2005.09.02

穢多・茶筅・宮番・猿引・非人

【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項
】穢多とは誰か 1.穢多・茶筅・宮番・猿引・非人

それでは、「穢多」は、具体的にはどのような人々のことを指すのでしょうか。

長州藩の支藩である徳山藩では、司法・警察をあらわす「非常民」は、いくつかの言葉に限定されています。通常、近 世幕藩体制化にあっては、「非常民」は、「穢多」という言葉に統一されています。

長州藩本藩もその傾向がみられます。

これは、幕府の方針に基づくものであると思いますが、長州藩本藩の場合は、一般的に、「穢多の類」として、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「猿引」・「非人」の5種類の人々があげられます。北川健著《『防長風土注進案』と部落の歴史》という論文の<長州藩の賤民身分の種類>の中で、これら5種類の民は、詳しく、取り上げられています。

【穢多】

「穢多の類」の4人に3人は、「穢多」(下位概念としての穢多)に属します。長州藩の「穢多」(上位概念としての穢多)身分の中では「中核的な存在」になります。その中世的前身は「かわた」と言われていた人々ですが、「万治・寛文」期(1660年前後)に、諸藩と同様、「かわた」あらため「穢多」と「公称」されるようになりました。彼らには、「夜廻役」・「牢番役」・「長吏役」などの、近世司法・警察の仕事、「警吏・捕吏・刑吏」という「役務」が課せられました。

北川と違って、筆者は、死牛馬処理権に伴う皮革の仕事は、「穢多」身分に伴う、「役務と家職」の「家職」であると考えています。藩主から、「死牛馬処理権」に伴う「給付」を受ける代償として、藩主から、「夜廻役」・「牢番役」・「長吏役」などの、近世司法・警察の「役務」が課せられたと考えています。

北川は、その他に、「穢多」は「門開き」や「千秋万歳」にも従事したといいますが、それも、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」に課せられた、現代的な表現をすれば、「公安警察」の「調査活動」に類した「穢多」の所作であると思われます。

北川は、その他に、「穢多」が、「非人」・「宮番」を管轄する立場にあったことを指摘していますが、「穢多」は、その役務遂行上、「法」に準拠して行動していますので、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「非人」が違法行為を行うときは、当然、彼らに対して摘発と捕亡の所作をしなければなりませんでした。

そういう意味では、「門開き」や「千秋万歳」による調査活動や、「非人」・「宮番」の取締りは、「穢多」の本来の役務に内在するものと判断できます。

【茶筅】

「穢多」に次いで多いのは、「茶筅」です。
「穢多の類」の8人に1人は、「茶筅」になります。
「茶筅」の言葉の由来を茶道の道具である茶筅に求める説がありますが、如何にも短絡的で、「茶筅」の本当の意味を語り伝えているとは思えません。竹細工製品である茶筅を藩主に献上したり、「茶筅」が配属された村で「家職」として認められている竹細工をして茶筅を販売しても何ら不思議ではありません。最近は、「竹細工」を「家職」ではなく「役務」として捉える歴史学者もいるようですが、「皮革」が「役務」ではなく「家職」に過ぎないのと同様、「竹細工」も「役務」ではなく「家職」に過ぎません。

長州藩の資料の中に、「御茶屋」というのが出てきます。

言葉の上では、「旅人が峠の茶屋で休憩するお茶屋」というイメージがありますが、長州藩でいう「御茶屋」というのは、代官所や藩直営の宿白施設のことです。民間で運営される場合は「本陣」といいます。

「茶筅」というのは、「御茶屋」で「使役」されている、司法・警察官である役人を指して、比喩的に使われている呼び名であると推測されます。

「穢多」にしても、「茶筅」にしても、語源から、その本質を把握することはできないのではないかと思われます。「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等の表現は、アドホック(adhoc)として使用されていると思われるからです。

アドホックというのは、「間に合わせの言葉」という意味です。

定義が難しいときに、便宜的に使用される言葉という意味です。「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等の表現が、アドホック(adhoc)であるということは、次の項で具体的に説明しますが、アドホック的な概念は、いくら語源を探っても、その概念の本旨にはたどりつくことはできないのです。

長州藩の支藩である岩国藩では、「道の者」・「久保の者」という表現がありますが、これは、「穢多」の配置形態を指す言葉で、「穢多」が、現在の警察でいえば、本体を離れて、駐在所にいる状態が「道の者」で、警察署や機動隊の宿舎にいるときは「久保の者」と表現されているのです。岩国藩では、「道の者」を「茶筅」に、「久保の者」を「穢多」に置き換えて解釈することができます。北川は、《長州藩の茶筅と宮番の偏在の基礎》という論文の中で、「狭義には「道の者」とは本藩領でいう「茶筅」である」と断定しています。

北川は、「茶筅」の職務は、「地下中廻番」・「村廻り」・「捕亡吏」で、近世司法・警察の仕事、「警吏・捕吏・刑吏」という「役務」を担っていたといいます。「茶筅」と「穢多」は、共通の「所作」をしていたというのです。

近世司法・警察の配置形態からみて、少数点在の場合は「道の者」(茶筅)、集団で存在する場合は「久保の者」(穢多)と表現されていたと思われるのですが、徳山藩の北穢多村は古地図上では「久保地」と表現されています。「久保の者が住む地」という意味でしょうか・・・。

しかし、宗教学的にみると、長州藩の「穢多」と「茶筅」は質的な違いがありそうです。

というのは、「穢多」は「穢多寺」に所属し、「茶筅」は「茶筅寺」に所属するからです。近世幕藩体制下の「穢多寺」を継ぐ、浄土真宗のある僧侶は、「穢多と茶筅は、昔も今も通婚しない」といわれます。「穢多」の末裔は「茶筅」の末裔と婚姻関係を結ばないし、「茶筅」の末裔は「穢多」の末裔と婚姻関係を結ばないというのです。

中上健次が、『紀州木の国・根の国物語』で、「差別、被差別とは何なのだろう、とは問うた。いま改めて、被差別部落とは何だろう、と問う。そして、被差別部落民とは何なのだろう。・・・被差別者でありながら、被差別部落民を差別している」と語らざるを得なかった、長州藩における類例のひとつかもしれません。

【宮番】

「穢多」・「茶筅」の次にあげられるのが「宮番」です。
北川は、「神社の掃除・警番・火事に従事」すると共に、「村内捕亡吏」をしていたといいます。以前、長州藩本藩領の浅江村においては、近世司法・警察の「養成所」のようなものがあって、浅江の穢多村は、優秀な「宮番」を輩出していたと書きましたが、「宮番」は、穢多がその役をになっていたと思われます。

筆者は、「茶筅」の役務に対する給付は、藩(代官所)から支出され、「宮番」の役務に対する給付は村方から支出されたと思っています。
しかも、「茶筅」の職務内容と「宮番」の職務内容は、相当大きな違いがあります。「非常・民」としての権限は、「茶筅」の方が保有しているように思われます。

【猿引】

北川によると、「猿引」は、「いわゆる猿回し。萩城下の郊外に存在。文政年間(1820年代)に8軒とある」といいます。「猿」というのは、近世幕藩体制下では、「密偵」のことであって、萩城下だけでなく、城下・宰判・藩の境を越えて、情報収集の仕事に従事していたのではないかと思います。「猿廻し」は表向き、実際は、長州藩の正式の「密偵」であったわけです。

