2005.09.02

「歴史的な差別は恐れからくる」(阿部謹也)

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第1項】 「歴史的な差別は恐れからくる」(阿部謹也)



「歴史的な差別は恐れからくる」(阿部謹也)

この『部落学序説』では、「穢多」を非常民として定義しました。

「穢多」は、古代・中世に既に成立していた、司法・警察の機能を担った「非常民」であり、彼らは、日本の全国津々 浦々に、それぞれの時代の治安維持に必要な場所に、政治的に配置されました。彼らの、司法・警察の役務の淵源は、それぞれの時代の「法」でありました。彼らは、それぞれの時代の司法・警察の様々な部署でその職務を遂行しました。彼らは、「キヨメ」と呼ばれる、犯罪者の捕亡・裁判・お仕置き・社会復帰に関わる一連の専門職に従事していました。彼らに求められたのは、それぞれの時代の「法」に対する遵法精神で、社会の安定のために、その職務遂行のために命を投げ出すということでした。キャリアの司法・警察官僚である武士と違って、同心・目明し・穢多・非人という一般の司法・警察官である「非常民」は、常に「非常民」として行動し、個人的な名前が突出することはほとんどありませんでした。司法・警察職務に対する反対給付は、鉄砲や皮革等の軍需産業的な家職から、雪踏や竹細工等の民具の生産や修理、農業や漁業という家職まで実に多種多様でありました。「穢多とは誰か」、それを規定するのは、穢多の司法・警察である「非常民」の役務のみであって、様々な家職からそれを規定することはほとんど不可能です。「穢多の類」は、穢多・皮田・鉢屋・穏亡・茶筅・宮番・・・等、様々な呼称で呼ばれましたが、いずれの言葉も司法・警察である「非常民」を指す間に合わせ(adhoc)の言葉です。どのような言葉で呼ばれようと、司法・警察である「非常民」としての穢多と百姓(農人・工人・商人、山の民・海の民、社人・僧侶等、武士以外のすべての人々)の間には、現代の警察官と市民との間にある緊張感とほぼ同じ緊張感がありました。穢多は、その職務の性格上、百姓から感謝されることもありましたし、また、「法」を遵守する立場の穢多が「法」を逸脱した場合、社会的な批判が集中する場合もあります。穢多に対するお仕置きは、すべて、穢多の職務違反、法的逸脱に対するキヨメであって、お仕置き自体は決して差別ではありません。穢多の犯罪が、百姓のそれより厳しいお仕置きを受けたのは、当然のことで、現代の警察官の場合も同じです。穢多の生活は、「非常民」に相応しい、質実剛健が求められ、その役務に相応しい衣食住が要求されました。その暮らしは、小林一茶の句集にみられるように、百姓・町人のそれとほとんど大差はありませんでした。「非常民」である穢多は、非常時に際しては、同じ「非常民」である武士(与力・同心)や百姓(村役人)とも協働しました。「穢多」を精神的に支えたのは、白山信仰や真宗の世俗化倫理でした。両宗教は、「穢多」が「屠者」として、その役務を遂行するときの精神的な苦痛を和らげ、その役務を合理化する機能を持っていました。「非常民」である「穢多」は、「法」だけでなく「倫理」や「習俗」についても、違背のないよう、公私に渡って行動していました・・・。

いままで、この『部落学序説』で証明した「穢多」の姿を羅列すれば、このような表現になるのでしょうか。

阿部謹也は、その著『日本社会で生きるということ』の中で、このように語りました。「賤視には恐怖と敬う気持ちの二つが混ざっているんですね。部落差別もそうですが、被差別民に対する賤視と言われるものは単に身分が低いから、低いものを扱うから、ということではないんですね。今までの被差別民賤民の関係、これを私は歴史的差別と言っているわけです。歴史的差別は恐れからくるのです。」

阿部謹也がいう、一般民衆の目から、「被差別民」に対して抱く「恐怖」「敬う気持ち」は、「常民」が「非常民」に対峙するときに抱く「恐怖」「敬う気持ち」と同じではないかと思います。

私は、警察官や自衛官の服装をした人にであうと、複雑な気持ちになります。「恐怖」「敬う気持ち」が微妙に入り混じった気持ちになります。「恐怖」というと大げさですが、何か、権威に対する畏れのようなものを感じてしまうのです。

これが、時代が遡って、戦時中の治安維持法下の警察の場合ですと、権威に対する畏れというよりは「恐怖」に近いものを感じてしまったかも知れません。

私が中学校3年生のとき、岡山県で国体がありました。そして、国体に天皇が来られるということで、中学生は全員、日の丸の小旗を持って、中学校からかなり離れた王子が嶽がある琴の海という美しい瀬戸内の海が見える海岸に歩いて行きました。

私は、その1週間前、海で友達とイカダ遊びをしていて、バランスを失って海に投げ出されたことがあります。泳げない私は、必死の思いで岩礁まで泳いで行って、かろうじて、その岩礁にはいあがりました。ところが、靴が脱げて裸足でカキのついた岩場をあがったものですから、足の裏は切り傷だらけ、親指からは血が流れだしていました。目にも鮮やかな真っ赤な血潮が、岩の上にひろがりました。友達に止血をしてもらって、病院で縫ってもらったのですが、毎日、片道1里の距離を通学していたので、天皇をお迎えに王子が嶽に行く頃には、足の傷は膿んでいました。

王子が嶽から中学校まで戻ってきたときには、私の運動靴の中には、傷口が裂けて、膿と血が混ざり合って大変な状態になっていました。

それを見た、「下津井メバル」というあだ名が付いている社会科の教師が、私の足を見てこのようにいうのです。「そんな足で、王子が嶽まで行ったのか。担任が行けと言ったのか」と、半ばどなるような声でいうのです。

私は、「天皇が来られるので、これぐらいの傷で休んでは申し訳ないと思って・・・」と答えました。

その日の社会科の授業の時間に、その「下津井メバル」は、戦時中の「治安維持法」の話をしてくれました。

彼によると、「治安維持法」は、県と県の境を国境化する法律だったというのです。

岡山県と香川県の地図を見るとわかるのですが、岡山県と香川県の県境は、ぐっと岡山県よりに引かれています。下津井のすぐ沖に県境があります。

下津井は昔の天領のひとつですが、下津井の漁民は、香川県の本島付近の漁場で漁をしていました。しかし、本島の人々は農業に従事する人が多く、ほとんど漁民はいませんでした。治安維持法が施行されたとき、「漁場なき漁民」と「漁民なき漁場」が作られました。しかも、治安維持法によって県境が国境と同じ警備が実施されますと、下津井の漁民は漁に出ることができなくなります。そこで、争議が発生したのですが、下津井の漁民は、香川県の警察によって、治安維持法違反の疑いで逮捕されたのです。

その取調は苛酷なもので、香川県の警察は、岡山県の漁民、下津井の漁民の指と指の間に鉛筆を差し込んで縛り、拷問を加えながらの取調であったといいます。

指は、漁民にとっては非常に大切なものです。釣り糸に釣り針を結ぶときには、指で細かい作業をします。下津井の漁民は、治安維持法下の香川県の警察官の拷問によって、釣り糸に釣り針を結ぶ指を壊され、二度と釣り糸を結ぶことができなくされたといいます。

治安維持法は、下津井の漁民の当然の権利、漁民には漁場が必要・・・という願いを踏みにじって拷問に拷問を加えることを許したのです。

下津井の名産・「下津井メバル」のあだ名をもった社会科の教師は、いつになく熱心に話をしてくれました。

そして、もうひとつ、同じ治安維持法下で起きた悲惨な出来事。

それは、戦時中におきた鳥取大地震でした。戦争中の日本は、神国日本が戦争中に大地震で沢山の犠牲者を出したということは、戦意高揚の妨げになるというので、岡山県側の軍隊を岡山県と鳥取県の県境に派遣して、鳥取大地震の被災者が鳥取県外に出ることを禁止したというのです。そのとき、日本の軍隊は、その銃口を鳥取県の被災者の方に向けていたとか・・・。

