2005.09.02

「部落学」構築途上における障碍

umi1【第3章】穢多の定義
【第4節】穢多と宗教
【第1項】「部落学」構築途上における障碍



読者の希望で、『部落学序説』の記述を一時中断して、島崎藤村と『破戒』について若干論述してきました。

このテーマについては、『部落学序説』第5章、「水平社宣言批判」の中で取り上げる予定でいました。近世幕藩体制 下の司法・警察である「穢多」が、明治4年の太政官布告によって、なぜ「賤民」(明治政府が作った行政用語・のち に歴史学者が学術用語として使用する)という近代的な身分制度の最下層の中に置かれなければならなかったかという 、歴史的な背景を検証しないと、島崎藤村や、その作品である『破戒』の精神的な背景を十分に把握することができな いからです。

この『部落学序説』は、その筆者である吉田向学、ただ独りによって構築されてきたものです。

その背後に「研究集団」のようなものが存在しているわけではありません。「部落学」構築を目的として徳山市立図書館や書店の店頭に並ぶ、部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する書籍や論文章を漁りだしてから、しばらくして、ふと気がついたのは、筆者の研究は「独白」(ひとりごと)でしかないということでした。

「部落学」構築に関して必要なデータは、すべて、自分で模索しなければなりませんでした。そしてその史料や資料から分析して抽出した命題は、やはり「独白」として成立しました。孤独な作業を延々と続けなければならなかったのです。

もちろん、「部落学」構築の過程を、いろいろな人に話してきました。筆者が所属している宗教教団の同和問題担当部門の長になる「上司」にも、おりにふれて、研究内容を明らかにしてきました。しかし、あるとき、気がついたのです。その「上司」は、彼がいう「部落解放運動」には熱心であるが、部落研究・部落問題研究・部落史研究についてはまったく関心がないか、あったとしても二次的な山治的な意味合いしか持っていないというこに。

被差別部落出身の「上司」に話をしても、何も伝わらない・・・。それどころか、彼は、「被差別部落の先祖である穢多が近世の警察であったという説を認めた日には、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在であり、「いわれなき差別を受けてきた」として、同和対策事業を要求してきた部落解放運動が根底から否定されることになる。そんな教説を信じることはできない」と言います。

「あなたの説は、誰にも認められていない。世の中が、あなたの説を認めたら、私も認めてあげよう」。

私は、その言葉を耳にしたとき、「ああ、この人は、私の研究をつゆも評価していないし、それ以上に評価するための精神的な背景も基盤もを持っていない・・・」のだと思わされました。

それ以来、ますます、「部落学」研究を、「独白」として継続しなければまりませんでした。

筆者が所属している教団の同和問題担当部門の教区の委員をしていた8年間、もう一四、五年前になりますが、山口県の被差別部落数カ所に出入りをしていました。ある被差別部落の人々は、筆者に「山口県の部落問題について論文を書くそうですが、私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」と要求してきました。理由は、「有名な人が、自分たちの部落のことについて論文の中で取り上げてくれるならともかく、学歴も資格もないただの人に書いてもらっても何の意味もありません・・・」ということでした。筆者は、山口県の被差別部落の人々から聞いた話は、この『部落学序説』の中では、一切触れないことにしました。

被差別部落の中で開かれる学習会で聞いた話の中には、今は逝去されて久しいのですが、部落解放同盟の支部長をされていた方は、とても楽しそうに被差別部落の歴史を話していました。「エタ」といわれて「ネス」と切り返していた・・・という話は、とても興味深いものでした。そういう会話を成立させる「生活の座」(SitzinLeben)を検証しているときに、明治4年の太政官布告の本当の意味を示唆するものに行き当たりました。

