を行うということは決して許されるものではありません。

「力」ではなく「言」にものを言わせるのが、現代の政治家が政治家たる所以ではないかと思うのですが・・・。逆に「言」を「力」で圧殺する、戦前の軍国主義化への道を想定させるような事態が一般化しつつあるのです。危機感を感じてしまいます。

小泉は、山口県の高校の教師が「自分のこどもさえ守られたら人さまのこどもはどうなってもいい・・・」と考えているように、小泉の「政策に賛成するひとが守られれば、反対勢力や野党はどうなってもいい」という姿勢は、問題解決ではなく、あらたな問題を引き起こす悪しき決断でしかないと思われます。

今後、教育現場においても、こどもたちが「言」ではなく「力」を誇示する風潮が高まるでしょうか。危惧されるところです。

またまたかなり脱線してしまいましたが、この文章は、「穢多と遊女」でした。「穢多」と「遊女」はどのような関係があるのか。

近世幕藩体制下の「穢多」は、当時の司法・警察であり、当時の風俗を取り締まる立場にありました。一方、「遊女」はその取締りの対象でした。「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、まったく異なる存在です。筆者は、それを「非常民」・「常民」という範疇で区分しました。

「穢多」と「遊女」は、混同することができない概念なのです。

しかし、「賤民史観」に身を漬けている部落史研究者は、この「穢多」と「遊女」を「賤民」という同一概念で把握しようとします。その最たるものは、関西大学文学部講師の上杉聡です。「賤民史観」に埋没している彼は、部落差別を、解決不能な世界へと追いやるのです。その論理は、「穢多」の歴史的な本質を相対化し、「遊女」と同じ「身分外身分」・「社会外社会」へ追いやる論理です。(続く)
 

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賎民史観から見た遊女

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第3節】賎民史観から見た遊女



筆者は、関西大学文学部講師・上杉聡という人に会ったことは一度もありません。ただ、『部落史がわかる』(三一書房)、『部落史を読みなおす部落の起源と中世被差別民の系譜』(解放出版社)と2、3の論文を読んで、批判を展開することになります。

「著者紹介」欄を見ると、「1947年岡山県生まれ。関西大学文学部講師。」とあります。私も、1948年岡山県生まれです。最初、上杉の「著者紹介」を見たとき、同じ岡山県出身であるということでこころ引かれましたが、『部落史を読みなおす』を読んでいて、違和感を感じる箇所がありました。

上杉は、「歴史学会の趨勢は、中世起源説に向かいつつある」といいます。

上杉は、「天皇制を・・・古来以来、支配者の中に一貫して流れ続けてきた」ものとしてとらえるといいます。上杉は、天皇制と部落差別を、同じコイン表と裏と考えているようです。天皇制が古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたように、「賤民」も古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたと考えるのです。

そして、「中世-現代をつらぬいてなんらかの共通するもの」「賤民」の時代を越えて変わらざる属性(内包)として「社会外」であることを指摘するのです。「賤民」は、社会の「下」ではなく「外」にいた存在であると。上杉は、「下」・「外」という言葉を「排除」・「所有」という言葉で置き換えます。そして、「賤民」は、同じ「排除」といっても、天皇と違って、「上」ではなく「下」へと排除されることで被差別民として生きることを余儀なくされたと考えているようです。

上杉は、「中世賤民と近世賤民との間における変化といっても、そこには本質的な変化があるわけではない」として、被差別部落の「近世起源説を唱える人たち」を厳しく批判します。そして、このようにいうのです。

「現代の部落問題を研究する人びとを除き、近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる」。

上杉の著作を読んでいて、筆者が、問題を感じたのは、「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような彼のものいいです。

私には、非常に強権的な発言のように思われます。そのような強権的な発言はどこから出てくるのだろうか・・・。「被差別」(真)からか、「被差別」(偽)からか・・・。

「被差別」(真)というのは、「被差別部落出身で、被差別部落民として行動したり発言したりしている人」のことです。また、「被差別」(偽)というのは、「被差別部落出身者ではないけれども、被差別部落民として行動したり発言したりしている人のことです。

