8月15日の意味を考える
【8月15日の意味を考える】
筆者は、団塊の世代の生まれです。
1948年(昭和23年)生まれで、当然、戦後世代ということになります。
小学校に入学したときの姿は、毎日新聞に掲載されていたマンガ「フクちゃん」のように、学生服と学生帽、下駄と名前の入った番傘という姿で学校に通っていました。社会的には、戦争の傷あとがまだまだ深く残っているところがあって、食生活も非常に質素でした。
小学校2年生のとき、はじめて給食がはじまりましたが、アメリカから提供されたパンと脱脂粉乳のミルクがメインメニューで、ときどき、厚さ1センチ、2センチ角のマーガリンやジャムがつくと、「今日の給食はご馳走よ・・・」と大騒ぎでした。
頭の毛にしらみが見つかった女の子の頭には、DDTが振りかけられているのを何度か目にしました。
そして、地方の映画館でみる映画の場面によく、8月15日の玉音放送を聞く場面が出てきました。天皇によって、戦争終結の詔書が読み上げられるラジオに耳を傾けながら、国民が号泣している場面でした。
いつの頃からか、私は、8月15日という「終戦記念日」には、その「戦争終結の詔書」に目を通す習慣ができあがりました。そして、明日、8月15日の「終戦記念日」を前にして、ひとり静かに、昭和天皇によって朗読され、ラジオで放送された、あの「戦争終結の詔書」に目を走らせるのです。
「・・・爾臣民ニ告グ」ではじまる天皇の声は、今日も、さまざまな機会をとらえて放送されているように思われるのですが、この「戦争終結の詔書」に何が記載されていたのか、筆者は、一度も教育を受けたことはありません。
しかし、高校生のとき、最初、この「戦争終結の詔書」を読んだとき、驚きの思いを持ったことを覚えています。
そこには、「他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と、昭和天皇自ら、今回の戦争は天皇の意志によるものではない・・・との言葉がありました。侵略戦争は、政府官僚と軍部による独断専行に由来するとの見解が背後に横たわっているように感じました。
昭和天皇は、「戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生」(戦後対策)について、「朕ノ深ク軫念スル所ナリ」といいます。昭和天皇は、政府官僚と軍部によって行われた戦争に、巻き込まれ悲惨の経験を余儀なくされた「臣民」に対して、包括的な保障を約束するのです。
そして、このように宣言します。
「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ有リ」。
「忠良ナル爾臣民」とは誰のことなのか。「忠良ナラザル爾臣民」とは誰のことなのか。少しく不安に思ったことがあります。
父親の事業の倒産、貧困と病苦の連続、高度経済成長から取り残され、学歴も資格もなく、職業を転々としながら、家族を支えて生きていかなければならず、辛苦の日々を過ごさざるを得なかった筆者は、「忠良ナル爾臣民」ではなく、「忠良ナラザル臣民」として、捨てられた存在ではないのか・・・、そんな感じを抱くようになっていました。そして、それは、筆者の主観ではなく、客観的な事実であると気づくのに時間はかかりませんでした。
それでも、この8月15日が近づくと、「戦争終結の詔書」を取り出しては目を通していました。
やがて、8月15日は、本当に「終戦記念日」なのだろうか、と疑問を抱くようになっていました。「終戦記念日」は、8月15日以外でもよかったのではなかろうかと・・・。
日本の軍隊の象徴である「戦艦大和」の沈没の日を実質上の終戦記念日としてもよかったし、広島・長崎に原爆を落とされ完全に戦意を消失した日を終戦記念としてもよかったと思われたからです。
戦争の勝敗は相手国が関与しますから、日本政府が、日本の戦争相手である連合国に対して、「ポツダム宣言受諾に関する日本側の申し入れ」が行われた1945年8月10日を以て終戦記念日としてもよかったのです。かっての戦争が「敗戦」で終わったことを国民ひとりひとりが認識するには最適な日であったと思われます。
また、「戦争終結の詔書」は、8月14日に御前会議上で明らかにされますが、8月14日を以て終戦記念日とするということも考えられました。あとで、知ったことですが、8月14日、アメリカとの本土決戦を叫ぶ軍部の指導者が、8月15日に放送予定の録音盤奪取を図る「クーデター」を企てたが失敗した・・・(『日本史資料[5]現代』岩波書店発行)できごとがあったそうです。軍部のクーデターを抑えて平和を選択した天皇・・・というイメージで戦争を終結するには、8月15日ではなく、14日が相応しかったのではないかとも思わされました。
戦争終結には、具体的に日本の軍隊の戦争終結が必須となりますが、その勅語が出されたのが、8月17日の「陸海軍人に賜りたる勅語」ですから、統帥権を持っていた天皇の戦争終結宣言は、この8月17日でもよかったのです。
敗戦は、日本に外国の軍隊が進駐してくることで、否定すべかざるものになっていきます。そういう意味では、米軍を先頭に連合国軍による日本進駐がはじまった8月28日こそ、「終戦記念日」に相応しい日であったかもしれません。
敗戦・終戦ということが、戦争相手国との外交上の問題であるという点から考えると、「横浜沖に停泊する米海軍ミズーリ号上で政府代表、大本営代表が降伏文書に署名した」9月2日こそ、他の日に勝って、終戦記念日として相応しい日ではなかったかと思います。
その9月2日の昭和天皇による詔書・「降伏文書の制約履行の詔書」の中で、「朕ハ朕カ臣民ニ対シ敵対行為を直ニ止メ武器ヲ措キ・・・」と記されているところをみると、9月2日の時点でも戦争は終結していなかったということになります。実際は、12月まで、戦争終結状態は確定されなかったと言われます。