長州藩本藩領の浅江村の「末裔」である村崎義正は、その「猿回し芸」について、「国政、厳しい差別、極貧のなかで耐えに耐えて生き残った猿回し芸」といいますが、萩城下の「猿引」とはかなり違いがあります。萩城下の「猿引」は、その「役務」遂行のために、猿と共に旅に出るときは、藩から、数両の路銀を受け取ったと思われます。「穢多の類」の中でも、高級取りのひとつです。浅江の穢多村と「猿引」との関連は、文献上で、まだ確認できていません。

【非人】

長州藩においては、非人は、「人を非す」役で、各種処刑に携わったと思われます。徳山藩においては、「非人」の役は、すべて「穢多」の役務として遂行されました。

長州藩の本藩では、上記の「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「猿引」・「非人」の5種類の「非常・民」として存在しますが、周防国に2カ国、長門国に2カ国配置された支藩においては、徳山藩と同じく「穢多」という概念に収斂されています。

支藩は、当然、近世幕藩体制が構築されたあとで作られるため、幕府から「藩」として認証されるために、幕府の「法」に従って、その司法・警察体制を「穢多」という呼称に統一したためであろうと推測されます。

長州藩に隣接する幕府領(愛媛松山藩)等は、「穢多」という呼称に統一されています。職務の遂行上、区別が必要な場合は、「○○穢多」というように、「穢多」の前に、職務の内容を明らかにする言葉を付加して表現されました。「棒突穢多」・「盗賊番穢多」・「警固穢多」・・・、というように。

「穢多とは誰か」という問いに、長州藩の事例だけで答えると、「その解釈は、長州藩の例外事項でしかない・・・」という批判がなされる場合が多々あります。

長州藩に限らず、藩単位で、「非常・民」について考察するときは、同じ状況に陥ると思われます。長州藩の四境に接する藩をとりあげてもすぐに分かるのですが、「非常・民」の外延を表現する呼称には、諸藩の「非常・民」を比較してみるとき、大きな矛盾が存在していることに気づかされます。同じ概念を使用していても、その意味するところはまったく異なっている場合が多々存在するのです。

次回で、長州藩の「非常・民」と、長州藩(山口県)の周辺地域(広島県・愛媛県・福岡県・島根県)の「非常・民」を比較検証してみましょう。「穢多」・「茶筅」・「宮番」等の呼称が、如何にアドホックな」(間に合わせ的な)言葉でしかないかが分かってきます。

「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉を、「意味論」に立って、語源的な意味を追求することを放棄して、「記号論」に立って、「非常・民」を指す単なる記号として捉えるとき、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉が何を指しているかが明らかになってきます。

『部落学序説』は、「穢多」・「茶筅」・「宮番」という言葉の語源論的解釈を放棄して、近世幕藩体制下の統治システム、法システム、社会システムの枠組みの中にそれらを位置づけることで、その本質に迫ります。

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「穏亡」・・・殺人事件を捜査する近世の私服刑事

【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項】穢多とは誰か 2.「穏亡」・・・殺人事件を操作する近世の私服刑事

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、地方の種々雑多な研究成果を、「賤民史観」という枠組みの中に組み込んで、「みじめで、あわれで、気の毒な」、被差別民の歴史にしたてあげてきました。

部落史の学者・研究者・教育者・運動家の多くは、「賤民」と言われた人々は、「賤民」としての実態があったから「賤民」と呼ばれるようになったと信じています。名は体を表す・・・というのでしょうか。しかし、「賤民」という概念は、明治以降、政府の役人や歴史学者によって、意図的に作り出された概念です。

江戸時代、「賤しい民」は、幕藩体制下の身分制度における、身分間の相対的表現でしかありませんでした。どの身分も、「貴」と「賤」の両方の側面を持っていたことは既に既述した通りです。

しかし、明治以降の近代史学は、「賤しい民」を「賤民」概念で把握し、相対概念を絶対概念(本質概念・実体概念)に変質させてしまったのです。「穢多」は、「穢れ多し」と解され、そのような名称が付けられたのは、「穢れ多し」という実態があったからだと説明されました。「非人」は「人に非ず」と解され、人間外人間、社会外社会の存在として解釈されました。「かわた」は、「屠殺」という卑賎な職業を担った人々の祖先というイメージで解釈されてきました。「おんぼう(穏亡)」に至っては、「墓守・埋葬を業とする賤民の称。火葬の際、死骸を焼いた」(『広辞苑』)とされ、近世幕藩体制下の司法・警察官である「非常・民」としての「穏亡」の本当の姿は剥奪されてしまいました。

大江卓は、大正8年(1919年)、《穢多非人称号廃止の顛末を述べて穢多の起源に及ぶ》という文章の中で、弾左衞門支配を受けた「28種類」のうち、明治4年まで遺っていたのは、「非人・余戸・夙・穢多・穏亡等の数類に過ぎなかった」といいます。

大江は、明治3年頃、兵庫の湊川近辺では、穢多は「花売り」をしていたといいます。「きわめて綺麗な行商」で、「神戸の町へ花売りに来る者」はみな穢多であったといいます。町人や百姓は「花売り」ができないのです。理由は、「花売り」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の役務に対応する「家職」、幕府によって許可された独占的家業であったからです。

大江は、「穢多は各府県到る所にあるが、各府県取扱いが皆別である。」と指摘しますが、「穏亡」については、その名前をあげるのみで、詳しいことは既述していません。『社会外の社会穢多非人』の中で、柳瀬勁介は、加賀・備中・能登では「えた」を「おんぼ」というと指摘したあと、「如何に書くか文字定説なし」と記しています。

筆者は、「穏亡」に関する少ない資料をかき集めて、『部落学序説』でいう、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」の枠組みの中で解釈すると、「穏亡」は、「隠れ捕亡」ではないかと推定します。現代の警視庁の捜査第一課に該当します。

「穏亡」が登場するのは、不審な死体が発見された場合です。

事件性がある場合、殺人事件として、「穢多医」(警察医)の鑑定をもとに、犯人探索の任務に従事していたと思われます。また、獄中で犯罪者が不審な死をとげた場合、「穢多」・「非人」ではなく、「穏亡」が捜査にあたり、その死に違法性がないかどうか確認するのも「穏亡」の役目です。事件性がない「行き倒れ」の場合も、「穢多医」たちあいのもとで、死因の鑑定をします。「流行り病」に罹っている場合は、火葬に付します。近世の「穏亡」と現代の捜査一課の「私服刑事」の違いは、捜査が済んだあとの死骸の片づけを自らしたかどうかにあります。明治4年以降になりますと、「捜査」と「死骸の片づけ」は分離していきますが、江戸時代にあってはすべて「穏亡」によってなされます。

『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一は、一茶の「穏坊」をうたった句を紹介しています。

「穏坊がけぶりも御代の青田かな」

私はこの句を次のように解釈します。一茶が、青田のそばを旅をしていると、青田のはるか向こうで、一筋の白い煙が立っています。一茶は、村人から、「あれは、穏亡の煙・・・」と聞かされます。一茶は、「街道で、行き倒れになった、無名の人も、穏坊によって、その死因がきちんと調べられ、そのあとは、穏坊の手によって厚く葬られているのだな。これも、徳川の御代が続いて平和が維持されている結果だ・・・」と詠んだのではないかと・・・。

