2005.09.02

筆者・吉田向学と部落差別

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第4項】穢多の役務と家職 1.吉田向学と部落差別



現在筆者が所属している宗教教団の山口県の施設に赴任して二十数年が経過しますが、当時、教団が部落差別事件を引 き起こしたということで、部落解放同盟という運動団体から糾弾を受けたことがあります。教団は、全国の教区に、同和問題の委員会を作って、教団内部に向けて啓発活動をすることになりました。

山口県に赴任して早々、先輩の宗教教師たちは委員になることを嫌ったため、赴任したばかりの私にその委員が命じられたわけです。私が配属された施設には、当時地方公務員の方が多く、私が、その委員を引き受けることに反対はしなかったのです。むしろ、公務員としての「建前」から、「この問題は避けて通ることができない」ということでした。

私にとって、部落問題は、まったく縁遠い問題でした。

観念的には、いろいろな雑知識は持っていましたが、部落差別問題の取り組みの必要性を説く、教団の同和問題担当部門の「先達」を見ていると、差別事象を分析して、他者をするどく批判する姿勢を見てただ驚くばかりでした。彼らは、私に、具体的な取り組みをすることを要求しました。「具体的な取り組み」というのは何なのか、尋ねると、「被差別部落に入って行って活動することだ、お前は、そんなことも分からないのか」と部落差別問題の認識のあまさについて怒りを買う始末でした。

それでも、2期8年同和問題の担当委員をしていると、山口県の被差別部落の方々との出会いが生まれます。被差別部落の中の隣保館で開かれる「学習会」に参加するようになって、被差別部落の老若男女の方々から、いろいろな被差別の体験を聞く機会も与えられました。ときどき、山口県教育委員会を相手にした糾弾会に陪席することもありました。

糾弾会の場においては、私は、被差別部落の側の末席に座っていたのですが、山口県の同和問題の担当部門の方々の姿勢は、至って、低姿勢でした。被差別部落の側からの厳しい追求に、県の同和問題の担当部門の方々は、できる限り、丁寧に対応しているように見えました。

あるとき、私が所属している教団が、ある問題で、山口県と交渉するということがありました。

そのとき、私は、教団側の席に座っていたのですが、そのときの山口県の担当者は、どちらかいうとふんぞりかえって、とても横柄な姿勢でした。陳情している私が所属している教団の信者からの訴えに馬耳東風を決め込んでいるようでした。

私は、そのときの、山口県のひとりの担当者の顔をじっとみつめていました。

初対面のはずなのにどこかで会ったことがあるような気がしたからです。私の視線に気がついた担当者の方も、私と同じように気づいたのか、同時に、あっと声をあげました。

彼は、部落解放同盟の糾弾会で、これ以上低姿勢はないと思われるような低姿勢で対応していた山口県側の窓口になっていた人でした。交渉の相手が誰であるのかを見て、こんなに対応が違うものか、と驚きの思いを持ちました。彼は、すぐに、横柄な姿勢をあらためて、椅子に深く腰を下ろして、交渉相手に対して丁寧な姿勢をとりました。

その余韻がさめやらないある日、私の所属する教団・教区の「先輩」教師から、きついお叱りを受けました。彼は、「即刻、部落問題の取り組みを止めろ」というのです。理由は、私の想像を絶するものでした。「お前に同和問題の担当をまかせておけば、何もしないだろう、なにもできないだろうということで、担当委員にしたのに、なぜ、具体的な取り組みをしているのか。即刻、被差別部落に出入りをするのは止めろ。糾弾会に参加するのは止めろ」というのです。

日本共産党との関係が強い彼は、社会党系の部落解放同盟と接点を持ちはじめた私に激怒したのです。それからというもの、いろいろな場面で、彼は、私を疎外・排除しはじめました。それは、徹底したものでした。