「常民」(一般市民)と「非常民」(軍事・警察に関与する人々)との間の関係は、非常に複雑なものがあります。彼らに対する視点には、阿部謹也がいう、「恐怖」「敬う気持ち」が複雑に絡み合って同居しているのです。

「下津井メバル」が話してくれたことを通して、私はいろいろなことを考えさせられました。「国民は、天皇のために命を捧げて尽くしてきた。でも天皇は、下津井の漁民たったひとりにも心を向けてはくれなかった。下津井の漁民は国賊として、いろいろな行事から締め出された・・・」。

「非常民」の中の、司法・警察である「非常民」に限定して考えるとき、私は、「非常民」が「非常民」であることから逸脱する場合があると想定せざるを得ないのです。「非常民」は、その役務の内容を「法」によって規制されます。嵯峨天皇が作った警察国家は、「天皇」も「農民」も同じ「法」の下に服するということで、法のシステムが維持されていました。しかし、「非常民」が「法」ではなくて、「権力」に慮って、「権力」の走狗となってしまったとき、かっての治安維持法下の警察のように、市民にとって、極めて恐ろしい存在になってしまうのです。その場合は、「畏れ」ではなく、文字通り「恐れ」「恐怖」を抱かせる存在になってしまいます。阿部謹也がいう、「恐れ」と「敬う気持ち」の「恐れ」は、このような意味の「恐れ」ではないかと思います。

現代の被差別部落民に対する「恐れ」は、「畏れ」ではなく、この「恐怖」に由来するのではないかと思います。阿部謹也は、「歴史的な差別は恐れからくる」といいますが、一般の人々が「穢多」の末裔に対して抱く漠然とした「恐れ」というのは、それは、現在では、潛在意識化してしまっていますが、それは近世幕藩体制下の、ある出来事に起因します。

それは、キリシタン弾圧です。

吉田小五郎によると、「1623年将軍職をついだ家光は、異常な性格の持ち主であり、自らキリシタンの糾明に当たったほどの人物で、ますます家康以来の祖法の徹底を期した。就任早々キリシタンの根絶を期して江戸で迫害を始め、全国に範を垂れた。火あぶり、水責め、斬首などの残虐の限りをつくし・・・あらゆる手段をもって、信者を糾弾した」といいます。

徳川家光は、キリシタンを非情なまでに排除・根絶していきます。そのために、徳川家の内部からキリシタン摘発をはじめ、諸藩を震え上がらせていきます。

そのとき、「穢多」はどこにいたのか。そして、何をしていたのか。

この『部落学序説』では、古代・中世の司法・警察である「非常民」である「穢多」は、時代を越えて近世幕藩体制下の司法・警察として組み込まれていったと推定していますが、当然、「穢多」は、否応なしに、徳川家光のキリシタン弾圧という狂乱に巻き込まれてしまいます。多くの「穢多」は、徳川家光の側に立ち、キリシタン迫害に手を染めていきます。

キリシタン迫害のとき、「穢多」はどこにいたのか。そして何をしていたのか。

この節で少しく検証してみましょう。

最近十数年間に出版された部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する書物をひもといてみればすぐに分かるのですが、「キリシタン弾圧」に関する記述は、ほとんどありません。部落解放研究所編『部落解放史』(全3巻)という大著ですら、キリシタンに関する記述はわずか数ページに過ぎません。その記述は、「ひとごと」・「他人事」の記述であって、近世幕藩体制下の、文字通りの「身分外身分」として、差別・抑圧・排除されてきた「キリシタン」に対する、同情や憐れみの一片の言葉すら含んでいません。

まして、「キリシタン」と「穢多」との関係を示す記述は皆無に等しいのです。

筆者は、現代の被差別部落の人々が「特殊部落」として差別されるようになった原因に、近世・近代を貫いて流れている「キリシタン」問題があると考えています。

ときどき、「部落差別は、いわれなき差別である」という言葉を耳にします。被差別部落の人々は、差別される理由がないのに差別されている、そこに部落差別の深刻さがあると言われるのですが、筆者は、「いわれなき差別」の存在を信じることはできません。どのような差別にも必ず「いわれ」(理由)があると考えています。「いわれがない」というのは、「いわれを忘れてしまった」、「いわれを思い出したくない」、「いわれに触れてほしくない」という意味ではないかと思っています。

筆者は、33年間15兆円を費やして同和対策事業や同和教育を遂行してきたにも関わらず、いまだに部落差別の完全解消に至っていないのは、部落差別の「いわれ」を明らかにしてこなかったためではないかと思っています。「いわれ」の解明をしないで、差別に対する対処療法的な施策ばかりをしてきた結果、すべての施策が終了したのちにも、部落差別の「病巣」はしっかり残ってしまったということではないかと思っています。

従来、部落解放運動の中で、「被差別部落にとっての不利益はすべて差別とみなす」というような主張が繰り返されてきました。その中で、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる人々が、一見、被差別部落の人々にとって、マイナスイメージを与えるかも知れない研究を自粛してきたように思われるのですが、そのひとつに、この「いわれ」、「キリシタン弾圧問題」が含まれていたように思います。

同和対策事業優先の時代が過ぎ去った今、この『部落学序説』で、筆者がこの「いわれ」を正面から取り上げても、被差別部落の人々やその運動団体の利益を害うことはほとんどないと思われます。筆者は、被差別部落の存続や運動団体の継続については、ほとんど関心がありません。それは、希望するなら、当事者が追求すればいいことです。筆者の関心は、33年間15兆円を費やして同和対策事業や同和教育を遂行してきたにも関わらず、いまだに部落差別の完全解消に至らず、差別に苦しむ青年がいるという現実を見つめなおすことから、部落差別そのものを取り除かなければならない・・・、という強い思いにあります。

この二十数年の、一宗教者として同和問題との取り組みの中で、被差別部落の青年の悩みに耳を傾けるだけでは何の解決にも至らないということは身を持って経験してきました。一宗教者としてできることは、部落差別の真相を明らかにして、現代の社会から部落差別を完全に取り除くための一石を投じることぐらいです。

夜の闇を通らなければ朝の光は見えてきません。
夜の闇の中を歩き通せば、必ず、朝の光が差し込んできます。

キリシタン弾圧のとき、「穢多」はどこにいたのか。そして、何をしていたのか。
夜の闇を旅してみましょう。

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部落史研究とキリシタン弾圧

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第2項】部落史研究とキリシタン弾圧



戦後の部落史研究の集大成とも言える『部落解放史』(全3巻・解放出版社)において、穢多とキリシタンとの関連を示 す記述が皆無であるというのは何を意味するのでしょうか。

同書は、近世初頭のキリシタン弾圧について触れないばかりか、近代初頭のキリシタン弾圧についてもほとんど言及しません。

『部落解放史』構築に際して、キリシタン弾圧問題は、何の関係もない・・・、と判断されたためでしょうか。それとも、『部落解放史』という通史を書く際に支障となったり、部落解放運動を展開する上に不利な証言が出てくるのを畏れたためでしょうか。

中世・近世・近代を通じて、キリシタン弾圧問題は、日本の歴史を語る上で避けて通ることができない課題です。この問題を、視野から遠ざけることで、歴史上の様々な問題の曲解につながっていく可能性は多分にあります。