「穏坊のむつきほしたり蓮の花」

穏坊は事件があるとすぐに駆けつけ捜査をしなければなりません。犯人の探索と捕亡は身の危険がつきまといます。しかし、一茶が穏坊の家の前を通り過ぎたとき、庭の小さな池には真っ白な蓮の花が咲いていました。若夫婦と見えて、庭先には、幼子のむつきが干してあります。一茶は、穏坊の家庭の中にある安らぎと、事件のない世の中をこのように詠います。

「汚坊花の表に立てりけり」

穏坊は、殺人事件があれば、「不浄」の仕事に従事しなければなりません。しかし、最近は、穏坊たちの働きで、治安が行き届き、そのような事件は少なくなったのでしょう。穏坊が、民家の玄関に咲いている花の前に立ち止まって、その花をじっと鑑賞している姿をみると、一茶は、平和な世の中のありがたさを思わずにはおられません。

筆者はうたごごろは皆無ですので、きわめて恣意的な解釈です。

「穢多」を「衞手」(エタ)と解釈したり、「穏亡」を「隠れ捕亡」(殺人事件を専門とする私服刑事)と解釈するのは、「穢多」を近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」・「非常の民」として認識する「部落学」にしてはじめて可能になります。

「部落学」は、ローカルな視点だけでなく、グローバルな視点が必要になります。ミクロ的な研究だけでなく、マクロ的な研究が必要になります。「部落学」は、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究がなし得なかった、グローバルな視点・マクロ的な研究に立って、部落差別の完全解消という目的のために、部落差別の本質を描き出す方法であるといえます。

しかし、そのためには、膨大な時間と労力が必要になります。

『部落の源流』(三一書房)の著者・高本力は、このようにいいます。

「小説と違って勝手な想像が許されぬ所に、歴史研究の難しさがあり、一つの史料を探すのに、何年、何十年とかかる。それでも発見されればよいが、消滅した史料とは永久に接することができない。それではその研究は永久に不可能、と放置することもできない。あらゆる状況証拠を探索して、総合判断をしなければならない。そのために誤りを犯すおそれが多分に出てくるし、説明不足で半信半疑の念におち入ったままになる場合も多いので、より完璧をめざして弛まぬ努力の必要な所以である」。

彼はその書の第5章で、奥羽・関東・中部・近畿・中国・四国・九州各地方の被差別部落の分布をとりあげています。

ただ、彼の研究が「的」を外しているのは、「歴史学」的研究にのみに終始していて、「社会学」・「民俗学」・「宗教学」等の歴史学の周辺科学を考慮していないことにあります。彼の研究は、「人種起源説」の否定を目的とします。彼は、「部落の祖は同じ日本人」とするのですが、彼のいう「同じ日本人」というのは「東北人」のことを指しているのです。彼は、その理由として、「部落は関東以西に99.9%存在して東北はほとんど皆無である」ことをあげていますが、残念なことですが、彼の研究は、恣意的研究で終わっています。

高本は、「非常・民」に関する多くの史料や資料を収集しながら、「非常・民」に関する考察はほとんどしていません。

しかし、彼の著作は、「被差別部落」の歴史を、グローバルに、マクロ的にみるときに、大いに参考になると思います。

『部落の歴史-西日本編』(部落問題研究所著・部落問題研究所出版部)、『近世中国被差別部落史研究(後藤陽一・小林茂編・明石書店)』、日本史籍協会叢書『藩政一覧』(東京大学出版会)、『全国民事慣例類集』(司法省蔵版)を手がかりに、ミクロ的に考察してみましょう。

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「庄屋」の目から見た「穢多」

【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項】穢多とは誰か 3.「庄屋」の目から見た「穢多」



『藩政一覧』(日本史籍協会)は、戦前の政府によって、「学術研究ノ為メ非売品」という条件の下に印刷・頒布された ものです。

「例言」によると、「明治初年、太政官ガ各藩に向テ・・・調査ヲ命セシニ対シテ、明治二、三年ニ亘リ、各藩ヨリ上申セシモノヲ収録」したもので、「明治初年ノ国勢ヲ知ル唯一ノ資料」であるといいます。

『藩政一覧』は、明治初年に実施された最初の「国勢調査」なのです。

長州藩の記述を見てみましょう。

長州藩は、本藩は「山口藩」、支藩は「岩国藩」・「徳山藩」・「豊浦藩」・「清末藩」として報告されています。

【山口藩】
人口・・・66,463人
その内
士族11,589人
卒族10,362人
陪臣25,487人
社人2,263人
寺人5,108人
盲僧652人
山伏285人
茶筅29人
非人261人
穢多10,380人

【岩国藩】
士族3,533人
卒族2,715人
倍卒1,764人
郷士185人
社家277人
山伏155人
盲僧106人

【徳山藩】
人口・・・54,471人
その内
士族2,003人
卒族2,147人
社家150人
寺院338人

【豊浦藩】
人口・・・76,096人
その内
士族2,121人
准士1,456人
卒族3,601人
倍卒4,487人
社家464人
寺1,037人
穢多509人
非人461人

【清末藩】
華族9人
士族848人
卒族677人
社家・山伏・盲僧99人
非人78人
穢多38人

『藩政一覧』が貴重な史料であることは否定すべくもないのでしょうが、この史料を「部落学」の資料として使用するにはかなり努力が必要なようです。

全国の諸藩に調査を命じたとき、調査項目に関して具体的な指示がなされなかったためでしょう。調査項目についても異同が認められます。

「長州藩」といえば、薩摩藩・土佐藩と並ぶ明治維新の雄です。

倒幕後、彼らが政権を取ったときの方策は、かなり以前から立てていたものと思われます。建前は、「万機公論に決すべし」という姿勢がとられましたが、本音は、長州・薩摩・土佐、とくに長州の政治的な野望を貫徹しようとする意志があったのではないかと思います。

明治4年の太政官布告に先立って、「穢多・非人」制度の廃止を前提とした数字が並びます。徳山藩は、穢多・非人の人数については、①報告していないか、②卒族に合算しています。岩国藩は、他の史料を突き合わせて検証すると、「郷士」として計上しているように思われます。いずれにしても、徳山藩も岩国藩も、「穢多・非人」の数を伏せています。

幕末から明治4年にかけて、徳山藩や岩国藩の「穢多」は大きく変貌していきます。

「穢多」役の反対給付であった死牛馬処理の権利は藩に返上されていきます。皮革や骨粉に関する権利がなくなるということは、幕末期にはすでに「穢多」の役務から解放されていた(正確には、穢多の役務から罷免されていた)可能性があるということを意味しています。

岩国藩の穢多は「郷士」と表現し直され、明治に入ると、長吏頭は、「刀禰準格」に処せられます。「刀禰」というのは、村役人のことで、古代・中世・近世へと受け継がれていった警察機能のひとつです。土地の測量・地図の作成という専門技術を持った人々で、時代の政権の移り変わりにかかわらず、その職務を執行し続けることができた人々でした。いわば、明治以降の副村長といってもいい存在ですが、岩国藩の長吏頭は、それと同じ身分・待遇に置かれるのです。