しかし、約束ですから、山口県の被差別部落の中で見聞きしたり、聞き取りをしてきた話は、触れないことを前提にして、この『部落学序説』を執筆しています。

『部落学序説』は、徹頭徹尾、部落解放運動家がいう「差別」の立場にある一宗教家の「独白」(ひとりごと)に過ぎないのです。

『部落学序説』を執筆する際に、具体的に交流のあった被差別部落で目にし耳にしたことには触れて欲しくなくないとの、被差別部落の側の本音を耳にしたとき、『部落学序説』を執筆する指が重くなり、停滞しました。しかし、その抑止力より、「まえがき」の中で紹介させていただいた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが私に与えた衝撃の方が勝っていました。その出会いがなければ、「私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」と語る被差別部落の人々の要求に応じる形で、『部落学序説』執筆の旅は潰えていたと思われます。古老との「出会い」は、筆者に、その障碍を克服させるのに十分な力を与えてくれました。その力のゆえに、筆者は、「独白」としての「部落学」構築のための単純で長時間に渡る文献批判の作業を続けることができたのです。さまざまな障碍を乗り越えて、通説に反する被差別部落の古老の証言を、真実として検証する作業を継続できたのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の、身元を隠すことなく歴史を担って生き続けているその真摯さにありました。

聞き取り調査をさせていただいた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老は、誰も耳を傾けてくれない、彼らの先祖の歴史を、明治以降もずっと語り続け、彼らなりの「独白」を繰り返してきたのではないかと思います。古老の持っている百数十年の「独白」の持っている重みは、筆者のわずか十数年の「独白」とは比べ物になりません。

もちろん、先祖の歴史を「独白」し続ける被差別部落の人々は、他にも存在します。

長州藩本藩は、「萩藩」ともいわれます。その萩の城下にはいるには、いくつもの検問を突破しなければなりません。その検問の役をになっていたのが、萩城下の「穢多町」の人々でした。あるとき、その「穢多町」の末裔の人が書いた《隠語に付いて》という文章を入手したことがあります。

その冒頭にこのような言葉がありました。

「部落に伝えられている隠語は、専制政治の幕藩時代は勿論、明治以降における、今日の政治政権下、官憲の圧迫、一般民衆の迫害、喜び、悲しみ、憤り、恐怖に曝されながらも、尚私共部落民は人間としての誇りを失わんがめたの糧であった・・・」。

萩城下の穢多町の末裔が語り伝えている、被差別部落の「隠語」は、近世司法・警察である「穢多」の「隠語」なのです。現代の警察の世界で用いられている「隠語」と比べると、やはり時代的変遷を感じさせられます。しかし、その内容は、被差別部落に伝えられている「隠語」の多くは、近代・現代の警察の世界で使われている「隠語」に匹敵するのです。

彼らは、近世幕藩体制下の司法・警察官である「エタ」と比べて、近代・現代の「エタ」である司法・警察官の不遜な姿、「法」に準拠するといいつつ、「法」よりも「権力」に忠実な、場合によっては、「権力」装置の一翼として、一般民衆を迫害・圧迫していく樣を「ネス」(しろうと警察)と呼んでいるのです。

萩城下の穢多町の末裔が語り伝えている、被差別部落の「隠語」は、明治政府という権力と、「賤民史観」を吹聴する学者や教育者によって、地位も名誉も剥奪され、「賤民」として、明治の近代身分制度の最下層に貶められたものの、歴史の真実はそうではないという抗議の響きが内包されているのです。

また、長門国の穢多の末裔である、ある被差別部落の人は、山口県の水平社創立時に、水平運動に参加した人々の中に「同胞」だけでなく、多数の「同志」もいたということを語り伝えています。

「同胞」とは何か、お尋ねすると、近世幕藩体制下の「穢多」の末裔のことであるといいます。そして、「同志」というのは、「穢多・茶筅・宮番」等の末裔ではないけれど、水平社宣言に賛同して集まってきた一般の人々(武士や百姓の末裔)のことだといいます。山口県の水平社運動は、明治という近代化の流れの中で、天皇制の枠組みの中で、取り残され、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在に追いやられた人々の総称でもあるというのです。

山口県の被差別部落の古老の語る言葉に、すなおに耳を傾ければ、差別的な言辞の飛び交う人間の会話の中に、歴史の真実を伝える潮騒の奏でる響きが、私の耳元にも伝わってくるのです。萩城下が置かれ、幕府から幽閉された半島の国・長門の国をとりまく、日本海・玄海灘・瀬戸内の潮騒にまじって、悠久の彼方から響いてくる歴史の真実の訴えが聞こえてくるのです。