上杉の著作を読んでいて、彼の「視座」が極めてあいまいで、とらえどころがなかったからです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような強権的な発想をしているところを見ると、被差別部落出身者なのか・・・と思ってもみるのですが、それまでに私は、「被差別」(偽)のパターンに属する「研究者」や「運動家」に何人も遭遇しているので、上杉は、もしかしたら、被差別部落民を偽証しているのかも・・・、と迷ってしまったのです。

山口県の部落解放同盟の方にお聞きしたら、「上杉聡さんについては、よく知らない」ということでした。

ところが、昨日、近くの書店に立ち寄って、同和問題のコーナーの書籍の表題に目を通していたら、上杉聡著『これでわかった!部落の歴史私のダイガク講座』という本を見つけました。

その本は、関西大学文学部の講座「部落史研究」のテキストとして編集されたものです。

上杉は、「第1回講義」の中で、「残念ながら、私は部落の出身者ではありません。」と言明していました。私は、「上杉は、やはり、被差別部落出身者ではなかったのか」と納得しました。

彼は、さらに続けてこのようにいいます。「「残念ながら」というのは、変な表現かもしれません。ただ、みなさんのなかには、直接、部落の人から講義が聴けたら、という人がいるでしょう。私にとっても、もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれないと思うからです」。

私は、ときどき、「精神的似非同和行為」について話をします。「精神的似非同和行為」というのは、被差別部落出身ではないのに、被差別部落民であるかの如くに、行動したり、発言したりする人のことです。「間違えるのは、間違える方が悪い・・・」と反論されるかもしれませんが、「精神的似非同和行為」に疑問を持つどころか、被差別部落民に代わって発言してやっている式の、それ故、必要以上に、被差別部落民である装いをとりながら強弁してしまう人の所作を、「精神的似非同和行為」と呼んでいるのです。

「被差別」(偽)、つまり、被差別部落出身者ではないのに、被差別部落民のように行動したり発言したりする人の中で、知識階級・中産階級に属する人の中には、度を越して、「精神的似非同和行為」の世界にまで足を踏み入れる人が少なからずいるのです。

そのような人びとの脳裏にあるのは、「賤民」概念のみです。

上杉は、「賤民」という概念を「学術用語」として認識しています。「賤民」概念は、古代・中世・近世にはなく、近代に入って、はじめて、「行政用語」として登場してくるものです。その「行政用語」としての「賤民」は、やがて、日本の歴史学者によって、「学術用語」として受け止められていきます。つまり、「賤民」概念、「学術用語」としての「賤民」概念には、明治以降の「行政用語」としての「賎民」概念が内包されていることになります。上杉は、そのあたりを一度も検証していません。そして、「学術用語」としての「賤民」概念を、中世・近世・近代・現代の被差別部落民を定義するための本質概念・実体概念として使用しているのです。

上杉説に立つと、近世幕藩体制下、幕府によって公用語として使用されていた「穢多・非人」は、近世だけでなく、近世を遡って中世まで「賤民」であったということになります。「賤民」は、「江戸時代300年間」だけでなく、その前身まで含めて「1000年間」に渡って「賤民」でありつづけたということになります。

上杉の説によると、日本の歴史の半分以上、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民として生きつづけてきた人びとがいるということになります。

私は、上杉のような、「被差別」(偽)の生き方をしている研究者の脳裏は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」一色に塗りつぶされていると思うのです。「被差別」(偽)の立場に立つ人からは、「被差別」(真)の本当の歴史や伝承を語る「気迫」は伝わってこないのです。

上杉は、「私自身は部落民でないと考え、うっかりすると、差別する側へと転落する位置に立っていました。」といいます。

私が、最初に、被差別部落を尋ねた日、部落解放同盟の某支部の書記をしていた青年は、私にこのようにいいました。

「あなたが立っているのは、差別か被差別か、はっきりさせてください。差別者の立場でかかわるならそれで結構です。被差別部落の人は、差別されているから、他の人を差別していないのかというとそうではありません。日本の社会はいろいろな差別がありますから、被差別部落であるといっても、女性差別・民族差別・学歴差別・障害者差別から自由になっているわけではありません。しかし、私たちは、自分の中にも差別的なものがあるということを自覚している分、自覚していない人より差別的ではないと思っています・・・」。