中世・近世・近代を通じて、キリシタン弾圧問題は、それぞれの時代の司法・警察である「非常民」にとって、キリシタン弾圧を強制する権力に対して抗うすべのない「役務」でした。司法・警察としての「非常民」は、キリシタンに対する、探索・摘発・弾劾等の「糾弾」行動に追従せざるを得ませんでした。

特に近世初頭においては、徳川幕府によるキリシタン弾圧は苛酷なものがあります。

徳川のお膝元ではじまったキリシタン弾圧は、次第に、江戸・大阪・京都という大都市から、日本全国津々浦々に到るまで、苛酷な「糾弾」が実施されていきました。

黒死病という伝染病が流行り、その病魔の手によって、多くの人の命が苦しみの呻きの中、奪われていったように、キリシタン弾圧によって、諸藩の藩主はもちろん、藩士や、その支配下の百姓・町人に到るまで、成人だけでなく、小さなこどもや老い先短い老人に到るまで、人々の疑心暗鬼の中、多くの人々が「糾弾」されて尊い命を失っていきました。

キリシタン弾圧に、直接手を下したか、下さなかったか、という問題はありますが、いずれの立場であったとしても、キリシタン弾圧が、近世以降の日本人の精神構造に大きく影響したであろうことは想像に難くありません。

ある藩では、キリシタン弾圧時、「糾弾」の一手法として、「鋸引き」が行われました。

キリシタンの身体を土の中に埋め、土から出た頭と土の中の身体を切り離すために、首に鋸を入れるという残酷な刑です。キリシタンの系列(血筋と血統)を根絶やしにするために、ありとあらゆる残虐な、見せしめ的な刑を執行しました。多くの場合は、街道筋の、多くの人々が行き交う場所で刑が執行されました。その街道を行き来する人々は、ひとりひとり、キリシタンの首に鋸を入れることを強制されました。「非常民」の看視の下、「常民」も、キリシタンでないことの証のため、その刑の執行に関わらせられたのです。

徳川家康・秀忠のあとを継いだ徳川三代将軍・家光は、「実に世に比類ないほどの苛酷な断罪政策を真向からふりかざして一路弾圧の鬼と化していった」(山口弥一郎)といわれます。

中世の司法・警察であった「非常民」の一翼を担っていた当時の「穢多」も、このキリシタン弾圧の怒濤の中に巻き込まれていったものと思われます。穢多もまた、キリシタン弾圧時の「糾弾」の担い手であったのです。

多くの部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者が指摘しているとおり、近世幕藩体制下の「穢多」制度確立の時期は、キリシタン弾圧の頂点たる島原の乱の前後であるという、共通見解の上に立っています。

しかし、彼らは、それ以上に、穢多とキリシタン弾圧の問題について、深入りすることはありません。時期は重なっているが、穢多とキリシタン弾圧の問題は直接関係がない・・・、とでもいうのでしょうか。

『部落解放史』だけではありません。

原田伴彦著『被差別部落の歴史』・井上清著『部落の歴史と解放理論』等、多くの部落史研究者の論文や著作においては、この穢多とキリシタン弾圧の問題が不問に付されているのです。なぜ、日本人の精神構造の深くに刻み込まれているキリシタン弾圧の問題を避けて通ろうとしているのか、筆者は納得がいきません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」では、「士農工商穢多非人」という身分制度の中での「穢多非人」は、「身分外身分」・「社会外社会」として歴史的に評価されてきました。

しかし、近世幕藩体制下のキリシタン弾圧政策を視野に入れるとき、「穢多非人」は、決して、「身分外身分」・「社会外社会」でなかったことがはっきりしてきます。近世幕藩体制下にあって「身分外身分」・「社会外社会」であったのは、キリシタン探索・摘発・弾劾等の「糾弾」にあって、殺害されたキリシタンとその家族・親族等であったのです。

徳川第5代将軍・綱吉は、キリシタン類族に関する、新たなキリシタン禁令を公布します。1687年に出されたその法律は、8カ条から構成されています。その法文の中には、キリシタンの嫌疑がかけられたものの「葬儀執行権」の停止がありました。「キリシタンであった者の遺体は塩詰としておき、宗門改役」の検証にさらされ、問題がなければ、強制的に、幕府や諸藩によって指定された「旦那寺」で葬儀が執行されました。キリシタンの死に際して、キリシタンが信じている天国への旅立ちを否定し、キリシタンの信仰にとって屈辱的な葬儀を強制するためでした。

元禄8年(1695年)、キリシタン類族規定の詳細が明らかにされますが、「男子の類族は耳孫を含めて、卑族の五代までとされ、類族には、死亡・出産・新縁・転居・養子・出家・欠落・死罪・剃髪・改名・離別・義絶・離檀・宗旨替などが生じた際には、すべて書類によって役所への届け出が義務づけられた」(清水紘一著『キリシタン禁制史』)といいます。

類族が死亡すると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」(奉行所から派遣された検死役・穢多非人・町役人・村役人・穢多医・僧侶など)が呼び出され、諸々の吟味が行われました。幕府のキリシタン弾圧政策は、キリシタンの「天国に行きたい」という末期の願いをも徹底的に奪いさるものでした。

清水紘一は、以上のことから、このように結論づけます。「共同体の中の類族の一生は出生から死亡にいたるまで、生活に変化が生じた際はすべて町の年寄りを経て役所に報告され、町中の監視と官憲による掌握の下にその生活が営まれたことがわかる。かくして類族は生まれながら「平民」でなく、町の厄介者であり、あるいは村八分の対象者となり、最長五代を経て「平民化」したものを除いて、幕末に及ぶことになったのである」。

キリシタンとその類族こそ、近世幕藩体制下の「身分外身分」・「社会外社会」であったということです。近世幕藩体制下300年間・・・。キリシタンとその類族を、他の「非常民」と共に監視する「穢多・非人」は、決して、「身分外身分」・「社会外社会」ではありませんでした。「穢多・非人」は、「非常民」として身分制度の中に正式の身分として位置づけられ、社会の中に存在していたのです。

日本歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、ありとあらぬる「みじめで、あわれで、気の毒な」存在に関する歴史資料や伝承を、「ブラックホール」のように吸収してしまいます。キリシタンとその類族に適用されるべき「身分外身分」・「社会外社会」の属性すら、その「ブラックホール」に吸収してしまいます。その結果、「賤民史観」上、大いなる矛盾を抱えることになり、抵触することになったキリシタン弾圧問題を、部落史研究の視野の外へと追いやって省みなかったのではないかと思います。

このブログのある読者は、筆者の『部落学序説』は、「穢多・非人」のことを「きれいに描き過ぎている」といいます。「問題提起に徹底するなら、徹底的に穢多・非人の精神性の高さを極度に強調すべきである」といいます。

しかし、筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想としての「賤民史観」を打破するために、もうひとつの別な「幻想」を対峙するような手法は用いません。ある「幻想」を、もうひとつの「幻想」で打ち消すこともまた、本質的に「幻想」であるとの批判を免れません。

この『部落学序説』は、常民の学としての民俗学が実証の学であるのと同じく、非常民の学としての部落学もまた同様の意味で実証の学でなければなりません。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について、彼らが何であるのか、的確な判断を下すためには、「穢多・非人」という「非常民」の組織やシステムを解剖するだけでなく、その「社会生理」・「社会病理」も明らかにしなければならないと思っています。「社会病理」なしの「社会生理」研究は皮相な楽観論でしかなく、「社会生理」なしの「社会病理」研究は単なる悲観論でしかありません。

穢多とキリシタン弾圧の関係を論じる前に、幕藩体制下のキリシタン弾圧の歴史の概略を展望してみましょう。参考にする資料は、前掲の、清水紘一著『キリシタン禁制史』(教育社歴史新書)です。この書には、近世幕藩体制下の司法・警察の本体である「穢多非人」に関する記述は一切でてきません。