最初、「山口県の部落問題について論文を書くそうですが、私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」、「有名な人が、自分たちの部落のことについて論文の中で取り上げてくれるならともかく、学歴も資格もないただの人に書いてもらっても何の意味もありません・・・」と、被差別部落の方々のこのような言葉を耳にしたとき、「部落学」構築は大きな岩場に座礁しかかったような感じがしました。

しかし、筆者は、山口県の被差別部落の古老の語る言葉が「真実」であることを確信したときから、その「真実」は、山口県の被差別部落の伝承に依拠しなくても、それが「真実」である限り、日本全国の史料や資料の中に、そして、日本全国の被差別部落の人々が、島崎藤村の『破戒』の主人公・丑松のように、勇気を持って、その出自を語り、臆するとこなく、「我は穢多なり」と告白し続けている人々がいる、彼らの語る言葉の中に、それを探っていけば、山口県の被差別部落の古老たちが語っている歴史の真実にたどりつくことができる手がかりがあるに違いない・・・、筆者である私は、そう思って、「部落学」構築を目指して、遅々たる歩みを続けてきたのです。

そして、このブログ上で、今も「独白」を続けているのです。

日本の社会の中に、空気のように存在する、日本の歴史学の中に内在する差別思想である「賤民史観」を取り除くための、孤独なる闘いを続けているのです。

私が所属している教団の同和問題担当部門のトップ、被差別部落出身の「上司」に対して、「あなたは本当に被差別部落出身なのですか」と問いかける私に、彼は、「あなたは、本当は部落出身ではないのですか」といいます。

というのは、私は、その「上司」と十年つきあっても、二十年つきあっても、山口県の被差別部落の古老が語り伝えるような、「穢多」として生き抜いてきた歴史の重みが感じられないという点にあります。「私たちは、いわれなき差別を受けてきた。どないしてくれるんだ。少しでも悪いと思うなら金よこせ。」式の運動を展開している「上司」と、私が山口県で出会った被差別部落の古老の姿の間に大きなギャップを感じるためです。

「上司」である彼に、「私が部落出身であるとなぜ思うのか」と聞き返すと、彼はこのようにいいます。「あなたは、いつも背広を着ている。私は、母親から言われた。いつもみなりをきれいにして背広を着ていれば差別されない。だから、私は背広をいつも着ている。私は、あなたが背広を着た姿しか見ていない。だから、自分と同じだと。あなたは、部落出身者であると思っている・・・」。

部落解放運動というのは、その本質において、軽佻浮薄なのでしょう。
差別をなくすための運動をしている人の言葉とも思えません。

私は、宗教家になる前は、商社につとめるサラリーマンでした。しかも、紳士服関連の・・・。背広を着て、アタッシュケースを持って歩くのは、その頃からの習慣でした。いつも背広を着てあるく人を見て、あの人も部落出身であるに違いないという視点から見たら、日本全国・背広を着た「部落民」ばかりになるではありませんか。

部落解放運動なんて、とっくの昔に瓦解しているのかも知れません。

人間は、本質的には、自分のうしろ姿は見えないのです。人間の目は前方にのみ付いています。夏の木立の中でけたたましく鳴く蝉のように、自分の背中を見る目は持っていないのです。そういう意味では、被差別部落の人々は自分のうしろ姿を見ることができないのです。

彼らはよく、「部落民でないと部落民の気持ちはわからない」といいますが、それは、部落民として見ることができる世界のことだけが見えるということで、部落民のうしろ姿も見えるというわけではありません。

この『部落学序説』は、極論すれば、「部落民のうしろ姿」を描こうとしていると言ってもいいのです。

インターネット上の部落差別について書き込みは、いろいろな批判や中傷に曝されるとうわさで聞いていますが、このブログは、なぜか、そのような状況にはありません。差別・被差別の両側から批判や中傷はありません。「部落民のまえ姿」ではなく、「部落民のうしろ姿」(部落民の真実な姿)を描こうとしているからかも知れません。

筆者が所属している教団の同和問題担当部門のトップは、あるとき、このように言いました。
「差別的な人に対する、被差別部落の側の反論は、彼を差別者として糾弾するのではなく、彼を私たちと同じ被差別部落出身だと証言することだ」と。