私は、分区の教師会から離脱しました。

私は、その時から、日本共産党が大嫌いになりました。

理由は、彼らは、権力者と同じ体質、否、それ以上に恐るべき権力指向を持っているからです。自分たちのイデオロギーに抵触する人物は、徹底的に排除してやまない体質を持っているからです。しかも、正義を振りかざして・・・。

彼は、いうのです。「人の嫌がる問題に首を突っ込み、その歴史を調べるなどというのは、お前の人格に歪みがある証拠だ。人間性に問題がある」と口調を強めます。彼は、ありとあらゆる手段を使って、私を排除しようとしました。

しかし、そのときには、被差別部落の人々との人間関係が多少なりともできていましたし、私が所属している宗教教団・教区の「信用」という点からも、部落差別問題との取り組みを止めることはできませんでした。私が関わったからといって、山口県の部落解放運動や同和教育に、いかなる貢献もできないことは十分知っていたのですが、私は、日本共産党シンパの上司から「激怒」されたということで、手の平を返すように、部落差別問題から撤退することはできませんでした。

それに、山口県北部にある、ある寒村の古老から聞いた話は、私にとっては、極めて衝撃的で、「賤民史観」と「愚民論」に色濃く染め抜かれた「唯物史観」に基づく、「部落史」とは、まったく別な調べをそのうちに持っていました。

私は、彼をはじめとする、日本共産党支持の宗教教師からの嫌がらせを甘んじて受けながら、この『部落学序説』・『部落学』構築の日々を歩みはじめたのです。「執行部」によって排除されるということは、公務員である学校の教師と違って、宗教「教師としての身分」が保証されていないため、直接、経済的に深刻な状況に追い込まれます。

税務署に確定申告にいくと、税務署の職員は、同じ教団に属する、同年代の宗教教師の確定申告書を横目で見ながら、「宗教教団というのは、平等を指向しているのではないのですか。同じ教団に属していながら、こんなに報酬に格差があるのは信じられない。税務署の立場からいうと、あなたに対する課税は、他の教師に対する課税と同じ額にせざるを得ない」といいます。そのときは、その税務署の担当者と大喧嘩になってしまいました・・・。

『部落学序説』は、決して、「有閑階級」である宗教者の戯言ではありません。

私は、被差別部落出身者ではないけれども、少なくとも、自分の人生の何分の一かは、様々な敵意と憎しみにさらされながら、「国民的課題」としての「部落差別完全解消」のために尽力してきたと自負しています。

被差別部落の当事者でも、様々な立場の政党活動家や運動家でもない分、イデオロギーや運動方針とは何の関係もないところで、ただ、徳山市立図書館の郷土史料室の資料や、生活を切り詰めて購入した岩波書店の『日本近代思想大系』等の資料集によって、実証主義的な分析と総合の指向錯誤を繰り返してきたのです。

いわば、『部落学序説』は、筆者の「独白」なのです。

今までは、地道な方法で文献の収集と解析を進めてきたのですが、ブログというものに出会って、私は、驚喜しました。ブログ上で『部落学序説』を公開すれば、一人でも二人でも賛同者が生まれるかも知れない、その人たちが、実証主義的な立場から部落史を見直し、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」を取り除いてくれたら、日本はもっと「差別・被差別」から自由になって住みやすい社会になるに違いないと思ったのです。

同じ教団に属する宗教教師は、「誰も読まないブログを、いつまで書いているのか。」と云いますが、最初から「独白」ではじめた研究・・・、最後まで「独白」で終わろうと、この『部落学序説』は最後まで書き続けることにしています。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「あらゆる歴史が階級闘争の歴史であるという歴史研究の方法を部落史について適用することを拒否する」と宣言します。彼は、「支配権力の側の資料」だけでなく、「部落に伝えられた史料」を実証史学の立場から評価します。そして「史料の解釈の客観性」を説いて、「史料にこめられた思想的意味を、その史料の一言一句について厳格に考証するという立場に立つ」と宣言します。