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穢多とキリシタン

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第3項】穢多とキリシタン



清水紘一著『キリシタン禁制史』の表紙には、「キリスト教伝来から近世にいたる波瀾の歴史の真相を統一政権とのかかわりを中心に解明」とあります。

徳川家康は、1605年イエズス会への書簡の中でこのように記します。

「閣下其地より、屡々日本にある諸宗派付きて説き、又多く望む所ありしが、余はこれを許すこと能わず、何となれば、我邦は神国と称し、偶像は祖先の代より今に至るまで大に尊敬せり、故に予一人之に背き、之を破壊すること能わざればなり、是故に日本に於ては決して其の地の教を説き、之を公布すべからず」。

徳川家康のキリシタンに対する施策は、先立つ統一政権・豊臣秀吉のキリシタン対策をほぼ踏襲するものでした。日本を「神国」と称した上で、「仏教との伝統的な関係を説く」姿勢は、秀吉の継承でもあります。

豊臣秀吉は、織田信長の仏教勢力に対する弾圧政策をやめ、「延暦寺の再興」・「貿易政策」・「日蓮宗・真宗公認」等、信長の政策とは正反対の政策をとります。それは、「勢力のなくなったものを自己の道具に作りかえ、統一に効果的に利用するためにほかならない」(海老沢有道等著『日本キリスト教史』)といわれます。

特に、真宗が広く流布されていた地方では、キリシタンの布教が進まなかったことを確認した江戸幕府は、真宗との間に密約を結び、真宗を、幕府のキリシタン対策の重要な機関として組み込んでいきます。

幕府は、キリシタンに関する禁令を矢継ぎ早に公布するだけでなく、それを有効ならしめるために、多次元的レベルで、キリシタン弾圧政策を展開していきます。

ポルトガル語の「キリシタン」という言葉は、英語の「クリスチャン」という言葉と同じです。「キリスト者」一般を指す言葉で、「キリシタン」と「クリスチャン」の間に本質的な違いはありません。

筆者が所属する宗教団体は、キリスト教です。そういう意味では、筆者は、「キリシタン」(キリスト者)の末裔でもあります。私も妻も、それぞれの家の宗教(真言宗)を離れて、キリスト教を自分の宗教とするにいたりましたので、中世・近世の「キリシタン」とは血統的には何のつながりもありません。

しかし、キリスト教の信仰を共有するという一点においては、中世・近世の「キリシタン」と近代・現代の「クリスチャン」との間には、精神的・歴史的に深いつながりがあります。「キリシタン」の末裔として自己理解をしても不思議ではない立場にあります。

この『部落学序説』は、「百姓の視座」から執筆することを公言していますが、更に言えば、近世幕藩体制下にあって、「身分外身分」・「社会外社会」とされ、差別と抑圧の中を生きていった「キリシタンの視座」から、「部落学」を構築していくことになります。

この『部落学序説』が、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究と、かなり異なる見解をとっているのは、「同和」とか「部落解放」とか、限られた世界での研究ではなく、常民の学としての民俗学の枠を越えて、さらに学際的な研究を指向し、その過程で、宗教学の研究範囲を神道・仏教に限定せず、「キリシタン」にまで研究の触手を延ばしているところに起因します。

山口県に赴任して以来、二十数年、同和問題に関心を持ったり、研究をしている「学者」や「教師」の方々と交流する機会が与えられましたが、彼らの「キリスト教」理解は、高校の倫理の教科書の枠組みをでません。一般的・通俗的で、「キリスト教」に対する理解は形式的・表層的な場合がほとんどです。

逆に言えば、筆者の、仏教理解は、彼らからみると、同じように、一般的・通説的・形式的・表層的なもので終わっているのかもしれません。口語訳の仏典を読んで、「差別なきこころ、それが仏の浄土である」という言葉を見いだし、「仏教の本質は反差別である。差別的仏教は、仏教の本来の教説からの逸脱である・・・」なんて思っているのですから。「漢文」の羅列である各種仏典には関心がなく、漢字の背後にある字義的解釈ではなく、仏典の持っている意味の方に関心があります。

浄土真宗を例にとっても、親鸞の「教説」というよりは、浄土真宗の「世俗化」とその「世俗化倫理」に興味があります。また、その他の宗教においても、「教説」というよりは、仏教的民俗や習俗の方に関心があります。

キリシタン弾圧を視野に入れるとき、「穢多」と「キリシタン」という構図は、現代的な表現をすれば、「穢多の末裔」と「キリシタンの末裔」という構図に置き換えられるのではないかと思います。さらにいえば、「被差別部落の人々」と「キリスト教の信者」という図式に。

筆者の場合、「穢多の末裔ではないが、キリシタンの末裔である」という強い意識があります。そして、近世幕藩体制下のキリシタン弾圧の時代、近世の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」によって、なんとたくさんのキリシタンたちが、その「糾弾」にあい、探索・摘発・捕亡・裁判という一連の弾圧にあい、その多くの命を失っていったか・・・。「切支丹という名が直に罪となり、牢獄に打ち込まれる」(「1619年度イエズス会日本年報」)、そして言語に絶する火責め・水責め等による史上まれに見る残虐な刑が執行されていったのです。

清水紘一は、元和8年(1622年)の大殉教に触れてこのように記しています。

「元和8年(1622)7月13日長崎奉行長谷川権六は、ペドロ・デ・ズニガとルイス・フローレスおよび船長平山常陳の3人を火焙りの刑に処し、同乗の商人や水夫12人を斬首した。12人の首は、焼かれた遺体とともに5日間刑場内にさらされたという。」

「ついで8月5日、大村藩のキリシタン牢に未決のまま投獄されていた教会関係者55人が処刑された。この事件を元和の大殉教とよぶ。55人の内訳は、宣教師21人(イエズス会士9人、ドミニコ会士7人、フランシスコ会士5人)と信者など34人で、なかには朝鮮人のアントニオ夫妻や3歳の男児2人がいた。処刑された信者の大半は、宣教師の家主となって彼らの潜伏や布教活動を助けていた人々とその家族であり、このほかに家主の隣人として連帯責任を問われた人も含まれていたのである。」

「処刑は30人の斬首にはじまり、ついで火刑となったが、薪は前日の雨で湿っていた上、刑柱の周囲4メートルを隔てて少量置かれていたにすぎなかったから、殉教者は緩慢に炙られて、恐ろしい苦痛に直面した。このためタンドウ・ドメニコら3人が、一時「阿弥陀」を唱えて役人に助命を乞うたという。点火は午前9時頃であったが、深夜をすぎてなお生存するものがいた」。

新井白石によると、殉教者数は、「20~30万人」に及ぶといいます。幕府とその諸藩は、実に、4人に1人の割合で、「キリシタン」という名前の下で尊い命を処刑していったのです。そして、処刑されたキリシタンの関係者は「キリシタン類族」として、「人間外人間」・「身分外身分」・「社会外社会」として生きなければなりませんでした。これらの言葉は、「穢多・非人」ではなく、「キリシタン」やそのほかの、幕府によって禁教とされた宗派の人々のための言葉でした。

「穢多・非人」は、古代・中世・近世において、司法・警察に関わる「非常民」として、それぞれの時代の権力の下で、その「役務」を担ってきた人々でした。彼らは、徳川幕府が演出した「キリシタン弾圧」という狂乱の時代においても、その職務を担った人々でした。差別され、疎外され、排除され、処刑されていく「キリシタン」にとって、「穢多・非人」は、キリシタンを迫害する「権力」そのものでした。