被差別部落の人々から、しかも、部落解放運動に携わっている人々から、「あいつは、おれたちの仲間だ」と宣言されたら、その人は、自分の意図しない場面で、周囲の人から差別的な扱いを受けることになるでしょう。

被差別部落出身の「上司」の言葉は、長い間、部落差別と取り組みながら、部落差別が何なのか何も知らない人の言葉です。私はときどき、彼に疑問をぶつけます。「あなたは、本当に被差別部落出身なのですか。私には、たまたま被差別部落に生まれてきた差別者以外の何ものでもないと思われるのですが・・・」。

『部落学序説』は、差別・被差別を越えて成立する、単なる学的研究に過ぎません。

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宗教者と部落問題

【第3章】穢多の定義
【第4節】穢多と宗教
【第2項】宗教者と部落問題



宗教者に内在する差別性が指摘されて久しくなります。

現在の宗教者が、どのように差別性を払拭する努力を続けてきたのか。筆者は、宗教者の禄を食みながら、その問いに 対する答えを出すことができないでいます。

今も昔も、宗教の中に内在する差別性は深刻なものがあります。しかし、その深刻な差別性は、どちらかいうと、近世幕藩体制下以前というより、明治以降の近代・現代の宗教の中に内在するように思われます。

『宗教と部落問題』(部落解放研究所編・解放出版社)の中にこのような言葉があります。

「宗教者はともすれば現場をはなれたところで部落差別問題を考える。ものを読む、ものを書く、ものを論ずる。しかし、そのようなことをしながら、実際には被差別部落の現実に触れないままで何年も過して平気でいる。研究とか論文とかの名のもとにいつも「きれいごと」になってしまっている。このことがさいごには部落差別問題を取り扱っていると言い、また本人もそう思いながら、実は部落差別の現実からはほど遠いところに自己の存在を押しやってしまう。・・・もっとも進歩的なポーズをとりながら、もっとも後退的な体質が保存されたままになるのである。自己自身を問いつつ現場に密着し、そこで宗教者としての生きざまを誠実に証しする以外に真の希望はないであろう」。

この文章を書いた宗教者がいう、「被差別部落の現実」とは何なのでしょう。

筆者も、同和対策事業の先進地視察という名目の下で行われる集会に何度か参加しましたが、そのことで、「被差別部落の現実」を理解するにはいたりませんでした。天理市をはじめとする近畿の被差別部落を訪ねたことがありますが、同和事業の代表的なモデル地区とされる被差別部落には、豪邸が建ち並んでいましたが、被差別部落の住人は、さらなる同和対策事業の必要性を説いていておられました。何となく同和行政に問題を感じざるを得ませんでした。

筆者が所属している教団でも、「被差別部落の現実」を知るために、繰り返し、「現場研修会」が開かれます。しかし、そのことは、参加した宗教者が、それぞれの日常の場にかえって、同和問題と取り組むきっかけになってきたかというと、決してそうではありません。「現場研修会」は、参加することで、自己完結するのです。どちらかいうと、同和教育のアリバイづくりにしかなりません。

同和事業の先進地や現場を訪ねることは、参加者した宗教者の足元にある差別性を堀崩すことにはつながらないのです。山口県に住んでいて、長崎・福岡・広島・大阪・徳島・・・と、他県の「現場」を渡り歩いても、被差別部落のことを本当に理解することはできないと思われます。それらの地区は、一定の運動の成果を達成しているところばかりで、いくら「現場研修会」を増やしても、それが、宗教者が、山口県の小規模な被差別部落に関わりをもつ出会いにつながることはほとんどありません。

宗教者の、被差別部落との日常的な関わりがないところで積み重ねられる「現場研修会」は、ますます宗教者の中にある「進歩的なボーズ」を助長するのです。「あれも知っている」、「これも知っている」といいながら、実は、何も知ってはいないことにつながるのです。

この『部落学序説』をブログ上で、「書き下ろし」の形で公開する準備をしていたとき、教区の同和問題担当者から、「あなたが、いままで収集してきた部落問題に関する史料や資料をすべて提出しなさい。あなたに変わって、私たちが論文を書きます・・・」と言われましたが、当然、断りました。

『部落学序説』を執筆すると宣言してから五、六年経過しますから、しびれをきらしたのかもしれません。彼らの語る言葉は、筆者にとって、学歴のないあなたに代わって、学歴も資格もある私たちが代わって論文を書きます、という意味合いに聞こえました。