被差別部落の人びとの前で自己紹介するときに、「私はただの貧乏人です」といいますと、彼は、「私はただの部落民です」と答えていました。

彼は、被差別部落出身ではありませんが、被差別部落の女性と結婚して、部落解放運動をはじめました。

私の「差別・被差別」の分析から判断すると、彼も、「被差別」(偽)になります。しかし、私は彼の中に、上杉から感じるような強権的なものいいを見いだすことはないのです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる・・・」、そんなものいいには、一度も接したことはありません。

彼の献身的な部落解放運動への関わりを見てきた筆者には、彼は、「被差別」(真)そのものです。彼の姿を見ていると、被差別の民と交わった親鸞のような姿があります。

上杉は、「もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれない・・・」といいますが、たとえ部落出身者であったとしても、今以上の研究に到達することはできないでしょう。上杉は、被差別部落の人びとの中に「賤民」を見いだしても、「人間」を見いだすことができないからです。

上杉は、『これでわかった!部落の歴史』の中で、このように語ります。

「部落の女性が娼妓なんかに売られることがあったかどうか・・・たしかに、明治以降でしたら、それはよくありました。しかし、江戸時代には厳しく禁止されていたのです。・・・したがって、男性が吉原へ遊びに行って部落の女性と出会うとういことはありえなかったのです。もしそのような事実が発覚すれば、たいへん厳しい処罰が加えられました。つまり、一般社会の最底辺にいた遊女たちは、どんなに落ちぶれたとはいえ、町人や百姓の娘さん、あるいは武士の娘さんであって、そこに部落の女性が入っていくことは絶対にありえないことでした」。

上杉は、「部落」と「娼妓」、近世的な表現を使えば、「穢多」と「遊女」の関係について、何がいいたいのでしょうか。判然としません。というより、上杉聡の「賤民史観」に毒された差別性が明らかにされていきます。

さすがに、関西大学の学生に読ませるテキストには掲載されていませんが、『部落史がわかる』の中で、他の資料をとりあげて、このように綴ります。長くなりますが、「部落史こぼれ話④遊女屋に売られる部落の娘」の全文を引用・紹介します。

(以下、上杉の差別文書の引用)

遊女屋で働く女性の最高年齢は、24歳ぐらいだという。五十嵐富夫氏は『飯盛女-宿場の娼婦たち』のなかでこの理由を、「年季明けを待たずに徐々に死んでゆく女が、どこの宿場でも多かった」からであるとしている。

16歳ぐらいで男をとることを強いられてから数カ月をへると全身に変調をきたし、腫れものがでるなどして苦しみはじめる。これを「鳥屋」と呼ぶ。一種のセックスによる中毒とでもいうべきものだろうか。この時期、悶々とする女性は納屋などに押し込められて時を過ごす。
この苦しみを通りすぎることによって、はじめて「遊女らしい」体つきになるという。あとは、ほとんど死ぬまで粗食で身体を酷使させられることになる。

こんな苦界に、被差別部落の女性が、賤民廃止令以降、多く身を沈めたという話がある。『明治奇聞』という雑誌には、部落の女性が「四民に伍するのを名誉のやう心得」「お女郎に成ってもいいのですかなど喜び、普通ならば三年三百円といふ位のシロモノが百円ですみ」と書いてある。喜んで売られていったというのは嘘であろう。ただ、部落の女性にとって、「平民の男と付き合える」ということが、売られていく際の唯一の慰めの言葉になろう、悲しい差別の現実が見えてくるのである。

筆者に見えるのは、関西大学文学部講師・上杉聡のいう「悲しい差別の現実」ではなく、上杉自身の差別性です。遊女や被差別部落の女性の中にある人間性にまなざしを向けることなく、16歳の若さで、納屋に閉じ込められ、無理やりに遊女にされていく非人間的な悲惨な状況に対して悲しみも怒りも表わすことがない上杉聡の中に、なぜ、部落差別を語る資格があるというのでしょうか。

上杉は、大学で使用するテキストの中で、このように綴ります。

「子どもたちを部落で育てたことについては、この子たちが成人する頃に、差別はもうなくなるだろう、という楽観がありました。しかし、その見通しはみごとに裏切られました・・・」。