日本の「終戦記念日」として、8月15日が選択され、その他の日が排除された背景には、どういう意味があったのでしょうか。
筆者は、毎年、8月15日の終戦記念日ごとに、「戦争終結の詔書」を取り出しては、「迷想」を繰り返してきたのです。8月15日が終戦記念日であるというのは、どういう意味があるのかと・・・。
筆者は、8月15日の「戦争終結の詔書」は、昭和天皇が国民に対して出した、「国民総動員的」最後の詔書ではないかと思われます。
この「戦争終結の詔書」の中で、天皇は、「他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」を主張することで戦争責任の回避を図り、そして、それを「臣民」すべての気持ちに由来するものであると印象づけたかったのかもしれないと思わされるのです。
この8月15日の玉音放送にこめられた、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」という言葉を汲んだ「臣民」は、統帥権を持っているはずの「天皇の戦争責任なし」として、その戦争責任をすべてその部下である「軍部」(A級戦犯等)に転嫁していったのではないかと思わされるのです。
8月15日は、「臣民」である日本国民が、「天皇の意」を汲み取り、天皇と国民の「紐帯」を確かめあう日であったのだ・・・、最近では、そのように思っています。8月15日は、天皇と臣民が、再度、その関係を確認しあった日であったのです。
8月15日は、戦争終結とはほど遠い内容であったのです。
日本人が抱いている8月15日に対する思いは、諸外国の人々が日本の8月15日に抱いている思いとは大きく異なったものがあるのは、こういうことが背景にあったのではないかと思わされるのです。
天皇と国民の間の「紐帯」の確認は、次の年・昭和21年(1946)の、「1月1日年頭、国運振興の詔書」で確認することができます。その詔書の中で、昭和天皇はこのように記します。
「朕ハ爾等国民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。
わずか4カ月の間に、8月15日の「戦争終結の詔書」に見られる「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」という昭和天皇の意志は、国民すべてに伝わり、天皇の責任回避と天皇制存続(国体の護持)を確保したことへの国民に対する感謝の言葉ではなかったのかと思わされます。
「1月1日年頭、国運振興の詔書」(千田夏彦解説『天皇と勅語と昭和史』)は一般的には、「天皇の人間宣言」(歴史学研究会編『日本史資料[5]現代』)と言われますが、力点は、人間宣言にあるのではなく、「戦争終結の詔書」の「ココニ国体ヲ護持シ得て・・・」という言葉が、その4ヵ月後に既に、実現したことへの、国民に対する感謝の言葉でなかったのかと思われるのです。天皇にとって、「朕ノ信頼スル国民朕ト其ノ心ヲ一ニシ」たことに対する喜びの言葉ではなかったのかと思わされるのです。
8月15日と1月1日の「詔書」を比べると、大きな違いに気づきます。
それは天皇と国民の関係です。8月15日の詔書では、天皇は「爾臣民」と呼びかけますが、1月1日の詔書では、天皇は「爾国民」とよびかけます。
筆者は、天皇だけでなく、国民も大きく変わっていったのではないかと思います。それは、国民皆兵制度の下で、その手に武器を持たされ、非常に関与させられた「非常の民」・「非常・民」・「非常民」としての「臣民」が、敗戦によって、「非常の民」から解放され、再び、戦争遂行のために武器をもたなくてよい「常の民」・「常・民」・「常民」にされた一大変革の時ではなかったのかと思います。
近世幕藩体制化で「非常民」と「常民」の区別は明確でした。しかし、明治になると、近代国家・軍事国家構築のため、近世幕藩体制下の「非常民」・「常民」の区別は取り除かれ、すべての国民は「非常」に関与する軍人となるべく徴兵制がしかれました。しかし、敗戦というできごとによって、日本の国民は、戦後、再び、「非常民」から「常民」へと復帰させられたのです。
日本の歴史を見ると、日本の民衆が「常民」である、その手に武器を持たず、人間の命を殺戮しなかった時代こそ、最も、平和を謳歌した時代ではないかと思います。
日本は、再び、戦争への、国民が武器を手にしない「常民」から、武器を手にする「非常民」への歩みを強制されはじめている・・・という危機感を感じている人々もいます。古代・中世・近世・近現代を通じて、日本の民衆が確かめてきた平和への、「常民」であり続けることへの指向を大切にするものでありたいと思うのです。
筆者が所属している教団の先輩の宗教教師たちは、筆者が、部落史に関する文章を書くと、筆者が部落民ではないかと疑い、筆者が、遊女について研究していると、遊女の末裔ではないかと疑い、筆者が、天皇の詔勅を論じていると天皇制支持者ではないかと疑います。往々にして、筆者は、「右寄りの立場」にたっていると、先輩の宗教教師たちからは疎外・排除されてきた現実がありますが、筆者にとって、右か、左か、そんなことどうでもいいことです。というより、筆者は、できる限り、思想やイデオロギーに身を棹させるのでなく、自分で、史料や資料を読んで、自分なりの判断を積み重ねていくのみです。世の中が変わっても、私の立っているところは変わらない。宗教改革者のルターは、「我ここに立つ」と言ったそうですが、筆者も自分の立っているところを自分の言葉で表現するのみです。
戦後の昭和天皇の決断、民衆を「臣民」から「国民」に定義しなおした天皇の「誠意」を無視して、再び日本の民衆を非常民にしようと策動する人々は、天皇の「誠意」に大きく違う営みをしていることになるのではないかと思わされるのです。
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