「資料が多いので、提供は事実上難しい」と返事しますと、「それでは、あなたが出入りしていた被差別部落とその担当者の名前と住所、穢多寺の住職の名前と住所、連絡先を教えなさい。私たちが再調査して、あなたにかわって論文を書きます。」といいます。

学歴のある人はさすがものいいが違うと関心しながら、しかし、私は、一方で、非常に不安感をもちます。

もし、彼らに、被差別部落とその担当者の名前と住所、穢多寺の住職の名前と住所、連絡先を教えたら、そのとき、すぐに差別事件として糾弾を受けることになるのではないかという不安です。

既に記述したことですが、私は、現在住んでいる市の職員の方からいただいた、市内の2カ所の被差別部落の全世帯の名簿を持っています。具体的に、被差別部落の人の名前と住所を知っていたら、それは、同和地区の調査や同和問題の論文に役に立つか・・・、というと、決して、そうはなりません。

そういう名簿は、ほとんどの場合あってもなくてもよいのです。山口県同和教育研究協議会や山口県同和問題宗教者連帯会議の集会に参加していれば、被差別部落の人々と、何らかの形で接点ができてきます。それぞれの宗教者の置かれた立場で、その出会いを大切にしていけば、山口県の被差別部落について、いろいろなことを被差別部落の側から直接聞くことができる機会は自ずと生まれてくるものです。

大切なのは、被差別部落の本当の歴史を語ってくれる人に出会うことができるかどうか、という一点にあります。

山口県の被差別部落の人々から、学校同和教育や社会同和教育で行われた啓発の内容と同じ話しか聞くことができなかったら、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に彩られた世界しか聞くことができなかったとしたら、それは、研究者や教育者が、まだ、山口県の、本当の、被差別部落の人々に出会っていないということを意味します。

「現場研修会」ではなく、全国に散在する「未指定地区」を探して、ひとりで、自分を曝け出して訪ねてみれば、より多くの収穫を手にすることができます。部落差別の完全解消を願う気持ちがあるなら、「差別者」が、被差別部落の人々を、差別的に探索する、それ以上の熱意と誠実さをもって、被差別部落の調査にあたれば、「どこに部落があるのか」、「その部落にどのような人が住んでいるのか」、「いままで、どのような取り組みをしてきたのか」、「どういう歴史や文化があるのか」、自ずと、その問いに対する答えが開示されてきます。

必要なのは、真剣さのみです。

あとは、被差別部落の人々の語る言葉に耳を傾けるこころのゆとりさえあれば・・・。

『宗教と部落問題』に記述されている宗教者への注意は、当然、この『部落学序説』の筆者である私にもあてはまる言葉ですが、この言葉を最初に読んだ日から二十数年が経過してしまいました。

そして、現在、教団・教区の同和問題担当部門、山口県同和教育研究協議会や山口県同和問題宗教者連帯会議、そして被差別部落の人々との交流からも離れて、ただひとりで、この『部落学序説』を執筆しています。一宗教者として、たったひとりではじめた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を打破する闘いをほそぼそと続けています。

部落解放運動に関与している人々は、宗教というものに、過度に期待し、その反動として、過度に失望の念をもっておられる場合が多々あります。繰り返される宗教者による差別発言や差別文書、差別戒名や差別墓標差別事件を考えると、被差別部落の側の期待と失望を理解できないわけではありませんが、しかし、宗教者を十把一絡げに斬って捨てるのはいかがなものでしょうか。

民俗学は、基本的には、「常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究です。そして、「部落学」は、「非常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学等の学際的研究として遂行されます。

民俗学にしても、非常民の学としての「部落学」にしても、「宗教学」は必須の個別科学研究です。しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者、そして彼らと共闘している被差別部落の人々の中には、「宗教学」をほとんど軽視している人も少なくありません。浄土真宗に対する被差別部落の側からの批判は厳しいものがありますが、どこか的を外しているような批判も少なくありません。