明治4年の太政官布告のときには、旧長州藩にあっては、本藩・支藩とも、「穢多・非人」の組み替えが完了されていたとしますと、この『藩政一覧』の数字は、そのままでは使用することができなくなります。長州藩だけでなく、ひとつひとつの藩についても検証が必要になります。

山口県の被差別部落を訪ねて話を聞いていて思うのですが、農村部の被差別部落は別として、都市部の被差別部落は、「先祖の歴史」を知らないところが結構多いのです。「長吏頭」・「穢多頭」の名前を忘れてしまった、あるいは、知らない被差別部落が少なくないということです。

都市部の被差別部落の歴史というのは、『怒りの砂』の著者・村崎義正の文章をみてもわかるのですが、彼らの歴史というのは、明治以降の「賤民史観」の歴史学者が研究し、教育者によって普遍化された通俗的な部落史の内容と何ら違いはないのです。「賤民史観」がいう、「みじめで、哀れで、気の毒な」被差別部民の歴史をそのまま自分たちの歴史として信じきっているのです。

山口県の被差別部落は、二つに分かれます。

この『部落学序説(削除文書)』の中に触れている、「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」の古老のように、明治以降も、その在所を変えることなく、ずっと、現在に到るまで住み続け、子々孫々、自分たちの歴史を語り継ぎ、明治以降の部落差別の風雪に耐えて生き抜いている人がいる一方、先祖の歴史から、凧の糸がきれたように切り離され、歴史なき虚空をさまよい続けている人々もいるのです。

私は、徳山藩や岩国藩の史料をみながら、「もしかしたら、幕末から明治にかけて、穢多・非人と言われた人々はその在所から出ていったのかもしれない。そして、明治以降の司法・警察の行政の中に組み込まれていった・・・。しかし、ふるいにかけられて、在所に残された無役の人々と、あとで、経済的貧困とか、日清日露の戦争で破綻した武士や百姓の末裔が流れこんできて、近世幕藩体制下の穢多村の住人とは異なる人口構成に至った・・・」と推測せざるを得ないのです。

被差別部落の人々の証言に耳を傾けることで、近世幕藩体制下の「穢多」の語り伝えた伝承にたどりつくことができる場合もある一方、どんなに被差別部落の人々の語る言葉に耳を傾けてもそこから何も得ることもできない場合も多々あるのです。

山口県の部落解放運動の担い手のかなりな部分が、長州藩の「穢多・非人」の末裔によって担われているのではなくて、山口県に出稼ぎにやってきた九州地方出身の被差別部落の人々によって担われているのです。彼らが語る被差別部落の歴史は、最初から、長州藩の「穢多・非人」の歴史から切れていて、その歴史の継承は何もなく、「みじめで、哀れで、気の毒な」「賤民史観」の歴史そのものの焼き直しである場合も多々あるのです。

岩国藩は、「穢多・非人」を「郷士」として報告しています。郷士階級は、長州藩だけでなく、薩摩藩にも土佐藩にもいます。「穢多・非人」と「郷士」階級を峻別しなければならないとすると、ことはやっかいです。

『新民世界』の著者・中江兆民は、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして・・・昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」、「余輩旧穢多」、「余は・・・旧穢多の一肉塊にして、すなわち新平民の一人物なり」と語ります。下級武士の兆民が、「穢多」を名乗って書いた文章であるというのが通説ですが、兆民の中には、「穢多・非人」と「郷士」の判然としない部分があったのではないかと私は思うのです。兆民の言葉は、もしかしたら、士族の側からの穢多身分の救済の提言ではなく、彼の本心から出た言葉ではなかったのかと・・・。後代の「賤民史観」の歴史学者の方針に従って、「士」は限りなく「貴」へと、「穢多・非人」は限りなく「賤」へと追いやられた結果、兆民の『新民世界』は穢多を名のった偽作として評価されるに至ったのではないかと思います。

筆者は、同じ「非常・民」に属する兆民の「熱い思い」を否定すべきではないと思います。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」に属していた人々の中には、兆民と同じような発言をする人が少なからず存在します。

師岡佑行は《宮武外骨と「穢多」の語》(『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社))の中で、「私は外骨の部落への関心の原点がほかでもなくみづから自任する「旋毛曲がり」にあったと思う。」といいます。

しかし、私は、宮武外骨は、「旋毛曲がり」ではなく、もっと、本質的な提言をしているように思います。

外骨は、被差別部落民を表現するのに「穢多」を多用したといわれます。師岡は、宮武は、「特別視をそのままにしめす特殊部落という言葉よりも旧来の穢多の語のほうが適切だ」と考えたといいます。宮武は「庄屋様といふ役をも勤めた立派な農家」の出であったのですが、一方で、穢多に対する差別に異を唱えて「余の先祖は・・・穢多であるそうな」と、明らかに事実に反する宣言をするのです。

外骨の言葉に激怒した彼の親族たちは、自分たちが「百姓」の末裔であることを証明します。

しかし、それでも外骨は、「穢多の末裔」を説いてやまないのです。

宮武外骨は、近世幕藩体制下で同じ「非常・民」を勤めた「穢多」の末裔の、明治後半期における悲惨な姿を嘆いてこのようにいいます。「卑屈、辺境、猜疑、暴戻、軽薄、怠惰にして、自暴自棄の者、個人主義に陥る者、反省心なく向上心なき者が多い」。「穢多の穢多」たるゆえんと挑発的な言葉を連ねるのですが、私は、骸骨の言葉の中に、旧穢多に対して、「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察として、「非常・民」として、生き抜いてきた歴史を忘れるな、「隠すような量見ではダメだ。穢多は穢多であることを捨てるな」と力説しているように思うのです。

「村役人」の末裔として、「穢多」と共に、近世幕藩体制下の「非常・民」として共に闘い、当時の法を遵守して、社会の治安に勤めてきた、そういう自負心から、外骨は、明治以降の司法・警察のあり方について厳しく批判します。「外骨は権力者の犯罪を見て見ぬふりをし、庶民のささやかな罪をことさらに罰する司法界、なかでも検事にきびしい筆誅を加えた」といいます。

「村役人」や「穢多」の末裔の中で静かに進行する記憶の喪失、そして、国策によっていやがうえにも押し寄せる「賤民史観」の波に抗いながら、歴史の真実を手繰りよせようとする宮武外骨の生きざまは凄まじいものがあります。

「非常」の時は、「村役人」と「穢多」は、連携してことにあたっていたのです。

明治後半期に、宮武外骨と同じように、庄屋・村役人の末裔として、同じ「非常・民」の立場から、「穢多」の歴史の真実を伝えようとした人に、小説家の島崎藤村がいます。島崎藤村は、『破戒』を書く前に、旧穢多村の長吏頭の家を訪ねて聞き取り調査をしています。島崎藤村は、小説の主人公に、「春駒」の末裔ではなく、「長吏頭」の末裔をとりあげたのです。『破戒』の主人公・丑松は、近世幕藩体制下の「長吏頭」の末裔として登場してくるのです。島崎藤村は、同じ「非常・民」の末裔として、外骨と同じように、「穢多」に親近感を持って、当時の「穢多」が差別的状況に置かれていることに異を称えたのです。藤村は、丑松の中に、自分の精神(こどもの頃の思い出)を感情移入します。『若菜集』の詩の言葉を丑松の語る言葉の中に散りばめます。