私には、部落差別の人々に対する「おそれ」は、このキリシタン弾圧下に、幕府によって演出された「穢多・非人」に対して、一般の人々が抱いたと思われる「おそれ」と通底していると思われるのです。

近世の司法・警察である「穢多・非人」の「役務」の中で、次第に、「宗教警察」の部分が大きくなっていきます。天下の大罪であるキリシタンの探索・摘発・捕亡・・・、キリシタン糾弾の営みは、穢多・非人が避けて通ることができない課題になっていきます。

清水によると、島原の乱が終息に向かったあと、寛文2年(1662)2月8日、「普請奉行保田宗雪が作事奉行となり、即日天主教考察を兼務することとなった」とそうです。清水はこのように記します。

「作事奉行とは、定員2、3名で築城や道路関係など幕府の土木・建築をつかさどる役職のことであるが、宗門改めといった宗教関係の取締役を作事奉行がなぜ兼務したか、その理由についてはよくわからない」。

しかし、筆者は、これまで『部落学序説』の名のもとに、「穢多」概念の内包と外延を研究してきたことを前提にすると、この1662年2月8日こそ、江戸幕府が、「宗教警察」を含む、近世幕藩体制下の司法・警察制度を完成させた日ではないかと思います。「作事奉行」と「宗門改め」が一体化されることで、幕府は、キリシタン弾圧という「恐怖」を背景に、幕府の直轄地だけでなく諸藩にまで、その支配を貫徹していった日ではないかと・・・。

「穢多・非人」は、諸藩の「権力」に直接仕える存在ではなく、幕府の「御法」に仕える役人として、江戸時代300年間を歩みきったのだと思います。

幕府による、近世司法・警察の本体である様々な「非常民」を、与力・同心・目明・穢多・非人という、「非常民」という枠組みの中での身分の確立がなされた時代、そして、明治になって、近代国家確立のため、近世の身分が否定される時代・・・、それは、キリシタン弾圧の完成とキリシタン弾圧の中止の時代は否定しがたく重複しているのです。そして牛の屠殺の禁止と解禁の流れも重複しているのです。

多くの部落史研究者は、何故か、このキリシタン弾圧を不問に付していきます。

桃山学院大学名誉教授の沖浦和光をのぞけば、ほとんどの研究者は、何ら関心を持っていないといえます。『部落史論争を読み解く戦後思想の流れの中で』・『沖浦和光・宮田登対談ケガレ差別思想の深層』・『瀬戸内の被差別部落その歴史・文化・民俗』の中で、沖浦は、それまでの部落史研究者が触れなかった、「穢多」と「キリシタン」の接点について言及しています。

「穢多」(差別者・迫害者・抑圧者・糾弾者)と「キリシタン」(被差別者・殉教者・被抑圧者・犯罪者)との図式をやっと克服して、「穢多」と「キリシタン」の間の「人間性」を再発見した沖浦和光の研究成果なのかもしれません。

次回は、村上直次郎・新村出監修『キリシタン風土記』と沖浦の研究をもとに、近世宗教警察である「穢多」と殉教者「キリシタン」との関係を、『部落学序説』風に追求してみましょう。

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近世宗教警察としての「穢多」

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第4項】近世宗教警察としての「穢多」



徳川幕府は、島原の乱前後から、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の呼称を全国的に統一します。

穢多・皮田・鉢屋・穏亡・茶筅・宮番等を「穢多」呼称で統一しようとします。

しかし、「国」レベル(例えば、長州藩では、周防国と長門国2カ国で構成されています)で考えると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」は、それぞれの「国」で多種多様な表現が用いられていました。「穢多」という呼称を、幕府が定めた「公用語」であるとしますと、それぞれの「国」で使用された、穢多・皮田・鉢屋・穏亡・茶筅・宮番等は、「通称」ということになります。

諸藩は、幕府に届けるときは、「通称」ではなく「公用語」を使用することを求められました。幕府は、諸藩の監督のために、巡検使を派遣しましたが、巡検使は、諸藩の担当者に「公用語」で報告することを求めました。

通説では、「穢多」呼称は、島原の乱前後から「公用語」として使用されるようになったとされています。近世司法・警察である「非常民」、中でも、その本体である「穢多・非人」の職務内容は、現代の警察の職務に劣らず多種多様で、到底、一人の警察官によって、すべての職務をまっとうすることは不可能です。

山口県警察本部の建物を見ても、かなり大きな建物です。県庁にいく都度、「随分、大きいな・・・」とひとりごとをいいますが、もちろん、その中に入ったことは一度もありません。恐らく、いろいろな部署に分かれて、専門化されているのだろうと推測するのみですが、これが、山口県の県庁所在地から離れて、市町村の警察署になると、建物も組織も小さくなります。そして、駐在所になると、そこに常駐しているのは、警察官とその家族ということになります。警察職は、末端にいけばいくほど、いろいろな職務を一人でこなさなければならなくなります。そこに、警察官が、専門的な職業である所以があります。

このような状況は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」についても同じことがいえます。

佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』によると、50以上ある「奉行」のうち、将軍直属の「奉行」は、「寺社奉行」ただひとつであるといいます。寺社奉行は、諸藩に認められていた「治外法権」の枠を越えて、全国に散在する神社や寺院に対して、直接的な「捜査・裁判権を持っていた」といいます。その職務の主要な内容に、「キリスト教対策」があるといいます。

また『江戸町奉行 支配のシステム』の「江戸幕府・司法組織図」によると、近世の司法・警察は5つの法システムが複雑に錯綜しています。そして、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の階級制度というピラミッドの最下層を構成する人々は、同心・目明し・穢多・非人と言われた人々でした。その人員構成から判断しますと、「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であると思われます。近世幕藩体制下の社会の法的秩序は、与力以上の「官僚」・「キャリア」だけでは維持することはできません。その下に、多数の同心・目明し・穢多・非人がいて、はじめて、社会の治安を維持することができます。そういう意味で、直接、社会の治安維持あたっている、同心・目明し・穢多・非人は、警察の本体であると言えるのです。

中国地方の山間部、半島部には、「穢多」が「少数点在」しています。

その組織が小規模であればあるほど、「穢多」に課せられる職務の内容は多種多様になります。

三浦周行著『国史上の社会問題』によると、幕藩体制の社会病理現象として、浪人問題とキリシタン問題があげられるといいます。浪人とキリシタンの「取締り」は、すべての「穢多」に課せられた課題でもあります。近世幕藩体制下の社会的逸脱を未然に防止するということも、「穢多」の職務の重要な課題になります。

長州藩では、「穢多」2人が1組になって、浪人やキリシタンの探索・捕亡にあたりました。年1回の宗門改めだけでは、キリシタン対策は十分ではないと判断した幕府は、全国に散在する、近世幕藩体制下の司法・警察である思われます。「穢多」に、戸別訪問による抜き打ち的な「宗門改め」を「百姓」(農工商)に対して実施させたと思われます。

近世幕藩体制下の司法・警察組織の末端になればなるほど、多くの職務を累層的にこなさなければなりませんでした。そのことをさして、「穢多」(多くを穢す)役という言葉が用いられるようになったのではないかと、筆者は、推測しているのですが、古代・中世の「非常民」と、近世の「非常民」の違いは、幕府によって、「天下の大罪」とされた「キリシタン」を取り締まる、「宗教警察」機能の肥大化にあります。

とかく、日本の部落差別は、日本固有のものであるという見解がささやかれますが、筆者は、「穢多」は、日本固有のものではなく、アジア地域に多くの類例を見いだすことができるように思われます。そのキーワードは、「宗教警察」です。儒教・仏教・イスラム教・キリスト教、世界の主な宗教はアジアで発生したといわれますが、そのいずれの社会にもこの「宗教警察」は、存在していました。