「唯物史観」も、「賤民史観」や「愚民論」に色濃く染め抜かれています。その歴史学者が自覚しえないほど、「賤民史観」や「愚民論」は、その研究者の臓腑にしみこんでいます。それは、彼らが、「反権力」の装いを取りながら、実は、「権力」そのものを指向していることを示しています。

部落差別は、歴史上のひとつの「結果」です。

『民俗学の方法』の著者・井之口章次は、このようにいいます。「原因のわからない現象は無数にあるが、原因のない結果があろうとは考えられない。わからないということは、そこにまだ、われわれの知らない知識がかくされているということである。われわれの身辺には、わからないことが無数にあって、それを少しずつ解きほぐしていくと、過去の生活が大写しにあらわれてくるのである。しかも、その原因は、すべて現在以前の、過去に求め得べきものである。過去があって、はじめて現在があるというのは、あたえまえの話であるが、文化科学の領域では、常に忘れることのできない前提である。」

明治4年の太政官布告(「賤民史観」がいう「賤民解放令」・「身分解放令」)は、明治4年以降の歴史学者や研究者・教育者の論文や資料に基づいて判断されるのではなく、明治4年以前の史料や資料に基づいて解明されなければならないのです。部落史の解釈に際しても、「解釈学」の基本原則、「読み込み」ではなく「読み出し」が徹底されなければならないのです。「読み込み」は、「賤民史観」に立つ研究者や教育者が、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別部落像を歴史の個々の史料の中に読み込んでいく所作を指します。「読み出し」は、歴史研究の前提を批判検証しつつ、史料の語ることを語らせていく所作を指します。

『地方史研究法』の古島敏雄は、日本史学は、長い間、「明治以降は卒業論文のテーマとすることを許されなかった」といいます。「何故、何の時代につき、何を問題とするか」という「問題意識」よりも、「史料についての知識や、それを取り扱う技術の方が重んじられてきたといいます。今日においても、部落史研究においては、研究方法や論文作成の作法・技術のみ重んじられて、その研究の結果、どれだけ歴史の真実にたどりつけたかということは問われないと言われます。部落史については、現在の高等教育の成果である、修士論文・博士論文は、研究方法や論文作成の作法・技術はともかく、「何故、何の時代につき、何を問題とするか」という「問題意識」については、修士論文や博士論文に値しないものが多いと思うのですが・・・。修士論文は、通説の部分的修正、博士論文は、通説の否定と学問的視野を開く新説が必須であると思うのですが、学歴も資格もない筆者の思い過ごしかも知れません。

古島はいいます。
「新しい問題意識は歴史研究者が過去の研究方法を技術的に踏襲している中では容易に出てこない。旧来の方法を踏襲して、未研究の地域や時代の、同様な実証的研究を積み重ねることによって、内発的な展開を求めることを繰り返しても、そのような事例追加は、各時代の様相の具体的内容を豐富にはしても、新しい問題への転化・発展は困難であり、研究の行きづまりを意識させることも少ない。むしろ新しい世代の意欲的な研究に眼を背かせる結果になることが多い」。

部落史研究についてもあてはまることであると思います。

しかし、こころある歴史学者や研究者、教育者は、実証主義の立場から、貴重な研究成果を積み重ねてきています。学歴も資格も持ち合わせていない、ただの人である筆者は、それらを集めて、比較検証して、「総合」作業の上に、『部落学序説』という題目の下に、「総合」を試みているのです。

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武士と穢多の同質性

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第4項】穢多の役務と家職 2.武士と穢多の同質性



『部落学序説』では、「穢多」を「非常・民」として定義してきました。これは、「穢多」の役務と家職について考察するとき、同じ「非常・民」である「武士」の役務と家職を同じ類型で考察できる可能性を開きます。

藩士は、藩主に命を賭して仕える代償として、藩主から「領地」(知行地)を与えられます。磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』によると、藩士にとって、知行地は実体のあるものではないといいます。