島崎藤村は、水平社から不幸な糾弾を受けます。

当時の水平社は、旧穢多と、明治以降「賤民」化した武士や百姓の末裔によって構成されていました。その時代にあって、すでに、穢多の歴史は、穢多自身によって忘却のかなたに追いやられようとしていたのでしょう。島崎藤村の真意を解する人はほとんどいませんでした。

藤村は、「非常・民」に関する思いを持ち続けます。

明治4年に、「非常・民」の役を奪われたのは、「穢多」たちだけではありませんでした。近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」は、与力・同心をはじめ、明治4年4月には、「名主庄屋等の称が廃止」(古島敏雄『地方史研究法』)され、庄屋等、幕藩体制下の「村役人」の役務から解放されます。

多くの庄屋は、穢多と同様、没落の道をたどりました。

島崎藤村は、明治という時代が、旧幕藩体制下の多くの人々を切り捨てることで成立していった過程、その苦悩と葛藤を自然主義という文學手法で表現していきました。藤村は、水平社から理不尽な抗議を受け、この問題から遠ざかったように見えますが、決して、そうではありませんでした。藤村は、晩年、『夜明け前』という大作を書きます。本陣庄屋・青山半蔵を主人公に、幕末から明治を生き、希望と失望に揺れ動き、失意の中を去っていった、村役人としての「非常・民」の生きざまを記すのです。

『破戒』から『夜明け前』まで、藤村は、一貫して、小説家を志した初志を貫徹していきます。

明治初年の『藩政一覧』は、近代日本最初の国政調査として、数字の羅列のように思われますが、その背後には、歴史学者がまだまだ解明していない大きな謎がいくつも横たわっているように思われます。

筆者は、この『藩政一覧』から多くの示唆を受けるのですが、この『藩政一覧』の詳細な研究がいままで出てこないのは、そのためには、背後にある諸藩の膨大な史料の検証が伴うためでしょう。しかも、明治維新の立役者として、「官軍」の雄として勝利をおさめた側の「恣意」が見え隠れするところでは、この『藩政一覧』を史料として取り扱うときの難しさが更に倍加します。

筆者は、『藩政一覧』を横目でみながら、これまでの部落史の研究者の残した論文を参考にして、「穢多とは誰か」というテーマを考察せざるを得ません。「賤民史観」に彩られた世界から、歴史の事実を抽出する作業をせざるを得ません。

近世幕藩体制下の各種史料や『藩政一覧』に取り上げられた数字を見て思うのですが、「非常・民」である穢多は、最後のひとりまで数えられているということです。「茶筅29人・非人261人・穢多10,380人」という数字は、藩権力は、近世司法・警察官である「穢多・非人」を最後のひとりまで数え上げているのです。

「穢多」の外延とは何か。

この数字に出てくるひとりひとりの「穢多・非人」をおいて他にはありません。それぞれの資料が物語る穢多の数は、「穢多」概念の「外延」そのものなのですが、当時、周知の事実であった「穢多」の外延は、今日では具体的に把握することができなくなっています。

しかし、壬申戸籍では、明治の身分制度の中で、「平民」とされている人々も、「社寺籍簿」の部分を見れば、近世の「穢多」身分であるかどうかが判別できます。被差別部落の中の寺、被差別部落の中の神社に所属する旨、記載されているからです。

幕末から壬申戸籍が作られる明治5年(1882年)までの間に、「穢多・非人」身分は、大きく再編成された可能性があります。

山口県の被差別部落には、ある伝承が伝えられています。
それは、白馬に関する夢です。被差別部落の人々は、あるとき、夢をみるのです。白馬にまたがった人から、「村(穢多村)を出て行きなさい」と語りかけられる夢を。白馬にまたがる人、それは、軍服を身にまとって白馬にまたがる明治天皇の姿ではないかと思うのです。

明治4年の太政官布告の本当の意味は、ある人々には最初から知らされていたのかもしれません。明治政府は、「優秀な人材」として、近世幕藩体制下の司法・警察官である「穢多」を、司法・検察・警察へ、組み込んで行ったと思われます。

自民党の元幹事長の野中広務の姿を見ていると、厳格な警察官、『部落学序説』でいう、近世幕藩体制下の「非常・民」の風格と言動を備えています。野中広務は、「特殊部落民」の末裔ではなく、近世の「穢多」の末裔ではないかと思います。

華族・士族の血を引く国会議員からは、「被差別部落出身者の野中は総理に相応しくない」というようなことを言われたそうですが、日本の将来のために身をささげるのに、華族・士族の末裔であるかどうかは何ら関係がありません。むしろ、華族・士族出身の政治家によって、日本の政治はいつも汚職と不正の温床になってきたのではないでしょうか。野中の律儀さと筋を通すところは、私は好きです。彼が日本の総理になることは大賛成です(被差別部落の本当の歴史を忘れ、ただ、同和対策事業に群がっていった「金」の亡者でしかない部落民が日本の総理になることは絶対反対ですが・・・)。

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「かわた」と「穢多」は同一概念

【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項】穢多とは誰か 4. 「かわた」と「穢多」は同一概念



「穢多」という概念を説明するためには、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等を明らかにする必要があります。

この場合、最初の「穢多」を「上位概念」または「類」(genus)といい、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・等を「 下位概念」または「種」(species)と言います。ある種(下位概念としての「穢多」)を同じ類(上位概念としての「穢多」)に属する他の種(「茶筅」・「宮番」・・・) から区別する特徴を種差(specific differece)といいます(近藤・好並共著『論理学概論』参照)。

この「種」「差」を明らかにすることは、古代ギリシャの時代から、学問的な分類作業をするときの基本的な作業に あたります。

『部落学序説』においては、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の、各藩における具体的な存在形式である「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・の違い(「差」)をあきらかにしなければなりません。その上で、違い(「差」)のある、「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・の相互の関係性を明らかにしなければなりません。

しかし、部落史において、諸藩のそのような概念を、「種」「差」の論理で整理することが実際可能なのでしょうか。

それが、長州藩なら長州藩という限定された範囲なら、「穢多の類」に属する「穢多」・「茶筅」・「非人」等の「差」を明らかにすることは決して難しいわけではありません。

それというのも、近世幕藩体制下にあっては、「法」そのものは、幕府によって定められた各種「法度」に従わなければなりませんでした。もし、幕府の定めた「法度」に違背すると、恐らくその藩は廃藩とされ、藩主は御家断絶の憂き目にあうことは避けられなかったでしょう。幕府の定めた各種の「法度」は、すべての藩において守られることが強制されました。

しかし、「法度」の各種逸脱に対して違背処理を行うときには、各藩に絶対的な権限が与えられました。これを、近世幕藩体制下の「治外法権」といいます。

その一例が、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯江戸時代庶民生活の実像』(中公新書)に出てきます。

享保11年、金十郎が仕えていた守山藩で治外法権にまつわる事件が発生します。それは、二本松藩の追手によって、「密通を犯したうえ放火までして逃走してきた」犯人が、守山藩領内で捕らえられ、守山藩領外へ連れ去られるという事件が発生したのですが、そのとき、二本松藩が「守山藩の主権を侵害した」のではないかという疑念がかけられたのです。