上杉は、だから、今頃になって、「私は部落出身者ではありません。」と、カミングインするのでしょうか(カミングインという言葉があるのかどうかは知りません。カミングアウトの反対語として使用しました)。
 

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上杉聡の遊女観

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第4節】上杉聡の遊女観



日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の帰着点、それが、上杉聡の『部落史がわかる』です。

上杉は、関西大学文学部で二十数年間、「部落史研究」を教えてこられたそうですが、その教科書『これでわかった! 部落の歴史』の「はじめに」で、このようにいいます。

「私の授業は、史料を毎回配布し、それを読むことによって進めてきました。本書に本文と別枠で掲載しているのがそれで、講義は基本的に、まずその史料を理解してもらった上で行ってきました。これは、教師が一方的な「論」を押しつけるのではなく、実証的な多面的な史実を学生と共有した上で、浮かび上がってくる差別への歴史認識を通して、自己の差別意識への反省やそれを克服しようとする意欲や励ましなどを得ることができれば、と考えてきたからです。」

上杉のこの文章を読みながら問題点を感じるのは、上杉が学生に提供する「史料」のことです。

上杉の授業においては、その「史料」を学生が自由に探索するというのではなく、講師である上杉自身があらかじめ教材として選択したものです。無数に存在する史料の中から、どのような史料を教材として選択するのか、そこに大きな問題が発生します。

上杉が、「部落史研究」に関する指導内容を「暗黙の前提」として、それにみあう「史料」だけを選択するとしたら、学生は、講師の「暗黙の前提」である、講師の「思想」を確認したり、追認したりするためにだけ、その「史料」を使用することになります。

私は、このブログで繰り返し語っていますが、今まで、一度も、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書のついた方から講義を受けたことはありません。今後もないと思われますので、私にとって、大学教育はまったく無縁なものです。

大学教授が大学で何をどのように教えているのか、知るためには、一般に公開されている書籍や資料を通して間接的な手段に頼る以外に方法はありません。

鐘ケ江晴彦著『「同和」教育への社会的視座』の中に、《信州の「同和」教育の問題と課題》という論文が収録されています。

鐘ケ江は、「私は、大学で例年、現代日本における主要な差別事象(部落差別、性差別、障害者差別、在日韓国・朝鮮人差別など)の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわりなどについて概説する授業をおこなっている。」といいます。

鐘ケ江は、「ある年の授業では、部落差別についての講義に入る前に、次のような質問をはじめとする幾つかの質問に対して、レポートを書いてもらった」といいます。

その質問というのは、「これまで『同和』教育を受けたことがありますか。ある場合には、いつ受けたか、そのときどのように感じたか、それについて今どのように思っているか、書いてください。」というものです。

その質問に対して、長野県出身の一人の学生がこのようなレポートを書いたというのです。

「小学校5年より中学3年まで、毎年授業として同和教育を扱っていた。5年生のとき、題名は忘れたが、映画を見せられ、偏見問題について勉強した。親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画で、かなりのショックを受けた。たしか、感想文を書いたと思う。
小学6年生から中学3年の間は、毎年、部落差別問題をやっていた。同じクラスの友達に部落の人がいて、その人が作文を発表したりしたが、特に何も感じずつきあっていた。それよりも、同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった。また、こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。(C君)」

その学生のレポートに対して、教授の鐘ケ江は、このように評価するのです。

「C君の場合は、部落差別は知らないですむならそれでよいのではないかと、いわゆる「寝た子を起こすな」論的な考え方に現在でも傾いている。」

鐘ケ江は、3人の学生のレポートを分析・評価した上で、「3人が3人とも、それぞれ問題のある意識・態度を示している」として、「信州の「同和」教育が、本当に差別から解放された人間をつくり出せているか、差別問題に対する望ましい意識・態度を培うことができているか、と言えば、それは疑問である。」と結論付けます。

しかし、筆者の目からみると、問題があるのは、学生ではなく教授の方ではないかと思います。

C君のレポートをよく読むと、C君は、決して「寝た子を起こすな」という考えた方の持ち主ではないということがわかります。「寝た子を起こすな」と信じている人は、なによりもまず、部落差別に関する歴史的考察を拒否する姿勢を持っています。