最も的を外しているのが、原田伴彦です。《日本宗教と部落差別》(『伝統と現代』73号)でこのように述べています。

「部落に真宗の寺院の多いのは、江戸幕府が部落と結びつける政策をとったことにもよろうが、やはり、中世後期いらい、真宗が社会の底辺の下層民衆に救いの手をさしのべた伝統によるものであろう。事実、江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であったことは確かな事実であった。」

近世幕藩体制下で、長州藩にあって西本願寺派の穢寺のひとつであった、浄土真宗の寺を訪ねたとき、その住職は、家系図を作る業者に作成してもらった、その寺の歴史を提示しながら、「江戸時代、誰も引き取り手がないというので、当寺で、被差別部落の人の世話をしていました・・・。」と話をしていましたが、原田にしろ、穢寺の住職にしろ、歴史の事実を大きく誤認しています。

近世幕藩体制下の「穢寺」は、浄土真宗の付録的存在ではなく、必須の重要な機関であったことです。その機関を抱えているからこそ、浄土真宗は、幕府によって公認された宗教として、近世幕藩体制下300年に渡ってその存続を許されたのです。『部落学序説』において、「穢多」なる概念が再定義されなければならなかったのと同じく、「穢寺」・「穢多寺」も再定義が必要であると、筆者は考えざるを得ないのです。

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浄土真宗と穢多

【第3章】穢多の定義
【第4節】穢多と宗教
【第3項】浄土真宗と穢多



この『部落学序説』では、「穢多」(穢多・茶筅・宮番の上位概念としての穢多)は、近世幕藩体制下の司法・警察であ る「非常民」として認識してきました。

その前提に立って、「穢多」と「宗教」の関係を考えるとき、少なくとも、原田伴彦著《日本宗教と部落差別》で紹介されているような解釈は歴史的な事実ではないと思われます。

原田によると、浄土真宗と「穢多」が結びついたのは、徳川幕府の政策に基づくといいます。原田の言葉には、「浄土真宗は、近世の被差別民を押しつけられた気の毒な宗教である・・・」というニュアンスがあります。

原田がなぜそのように思うのか、原田自身が説明します。

「江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であった」ことは、原田にとって「確かな事実」と思われたからです。

原田は、近世幕藩体制下の「穢多」と宗教を論じる際に、明治後半期以降の「部落民」と宗教の関係をアナクロニズム的に投影して、解釈しているのです。「穢多」を「部落民」と表現しているところからみても分かります。

「部落民」に対する差別においては、原田がいう「なかなか外からは見えない差別」があったかも知れません。原田は、「見えない差別」についてこのように説明します。

「世間では子供が生まれれば祝福し、人びとが死ぬと悼み悲しむ。ところが部落では反対なのだ。極端にいえば部落では、生は祝福されず、死はやすらぎなのだ。・・・この差別は部落の外からは分からないし、また外からは見えないのである」。

原田がなぜそのような発想をするのか、私には理解できません。

どのような社会層・社会階級に属していても、新しく生まれてきたこどもは、その家族にとって、大きな喜びではないのでしょうか。その子の父親と母親にとって、新しい命の誕生は、神秘的で、それこそ神からの祝福以外の何ものでもないのではないでしょうか。

原田は、「私が長野県で知ったことでだが(これは長野県だけではない。全国的にいえることだ)部落では婦人が妊娠するとすなおに心から喜べないものがある。子供を生むまで、この子を生むべきか生むべからざるかと思い悩んで、非常に苦しむ。生まれてきた児に、また自分と同じような差別の苦しみを味わせたくないと思うからだ。」といいます。

原田のいう、「この子を生むべきか生むべからざるか」という悩みは、「堕胎すべきかせざるべきか」という考え方を前提しています。浄土真宗門徒が、果たして、原田が言うような悩みに陥ることがあったのでしょうか。

『宗教社会史の構想真宗門徒の信仰と生活』の著者・有元正雄は、19世紀初め、仏教嫌いで浄土真宗を厳しく攻撃した『世事見聞禄』の一節を引用しています。

「さて或る人のいわく、国々に子を間引くという事有て人少になれり。しかるに一向宗流布の国々は一体人々の信心よく整い、左様なる残忍なる人情はなし。かえって人多くになり、其土地に溢れもの困窮におよぶほどの事なきよし」。