阿部の説明では、①二本松藩の追手による犯罪者の探索活動は主権侵害にはあたらない、②二本松藩の追手が、他国の守山藩領内で、犯罪者に「縄をかけ、手錠をはめた」行為、逮捕権の行使があった場合は、守山藩の主権侵害になるというのです。

近世幕藩体制下の各藩は、その領域内においては、司法・警察の絶対的な権力が保障されていたのです。ただ、いくつかの例外があります。それは、切支丹が摘発された場合の違背処理は、諸藩が単独で実施することはできませんでした。必ず、幕府に報告して、幕府の裁可を仰がなければなりませんでしたが、幕府が特例と定める重罪以外の捕亡は、各藩の裁量に任されていました。

つまり、近世幕藩体制下の諸藩は、幕府が定めた「法度」を遵守さえしていれば、それを具現化するために、どのような司法・警察機構を作るのも自由であったからです。司法・警察にどのような名称をつけるか、司法・警察をどのように配置するか・・・、それは、諸藩の自由に任せられていました。

幕府が定めた「治外法権」によって、日本全国の藩は、それぞれ固有の司法・警察機構を持つに至ったのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」の役務に対する「反対給付」(家職)もまた、各藩の自由裁量に任されていました。

長州藩の「穢多の類」に属する「穢多」・「茶筅」・「宮番」・・・を、例えば、長州をとりまく東西南北の隣の藩と比較するとすぐにわかるのですが、その構造には何の共通性もないのです。

藤本清二郎によると、広島藩には、「穢多」及び「屠者」と呼ばれた「非常・民」がいたそうですが、それらは、別名、「かわた」と呼ばれていました。

藤本は、「かわた」(革田)の役務は、「藩から賦課された公役」「村(町)方から委託された業務=村役」とに、「なお判然としないものもあるが一応分けられる」といいます。「かわた」の役務は、「牢番・行刑・警固・掃除・夜廻り・死体処理・火葬・死牛馬処理等」、また、「犯人逮捕・吟味(拷問)・刑執行や護送・付添・警固番及び死体の処理」など、「司法・警察の全過程に関与」していたと言われます。

広島藩の「かわた」は、長州藩本藩よりも、徳山藩の「穢多」に類似しています。

広島藩の「かわた」は、上位概念としての「穢多」とほぼ同じです。広島藩内の町人・百姓の間では、「かわた」という概念が一般的に流布していたのでしょう。公式用語が「穢多」であったとしても、日常生活の中では、「穢多」という新しい用語より、「かわた」という古い用語が使い続けられたのでしょう。

しかし、藤本は、「19世紀に入って、幕府の巡検視が領内を通行する際に、かわた小屋に「目印之茶筅」をおかせたり、「かわた家」と貼り紙をさせた」といいます。広島藩の「かわた」は、幕府の巡検視の前では、彼らの監査がし易いように、「形式」を繕わせたのです。

一時、山口県の同和教育の担当者の間でもてはやされた『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄は、その書において、「近世という特定の時代の被差別身分である「えた」を示す場合には「かわた」と言うことにします。」といいます。更に、「近世には、「えた」身分の人びとは、みずからを「えた」と言うことはなく、西日本では「かわた」、東日本では、「長吏」と言いました。」といいます。

渡辺は、「「えた」という公称が「穢れ多い」と書き、いかにも差別的なニュアンスを含んでおり、教育や啓発の場面では避けたいという思いから・・・」、「えた」の代わりに「かわた」を使用するといいます。

しかし、渡辺の「えた」呼称の「かわた」呼称への読み替えは、最初から限界を持っていることは渡辺自身が証言しています。「私たちがいま抱いている部落についてのイメージの多くは、近世のかわた「身分」についての、しかも誤ったイメージを引きずっている場合が多い・・・」。

「えた」「かわた」に言い換えたところで、何の問題解決にもならないのです。

近世幕藩体制下の徳山藩と広島藩の「非常・民」を比較すれば、「えた」を「かわた」と言い換えていた世界がすでに存在していたことがわかります。

長州藩の「穢多」と広島藩の「かわた」は、幕末期において、極めて類似した所作をします。

藤本は、「第一次長幕戦争の際には、かわたは郡内の守りとして残されたが、第二次戦争ではかわたも郡方を離れ戦地に送られた。」といいます。

藤本は、「かわた」は、「盗賊召捕に用いた武技」である「体術」を評価されて、第二次戦争の前線で用いられたといいます。前線で課せられた任務は、前線で、「山狩り」・「見廻り」の際に、長州藩の兵を生け捕りにして、敵の情報を入手することであったと推測されます。「かわた兵」は、前線において、長州藩の「穢多兵」に直接対峙することになります。

「穢多」称に統一されていたか、「かわた」称に統一されていたかの違いだけで、「穢多」も「かわた」も何ら違いはありませんでした。

「穢多」概念の内包と外延、「かわた」概念の内包と外延、それが一致することを考慮するとき、「穢多」=「かわた」という図式が成り立ちます(同一(identical))概念といいます)。「穢多」と「かわた」はまったく別の言葉ですが、それらが指す具体的な存在は、同じ存在を指しているのです。ということは、「穢多」と「かわた」という言葉は、語源的な意味合いはつゆもなく、それらは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」を指す、単なる記号であると断定することができます。

従来の部落史研究のように、「穢多」や「かわた」の語源を探ることで、その本質を探し求めることはまったく無意味であることを示します。こういう言葉を、アドホック(adhoc)、「間に合わせの言葉」といいます。

長州藩の藩主は毛利でした。

毛利は、戦国時代の中国地方の覇者で、その領土は、最大10カ国と2カ国の一部に及びました。「安芸」・「周防」・「長門」・「備中」・「備後」・「因幡」・「伯耆」・「出雲」・「隠岐」・「石見」と「豊前」・「讃岐」の一部です。

山口県の枠を越えて、福岡県・愛媛県・島根県・広島県・岡山県・鳥取県に視野を拡大していくとき、近世幕藩体制下の「穢多」が何であったのかがはっきりしてきます。彼らは、今日の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が説く「みじめで、あわれで、気の毒な」「賤民」ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」であることがはっきりしてきます。「警察の手下」ではなく、「警察の本体」であることがはっきりしてきます。

「穢多」は、歴史の流れの中で「えた」という「音」(おん)だけが残った「衛手」(えた)のことなのです。「衛手」は音読みでは「えた」ですが、訓読みは「まもりて」(番人のこと)です。幕藩体制下の社会を「不法」(穢れ)から守ることをみずからの務めとした「穢多」たちは、自らの仕事に責任と誇りを持っていたにしろ、決して、卑下するような人々ではありませんでした。

長州藩の「高佐郷の詩」で、「穢多」が自らをうたう歌は、長州藩だけでなく、毛利10カ国すべての穢多の歌でもあるのです。

そのような穢多がなぜ、明治以降、差別されるようになったのか、そのメカニズムを『部落学序説』第4章「解放令」批判でとりあげますが、今しばらく、「穢多」とは誰か、その問いに対する答えを求める旅を続けましょう。