しかし、C君には、そのような側面は見いだされません。むしろ、歴史について、積極的な姿勢がうかがえます。

C君は、中学校のとき受けた同和教育には批判的です。「それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。」という文章からも確認することができます。C君は、自分が受けてきた同和教育は「中途半端」なものだというのです。逆をかえせば、きちんとした同和教育なら何の問題も感じないと主張しているのです。

中途半端な同和教育が何を引き起こすか・・・。C君は、被差別部落民の一般像として提示された「親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画」「同じクラスの友達」との間のギャップに大きなショックを受けるのです。それまで意識しなかったイメージが、同和教育を通じて、C君の脳裏に入ってきます。

C君は、それを不愉快であると感じて、「こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。」というのです。

そして、C君は、被差別部落出身の「同じクラスの友達」のことを思いやって、「同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった・・・」と感じたというのです。

C君は、「別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。」といいます。

このC君の発想は、信州の被差別部落の住人である、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一の言葉にも見られます。

「世間から疎まれ差別されてきた部落には、たくましく、かしこく、そしてやさしく生きてきた人たちの歴史があった。それを知らずに、勝手にマイナスのイメージを抱きつづけてきた人たちのために、私はこの本を書いた。苦しみ、悲しみながら、それでも喜びのときには笑いを忘れず、真摯に人生を全うする人の姿にふれたとき、だれもその人を見下したり、卑しいと忌避することはできないはずだと、私は信じている。なぜなら、部落の出であろうと、真摯に生きる人がこの世には大勢いるのだし、そうした人が自分と同じように生きる人を差別することなどありえないではないか」。

C君は、「今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。」といいます。

C君は、「中途半端」な同和教育を受けて「中途半端」な差別感情を持っていきるのではなく、本当の歴史をきちんと見すえて生きていきたい・・・、と、教授・鐘ケ江に訴えていたのではないかと思うのです。

しかし、鐘ケ江は、C君のレポートから、鐘ケ江の思考パターンにあった要素「まったく知らないですむならそれでいい」のみを抽出して、それだけに依拠して、C君のレポートを問題ありとします。そして、信州の同和教育の問題点の指摘へと脈絡させるのです。

鐘ケ江の授業は、「差別事象・・・の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわり」等について概説することなのですから、「歴史と現状」という観点から、C君の評価をもっと高くしてもよかったのではないかと思います。

鐘ケ江は、その講義を受けたあとに実施される期末試験の結果について、C君については、「C君の答案は、設問と若干ずれているので省略する」といいます。

そして、その論文をこのようにしめくくります。

「なによりも必要なのは、教師ひとりひとりの意識改革であろう。・・・まず教師が、部落差別をはじめとする差別問題を、自分の人間としての在り方にかかわる問題としてとらえ、明るくホンネで語れるようになること、自分の身の回りの差別問題の解決に主体的に取り組むようになることが、何よりも必要なのではなかろうか」。

なによりも必要なのは、『「同和」教育への社会的視座』の著者を含む、学者ひとりひとりの「意識改革」ではないでしょうか。

鐘ケ江は、C君を評価することなく終わったのではないか危惧されます。

関西大学文学部の上杉聡の、「部落史研究」に関する「史料」を提示して、それを「解釈」してみせる方法では、学生の評価に際して、自分の認識パターンに合致したものは評価するが、そのパターンに合わないものは評価しない・・・ということになりはしないのでしょうか。

上杉の被差別部落民理解には、「血」の問題が内包されています。上杉はこのようにいいます。
「現実には「純粋の部落民」などどこにもいませんし、たとえいたと仮定しても、ほとんど今は何分の一かの部落民ばかりです」。

「何分の一かの部落民」というのは、「部落の歴史が続いていること」、「部落の血が続いていること」を意味しているのでしょう。上杉は、「歴史家は、まず自分の偏見を正しつつ研究に取り組むべきものですし、注意深く歴史をみつめれば、偏見そのものを打ち砕く素材にあふれています」といいますが、その言葉に反して、上杉自ら、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」に立って、それをより強固なものにしようとします。