堕胎の習慣がない以上、「この子を生むべきか生むべからざるか」という悩みも存在しなかったと思われます。

有元は、「凶作飢饉を予想しその被害を少なくするため、人口調節が行われていた」と指摘しますが、それは、「穢多」たちではなくて、一般の百姓たちでありました。「この子を生むべきか生むべからざるか」悩み苦しみ迷ったあげく「自分の子を殺害」していたのは、「穢多」ではなく「百姓」であったのです。

有元は、史料をもとに、山陰地方は、「生児圧殺」の慣習を持つところが多いのに、石見国にあっては「其(真宗)教義の生来脳裏に深染するもの多きをもって」間引きの「悪弊を免れ」ているといいます。

有元によると、真宗門徒は、虫の命を奪うことも忌避したようで、安芸・石見・防長・肥後などの真宗門徒が多い地域では「養蚕」業が発展しなかったといいます。「虫一匹殺したことがない」と言われるのは浄土真宗の門徒のことなのでしょうか・・・。

原田伴彦の《日本宗教と部落差別》で紹介されていることは、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に色濃く汚染されているが故の妄言であるといえます。「みじめで、あわれで、気の毒な」ことがらを、武士や百姓からとりあげて、それを穢多・非人に転化する発想に由来するもので、歴史の事実ではないと思われます。

また原田は上記論文の中で、このようにいいます。「部落に真宗の寺院の多いのは、江戸幕府が部落と結びつける政策をとったことによろう」。

原田によると、浄土真宗が「穢多」を門徒として抱え込んだのは、浄土真宗側の意志ではなく、江戸幕府の政策に基づく強制による・・・というのでしょうか。この点においても、筆者は多くの問題を感じます。

幕府から指示される前に、浄土真宗は、「穢多」の前身を抱え込んでいたと思われます。それは、浄土真宗内部の自治警察機能の存在です。浄土真宗を捨て多宗教へ流れるものに対しては、厳しい措置をとったものと思われます。特に、切支丹に対しては、徳川幕府のそれと、勝るとも劣らぬ形で、「邪宗門」として対峙してきたと思われます。

「邪宗門」に対する抑圧・排除のシステムこそ、浄土真宗が徳川幕府から信任され、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の役を任せられた理由ではないかと思います。

つまり、浄土真宗にとって、「穢多」は、自らの存続のために必要不可欠な重要な機関であったことです。その機関の故に、浄土真宗は、江戸時代300年間に渡ってその存続を許されたのです。

原田は、「江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であったことは確かな事実であった。」と断定します。真宗は、「穢多」を、誰も相手にしなかった「みじめで、あわれで、気の毒な」存在として、布教の対象にしたといいます。「社会の底辺の下層民衆に救いの手をさしのべた伝統によるもの」であるといいますが、原田の脳裏では、こと宗教に限っていえば、近世と近代が著しく混同して、近世の穢多についても、近代の穢多についても、歴史の事実を見失ってしまっているとしか言いようがありません。

原田は、その論文の最後で、このようにいいます。

「私はここで教団や僧侶の人びとを責めているのではない。私にはそれを責める資格はない。私は一介の歴史学徒にすぎない。ただ過去の仏教教団と部落のかかわりについての歴史的事実の一部を、客観的事実としてのべ、またこれまで諸教団がもってきた部落に対する姿勢が、今日に至ってもまだ本格的に変わっていないのではないかと思う・・・。」

原田の、この論文に記されていることは、原田がいうような「歴史的事実の一部を、客観的事実としてのべ」たものではなくて、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」が作りだした妄想以外の何ものでもないのです。

「研究者」は、有元正雄の『宗教社会史の構想真宗門徒の信仰と生活』は、まだ、学会では評価されていない。しかし、原田伴彦の論文《日本宗教と部落差別》は一般的に評価されている論文である。有元の論文を根拠に原田の論文を否定することはよろしくないといいます。

学歴も資格もない、ただの無学な宗教者でしかない私には、「研究者」の発想は理解できません。

私にとって、大切なのは、部落研究・部落問題研究・部落史研究における学会において、どのような評価を受けているかではなく、それらの論文が、何を語っているのか、それを「部落学」的評価をした上で、歴史の事実にあっているのは、有元の方であると発言しているのです。