この言葉は、日本の社会では「死語」とされていますが、最近では、アフガニスタンの米軍による支配の中で、「宗教警察」の解体が実施されました。「宗教警察」に属する人々は、社会的に追放されました。しかし、イラク戦争に際しては、戦後処理として、米軍は、イラクの警察官に職場復帰を命じました。イラクの警察は、アフガニスタンと違って「宗教警察」的要素が少なかったためです。

アメリカの諸外国に対する政策の違いは、この「宗教警察」機能の有無が大きく関係しています。

明治政府は、諸外国から、この「宗教警察」解体を要求されます。明治政府は、諸外国との「機密」の交渉を繰り返しながら、日本の国民に知られないように、キリシタン弾圧につながる「宗教警察」を解体していきました。それが、明治4年の太政官布告の真意だったのです。

話をもとに戻しましょう。
穢多とキリシタンとは、どのような関係にあったのか、もう少し詳細に検証してみましょう。

時間系列から考えますと、徳川幕府が、全国にキリシタン禁令を出す以前と以後では、穢多とキリシタンの関係は大きくことなります。

徳川幕府は、その初頭にあっては、キリシタン禁令を明確に打ち出さなかったために、「非常民」の中にも、キリスト教に改宗するものがあらわれました。幕府の「法」に違反しないことについては、「非常民」といえども、法的に不利益を受けることはなかったからです。

その時期の「穢多」は、伝統的な真宗の教徒である「穢多」と、真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」に分けられます。

その時期の、真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」の中からは、その職務を放棄するものが出てきます。元和8年(1622)の迫害の際、長崎では、55人のキリシタンが処刑されたことは前回に記した通りですが、「その際、刑吏役を課せられていた穢多に、奉行が処刑の設備を用意するように命じたが、彼らはこれを拒否した」(沖浦・前掲書)。「その大半がキリスト教徒なりし為・・・」」(『パゼス日本耶蘇教史』)であるといいます。

真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」たちは、例外的な存在であったのかも知れませんが、全国的レベルで見ると、かなり多くの穢多が、キリシタンになっていったと思われます。

「穢多」が「キリシタン」になっていったのであって、決して、逆ではないのです。「キリシタン」が、司法・警察である「非常民」になっていったのではありませんでした。彼らは、司法・警察官でありつつ、その職務を支える精神的基盤として、真宗の世俗化倫理を捨てて、キリスト教の世俗化倫理を選択していったのです。キリシタンになった「穢多」は、「穢多」であることを否定したわけではありませんでした。キリシタンになっても、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の職務を遂行することは可能であると考えていたと思われます。

禁令を出されたあとの「穢多」は、文字通り人生の岐路に立たされます。

(1)キリスト教を捨てて真宗に復帰する、
(2)キリスト教を捨てないで殉教の道を選択する、
(3)殉教の道を選択したあとキリスト教を棄教する(転ぶ)、
(4)幕府にキリシタンの名簿を提出する(裏切る)ことで免罪される、
(5)洗礼を受けキリシタンになったのは、浄土真宗の異宗に対する「探索」である(スパイ)ことを証明する、
(6)獄中のキリシタンから布教され、禁令に違反してキリシタンになる、
(7)人間としてのやさしさがわざわいして、キリシタンを糾弾することができない、
(8)司法・警察官としての処務遂行を逆恨みされ、偽証によって、キリシタンにされる(冤罪)、
(9)幕府が出すどのような「悪法も法」として受け止め、穢多の職務をまっとうする・・・。

徳川幕府のキリスト教禁令とそれに続くキリシタン糾弾という国家的・社会的「狂気」によって大きく弄ばれたのは、司法・警察である「穢多」も同じでした。「穢多」を、『部落学序説』がいう、「非常の民」・「非常・民」・「非常民」として把握しないと、「穢多」に襲いかかった(1)~(9)の選択の試練は、十分に把握することはできないでしょう。(1)~(9)の裏付けとなる資料を、散在する歴史資料の中から拾いだすことはそれほど難しいことではありません。

幕府は、キリシタン弾圧によって殺害したキリスト者を数えるのに、その単位として「首」(くび)を用いました。島原の乱後、一揆に参加した農民はすべて「斬首・獄門」とされました。その数、「10,869首」であったといいます。キリシタンは、「人に非ず」とされ惨殺されていったのです。

日本の統一政権が、キリシタンを人間として扱わなかったことは、石尾芳久著『明治維新と部落解放令』に記されています。

石尾は、豊臣秀吉は「キリスト教徒を「犬ども」と賤称しその人間性を抹殺している」事実を指摘しています。明治政府は、「浦上崩れ」の際に、キリシタンの数を数えるときの単位として「匹」を用いています。石尾は、大佛次郎の言葉を引用してこのようにいいます。

「百十匹、備前岡山預け。百七十九匹、安芸の広島預け、等と信徒を畜類扱いにした・・・」。

近世幕藩体制下のキリシタンに対する糾弾・弾圧の中で、「人間以下の人間」・「犬畜生に等しい人間」として卑しめられたのは、近世の司法・警察である「穢多・非人」ではなく、彼らによって迫害されたキリシタンであったのです。キリシタンは、武士だけでなく、「穢多・非人」によっても、非人間的な扱いを受けていたのです。

寛永17年(1640)、70人のキリシタンが江戸鈴ヶ森で処刑されています。処刑方法は、「キリシタン」にだけ適用された「水磔」。その「水磔」について、『江戸の刑罰』の著者・石井良助は、このように記しています。

「水磔というのは、囚人を鈴ヶ森などの波打ち際に逆さまに吊るす刑で、潮が満ちてくると水が頭を越えて息がつけないように、水がひけばよみがえるようにして、苦しめ抜いて殺すもので、「汐引クトキハ顔ハレテ人相変リ、此世ノ人トモ思ワレズ、八日間ニ死ニケリ」と言われている。」

『切支丹風土記』には、このように記されています。

「寛永17年(1640)に70人の切支丹が江戸鈴ヶ森で海中に逆さに吊され、上潮のときには水が口中に浸入し、顔は血の逆行と塩水の苦味のために甚だしく歪められ、8日目に死亡したと伝えられる」。

その処刑を最初から最後まで監視していた番人である「穢多・非人」は、どのような思いをもってその時代を過ごしていたのでしょうか。

『切支丹風土記』によると、キリシタンに対する残虐な処刑は、穢多村の中でも実施されていたのです。

部落差別が「いわれなき差別」であると信じている人は、この歴史的事実をどのように受け止めているのでしょうか。近世初頭、幕藩体制下の狂乱の時代に、深く、日本人の精神構造の中に刻み込まれた「権力に反するものに対する恐怖の応酬」は、今日の民主化された時代にあってもなお継承されているのです。

被差別部落の人々に対する一般の側が抱く、漠然とした「恐れ」。それは、日本人の潜在意識の深層に追いやられた、キリシタン糾弾の記憶の表出ではないかと思われるのです。

戦前の水平社運動も、戦後の部落解放運動も、その血塗られた言葉、「糾弾」という言葉を運動用語として採用してきました。「糾弾」という言葉を、漢字の語源をたどって、如何に説明しようとも、キリシタン「糾弾」によって内包されるに至った「恐れ」を取り除くことはできなかったと思われます。筆者は、水平社運動が、この言葉を採用したのは、歴史的には、大いなる間違いであったと思います。「糾弾」という言葉は、部落解放運動の正当な抗議としてではなく、「リンチ」(私的制裁)として受け止められることによって、民衆の中に眠っていた潜在意識としての「恐れ」を呼び起こすことになってしましったのではないかと思います。