彼は、「摂津下新庄村・幸七儀、穢多を女房にたいし候一件」という史料を解釈して、「このような人(不義密通をした百姓)の「血」が、部落に流れ込んでいることを「プラス・イメージ」として評価するのです。

上杉聡は、「娼妓解放令」に異常な関心を持ちます。そして、「穢多」と「遊女」を同一視して「賤民」と呼びます。上杉は、このことから「賤民」と「解放」という言葉を使って、明治4年8月の太政官布告を「賤民解放令」と呼ぶのです。

上杉の歴史理解には、中世から近世、近世から近代へと目を向ける以上に、近代から近世へ、近世から中世へと、「賤民概念」を再適用していっているようなところがあります。

ある人は、「遊女」についてこのようにいいました。
「遊廓と称するは即ち売淫の巣窟・・・人間世界には非ざるなり。・・・禽獣に異ならず」。「娼妓の技は最も賤しく最も見苦し」。「人倫の大儀に背きたる人非人の振舞なり」。彼は、遊廓を「封鎖したらば、如何なる事相を呈すべきや。数月を出でずして満都の獣欲自ら禁ずることあたわず、発しては良家の子女の淫奔と為り・・・」良家の娘が男の慰み物になり、性的被害を受けるというのです。良家の娘の貞操を守るためには、遊女の存在が不可欠であると力説します。遊女がその身を犠牲にして良家の娘の貞操を守るは、「親鸞日蓮の功徳に比して差異なき者と云ふべし」といいます。

「一方は(良家の娘は)人にして一方は(遊女)は禽獣に異ならず」といいます。

その人の名は、福沢諭吉。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と名言を残した、福沢諭吉その人なのです。「人」の中に、最初から「遊女」は含まれていなかったのかもしれません。

明治初期の「遊女」は、「身分外身分」、「社会外社会」、「最下層の賤民」、「人非人」とされた人々でした。明治政府は外交上の問題で、明治5年10月2日太政官第295号を布告しました。その中に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致」という法文がありました。明治政府が出した身分に関する布告の中で、唯一、「解放」という言葉を含んだ布告でした。

上杉聡は、明治初期の「遊女」に関するイメージを、近世の「穢多」と「遊女」の関係にも持ち込むのです。そして、両者を「賤民」概念でひとくくりにして、両概念の属性を交叉させます。そして、近世幕藩体制下の司法警察であり、当時の「遊女」を取り締まる側にいた「穢多」を、取り締まられる側の「遊女」の位置まで引き下ろし、明治4年の太政官布告をして「賤民解放令」と呼ばせるような「強権」を発動するのです。「部落民」に擬した上杉の主張(精神的似非同和行為)は、多くの歴史学者や研究者に受け入れられていきますが、それは、部落差別解消への道にはほど遠く、返って、部落差別を解決不能な世界に追いやる、歴史学者による「差別行為」そのものなのです。(続く)」
 

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穢多(非常民)と遊女(常民)

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第5節】穢多(非常民)と遊女(常民)



『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して)からみると、「穢多」と「遊女」は、上杉聡が主張するよ うに「賤民」という概念でひとくくりにできる存在ではありません。

なぜなら、「穢多」は「非常民」に属し、「遊女」は「常民」に属するからです。近世幕藩体制下の司法・警察に従事 する「非常民」と、その監視下に置かれる「常民」とは、様々な形で区別されます。そして、それらは混同されること はほとんどありえません。

江戸時代、「遊女」は、幕府や藩の監視下に置かれていました。「遊廓」を経営する場合は、幕府や藩の許可が必要でした。

徳山藩の法令集をみると、「人身売買はもとより、他領に年切り奉公人を出すことはいっさい禁止する。」とあります。人身売買の多くは、「売春制度」と関係があります。この条文では、遊女にするための人身売買が禁止されていた・・・と解するのが一般的でしょう。

しかし、徳山藩城下には、実際には遊廓が存在していたので、一定の条件を満たした場合は、徳山藩の百姓や浪人の娘は、徳山藩領内で、遊女になることができたと思われます。別の条文に、「領内で年切り奉公人を使うときは、町方は目代、地方は庄屋に届け、証書を作った上で召し使うこと。もしその主人が領内を立ちのく場合には、召し連れて出てはならない。」とあります。