中山英一は『被差別部落の暮らしから』の中で一茶の句を引用してこのように解釈しています。

穢多町に見おとされたる幟哉

「「幟」は初夏の季語で、端午の節句にあげる「のぼり」のことである。町内の被差別部落で節句を祝う幟が白くはためている。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人々の力強い心意気が彷彿と感じられる。」

それほど人のいのちをいと惜しむ「穢多」たちが、近世幕藩体制下の司法・警察の「役務」・「職務」を遂行するにあたって、ときとして、刑吏の仕事に携わることを要求されます。穢多にとって、直接、憎しみを持っていない犯罪者を、代官所の命令に従って処刑しなければなりません。

中間や足軽は、死刑執行人の仕事を要求されたあとは、逃亡して行方不明になるものが相当数いたといわれます。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多・非人」の中には、そのような人はいなかったと思われます。徳山藩の処刑の記録を見ても分かるのですが、ひとりの犯罪者の処刑に複数の穢多が関与しています。死刑執行人のうち、実際に処刑したのは誰であったのか、それを隠蔽するためです。

たとえ犯罪者であるといっても、人ひとりを殺すことになるわけですから、死刑執行人に任命された人自身も心に深い傷を負うことになります。東日本では、白山信仰があって、その傷を癒してもらうことができました。

西日本では、白山信仰はほとんど存在しません。その代わりを担ったのが、浄土真宗の教説ではなかったかと思われます。

浄土真宗は、すべての殺生を禁止したわけではありませんでした。穢多の「役務」・「家職」にともなう殺生は、忌避の外にありました。有元は、越中国に、「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」という「念仏行者心得か条」があったことを紹介しています。浄土真宗は、死刑執行に携わるものの救済を用意していたのです。「本願寺法王は、「如来の御代官」として救済の授与(浄土往生の保証)権を行使する」ことができたのです。

浄土真宗は、死刑執行人に対して浄土往生を保証しただけでなく、「穢多」の、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての生き方全般についても、多くの精神的な支えを提供していたのです。

『真宗の宗教社会史』(有元正雄著)の中に、「掟こゝろえ歌」が紹介されています。

地頭領主の恩を知り
家業大事と働きて
無益の奢り嗜みて
年貢所当を具にし
只仮初の遊にも
不実なものに交りて
勝負毎をば致すなよ
大取するより小取せよ
稼ぐに追つく貧乏なし
只師と親を敬いて
先祖の恩を思知り
夫婦兄弟睦じく
有縁無縁の人々に
詞をかけて愛すべし
一季半季の下僕まで
不便をかけて使べし
ものの命を取らぬよう
私欲に耽り嘘云て
人の眼を掠むるな
天知る地知る我知ぞ
邪な不義働きて
人の嘲り受けぬよう
酒を飲とも飲まるるな
身に徳もなく美服して
栄養を好み食物の
不足を語る其ものを
国賊とこそ申すなれ
只世の中は上を見ず
笠きてくらせ我こころ
吝嗇ならぬ倹約し
堪忍すればこと足ぬ
足に任せてこと足ず
足でことたる身は安し
信の上より身を軽く
仏の恩を重くして
箸より落る雫まで
押頂いて飲たまへ
返返も親に孝
主に忠義を尽すべし

浄土真宗の一般門徒だけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」たちも、「其(真宗)教義の生来脳裏に深染するもの多き」が故に、江戸時代300年間、「非常民」としての役務を全うできたのではないかと思われます。東日本の「穢多」にとって、白山信仰が、その役務の傷を癒す宗教的装置であったのと同じく、西日本の「穢多」にとっては、浄土真宗の世俗化倫理とその教説が同じ機能を持っていたものと思われます。

しかし、「穢多」と「宗教」について論じるとき、「宗教」を浄土真宗に限定することはできません。もうひとつ、「穢多」にとってかかすことができない宗教がありました。その宗教の故に、幕府は、全国津々浦々に「穢多」を配置しました。「穢多」の大きな職務のひとつに、「宗教警察」がありました。幕府が禁教した「邪宗門」、特に切支丹の取締りでした。この切支丹という宗教の取締りという役務が、のちに、明治4年の「穢多」身分廃止の太政官布告につながっていくのです。

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