「穢多」の末裔から、近世幕藩体制下の司法警察である「穢多」の末裔から本当の歴史を奪い、その代わりに、「みじめで、あわれで、気の毒な」歴史、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を押しつけてきたのは、明治以降の官僚や政治家、学者や教育者なのです。そして、それ以上に責任があるのは、「穢多」の末裔自身です。水平社宣言でうたわれた、「先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」(栃木重吉の言葉)という言葉を捨て去って省みなかったことに、同和問題の混迷の原因があるのではないでしょうか。

次回は、穢多とキリシタンについて、さらに検証を深めます。

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幕府とキリシタン弾圧

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第5項】幕府とキリシタン弾圧



徐々にアクセス数が増加傾向にあった『部落学序説』ですが、島崎藤村と『破戒』について論じたあたりから、逆にア クセス数が減少傾向にあります。穢多とキリシタンについて言及をはじめると、さらに減少傾向が強まりました。

筆者が所属する教団の「先輩」たちは、『部落学序説』は、「知り得たことを羅列しているに過ぎない。評価の対象になる新しさは何もない。」といいます。

確かに、この『部落学序説』で引用している文献は、最初から明言しているとおり、徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書と筆者が近くの書店で偶然買い求めた新書や文庫等です。その気になれば、誰でも簡単に入手できる資料のみで構成していますので、「先輩」たちの批判も必ずしも否定できないものがあります。

山口県の被差別部落の固有の史料や資料については、被差別部落の側からの要望で、この『部落学序説』では、一切触れないことにしています。今回だけでなく、今後も触れることはありませんが、そういう意味では、筆者の『部落学序説』から、何か新しい資料を求められても、「そのようなものは最初から何もありません・・・」とお答えすることしかできません。

これまで『部落学序説』を読んでくださった方は、既にお分かりのように、この「論文」は、これまで研究されてきた、部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果を比較検証しながら、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学等の個別科学研究の「総合」を試みるものです。個別科学研究の単なる累積や一覧表の作成に終わらないで、総合作業をすることで、「非常民の学としての部落学構築を目指して」既存の個別科学研究の「総合」の試論として執筆されるものです。

筆者は、宗教者で、どちらかいうと時代の潮流とはまったく無縁な存在です。

どちらかいうとカトリックの「労働司祭」のようなところがあって、山口の地に来て二十数年、本業とはまったく関係のない副業をもって生活してきました。42歳のとき、システムエンジニアの企業資格をとり、50歳のとき、職業訓練校の情報処理の講師をしていたとき、受講生を指導しながら、受講生と一緒に、情報処理技術者試験のシスアドと第二種をとりました。

『部落学序説』執筆のための準備作業と比較したら、情報処理関連の資格を取ることは、それほど難しいことではありませんでした。情報処理関連の処理は、基本的には2進法で、「真」と「偽」しかありません。プログラムを書くときに、一箇所でも「真」と「偽」を間違うと、プログラム実行時、エラーを発生するか、システムそのものがハングアップしてしまいます。他者から少々批判があっても、要するに、正常に作動すれば、問題はクリアされます。しかし、「部落学」の場合は、そんなに簡単にはいきません。なぜなら、様々な学閥や学派が存在し、多種多様な見解が雑居しているからです。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を5、6人分集めて比較・検証すればすぐに確認することができます。それらの研究成果が、如何に研究者の恣意によって左右されているかを・・・。時には、相反する、矛盾する見解が雑居しているような論文も存在しているのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の場合、「真」と「偽」は複雑に絡み合っていて、単純化することができません。限りなく「偽」であっても、若干「真」を含んでいれば、それなりに評価されます。逆に、限りなく「真」であっても、若干「偽」であれば、その論文の価値が全面否定される場合もあります。

情報処理の世界と違って、部落研究・部落問題研究・部落史研究の世界は常にあいまいさがつきまとうのです。「論理」ではなく、研究者や運動団体の「情緒」によって支配される傾向があります。

筆者が、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の姿勢とその成果に疑問をもちはじめたのは、その研究成果にまとわりつく研究者の「恣意性」にあります。筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果が、研究者の恣意に大きく影響されているということは、その研究そのものに大きな瑕疵があると考えました。そして、ひとりひとりの研究者の研究方法と研究成果を比較・検証をするようになり、学的にはまったくの素人であることを自覚しなから、その結果として、「非常民の学としての部落学構築」を指向するようになったのです。

今回は、穢多とキリシタンの5回目ですが、部落研究・部落問題研究・部落史研究の専門家ではない筆者には、「穢多とキリシタン」問題について、現在、その研究の最前線でどのような研究がなされているのか、知るよしもありません。筆者が想定するよりも、研究が進んでいて、筆者の論点は既に過去のものになっている可能性も多分にあります。

しかし、筆者は、「文献も出会いのひとつ・・・」と割り切って考えていますので、手元にある若干の資料から論じることになります。

昨日、近くの書店でみつけた成松佐恵子著『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)は、2000年に発行されたものですが、筆者が入手したのは発行から5年後のことになります。このことからしても、筆者の研究方法は、偶然に左右される、実に遅々たる歩みでしかないことがわかります。

成松佐恵子著『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』は、「非常民」である「村役人」の目から見た「穢多」(番人)の姿を知る上で、貴重な論文です。「非常」というのは、あくまで「非常」で、人生において、そんなに数多く経験できる類のものではありません。多くの「非常民」は、「非常」に遭遇しないで自分の一生を終える場合も少なくなかったのではないかと思います。この庄屋日記に関する論文は、美濃の国(岐阜県)の、限りなく「非常」から遠い、平穏無事な生涯をたどった庄屋の記録とそれに関する研究です。

58歳になったいまも、この種の本にであうと、こころ踊るものがあります。

『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』は、キリシタン弾圧の狂気の嵐が過ぎ去ったあとの、そして人々の記憶から、あの残忍さが忘れ去られた時代の近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「村役人」や「穢多」の実際の姿を知ることができる貴重な論文のひとつです。筆者の「非常民」理解は、部落史とは直接関係がない一般史からより多くの影響を受けています。渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)、田中圭一著『百姓の江戸時代』・『村から見た日本史』(ちくま新書)から、近世幕藩体制下の村とその法システムや政治システムを考察する際のイメージを構成しています。

穢多とキリシタンについて、『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、2、3の論文を紹介しています。

ひとつは、藤木喜一郎の《大坂町奉行管下に於ける司法警察制度について》です。石尾によると、藤木は、「大坂四ヶ所非人に転びキリシタンが多いこと(しかも長吏頭のものが多い)に注目」して、「キリシタンであった者が「検挙されて転宗し、非人に身分を落され」た者があったという指摘」をしているそうです。

それに対して、岡本良一は『乱・一揆・非人』の中で、「転宗の結果として非人におとされたのではなく、非人にはもともとキリシタンが多かったのではあるまいか。」と主張しているそうです。

『明治維新と部落解放令』は、1988年発行ですから、現在、「穢多とキリシタン」問題に関する研究が、どのように展開されたのか、筆者は、ほとんど資料を持ち合わせていません。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究過程を追跡する時間的ゆとりも経済的なゆとりももちあわせていません。

そこで、筆者は、手元にある資料の「精読」という手段を通じてのみ、必要な資料を抽出します。

幕府は、悲惨極まりない刑罰によってもキリシタンの伝播を防ぐことができないと悟った幕府は、キリシタン弾圧に対してその方針の変更を余儀なくされます。『切支丹風土記』に、小石川切支丹屋敷についてこのように記されています。