幕府や藩によって、認可された「遊廓」はその存在が保証されましたが、認可がない場合、私的に設置された「遊廓」あるいは「売春業」は、「地獄」と称され、官憲による摘発の対象とされました。非公認の「遊廓」あるいは「売春業」によって、性病が蔓延するのを防ぐためであったと言われます。

明治6年の「警察規則案」には、その第13条にあげられた「行政警察の条目」のひとつに、「娼家ヲ視察シ娼婦ノ健康ニ注意スル事」というのがあります。近代警察がほぼ完成期に近付いた「行政警察全般にわたる詳細な指示を集成」したものに明治18年の『警務要書』があります。

その「下巻、第4篇風俗警察、第4章第2款娼妓」があります。その中にこのような条文があります。
「娼妓ノ出稼ハ概シテ不幸薄命ニ出デ、若クハ誘拐騙詐等ニ罹ル者多キヲ以テ、認許ノ際、警察官ニ於テ精密其事実ヲ穿鑿シ、且貸座敷主トノ結約条件ノ不都合ナニヤニ注意スベシ」

これは、明治の警察が、売春の社会的原因として、「誘拐」・「騙詐」等が原因で発生するとの認識を持ち、その人の自発的な「出稼」と、「誘拐」・「騙詐」によって自分の意志に反して遊女とされる場合を区別していることがわかります。そして、「誘拐」・「騙詐」によって売春させられるような事態を未然に防ぎ、場合によっては摘発するために、「精密其事実ヲ穿鑿」する必要性を説いているのです。

「遊女」に対する取締りの内容と方法は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、そんなに大きな違いはないと思われます。

要するに、「遊女」は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、司法・警察である「非常民」による取締りの対象であったということです。

中には、その取締りの最中に逮捕され、留置場に留め置かれる場合もあるでしょう。同じ建物の中に、「穢多と遊女」が、「警察官と売春婦」が共存する場合も多々あったでしょう。しかし、その事実をことさら強調して、「穢多と遊女」は同質存在であり、「警察官と売春婦」は、身分上、「身分外身分」であり「社会外社会」であったとすることは、事実誤認だけでなく、事実をねじ曲げてとらえる所作と言えるでしょう。

近代だけでなく、近世においても、「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、はっきりと峻別されているのです。「非常民」と「常民」、「穢多」と「遊女」は、別な存在なのです。

それに、穢多が、司法・警察として、「非常民」として、遊廓に取締りに入るのではなく、遊廓の客のひとりとして入る場合が想定されますが、それはほとんど不可能であったと思われます。「低い収入」で、高価な料金を支払うことはほとんど不可能です。

磯田道史著『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』によると、70石取りの武家の「一家の大黒柱」の年間の小遣いは、「信じられないほど少ない。年間わずか19匁である。・・・悲惨という他はない。」と磯田はいいます。

年間銀19匁では、廓遊びをすれば、一瞬にして吹き飛んでしまいます。
70石取りですらそうですから、中間・足軽(徳山藩では13石取り。ただし税金を天引きされるので実収入は、30%未満になる)、穢多・非人にとっては、経済的にほとんど不可能です。

上杉聡は、「部落の男性も、吉原などの遊女屋通いをすることを禁じられていました」(『部落史がわかる』)といいます。上杉は、なにか、そのことで、「穢多」が差別されていたとでもいいたそうですが、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、その職務の内容からしても、また、経済的理由や宗教的・倫理的理由からしても、「穢多」が「遊女屋通い」をすることはありえないことでした。仮にあったとしたら、恐らく、同じ「穢多」から、そのお金の出所について、厳しい穿鑿と糾弾に曝されたことでしょう。

上杉は、関西大学文学部で使用される教科書・『これでわかった!部落の歴史』で、「御仕置例類集」から史料を紹介しています。そして、その副題に、「部落民は遊女になれたか」という表題をつけています。

「穢多の娘を売女などにいたし候もの、穢多の身分を弁えながら、素人まじわり致させ候段、不届きに候・・・」。

上杉は、上記の史料に対して、適切な解釈をしていません。上杉は、史料を提示して通り一遍の説明をしただけで、「この授業の範囲を越えますので、このままにしておいて・・・」と、避けてしまいます。