「その土地に住むわけでもなければ、見学にいくわけでもない。・・・武士は知行の保有にこだわりながら、自分の知行地を一度も見ることなく死ぬ場合が珍しくなかった」といいます。「武士は城下に屋敷を拝領し、そこに常駐することが義務づけられ、許可なく農村に立ち入るわけにはいかなかった・・・」そうです。城下の武士は、「城下町のなかに監禁された状態」で、城下を少しでも出ようものなら、「目付が厳しく咎める」藩もあったそうです。

「幕末の水戸藩の下級武士の家に生まれ育った母・千世の思い出をもとに、武士の家庭と女性の日常の暮らしをいきいきと描き出した庶民生活誌」(文・芳賀徹)である山川菊栄著・『武家の女性』の中にもこのような記録があります。山川菊枝は、民俗学者の柳田門下のひとりですが、女性の目から見た「武士」の世界は面白いものがあります。

山川はこのようにいいます。中世にあっては、「武士は、土着の地主で、農業と農民を基礎にして軍事的活動に従事したもので、つまり兵農を兼ねていたのですが、武士が土と絶縁して城下町に住み、一定の俸祿によって生活する江戸時代になると、現代の俸給生活者と類似のものになってきました。・・・夫婦に子供きりの下級武士の単純な小さな家庭には、今日の都会の俸給生活者の家庭と大差のないものが多かったようです」と言われます。

藩士に与えられた「領地」というのは、藩士に対する給付の算定基準でしかなく、藩士は、藩の役人が算出して、当時の「税金」を差し引いた結果だけを給付として受け取っていました。

藩士の給付から天引きされる当時の「税金」はかなり過酷なものであったようです。徳山藩において、百石取りの武士の場合、百石まるまる給付されるのではなく、相当部分を「税金」として天引きされます。実際の手取額は、29石にしかなりません。それだけでなく、藩主に対する「御馳走米」として「禄税」を徴収されますので、結局、各種「税金」を天引きされたあとの手取給付額は、26石にしかなりません。徳山藩士の場合、百石取りの武士の実際の収入は、4分の1強にしかなりません。

徳山藩の家老・用人などの要職を除いた「一般士分」の中で最も石高の多かったのは、「馬廻」役の藩士たちでした。彼らは、「戦陣に臨んで藩主の馬側に随従するもので、一般士分の最高の階級」(『徳山市誌』)であったそうです。約150人に対して、50石から250石未満までの禄高が支給されます。120石以上支給されるものは、27人のみで、あとの123人は、120石以下ということになります。「一般士分の最高の階級」で、実際の手取りは、13石から31石の間ということになります。

徳山藩の「家中諸法度定」によると、武士に対しても、様々な規制がかけられていたようです。

①幕府の法令を堅く守ること。
②切支丹宗は手がたくとりしまること。
③五人組として互いにせんさくすべきこと。
④諸士は常々文武を怠りなく心がけること。
⑤分限相応の武具・兵馬をととのえること(忠義とみなされる)。
⑥諸士は次男・三男に至るまで勝手に他国に出てはならない。
⑦他国への書状には、留守居家老の連署を要する。
⑧参勤交代に服務すること。
⑨書士の公事訴訟は家老に申し出ること。
⑩縁組は50石以上の士は藩主の承認、30石以下は家老の許可を必要とする。
⑪他国へ無断で出行してはならない。
⑫浪人を抱えてはならない。
⑬諸士間のふるまいは一汁三菜に限る。
⑭年末・年始の贈答は禁止。
⑮諸士は町人・百姓と契約をしてはならない。
⑯役儀を命ぜられた場合の辞退は原則として認めない。
⑰愁訴嘆願はたとえ理があっても上司を通すこと。
⑱外出の場合は袴を着用のこと。
⑲諸士は平素綿服を着用すること。他国からの来客があるときは、分限相応に取り繕うこと。
⑳50石以下の妻子は、絹布は一切禁止。