「井上筑後守がその小石川下屋敷を改造して牢長屋とし、これに主としてころび信徒を収容、全く世間から遠ざけて幽閉し、世人をして以後切支丹召捕・拷問・処刑等のことを忘れさせようとした試みは、江戸切支丹処置の一特徴として注意すべきことである」(内山善一)。

幕府は、「士農工商」の間にキリスト教が伝播されるのを予防するために、キリシタンの公開処刑を実施しましたが、幕府はやがて、そのようなハードな糾弾・弾圧政策から、キリシタンとその糾弾・弾圧問題そのものを社会的に隠蔽する方向へと傾いていきます。

幕府は、江戸・小石川に切支丹屋敷を設置しました。幕府の切支丹弾圧の目付である井上正重(1585-1661)の屋敷で、切支丹屋敷をとりまく塀は、10尺という異常な高さであったといわれます。切支丹屋敷を一般社会から隔離するための、宗教的思想犯を収容する監獄であったのでしょう。

江戸の庶民の目から、キリシタンに対する糾弾や弾圧のおぞましい光景が隠されていきます。その結果、江戸の庶民の目には、切支丹屋敷ですら、単なる「不気味な場所」として受け止められていくようになります。幕府によって、キリシタン糾弾と弾圧の情報操作によって、江戸の庶民の目には、キリシタン屋敷は、高い壁に囲まれた別な世界として認識されるようになっていきます。

この切支丹屋敷には、牢舎・倉庫・番所がありました。この牢舎には、キリシタンだけでなく、宗門改役の「同心」の犯罪者も収容されたといいます。筆者の手元にある資料だけでは、その「同心」の犯罪が、一般的な犯罪なのか、それとも宗教的・思想的な犯罪なのか、知るよしもありませんが、切支丹屋敷の中での糾弾・弾圧は、完全に、幕府による報道管制下にありました。

このキリシタン屋敷で起こったできごとをてがかりに、「穢多」と「キリシタン」の関係について若干考察を試みてみましょう。

その資料は、岩波文庫の、新井白石著・村岡典嗣校訂『西洋紀聞』です。この岩波文庫版『西洋紀聞』は、「巻上」・「巻中」・「巻下」・「西洋紀聞付録」とから構成されています。特に、「西洋紀聞付録」に収められた26にのぼる関連史料は、『西洋紀聞』の研究にとって必須の史料群です。

近世幕藩体制下の「穢多」に関する研究成果の通説として、一般的に、「穢多」制度の確立時期として、島原の乱前後が想定されています。そして、その制度が一応の完成をみて、その宗教警察を含む司法・警察機能がより強化されるのが、「元禄・享保年間」(18世紀前半)であると言われます。

筆者は、「元禄・享保年間」という言葉を目にしたとき、「なぜ、その間の「正徳」を省略するのか・・・」と不思議に思いました。部落史の研究者は、「正徳」を意図的に隠そうとしているのではないか・・・、そのように思わされました。その「正徳」年間に、幕府の「キリシタン」政策にとって重要な事件が発生していたからです。その事件をきっかけに、江戸の庶民によって忘却されつつあったキリシタン糾弾・弾圧政策が再び息吹を取り戻し、全国に散在する、宗教警察機能を持つ「穢多」制度の粛清と強化がはじまったからです。「穢多呼称」統一は、正徳3年のことです。「穢多」に対して、「御国法を守る」べきことが通達されます。

日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」の虜となっている部落史の研究者は、その時代を、「穢多・非人」に対する封建的身分差別が強化された時代として受け止めます。幕府の「穢多」に対する管理強化を、上記の意図でとらえることができない研究者は、「穢多」の衣食住に関する風俗の取締りを、穢多に対する差別として受け止めます。

筆者は、「穢多」の風俗(衣類・髪型等)に関する取締りは、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」の、幕府による管理強化として受け止めますが、「賤民史観」に立つ多くの研究者は、「穢多」に対する差別強化として受け止めます。

「穢多」の歴史を考察するとき、「穢多呼称」統一が行われ、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の組織・機能の強化、その一貫としての、庄屋等「村役人」や「穢多」に対する管理強化の原因となった、「正徳」の事件は正当に評価されなければならないと思っています。過大評価することもなく過小評価することもなく・・・。

それは、幕府と諸藩の「武士」や「百姓」が、キリシタン糾弾や弾圧にまつわる、凄惨なできごとを忘却しつつあった時代に、突如、頭に髷を結い、額を月代に剃り、袴を身につけて、武士の身なりで大隅国の屋久島にひとりの宣教師が潜入してきたことに端を発します。

彼の名前は、「当時40歳なる伊太利生まれの宣教師ジュアン・シドチ」です。彼は、それまでの宣教師と異なって、日本人の身なりで、日本語を話す宣教師として日本にやってきたのです。村岡によると、「単身生命を屠して絶東の異域に布教を志した偉僧」と「53歳のいきざかりを、非常な意気込を以て」「切支丹屋敷における・・・吟味」に当たった新井白石の出会いを記録したもの、それが『西洋紀聞』です。

この『西洋紀聞』を通して、当時、江戸の庶民が、キリシタン糾弾と弾圧の悲惨な経験を歴史のかなたにおいやり忘却していった時代、そして、江戸の庶民が、キリシタン屋敷を見ても、ただ「不気味な場所」としてしか目に映らなかった時代の、キリシタン屋敷の中で起こったできごとを見てみましょう。(次回続く)

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『西洋紀聞』・長助とはるの物語

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第6項】長助とはるの物語



『西洋紀聞』に記されているイタリアの宣教師・ジュアン・シドチ(以下、村岡がいう日本語風にシロウテと呼ぶ)につ いて考察するとき、筆者の視点は、『部落学序説』の視点と同じ、「百姓」の視点と同じです。

権力者の立場からではなく、権力によって支配されている被支配者の側、民衆の側に立って、考察することになります 。

新井白石は、宝永6年から正徳5年(1715)の7年間、第6代将軍・家宣、第7代将軍・家継に儒学者・政治顧問として仕えましたが、「家宣の将軍就任後、その特命によって宝永6年11月から12月にかけ、4回の尋問をおこなった」(『西洋紀聞』教育社/原本現代訳)といいます。

白石のシロウテに対する取調は、多角的な視点から実施されていますが、ときには、シロウテの個人事情にまで踏み入ってこのような対話をします。

白石から、身の上を問われたシロウテはこのように答えます。

「父は・・・死して既に11年、母は・・・猶今ながらへて世にあらんには、是年65歳也。・・・兄弟4人、長は女也。幼にして死す。次は兄也。・・・次は我、是年41歳、次に弟あり。11歳にして死して、既に20年。・・・我幼よりして、天主の法をうけ、学に従ふこと22年、師とせしもの16人・・・、6年前に、一国の推挙により宣教師になされたりき。・・・師の命をうけて、此土に来るべき事を、奉りしよりして、此土の風俗を訪ひ、言語を学ぶこと3年・・・。」

そして、3年前、日本に行く直行便がないので、いろいろな国の船を乗りついで、時には、難破の危険に遭遇しながらやっとの思いでルソンに到達したというのです。ルソンの日本人村の住人から、日本の風俗・言語を学びましたといいます。

ありのまま、自分の身の上を語る宣教師・シロウテに、白石は、このように問いかけます。

「男子其国命をうけて、万里の行あり。身を顧みざらむ事は、いふに及ばず。されど、汝の母すでに年老いて、汝の兄も、また年すでに壮なるべからず、汝の心においていかにやおもふ」。

白石の問いにシロウテは、日本宣教の使命があたえられたとき、年老いた母も兄も、キリスト教宣教のため、国のため、「これ以上の幸せはないと喜びあった」と答えます。「いきて此身のあらむほど、いかでかこれをわするる事はあるべき」といいます。

新井白