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「はちや」に関する考察

【第3章】穢多の定義
【第3節】穢多の外延
【第2項】穢多とは誰か 5. 「はちや」に関する考察



山口県の地方小都市に棲息するようになって二十数年が経過します。

その感想を求められれば、実に、山口県は実に不思議な場所であるということです。

私は、岡山県で生まれましたが、岡山は、「果物王国」と言われていました。「岡山で採れない果物はない。ひとつを のぞいては・・・」。そのひとつというのは、リンゴでした。岡山では、リンゴ以外ならなんでも採れる、小学生のとき、学校の教師からそう習いました。

山口県の宗教施設に赴任してまもなく、根本博『夜の旅』が送られてきました。

根本博は、戦前・戦後を通じて、外交官として活躍されてきた方で、1980年、「ジャカランダの花が紫に匂う盛夏のイスラマバアドの夕方」に急逝されました。『夜の旅』は、その遺稿集でした。

昔、一時期、根本博のご家族の方と知り合い、一度、食事に招かれたことがあります。

58年間の私のこれまでの生涯の間で出会って、食事を共にさせていただいた方の中で、最も「社会的身分」の高い家庭でした。頭と尻尾のついたトラの毛皮に座らせていただき、そのトラの毛皮の美しさと大きさに驚いたことは今もって忘れることができません。

根本博は、福島郡山出身。名門・安積中学、旧制第二高等学校、東京大学法学部を卒業後、1941年外務省に入り、戦前・戦後を通じて外交官を全うされた方です。

食事に招かれたとき、妻の実家を聞かれて、福島郡山出身で、安積女子高校を出たことを告げるととても喜んでくださって、御主人が、福島郡山出身であることを話してくださいました。

第一部 夜の旅
Ⅰ 戦時回想
Ⅱ 戦犯夜話
第二部 朝の唄
Ⅰ 手帳
Ⅱ ビルマ通信

「自分史」的なものは、ほとんど読まないのですが、この『夜の旅』だけはちがいます。

私の座右の銘で、今でも『夜の旅』を開く都度、不思議な感激につつまれています。「あらしの中の灯-大戦下のリスボン」という文章を読んでいると、第二次世界大戦下の暗闇の中で、中立国の首都リスボンの街のあかりについての文章は、平和の大切さと、戦争にまきこまれないことの大切さを感じざるを得ません。

その『夜の旅』の中に、「りんごとみかん」という文章が収録されています。根本博は、北の国の果物である「りんごを見ると、いつも西洋を感ずる」といい、南の国の果物である「みかん」を見ると「日本を感ずる」といいます。

妻の実家に最初に行ったとき、湖西線の駅をおりると、構内にりんごの木があって、たくさんのりんごの実がなっていたのにはびっくりしました。根本博は、「わたしにとって、日本のりんごは、世界のどの国のものよりもおいしい」といいます。

「信濃のりんご園や、りんごの花咲く津軽平野の美しさは、いまや日本の典型的な風景となっており、ギリシャの詩人でなくても、津軽の娘たちの燃えるほほは、まさに「りんごのように」美しい。りんごは全く日本のものとなった。

まだあげ初めし前髪の
りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君とおもひけり

に始まる藤村の「初恋」(若菜集、1897)は、明治の青春のみずみずしい情感を歌い上げて、忘れ難く美しいが、りんごとりんご畑は、この詩の抜き差しならぬ情景を構成している。」

島崎藤村が歌った信州の農村の姿は、近世の農村の姿ではなく、近代の新しい農村の姿であったようです。

根本博は、りんごとくらべて、みかんには、「常に痛ましい「愛と死の物語」がひそんでいるように見える」といいます。

紀元71年、田道間守は、垂仁天皇の命を受けて「かぐのこのみ」(みかん)を獲て帰国したとき「垂仁天皇はすでにこの世になく、彼は木の実を天皇の御陵に捧げて、悲嘆の涙にかきくれた後、天皇のあとを追って殉死したといわれる」。

「関東」の名前の由来ともなった出来事にでてくる「弟橘姫」(おとたちばなひめ)の悲しい話。「十五歳で叔父を斬って、「悪源太」の異名を得て」、短い生涯を終えた源義平の話。そして、あまり人に知られていない紀伊国屋文左衛門の「愛と死の物語」

材木問屋に丁稚としてつとめていた「紀文」は主人の娘が好きになり駆け落ちするが、むりやり引き裂かれます。娘は、胸を病み、死期の近づくにつれてひとめ文左衛門に会いたいと父親に訴えます。不憫に思った父親は江戸に使いをだし、文左衛門を呼び寄せます。そしてその娘は、彼の腕に抱かれて、ひとこと「うれしい」とささやいて息を引き取るという話です。恋と希望を失った文左衛門は、「死んでもよい」と思って、当時の江戸の町民が待ちに待ったみかんの輸送をはじめるのです。「これが、かの歴史的な「あれは紀の国みかん船」の動機であったという」のです。

文左衛門は、やがて大金持ちとなり「紀文大尽」と呼ばれるほどの、放蕩三昧の生活を送ったといわれますが、「常におうおうとしてたのしまなかった」といいます。

根本博は、「晩年零落して、享保19年淋しく死ぬが、彼の脳裏には生涯の間、若き日のいのちをかけた恋人のおもかげが去来していたのかも知れない」といいます。近世幕藩体制下の身分制度の枠組みの中で、押しつぶされた若い二人のすさまじい生きざまです。

日本歴史学の差別思想である「賤民史観」は、「愚民論」的立場から、「穢多・非人」だけでなく「民衆」(百姓)に対しても、ことさら低く貶めて描写します。

しかし、歴史の事実はまったく逆で、「民衆」(百姓)の中には、そのような封建的幻想に抗い、「天理、人事」を全うしようとした人は少なくないのです。

『勧農教訓録』に、「人ハ人ニシテ、人ト云字ニハ別ツハナカルベシ。最モ貴賤上下ノ差別有リトイエドモ、是政道ノ道具ニシテ、天下ヲタイラカニ成シメンガ為ナルベシ」とあります。安丸良夫《民衆運動の思想》(『民衆運動の思想』(岩波・日本思想大系))は、「ここでは、人間の尊厳さと根源的な平等性」の主張があるといいます。そして、民衆(百姓)側の理解は、「身分制度は「道具」であり、二次的なものに過ぎないのである」と主張します。

民衆(百姓)は、「不正・悪徳・非情・奸智」に毒された藩の役人や商人に対して、「狐」「犬」「猿」「悪狼」「盗人」・・・と批判を展開し、一揆を起こしたといいます。

少し脱線しましたが、山口県には、北の国のりんごと南の国のみかん、その両方の産地があるのです。りんごは戦後、満州開拓移民団が帰国して栽培をはじめたといわれますが、筆者が住んでいる瀬戸内海沿岸側からまっすぐ北に車を走らせると2時間少々で日本海側に出ます。ホルンフェルスのある須佐の海にでます。

山口県は、北の国と南の国の果物が同時にとれる県なのです。

山口県北にいくと、アイヌ語起源の地名がいくつもあります。「阿武」というのは、アイヌ語で「美しい山」という意味であると、ある市で行われた社会同和教育の講師が話していました。

山口県は、「明治維新」のときは、長州藩の「士農工商」が一丸となって、倒幕に動いたと言われますが、筆者は、「一丸」となったというのは、幻想ではないかと思っています。山口県の精神風土は、決してそうではなくて、「一丸」となることができない多様さを内包しているのです。異質なものが雑居しているようなところがあります。