その他、藩の上司の批判をしてはならないとか、徒党を組んでならないとか、先例を引いての愁訴嘆願の禁止があげられている。

上記の「家中諸法度定」は、長州藩の支藩である徳山藩における「武士の統制に関する基本法」の内容です。

「百姓」の末裔の眼から見ると、近世幕藩体制下の武士階級は、随分、「差別的な状況」に置かれていたものだと驚きの思いを持ちます。「穢多・非人」に対する規制と勝るとも劣らない規制がかけられています。

藩士は、不平不満があっても、決して、口に出してはいけなかったようです。
上司からどんなに不利益な要求をつきつけられても、涙を飲んで従わなければならなかったのでしょう。

中村豊秀著『幕末武士の失業と再就職紀州藩田辺詰与力騒動一件』によると、「士・農・工・商、とはっきりした身分差のある時代に、武士がいったんその禄を離れて浪人するということは、武士の身分からも離れてしまうことになり、その身分差には耐え難いものがある。それまで、四民の最上位にあって威張っていられたものが、一朝にして一般町人なみに落ちるのだから、大きなギャップが生まれてくる。そうして、そこに、さまざまの悲喜劇が起こって世の語りぐさにもなった。少ない例を除いて、武士が浪人するというのは「罪人」になることに外ならない」そうです。

浪人になるよりは、上司の無理難題に黙って従った方が得策・・・と、考えていたのかどうかは知りませんが、武士は、「百姓一揆」に相当するものは起こしませんでした。山川は、水戸藩1000人の武士の中、70%の700人の武士は100石以下で「泣き暮らし」を強いられていたといいます。「100石以下の平士は内職を許されていましたし、禄だけでは生活ができないので、家族も、無役の人は当主までもいろいろの内職をしました。それ以下の同心(足軽)ともなれば、半農半工、田畑も作り、内職もして、かろうじて暮らしたのでした。」といいます。藩士の家族も不況のときは、「琴や生花、茶の湯等を禁ぜられた」といいます。

徳山藩の場合、1000人の武士の中、95%の武士が100石以下の「泣き暮らし」でした。75%の武士が25石以下(税引き後7.5石)でした。60%の「士雇」(さむらいやとい)の層は13石以下(税引き後3.7石)でした。与力・同心・検断・穢多・非人は、「内職」をしないと食べていけない現実がありました。

「上みて暮らすな下みて暮らせ」という諺は、百姓の世界というより、武士の世界の言葉であったような気がします。幕末期、江戸の大旅館・池田屋の娘(のちに樋口一葉の師になる)に好きになられた水戸藩士・林中左衞門は、「なにぶん、池田やといえば江戸で知られた大家のこと、こちらは田舎の貧乏侍、釣り合わぬ縁・・・御辞退申す」といって断ったといいます(『武家の女性』)。若き水戸藩士が、「士農工商」という身分制度を持ち出さなかったところをみると、「士農工商」はますます近世幕藩体制下の身分制度を表現する言葉としては相応しくないことばになります。

浪人は、1人年間3両で雇われましたが、石高にすると手取り2.4石にあたります。

これは、近世幕藩体制下の各種「職人」の年収に匹敵します。そして、穢多・非人の年収にあたります。近世幕藩体制下の数パーセントの「非常・民」を除いて、ほとんどの人は、就いている職業の違いはあれ、その年収はほぼ同じであったようです。

『国史上の社会問題』の著者・三浦周行は、「幕府の初期からして浪人・・・の取締りは、行政上の二大難関であった。・・・幕府から何らの権利を保障されぬ代わりにまた義務もないから至って無責任・無頓着であって・・・ともすれば異図を企てて秩序を破壊し、平和を攪乱するような言論行動を敢えてした」といいます。