この史料について、「非常民の学としての部落学」構築を目指す筆者の立場から解釈すると、このような解釈になります。

近世幕藩体制下にあって、「穢多・非人」と言われた人々は、当時の司法・警察である「非常民」です。藩士の多くは、城下に住むことを強制されましたが、穢多は、司法・警察として、藩士や陪臣の存在しない村々にも配置されました。長州藩では、現代の警察署のように、集団で配置されるときは「穢多」と言われ、現代の駐在所のように、比較的少人数で配置されるときは「茶筅」ないし「宮番」と呼ばれていました。「穢多」・「茶筅」・「宮番」を総称する言葉として広域概念としての「穢多」が使用されました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」は、その役務に相応しい言葉と行為をすることを求められました。彼らは、幕府や藩によって定められた法に従って職務を遂行し、犯罪を未然に防ぐと共に、犯罪が発生した場合は探索・捕亡・糾弾等に従事し、裁判のあとには、一連の「キヨメ」によって犯罪者の社会復帰に協力しました。そのような司法・警察に対して、幕府や藩は、強力に支援体制を敷きました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と「穢多の家族」に対する法的保護の施行です。「武士」や「百姓」に対して、司法・警察である「穢多」の職務を疎外するような行為を禁止しました。たとえば、この史料にみられるような、「穢多」の娘を遊女にするというようなことです。もし、そのようなことを認めたら、近世幕藩体制下の司法・警察体制を根底から揺るがすことになってしまったでしょう。「娘を遊女に」人質としてとられているとき、その「穢多」は十分に司法・警察としての職務を実行できない可能性があります。幕府や藩は、それを恐れて、被告に、「司法・警察官がなんであるかを十分認識していながら、その職務を疎外するような、その娘を遊女にするような所作は、司法・警察の信頼を著しく害う故に、断じて許すことはできない。当法廷は、厳罰を以て被告を処す。そして、再びこのような事態が生じないよう、そして、司法・警察の権威が失われることがないよう各方面に適切な対策をとることを指示する。」と判決を下したと思われます。この史料は、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」の「役務」に関するもので、一部の歴史学者が指摘するような、部落差別の実態を物語る史料ではないことを明言しておきます。

上杉は、「穢多」概念に、「遊女」の持っている、「身分外身分」・「社会外社会」・・・という属性を窃取します。そして、明治政府によって、唯一、「解放」という言葉が使われた、明治5年の太政官布告第295号「芸娼妓解放令」ないし「遊女解放令」の「解放」という言葉を窃取して、明治4年の太政官布告を、「賤民解放令」と呼びます。それは、歴史の事実に反する解釈です。

明治4年の太政官布告は、国内外に向けて発せられた、日本の国恥とされた治外法権撤廃の早期解決のため、明治政府がやむを得ずとらざるを得なかった、近世幕藩体制下の旧司法・警察である「非常民」(「穢多」)の、苦渋にみちた解体以外の何ものでもないのです。

明治政府は、「穢多」を「非常民」からはずします。明治政府によって、「穢多」たちは、「常民」の世界に組み込まれます。

しかし、「常民」は、「穢多」が自分たちと同じ「常民」になることに烈しい抵抗を示します。「穢多」が「常民」になる一方で、「常民」が近世幕藩体制下の「穢多」と同じ「非常民」になることが予測されたからです。「常民」の「非常民」化は、明治政府によって画策された国民皆兵制度(徴兵制度)において現実化します。「常民」による明治政府に対する烈しい抗議と抵抗は、「賎民史観」の学者がいう「解放令反対一揆」へと発展していきます(筆者は、「解放令反対一揆」ではなく、「常民」による「非常民」化撤廃を要求する明治政府に対する反対一揆と認識しています)。

明治4年の太政官布告を正しく読み取らないと、部落史における本当の意味を見失ったままになります。

上杉聡は、「賤民」の外延として、「穢多」・「遊女」をとりあげますが、上杉の「穢多」定義は、あまりにも、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にのっとっているため、大きく失敗しています。
 

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