会津白虎隊の碑は、会津城下にあります。

長州藩が、会津戦争のときにとった占領政策の残忍さは目にあまるものがあります。会津藩領の百姓の末裔である私の妻は、その悲惨さを文章でよむと、目を真っ赤にして、「長州は酷い」と号泣します。

ある市で開催された社会同和教育で、山口市教育委員会の某講師は、「現在でも、偏見は到るところにあります。」といって、偏見の具体例を紹介されました。それは、このようなものでした。

その講師が、教育委員会の仕事で、福島県会津に行ったときの話です。
寒い冬の日、朝早く、ある家が雨戸をあけると、「他の家に先を越されては体裁が悪い」と思う会津の人は、たくさんの雪が降っているにもかかわらず、次から次へと雨戸をあけます。会津の朝は、雨戸をあけるガラガラ、ガラガラという音で始まります・・・。

私は、このまま黙って帰ったら、妻に叱られると思って、講演のあと質疑応答の時間に抗議しました。

偏見の例として、会津の話をされましたが、雪国・会津では、どれだけ雪が積もるのか知っているのですか。あなたの作り話で、同和問題の研修会に参加した人達は、みんな笑っているではありませんか。反論もできない人々のことを話題にして、物笑いのたねにするのは、おかしいのではありませんか。差別や偏見をとりのぞく集会で、偏見をふりまいているのはおかしいのではありませんか。同和教育は、部落差別だけを取り除こうというのではなく、すべての差別を取り除くことに主眼があるのではありませんか・・・。

講師は、社会同和教育に参加した人の気を引こうとして作った作り話であることを認め、このように言われました。「ここに、会津の関係者がいることは知りませんでした。本当にすみませんでした。」

しばらくして、萩市と会津若松市の和解のことが報じられました。

「長州藩」側の新聞記事では、「会津」は未だに昔のことを根に持って握手しなかったそうだ・・・。会津市長が、握手の手をさしださなかったのは正解です。交渉にあたったのは、山口県立文書館の研究員で、長州藩の末裔ではありません。「会津」と和解することに、山口県側は、「長州藩」の末裔から反対されても、きちんと抜け道を用意していたのです。どこまで、「和解」の意図があるのか、会津藩の百姓の末裔である妻と一緒に、「長州藩」側の意図を図りかねてしまいました。

それでも、山口県に棲息して二十数年を越えるのは、ひとつには、教団の執行部によって、「同和問題に関連して、教団の方針に従わないという理由で排除・疎外され、人事面で不利益を被っていること」と、もうひとつは、山口県の不思議さによります。

山口県は、いろいろな立場の人が雑居している場所です。

北の国のりんごと南の国のみかんの産地が、車ではしると南北2時間の時間距離の間に共存するという事実、自民党と共産党、解放同盟と全解連、天皇制支持者と反対者、保守と革新が微妙に入り混じって複雑な人間模様を形成しているからです。山口県人は、「本音と建前」を上手に使い分けていますが、使い分けている本人も、「本音」なのか「建前」なのか、分からなくなっている場合が多々あります。私たち夫婦は、山口県に棲息して二十数年、強引に「本音と建前」をひとつにして「ならぬものはならぬ」精神を生き抜いているのです。

二十数年前の赴任してきた年の夏、ある人が、ビール樽を持ってきました。

一緒に飲もうというのです。そのとき既にできあがっていて、「私はお酒は飲めないのです。アレルギーですから・・・」とお断りしたのですが、ずかずかと礼拝堂に入ってきて腰をおろして飲みはじめます。そして、いうのです。「あんたたちはどこから来たのか」。

私は岡山県倉敷市出身、妻は福島県郡山出身ですと答えると、彼は突然、「備中と会津!長州の敵国から来たのか。」と声をあらげて、「夫婦そろって、何を調べにきたのか」とにらみつけるのです。

さんざん、備中と会津をバカにしたあげく、「ちょっと用を足しにくる」といって、玄関に行きました。熱い夏の日のことですから、玄関のドアはあけっぱなしにしていました。するとそのおじさん、くるりと身を返して、礼拝堂正面に向かって小便をしようとします。「おじさん、そんなところですると罰があたるよ」といった瞬間、おじさんのズボンはびしょびしょになっていました。彼は、それにも気づかなくて、礼拝堂の床に座って、備中と会津の悪口を言い続けました。彼が帰ったあと、床の雑巾がけをしながら、何か、故郷を遠く離れて、異国の地にやってきたような気がしました。

そして、私も妻も、異国の地になじめないまま、20数年をこの地で過ごしてしまいました。

このブログを書くとき、「長州藩」の末裔からの反論を期待していましたが、現在のところ何もありません。ブログ上で論文を書く作業に疲れると、民謡「会津磐梯山」を聞きます。1日十数回は聞いていますか・・・。

現在住んでいる瀬戸内側は、文字通り瀬戸内側・・・。しかし、車で2時間少々北上すると、そこは雪国・北の国です。山口県側から日本海側を北上すると島根県・鳥取県・・・へ続いています。山口県南と県北は、気候も自然も、人情も民俗も大きくことなりますが、それに比べて、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」、「穢多・非人」にはそんなに大きな違いはありません。

島根県・鳥取県には、「鉢屋」がいます。

『部落学序説』の立場からこの「鉢屋」を捉えると、通説とは大きく異なります。民俗学者の柳田国男は「はち屋」「はち」という言葉は、「邑落の境」のことであるといいます。「しゅく」という言葉も「地境を意味する」といいます(柳田国男《いわゆる特殊部落の種類》)。島根県においては「はちや」は、長州藩の上位概念・包括概念としての「穢多」と同義語です。長州藩では、「はちや寺」「穢多寺」のことです。鳥取県では、「はちや」は、下位概念の「茶筅」のことです。島根県の「はちや」は、「郡廻り鉢屋」と「村廻り鉢屋」に分かれますが、それは、長州藩の「穢多」と「茶筅」・「宮番」に該当します。

要するに、「穢多」・「皮田」・「鉢屋」は、言葉こそ別な言葉ですが、いずれも、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」を指して用いられているのです。「穢多」・「皮田」・「鉢屋」は、「非常・民」を指すアドホック(間に合わせの言葉)の意味合いしかないのです。漢字の持っている「意味」を恣意的に解釈して、「穢多」・「皮田」・「鉢屋」・・・を、解釈不能な、「魑魅魍魎」の「棟梁跋扈」する世界に追いやるのはよしましょう。そこからは、部落差別完全解消に向けて、生産的な意味合いは出てきません。部落史の研究者や教育者は、問題を複雑にして、それを楽しんでいる傾向がありますが、歴史学者としてあるまじき姿勢ではないかと思います。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」は、「賤民」の中に、更に、階級差別を読み込んで、「雑種賤民」をしたてあげていきました。「穢多」を「賤民」として、「茶筅」・「宮番」・「鉢屋」・「シュク」を「雑種賤民」として、「最下層の賤民」の下に、更に「最下層の賤民」をしたてあげていきました。

被差別部落の人々の最大の不幸は、わらをもつかむ思いですがった部落史の研究者や教育者が、「賤民史観」という最大の差別思想の持ち主だったことです。

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