給付なければ服従なし・・・ということなのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常・民」である武士は、藩士であることを取り上げられて浪人になるとき、藩の命令に服従する必要はなくなりました。同じ、幕藩体制下のもうひとつの非常民である、近世司法・警察の「穢多・非人」は、その「家職」をとりあげられるとき、藩権力に服従する必要があるのでしょうか。近世幕藩体制下の「判例」によると、意外なことに、「服従する必要はない」のです。「武士」と「穢多・非人」は、同じ「非常民」として、その身分上の処遇に多くの共通点があるようです(次頁に続きます)。

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穢多の役務と家職 命題7と8

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第4項】穢多の役務と家職 3.穢多の役務と家職 命題7と8



「部落学」構築に際して、無視できない論文集に、『部落史における東西・食肉と皮革』(全国部落史研究交流会編・ 解放出版社)があります。

この論文集は、史料集としても充実していて、「部落史」研究にとっても必須の資料であると思われます。その巻頭で、この論文集刊行の目的として、「全国の部落の多様性」を考慮して、「各地の部落史研究の問題意識や成果を交流し共有していくことの大切さ」を訴えています。

ややともすると、東日本と西日本の「部落」の違いが指摘されがちですが、近世幕藩体制下の「穢多・非人」を、近世司法・警察である「非常・民」として位置づけて解釈するときは、東日本と西日本の差異はそれほど大きなものではなく、その差異の多くは、「非常・民」という枠組みの中に吸収されてしまいます。

古代にあっては、天皇制支配の及ぶところ、中世・近世にあっては、武士支配の及ぶすべてのところ、日本の全国津々浦々に、農村・漁村・山村を問わず、少なくとも村落共同体があるところでは、その治安維持のために、「非常・民」の存在は欠かすことができないものであったと思われます。

その「非常・民」の役務を、具体的に誰が担っていたのかという点では、いろいろな呼称の違いがあります。江戸幕府は、「穢多」という概念にすべてを集約していく傾向にありますが、ひとつの概念について、ある藩で意味するところは、他藩では別様に解釈されている場合も少なくありません。

沖縄は、数多くの島々によって構成されています。

外的から、それぞれの島を守るためには、それぞれの島に、島を警固する「非常・民」の存在が必要不可欠です。沖縄の場合、どちらかいうと、中世の「非常・民」の役務と家職に類似していると思われます。「非常・民」に数えられている人々は、「百姓」の生活をしつつ、非常の時は、鍬や櫓を武器に代えて戦ったと思われます。武器を持って闘うことができる成人男性の3分の1に及ぶ人々が「非常・民」の役を担ったと思われます。

ただ、沖縄の人々は、「部落民」のプロトタプを明治後半以降の「特殊部落民」においているため、そのような存在は沖縄にはない・・・と主張しているようです。沖縄には、明治以降の「特殊部落民」のような存在はいませんでしたが、近世幕藩体制下の「非常・民」は確実に存在していたわけです。

これは、東北や北海道についても言えます。

近世司法・警察という「非常・民」を、どの身分が担っていたかを別にすると、農村・漁村・山村の治安を守る「非常・民」は、東北・北海道にも必要不可欠な存在でした。

北海道・函館藩ついても、「非常・民」は、長い間、司法・警察の役務は、軍事に携わる「非常・民」によって兼務されていました。

ところが、函館藩にしても、次第に、藩勢力が拡大して、組織と職務内容が多様化・複雑化していきますと、近世幕藩体制下の司法・警察の職務遂行に必要な高度な専門知識や技術が必要になります。武士による司法・警察の兼務というのは遅かれ早かれ限界がやってきます。

函館藩は、幕府に、「穢多」の派遣を要請します。函館藩は、「穢多」を受け入れるに当たって、かなり、優遇措置を講じようとしますが、幕府は、他の藩の「穢多」と格差がでないように指示を出して、当時の辺境の地にあっても、「穢多」なる存在は全国一律の存在として対応しようとします。

筆者は、近世司法・警察である「非常・民」は全国に存在していたと判断します。

いずれの藩においても、治安の維持というのは、重要な政治上の課題ですから、「非常・民」を配置しない藩があったと考えることは困難です。

「穢多」の外延として、穢多・茶筅・宮番・非人・・・等、その他にも全国的にはいろいろな呼称でもって呼ばれた「非常・民」を数えることができます。東日本と西日本を区別しないで、幕藩体制下の共通の政治上の施策として、「非常・民」の存在を前提とするとき、東日本と西日本の「穢多」のあり方は、地域的な差異に過ぎなくなります。網野善彦が指摘するほど、「非常・民」のあり方に違いがあったとは考えられません。役務の反対給付としての「家業」については、それぞれの地域で大きな違いがあったかもしれませんが、「役務」の内容については、ほとんど差はなかったと思われます。

幕府は、幕藩体制下の初期から、「浪人対策」・「切支丹対策」を「非常・民」が関与する、近世の司法・警察上の二大対策であると認識していました。幕藩体制下の体制批判に通じる浪人や切支丹に対する司法・警察上の追求は過酷なものがあったと思われます。

切支丹弾圧・・・、それが実施された地域には、必ず、宗教警察としての「非常・民」が配置されたと想定されます。

東日本と西日本の、「非常・民」という観点からの同質性について、『部落史における東西』という論文集(資料集といってもいい)は、貴重な研究成果を提供してくれます。

その中に収録されている論文に、大熊哲雄著《関東における旦那場》がありますが、「部落学」構築に際しては必須の文献です。大熊によると、その論文で取り上げた史料とその問題点は、「私にとって、研究課題として大きく立ちはだかっているものばかりである。今後、一つひとつを究明しながら、いくらかでも部落史の発展に寄与していければと念願している」といいます。

大熊の前に大きく立ちはだかっていることがらのひとつに、「穢多」が、「村方夜廻り」という役務を命じられた際に、「古来之職場四拾年先御前様江差上家業ニ離申候」との趣旨で、「新役義御免」被りたいと拒絶したという事件があります。

藩の方は、「穢多」が村の夜廻りをするのは、その身分上、当然であるという認識があったのかも知れませんが、藩に、「穢多」の「家業」である死牛馬処理の権利を返上してあるので、それを前提として課せられる、近世司法・警察の職務のひとつである郷中夜廻りという役務を引き受けることはできないというのです。

「賤民史観」の「あわれで、みじめで、気の毒な」存在としての「穢多」は、藩主から命ぜられると無条件に(たとえ無給であったとしても)その役務を担わなければならなかったと判断する傾向がありますが、大熊の論文の中にでてくる史料によると、「穢多」たちは、藩の命令を、その役務に見合う「家業」がないとの理由で拒絶しているのです。

このことは、代官所で裁判にかけられるのですが、判決は、「穢多」の言い分が通ります。
彼らに、死牛馬処理の権が戻され、彼らは、郷中夜廻りという「新役」に従事することになったというのです。

武士が、藩士としての「役務」に従事する代償として「給付」を受けるのと同じく、「穢多・非人」も、その「役務」に対する報償として「皮田」等を受領するのです。藩士が、藩主から解雇され藩士の地位を失うと、それまでの「給付」を失ってしまいます。そして、「給付」と共に、藩主に対する「服従」の義務も失ってしまいます。給付なければ服従なし・・・なのです。

武士だけでなく、「穢多・非人」についても同じことが言えるのです。

「皮田」をはじめとする「家業」を認められているからこそ、代官所の「役務」に従事するのであって、何らかの事情で「家業」が取り上げられた場合は、それと共にそれに見合う「役務」からも自由になります。それを拒絶しても、罪にはなりませんでした。

「穢多」の訴えを藩が認めたということは、近世幕藩体制下の「穢多」の存在は、日本歴史学上の差別思想である「賤民思想」が主張するような、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在が、権力の前に、自らを卑しめ、その前に屈伏するような存在では決してないということです。「賤民史観」が描き出す像と、あまりにも異なる像を前にして、大熊は、「研究課題として大きく立ちはだかっている」ことがらとして、穢多による郷中夜廻り拒絶事件を受け止めておられるのかも知れません。

しかし、「非常民」の学としての「部落学」の立場からすると、この事件は、当然ありうべき事件として吸収していくことができます。それは、「非常・民」としての当然の権利であったと思われるし、「穢多」に対しても、「武士」同様、「役務」に見合う「家業」を保障しない限りは「役務」に従事させることができないという前提に立って、それ相応の配慮をするのが藩主の勤めであると考えられるからです。藩主は、「穢多」に法の執行と遵守を命じるわけですが、藩主自身も、同じ、その法に拘束されなければならないからです。近世幕藩体制下にあっても、法的手続きの不備は、事件の違法性を排除します。

長州藩においても、万治3年(1660年)、穢多による「牢番役拒否事件」というのがありました。北川健著《長州藩における賤民制の成立と確立-寛文元年牢番役拒否事件の歴史的前提-》という論文に紹介されています。

万治3年から翌年初頭にかけて、佐波郡南域で<牢番役拒否事件>が発生します。

数カ所の穢多村が連携して「牢番役返上の要求」を提出したのです。それに対して、藩は、穢多村から出されたこの要望を却下します。そして、「牢番役こそは穢多の役儀」と通告して、穢多村からの要望を封殺してしまいます。

北川は、まだ完全には捨て去っていない「賤民史観」に立って、「穢多」は、「牢番役という人民弾圧機構への隷属からの解放をみずから求めた」と説明します。北川は、「穢多」の側からの「抵抗と解放への指向」「圧殺」されたと解釈します。

しかし、「部落学」の立場から考察すると、この<牢番役拒否事件>の中に、「抵抗と解放への指向」を読み取っていいのかどうか・・・。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、幕府の体制が安定していく過程の中で、その職分が明確になってきます。「穢多」は「警察」に関した仕事、「非人」は「司法」に関した仕事と、その職務が細分化する傾向にあったと思われます。佐波の穢多たちは、自らの職務を遂行していく上で「警察」に重点を置いたと思われます。そして、「司法」に関する職務は、より専門的知識と技術を必要とするので、「非人」役が最適であると考えたのか知れません。藩は、切支丹弾圧のため、多忙な「非人」役の職務を分散すべく、「穢多」に「牢番役」を課したとも考えられます。

藩が、穢多に対して、「牢番役こそは穢多の役儀」と断定したのは、その役務に対応する「家業」(給付)が既に保障されていたためではないかと思います。長州藩は、近世初頭から、近世司法・警察である「非常・民」の再編を指向していたように思われます。それは、多様な形で存在する「非常・民」のシステムを簡素化することでありました。その政策は、やがて、すべての「非常・民」を「穢多」呼称に統一していきます。

長州藩の支藩である徳山藩は、「穢多・非人」の別を排除して、すべての近世司法・警察の職務を「穢多」に収斂させていきます。

ここで、第7・第8の命題を設定します。

【命題7】:穢多の役務は、その家職を前提としているが、穢多の役務の内容は、その家職によっては規定されない。

【命題8】:皮革(死牛馬処理)は、穢多の役務ではなく家職に過ぎない。

命題8については、山下隆章著≪近世讃岐における被差別民史の研究-高松藩を中心として≫に、皮革(死牛馬処理は「役ではなく生業と考える」とあります。鳴門教育大学大学院の修士論文の概要に記されていたことですが、注目すべき論文になります。URL
http://blhrri.org/kenkyu/bukai/rekishi/rekishi/rekishi_0003.html

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